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ジョン・ダンとジェズイットの

      課題番号 08610474

平成8年一駆平成青0年度科学研究費襯功金僅盤研究C禰研究成果報告書一

      灘譜成11年3月

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はしがき  本研究の発端はジョン・ダン(J。㎞D。㎜e)の『イグナティウスの秘密会議』 (1幽σ珈5 研曽Coη01卿θ)(1611年)である。ダンは、その中でイエズス会の創始者イグナティウ ス・ロヨラを登場させ、サタンの右座という地獄で最も名誉ある座を狙って地獄に押し寄 せる自称「革新家」達を追い払う理由としてジヱズイットが彼らよりいかに大胆な数々の 嘩新」を行ってきたかを描き、ジェズイットの「革新」つまり「悪事」をロヨラの口か らとうとうと述べさせている。ロペルニクス、ガリレオ、ケプラー等が「革新家」を名乗 り、ロヨラに彼らの革新を披露するが、ことごとくサタンに付き添うロヨラによって追い 払われる。その自称r革新家」の一人にマキアヴェリが登場する。『イグナティウスの秘 密会議』の圧巻は何と言ってもマキアヴェリとロヨラの対立である。マキアヴェリが『君 主論』を出版して以来マキアヴェリが各方面から物議をかもし、マキアヴェリへの激しい 批判が行われていたという事実を考慮に入れるとダンがマキアヴヱリを登場させた理由も 十分理解できる。しかし、それ以上に我々の興味を引くのは当時マキアヴェリとジェズイ ットの類似が指摘されていたということである。ダンは、このようなマキアヴェリとジェ ズイット・ロヨラの関係を十分に意識して『イグナティウスの秘密会議』を書いたはずで ある。私が興味を持ったのは、マキアヴェリを批判するジェズイット・ロヨラのマキアヴ ェリ観は実際のジェズイットのマキアヴェリ観といかなる関係にあるのかということであ り、両者の関係解明を本研究はその研究対象としている。それはまたダンとジェームズー 世のマキアヴェリ、ジュズィットへの態度との関係の解明にも関わっている。この問題に 関して私は当時の代表的なスペインの二人のジェズイット、アントニオ・ポッセヴィーノ (A蜘nio Possevino)とペドロ・デ・リバデネイラ(Pe《験o de Ribadeneira>とイギリスのジェズ イット、トマス・フィッツハーバート(Thomas Fi屹herbert>を選び、彼らがいかにマキア ヴェリを批判しているかを解明し、最後にジョン・ダンのマキアヴェリについて論ずるこ とにした。 研究組織 研究代表者      高橋 正平     (新潟大学法学部教授) 研究経費

平成 8年度       800千円

平成 9年度        700千円

平成10年度       600千円

  計       2,lOO千円

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1.アントニーオ・ポッセヴィーノ(Antonio Possevi駐o>[蓋534−1611]  ポッセヴィーノは1559年以来ジェズイットとしてイエズス会のために生涯を捧げた 人である。スペイン内ではもちろんのこと国外においても神学校設立等のために奔走し、 教皇庁の外交使節団員としてストックホルムやモスクワでその才能を発揮するかたわら、 異端反駁、神学において著しい文筆活動に従事したジェズイットである。ポッセヴィーノ のマキアヴェリ批判は教皇イノセント9世の依頼により1592年出版した著作集の一 部であるC卿吻漉加,9辮ε5碗ρ醗魏〃2ル毎訪ゴ催ε撫3,鋤吻18,卿ゴo珈粥雛6珈2∫鯉ρ5ぎ’ 加脚砺α鰯Z襯伽ηo湧側伽4嬬o吻訪 と1600年1こ出版されたマキアヴェリの『君 主論』のラテン語訳の巻末に付された1麗諺o初溜漉据ゴooZ切ル毎o勉⑳竃ε訪8ガJbακ海5βo諺海 9諺あ”∫伽ε‘ゆ如,卯07〃御Cσ’α10g記〃2ゴ群εZ躍粥g∼灘劾諺oの言’及び1604年の」D∫360溜0 60ηかα1擁ρゴ8雄8pβ7穆’oゴ∬〃吻∫‘o月3な方鹿/1瞼o勉副θZJo(これは1592年のC醒吻のイタリ        くユ  ア語訳である)に見られる。これらからポッセヴィーノのマキアヴェリ挑判を見てみたい。  マキアヴェリの『君主論』出版以来、彼への終始一貫した批判は宗教と道徳との無関係 性であうた。ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判はもっぱら『君主論』に向けられ、これ ら二点に集約されていると言ってよい。ポッセヴィーノは、マキアヴェリの忠告を信頼す る者は国家がいかに確固たる基盤を有していても、破壊され、崩壊すると言うが、ポッセ ヴィーノのマキアヴェリ批判は以下の点から成っている。 (比較のためマキアヴェリの相       く   当箇所を記した。)       くの(1)君主は、他人の忠告を軽視し、自分の分別に依存すぺきである。 (『君主論』23章:要するに、結論はこうである。だれが立派な進言をしたとしても、 よい意見は当然君主の深い思慮から生まれるものであって、よい進言から君主の深い思慮 が生まれてきてはならない、と。[μ14量D  (2)君主は、た・とえそうでなくとも、宗教と敬神のふりをすべきである。 (『君主論』18章:要するに、君主は前述のいろいろなよい気質をなにもかもそなえて いる要はない。...っまり、慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情があるとか、裏表 がないとか、敬度だとか思わせる必要がある[P.114]。『君主論』18章:...君主 が._宗教心に厚い人物と思われるように心を配らなければならない{p.U5]。〉 (3>宗教に虚偽があるとしても、それが宗教の助長に役立っのであれば、それを認める べきである。 (4>君主は、キリスト教よりも異教を好むべきである。 (これに関しては、『政略論』 2巻2章[中央公論:P.362以降]で言及されている。〉 (5)君主は、キリスト教博士を価値のないものとして1扱い、ローア・カトリック教会を 最も軽蔑すべきである。 (『政略論』1巻12章で、ローマ教会がいかにイタリアを分裂 させてきたかを述べている。)  ’ (6)君主は、モーゼの権力と律法が力と武力に基づいていたと信じるべきである。 (『君主論』6章:モーゼ._にしても、もし武力をもたなかっとしたら、自分たちの 律法を長期にわたって民衆に守らすことは、不可能だったろう[p,66]。)『政略論』1巻 9章:これらの入物(モーゼ、リュクルゴス、ソロン〉は、彼らが絶対的な権力をもって 一2一

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いたからこそ、社会の利益を主眼どした法律をうちだすことができたのであった

[】p.202]o )  (7)君主は、幸福を運と偶然の結果として見なすべきであって、徳と真の宗教の結果と しては見なすべきではない。  (『君主論』7章:...力量によって君主になるか、それとも運によって君主になる か... (8)戦争の正義は、戦争を行う当事者が自分の利益にとって必要であると考えることに ある。 (9)君主は、いかなる平和への希望、願望をも断ち切るために著しい不正行為によって 敵に危害を加えるべきである。 QO)植民地は、前の住民が追放される方法で征服された属州に建設されることができ る。 (11)戦争なしで復讐したいと思っている地域や都市は悪道徳で満たされべきだ。 (12)古い危害は新たな善行によって忘れられると想像することは愚かである。 (『君主論』7章:偉い人たちのあいだでは、新しい恩義によって昔の遺恨が水に流され るものであると考えるならば、それは大きな間違いである。[P76]) (13)君主は、彼が臣民を自分に対して従順にさせるかぎりは、有名な暴君を模倣すべ きで、残酷の名声を軽蔑して捨てるべきである。 (『君主論』17章;.。,君主たる者は、自分の臣民を結束させ・忠誠を守らすために は、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。[p.109]) (14)君主は、愛されるより恐れられるほうが得策である。 (『君主論』17章:したがって、かりにそのどちらかを捨てて考えなければならないと すれば、愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である。[P.110]〉 (エ5)友情は信頼されることはできない。 (16)君主は、だれかを巻き込みたければ、もっともらしわながたくらまれるべきであ る。 (17)君主は、ライオンと狼の心を身にっけるべきである。 (『君主論』18章:こうして、君主は野獣の性質を適当に学ぶ必要があるのであるが、 そのばあい、野獣のなかでは狐とライオンに習うようにすべきである。[P.113]) (18)野蛮な行為は一気になされ、善行は徐々に行われるべきである。 (『君主論』8章:要するに、加害行為は一気にやってしまわなくてはならない。。.. 恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。[P80]》 (19)臣民の間の争いは励行されうるが、公共の善を愛する人たちは現揚からは除去さ

れることができる。         ’     擁

(『君主論』20章:この対策(分裂状態)は、イダリアにある程度、平和な均衡が保た れていた時代にはやりがいがあったに違いない。だが、こんにち、それがそのまま一般原 則として通用するとは、私は考えない。rpユ29])   −1 (20>最悪の悪事は、策略か計略及び臣民の破滅によって犯すことができる。 (『君主論』7章:こうして公(チェザーレ・ボルジア)hは再び評判を取りもどすと、も はやフランスや他の外国の武力をあてにした無謀なくわだてを行うことを避けて、好計を 一3一

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用いることにした。[p.71])       く   以上及び同様なことが「あの不敬な悪漢、自然、法、宗教の嫌悪者、無神論の奨励者」に よってマキアヴェリの著作のあちこちに書かれており、結果として、マキアヴェリは不敬 な言葉を発しながら自らの呪われた魂をはきだしたのだとポッセヴィーノはマキアヴェリ に対して最終的な判断を下すのである。  以上がポッセヴィーノの海4朗鼎礁擁oo1切ル角6海ov8z冴窃」6卿初3βo伽ノからのマキアヴ ェリへの批判である。彼のD細or500傭mZケ卯ゴθ云08p87初δ08ノ∬纏00葡gゐ漉1伽0伽Vθμ0 はC卿施の内容とほぼ同じであり、マキアヴェリのrすばらしい才能」と∫鋭敏な知        くのカ」を認めているが彼にはf敬神」と「世事の経験」がないと言っている。 ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は上記からも明らかなように断片的であり、体系的 な批判とは言えない。ポッセヴィーノが指摘した上記のマキアヴェリの主張は「君主を扱        くのう最初の2・巻で悪魔の手先によって書かれた」とポッセヴィーノは言うが、これは何を意 味しているのか。 「君主についての最初の2巻」は『君主論』の第1章と2章で、それら は「君主国にはどのような種類があるか、また、それがどのような手段で獲得されている か」と「世襲の君主国について」を扱っており、ポッセヴィーノの真意は不明である。批 判のほとんどは『君主論』から取られているが、 〈3) (8) (9) (10) (ユ1> (16) (19) (20)については、それらに該当する個所は『君主論』には見られず、 (5)は明らかに『政略論』でマキアヴェリで言っていることである。こう考えるとポッ セヴィーノは実際マキアヴェリを読んでいたのかという疑問が出てくる。もし読んでいな かったとすれば、彼はどこからマキアヴェリを知るにいたったのかという疑問も出てくる。 (これについては後で触れたい。)ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は断片的ではある が、当時の典型的なマキアヴェリ批判を反映している。ポッセヴィーノにとってマキアヴ ェリは従来のキリスト教にその基礎を置く人問観、世界観を真っ向から否定した無神論者 である。マキアヴェリは、人間の世界をもっぱら便宜と効用の点から見っめ、いかに国家 を維持するかを説いている。キリスト教的な道徳観では国を維持できない。それをマキア ヴェリは過去の歴史の中に見てきた。彼は伝統的なキリスト教的道徳観では対処しえない 様々な難局に直面した。その結果が『君主論』であり『政略論』であったのである。彼の 考えでは、善はかならずしも成功するとは限らない。むしろ失敗することがある。逆に悪 は必ずしも失敗するとは限らない。善よりも悪の道によって国家をうまく統治しているこ とが多くある。ルネサンス・ユマニストの君主論は、君主はたえず道徳的であり、政治は 誠実でなければならないとした。たとえ、現世において不正を用いて成功しても来世にお いて神によって取り消されるのである。マキアヴェリはユマニストのこの道徳的君主論を 徹底して批判した。マキアヴェリはユマニストが賞賛する君主の徳一気前の良さ、慈悲深 さ、誠実一で君主が統治できれば何も問題はない。しかし、現実に眼を向ければ、このよ うな徳をもって政治にあたれば、結果は明白である。ユマニストの君主論は逆に大きな不 幸をもたらさざるをえない。悪がうごめく権謀術数の世界ではユマニストの助言は逆に君 主に破滅をもたらすことになる。だから、君主は時にはキリスト教的道徳に反した行動に でなければならないことを余儀なくされるのである。食うか食われるの現実の政治の世界 ではいかに相手をあざむくか、いかに外見を善人のように、味方のように見せるかが国家 .4一

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の存亡を決定する。だから、君主は、信義、慈悲、人間性、そして宗教に反して行動しな ければならないのである。キリスト教的道徳がいつも正しく合理的であるとは限らない。 国家の維持には良くない人間になることを学ぶ必要がある。そして、必要なときは、悪に 踏み込む術を知らねばならない。マキアヴェリの世界はこのようにルネサンス・ユマニス ト〈それはまた中世から連綿と続く道徳論であるが)の世界に真っ向から挑戦し、そして それを覆したのである。敬度なジェズイットのポッセヴィーノがマキアヴェリに憎悪と軽 蔑を感じたのは別に不思議ではない。マキアヴェリの主張を認めれば伝統的キリスト教を 否定することになる。だから彼はマキアヴェリを「不敬な悪漢j r自然、法、宗教の嫌悪        くの 者、無神論の奨励者」と呼んでいるのである。ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は伝統 的な道徳論に立脚した批判であり、当時のマキアヴェリ批判の典型である。マキアヴェリ への憎悪感が余りに強すぎ、冷静な客観性に欠ける。ポッセヴィーノはカトリック教によ って国は安定し、逆にマキアヴェリ的政治理論では国が滅ぶと言い、カトリック教にこそ 国の救いはあるとの見解を示す。 「帝国は敬神、カトリック教のみ、それに加え英知、真        くきラ 理、謙虚によって確固たる地位を占めるが、これらと反する悪徳によっては破滅する。」 これは、1588年のスペイン無敵艦隊の敗北以後のスペインの国情を考慮にいれての発 言であろうが、ポッセヴィーノはマキアヴェリの教義を「悪徳」とみなしている。彼のマ キアヴェリ批判は明快である。マキアヴェリにはキリスト教的な徳がない。ポッセヴィー ノはなぜマキアヴェリが「徳」を推奨しなかったのかについては論じていない。君主が国 家を維持するために必要な「法」 「軍隊」に関してもポッセヴィーノは何も言わない。た だ、無神論的反道徳的な箇所をどこからか抜粋して列挙するだけである。理想的な有徳君 主論を背景にしたポヅセヴィーノは政治の現実を語ろうとはしない。ポッセヴィーノは、 キリスト教であるが故に勝利を収め、異教徒であるが故に不幸な生涯を送った人達を例に 出してまで、キリスト教擁護の姿勢を示している。  ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判はただマキアヴェリを批判して終わるのではない。 彼はマキアヴェリに代わり、トマス・アキナスの君主統治論を持ち出してくる。アキナス は、1)87θ9加伽εP7加0ゆπ1ηρ4Rβ9θ溜(妙力訂Dε擢9’翻κθ海ぬ80耀溺副加0ゴ∬α初.β7α肱纏磁の なかでマキアヴェリが否定した伝統的なキリスト教に基づき、理想的な君主論を描いてい       の るからである。アキナスの君主統治論は、マキアヴェリの「悪徳」ではなく「徳」をその 中心的テーマとしている。それは、キプロス王にあてた君主統治論で、徹底した伝統的キ リスト教的道徳論に基づいている。マキアヴェリ批判同様ポッセヴィーノのアキナス論も 断片的である。ポッセヴィーノは、王とはなにか、王の目的は何か、統治の好ましい形態 は何か、一人か数人による支配方法がいかにして専制政治へと変わりうるのか、いかに専 制政治が廃止され、避けられ、耐えられるのか、といった問題以外に何が王に正しく支配 する動機を与えるのか、名誉か栄光かそれとも他の何か、という問題を提起するがそれら を詳細に論じようとはしない。伝統的、正当的キリスト教の教えは、良き支配者は来世で の褒賞を得るために世俗的栄光と富を避けねばならないというものであった。ところが、 マキアヴェリは人間が求める最高の目的を他ならぬこの「名誉」と「富」としたのである。 アキナスは、世俗的名誉と栄光が王にあっては十分な褒賞ではないので、神からの褒賞を 期待しなければならない言う。それ故、現世的名誉や栄光に包まれた王は幸福とは言えな い・マキアヴェリが賞賛したスペインのフェルディナンドは偉大な事業を企てることによ .5.

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って名声と栄光を獲得したが、ポッセヴィーノからすれば、彼は幸福ではない。キリスト 教君主は、正しく支配し、貧欲と激情を抑制し、また、彼らの行動が空虚な栄光欲からで はなく永遠の至福愛から生じるということを知れば、幸福と言われるのである。アキナス のこの考えは、アウグスティヌスによっているとポッセヴィーノは言うが、ポッセヴィー ノは更に言葉を続けて言う。 「王や君主の褒賞は天上の至福に最高位を獲i得することにあ り、このために良き支配は本質的に良いものとしてそして良き支配が有益であるがために 望まれるべきである。なぜなら富、権力、名誉、名声が達せられるのは悪しき統治からよ        くヱの りも良き支配によるからである。」良き政治一それは道徳的に正しい政治であるが一はル ネサンス君主論の典型であるが、それにより来世での至福が確実なものとされるのである。 そのために君主は臣民に徳に従って生活させるようにしなければならない。徳のある生活 によって臣民は来世での神の審判により永世に選ばれるのである。君主は有徳であって初 めて臣民を正しく統治できる。マキアヴェリが国家を統治するためには君主は道徳とは無 関係な行動も許されると言ったが、アキナスはそのような主張とは無縁である。  ポッセヴィーノは、マキアヴェリ批判から論を進め、そのアンチテーゼとしてアキナス を引き合いに出し、マキアヴェリの批判を強める。ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は、 すでに述べたように断片的であり、マキアヴェリの著作から批判点を抜き出しているだけ でそれぞれの項目に対して批判を加えるということではない。それゆえ、以下に見るリバ ディネイラと比較すると批判のインパクトは弱い。そのうえすでに指摘したが、ポッセヴ ィーノは果たしてマキアヴェリを実際読んでいたのかという疑問がある。ポッセヴィーノ がマキアヴェリを実際に読んでいなかった証拠として、 「君主についての最初の2巻」と いうポッセヴィーノの言葉がある。マキアヴェリの『君主論』1章、2章には上記のポッ セヴィーノのマキアヴェリ批判は見あたらない。とすれば、ポッセヴィーノはマキアヴェ リを読んでいなかったことになる。ではどこからポッセヴィーノはマキアヴェリ批判を知 ったのか。.それはフランス・ユグノーのイノサン・ジャンティユ価nocent Gen研et)のオ 亙)醜o鰐θ賜ρoη耽1晩α濯5げ腕ZZ Go㍑励2g(1576年)である。ジャンティユのDjoo〃758に はマキアヴェリの『君主論』と『政略論』からの50の格率(皿a曲)が批判として書か れてあり、そこにポッセヴィーノが上にあげたマキアヴェリ批判がほとんどすべてがのっ ているからである。ジャンティユは、「助言」(Co既nce①、 「宗教」(Rehgion)、 「統治政 策」(Po1亘oie)の3点からマキ・アヴェリ批判を試みているが、その書の目次を見ただけでマ キアヴェリの問題点がわかり、とくにマキアヴェリを読むまでもない。上にあげたポッセ ヴィーノのマキアヴェリ批判をジャンティユの50の格率に見つけることはむつかしいこ とではない。ジャンティユの格率からポッセヴィーノのマキアヴェリ批判を見てみると以      くユユ  下のようになる。 (上段がポッセヴィーノ、下段がジャンティユである。) (1) 「君主は他人の忠告を無視し、自分の分溺に依存すべきである。ゴ AP面ces good Counsell ought to proceed丘om his ow鵬wisedo艦e, other南se,益e cannot be well co㎜[se狂e乱(The fi鱈t pa並Ma翫ユ) (2) r君主は、ととえそうでなくとも、宗教と敬神のふりをすべきである。」 APrhlce above all thh壌sl ou.ght to wish孤dαesire to be estee艶ed Devout,読1tho羽gk he be not so 。6。

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並deei(The seco昼d p組M既1> (3》 「宗教に虚偽があるとしてもくそれが宗教の助長に役立っのであれば、それを認め るべきである。j APdnoe ought to sust血e and confi me th農t whch is鉛1se i籔reiigion, if so be it㎞e to the favou罫 therecf(Tke seeo烈d part M3x,2) (4) 「君主は、キワスト教よりも異教を好むべきである。」 The Payn藍ms Re玉藍gion kolds and lifts up their hearts, a磁makes the磁ha罫die t◎e艶喧prise great th血gs:buれhe C㎞s重i控n Re甚重gion, persu窺ding to Humilitie, humbleth a血d too much weakeneth重heh・ m雌s,鋤dso磁akes tkem more鷺adie重o be孟ゆred a観d preyed upon,(The second p磁M砥3> The Religion of N㎜冠was the cheefb cause of Romes fb至icitio.(The seco雄d part Max9> (5)「君主は、キーリスト教博士を価値のないものとして扱い、ローマ・カトリック教会 を最も軽蔑すべきである。」 これについて億、ジャンティユには直接見あたらないが、上記のMax3と関連がある。た だ、 「キリストi教博士」については、Max4に”The g∬eat Doctors of the Christian Religion”と ある。また、Max.6は、歴,The Rom磁C血urch is cause of alhhe ca藍amities Gf lta1孟e.”である。 (6} f君主は、モーゼの権力と立法が力と武力に基づいていると信じるべきである。j Moses oou互d盟ever have c鋤se“his Iawes and ordinξmces to bee obsewed, if fbrce and ames had w雛ted二(The seoond par亡Max.7) (7> 「君主は、幸福を運と偶然の結果としてみなすべきであって、徳と真の宗教の結果 としてみなすべきではない。j Amε而s happy so long as Eo血me agree亡h to his血ature&humoL(The seoo面pa並Max.10) 〈8> 「戦争の正義は、戦争を行う当事者が自分の利益にとって必要であると考えること にある。j Tbe W躍e is達ust, which is蹴ecessaπy:鋤d those Ames reasonable, when men ca血have no hope by any o噸r w4y but by Ames、(The th姻p磁Max.1) (9) τ君主は、いかなる平和への希望、願望をも裁ち釦るために著しい不正行為によっ て敵に危害を加えるぺきである。」 To ca烈se覆p血ce to w紬dr羅w his草n血d識o塞ether倉o血p6ace&a血d agreement with his aaveπsarie, he脚st co阻mit and use s ome notable a血d outragious切面e agε血滋him.(T血e重塾廿d part Max.2) (10)植民地は、前の住民が追放される方法で征服された属州に建設されることができ る。 AP血ce血acon唖u,e正ed o◎u血treyl must estaわlish and place Co蓋o通es−or Ga㎡sons,わut most ’ 一7.

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especi a】1y圭n the stro】墜gest places, and to chase away the血atura皿and old inhabitI田ts fhereof(The th廿d p瓠Max3> (11> 「戦争なしで復讐したいと思っている地域や都市は悪道徳で満たされるべき だ。」 To beτeve狙彩ed of a citie or oo賜煎ey w孟thout s虚k血g anyも10w, they拠腿s寸もe理ed with wicked ma㎜ers.(Tbe th廿d p韻Max,5> (12) 「古い危害は新たな善行によって忘れられると想像することは愚かである。」 It.is鰯ie毛・血{謡・e, wi血P血。es磁理eat L。rds肱血ew pleas鵬s醐c盆邸紬e灘ね3血rget・五d of勧ces.(Tbe thhid par巳Max 6> (13) r君主は、臣民を自分にたいして従順にさせるかぎりは、有名な暴君を模倣すべ きで、残酷の名声を軽蔑してすてるべきである。」 APr血ce ought toμopoulld羽磁o him seEe to i凱i重ate Caes ar Borgi亀伍e son且e of Pope Alex題nder癒e sixt(T弛e t飽kd part Max.7) AP血10e且eed not care to be accou撹ed Crue”,迂so be that hee ca認make h面se旺6 to be ob夢yed theゐy.(The th血d p頒Max.8) (ユ4) 臆主は、愛されるより恐れられるほうが得策である。』 It is bettel fbr a P血ce to be f6創red tha血loved.(T血e止ird pa質懲ax。9> (15)「友情は信頼されることはできない。」 Aprince ought not to伽st in the a血丘e of men。(Tke th並d p磁Max.10) (16) 「君主は、だれかを巻き込みたければ、もっともらしいわながたくらまれるべき である。」 A]㎞ce which wouid have any n1孤江to die, mus琶seeke out some apP裂rent oolouf the駕}of,_(The 重hkd part Max.11) (17> 「君主は、ライオンと狼の心を身につけるべきである。」− AP血ce ought to fbllow the na嘘e of重he Lyon and of the fb凡yet hot of the one wot動o畦魚θ6theL (Tbe廿丘rdかart Max.12> (18)』 u野蛮な行為は一気になされ、善行は徐々に行われるべきである。j APrince ought to exe【cise Crueltie an at o皿㏄:and to doe pleas肛esもyユittlc and田載1cXTbe血囮 part M訊x.13) (19) 「臣民の間の争いは励行されうるが、公共の善を愛する人達は現場から除去され ることができる。」 一3一

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Ave血ousτyra血t, to mainta血e his tyra㎜ie, ought to maintain part孟aHties and fねctions amo聡gst his s晦ects, and to sley and重3ke awa5・such as互ove the Commo且wea1.(The thhd parI Max.15) 〈20) 「最悪の悪事は、策略か計略及び臣民の破滅によって犯すことができる。」 これに関しては、50の格率に該当する箇所はない。 以上、ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判とジャンティユのマキアヴェリ批判を比較した が、ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は最後の(20)を除いてほとんどすべてがジャ ンティユのD魏o躍肥の格率からとられていることがわかる。しかもポッセヴィーノは格 率を一部から順次取り上げているにすぎない。 「君主の最初の2巻」とかマキアヴヱリ批 判の取り上げ方とかをみても、ポッセヴィーノがいかにマキアヴェリの著作を直接読んで いなかったかが容易に理解できよう。ポッセヴィーノはマキアヴェリの才能は否定しなか ったが、彼が宗教的・道徳的感情を持っていたかにっいてはそれを否定している。マキア ヴェリの忠告に従う者は誰もが滅びるとまで言い切るが、それはマキアヴェリの著作を読 んでいなくともジャンティユのD醜o擢36の50の格率を見ることだけで言えることであ ったろう。ポッセヴィーノはジェズイットでは最初のマキアヴェリ批判者であったが、彼 の批判は実はジャンティユの『反マキアヴェリ』の格率からの批判であった。だから彼の マキアヴェリ批判は断片的で表面的な批判にしかなりえなかったのである。ポッセヴィー ノが実際にマキアヴェリを読んでいたならば彼のマキアヴェリへの批判も少しは違ったも のになったであろう。1572年の聖バルテルミュー大虐殺をきっかけとしたフランスの イタリア・メディチ家出身のカトリーヌ・デ・メディシス女王への批判から書かれたジャ ンティユの愛国的なマキアヴェリへの反感・憎悪は初期のジェズイットのマキアヴェリ批 判と一致したものであった。ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判はすべてジャンティユに よって代弁されていたと言える。ポッセヴィーノは、マキアヴェリ攻撃者の最初にして最       くヱ  もどう猛な人の一入であるとヴィラーリは言うが、その批判はもっぱら無道徳的、反道徳 的、反キリスト教的なマキアヴェリへ向けられ、当時の典型的なマキアヴェリ批判となっ ている。以後のジェズイットは政治の現実に眼を向け、それに伴いマキアヴェリへの態度 は否定と肯定の二面性を示すのであるが、ポッセヴィーノのマキアヴェリ批判は終始マキ アヴェリ批判で終わっている。ただポッセヴィーノのマキアヴェリ批判はそれに対してア キナスを持ち出してきていることに注目すべきである。これも断片的なアキナス論である が、「悪のマキアヴェリ」対「徳のアキナス」というわかりやすい図式により、読む者に とってはいかにマキアヴェリが反道徳的であるかが容易に理解できるものとなっている。 マキアヴェリが激しくポセヴィーノに批判された理由の一っは君主と政治についてマキア ヴェリがアキナスと著しく見解を異にしているためであったとも言える。 2.ペドロ・デ・リバデネイラ(Pedro de Ribadeneira)[1526・1611]  ユ540年以来ジェズイットとして生涯イエズス会のために尽くし、聖人伝やイエズス 会史を著し、一時はロヨラの秘書をも勤めたこともあったゾバデネイラは、1595年マ キアヴェリへの反論書距αめあ鹿めR81’gめηア貯κμdθ3g瑠鹿vε伽θアθ1P吻o{ρεc肋諏伽α 。9.

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Pαη90膨摺躍ア00鷹6耀研5郷&的ゐ&COηかρZO碑6茄0ぬ0嬬.漁助ノ0解ZOンよ05、ρoZ醇005漉∫ガε        くユの舵脚08ηεεη伽.似下、『宗教・徳論』と略記する)を出版した。これはジェズイット側 からの最初の大規模な体系的なマキアヴェリへの反論で、王位につく直前のフェリペ3世 へ捧げられている。リバデネイラは、ポッセヴィーノ同様不誠実で不敬で神を認めないマ        の  キアヴェリに反論し、同時に彼はフランスの”poli ticos聖監と呼ばれるBod醗, La Ncue、 Du Plessis−Momayへも批判を加えている。以下リバデネイラのマキアヴェリ批判を見てみよ う。  マキアヴェリの『君主論』が出版された1532年以後スペインで出版された250冊 を詳細に調査したGonzalo Femandez de la Moraは、スペイン黄金時代の著作者が激しくマ キアヴェリに反論したが、それはみなマキアヴェリが政治生活の道徳基盤を破壊すること からくる批判であることを指摘して携馨。マキアヴェリは宗教で縁なく「国家理陶信仰 していると考えられ、カトリック教会からはカトリック教の「敵」とみなされ、彼の目指 すところはカトリック教の破壊であると考えられた。リバデネイラのマキアヴェリ批判に はこの批判が如実に反映されている。彼の書の完全なタイトルが『キリスト教君主が国家 を統治し維持するために取らねばならない宗教と徳に関する論文、マキアヴェリと当代の ”politicosl’が教えることへの反論』とあるように、マキアヴェリ及び彼の信奉者が政治に は不必要と考えた「宗教」と「徳」の擁護が『宗教・徳論』の中心的テーマとなっている。 リバデネイラは、マキアヴェリ及びその一派はカトリック教を根底から覆すものであると の観点からマキアヴェリを批判する。それゆえ、彼の批判は最初から結論が見えており、 その序論の”To T加Chhs虚a∬And Pio聾s Reader”でのマキアヴェリ批判はポッセヴィーノの       ロ  マキアヴェリ批判によっていると言えるほど両者のマキアヴェリ批判は酷倶している。し かし、ポッセヴィーノと異なりリバデネイラは、マキアヴェリの『君主論』と『政略論』 を読んでいたあとが『宗教・徳論』に見られ、それゆえ、彼のマキアヴェリ批判はポッセ ヴィーノの批判とは異なり、体系的で説得力に富むものとなっている。その序論でリバデ ネイラは、それまでのマキアヴェリ批判を踏襲し、 「悪の教師」たるマキアヴ耳リに触れ るが、彼はマキアヴェリの『君主論』の目的を的確に把握している。彼は、マキアヴェリ は君主が国家をいかに維持し、拡張するかの助言を与えるために『君主論』を書いたと言 っているが、まさしくこれはマキアヴェリが『君主論』で論じていることである。そして 君主は国家を維持するためにはいかなる手段をも使用することができ、その手段の一つに マキアヴェリは宗教を考えた。リバデネイラの序論におけるマキアヴェリ批判をポッセヴ ィーノ、ジャンティユと比較してみると以下の通りとなる。(上段がポッセヴィーノ、中 毅がジャンティユ、下段がリバデネイラである。) (ユ)君主は、他人の忠告を無視し、自己の分別に依存すべきである。 (ポッセヴィー ノ) APrinces good counsel ougbt to proGeed f致)m his ownc w主sedo阻e, oむh釧w藍s¢, he canno重be we丑 counse11ed,(ジャンティユ) the P血ce shou星d believe mo欝e i塾h㎞se圧tka虚n飢y wise co㎜se1.(リバデネイラ) (2)君主は、たとえそうでなくとも、宗教と敬神のふりをすべきである。 (ポッセヴィ 一10。

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一ノ) APr血ce above ail th油gs ought to wish and desire重o be esteem¢d Devout, al癒ough he be not so 圭ndeed.(ジヤンテイユ> Also in ordef‡o conserve it[astate],he[a prillce]ought sonletimes show himse廷pious,重hough he be−not so.(リバデネイラ)   (3)宗教に虚偽があるとしても、それが宗教の助長に役立つのであれば、それを認める  べき一である。・〈ポッセヴィーノ) ’APri血oe Lbugbt to sustahle’我nd confimle t弛裂t which is f蝕se in relig沁n, if soわe it tume to毛he favour  thereof(ジャンテイユ)  ,_[ap血㏄ought}other times to embrace some religi◎n,血owever ex漁vag韻that it be.(リバデ  ネイラ) (4)一君主は、キリスト教よりも異教を好むべきである。 (ポッセヴィーノ) Paynims Rehgion holds and I量負s,up their hearts, and makes them har(五ie to enteτprise great things: 重he C㌔f量slt重an Religion, p ersuading to Hunlilit孟e, humbleth and too much weakene重h their minds, and 露kes出em more readie to be璃ured and pr6yed upon._(ジャンティユ) .∴忘p副dng mean玉y of the Ca鵬01ic and RomIm Churc駕_(リバデネイラ) 〈5>君主は、キリスト教博士を価値のないものとして扱い、ローマ・カトリック教会を もっとも軽蔑すべきである。 (ポッセヴィーノ) にれは、上記と関係がある。] (6)君主は、モーゼの権力と立法が力と武力に基づいていると信じるべきである。 (ポ ッセヴィーノ> Moses could never have caused his lawes a血d ordina鼓ces重o bee observed, if fbrce and ames had wanted.(ジャンティユ) _a面buting the laws㎝.d viGtories of’Moses, not to God Who guided him, but to his valor and powe1;(リバデネイラ) (7)君主は、幸福を運と偶然の結果としてみなすべきであって、徳と真の宗教の結果と みなすべきではない。(ポッセヴィーノ) ..A man is h3ppy so bng as Fo血me agreeth to his nature&humor.(ジャンティユ)’ …[a就riもuting三the hapPi聾ess of m an, to oPPortunity and fbrt㎜e, an(昆且ot to religion and virtue_  (リ バデネイラ) 18)戦争の正義は、戦争を行う当事者が自分の利益にとって必要であると考えることに ある。 (ポッセヴィーノ)     、  ♂       ’・ Ware三s just, which is necess霞y:and those Am裏es reasonable, when men oan h麓ve no hope by other w好but by Amles.〈ジャンティユ)・・ 一11.

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there is no other just reaso聾to make waf than wha重apPears to be a6van斡geous aEd necessaτy fbr the Pr血ce.(リバデネイラ) (9)君主は、いかなる平和への希望、願望をも断ち切るために著しい不正によって敵に 危害を加えるべきである。 (ポッセヴィーノ) To ca囎e a prince to withdraw his Inind altoget血er倉o狙peace&agreernent w童th hl孟s adveゴsalies, he must commitεmd use some赴otab正e and outragious垣lude昭ainst h血1.〈ジャンティユ> to obviate al蓋hope of peace, he o賑ght to impose n醜able血justice and b掘dens on his ene!nies,(リ バデネイラ) (10)植民地は、前の住民が追放される方法で征服された属州に建設されることができ る。 (ポッセヴィーノ〉[これについては、ジャンティユ、リバデネイラは言及していな い。] (11)戦争なしで復讐したいと思っている地域や都市は悪道傳で満たされるべきだ。 〈ポッセヴプーノ) To be revenged of a citie or coun重rey without strik孟ng a駿y Uow, they m聰stもe丑11e魂wi奮h wicked m㎜ers(ジヤンティユ) to destroy some ci妙or province witho磁war, there is nothing as good as to sow重n h s血組d vice; (リバデネイラ) (12)古い危害は新たな善行によって忘れられると想像することは愚かである。 (ポッ セヴィーノ) It is fbllie to thillke, with P血蓋ces and great]」ords that new pleasures vdユ1 ca墾se t血em⑩fbrgct o騒 offbnces.(ジャンティユ> he [a princ6] should be persuaded th厩】past wrongs are never負)rgotte賑もecause of many f包vors止at are done fbr those who received them.(リバデネイラ)      ’ (13)君主は、臣民を自分に対して従順にさせるかぎりは、有名な暴君を模倣すべきで、 残酷の名声を軽蔑して捨てるべきである。(ポッセヴィーノ) A勘・c・ught t・pmp・und u盈t・hi血・e傘t・imitat・Ca・・鍍B・・g孟・,伽e・。皿・・f P。P・盃exand・鋤e sixt(ジヤンテイユ) (14)君主は、愛されるより恐れられるほうが得策である。 (ポッセヴィーノ) It is better fbr a Prince to be fbared than loved。(ジャンティユ) (15>友情は信頼されることはできない。 (ポッセヴィーノ) Apd聡ce ought not to trust in the amitie of拠en.(’ジャンティユ) [(13) (14) (15)については、リバデネイラはまとめて以下のように言ってい 一12.

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る。] A互sc he[a p面ce]hnitate some power制{yrant in his government and want to be more fbared and ユoved, fbr am至1y is not to be tmsted;(リバデネイラ) 序文からリバデネイラとポッセヴィーノとジャンティユを比較したが、それを見てもいか に両者が類似しているかがわかる。リバデネイラはポッセヴィーノかあるいはジャンティ ユからマキアヴェリ批判を知ったのは確かである。ジャンティユの詳細なマキアヴェリ批 判書を考えると、16世紀スペイン・ジェズイットのマキアヴェリ批判はジャンティユに 由来すると言っても過言ではない。このようにリバデネイラは、序文で彼のマキアヴェリ 批判の骨格を示し、いかにマキアヴェリ及び彼の信奉者達がヨーロッパ中に無神論的な政 治理論を掲げているかを指摘する。言うなれば彼らは皆「宗教」と聴」を「政治」 (為 政者)から切り離し、 「政治」に「宗教」と「徳」は無縁であるかもしくは「政治」のた めに「宗教」と「徳」を利用できると考えているのである。そのような敏治」と「宗 教まと「徳」の関係にみかね、リバデネイラは『宗教・徳論』を「神の栄光」と「国家の        くユリ 利益」への熱意に動かされて書くに至ったのである。リバデネイラの『宗教・徳論』にお ける目的は、君主は神の法に従って国を守り維持することであり、その逆を教える人達の 誤謬と虚偽を論破することである。リバデネイラにとって神がすべてであり、神が国を作 り、その国を神が望む人に与える。そして神は意のままに国を作り、拡大し、守る。それ ゆえ、国を維持する最善の方法は神を喜ばせ幸福にすることである。それは神の法を守り、 神の命令に従い、宗教を尊敬することでもある。これが真の政治思想であり、マキアヴェ リー派の政治思想は虚偽である。国家が宗教を捨てることができないことや宗教を維持す       くり ることなしに国家を維持できないことは誤りのない真実である。このように述べるリバデ ネイラにとって宗教・徳と政治は一致したものでなければならない。これはとりもなおさ ず政治を行う為政者・支配者がまた宗教・徳を身にっけなければならないことを意味する。 マキアヴェリ及びその一派は、政治は宗教・徳とは無縁であり、宗教・徳は国家のために 利用さえできるという見解をとっていた。君主は,自国の維持・拡張のためには何をして もかまわない。まさに「目的のためには手段は選ばない」という論理である。リバデネイ ラの『宗教・徳論』はマキアヴェリの『君主論』と『政略論』への批判一一政治における宗 教の無関係と君主の無道徳性一を中心に論が展開される。特に『君主論』では第ユ8章、 『政略論』では第2巻2章が批判の対象として取り上げられる。『宗教・徳論』第1巻で は君主と宗教、2巻では君主の徳が論じられ、それとともにマキアヴェリへの批判が行わ れる。リバデネイラのマキアヴェリ反論の根底をなすのは神の摂理である。リバデネイラ のマキアヴェリ批判は神の摂理を中心にして展開される。次にこれらについて詳細に検討 してみたい。 『宗教・徳論』  君主が国家を維持するさいに真に宗教心がなくとも宗教を国家のために利用できるとい うマキアヴェリの見解は『君主論』出版以来特にカトリック教会及び宗教関係者から最も 激しく攻撃された点である。かトリック教がらのマキアヴェリへの攻撃は当然のことで、 一13一

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以来マキアヴェリは悪魔の手先と呼ばれる 『君主論』が発禁になり、禁書目録にのせら れたのは宗教(カトリック教)の否定にあるといってよいだろう。『宗教・徳論』第1巻 でリバデネイラはマキアヴェリの宗教観を真っ向から批判する。リバデネイラはプルター クやアウグスティヌスを引用し、いかに国家の維持に宗教が必要かを強調する。リバデネ イラは、『政略論』第1巻11章(ローマの宗教について)、12章く国家における宗教 に対する配慮の重要性について、また、イタリアはローマ教会に対する考慮を欠いたため にいかに破滅したにっいて)に触れ、次のように言う。 _Rome owes more to Numa鉛r having fb㎜ded re廷gio血in it舳1 to Ron蹴1us曲o fb駐nded it謝 gave it a beginning with his anns;血at出ere can be no greater i爺dica重亘on of the ru血of a prov血ce than to see the divi盟e wolship despised.(p256)  宗教の力によってローマを統治したヌマを武力によってローマ築きあげたロムルスより高  く評価し、敬神がさげすまれると国は滅びると言うリバデネイラは国家維持における宗教  の果たす役割を十分に認めている。それでは、マキアヴヱリとその信奉者達、いわゆる  ”po痴cos“ とリバデネイラの違いはどこにあるのか。それは、彼らは国家維持のために  ただ宗教を利用するということである。彼らは宗教が虚偽であれ真であれ、臣民の信仰す  る宗教を考慮にいれることを君主に望んだり、人々をあざむき楽しませるために宗教を利  用することを君主に望むが、リバデネイラはカトリック教が唯一真の宗教であることを君  主が知っていること及び君主がカトリック教のみを好むこと、君主が真の宗教に仕えるこ  とを真に望む。更に、キリスト教はすべての権力は神に由来し、臣民が現世的な幸福と来 ・世での永遠の幸福で祝福されるように神は君主に権力を与えているのである。来世での幸  福こそがカトリック教の最終的な翼的である。リバデネイラは言葉を続けて次のように神  への真の信仰心が国家の維持、なおかつ服従と平和と平静さのなかでの国家の維持を可能  にさせ、国家を統治するための虚偽的手段として宗教を選ぶべきではなヤ、と言う。 AIso beyond all else our eyes ought to be p童aced on God and His boly religion, wぬioh when,童t is embraced and p耀dy kept makes me麓blessed fbr ever and preserve the states and realms and ma孟nta血s them hl obedi甲ce, peace and co斑plete qu孟et. When跳ot, fa血ng the皿血at fbun“ati◎並oぬ w歴ch they are sustained, they mnst necessarily制1, But掘s is lhe s磁of what we say−−i{has to be done in re血駐ty and witb a pure and simple he韻ラIoving religion fbπ重tse民and no重taki血9云t as al f瓠se{md deceiぜbl lnea盤s to govem the States, as tbe po】iticians te窃ch。(p.257) 宗教を単に利用する人と真に宗教のために宗教を信じる人の違い、さらにはそれがいかに 国家の維持に影響を及ぼすかをリバデネイラは論ずる。宗教はまた入々を欺くためにも使 用される。マキアヴェリの『政略論』1巻12章をリバデネイラは引用し、次のように言 う。  The p血ces of a comnlonwealth or of a kingdom s1隻ould ma癌㎞the bases of the relig丘on that they have, a聡d by this tレey eas丑y wi1玉keep their commonwealt弛rdigious, and conse級uently good 一14一

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a垂dunited. AIso they o題ght to favor alI things that are in臨vor of its reIigion (a五though they think it f自1se)and amp1靖・tLem, and more they do this, the more prudent and wise will they be hl secular matte了s.〈PP.258−9) たとえ宗教が虚偽であってもそれを利用することによって国をよく統治できれば何の問題 もない。国家が主で宗教は従である。しかし、リバデネイラは宗教が主で国家が従である ことを望んでいる。宗教と国家の関係を逆転させたのは他ならぬマキアヴェリであり、 ,冒垂盾穴_cos曹’であった。リバデネイラは宗教を巧みに利用し、自らを信心深く思わせた古代 ローマの皇帝達を引用するが、彼らはリバデネイラからすれば真の意味での支配者とは言 えない。彼らはただ国の維持のために宗教を操作しているだけであって、宗教という名は 彼らには値しない。 彼らはキリスト教徒ではなく「異教徒」である。宗教を重視しない 君主が国を滅ぼしても神の罰は偶然にくると彼らは考えるが、リバデネイラは罪の結果と 見なす。宗教を信じようが信じまいが神は関係ない。ここでリバデネイラは当然のことな がらキリスト教にこそ真の徳があると考え、異教徒はキリスト教より下位にあるとの立場 に立っ。彼は、キリスト教にのみ完全な徳が見つけられると言う。異教徒は自然理性が明 らかにするだけのものを人生の目的とするが、キリスト教徒は信仰に教えられるので人間 の超自然的な目的すなわち神を知ることになる。これがキリスト教のすばらしさで、それ なしには真の完全な徳はありえない。リバデネイラは、アウグスティヌスやアキナス等を 引用し、真の敬神、神への真の崇拝なしでは徳はありえないと再三述べ、宗教と徳の一致 を強調する。徳の目的は何かと言えば「究極の最高の普遍的目的、すなわち、神」である。 これは神が最高の究極の善であることを知らなければなしえないことであり、異教徒はこ       くユ ラ れを知っていないゆえに彼らは真の徳を発見できないとリバデネイラは言う。愛される価 値のあるものを愛することは自然の理である。愛される価値のないもは愛すべきではない。 神は当然のことながら愛すべき価値のある存在であり、神への愛なしで真の徳はありえな いのである。リバデネイラは次のように言葉を続ける。 And f}om tk皇s is bom出e natural obligation that in the l縁w of good reason we all hold to Iove above 裂1蓋重hi盤gs G〔》d, as our s叩reme and ult重mate good, and to love Him fbr Bimse1£fbr He alone is by H重snature ir[㎞iオe盈y good, and to love all other th血gs fbr Him and h1】日【im, and by Him, ref6rr㎞g al1 孟bat we are, think, say, aユ1d do to His honor and glo軍y;(p.268) リバデネイラはキリスト教の神のみが真の神であり、異教徒の神は神ではなく、単なる        く    隅像崇拝」であると考えている。だから、世界の賢者や異教の君主がいかにすぐれてい ようともキリスト教の真実は知りえず、キリスト教の神へ目を向けることもなく、 「真の 完全な道徳的徳」を持っこともありえないのである。このようにリバデネイラは異教に対 するキリスト教の優位を説く。リバデネイラにあっては、キリスト教の神が唯一の神であ って、その神なしで世界を考えることはできない。キリスト教の神はそれ自身が善であり 徳の対象であり、キリスト教の神抜きで徳はありえない。キリスト教の神を愛することは 徳を愛し、徳を修得することである。それゆえ宗教を徳から切り離して考えられない。マ キアヴェリが言う宗教を手毅として政治のために利用するのでは真の徳は生まれてこない。 一15一

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宗教と徳との一致を説くリバデネイラはややもすると排他的な度量の狭い印象を与えかね ないが、マキアヴェリの反道徳的君主論を目にした一キリスト教徒が愛国心にも燃え、真 のキリスト教とはいかなるものであるか、徳とは果たして宗教とは無縁でありうるのか、 そもそも政治は徳とは関係がないのか、といった16世紀後半のスペイン及びヨーロツパ の宗教関係者が直面した諸問題に真っ向から取り組んだリバデネイラの『宗教・徳論』は 一つの解決を呈している。ポッセヴィーノはフェリペニ世を継こうとしていた皇太子に対 して、 「”po距cos”とマキアヴェリ主義者のかざす地獄の炎が至る所で燃え広がり、全世        く ユ  界を焼き尽くそうとしている」と述べ、マキアヴェリの思想がいかに危険なものであるか 警告を発している。『宗教・徳論』伝統的愛国的キリスト教的反論で、当時のジェズイッ トのマキアヴェリ批判の典型である。ポッセヴィーノ、ジャンティユのマキアヴェリ批判 の流れを汲み、反道徳的君主論に対し、有徳君主論を唱えたリバデネイラは16世紀後半 にあっては無視できない存在となっている。ポッセヴィーノと異なり、彼は直接マキアヴ ェリを読んでいた。彼のマキアヴェリ批判は主として『君主論』18章と『政略論』第2 巻2章に基づいているが、この箇所は前者が君主と道徳、後者がキリスト教攻撃に関する マキアヴェリの書にあって最も批判のやり玉にあげられた箇所である。ジェズイットを初 めとするマキアヴェリ批判はこの箇所に向けられていたといってもよい。リバデネイラも 主に『君主論』18章と『政略論』第2巻2章からマキアヴェリを批判しているので、次 にこれらからリバデネイラのマキアヴェリへの道徳批判をみてみたい。 マキアヴェリと徳  リバデネイラは、キリスト教の他には完全な徳はありえず、キリスト教君主の徳は完全 な徳であり、偽られるべきではないとの点からマキアヴェリ批判を始める。マキアヴェリ は『君主論』で君主が取るべき様々な行動について書いているが、特に第18章で各方面 1からひんしφくをかう君主への助言を扱い、マキアヴェリといえば18章を思い出す箇所一 である。18章は、 「君主はどのように信義を守らなくてはならないか」を扱っているが、。』 君主は狐とライオンを習うべきとか場合によっては粉飾したり猫かぶりしなければならな いとか論じた後でマキアヴェリは全体を要約する。その箇所をリバデネイラはイタリア語 からカスティリア語に翻訳し、引用する。 It is not necessaly th就aP血1ce have all the qualihes重ha‡we have me猛tioned;m盛er髭重s鼓ecess斑y 重hat he apPear止at heぬas them;better I dare say tkat in having the阻and keepi類9重henl always, they are虹amlfU1;and, in appea血眠g to bave them, they a∬e be血eficial;as in appea面g p沁us, f樋曲董, kum㎝L, religious, honest, alld to be that way;but in such a way th,aオwhen髭w田be necessa買y,窓he P面ce could, and know kow to cha血ge bimself alld do the co血tmry. And it 113s tσbe u血derstood tha乱 aPhnce, especially a new one, calmot keep to evelyth童ngわy whio飯麗en 3re co血side節ed good. For many times to conserve重he辻states血ey are obliged意o go aga重nsオthek wo雌, agains重cha1童ty, agains重 k㎜磁砂,against religion;but it is n㈱町畑he so dispose his m血d伽t he is prep鍍ed to change his sails in accord託mce wit弛the winds and the change of石o】血me;孤d, as I said above, no樋o separate h㎞,self f治・m the g・。d, while yet being able to e旺ter upoP evH曲。n眠essi{y teaGkes蓋t 鞠16・

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Therefble the P血ce with great care should provide that nevef f六)m his mouth shou亙d f為皿athing 血at would皿ot be fiHed with th、ese f至ve viltues, and that he wh◎sees a血d hears h孟m judges伍at he is all piety, aH good faith, all honesty, alheligion. And thele is llot㎞g more necessa正y than lhat髭 apPears that the P血ce has the last(that is religio血),beca靱se me鶏comnlonly speaking, judge more with the eyes than w油the hands, because eveτything is seen, but fbw重hings are f61t and taken into tke hands.(pp.270−1) 18章の内容についてはポッセヴィーノもジャンティユも言及しているが、リバデネイラ の原典からの翻訳は彼がマキアヴェリの著作を直接読んでいたことを示している。リバデ ネイラのマキアヴェリ道徳批判はすべて『君主論』18章から始まっていると言ってよい。 マキアヴェリズムの精髄を示す18章は宗教の政治的有効性、便宜と道徳の分離を明確に 述べている。リバデネイラによれば、第18章の上記の言葉は、宗教を破壊し、キリスト 教君主の心から一撃の下にあらゆる真の徳を引きちぎるために地獄から来たマキアヴェリ        く  ラ によって語られた言葉なのである。マキアヴェリの意図は古典時代とキリスト教との考え をいかに論駁し、現実政治の世界をふまえた君主の取るべき新しい道徳を述べることであ る。キケロ、プラトン、セネカは言うまでもなく初代キリスト教教父の聖バシリウスや聖 ヒエロニムスはことごとく偽善を激しく攻撃し、聖書でも「lf he dissemb査es, he wm s血 doubl弘」(Ecc.2,3)と偽善によって罪が二重になると言っている。人類の歴史に逆らうよ うに偽善を勧めるマキアヴェリにはマキアヴェリの理由があったが、リバデネイラはなぜ マキアヴェリがそれほどまでに偽善を推奨するのかについては何も触れていない。マキア ヴェリによれば、君主は国家を維持するために信義に反したり、慈悲に反したり、人間味 に反したり、宗教に反した行動にでなくてはならないことがたびたびあるのである。マキ アヴェリは国家の維持は人々の君主への評価の良し悪しによると考えるが、リバデネイラ はそれに対して国家の維持は主の意志によるのだと反論する。 But t血e mahit鋤hlg of the staオc does not depend p血oipally on the盤good or bad op血ion of men (癒ough血e good ought to be gotten and obtained by the real vi血es, and蔦ot by出e apPare盤t),but on魚e wi孤of the五〇rd, Who is He Who gave the sta雄s, preserves出em, takes them away, and removes them at wi11.(β272) 神は意のままに国を与え、維持し、取りのぞくことができるが、神の意志を獲得し神を慈 悲深くさせるには神の法を守り、神が教えてくれる真なる聖なる徳をもって神に仕える以 外に方法はないのである。だから信仰や慈悲や宗教は国の維持といった政治のためではな く神の命じたことのために受け入れなければならない。このように考えると、宗教はその 目的として国家に仕えるのでなく、国家が宗教に仕えなければならない。現世的な目的や 考慮のために徳が使用されるときそれは徳とは言えない。このようにリバデネイラはマキ アヴェリに反論するが、リバデネイラの反論の基幹をなすのはすべてこの世界は神の意志 の基に動いているという考えである。すべてのこの宇宙には神のカが働いている。人間が なすことができることはその神の意志に従うことである。しかしながらマキアヴェリの世 界には神は存在しない。すべては神の摂理によるというリバデネイラに対し、マキアヴェ 。17・

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リは偶然を主張していた。マキアヴェリにとって神は存在しても現実の攻治の世界には何 ら機能しない。国の維持・拡大にとって宗教の世界は逆効果をもたらす。政治の世界は相 手を欺くか欺かれるかの世界である。数々の政治の駆け引き、国の繁栄・没落を目にした マキアヴェリの結論は、政治には宗教は不必要であるということであった。伝統的な理想 的道徳的な政治論はもはや通用しない世界であった。リバデネイラの神の世界は、しかし、 マキアヴェリが拒絶した伝統的理想的な道徳政治論であった。マキアヴェリの神のない世 界とは全く相容れない世界であった。マキアヴェリの言うような偽善の世界は神の意志に 反する世界である。神の意志に反する世界は善とは言えずまた徳とは無縁の世界である。  『君主論』18章はいわゆるマキアヴェリズムの精髄である。そこで正統的古典時代のモ ラリストやルネサンス・ユマニストの道徳の徹底した否定をマキ・アヴェリは行っている。 リバデネイラの徳は神なしでは存在しえない徳であった。18章の偽善と関連する問題に 偽善者がある。マキアヴェリは、君主に偽善者になることを望んでいるが、それが神にい かに嫌悪感をおこさせるかを論ずる。  マキアヴェリが君主に勧めるみせかけとみせかけの徳は偽善者と関わってくる1 「偽善 者」とはリバデネイラによれば言行が一致せず、様々な形からなる怪物のようであり、羊 と狼のようにみえ、人間の顔を持ちキツネの心を持つ人である。このような偽善者がいか に神と相容れない存在であるのか、リバデネイラは聖書から次のように説明する。偽善者 はなぜ支配者としているのかと言えばそれは神が人間の罪のために送ったのである。人間 への罰のために神が偽善的王の手中に王国を譲り渡したのである。だからなぜマキアヴェ リ神の怒りの印である偽善者を支配者として勧めるのか。神は偽善者たる王を滅ぼすので、        く の偽善者が良き王となりうるはずはない。聖書でも偽善者は神によって嫌悪されており、偽 善者はその心を悪魔に譲り渡し、虚栄の印を神に提供しているのである。偽善者は基礎の 一ない建物一のようにやがては滅び、根のない木のように枯渇し、実体のない出来事のように       く の 消滅し、蒸気のように消えてしまう。リバデネイラは激しい口調で偽善者を批判する。マ キアヴェリが勧める偽善では国を維持できない。なぜマキアヴェリは偽善者を勧めるのか の理由、つまり、なぜ彼が『君主論』を書くに至ったかを知れば、リバデネイラもマキア ヴェリの主張は理解できたであろうが、リバデネイラは神の摂理から議論を展開するので、 マキアヴェリの無神論的態度は決して容認できない。マキアヴェリの信義、慈悲、人間性、 宗教無視の行動に対し、リバデネイラは次のように言う。 ratb¢r they[pr面ces]areむo embrace them[Faith, clla撤y, hunl a駐孟ty and relig沁抑]aれd g駆a芯d血em truly a聡d血ot角ignedly;fbr魚us they wi1玉adhere on仇eir part to God,「陥o is宅he Lof{i of aH staおsっ Who gives and c◎囎erves tkem, a紅d Wh◎亡akes them、away盒om who皿Hε墾1ease鼠_(279) 信仰、慈悲、人間性、宗教、これらの源は神である。これらに反するマキアヴェリの偽善 の勧めは結局は神の存在の否定、国家への神の配慮、関与の否定であり、上記の徳に反す ることは神に反することだとリバデネイラは結論づける。王と神との関係からしても偽善 は否定されるべきである。なぜならば王は地上における神の代理であるとの見解をジバデ ネイラは取っているからである。偽善は君主の良心にとっても害のあることであるし、彼 の臣民にも悪影響を及ぼす。君主は臣民にとって行動の模範となるべきで、君主が偽善的 一18一

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行動をとれば臣民も同様偽善に走るからである。このようにリバデネイラは徹底してマキ アヴェリの『君主論』18章に反論する。しかし、リバデネイラはマキアヴェリに対して 同調している点もあるのである。それは、リバデネイラ以後ジェズイットの代名詞ともな       く ら った「璽equivoca穏oバ 認容である。”e蜘vocati◎バ はあいまいな言葉の使用で、多義性虚 偽などとも訳されるが、17世紀ジェズイット批判の際にマキアヴェリの虚偽以上に巧妙 な虚偽であると批判の対象になった言葉である。リバデネイラは、国家統治において秘密 を守り、考えや行動を秘密裏に守ることはうそではないと言った後で”eq聾ivocぬoバにつ いて、次のように言っている。 So 1{kewise is it no he(s油ce血e g節ea撫ecessi妙or u盛妙de血孤s iのto say ce鴬a血㈱wo∬ds孟且 one se血se, al伽ロgh he who says them should believe t撤込e wh。 ke鶴伽m,もe◎ause they are equivocal, wi11 be 3ble施take the鵬血a捻o‡ぬer way. Further w血ad s輩y of words can a玉soもe s掘d of deeds, that ma翼y times(es血ecially並the time of war>出ere is neGessity出at they behave witb s聡磁 craf旋とess a血d c翌n血191hat the enemy could㎜derstand a d重f丑磯t t池血g and even oPPosite to th雛 which it is intended to do. F◎r掘s is n◎t to至ie, b憾to act w亜pr賦dence f∼)r延he good of the Commo血wea1乏h.(p.282) これはまさにマキアヴェリが言っていることではないか。戦争時にずる賢さと狡猪をもっ て行動する必要があるというのはマキアヴェリの世界である。しかし、リバデネイラから すればそのような行動は「国家のために分別をもって行動する」ことなのである。リバデ ネイラの言いたいのは、理性の光によって行動する人(異教徒)には許されないが信仰の 光によって行動する人(キリスト教徒)には許される虚偽があるということである。国家 を維持し、国家を愛する気持ちは異教徒であれキリスト教徒であれ同じである。それなら ばなぜリバデネイラは異教徒の虚偽を認めず、キリスト教徒の虚偽を認めるのか。キリス ト教徒の国家を思う気持ちが異教徒のそれよりも大きいといいたいのだろうか。リバデネ イラの根底にあるのは異教徒は真の神を知らないゆえにキリスト教徒よりは劣るというこ とである◎虚偽に関してもリバデネイラはキリスト教徒がそれを実践しても問題はないと 言うが、マキアヴェリに対する感情的な嫌悪感を感ぜずにいられない。リバデネイラはみ せかけと狡猪な偽りは必要なときにのみ、しかも少しだけ使用でき、キリスト教の立法と 分別に従ってでなければならないと言う。 …s・血is s㎞ul諭n㎝d a蜘且趣蜘g sh・uld be used・n五y whe踊eces鱒de憩鋤ds;組s。血e q騨ti電y sho臆ld be small, bo出with its dosage蓬皿δmeas囎e, a磁working with伍e laws of、 Ch】dsti鋤煮y a蕊d pmdeηρe;(P2S3) リバデネイラ以後スペインにおけるマキアヴェリ批判者はただ批判に終始するのでなく、 スペインや他国の政治状況を冷静に見つめ、マキアヴェリへの態度を徐々に変化させてい く・そのような流れのなかでリバデネイラはマキアヴェリの宗教と徳を痛烈に批判する一 方でマキアヴェリに同調する姿勢をも見せていることは注目に値する。リバデネイラはこ        くユ  のほかにも軍隊や教育についてやはりマキアヴェリに賛同する一面をも示している。リバ 一19一

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