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ヒュームの「ある」と「べき」の問題

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全文

(1)

ヒュー ムの「 あ る 」と「べ き」 の 問題

横 山 兼 作

(昭和61年 5月31日受理)

(一 )

小 論 の 目的 は

,

ヒュー ム解 釈 において近年 最 も話題 になった

,い

わゆ る「 あ る」(is)と「 べ き」

(ought)の

問題 について考察 す る ことにある。すなわち,『 人 間本性 論』

(A Treatisc of Human

Nature)第

二巻 「道徳 篇

J(Of Morals)第

一部 第一章 の末尾 において

,

ヒュー ムは一体「べ き」 は「 あ る」 か ら論理 的 に導出 (deduce)さ れないと

,換

言すれば,「 ある」は「べ き」を伴 立 (entail) しない と言 って い るの か

,い

ないの か。 それ によって ヒュー ムは

,道

徳 の いわゆ る 自律 (autOnomy) を主張 したのか

,否

か とい う問題 で あるが

,こ

れの解決 には ヒュー ムの徳 論 の全体 が かかわ るとも 考 え られ

,そ

して これが

,今

日の「非道徳 的命題 か ら道徳 的命題 は導 かれ ない」 とす る考 え方 の最 初 の提 唱者 をヒュー ム とな し得 るか否 か を決 め ることにな るだ け に

,多

大 の論議 を呼 んだ ことは周 知 の ところで あ る。 まず

,問

題 のパ ラグラフ全 文 を掲 げよ う。 「 さて

,

これ までの論究 に私 は次 の よ うな

,多

分何程 かの重要 さをもつ とおわか りいただけ るで あろ うこ とを加 えず にはおれ ない。私 はいつ も気付 いて来 た ことで あ るが、 これ まで私 の出会 った どの道徳 論 においても

,著

者 が しIゴらくは通 常の論究の仕 方 で進 み

,神

の存在 を立証 し

,人

(human

affairs)の

観察 をな しなが ら

,突

然驚 か され る ことに,「 あ るまたは ない」(ガ

s,and Js

ηοι)と い

う命 題 の通常の繋辞 の代 りに,「 べ きあるいはべ きでない

J(an

ο幣 肪

,or an

ο町 んι ttοE)と 結合 さ

れてい ないいかなる命題 に も私 は出合 った ことがないので あ る。 この変化 は気付 きに くいが

,

しか し

,極

め て重 大 で ある。 なぜ な ら

,こ

の「べ き

Jあ

るいは「べ きで ない」 は ある新 しい関係 (new relation)を あ らわ してい るの で

,そ

れは是 非 とも観察 され

,説

明 され る必要 があ るか らで あ り, 同時 にまた

,

この新 しい関係 がそれ と全然異 なった他 の もの か らいか に して論理 的 に導 出 され得 る か (can be a deduction)一 一 それは全 く考 え られ ない こ との よ うに見 え るけれ ど も一―

,そ

の理 由が与 え られ な くては な らない か らで あ る。 しか し

,著

者 た ちは通 常

,こ

の よ うな注 意 を払 わない ので私 はこれを読者 におす す め しよ うと思 う。私 は

,こ

の一 寸 した注 意 が世 のすべ ての道徳 論 (al l

(2)

作 横

the vulgar systems of morality)を

くつ が え して しま うで あろ うこと を固 く信 じてい る。 そこで,

こ う考 えよ う。徳 と悪徳 の区別 は単 に事物 の関係 によるので も

,ま

,理

性 に よって知 覚 され るの で もない と。」但) 全文 で もわず か一頁 に満 た ない このパ ラグラフ をめ ぐって

,実

に多様 な意見 が出 され

,無

数 の言 及 がな されて来 た わけで あ るが、 ここで ヒュー ムは

,言

葉 の見 か けの如 く「 べ き」 は「 あ る」 か ら 論 理 的 に導 かれ ない とた しか に言 って い ると見 る立場 を

,例

えばマ ッキ ンタイヤー (Maclntyer) 1よ「標準 的解釈」(standard interpretation)と 呼 び

,こ

の箇所 につ いて,「 実 にしば しば

,ヒ

ュー ムの倫 理 学へ の貢献 があたか も大 半 この節 にかかってい るかの よ うに扱 われ

,ほ

とん ど通 説の地位 を獲 得 した かの よ うに解釈 され……

,そ

れ によって ヒュー ムは

,道

徳 の 自律 の提 唱者 とな り

,少

な くともその点 でカン トに近 いもの となった。」修)と述 べている。ノ●ウェル・ス ミス

(Norwell Smith),

ヘ ァー

(R.M.Hare),プ

ラ イア

(A.N.PriOr),フ

ル ー

(A.Fle371な

どが一 般 にこの 立場 に属 す る と され て い る。

これに対 してその「標準的解釈」は全 く誤 ったものであ り,「べ き」は「 ある」から導出が可能と

されていると見 る立場 が

,上

述 のマ ッキ ンタイヤーやハ ンター

(G.Hunter),ハ

ンプシャー (S.

Hampshire)な

,い

わゆる「新解釈」 (new interpretation)の 立場である。

もう少 しくわ しく

,双

方の立場 の代表的なもの二

,三

を列挙 してお く。

「 これまでの理論は

,ほ

とんどすべて

,倫

理的概念 をある他のもの

,通

常は心理学のそれに帰 し

がちであった。彼 らは

,<よ

>と

<べ

>と

かの語 を

,例

えば

,欲

求の満足 とか

,快

苦 とかい う

用語で定義 しようとして来たのである。 このような企てのすべてに決定的な議論 を向けたのが直覚

主義者たちである力ら

<驚

くことに

>そ

の議論はヒュームから出ているのである。

(Norwell Smith)俗 )

<べ

>命

題 を一連の

<あ

>命

題から論理的に導 くことは不可能だとす るヒュームの有名な

発言の基磯 をなすこの論理規則…。カントもまた

,意

志の他律に対する彼の論争 をこの規則 にもと

づかせたのである。

(R,M.Hare)μ

)

「 ヒュームは

,わ

れわれが

<あ

>か

<べ

>に

至 り得ない (cannot pass)と 実際に言ってい

るのでなく

,そ

れがいかになされ得るかが

<不

可能のように見える

>と

言っているだけのことなの

だ。…… ヒュームはこの有名な節において伴立

(entailment)の

ことは何 も言っていない。彼が実

際にやっていることは

,い

かにして道徳的規則が事実から推論

(infer)出

来 るか

,ま

たそれがあり

得るか, と問うことであった。

<人

間本性論

>第

二巻の残りで彼は自分の間いに答えを見出してい

るの で ある。」

(A.C.Maclntyer)脩

)

(3)

ヒュー ムの「 ある」 と「べ き」の問題 「 ヒュームは

<べ

>命

題 を

<あ

>命

,つ

まり

,あ

る種の感情 の原因に関す る命題の下位 区 分 とな した。

<べ

>命

題 と

<あ

>命

題 は論理的に対等 に考 えられたからには

,い

かなる

<あ

>

命題 もそれ 自体で

<べ

>命

題 を伴立す ることはないとい う見解

,つ

まり

,い

かなる事実の陳述 も それ自体で道徳的判断 を伴立す ることはない とい う見解ほ ど,焉鹿 げた ものはない。」

(G.Hunter)“

) これ らはほんの代表的なものにす ぎず

,実

際は「標準的解釈」「新解釈」 ともにその内部 において さえ種 々の意見の相違 があ り

,極

めて混沌 とした様相 を呈 してい る。 フルーなどは

,

ヒュームに一 種の「情緒主義」(emOti

sm)の

側 面 を見て

,

ハ ンターと激 しく対立す るのにす

nム

ーナ ン (L.

MOOnan)な

どはその情緒主義 に近 いもの を見なが ら

,道

徳 の自律 には強 く抵抗 している伊)ヒューム 自身の矛盾の問題⑬)と も絡みつつ現代倫理学の最 も重要 なテーマ と連 なるこの問題は

,ま

ことに難 解で,「この発言 によって ヒュームが一体何 を意味 しているのかは

,こ

の箇所 か らは正確 には誰 も知 り得 ない」10と見 る人 もあるのである。 以下 において も問題の十全 な解決 には至 り得 ないかも知れないが

,

これまでの多 くの論議 を踏 ま え

,少

くともこのパ ラグラフの意味す るところだけで も明 らかに してみたいと思 う。 まず(二)で

,

ヒュームは

,そ

の徳論の 自然主義的基底 か ら

,道

徳 の絶対的な意味での 自律 を唱 え るはず がないこと。次いで(三)で

,し

か し

,問

題 の箇所 に限って見れば

,や

は り「べ き」は「 ある」 から論理的に導出 されないと見 られているよ うであること。(四)で

,結

,

ヒュームは

,そ

の議論 に仮定的 な部分 を含 ませ

,何

よりも規範的「べ き」の否定 を強 くアピール していると論 じて

,(五

) の結 びに至 りたいと思 う。 (二) さて

,ヒ

ュー ムの「 ある」 と「べ き」 をめ ぐる問題 の解決 は

,当

該 の箇所 のいわば資料不足 か ら, 彼 の徳 論全般 との関連 において な され ることが多い。 われ われ も一応 それ にな らって

,ま

ず ヒュー ムの徳 論 の全般 か ら

,特

に その義務感 の考察 か らは じめてみ よ うと思 う。 後 に も見 るよ うに

,マ

ッキ ンタイヤーやハ ンター な どの議 論 には 多 くの 問題 点 も指摘 され よ うが, 彼 らの主張 には多 くの共 鳴者 が得 られた こともまた

,事

実 で あ る。 それは

,何

と して も

,彼

らが ヒ ュー ムの基底 の 自然主義 (naturalism)を 否 定 し得 ない もの と見 て い るこ とによ る と言 え るで あ ろ う。 ヒュー ム自身 にもた しか に種 々の側 面 が あって決 して単純 で は な く

,特

にその心理 主義 的 な面 と論理 の面 との混同 には われ われ として も強 く警戒 しな くては な らないで あろ うが

,

ヒュー ムの徳 論の基 底 が 自然主義 的で あることは

,わ

れ われ と して もこれ を否定す るわけ にはい かない。 ヒュー ムは

,マ

ッキ ンタイヤーの言 う如 く

,人

間の 自然 的構 成

,自

然 的 欲求

,幸

,必

要 を越 えた道徳 を

(4)

作 横 決 して説 かなか った と思 われ る。 その こ とは

,何

よ りも

,ヒ

ュームの義務感 (sensc of duty)1こ 端 的 にあ らわれてい る。同知 の よ うに ヒュー ムは

,初

期 の『 人 間本性 論』 において

,徳

を「 自然的徳」(natural virtues)と 「 人為 的徳 」 (artificial

rtues)と

に分 けているが

,そ

の 自然 的徳 の義務感 は「 常 にわれわれの情緒 の 通常の

,自

然 の流 れ

(common and natural course)に

従 う」Q。

ものであ り

,自

然 の構 成 に依存 す る もの で あった。 ヒュー ムによれば

,わ

れ われの義務感 には必ず動機 が

,つ

ま リヒュー ムで は情緒乃 至本能 が

,そ

の義務感 に先立 って人間本性 に存 しな くては な らず

,従

って

,例

えば

,父

親 の子 へ の 義務 も

,父

親 の愛情 が先 に人 間の 自然 に存す るが故で あって

,そ

れ をは なれた義務感 が先 にあ るの では ない とい う。 人為 的徳 としての「正義」(iusticc)な どの徳 も

,こ

れ と全 く異 質で あ るわけでは ない。勿論 こ れは

,単

純1こ自然 の事実 を基 にす るものでは な く

,む

しろ自然 には存 しないが故 に人約的 につ く り 上 げ られた もので あ る。 ヒュー ムによれば

,自

然 的徳 は

,そ

れ 自体 と しては た しかに美 しい面 を見 せ るが

,人

間の 自然 の著 しい偏頗 性 の故 に

,そ

れ に即す 自然的徳 は甚 だ しい利 己性 にも似 て

,社

会 全般 的 には か えって混乱 を招 きかね ない。 そこに正義 の徳 が登場 す るわけである。「道徳 篇」冒頭 で ヒュー ムが「道徳 に関す る決 定 に世 界の平和 がかかってい る」 と語 ると き

,

その決定 とは

,少

な く とも初期 の立場 では

,こ

の正義 を指す とも言 えよ うが

,そ

の よ うに

,い

わば ヒュー ムの徳 論の かな め ともい える正 義 の徳 も

,

も とは

,

しか し

,わ

れ われの利害 (interest)の念 にほ か な らず

,そ

の 共通 の満足 のた め に

,人

為 的 につ くられた もので しかないの で あ る。否

,利

害 に基 づ くか らこ そ, それは永遠 絶対 的 な もの とな るとも言 われてい るどりこの意味 では

,む

しろ正義 こそ

,最

も 自然 的事 実 に基 づ くもの と言 えるこ とにな らないで あろ うか。マ ッキ ンタイヤーは

,

も し「標準 的解釈」 が 正 しい となれば

,そ

の言 うところの「 ヒュー ムの法則」 を破 った第一号 は外 な らぬ ヒュー ム自身で あった こ とにな ると

,批

半Jして い るよ0 ただ

,ヒ

ュー ムの 自然主義乃至 その徳 論 は

,上

に もことわ った よ うに

,そ

う単純 では ない。 それ は何 よ りも

,そ

の道徳 感情 か ら来 るわけで あるが

,例

えば

,

自然 的徳 の義務感 はた しかにわれ われ の 自然 の構 成 に従 うもの とされては おって も

,自

然 の事 実 がすべ て それ 自体 と して道徳 的 に是認 さ れて い るわけで は ないので あ る。 ヒュームでは

,あ

くまで独 自な道徳 の感 において,「 特殊 な快苦」

(particular pleasure and pain)に おいて直接感ぜ られ な くては な らない。 それは

,人

為 的徳 と しての正義 な どにおいて も全 く同 じで

,た

とえ発生的 には利害 の念 で あって も

,そ

れ 自体 では まだ 何 ら道徳性 は有 しないので ある。そこに

,個

々の利害 をは なれた (disinterested)祝 点におけるある 快苦 の感 が 自然 に伴 っては じめて

,正

義 は道徳 的徳 とな るので あ る。 その意 味 では

,例

えば

,マ

ッ キ ンタイヤーが次 のよ うに解釈 す るとき

,明

らか に行 きす ぎるといわな くては な らない。「正義 の正 当化 の 問題 に も どろ う。 ヒュー ムは極 めて明確 に

,正

義 の規則 の正 当化 は

,そ

の道守 が長期 的 に見

(5)

ヒュームの「 ある」 と「べ き

Jの

問題 た場合万人の利益 になるとい う事実に存す ると

,ま

,わ

れわれがその規則 に従 うべ きであるのは, それの道守 によって得 をす るよりももっ と損 をす る人はいないか らであると断定 している。…… つ ま り

,

ヒュームにおいては

,<べ

>の

観念は利害の一致 とい う観念でのみ説明可能 なのである」 とど。ヒューム自身

,果

してそのよ うに

,道

徳性 を利害 に直結 させ てい るであろ うか。ハ ンターの最 初 引用 した解釈 にフルーが再三 に亘 って反論す るのもそこである。フルーによれば

,ヒ

ュームの「道 徳的判断」

(mOral judgment)は

決 して論理的 に必然的な真理の陳述で も

,

自然的事実の陳述で も な く

,あ

くまで も直接感 じられるものに す ぎない。そこか らフルーは

,ヒ

ュームに

,は

じめに述べ たよ うに

,一

種の情緒主義の側面 を見 るわけである。事実

,

ヒューム自身

,い

わゆるロ ックの「第 二性 質」 (secondary qualities)1こ 似せて

,次

のように言 っているの を見 る。「徳 と悪徳 は

,理

性 に よってわれわれがその存在 を推論出来 るよ うな事実

(matter of fact)で

はないことを証 明す るの に何の困難 があろ うか。悪徳 とさせ る何 かある行為 を考 えてみよ。例 えば

,故

意の殺人 を。 あらゆ る点か らそれを検査 し

,<悪

>と

呼ばれるよ うな事実 を見つ け得 るかを見てみよ。 どのよ うなや り方 を しよ うとも

,見

出すのはただ情緒や動機や意欲や思いだけで

,

ここには何一つ他の事実はあ り得ない。事物 の側 を見 る限 り

,悪

徳 は消 え去 るであろ う。 自身の胸 にきき

,そ

の行為 に対す る非 難の気持 を見出すまでは悪徳 を決 して見つけることは出来 ないのだ」 と彗9 ヒュームの道徳感情は複雑 で実 に多様 な側面 を見せ るわけであるが

,た

,明

らかなことは

,

ヒ ューム自身は決 してその個 々の直接的な感 じにのみは安住 せず

,

これ を更 に何 か別の原理 に帰 し, あくまでも自然主義的に説明 しよ うと企 てていることである。「道徳篇」第一部第二章 を「道徳的 区 別はモラル・センスか ら来 る」 と題 して

,ヒ

ュームは一応ハチスンなどのモラル・センス学派 (mOral

sense school)の

立場 に立 ったかのよ うであるが

,い

わば一種 の本能的原理 ともいえる「原生的 (οTブgJηα′

)性

,根

源的 (p″流″

))構

成」にそれを求めることを強 く拒否 して

,結

局 それ を,「同 感」

(sympathy)に

帰 した ことは

,周

知の ところである。同感 もた しかに人間におけるいわば唯一 の無私的なはた らきではあるが

,

しかしそれは

,単

に情緒のコ ミュニケー シ ョンをこととす るとこ ろの

,あ

くまで心理学的

,自

然的原理

,そ

の意味でいわゆる「非道徳的」(nOn・

moral)な

原理 で

しかないのである。ハチスンなどのモラル・センスの立場にも勿論多くの問題はあるであろうが

'0 ヒュー ムの それは

,バ

トラー の「良心」(conscience)1よ 勿論 の こ と

,ハ

チ ス ンの それ とも大 きく 隔 たって い るで あろ う。 その決定 的 な違 いは

,い

わゆ る自然的才能 (natural abilities)の評価 に よ くあ らわれてい る。 ヒュー ムは

,こ

の同感 に基 づ く「道徳 的判 断」 に も更 に一種 の理性 的 なはた らきに よ る修正 (correction)を 施 し

,一

般 的 な

,不

動 の基 準 (general inalterable standard)

を確 立すべ きことをるる説 いて

ア ダム・ ス ミスの「公平 な観察 者」(impartial spectator)に 道 を拓 くこ とになった。 この修 正 も結局 は外 的 な修 正で しかない とも言 われ よ うが

,

とにか く

,こ

の よ うに して素朴 な道徳感情 には多 くの補正 が な され

,一

種 の功利 主 義 的論へ とま とめ上 げ られて い

(6)

作 横

ったわけである。有徳 な行為 とは

,自

他 に直接快適 か

,あ

るいは有用なるもの とい うのがそれであ

るが

,

これはもはや

,情

緒主義の立場 ではないであろ う。道徳的判断 に何 よ りも「真偽」 (true or

false)を 拒 んだ ヒュームに

,し

か しそのよ うな客観性への志向において

,一

種 の真偽 の立場 を見 る

人 もあるわけである!0ちなみに

,後

の『道徳原理研究』

(An Enquiry conceming thc Principles

of Morals)に

至ると,「内感」 (internal sense)と い う表現 が あらわれてハチス ンなどの立場 に

戻ったかのよ うであったが

,

しか し同時 によ り理性的な側面 も強化 され

,徳

論の構成上 も功利思想 がより表面化 したことは同知の ところである。 ヒュームの道徳感情はた しかに直接的で

,そ

の感 じには事実の陳述 は経由 されていないと見 な く てはな らない。 それは

,心

的事実の単 なる陳述でもないという意味で

,い

わゆ る「主観主義」(sub_ ieCtiViSm)で もないであろう。しか しその ことは,ヒ ュームにあって

,必

ず しも情緒主義の立場 を 意味す ることにはな らないことも上 に見た ところである。 ヒュームはその是認

,非

難の感 を

,あ

く まで 自然的な原理 によって説明 しよ うとす るか らである。 ヒュームは

,ハ

ンターやマ ッキ ンタイヤ ーの見 るほ どに論理関係 に関心があったわけではないであろ うが

,彼

らがヒュームの道徳半J断に一 種の事実 を見よ うとするの も

,そ

こに淵源 しているのだ と思われ る。 フルー との再三 に亘 る論争 で ハ ンターは 自説 を多少修正 したが

,

しか し

,道

徳判断は事実から伴立 され得 るとす る所論 その もの まで変 えたわけではない。 そこには少 なくとも祝角のズ レがあるものの よ うである。例 えば

,ハ

ン ターが引用 している例 であるが

,

ヒュームが「 われわれはある性格 を, それが映適 だか ら

,だ

か ら 有徳であると推論す るのではない。 そ うではな くて

,そ

れがある特殊 な仕方 において (after such

a particular manner)J医

直だ と感 じられることにおいてわれわれは実際 にそれが有徳 であると感 じるのである」QOと 言 うとき

,フ

ルーはここに

,そ

の事実の陳述 をはなれた直接的な感 じの側 面 を見 るで あろ うが

,ハ

ンターはむ しろ

,そ

の背後 にある「特殊 な仕方」の因果関係 に注 目しているので ある。 ヒュームの多 くの人類学的

,社

会学的観察 と道徳的判断 とが論理的に対応 しない とした らま ことに奇妙 なことになる90と見 るマ ッキ ンタイヤーの見方 も

,ヒ

ュームの道徳 的感情の直接性 か ら すればいろいろ問題は残 るが

,た

だ,「議論は

,演

繹的か

,さ

もない と不完全」 とする考 え方 そのも のが誤 りだ として帰納的な見方 をヒュームに取 り込 もうとす るとき 'り いわゅる「標準的解釈」 とは 少な くともその視角において大 きな距離 があるよ うに思 われる。 ヒュームの道徳感情の特殊性 をこれ以上論ず ることは本稿の目的か ら外れ るであろ うし

,

ヒュー ムの関心 も

,事

実命題 から規範命題の論理的「伴立」 を何 よりの問題 とす る現代倫理学の立場 とは もともと隔た つていると見 られる。ただ

,種

々問題はあるにしてもヒュームの徳 論の基底が上 に見 たよ うに自然主義的であるとすれば

,

ヒュームは問題のパ ラグラフにおいて さえ道徳 の 自律 を

,少

くともその絶対的意味での 自律性 を説 くはずはないと思 われる。「 自律」

(autonOmy)の

概 念 もま た必ず しも自明の ものではないで あろ うが '9ヒ ュームはヘアーの立場 で も

,否

,フ

ルーの立場 で さ

(7)

ヒュームの「ある」 と「べ き」の問題 えもない と思 われ る。勿論

,カ

ン トの立場 では あ り得 ない。 (三) さて

,

ヒュームの徳論全般 か らのアプローチは一応終 ったとして

,問

題のパ ラグラフその ものの 分析 に移 ってみよ うと思 う。 ヒュームは この箇所で

,果

して「べ き」 は「 ある」 か ら導出出来 ない と言ってい るのか

,い

ないのか。「新解釈」の人付 け役 ともなったマ ッキ ンタイヤーは

,は

じめにも 見たよ うにヒュームは論理的に導出出来 ない とは何一つ言ってはいない。ここは

,deduccを

導出 よ りもむ しろもっと広 い意味の推論 (する

)(infer)の

意味 にとるべ きである。 しかも

,そ

れ も

,出

来 ないよ うに見 える

(seems)と

い うだけで

,そ

の実

,出

来 るとい う意であると解 してい る。果 し てそ うであろ うか。ハ ンターは,「ある」が「べ き」を「伴立」 しないと考 えるのは

,馬

鹿 げた見方 だ と言 っているが

,果

してそ うであろ うか。 われわれの上の考察 とはかな り対照的 になるが

,こ

の パ ラグラフに限って見ると

,い

わゆる「新解釈」 にもかな り無理 があるよ うに思われる。 何 として も

,そ

れはヒュームが

,こ

のパ ラグラフにおいて「べ き

,べ

きでない」 を一種 の「関係」 (relati9・

)と

とらえていることから来 る。「新 しい関係 ない し断言 をあらわしている」「 この新 し い関係 がいかに して他の ものか ら」 とい うときの関係であるが,「べ き」がここで言われているよう にたしかに「関係」であるとすれば

,そ

の命題は言 うまで もな く理性 の対象

,し

かも「論証」 (demon_

stration)の

対象だ とい うことになる。「理性 とは観念の比較 と関係の発見 に外 ならない」「確 実 さ と論証 とをこととす るところの関係の……」90と定義 されているからである。「論証的知識」 (demon_

strable knowledge)と

「蓋然的知識」

(prObable knOwledge)と

の区別 については「悟性篇」(Of

Understanding)で

くわ しく展 開 されているが

,こ

の「道徳 篇」 で も

,悟

性 の分類 として次のよ う に言われているのを見る。「人間悟性

(human understanding)の

作用は観念の比較 と

,事

実 (matter

of fact)に

関す る推論 (infering)と に三分 される」「いかなる事実 も論証 され得 ない」 と淳0マ ッ キンタイヤーの指摘す るよ うに,ヒ ュームではたしかに

deductionの

使用は少ないけれ ども,「べ き」 が「関係」 とせ られている以上

,

レィフィル

(D.Do Raphael)も

認 めるよ うに '9こ こではそれ を 「推論」 ととることは明 らかに無理ではなかろ うか。マ ッキ ンタイヤーの疑 間にもか かわ らず

,同

時代人 も deductionを 演繹 と解 していることは

,ク

ラークなどで も明 らかに見れるし '0事 実 リー ド

(Thomas Reid)が

ヒュームをその意 に解 して批判 していることは石汗究者 によって もしば しば↓旨摘 されているまり ところで,「 べ き」は関係 と して

,論

証 のメ寸象 となったが

,し

か しそれは単 なる関係 では なく,「新 しい関係」

(new relation)で

あった。「新 しい関係」 とは問題 の箇所 のほ とん ど直前 の説 明で は, ヒュームのいわゆ る関係

,正

式 には哲学的関係 (philosophical relations)と して あげ られてい る

(8)

作 山

もの

,す

な わ ち類 似

(resemblance),反

対 (contrariety),質 の程 度 (degree in quality)及 び 量 乃至数 の割合 (proportion in quantity and number)と いう四つの関係 とは全 く別個のもの

,ヒ

ー ム においては説 明不能 な (結局 は存在す るはずの ない

)関

係 であった。「 われ われが あ らゆ る論 証 的関係 を四つの一般 的項 目に包含 した とき

,道

徳 の感 は これ らとは別個 な あ る関係 に存 す る と言 っ て

,ま

,わ

れ われの関係 の枚 挙 が完 全で なかったのだ と言 われ るな ら

,

これに対 して私 は

,誰

か 親 切 に も私 に この新 しい関係 を示 して くれ るまで

,何

と答 えた らよいか

,皆

目わか らない。 説 明 さ れた こ ともない学説 を反 ぱ くす ることは不可能 なことで

,そ

の よ うな暗 夜 で戦 うや り方 だ と人 は空 中 を打 ち

,時

には敵のいない ところを打つ ことにな る」90とい うヒュームの言葉 がそれ を示 している。 ヒュー ムが「べ き」 を「新 しい関係」 と言 うとき

,そ

の「新 しい関係」が これで あるとす れば,「 べ き」 は ヒュームに とってその存在 を証 明す るわけにいかない関係 で あ り

,勿

論 その命題 は経験 を越 えた存 在 となるわけで ある。「べ き」 を「新 しい関係」 とす る限 り

,そ

れは「 あ る」か ら

,つ

ま りは 事 実 の陳述 か ら論理 的 に導 くことは あ り得 ないのでは なか ろ うか。 もっ と も

,こ

の よ うな見方 は あ るいは不 自然 なE口象 を与 え るか も知 れ ない。 その故 で あ ろ うか, ヒュー ムの このパ ラグラフの 「べ き」 に

,多

くは その前後 の文脈 か ら

,

ヒュームの道徳感情

,そ

れ によ る「道徳 的判 断」 の立場 を意味 させ る人はかな り多い。 た しかに

,こ

の箇所 も

,そ

の前後 と密 接 な連 関 をな してい るわけで

,こ

れだ け を決 して切 り離 しては な らない けれ ども

,

しか し

,こ

こで 「べ き」 に も しヒュー ムの道徳 感情の立場 を意味 させ ることになれば,「 べ き」 が関係 とせ られた こ とを根 本 的 に否定す ることになって

,果

して それに対 し十分納 得 出来 る説 明が与 え られ るで あろ う か。 そ して また

,仮

りに ここで 「べ き」 が

,文

脈 か ら

,感

情 の立場 を意味 させ得 るこ とにな った と して も

,そ

れ によって

,必

ず しも「べ き」 が「 ある」 か ら論理 的 に導 かれ るとい うことに もな らな いで あろ う。 ヒュームは

,

この 問題 の箇所 に先立つ文 で

,道

徳 的 区別 は事 実 の認識 とは全 く違 った もので あ る と し

,先

に引用 したい わゆ る「第二性 質」 を思 わす文 をこの直前 で掲 げてい るか らで あ る。 フルーはそ こか ら情緒主義 的 な結論 を出 してハ ンター と対決す るこ とになった わけで ある。道 徳 の 自律 は強 く否定 しなが らもヒュー ムの道徳感情 に一種 の情緒主義 に近 い もの が見 られ ると し, あ るいは

,直

接 感 じられ る もの で あるが故 に「 あ る」 か ら論理 的結論 と しては引 き出 しがたい と見 られた りす るの もそれで あ るよ9 何 れに して も

,

この箇所 は

,た

しかに特異だと言わなくてはな らない。 それは

,古

くは先の リー ドが指摘 したところであるが '0ヘ ンズィ

(D.F.Henze)な

どもこの箇所 はその前の論点の再確認 であり

,ヒ

ュームの道徳論の中ではほんの「 しっぽ」 (tailpiece)に す ぎないが

,

しか し,「唯―の

ネガティブな傾向をもったもの」とし,そ の「しっ

1駒

が本体を揺るがす危険に注意を向けている彗

D 皮 肉 な こ とに

,ハ

ンターで さえ

,フ

ルー な どは限 られた箇所 だけ に頼 って議 論 してい ると批判 して 逆 に この箇所 の特異性 を語 ることになった。

(9)

ヒュームの「 ある」 と「べ き」の問題 ヒュー ム 自身,「 ある」 と「 べ き」は全然異 った もの (totally different)で

,い

か にその「新 し い関係」が導出 され るかは「全 く考 え られない」(altogether incOnceivable)と 語 って いる。 われ われ もこのパ ラグラフに限 って見 る とき

,そ

の言葉通 り解釈 す るほか ないの では あ るまいか。「新解 釈」 の よ うに,「 べ き」は「 あ る」 か ら推 論 出来 るの意味で あると

,更

には,「 あ る」 は「べ き」 を 論理 的 に伴 立 す る とまで とる こ とは

,こ

の箇所 に限 って見 ると き

,無

理 とな るので は あるまいか。 (四) われ われは

,は

じめ

,

ヒュー ムの徳 論の全般 か ら

,た

しか に多様 な側 面 を見せ るにせ よ

,ヒ

ュー ムの基底 は 自然主義 で あ り

,従

って ヒュー ム において少 くとも絶 対 的 な意味 での道徳 の 自律 は主張 せ られ るはずが ない ことを見 た。 そ して今

,問

題 の箇所 に限 つて見 る とき

,

自然主義 の立場 とい う よ りは む しろ,「標準 的解釈」の立場 に近 いかの よ うな面 を見 て来 たわ けで あ る。これは ヒュームの 矛盾 で あろ うか。 も し矛盾 で ない とした ら

,ヒ

ュー ムは一体

,こ

のパ ラグラフにおいて何 を訴 えて い るの で ある うか。 思 うに

,こ

れ は決 して矛盾 で な く

,ヒ

ュー ムは このパ ラグラフ においてむ しろ最 もラデ ィカルな 形 にお いて

,そ

れ までの理性 主義批判 を補 強 したのではあ るまい か。

1)敢

えて言 うまで もない ことなが ら

,明

白 な ことは

,問

題 のパ ラ グ ラフは その前 か らの理性 主 義批判 の一環 だ とい うこ とで あ る。それ は,「道徳 的区別 は理性 か ら来 ない」 とす る この第一章の末 尾 にあ って

,

しか も

,こ

のパ ラグラフの結 び もまた

,そ

れ と全 く同 じ表現 か ら成 ってい ることにも よ くあ らわれてい る。つ ま リヒュー ムは

,こ

の末尾のパ ラグラフ において,「 ある」 と「 べ き」 の関 係 の検 討 を通 して,「 道徳 的区別 は理性 か ら来 ない」ことを補 完 した わけで あ る。その限 り

,こ

のパ ラグラ フは

,た

しか に

,そ

れ までの主張 の「再確認」 で あ り

,論

点 の繰 り返 しで もあった。

2)し

か し

,

このパ ラグラフにおけ るヒュームの議論 には

,一

種 の仮 定 的 な発 言

,あ

るいは言葉 の あ る種 の限定 があ ると見 な くてはな らない よ うである。理性 主義批判 の一環 と して

,理

性 主義者 の語 る ところに即 す形 で

,い

わば仮 定の議論 を進 めている部分 が あるよ うで ある。 そ う考 えなけれ ば到底 ヒュームの もつ矛盾 と見 える面は解 け ないで あろ う。杖下 隆英 氏 は

,短

い コメ ン トなが ら, 大 変鋭 く

,次

の ように指摘 して お られ る。「彼 (ヒューム

)が

論敵 で あ る理′陛主義者 に寄託 して述 べ, その

(<あ

>か

<べ

>へ

の導出の

)不

可能性 を申 し立てるための仮 定の議論であ り

,彼

自ら の関知 しないもの」 とPD果して ヒューム自ら全 く関知 しないかは ともか く

,こ

こで の議論にあるい は ここでの用語 に

,直

ちにヒューム自身 を見 るところに

,多

くの誤解 が生 じたのではあるまいか。 私は

,そ

れが何 よ りも, この「べ き」の概 念ではないかと思 う。 このパ ラグラフの「べ き」「べ き でない」 は理性主義者の言 うところの,「理性主義のべ き」で

,必

ずしもそれはヒューム自身の もの

(10)

兼 横 では ない。 少 くとも

,ヒ

ュー ムの義務感

,道

徳 的判 断 の立場 は そ こに一切 意味 させ て は な らないの では あ るまい か。 ヒュー ムは ここで,「 理性 主義者 の」「べ き」 が

,事

実 の陳述 と しての「 あ る」 か ら導 かれ るはず が ない と言 って い るの ではあるま いか。「 新 しい関係 」 が是非 とも観察 され

,説

明が 与 え られ な くて は な らない

,い

か に して それが「 ある」 か ら導 かれ るか

,当

然 その理 由 が与 え られ な くては な らない と言 われ る と き

,そ

れ は何 もヒュームが 自分 に課 してい ることではな くてあ くま で理性 主義者 に要求 してい るこ とと見 るべ きで あろ う。 なぜ な ら

,ヒ

ュー ム 自身 と しては

,既

に そ れは説 明不能 な もの

,否

存在 す るはず の ない もの と して断定済 み だ か らで あ る。 それ らの 言葉 がす べ て理性 主義者 に向け られた もので あるこ とは

,こ

のパ ラグラフに先立つ文 とほ とん ど完 全 に符合 して い るこ とか らも明 らかで ある。 は じめ に見た よ うに

,ヒ

ュームの道徳 感情 ,「 道徳 的判断」 の立場 に もた しかにあ る種 の独 自性 は 存 在 して いた。 そこには

,直

接 的 には事 実 の陳述 は経 由 されてい ない とも とれ る面 が あつた。 そ し て また

,

ヒュー ムの説明 を完 全 に整合 的 な もの と解 そ うとす ることも

,あ

るいは正 しくない こ とで あるか も知 れない。 しか し

,ヒ

ュー ム 自身 が その道徳 的判断 をあ くまで 自然主義 的 に説 明 しよ うと す る以上

,

ここでの「べ き」 にそれ を意味 させ ることは

,収

拾 のつ か ない混 乱 を起 す こ とにな らな いか。 も しそ うで ない と

,先

に もふ れた よ うに

,結

局 は「関係」 の定義 を無視 す るか

,逆

には ヒュ ー ム 自身 が理性 主義者 とい うこ とにな る。 この方 がよ り奇妙 なこ とになるの では あ るまい か。

3)で

,ヒ

ュー ムは

,こ

のパ ラグラフにおいて

,こ

れ までの理性 主 義批判 に一 つ の「 しっぽ」 を加 え

,か

な り仮 定 的 な形 で これ まで の主張 を単 に繰 り返 した にす ぎないの で あ ろ うか。 決 して そ うで は ないで あろ う。 このパ ラ グ ラフは

,た

しか に

,こ

の第一章 の末尾 と して これ までの再確 認, 繰 り返 しで もあ るが

,決

して それ に とどま るもので は な く

,む

しろ ここで最 も強烈 なア ピール を し たので は なかろ うか。 それ は

,何

よ りもこの箇所 におけ る用語 の特異性 によ くあ らわれて い る。 わず か一 頁 に も満 た な い このパ ラグラフにおいて

,初

期 『人 間木性 論』 の ヒュー ムと しては珍 しい程極 端 な表現 がな され, 感情 的 とも言 える言葉 が数多 く見 られ ることで ある。「 世 のすべ ての道徳 論 を くつ が えす で あ ろ うこ とを固 く信 じてい る。」「極 め て重 大 な」(of last consequence),「全 然異 った」「全 く考 え られ な い」「是 非 とも

,

その (理由

,説

明 が

)与

え られ る必要 がある」。「突 然驚 か された」

(when of a

sudden l am surprized to)「

何 程 かの重要 さをもった」敢 えて「 加 えず には おれ ない」 (I can_

not forbear adding)等

。 このパ ラグ ラフは

,ヒ

ュー ム におけ る唯一 の ネガテ ィヴな面 どころか,

極 め て ポ ジテ ィブな箇所 なの では なか ろ うか。 ヒュー ムは理性 主 義批 判 の締 め くく りと して

,

ここ で重大 なア ピー ルを した ものの よ うで あ る。

で は

,ヒ

ュー ムの その重大 なア ピー ル とは何 で あったか。 これ までの考察 に 自ず と導 かれ るよ う に私 は それは理性主義の「べ き」 の否定 では なかったか と思 う。 ヒュー ムは この「道徳 的 区別 は理

(11)

ヒュームの「 ある」 と「べ き

Jの

問題

■ 性 か ら来 ない」 とい う章 を

,理

性 主義の 「べ き」 の否定 で

,つ

ま り

,そ

れが何 ら根 拠 をもた ない こ とを強 くア ピー ルす ることで締 め くくったので は あるまいか。既 にこのパ ラグラフに先立 って述 べ られて い る次 の こ と を

,ヒ

ュー ムは「新 しい関係」 として

,ほ

とん ど仮 定の形 で

,改

めて 強調 した のでは あ るまいか。「 か くて

,善

悪 の永遠 の尺 度 の体系 に要 求 される第一 の条件 を満 たす ことは不可 能 とな るで あろ う。 なぜ な ら

,そ

の よ うな区別 が基 づ くはずの これ らの関係 を示す ことが不可能 で あ るか ら。更 に

,第

二 の条件 を満 たす こ とも同 じよ うに不可能 で あ る。 なぜ な ら

,わ

れ わ れ は

,仮

りにそれ らの関係 が存在 し

,知

覚 され るとして も

,そ

れらがあまね く強制的で

,義

務 的 (obligatory) で あ る こ と を先天 的 (a priori)に 証 明す るわけ にはい か ない か らで ある」 と彗9こ の限 りわれわれ の見方 は

,キ

ャパ ルデ ィ

(N.Capaldi)の

それに近 い もの となった わ けで あ る。キ ャパ ルデ ィも, ヒュー ムの主 た る目的は道徳 的 カテゴ リー と しての「べ き」 の否定 にあった と見てい るの で あ るξ0 キ ャパ ルデ ィも言 うよ うに

,

こ う考 えるよ り外 に

,

ヒュー ム を一貫 させ るこ とは あ り得 ない よ うで あ る。 ただ

,キ

ャパ ルデ ィは

,道

徳 的 カテ ゴ リー と しての一切 の「べ き」 を ヒュー ムは否 定 した と 見 て い るが

,果

して そ うで あろ うか。 ヒュー ムにおいてはた しか に「べ き」 の使用は少なく

,ま

た, 「 べ き」 と「義 務

,責

務 」 (obligation)は 常 に全 く同 じわけでは ないか も知 れ ない。 しか し

,上

の 引用 文 に も明 らか なよ うに

,自

然 的 な意 味 に用 い られ る場 合 を除 けば

,ヒ

ュー ム にお いて「義務」 と「べ き」 は本 質的 な違 いは ないで あろ う。 ヒュームは決 して「べ き」のすべ て を否定 して はい な い と思 われ る。 ヒュー ムが何 よ りも斥 けたの は

,理

性 主義者 の言 う「永遠 不変の道徳 」 (eternal,

immutable morality)で

あ り,そ れが「べ き」の形 において突 如課 されて くることで あった と思 わ れ る。 ヒュームの主要 な関心 は

,そ

の理性 主義批判 において さえ,「 ある」か ら「べ き」へ の論理 的 関係 の 問題 では必ず しもな くて

,む

しろ

,理

性 主 義 の規範 的

,絶

対 的「べ き」 が

,人

間本性 に何 ら 根 拠 を もった もので ない こ とを示 す こ とで あつたで あろ う。 問題 のパ ラグ ラフの直前 で も この よ う に言 われて い るの を見 る。「 も し(理性 主 義者 によって

)次

の よ うに答 えがな され るな らば

,す

な わ ち

,人

間 とは

,彼

を自分 の義 務へ と強 制すべ き (ο呼 んι

to restrain)で

あ るところの能 力 を与 え られて い る存在 だ か らと… …」 とピ9 自然的事実 を越 えた絶対的

,あ

るいは超越的道徳 が「べ き」 の形で課 されて くることに何 の根製 もないことを強 くアピールす ることによって

,

ヒュームは この理性主義批半」の章 を閉 じたわけであ るが

,

このパ ラグラフは

,そ

の意味で

,本

体 を揺 るが しかねない危険 な「 しっぽ」 どころか

,む

し ろ

,本

体 を支 える重要 な部分であ り,「標準的解釈」とは違 った意味で

,ヒ

ューム倫理学の かなめ を なす とも言 えよ う。『人間木性論』の副題 が「論究の実験的方法 を精神 的主題 に導入す る試み」と題 されていることを改めて思 う。

(12)

1 12横

(五) │

,

以上 の考察 によって問題 の解 明が終 ったわけでは決 して ないが

,先

に見 た よ うに ヒュー ムは

,間

題 の箇所 において言葉上 はた しか に「べ き」 は「 ある」 か ら導 出出来 ない と言 ってい るよ うに見 え る。 それは現代 の問題意識 とは大 きく隔 た つてい るにせ よ

,一

つ の論理 的分析 で あ り

,そ

の限 り現 代 に運 な るヒュー ムの一つの貢献 であった と言 えるよ うに思 われ る。 ただ

,

これまで考察 して来 た よ うに

,

ヒュー ムの主 た る関心 は

,

このパ ラグラフにおいて さえ, 必ず しもその論理 関係一般 には な く

,む

しろ

,基

本 的 には 自然主 義的立場 において

,何

よ りも理性 主義の絶 対 的

,規

範 的「べ き」 の否定 がその 目的 で あった とす れば

,道

徳 の 自律 につ いては

,

この パ ラグラフにおいては何 も言 われなかった。少 な くとも積極的 な形では何一つ唱 えられ なかった こ とになるので はあ るまいか。 註

(1)p.Humei Treatise of Human Nature.p.469f(Oxford_Selby‐ Bigge,ed)

(2)A C,Maclntyeri Hume on“Is"and“ Ought" p.242(Hume.VC ChappeH,ed.)(1968) (3)Norwell Smith i Ethics,p.36(New York)

(4)R.M,Hare:The Language of MOrals,p.29(Oxford)こ れが「 ヒュームの法則」(Hume's Law)である。

Cf.R M.Hare i Freedom and Reason.p■ 08(Oxford)

(5)A C Maclntyer:oP cit,p.252

(6)G.Hunter:Hume on is and Ought Phi10sOphyf No.140. April.1962

(7)A.Flew i On the lnterpretation of Hume “Not PrOven‐at most(Hume,VC Chappell,ed.)

(8)L.MOOnan:Hume on ls and Ought.」.Hist,Phil.13.1975

(9)cf.A.F.AtkinsOn:Hume on

“Is"and “Ought''.A Reply to Mr Maclntyer.(Hume vc Chappell) (10 1.Hearn,Jr:Maclntyer and HudsOn On Hume.J Crit Anal.4.(1973)

(11)D Hume:Treatise,p.484

121 D.Hume:ib.p.620.

(lo A.C Maclntyer i op.c it,p.242 lo A.C,Machtyer i ib,p.248-9

19 D.Hume:Treatise.p.468

lo (参

)拙

稿「ハ チス ンのモ ラル・セ ンスと道徳的認識の問題 ―フラ ンケナ とノー トンの論争 に関連 して一J (鳥取大学教養部紀要第14巻)(昭和55年9月)

(り D.Hume i Treatise.・ Bk. Ⅲ, part Ⅱ

sect I

Ⅱ Ⅲ

181 R.J.GiossOp i On Understanding the Ethics of David Hume.Riv.F L 63.(1973) 191 D.Hume:Treatise,p.471

(13)

ヒュームの「 ある」 と「べき」の問題

13

9o A.C.MachⅢ

er:ib・ 0・246-7 ¢呻 A.C.Macln,er i ib.ゃ .243ff 9D cf‐ R.F.Atklis。 ■l op.Cit.●.266 9o D.Hume l Treatise.p.463 9o D.Hume:― ib,

99 D.D.Raphael i Hime's Critiquc or tthical■ atio,■ lisnf in Todd。 (19741

1261 S, C1larr:A Dlidcourse Of Natllral Religion.● .207ff,209, 212f,2161 221(BFttiSh

Moransts.1950-1800D.D.Raphaol,ed,)

側 ci L.Moonant oP・ Cit・:R.R Atkれso■.op.CI'p272(19お )

④ D.Hjmo:Treatise,p.464 99 L,MO01an i δp.cit,

130 T:Rold i Essa}s on the Active Pむvers of Man,V.7.p.48982

ell D.F.Henze:Hum。,Treatise,IHi i, 1

⑫ 杖下隆英『ヒューム』147貢‐166頁 (勁草書房)

1331 D.H■れe:Trdatisei p.4od

GO N.Capaldi:Hune's R91ectiOn Of“ OughF aS a MO■ al Categpry.J.Phil.63.(1966)

(14)

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