• 検索結果がありません。

山上憶良研究-八一八番歌を中心にして-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "山上憶良研究-八一八番歌を中心にして-"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. 山上憶良研究−八一八番歌を中心にして−. Author(s). 増子, 優二. Citation. 国語論集, 15: 53-70. Issue Date. 2018-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9741. Rights. Hokkaido University of Education.

(2)                          . 山上憶良研究 1 1八 =八番歌を中心にして. 八 一八 番 歌 は、山 上 憶 良 ︵ 以 下 、﹁ 憶 良 ﹂と 称 す る事 にす る。︶の. 歌として万葉集 の巻第 五に収録された短歌で、﹁ 梅花歌計 二首井. 干時初. 増子 優 二. 天平 二年正月十三日 章 子帥老之宅 申宴曾也. ふ 寺 こ、. 天 平 二年 正 月 十 三 日に、帥 老 の宅 に葦 ま り て、宴 会 を 申 ぷ。. は蝋 後 の香 を薫 ら す 。加 以、. 春令 月 気淑 風和 梅披鏡前之粉 蘭薫猟後之香 加 以 初春 の令月にして、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭. 筑前 守 山 序﹂と いう 題 詞 の歌 群 の四 番 目に 登 場 し、しかも 氏 名 は ﹁. 曙嶺移雲 松掛 羅而傾蓋 夕蜘結霧 鳥封穀而迷林 庭 曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋を傾く、夕の蟻に霧結び、. 鳥 は穀 に封 ぢ ら れて林 に迷 ふ。庭 に. 舞新蝶 空蹄故鷹 於是蓋 天坐地 促膝 飛腺 忘言 一室. 新 蝶 舞 ひ、空 に故 雁 蹄 る。ここに 天 を 蓋 にし地 を 坐 にし、膝 を 促 け線 を 飛ば す 。言 を 一室 の. 上大夫﹂ と割り注で書かれており、さらに漢文の序文により ﹁ 天平 二年正月十三 日﹂ に﹁ 千帥老之宅﹂ で開かれた宴会 の席上、詠まれ. た歌 群 であ ることが容 易 に想 像 でき よう 。ここで、氏 名 が異 な る三 十 二首 があ ると いう こと は、少 な く と も 三 十 二 人 は列 席 していて、. かなりの規模で催されたことであろうことも想像できよう。場所は. 之裏開衿煙霞之外 淡然目放 快然自 足 若非翰苑何 以 裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放し、快然に自. 漢 文 の題 詞 に ﹁ 帥 老 ﹂と あ ること から 、大 伴 旅 人 ︵ 以 下 、﹁ 旅 人 ﹂と. 称する事にする。︶の邸宅で催されたことがほぼ間違いないと認定. 櫨情 請紀落梅之篇 古今夫何異臭 宜賦園梅卿成短詠 詩に落梅の篇を紀す、古と今と夫れ何か異ならむ。宜しく園. でき るであ ろう 。 と ころで、これ ら 一連 の歌 群 にはど のよう な 性 格 があ ると考 え ら. の梅 を 賦 して、馴 かに短 詠 を成 す べし。. 八 一五 武都紀多 知 波流能吉多良婆. 八 一六 鳥梅能波奈. 鳥梅乎. 和我覇. 梅 を招 き. 伊麻佐家 留期等 知利須義受. 正 月 立 ち 春 の来 たらば かく しこそ 〃岐 都 〃 多 努 之 岐 乎 倍 米 大猷紀卿 つつ 楽 しき 終 へ め 大武の紀卿. 可久斯 許曽. ら 足 りぬ。も し翰 苑 にあ ら ず は、何 を 以 てか情 を櫨 べむ。. れるだろうか。それを解く手がかりは万葉集の記載に頼るしかない よう であ る。それ では、ま ず 、三 十 二首 の歌 群 を 以 下 に引 用 してこ. 拝せて序. れらの歌群を備威してみよう。. 梅 花 の歌 三 十 二首. 梅花歌 計 二首井序. −53−.

(3)                   . 梅の花 今咲けるごと 散り過ぎず 我が家の 能 曽 能 ホ 阿 利 己世 奴 加 毛 小武小野大夫 園 に あ りこせぬかも 小猷の小野大夫. 小武の粟田大夫. 麻 豆佐久耶登能 烏梅能波奈. な りにけ ら ず や. 八 一七 鳥梅能波奈 佐吉多流僧能 〃 阿遠也疑波 梅の花 咲きたろ園の 青柳は 根 本須倍久 奈利家家良受夜 小猷粟田大夫 にすべく. 八 一八 波流佐札婆. 古飛斯宜志恵夜. 可豆良. 比等利. 鳥梅. 加射 之. 加久之阿良婆. 春 さ れば まづ咲 く や ど の 梅 の花 ひと り 美 都 〃夜 波 流 比久 良 佐 武 筑前守山上大夫 見 つつや 春 日暮 ら さ む 筑の前の守山の上大夫. 八 一九 余能奈 可波. 伊麻佐 可利奈 理 意母布度知. 世 間 は 恋 繁 しゑ や かくしあ らば 梅 能 波 奈 水 母 奈 良 麻 之勿 能 怨 豊後守大伴大夫 の花 にも なら ましも のを 豊の後の守大伴大夫. 八 二・ ○ 鳥梅能波奈. 梅 の花 今 盛 りな り 思 ふど ち かざ し 家 斯 亘奈 伊 麻 佐 可利 奈 理 筑後守蔦井大夫 にしてな 今 盛 りな り 筑の後の守葛井大夫 青柳. 梅 と の花 を. 折 かざ し. 飲 みて. 比佐 可多能. しかす がに. この城. 許能紀. 阿米欲. 八 二 一 阿乎夜奈義 鳥梅等能波奈 乎 遠 理可射 之 能弥 亘. 笠の沙弥. 宇米能波奈知流. 散 りぬとも よし. 能 〃知波 知利奴得母輿斯 笠沙弥 の後 は. 八 二二 和何則能家. 散 らく はいづく. 知良久波伊 豆久 志可須我家. 我 が 園 に 梅 の花 散 る ひさ かたの 天より 里由 吉 能 那 何 列 久 流 加 母 主人 雪 の 流 れ 来 るかも 主人 梅 の花. 八 二三 鳥梅能波奈. 知良麻久怨 之美. 加 豆良. 和我曽 乃 〃 多気 乃. 能 夜 麻 家 由 企 波 布 理 都 〃 大監伴氏百代 の山 に 雪 は降 り つつ 大監伴氏の百代. 八 二四 鳥梅 乃波奈. 佐岐多流曽能 〃 阿遠夜疑遠. 梅 の花 散 ら まく惜 しみ 我 が園 の 竹 の 波 也 之 家 千 具 比 須奈 久 母 小監阿氏奥嶋 林 に う ぐひす 鳴 くも 小監阿氏の奥嶋. 八 二五 烏梅能波奈. 和我夜度能 烏梅能. 梅 の花 咲 き たろ図 の 青 柳 を 纏 家 志 都 〃 阿 素 賦 久 良 佐 奈 小監土氏百村 にし つつ 遊 び暮 ら さ な 小監±氏の百村. 八 二六 有知奈耽久 波流能也奈宜等. 許奴礼我久利 且 宇具比須曽 奈岐 豆. う ちな びく 春 の柳 と 我 がや ど の 梅 の 波 奈 等 遠 伊 可不 可 和 可 武 大典史氏大原 花 とを いかにか別 かむ 大典史氏の大原. 八 二七 波流佐礼婆. 比等期等家. 乎理加射都 〃 阿蘇 倍等 母 伊夜米 豆. 春 さ れば 木 末 隠 りて う ぐ ひす そ 鳴 き て 伊 奴 奈 流 鳥 梅 我 志 豆 延床 小典山氏若麻呂 去 ぬなる 梅 が 下枝 に 小典山氏の若麻呂. 八 二八. 佐企 亘知理奈波. 佐久良婆 那 都伎 三. 人ごと に 折 りかざ しつつ 遊 べど も いや めづ 良 之 岐 鳥 梅 能 波 奈 加 母 大判事丹氏麻呂 ら しき 梅 の花 かも 大判事丹氏の麻呂. 八 二九 鳥梅能波奈. 得之波岐布得 母 鳥梅能波奈 多 由流 己等. 梅 の花 咲 きて散 りなば 桜 花 継ぎ て 佐 久 倍 久 奈 利 尿 豆 阿 良 受 也 薬師張氏福子 咲 くべく な りにてあ ら ず や 薬師張氏の福子. 八三〇 寓世家. 万代 に 年 は来 経 と も 梅 の花 絶 ゆること 奈 久 佐 吉 和 多 留 倍 子 筑前介佐氏子首. 4 5.

(4)                         . なく 筑の前の介佐氏の子首. 宇倍母佐棋多 流 鳥梅能波奈. 咲 き 渡 るべし. 八三 一 波流奈 例婆. 乎利 己加射 世留 母呂比得波. 春 なれば う べも 咲 き たろ 梅 の花 君を 於 母 布 得 用 伊 母 祢 奈 久 水 宣岐守板氏安麻呂 思 ふと 夜 眠 も寝 な くに 壱岐の守板氏の姿麻呂. 八三 二 鳥梅能波奈. 波流能伎多良婆. 可久斯 己曽. 梅 の花 折 りてかざ せる 諸 人 は 今 日 の 阿 比大 波 多 努 斯 久 阿 流 倍 斯 神司荒氏稲布 間 は 楽 しくあ るべし 神司荒氏の稲布. 八三三 得志能波家. 伊麻佐加利奈利. 毛 〃等利能. 年 のはに 春 の来 らば かく しこそ 梅 を 加 射 之 豆 多 努 志 久 能 麻 米 大令史野氏宿奈麻呂 かざ して 楽 しく飲 まめ 大令史野氏の宿奈麻呂. 八三四 鳥梅能波奈. 阿波武等 母比之 鳥梅能波奈. 梅 の花 今 盛 りな り 百鳥 の 声 の 古 保 志 棋 波 流 岐 多 流 良 斯 小令史田氏肥人 恋 しき 春 来 るら し 小令史田氏の肥人. 八三五 波流佐良婆. 春 さ らば 逢 はむと 思 ひし 梅 の花 今 日の 阿 素 職 ホ 阿 比美 都 流 可 母 薬師高氏義道 遊 びに 相 見 つるかも 薬師高氏の義道. 岐美乎. 家布能. 鳥梅乎. 己恵能. 家布能. 八三六 鳥梅能波奈 多乎利加射志 豆 阿蘇 倍等 母 阿岐太 梅 の花 手 折 り かざ して 遊 べど も 飽 き 足 良 奴 比波 家 布 家 志 阿 利 家 利 陰陽師磯氏法麻呂 ら ぬ日は 今 日にしあ りけ り 陰陽師磯氏の法麻呂. 八三七 波流能努家 奈久夜汗隅比須 奈都気牟得 和何 春 の野に 鳴 く や う ぐひす な つけ むと 我 が 幣 能 曽 能 家 汗 米 何 波 奈 佐 久 雫師志氏大道 家 の園 に 梅 が花 咲 く 雫師志氏の大道. 八三八 鳥梅能波奈. 知利麻我比多流. 和企幣. 多礼可. 比得能. 乎加 肥水波 宇具比. 紀利多知和多利 布流由岐得. 梅 の花 散 り粉 ひたる 岡 辺には う ぐ ひす 須 奈 久 母 波 流 多 麻 気 三 大隅目榎氏鉢麻呂 加 鳴 くも 春 かたまげて 大隅の目榎氏の鉢麻呂. 八三九 波流能努床. 可豆良家乎利志 鳥梅能波奈. 春 の野 に 霧 立 ち 渡 り 降 る雪 と 人 の 美 流 麻 提 鳥 梅 能 波 奈 知 流 筑前目田氏真上 見 るまで 梅 の花 散 る 筑の前の目田氏の真上. 八四〇 波流揚 那宜. 於登企久奈 倍水 鳥梅熊波奈. 春 柳 纏 に折 りし 梅 の花 誰 か 有 可 倍 志 佐 加 豆 岐 能 倍 家 壱岐目村氏彼方 浮 かべし 酒 杯 の上 に 壱岐の目村氏の彼方. 八四 一 千遇比須能. う ぐ ひず の 音 聞 くな へに 梅 の花 我 家 能 曽 能 床 佐 伎 亘 知 流 美 由 勘島目高氏老 の園 に 咲 き て散 る見 ゆ 饗島の目高氏の老. 八四二 和我夜度能 鳥梅能之豆延家 阿蘇職都 〃 宇具. 我 がや ど の 梅 の下枝 に 遊 び つつ う ぐ 比 須奈 久 毛 知 良 麻 久 乎 之 美 薩摩目高氏海人 ひす 鳴 く も 散 ら まく 惜 しみ 薩摩の目高氏の海人. 八四三 鳥梅能波奈 乎理加射之都 〃 毛呂比登能 阿蘇. 梅 の花 折 り かざ しつつ 請 人 の 遊 夫 弥 古之 毛 遠 美 礼 婆 夜 叙 布 土師氏御道 ぷを 見 れば 都 しぞ思 ふ ±師氏の御道. 八四四 伊 母我陛迩 由岐可母不流登 弥流麻提示 許 〃. 妹 が家 に 雪 かも降 ると 見 るまでに ここ 脆 母麻 我 不 鳥 梅 能 波 奈 可 毛 小野氏園堅 だも 紛 ふ 梅 の花 かも 小野の氏の圃堅. 八四五 宇具比須能 麻知迦 豆体勢斯 宇米我波奈 知良. 5 5.

(5)                . う ぐ ひす の 待 ち かてにせし 梅 が花 散 ら 須 阿 利 許曽 意 母布 故 我 多 米 筑前趣門氏石足 ず あ りこそ 思 ふ児 がため 筑の前の総門氏の石足. 八四六 可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例好 伊野 霞 立 つ 長 き 春 日を かざ せれど いや 那 都 可 子 岐 鳥 梅 能 波 那 可毛 小野氏淡理 な つかしき 梅 の花 かも 小野氏の淡理. これらを見て単純に思うことは、割り注の署名は太宰府から近 い順番に、かつ、役職が高い順番に配列したようで、憶良は﹁ 筑前 であるから、上位で採録されているに違いない。肝心の主催者旅 守﹂ 人は八番目に見え、先頭に来ず、歌を披露するに当たり或る程度 緊張が解けた状態での採録 ︵ 詠歌 ?︶ となっている。この宴会で興味 深 いのは、官 僚 だけ の参 列 ではな く 、﹁ 薬 師 ﹂や ﹁ 陰 陽 師 ﹂な ど も 参 列 しており 、人 選 は幅 広 く 、か つ、大 規 模 な 宴 席 歌 にな っているよ. うな気がする。もしこの推測が事実から余り離れていないならば旅 人の人選の幅広さと三十人余りの宴席を主催する懐の広さを感じ させる参列者 の構成があり、もし万葉集 の収録の通り披露された と考えるならば、最後 の方 の披露者は前出者と語句が被らないよ うに配慮して披露したことが想像でき、官職 の上位者を立てなが ら自 己の歌も披露するという、正に年功序列の狭間で内容的に被 らないように配慮しただろうことを考慮すると下級官僚達は和歌. を 作 るに当 たり相 当 苦 しんだこと であ ろう 。そして、﹁ 報 凶 問 歌 ﹂の. 左注 ﹁ 神亀 五年六月二十三日﹂から ﹁ 梅花歌州二首﹂の漢文の題詞 ﹁ 天平 二年正月十三日﹂ までの数年間に、旅人の気持ちの中で何ら. かの動 機 があ ってこのよう な会 が行 われたことだろう 。と 言 う のも 、 ﹁ 報 凶 問 歌 ﹂が 旅 人 の妻 の死 を 動 機 と して生 ま れ たと す るな らば 、. らば 、気 分 も 上 向 き にな り、自 身 にと って楽 しい事 を したくな る心. この心境の劇的な変化は旅人の心のありようが快方に向かっている 証拠であり、何らかの理由によって欝屈した気分から開放されたな. 理 も 理 解 でき よう 。だ から 、﹁ 興 に依 りて﹂な のかも しれな いが、随. 分大胆なような気がする。 ところで、列席者 の構成、席次、万葉集に役職と氏名を記載さ. れた意 図 はど のよう な も のであ る のか、つま り、この宴 席 歌 はど のよ う な構 成 を 取 っているか、先 哲 諸 氏 の論 考 を 次 に挙げ ること にす る。. この 一首 ︵ 八 一八番歌︶は四番目に配列され、少武 粟 田大夫. 中西進 氏は憶良 の宴席歌という視点から ﹁ を備戚なさ 梅花歌﹂    . と 豊 後 守 大 伴 大 夫 と の間 にあ る。歌 に 入 る前 にこの三 十 二首 の. 配列について多少言及するならば、この中で旅人までの八首が 一. まと ま りを も ち 、以 下 の二十 四 首 と 区 別 さ れ るのであ ろ う と 考 えて来 た。も し全 部 が 同 時 に作 ら れた のな ら 主 賓 の座 にあ った の がこの八 人 で、あと は陪 席 と いった恰 好 だ ったろう 。も っと 積 極 的 に、元 来 はこの八 首 と 二 十 四 首 と が 別 格 の二群 と して筆 録 さ れ ていたかも しれぬ、と いう 想 像 も でき る。と いう のは誰 でも 目に つ く よう に、主 人 が 八 首 目 に存 在 す るから で、この位 置 は 三 十 二 首 を 一連 のも のと す ると 、き わ めて唐 突 であ る。ふ つう は全 体 の. 遅 参 と かで説 明 しよう と す るが、それでは到 底 蔽 え な いほど に、. 配列をほぼ官位順と考え、避けがたい例外を ﹁ 世話人格﹂とか、. 官位順ではない。また沙弥満誓 以前を主賓として敬意を払い、 以下は下僚として後に並べたともいうが、なぜ少武 以上に敬意. 中略︶ ︵. を 払 ったのかも 、はっき りしない。 これは座 がここま でが 別 で、別 にな った 理 由 に ついては右 のよう な お のず から の慣 行 上 、次 官 クラスと 国 司クラスが上 席 にな ると いう ことが あ ったろう が、それは 一連 の詠 進 を 記 載 さ れると いう こと は、あ り得 るだろう 。. 以 下 にも 八 首 ず つにまと めてみると 、面 白 いこと に、各 八 首 の. 中では最初と最後の人間 の官位が、中間の人間よりも高いとい. 一 6 5 一.

(6)                                                                     . う結 果になる。次 のグループでは大伴 百代が正六位 下相当で最 後の筑前介が従六位上、一人前 の福 子などは正八位上である。 次のトップが壱岐守で従六位下、途中に初位のものをおいて最後 の大隅目は同じく大初位 下、最後のグループは最初が従八位下 で小野淡理でおわる。淡理を小野田守とすると彼は十八年後に 正 六 位 上 から 従 五 位 下 にな っていて、少 な く と も 途 中 の小 野 国. 堅が無位であったよりは上位のものである。直前の筑前壕も従七 位上相当官である。以上によれば第 三グループだけが最後が同 格者で、最初が上官であるこてとはすべてに共通し、最後が最 下 位 だと いう こと も皆 無 な のであ る。 このことは、ひょっと す ると 全 体 が 四席 に分 かれ 、む しろ上 位 の 者 がそれぞ れ のと りま とめを した のではな いかと いう 想 像 を 抱 か せる。旅 人 も 、そ の中 の 一人と して例 外 ではな かったわけ であ る。. この主客の席は五位以上の、つまり、当時 の上流社会の席なのだ. が、そ の中 で順 序 を考 え てみると 、歌 の詠 出 が座 を 一巡 す るも の. なら、旅 人隣席 のものは当然最初と最後になろう。主人をはさ んで大武と満誓がいたのではなかったか。大猷 から歌が廻れば、 従五位下の五人を廻って四位だった満誓に戻り、ついで旅 人がよ むことにな る。 と推 測 なさ り 、また、使 用 語 句 から 追 和 に ついて、. ょっと す ると 憶 良 歌 に追 和 した のではな いかと 思 わ れ るほど だが、. 我が宿に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも ︵ 5 八五 一︶と いう 追 和 歌 があ る。大 変 憶 良 の歌 と 類 似 していて、ひ この歌にも官人集団を対象として心に描きながら詠んだ歌と思 われる。追和歌 の作者と思われる旅 人は二か月前に香椎の潟の. いざ 子 ど も ﹂と 人 々を さ そ っている ︵ 美 しい朝 菜 つみ に、﹁ 6九 五 七 ︶。それと 同じであ る。 と推 測 な さ り 、さ ら に、﹁ や ﹂を 疑 問 か反 語 かで考 察 なさ ってから 、 穏 や かな 一首 と 解 す る。しかし、だ から と いって、憶 良 の己れ. を 空 しく した追 従 の歌 だと は思 わな い。ふ つう の歌 い方 を す れば 、 そ れ 以 上 に額 想 だ と いった 諸 歌 と 同 じよ う に、﹁ も ろび と 三 遊 び ﹂﹁ 今 日﹂と いう こと ば を 用 いること にな る。と ころが 憶 良 はこ. れらを 一切用いない。﹁ 春 日を暮らす﹂ という表現で遊びに暮れ. 遊 び ﹂と いったあ ら わな 表 現 を し てゆく 永 日 のよろこびを 述 べ、﹁ な い。ま た ﹁ も ろびと ﹂宙心ふど ち ﹂と の遊 びに加 わろう と す る。こ. うした表現は、きちんと自 己の心理的過程を踏んで出て来るも. 林田正男氏は漢文の序文を旅人作説 ・ 憶良作説 ・ 麻 田陽春作説. のであ って、と ってつけ た追 従 のことば ではない。 と述 べら れている ︵ 補 注 1︶ 。 を 想 像 な さ ってから、. 大宰府の歌 人たちが、大陸渡来の梅樹を遠 の朝廷 の官邸でめ でつつ風流に遊ぶという点はすべて等しく、その序 文を請 人が合. 作 したと す ればまこと に当 日の雅 宴 にふさ わしいも のになる。. 梅花 の歌三 二首 の 一連 の歌 の構成について吉永 登氏は、主 人. と なさ り、. であ る旅 人 ︵ 大 重 紀 卿 ﹂のご と く 役 職 と 氏 と 敬 八 二 二︶の前 は ﹁. 称で名を書いていないが、旅 人より後は﹁ 大監伴氏百代﹂︵ 八二. 三 ︶のご と く 伴 氏 と 略 称 して名 を 記 している。この名 を 書 く か書 かな いかに大 き な 差 別 が あ ったと 説 く 。そして百 代 以 下 は主 人 側 にた つ接 待 役 であ ったと 説 く。 この見解 に従 えば 、宴 席 にそぐ わない歌 や ﹁ 我 が園 ﹂﹁ 我 が家 の. 園﹂など諸注が従来まだ明らかにし得なかった 一面も理解でき. る。しかし、いさ さ か の疑 問 も あ る。ま ず 人 名 表 記 に ついてであ 山 上 大 夫 のご と るが、藤 原 芳 男 氏 も 注 意 しているよう に、紀 卿 ・. を 明 記 したも のの四 種 であ. き敬称法、氏名を省略し単に主 人の表記、土師百村のごとく氏 を 一字に短縮したもの、土師氏御道、小野氏国堅のごとく氏名. る。この人名表記は意識的に書き分けられたものであろう. ー. −. 7 5.

(7)                      . が、明瞭 に 四種 の区 別が 認められ ることであ る。さ らに管. 内諸国より集まった官人達、特に壱岐守 ・ 大隅・ 薩摩 の目など 一 国を代表して何年に 一度の晴れがましい雅宴の席で接待役を勤. めたと 見 ることは跨 晴 せざ るを 得 ない。 とな さ り、さ ら に、. 草稿なり案文の製作者は、当 日の世話人と見られる門部 石 足・ 小野田守であったと見たい。彼等は序文の草稿をお互いの上. 勿論最終 の責任者は当 日の主催者であり府 の長官である旅. 司であ る、旅 人 ・ 憶 良 に示 し、推 鼓 を う け たのであ ろう 。 人 であ ること はいう ま でも な い。そ の点 から いえ ば 、旅 人を 序 文 の作 者 に擬 す ること は適 当 であ る。しかし諸 人 が 賦 しそ の序 文 を 合 作 の趣 にと りな したと ころに雅 宴 の風 流 が存 在 した のでは な かったか。 三 二首 の歌 は特 にす ぐれ たと 思 われ るも のも な く 、内 容 も 形. に生 かしていること 、多 数 の歌 人たち の雅 宴 が開 かれ そ の詠 歌 を. 式的であると評されるが、それぞれ漢文学の素養を巧みに和歌. のこすことなど大宰府の文学を代表とすると同時に文学史的に 原田貞義氏は、歌意から歌群を備賦して、. も 大 き な意 義 を 持 つという べき であ る。 と述 べら れている ︵ 補 注 2︶ 。. 二︶特に参会者の存在を必要とせず ︵ ︵ 824・ 82 a︶梅に鴬 ︵. ︵一︶参 会 者 に向 梅 を かざ し ︵ 828・ 832・・ 833・ 836・ 8 43・ 846︶、柳 を 綬 に ︵ 825・ 840︶せんと 呼びかけ る歌. えば 、八 一五と 八 三 三 、八 一七 と 八 二 五 、八 二八 と 八 四 六 、八 三 二と 八 三 六 、八 四 三など多 く 見 られ る。これを 植 垣 氏 や 藤 原 芳 男 氏 は前 詠 歌 の影 響 や 呼 応 によるも のと 見 ているが、こう し た異 体 同 心 の歌 が 必 ず しも 前 詠 者 と の唱 和だけ によるも のでは な いこと は、冒 頭 歌 と 八 三 三 番 歌 の如 く 、当 時 年 頭 に歌 わ れて いた 謡 い物 を 一部 翻 案 し詠 出 した者 があ ること によ っても 知 ら れよう 。この外 にも 本 歌 取 り の歌 が 混 じ っているか否 かは定 かで はな い。しかしこのよ う に歌 意 や 歌 想 が 即 き 過 ぎ ている のは、単. に承接に意を用いたからではなく、多分に詠者 の作歌伎価の未. それは梅に鴬、落花を雪に見立てる後者の歌群も同様で. 熟 さ 、発 想 の乏 しさ によるも のと解 す べき ではあ るまいか。. あ る。ただ 、後 者 の場 合 、歌 材 や 見 立 てが 同 じであ っても 、歌 想. の上で前者程には明確な呼応はしていない。それは、彼等の視線. や意趣が ﹁ 我 ぎ 家 ﹂︵八 四 一八 四 二 ︶﹁ 我 が 園 ﹂︵ 妹が 八 二 四 ︶﹁ 家 ス 八 四 四 ︶︷岡 部 二 八 三 八 ︶の梅 の花 に赴 け ら れ 、司心ふ児 ﹂ ︵ 八 四 五︶に向 けら れていることと も 無 縁 ではあ るまい。. こうした二歌群 の鮮やかな対称、一方で雅宴 の盛昌を促し、 その華やぎを歌い、他方では孤独な面ざしで噂鷺や落花、我が 宿 の梅を詠じるといった二つの姿勢 の奇妙な併存は何を意味す. るのであろう か。 とな さ っている ︵ 補 注 3︶ 。 と 言 う よう に、各 氏 、独 自 の立 場 から それ ぞ れ 論 を 展 開 してお り、必 ず しも 構 成 を 主 眼 としていないかも しれな い。しかし、漢 文 の. のだ ったら しい。そ の意 味 から 改 めて考 察 す ると 、中 西 氏 の推 測 は. 序文の資料から参列者と記載との間に生じる意図、追和という後 世の影響も併せて考えてみると、規模的に、内容的になかなかのも. という特殊な土地柄故の妙 上代という時代と筑前の国 会職の朝廷︶. 7・ 834・ 837・ 838・ 841・ 842・ 845︶︵ b︶落 花 を 雪 に見 立 てる ︵ 839・ 844︶︵ c︶梅 を 人 に擬 え る ︵ 831・ 835︶︵ d︶梅 と柳 ︵ 825︶梅 と 桜 ︵ 839︶梅 に言 寄 せ 方代 を 願 う 歌 ︵ 830︶. の大きく二群に分かれ、その両者をないまぜながら詠み継がれ. 許されるならば、筑前の国で職務を遂行するホームタウンの旅人と. を 言 い当 てているよう な 気 がす る。も う 一歩 進 めて推 測 す ることが. ていること が知 ら れ る。ま ず 一方 の会 衆 を 意 識 した歌 から 言 え ば 、そこには歌 語 のみな ら ず 発 想 の面 でも 極 めて類 似 した作 、例. 一 8 5 −.

(8)       . 憶良が、宴会を主催し和歌を披露したら、筑前 の国以外で職務を 遂行する官人達に漂うアウェ イ感も意識しながら披露せざるを得 ない雰囲気になるだろう。それにしても漢文が幅を利かせていた時 代 に和 歌 も 噌 んでおり、しかも 或 る程 度 のレベルにあ る歌 が作 ら れ ていること を 考 え ると 、憶 良 と 旅 人がいたこと によ ってクロー ズアッ プさ れ ていること は間 違 いな いが 、も し彼 等 が いな く ても 普 通 に催 さ れているかも しれな い程 のボリ ュー ムと 質 の高 さ を 併 せ持 っている と 言 っても 良 いだろう 。それほど奈 良 時 代 の人 々の間 に和 歌 が浸 透 し、普 及していたこと を推 測 したく な る。 次 に、歌 の内 容 を 見 ると 、﹁ 梅 ﹂を 主 題 に据 え 、﹁ 手折 る﹂ ことを し たり 、﹁ 鴬 ﹂と 絡 めて詠 んだ り 、﹁ 柳 ﹂や 尋ョ﹂、﹁ 香 り ﹂も 詠 み 込 ま れ ている。と いう ことは、梅 とこれ ら の歌 材 と の相 性 が良 好 で、奈 良 時 代 の官 僚 たち には考 え るまでも な い常 套 句 な のかも しれ な い。も し. これらの梅が白梅であると仮定するならば、柳や鴬 の緑と色彩的 に対比され、鮮やかな状況が想像できようが、紅梅とするならば、 赤に緑は色彩的に映えるだろうか。視点を変えて、雪と紅梅 の対 比を考えると、白と赤は印象的な色彩で、年頭の初春 の気持ちも. 反 映 しているのではな いかと考 え るのは、強 引 す ぎ るだろう か。 それ から 、梅 の花 でこれだけ 盛 りあがること ができ る理 由 は何 な. のか考えて見たい。奈良時代、梅は中国から輸 入し、花と香りが高 く賛美された、春を代表する花のようで、白梅にしても紅梅にして もその評価は変わらないらしい。辞典的な意味からも、 いばら科 の落葉 小高木。中国原産だが、古く 日本に渡来し、 万葉 人にその気 品ある花 の姿を雪や鴬などとともに賞 翫され. とあり、万葉集では白梅を香りも味わい、雪や鴬を絡めて詠まれ た格好の素材であると言えよう ︵ 補注 4︶。 であるとするならば、新年早 々に太宰府 の帥の邸宅で宴会と歌 会が行われ、或いは、宴会が盛りあがって和歌をお互いに披露する. こと にな った のかは定 かではな いが 、賑 々しい晴 れ の場 だ ったに違 い な い。そ のよう な 雰 囲 気 の中 で、も し旅 人 の邸 宅 に梅 の木 が有 り 、 偶 々梅 の花 が 咲 いていたと したら 、や はり 話 題 提 供 のツー ルと して 何 ら かのアプロー チがあ って然 るべきと いう 流 れは自 然 とでき るだろ. う。そうなれば、主催者の旅 人を含む参列者が各 々の心の中で温 めた和歌を披露するのも当然 の流れとなるわけで、この件に関して は詳しく書き取 った人、言うなれば筆録者が存在し、一音 一字式 の万葉仮名で、しかも参加者名簿 のごとき参列者 の氏名が役職を. 伴 って記 載 さ れ ていて、も しかした ら 、参 列 者 は 予め何 ら かの記 録 と して残 ること を 意 識 して和 歌 を 詠 んだ のかも しれ な い。そしてそ. せて想 像 したい。も し、これ ら の想 像 が 実 態 と 大 き く 外 れ ていな い. の筆録者はこの宴席に出入りできる、主催者 の旅人と交流が有り、 、 参 列者 の配 に を 列 気 い 後 の で 資 を で 使 年 ま 料 残 す こ と が る き 月 人物なのであろうと推測する。もっと先に進めて言うならば、﹁ 梅﹂ という題材で歌会が盛りあがり、筆録者自身も和歌の教養を持ち、 披露された歌の優劣が理解できた上で資料を保存できる人物を併. 会 から 盛 り 上 が りを 見 せて詠 んだだけ のも のではな く 、お 互 いの感. とするならば、漢文の公的文書とは違う、或る意味趣味 の世界 の 造詣が深く、自他共に和歌を深く解する者 の集まりは、ただの宴. 情を理解できる間柄、同好 の者 同士の固い粋を推測せずにはいら れない。であるならば、季節柄、新年に相応しい余興でありながら 高尚な趣味の世界、かつ、自然を賛美し、香りという余韻まで味わ. て︶かはわ から な いが、中 国 語 にも とづく も のであ ろう 。ムメと も. た。懐 風 藻 の詩 にはそ の香 も 詠 ま れ ているが 、記 紀 にはこの植 物. の記載がない。ウメという名も直接か間接 ︵ たとえば朝鮮語を経. 梅にこだわって宴会を開き、結果として万葉集に保存されていても. う 精 神 世 界 は、 一種 独 特 の盛 り 上 が り を 見 せ ること であ ろう 。と な ると 、桜 も 春 の花 と して珍 重 さ れ るに違 いな いが 、そこを 敢 え て. 記されている。︵ 中略︶万葉に詠まれた梅は白梅が中心。その果 実は食用 ・ 薬用 ・ 染色用などに用いられた。. −59−.

(9)  . ること にす る。. 何ら不思議はないはずであろう。参列者の構成については後稿に譲. 一一. では、八 一八番歌の前後関係から、配列からの考察を試ること にしよう。万葉集を遡ると、八〇五番歌の左注に神亀 五年七月廿 梧桐 日 一日に憶 良 がサインを している記 述 が有 り、﹁ 伏 辱 来 書 ﹂、﹁. 注に ﹁ 筑 前 国 恰 土 郡 深 江 村 負 原 ﹂が あ り、 十 一月 八 日 ﹂と あ り 、﹁. と続き、左注に﹁ 天平元年十月七日﹂、八 一一一 番歌の左 本琴 一面﹂ ﹁ 後追和梅 梅花歌計二首﹂ があり、﹁ 員外思故郷歌雨首﹂ があり、﹁ 答 詩 日 ﹂・﹁ 歌 四 首 ﹂が あ り 、﹁ 遊 於 松 浦 河 序 ﹂・﹁ 逢 客 贈 歌 三 首 ﹂・. ﹁ 宜啓 伏奉 四月六日 娘等更報歌三首﹂・﹁ 後人迫和之詩 三首﹂・﹁ ﹁ 和松浦仙媛歌 二首﹂・司心 賜書﹂の題詞と ﹁ 奉和諸人梅花歌 一首﹂・ とあ 君未壷重題 二首﹂・ 八六七番歌の左注に﹁ 天平 二年室月十日﹂. る。 ここだけを 見 ても 特 徴 が有 ると 思 われ 、ま ず 、日記 のよう に或 る 程 度 日付 がはっき りしていて、しかも 概 ね年 代 順 に配 列 さ れ ている。. だから、場合によっては数年の間に歌が数首作られて次に記された 年月日までの間に完成して収録されただろうことが推測でき、ほぼ. 迫 和 ﹂と この方 向 で万葉 集 を 編 纂 したも のと 思 われ る。それ から 、﹁. な 事 情 によ ったり 、月 日を 開 け て追 和 した り、ま るで相 聞 のよう に. いう形で詠まれた歌が接近しており、その追和が梅の歌にも大きく 関与し、飛び飛びながらも連続して収録されている。また、作歌事 情がそれぞれで大きく異なり、或る事件が契機となったり、個人的. 歌を贈り合ったり、特定 の傾向は愚見には入らない。特に梅を詠ん だ歌はポツリポツリ追和されて歌われ、それらを丁寧に拾い集め、 収録しているところに何らかの編集意図を感じてしまうが、如何だ ろ う か。それ と 併 せて、梅 の花 の歌 の影 響 力 は強 く 、何 かを 感 じて 付 け 加 え た歌 が 見 ら れ、宴 会 に参 加 していな く ても 、梅 に対 してい. を 与 え ており 、看 過 でき な い事 実 と して考 え な け れば な ら な い。そ. ろいろな感情を抱き、旅人達の歌の噂も広まって広く人 々に影響. の意味に於いて、旅人の邸宅で開かれた宴会と歌会は人 々の心を 揺さぶり、何かを表現したくなる気持ちにさせる出来映えなのだ ろうと想像する。そして、筆者が考える所から作歌動機がそれぞ れ異なると判断できる根拠として、題詞や標目、左注等の表記で、 私にはまるで筑前国周 辺で起こった出来事に対して誰かが歌を詠 んでいる作歌事情が愚見に入り、この地域の住民の他人に対する情. の厚 さ を 想 像 せず にはいら れ な い。また 、そ う いう 人 達 だ から こそ 追 和 と いう 発 想 も 生 まれ 、実 行 したことが収 録 さ れているのであ ろ う 。そ のよう な 他 人 に対 す る労 りができ る 人 々の育 成 は長 の影 響. 力も多少反映されるだろうから、筑紫国守であった憶良 の人柄に 感化されたのではないかと想像するのは乱暴であろうか。私はトッ プの者が良い見本を示しそのことを上意 下達した理想型として想 像したい。憶良なら過酷な年貢の取り立てや使役を率先してやる. タイプと して考 え ら れないので、そう あ って欲 しいと いう 私 の願 望 で も あ る。. 三 さて、梅を愛でながら宴会が開かれ、和歌まで披露するこの三十. 二首 を 有 す る歌 群 はど のよう な 性 格 のも のな のであろう か。万葉. 歌 群 と して備 徹 したらど のよう なことが見 えてく るのであ ろう か。. 人が梅について意識していることは先に述べたので重複は避けるが、. 大隅国や離島の 先哲諸氏は世話人まで推測なさり、遠くは薩摩 ・ 壱岐国までの客人をもてなし、盛大に執り行われ、現在 の北九州 を中心に参列者が集められ、喚覚や視覚的な要素も取り入れなが. ら 、各 々国 を 代 表 して参 列 しているよう で、宴 席 とは雌 も 和 歌 に関 して高 い要 求 水 準 が求 めら れていたのではな いかと推 測 したい。そし て、この行 事 を 現 代 に当 てはめてみると、梅 の花 見を 家 飲 みで執 り. 0 6.

(10)                                                          . 行 い、カラオケ大 会 も 同時 並 行 で行 われているよう な も のであ ろう. か。そういうふうに想像したときに、初春の肌寒い時期に少なくと も 三 十 二 人 の参 列 者 を 迎 え 、万葉 集 に収 録 さ れていることがど の よう な意 味 を 持 つのか、も う 少 し推 測 の範 囲 を 狭 めてみれば 、この. のす ご く気 にな り、興味 が 湧 く 問 題 であ ると 認 識 した。そこで、次. 歌群は万葉集中でどのような性格を帯びた歌群なのか、私にはも に先哲諸氏の論文を引用し、私見を叩か披露してみたい。 中 西 進 氏 は、﹁ ひと り﹂司心ふど ち ﹂﹁ 春 日﹂﹁ 遊 び雪 暮 ら さ む ﹂と い. う語句から推測なさり、 この忍﹁日﹂という 春 の 一日を 歌 う 点 は、﹁ 春 日を 遊 び暮 ら す ﹂ と いう 百村 、ひいては憶 良 の歌 と 同じであ る。そして同じ 云﹁日﹂ を 、しかも 忍﹁日 の間 ﹂と いう ことばで歌 う のが、上 掲 の﹁ もろび と ﹂の他 の 一首 であ る。も う 一度 と りまとめていえば 、衆 人 の遊 びという 点 で八 二八 ・ 八 四 三に今 日 の遊 びと いう 点 で八 二 五 ・ 八 三五・ 八 三 六 に、衆 人と今 日という 点 で八 三 二に近 いのが、憶 良 、﹁ 歌 だ いう に と こ と な り び ば 遊 と い う こ はこの前 五首 でつき と ﹂ てしま う わけ であ る。また 小 野 田守 の歌 も ﹁ 長 き春 日;!いや な つかしき ﹂と いう 点 で、類 想 と いえ よう 。 以 上 のよう に見 て来 ると 、当 面 の憶 良 の 一首 は、この歌 群 にお いて類 型 的 な、そ の場 によく 強 調 を 保 った 一首 だと いうことにな ろう 。と ろ 、 で こ が こ こ 問 に 題 な る のは、いう までもなく ﹁ や ﹂であ る。つまりこれを 反 語 とと ると 、﹁ ひと り﹂が打 消 さ れて、先 ほど から ﹁ ひと り﹂の相 手ど った衆 と いうことば でいって来 たも のと 同 じになる のだが、ここに打 消 がなけ れば 、以 上 にあげ た歌 々とは、 むしろ 正 反 対 の歌 とな ってしま う わけ であ る。そしてそこにこそ 憶 良 の独 特 な境 地があ りるのだという よう に拡 大 していき 、ひい ては旧作 の提 出 と す る論 に戻 っていくわけ であ る。 と 述 べられている ︵ 補 注 5︶ 。 村 山 出 氏 は、. 眺 めて春 日を 過 ご そう か、あ なたと賞 美 したく て参 った のです 、. 憶良の﹁ ひとり﹂ は旅人を相手とした孤なる自分を指すと理 解してよいのであろうと思う。春の訪れにまず開く梅花を独り. と 一緒に観賞するのを楽しみに梅花をどれほど待ちかねていた. かを 表 現 したも ので、それは 一面で、梅 花 への﹁ 恋 ﹂と も 見 得 る感 情 を 伴 う も のであ った。憶 良 が ﹁ ひと り﹂と 表 現 す る時 、旅 人 の孤 独 を 感 じ理解 す るほど に自 分 の孤 独 を 意 識 していたであ ろう 。 参 席 者 は雅 会 にふさ わしく 宙心ふどち ﹂が つど い﹁ もろ 人 ﹂が観 梅. ﹁ ひと り ﹂を 表 現 す ることによ って、此 の地 に妻 を 失 い、都 での政. を楽しむさまの表現に努めた。だが憶良は他の何人もしなかった. 変を複雑な思いで受け止めていたであろう帥旅人の孤独を深く. 思 いつつ、実 意 のこも った挨 拶 歌 を 詠 進 したのであ った。人 間 苦 か ら 日を そら す こと のでき な かった憶 良 は、旅 人 の苦 衷 にも 聡 く、 繊 細 な 心 や りを 込めたも のであ ろう 。 と な さ って いる ︵ 補 注 6︶ 。. ﹁ 詠鎮懐石歌﹂以降の巻 五所収歌については、﹁ 遊於松浦河歌﹂. 原 田貞 義 氏 は吉 田宜 と憶 良 の二通 の書 簡 から 、. の後 に収 録 さ れた吉 田宜 と憶 良 の二通 の書 簡 ︵ 21︶・︵ 22︶が作. 21︶によ って、彼 の許 に天平 元年 四 月 ま ず 、 一方 の宜 の返書 ︵. 歌事情と経緯を伝えている。. 六日付の書翰と共に、一月十三日に大宰府の帥邸で詠まれた ﹁ 梅宴芳席﹂の歌群 ︵ 15︶ と﹁ 松浦 玉樟﹂の贈答歌群 ︵ 18︶ が届け. この両歌群の差出人について、土屋文明氏﹃ 私注﹄ などは憶良. ら れたこと を 知 ることができ る。府 の官 人 らが帥 老 の邸 で交 々詠 じた歌 群 であ りながら 、巻 五に収 録 さ れた のは、それが 手紙 で都 の宜 に送 ら れたからであ った のであ る。. と 見ているが、憶 良 は梅 花 の宴 の列 席 者 の 一人 ではあ るが、そ の. 子達 に誓 え ﹁ 杏 壇 各 言 ﹂と 表 現 していること 、更 には、後 に述 べる. 宴の主人ではない。また、その宴の主を孔子に、参列者 のその弟. 、ー. 一. 6.

(11)    . ように﹁ 遊於松浦河歌﹂ は旅人作と目されることなどから見て従 え まい。従 って、この両 歌 群 の送 り 主 は通 説 通 り旅 人と 見るべき であ ろう 。. 中略︶ ︵ 巻 五には宜への送り状を載せていないが、彼の返書により、それ が付 さ れていたことが知 ら れ ると いう こと であ る。それを 収 録 し. なかったのは、両歌群には序があり、屋上に屋を架す形になるか 第 二に、ここに収録された二つの歌群は、宜に送られた現物で. ら であ ろう 。 はな く 、旅 人 の手 元に残 さ れていた 元資 料 であ ったという こと で. 16︶や 迫 和 梅 の歌 ︵ 17︶、 用字 を 異 にしていること 、員 外 の歌 ︵. ある。そのことは、梅花の歌三十二首の表記法が作者により 一部. な っているなど 、原 表 記 者 の用 字 がそ のまま 残 っていることによ っ. 松浦河の歌の蓬客や娘等の歌の用字法が作者によって微妙に異. は見て取 ることができ る。従 って、返 書 には ﹁ 梅苑芳席. 群 英潤. て知られる。旅人が宜に送付する際には、彼自身の用字法か、あ るいは書記官がいたならば、その者の用字法に書き改められたで あろうと推測されるからである。作品を書き写す際には、概ね 臨写した者の用字に従うこと、巻五後半部の憶良の作品で我 々 藻﹂ と見えるが、出詠者三十 二名全員の歌が送付されたと見る. 説 も あ るが、それは従 えまい。それだと ﹁ 員 数 外 ﹂の意 味 は不 明 に. なるばかりではなく、折角の梅花の宴における帥旅人の趣向は. 台 無 しにな ってしま う から であ る。 補 注 7︶ 。 と述 べら れている ︵. ここでも先哲諸氏が各 々の視点から考察を展開しており、厳密 に歌群の性格に絞 って論述している訳ではないので、多少、論点がず れているかもしれないが、少なくとも中西氏が推測する類型歌の考 え方は、先に引用した本文からも首肯できるだろう。仮に、私がこ の宴席に参加し、梅の花で 一首詠むとしたら、酒の勢いだけでは即. 興 で作 ること は 困 難 で、しかも 、そう そ う た るメンバー を 前 にして. 人 の歌 と 内 容 的 に被 っても 不 都 合 が生 じるであ ろう し、そ のよう に. 劣歌を披露することは鴎賭してしまい、参列者が満 足できる結果 を残せず、末席を汚して終わりそうな気がする。となると、予め題 は示されて当 日に披露しても良さそうだが、自詠歌と役職が高い. 微 妙 にず れ るし、す べてを コピー したと はな ら な いはず であ る。それ. 推測を進めていくと、私はその場で詠まれ、酔いも手伝 って和歌に 関する閃きが期待できない状況を想像するならば、先に詠まれた 歌の 一部を拝借して、さも自作歌 のように披露したら、内容的に. コピー も、何首か空けて時 々同じような語句を使えば、連続 性 ・ 本歌取り二とは気づく確率は低くなるだろう。村 山 ︵ 後の時代の﹁. ひと り ﹂と いう 語 句 から 旅 人 の心 情 を 気 遣 う と いう 発 想 、原 氏 の﹁. 田氏の書翰からの位置づけも興味深い。それ故に今後もいろいろな 状況が考えられるが、少なくとも言えることは、類想を用いて参加. 者 が 詠 んでいると いう こと で、即 興 であ れば あ るほど 内 容 的 に被 ら な いと す る配 慮 を しつつ、自 己 主 張 を しながら 、苦 労 して詠 ま れた のであ ろう と 想 像 す る。また、員 外 の人が追 和 していること も 考 慮. すると、事後にも大なり小なりの影響があり、自発的に追 和して. し い、それが 万葉 集 に収 録 れた のであ ろう 。 ま 結 局 、誰 の、ど のよう な 思 惑 で、万葉 集 中 での、水 面 下 での協 力 がど の程 度 のも のか、はっき り断 言 す ること は難 しそうだが、筑 紫 の. 国周 辺で強い影響力を保ち、関係者か関係が無いか分からない人. の追 和 も あ り、現 在 に至 っていること を 考 え な け れば な ら な いであ ろう 。 四. 万葉 人が梅の花に対する思い、風情は前章に掲げた通りで桜も. そ う であ るが、梅 の花 に寄 せる思 いは特 に強 いよう に思 われ る。但 し、この花 が大 陸 から 輸 入 さ れ て、いつから 普 及 し、人 々が観 賞 し.

(12)                   . だした のか定 かではな い。しかしながら 、﹁ 梅 花 歌 三 十 二首 ﹂は少 な. の人 々の心 を 捉 え て放 さ ない何 かがあ ったこと であ ろう と 推 測 す る。. くとも万葉人が梅の花を見て心が動かされ、香りに酔いしれ、観賞 するに値する花として認識し、定着した過程を想像すると、当時. 考 を なさ っているのであ ろう か。. さて、以上のような私の推測に対して先哲諸氏はどのような論. 中西進氏は、万葉集中の﹁ 宿 の梅﹂ という語句に注目なさり、 こう した梅 花 を 主 題 と して ﹁ 卿成 短 詠 ﹂す る場 合 、すべて現 前 の光 景 を よま ず とも よいわけ で、それぞれ の詩 想 の中 の風 景 がこ もご もに現 れることが、かえ ってこう した詩 宴 の雅 趣 を つく り 上 げ ていく も のだ からであ る。これはたとえば 懐 風藻 の詩 宴 など で. 挨 拶 性 を も っているし、かつ持 ち う るも のだ から 、集 宴 の歌 がす べ. は大変明瞭なことで、短歌、くだっては俳譜などの短詩型は本来. て統 一され連鎖されていなければならないように思われる点が、 誤 解 を う む のではな いか。たとえば 続 紀 に記 す よう に、この二年. 合 など 、今 の三 十 二首 よりも っとば らば らだ ったろう 。集 宴 と い. 前、神亀三年九月に宮中で玉来の詩を百十二人が献上した場. う座における和歌の連鎖的なあり方は、一つの重大な性格だが、 も う 一つの性 格 として、こう した情 景 の起 伏 を 、考 えておかな け れば ならな い。だから 、右 の小 野 老 の歌 もや はり自 分 の家 の梅 が、 そ のまま いつまでも 咲 いていてほしいと 歌 った 一首 で、何 ら 不 足は. ない。そういって反対に旅人の家の梅を無視する非礼など、さら. さ らな いわけ であ る。そして先 に述 べたよう に、この﹁ 家 ﹂は軽 いも のであ った。 同 様 に考 え るべきが憶 良 の 一首 で、これは ﹁ わが﹂など といって はいな い。軽 い﹁ 宿 の﹂を そえているにす ぎ ない。いわば ﹁ 春 さ れば まづ咲 く ︵ 宿 の︶梅 の花 ﹂と いったま でであ る。私 は、も っと も 素 朴 に解 そう としているだけであ る。憶 良 は、今 そう した情 景 を 思 い う かべ、それを この場 で歌 い出 した、中 には家 持 のよう に熱 心 な. 者 がいて、﹁ 予 作 ﹂していく 場 合 も あ るが、いてもよい。予作 が 可能 なほど、座 の連 鎖 は自 由 な のだ から 、しかし情 景 が他 所 のも のだ からと いって、す べて予作 だな どと いう のは、歌 宴 を 知 らな すぎ る。 ま してや 、憶 良 の歌 い出 した情 景 は、 一般 的 なも ので、他 所 のも のでも 此 所 のも のでも ない。旧作 を 提 出 したなどと は、ま ったく 考 え ら れな い。 と 述 べら れている ︵ 補 注 8︶ 。 村 山 出 氏 は、. 梅花の宴は天平 二年正月 一三日に大宰帥邸で催された。益 田勝美氏が言われるように府管 下の朝集使が参加したとして、. 筑 紫 九 国 二島 の内 四 か国 も の官 人が掛 け るのは、別 に設 け られ た宴 であ ったため出 席 は自 由 であ ったも のか。梅 花 の宴 がこの年 に限 って催 さ れたら しいのは、旅 人 の妻 を 失 った個 人 的 な 不幸 も 関 係 あ るかも 知 れな いが、大 宰 府 の主 要 な官 人 、府 所在 地 の筑 紫 国 は守 以 下 目までの顔 ぶれを 揃 え ていることを考 えれば 、 前 々年 の神 亀 五年 におけ る皇 太 子廃 をき っかけと す る左 大 臣 長. 連 して宴 の開 催 を 理解 してよさ そう であ る。序 文 の表 現 は、古 沢. 屋王の失脚、前年の天平改元に次ぐ光明子立后と、藤 原氏態勢 顕在化を意味する中央の政変が、帥旅人をはじめ筑紫の官人達 に微妙な波紋を投げかけていなかったとは思われず、状況と関. 未知男氏の詳細な検討もあるように、文の書き出し、宴席 の情 景や眼前自然 の風趣の叙述を ﹁ 蘭亭集序﹂ に倣うが、それとの決 定的な相違は世事人生に関する論説的思考が欠落していること で、﹁ 言を 一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放. 中略︶ ︵. し、快 然 に自 ら 足りぬ。﹂と 離 俗 雅 境 を 楽 しむことを 志 向 し、官 人達 の歌 群 も 清 雅 の遊 びを 通 しての心 の交 流 に呼 応 しているよ う に見ら れる。そ の中 にあ って、憶 良 の歌 はや はり問 題 を 苧むも のであ ろう 。. 一 3 6 −.

(13)                                                                                  . 今、憶良の 一首を見るについては、筆頭者大武紀卿から主人 、 従四位下︶ 少 武 ︵ 従 旅人まで八人の歌が位階官職の順、大猷 ︵ 五位下︶二名、上国の国守 ︵ 従五位下︶三名、沙弥、主人 ︵ 従三 位︶の席順によって連鎖的に詠出されたと指摘する諸説に従うべ き であ ろう 。 と述 べら れている ︵ 補 注 9︶ 。 林 田 正男 氏 は、. 筑紫大宰府における歌壇を代表するものは何といっても、天 平二年正月十三日、大宰帥大伴旅人の官邸において盛大に催さ れた梅花の宴である。集まる人 々は前述の三二名、それぞれ 一 。序文は漢文に 首ずつの歌を詠じている︵ 八 一五∼八四六︶ 巻五・ よるいわゆる四六聯個体を用いた美文であるが、古く﹃代匠記﹄ にならって憶良が書いたと考え に王義之の﹁ 蘭亭集序﹂ 精選本︶ ︵. 帥 老 ﹂の てより憶 良 と考 えら れてき たが、そ の後 序 文 の内 容 や ﹁ 表 記 などにより旅 人 説 が生 じ、今 日では、ほぼ 旅 人 説 に落 着 き つ つあ る。しかし憶 良 説 も﹃私 注 ﹄などによ って強 く支 持 さ れている。 中略 ︶ ︵. しかし大宰府の歌人たちが、大陸渡来の梅樹を遠の朝廷の官 邸でめでつつ風流に遊ぶという点はすべて等しく、その序文を諸. 人が合 作 したと す れば まこと に当 日 の雅 宴 にふさ わしいも のに な る。この点 、合 作 説 はいかにも 捨 てがたいも のであ る。 と述 べら れ ︵ 補 注 ﹁ o︶ 、さ らに、 ﹁ 咲 く 花 ﹂は特 定 のなにな にの花 という のではなく 、抽 象 的 な花 一般 を 象 徴 的 に表 現 したも のであ ると考 え ている。さ て、ここで は次 のことに留 意 したい。本 来 、短 歌 は 一首 を も って汗 情 を 完 了 しう る性 質 を 有 している。しかし 万葉 の短 歌 は、こう した 一首 一 首 の拝 情 のみを身 上 としているのではない。長 歌 と 反歌 と の関 連. 三 一八、吉野讃 ︵ たとえば赤人の富士の山を望む歌の反歌巻三・. 歌 の反 歌 巻 六 ・ 九 二 四 ∼ 九 二 五そ の他 、を 独 立 した 一首 として. はむろんのことであ 解釈、観賞するような傾向がままみられる︶ 宴席歌︶ るが、前の老の歌などのように連作的性格や歌作の場 ︵ なども考慮されなければならないと言うことである。. 中略︶ ︵ 対 いう までもな く 、律 令 制 時 代 の大 宰 府 は九 国 二島 金ぜ岐 ・. 良 およびそ の周 囲 の人 々の歌 がそ の大 部 分 を 占 める。この旅 人 の. 島︶ を管轄し、外敵に備えるとともに蕃客帰化饗譲のことに当 には筑紫に関連する歌が巻五を中心に三三三 たった。﹃万葉集﹄ 首ほど載せられている。なかでも、神亀未年から天平初年にかけ て大宰帥であった大伴旅人、その下僚であった筑前国守山上憶. 周囲の人 々の歌を称して、便宜的に筑紫歌壇と呼称される。筑 紫歌壇といえば何といっても、梅花の宴の歌群に代表される。時 あたかも奈良朝前期に当る天平 二年正月、府の官人をはじめ九 歌作者は五国二島︶の官人達が旅人の官邸に集まって歌 国二島 ︵. 宴 が 催 さ れ た。. と述 べられている ︵ 補 注 1 1︶ 。 原 田貞 義 氏 は、 仮 に、清 客 の宴 に連 な った者 の多 くが、ヱハ朝 の梅 ﹂を 思 い描 き. つつ、即興的に、自在に横座や前座の歌に和しながら詠じ得たと すれば、当時の大宰府官人、というより万葉時代の歌人層の厚. さ と、その技 術 の高 さ を 推 し測 れる訳 で、大 変 に興 味 深 い歌 群 と いう こと になろう 。確 かに参 列 者 の中 には、横 座 の歌 のみでは な いが、前 詠 者 の作 に呼 応 し歌 作 した歌 人も あ ったであろう 。し かし、この雅 宴 を 企 画 した者 は、も とより、そう した呼 応 よりは、. むしろ、創意や趣向の面白さ、新しさに期待したように想われ る。三十名に余る歌人達が 一つの題に取り組む訳で、類似類同. から 脱 しよう とす れば、それ 以 外 に方 法 はあ るまい。 と ころが、出 詠 さ れた歌 の多 くは、歌 語と 言 い、歌 意 といい何 れも 類 型 に堕 した作 と 言 わざ るを 得 な い。しかし、それも 歌 人. ー. 一. 4 6.

(14)           . て詠 歌 を 披 露 した者 も あ ったろう から致 し方 あ るまい。. 達の大半が素 人で、しかも中には旅人の如き高官の面前で初め. え る。中 には、代 作 を 依 頼 した者 も あ ったかも しれな い。また、何. ともあれ、如上のあり様と歌人達の技柄から推して、参会者 の多く、取り分け下級官人達 の中には、高木市之助氏の示唆し た如く、予め儲けてきた作品を詠じたものもあったであろうと考 かの事情で宴には出席できず、歌だけを託した者もあったように 思 われ る。しかし、それもこれも大 宰 府 の旅 人 邸 での、世 外 佳 人 を賞 でる雅 宴 の中 ではおおら かに許 さ れ たことであ ったろう 。梅. 花歌三十二首が全て即興的に作られたのでも、配列順に出詠さ れた のでも ないと考 え た のでも 、配 列 順 に出 詠 さ れた のでも な い. と考えた前稿に修正を認めない所以である。 と 述 べら れている ︵ 補 注 1 2︶ 。. ﹁ 家 ︶﹂の表 現 を 実 態 と してう たわれているも のと 我が園 ︵ やど ・. 東茂美氏は、. 解すればどの歌も旅人私邸の園梅に背をむけて、自分のやかた. の園 梅 を う た っていること にな る。宴 席 の歌 と して、はなはだ 不都 合 であ ること にな りかねな い。 ︵ 中略 ︶. 右にあげた梅花宴の歌うたは、旅人邸の園梅を媒材としなが. と述 べら れている ︵ 補 注 ﹁ 3︶。. 出 典 から のアプ ロー チ、歌 語 から のアプロー チ、配 列 順 から のアプ ロ. いずれの説も私の拙い発想からは思いも及ばなかったもので、特 に林 田氏と東氏の説が事実 からそんなに遠く離れていないとする ならば、前述した即興歌とする私のイメージを大きく破壊し、そこ から新たな視点が生まれそうな気がする。先哲諸氏の論文からは、. であ り 、各 々が思 い思 いの梅 を 見 て歌 を 作 ったと す ると 、統 一さ れ. 梅﹂ ーチと、研究姿勢は異なり、結論も当然異なる訳だが、もし、﹁ を旅人の邸宅で見て詠まれたのではなく、私邸で見たままの情景を 歌にしたとする説が正しいならば、木の形状や咲き方もそれぞれ. 成 も 反 対 も でき ず 、ただ提 出 さ れた説 の 一つとして受 け 止めるのみ. た情景は無く、思うがままに作られたことになる。私はこの説に賛. が楽 しみな 説 であ ることは間 違 いな い。. であるが、その可能性も無いとは言えず、今後の研究と学会 の動向. このほかに、代作を依頼したとする説も、あり得なくは無く、自 作の和歌に自信がない感じであればその線も興味が湧く。特に、こ を 劣歌﹂ の宴席には主催者である旅人と憶良が参列しているので、﹁. 献 上 したり披 露 す る 訳 にはいく まい。そ のよう に推 測 を 進 めてみる と 、表 面 上 は緩 や かで細 かいこと は余 り気 にしていな いよう に感 じ ら れ るが、当 事 者 と しては真 剣 そ のも ので、遊 び や 余 裕 は無 いであ. 自 己 の上 司 や 歌 の達 人 に赤 っ恥 を かかせる 訳 にはいかないだろう か. ろうとの推測が成立しそうだ。ましてや下級官人の参列者 一同は. ら、表情と内 心が裏腹になることは避けられない緊急事態になる であろう。逆の発想からすれば、水面下で下級官人達や和歌に 自信が無い上級官人達がどのような努力をし、帳尻をあわせ. ら、う たう ところは ﹁ 梅 花 落 ﹂に擬 定 した園 梅 の盆母 であ った ので はな いか。す な わち 、﹁ 我 が﹂云 々と は作 者 と 直 接 かかわる実 態 な のではなく 、中 国 風 世 界 の金巷 な のではな いかと 思 われるので あ る。﹁ 梅 花 落 ﹂の形 象 による表 現 であ るならば 、宴 席 においてな. んら灘齢をきたす表現でもなかったはずである。. てみたところであ るが、通廻唐 使 ﹂の派遣 から も 理解 でき るよう に. 以上のことから、梅にこだわった理由と製作事情を考察し. ニノo. た のか、当 事 者 達 には申 し訳な いが、推 測 を 還 しく してしま. 中略 ︶ ︵ ﹁ 梅 花 ﹂の孤 景 のさ ま から 、﹁ 梅 花 ﹂の女 性 化がな さ れ、さ ら に いえば 、それ から 閏 怨 の風 物 であ ると いった想 定 がな さ れ るのも 、 また自 然 であろう 。.

(15)    . ﹁ は奈良時代には最先端のおし 唐ぶり口中国から輸 入されたもの︶ ゃれで、当 然 、そ の中 に梅 も 入 ってく るだろう 。そ のトレンドを 各 自. が積極的に取り入れて﹁ 国ぶり口和歌︶ に落として消化していく姿. や ﹂が疑 問 の助 詞 と しか理解 でき ないこと 習 いであ った。だが、この﹁. 見つつや﹂の﹁ を反語と解して 一首を集宴の場に適応させるのが や﹂. は、万葉集注釈 ︵ 沢潟久孝︶に、﹁ 留まれる我は恋ひつつやあらむ﹂. と前置きなさりながら、 無位無姓時代の憶良は何時の頃からか人麻呂や意吉麻呂等 と交り、川島皇 子をめぐる文苑に連なったらしく、その後遣唐 録事、伯善国守、東宮侍講を経て筑前国守として下向するまで. の望 郷 や 栄 転 の慶 びに添 う 程 度 にと ど めていること に留 意 したい﹂. 村山出氏は筑紫歌壇の宴席歌に注目なさりながら ﹁ 旅人在府中. る発 言が、そ の後 いく つかな さ れた。 と 述 べら れている ︵ 補 注 1 4︶。 そ の後 、吉 永 登 氏が疑 問 を 解 消 す る説 を 出 し、解 決 したかに見 え たが、いまだにしこりは残 っているよ うだ。. 個 人のものではなかったらしく、一首が放つ違 和感の定位を志向す. 雰 囲 気 を 破 壊 してしま う よ う な 歌 を 、いかに上 が り たる世 の人 々 と はいえ 、こと さ ら に詠 む も のかど う か。この疑 問 は、ど う や ら 一. はさ す がといえ るのであ ろう か。と いう 想 像 がも し成 立 す るならば 、 ︵ かくのみし恋ひや渡らむス六九三︶ 三 一九八︶﹁ などの例をあげて 参加者はドキドキしながらも誇らしい面持ちでこの宴席に参列し、 証 明 している 通 りであ る。 一方 、﹁ 春 日暮 ら さ む ﹂と いう のも 、結 果 歌 を 披 露 したことであ ろう 。 的には、これからの春 の幾 日かを送り過ごす意に解きうる余地が あ ろう が、基 本 的 には、春 の長 い 一日を 送 り暮 す 意 であ ること 、万 五 葉 の﹁ 暮 す ﹂の語意 が指 し示 す 。つま り、﹁ 独 り 見 つつや 春 日暮 さ む﹂ それでは結論に進むことにしよう。私が ﹁ 梅花歌 三十二首﹂で興 は、ただ独 り 見 ながらこの春 の 一日を 送 り暮 す こと かと いう 意 を た 味 が 湧 いた のは、梅 と いう 花 にこだ わ って三 十 二 人 の歌 人がさ ま ざ や す く 訴え う る表 現 であ り、したが って、このかぎ り、 一首 はたしか ま な 形 で歌 を 披 露 し合 い、それが 万葉 集 に採 録 さ れていること 、こ に集 宴 の雰 囲 気 に和 まぬも のを 感 じさ せる。 しかしながら 、歌 は、まぎ れ もな く そ の席 上 で披 露 さ れ たも のと の歌群は万葉集中に於いて異質なのか通常 の宴席歌の範囲に吸収 して、あ る。まこと さ よう な 歌 で、しかも 、それが 旅 人的 貴 族 社 会 されるのか、何か問題があるのかにあり、先哲諸氏の論文を引用し ながら 推 測 を 進 めてみたところであ る。そして、歌 語 の使 用 例 から 、 に対 す る ﹁ な り 二 業 ︶の文 人 憶 良 の反 機 を こめて発 表 さ れ たも ので 歌群の性格から、氏名と役職の披露順番から、さまざまな疑問点 あ るならば 、 一首 は宴 に水 を 指 す 方 向 において機 能 したことにな る。 があぶり 出 さ れ、 一筋 縄 で解 決 でき る問 題 では無 いことが判 明 した。 けれども、きわめて単純な疑問ながら、招かれた雅宴においてその. しかしながら、少し視点を変えてみることでさまざまな推測が成. り 立 ち そ う だと いう こと も 判 明 してき た。そ う いう 訳 で、全 ての問. 題が解決されるのにはまだ時間がかかりそうだが、根拠を伴った推 測によってさまざまな問題を指摘し、解釈の可能性を広げること. にな りそう なこと も 分 かってき た。このこと は、何 もこの歌 群 にかぎ ったこと ではないが、万葉 集 全 体 に言 え ることでも あろう 。 さ て、私 見 と しての結 論 は 一体 ど う いうことが 言 え る のであ ろう か、先 哲 諸 氏 の論 文 を 引 用 しながら 一定 の方 向 を 出 したい。. 伊藤博氏は三遅和感﹂ というタイトルで論考を進め、 春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春 日暮さむ ︵ 八一. 八︶ この 一首 が、集 宴 の歌 と してひど く 違 和 感 の濃 いも のであ ること. を教えたのは、高木市之助氏 全ロ野の鮎︶であった。古くは、﹁ 独り. 6 6.

(16)       . の間 に、宴 に関 す る作 品 のみを 僅 かに残 す が 、宴 歌 ︵ 巻 二 ・三 四 と 巻 九 ・一七 一六 、巻 一・六 三 、七 夕 歌 巻 八 ・一五 一八 ∼ 九 ︶は. に思 われ る。. 代作性、追和歌 ︵ は独特な現実認識を見せるもの 巻 二・一四五︶ であった。筑紫 の宴歌もそのあり方は本質的には異ならないよう. と 共 感 の中 に自 己を 表 現 しているのであ って、宴 では国 守 の立 場. 筑紫時代は憶良独自 の文学 の開花期にあたり、人生の現実へ の省察を深めつつあった憶良は表現の世界では旅人のそれと映発 関係を見せ、一座の心情を代弁し、旅人の孤独に共鳴を寄せた のは、人間苦を表現する本格的な歌群と同様、偽らぬ人間的な 真情を表現することにおいて矛盾はなかったからなのだと思われ る。宴歌はどこか生硬で孤独を感じさせるが、実は他者 へ の配慮 で処遇されていても、自他にかかわりなく人生に深い関心を寄せ ていた憶 良 は何 より詩 人であ ったと 言え るであ ろう 。 と述 べら れている ︵ 補 注 1 5︶ 。村 山 氏 は憶 良 の表 舞 台 の登 場. の仕方、人間観察の鋭さと詩人としての表現を受け止め、論.    . 述 な さ っている。や はり憶 良 にはこのよう な観 点 でも のを 見 る 目が養 われ ていて、それを 素 直 に表 現 でき る人な のである. 文学の梅﹂ 原田貞義氏は、大演厳比古氏の﹁ という言葉を 万葉の虚実という考えを踏まえて、 梅花の歌群において、最も不可解なのは、前稿でも指摘したよ う に 、帥 旅 人 主 催 の宴 遊 歌 であ り な が ら 、誰 一人 と して ﹁ 君の. ま いか。 これ は当 日 の出 詠 者 に ﹁ 君 の園 ﹂の梅 を 賞 でたり 、梅 に言 寄 せ. す る外 はあ るまい。理 由 は種 々考 え ら れよう 。例 えば 、当 日 の主. て君の長久を言寿ぐ歌を詠出せぬという約束が予めあったと解. 賓が旅人ではなく、憶良 外七名の官 人であったからとも考えら. れよう 。しかし、彼 等 が ﹁ 君 ﹂の梅 を 詠 ま な か った のは、外 でも あ るま い。ここに集 う 官 人 達 の多 く は、格 別 専 門 の歌 人 でも 、風 流 の土 でも ない。中 には、かかる華 や かな 観 梅 の宴 において、初 めて. 歌作を試みたという者もあったであろう。そうした彼等に舶来の ﹁ を題に、しかも帥以下の高官達 の面前で歌を披露せよと 梅花﹂. 言 う のであ る。彼 等 がいかな 歌 を儲 け るか、これも 他 の宴 席 歌 を. 見れば分 明であろう。異 ロ同音に、梅によせて君の長寿を賀す 歌を持ち来たったであろう。そうした月並みな社交儀礼歌の羅 列が、当然 予想されたからこそ、主催者は予め﹁ 君﹂ の や主人公へ. 挨 拶 歌 を 排 した のではあ るま いか。そ の意 味 で、主 人 旅 人 の作 な ど はそ の 一つの雛 型 でも あ ったろう 。. その証拠に、一人だけそうした制度を受けずに詠んだ者がい み苑ふの梅﹂ を詠んだ吉 田宜がその人で る。三十二首に追 和し﹁. あ る。上 述 の如 く 、会 衆 の幾 人 かは ﹁ 我 が園 ﹂や ﹁ 妹 が家 ﹂、更 には 岡 辺や 野 辺 の梅 花 を 詠 じている。そ れは、上 述 の厳 しい約 束 の代 償 であ ったば かりではな く 、それ を 詠 むこと が 許 さ れ ていた から でも あ ろう 。この日 の宴 が 決 して淀 みな く 流 れ てゆ かな かった由 因 は、そんな 点 にも あ ったろう 。と も あ れ 、三 十 二首 が全 ての即. 家﹂の梅を手折り、賞美する者がないという点にある。そればか 興 的 に詠 まれていったと 見 る定 説 に与 し得 な い理 由 の 一つであ る。 りではない。かかる宴席歌では、ごく自然に見られる主人を寿ぐ と 述 べら れ ている ︵ 補 注 1 5︶。 先 に私 は参 列 者 の即 興 的 詠 出 を 歌、その逆に主 人が賓客をもてなす歌が全く詠まれていないとい 考えていたので、さまざまな可能性を考慮した結果、謹んで先 の想 う こと であ る。それがいかに不 可 思 議 な 現 象 であ るかと いう こと 像を訂正する。それと、言祝ぎ の歌的な要素は皆無であるという は、万葉集の他の多くの歌宴の例に照らしてみれば瞭然であろう。 御指摘は傾聴に値すると思う。此の部分の欠落について、今後の研 そ れこそが、梅 花 歌 においては、偶 然 な らざ る現 象 な のではあ る 究成果が待たれる。. −67−.

参照

関連したドキュメント

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

Potentilla freyniana was specific in present taxonomic group by high distri - bututional rate of dry matter into subterranean stem and stolons.. The distributional

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法

昭和五八年一〇月 一日規則第三三号 昭和五九年 三月三一日規則第一六号 昭和六二年 一月三〇日規則第三号 平成 二年 三月三一日規則第五号 平成

昭和五八年一〇月 一日規則第三三号 昭和五九年 三月三一日規則第一六号 昭和六二年 一月三〇日規則第三号 平成 二年 三月三一日規則第五号 平成