• 検索結果がありません。

実存論的視点からの「魔の山」の分析 : 実存的空虚の解決へ向けて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "実存論的視点からの「魔の山」の分析 : 実存的空虚の解決へ向けて"

Copied!
100
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)実存論的視点からの「魔の山」の分析. 一実存的空虚の解決へ向けて一. 学校教育研究科学校教育専攻教育臨床コース. MO1066A. 井上 一三.

(2) 目 次. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 第1章. 1. 「臨床」「実存」「実存的空虚」「実存主義」「主体性」の定義と研究. 方法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 3. 第1節 臨床,実存,実存的空虚,実存主義,主体性・・・・・…. 3. 第2節 対象選択の理由と研究方法・・・・・・・・・・・・・…. 6. 第2章 登場人物の分析・・…. ・8. 第1節セテムブリ一二・…. ・8. 第2節 ナフタ・・・・・…. 12 19 26. 第3節 ペーペルコルン・… 第4節 ハンス・カストルプ・・. 第3章. 登場人物の存在様態の臨床的意味一 実存的空虚の解決へ 向けて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 40. 第1節. 合理主義と実存一二テムブリー二・・・・・・・… 40. 第2節. 啓示信仰と実存一ナフタ(1)・・・・・・・・… 45. 第3節. 全体主義と実存一ナフタ(2)・・・・・・・・… 47. 第4節. Persδnlichkeitと実存一ペーペルコルン・・・・…. 第5節. 超越者と実存一ハンス・カストルプ(1)・・・… 56. 52.

(3) 第6節 主体性および交わりと実存一ハンス・カストルプ(2)・65. 第7節 死と実存一ハンス・カストルプ(3)・・・・・… 71 第8節 要約,実存的空虚の解決へ向けて有効となるもの・・・…. 76. 第4章 実存的空虚の解決に対する文学からの示唆・・・・・・・・…. おわりに. 今後の課題・・・・・・・・・・・・・…. ●●●81. 註(引用文献)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…. 参考文献・・・・・・・・・・・・・・…. 護射辞・・・・・・・…. 77. 85. ’●・●●.’●●●●94. 。・・。・。・・・…. 。…. 。…. 97. ※脚注(i,h,血などの小文字のローマ数字で表記)の説明は各ページの最 後に記述。 ※本文中の註は1,2,3,などの算用数字で表記。註の出典(引用文献)は文末に 記述。. ※漢宇二と仮名遣いについて。引用文献が正字正仮名(歴史的仮名遣い)で書 かれているものは,新字新仮名(現代仮名遣い)に改めて表記した。.

(4) 実存論的視点からの「魔の山」の分析. 一実存的空虚の解決へ向けて一. 専攻. 学校教育専攻. コース 教育臨床コース. 学籍番号 氏名. MO1066A. 井上 一三. はじめに: 「魔のμ」」はドイツの作家トーマス・マン(Mann,T.)(1875−1955)の代表作の一つである。. 若い主人公ハンス・カストルプ(物語の始まりの時点では23歳)の生き方や精神の心裡 を描いた作品であるから,教養小説(Bildungsroman)ということができる。人間的成長 は何らかの教育によってもたらされるものであるが,ハンス・カストルプの場合は登場人 物の一人であるナフタがいうところの「魔術的教育」1(別の個所では「錬金術的教育」2と も表現されている)によって成長していく、,ただし,「魔の山」におけるハンス・カストル プの「成長」は通常の意味での成長ではなく「変容」とでも称すべき内容のものである.,それ. は,この小説の舞台となる『魔の山』が密閉された場所であり,通常の市民社会的な意味 での時間が止まった場所だからである。時間の止まったところには,日常的な意味での成 長や発展は無い。密閉された空間と無時間の中で彼は教育される、,錬金術的教育といわれ. る所以の一つもそこにある。錬金術は限られた容器(場所)の中で多種類の金属を混ぜ合 わせることによって卑金属を黄金に変えようとするものなのだから、この教育の中でハン ス・カストルプは哲学的な才能を花開かせていく,,さまざまな人物,思想や感性を持った 人物たちに取り巻かれて存在や生や時間についての思索を深めていきながら,,錬金術的教. 育は,当時のヨーロッパの思想同士の対話に立ち会わせるといった面も持っていて,若い 主人公にいろいろな方向から精神的刺激を与えていぐ,すなわち「魔の山」は,ユニークな, ひとつの教育物語とも言える作品である、、. ハンス・カストルプは受動的で決断をしない性格であり,精神上の印象に対して感受性 が豊かである。これは現代のわが国の青年の中にもしばしば見受けられる人間像である。. このような人間像は青年にのみ見られるというのではなく,従前に比べて中年期など他の 年代の者にも多く見うけられるようになった。作品の背景となっている時代は,18世紀以. 1.

(5) 降に成立したひとつの時代,言わば旧来型の市民時代が終わりを告げ,それとは異なる新 しい時代がはじまりっつある過渡期の時代である。旧来の社会規範などが激しく揺れ動い ている昨今であることを思えば,この「過渡的な時代」ということは現代と共通している時. 代背景であると言える。登場人物たちの価値観や存在様態は多様であり,このことも現代 人の価値観や生き方・在り方の多様化と相通じる点である、.以上述べた点から考えて,現代 人の生き方・在り方に関する研究を行う場合の素材とするのに適した作品であると考える,, この作品を素材として以下に述べることを目的とした研究を行う.,,. 目的:登場人物たちの言動などに表れた彼らの在り方・思想などを実存の視点(実存 論的視点)から分析した後,その分析結果を応用して実存的空虚を解決するための臨 床的知見を求めること(臨床的に有効な在り方・思想などについての知見を得ること)。 なお,本論文における「実存」「臨床」「実存的空虚」ということばの意味内容(定義)は第. 1章第1節で述べる,,ここで述べておきたいのは,後述するように現代青年の中には実存 的空虚の状態にある者が少なからずいるということである1=,. 因みに本論文は心理学による研究をその内容とするもの(=心理学の論文)であるが,本 論文における心理学とは,ビンススワンガー(BiIlswanger,L.)(1947)の次の言葉にあるのと げニュじヨロタ 同じ心理学を意味している。「人間の学一われわれはこれをいま,広義における心理学. もしくは婁/密命1天ト簡摩となづけよう」3。ビシスワンガーは精神医学者で,臨床の学お よび技法である現存在分析(Daseinsanalyse)の倉1」始者として知られている。. 次に,このような研究を行う意義について述べたい., 諸富(Morotomi,Y)(2002)は「カウンセリングに来る若い世代に,時代の気分がストレー. トに表れている」と述べ,数年前から,一見,元気で優秀,まじめで明るい“普通”の子ど. もや若者たちの内面に広がる漠然とした虚無感を気にしている4。また,「ある中1女子は 『何をやってもつまらない。本当にほしいものもないし,生きていても仕方ない』と打ち 明けた。また『生まれてきた意味が分からない,,でも,血が流れているのを見ると,生き. ているのを実感できる』と,リストカットを繰り返す子も珍しくない,といった事実があ る(神戸新聞,2002)」5。香山(Kayama,R.)(2002)は「『僕って何』『私はなぜ生まれたの』. と問うてくる今の若者」6と述べる。以上に述べたことは,現代日本において生きる意味が. わからないと訴える青年が少なからずいるということを意味している。こうした訴えには 自己にかかわる空虚感とでも言うべきある種のむなしさの実感が伴っている。また,中島 (Nakajima,Y)(2002)は自らが哲学者でありながら,テロリストを撲滅し,構造改革を断行. 2.

(6) し,引きこもりから抜け出しても,「『どうせ死ぬんだ!』と叫びたくなってきた」瞬間的 に自分をごまかしても,『どうせ死んでしまう』という声がどこからともなく聞こえてくる」. と言う7、,こうした現代の精神状況はニヒリズムの蔓延とでも言うべきものである、,竹内 (Takeuchi,S.)(2002)は「今のニヒリズムは簡単には越えられない。一種の人類的な欝であり. 21世紀は,ニヒリズムとつきあうしかない時代」8と指摘している,.こうしたニヒリズムは,. 自分が生きている(或いは生きていく)ことについての価値喪失感と直結しているもので あって,自己の生の意味が見出せないということを意味している、.このニヒリズムにも自 己にかかわる空虚感・ある種のむなしさの実感が随伴している、, 以上に述べた事実は,フランクル(Frankl,VE.)(1967)が言うところの実存的空虚(das existentielle Vakuum)9が若い世代ひいては時代全体の問題となったことを表している., こうした問題に対処する際の一助となる可能性があることが,本研究の有する意義である,,. さらに,実存神経症すなわちフランクル(1956)が言うところの精神因神経症(noogene Neurosen)10への対処にとっても何らかのヒントとなることができれば意義はいっそう深 まるであろう。. 第1章 「臨床」「実存」「実存的空虚」「実存主義」「主体性」の定義と研究方法. 第1節 臨床,実存,実存的空虚,実存主義,主体性 最初に,本論文における「臨床」「実存」「実存的空虚」「実存主義」「主体性」という4つの. 語の定義(意味の明確化)を行う、 まず臨床について。辞書的な意味では「実際の治療・診察にあたること」(新版国語辞典,. 講談社,1984),「実際に個個の病人について,病状の観察・治療をすること」(新明解国. 語辞典第3版,三省堂,1981)などがあり,その他の辞書でもほぼ同様の説明がなされて いる.要するに病人を実際に観察し治療することであって,これが医学的になされれば臨 床医学となり心理学的になされるならば臨床心理学となる,,この場合の病人とは身体的あ. るいは精神的に健康でない状態の人を指すが,換言すれば心身が本来の状態あるいは望ま しい状態にない人といって良いだろう1,ここで個人の在り方・生き方に注目すれば,人が 本来的自己や望ましい存在様態から逸脱している状態は,実存(本節において後述する). の病として捉えることができる。そうした個人の状態を観察・分析して,彼の実存を本来 的なもの或いは望ましいものへと戻したり向けなおしたりする(治療する)ことも臨床の ∼分野であると言える。本論文における臨床とはそういった意味での臨床,ことに治療の. 3.

(7) 部分に焦点を当てた臨床である。こうした臨床は,実存的空虚(この後,本節でその意味 内容を述べる)への対処のために有効なものとなると考える.理由は,本節において後述す. るように実存的空虚が実存に関わる問題だからである、.こういつた意味での臨床は國分 (Kokubu.Y)(1980)が実存主義的アプローチ11と名づけたカウンセリングと近いところに 位置している。. 次に実存について。この言葉はさまざまな思想家によって,多様な意味を付与されてき た、、言わば多義語の一つである。,本論文では,自らの存在様態が本来的な状態あるいは望. ましい状態にある自己,自らが「自分の生を生きている」ということを実感できるべく現実 的,個別的,主体的に存在している自由な自己,という意味を採る、、こうした実存が本論. 文における臨床におけるテーマとなる。したがって,本論文で採り上げる臨床を実存臨床 と称することもできるであろう,、. 次に実存的空虚について、、「実存的空虚」という語はフランクルが用いたものであって,. 自分の「人生に意味を見出せない」12状態すなわち,自分が生きていることの意味がわか らないという状態を意味している、,実存的空虚と言う場合,この状態は「自分の生(自己自 身の生)を生きている」という実感の喪失(自己にかかわる空虚感・麦)る種のむなしさ)を伴. っている、、すなわち,ある哲学者が「この探求こそ自分の生そのものだ」と実感しながら 人生の意味を求めて生き生きと思索している場合や,ある沙門が「これこそが自らの生だ」. と実感しっっ人生の究極の意味を求めて修行しているような場合は,たとえ未だ人生の意 味が見出せていないとしても彼らを実存的空虚の状態にあるとは言わない.,,本論文でもフ ランクルの用いた意味でこの言葉を使っている。「『自分の生(自己自身の生)を生きている』. という実感の喪失」という面と前述した実存の意味とを照らし合わせると,実存的空虚と は実存が本来的な在り方にない状態,すなわち実存が自らの本来的な在り方から頽落して いる状態であると言い得ることがわかるピ換言すれば,実存的空虚とは自己の生に実現す べき価値や意味が見出せないために存在論的・実存的な空虚感に捕らわれている状態と言 える,,それは,まさに実存の病,本来的な実存の頽落態と言えるであろケ:,現代青年の中. に,このような状態に陥る者が少なからずいることはすでに述べた通りである。実存的空虚 が起こる原因としてフランクル(1967)は「実存的空虚は,人間が二つのものを欠いた場合 に生ずるものと思われる。即ち,ひとつは,人間の動物的生命を取り囲む本能的安全性が失. われた場合であり,もうひとつは,かつて人の生活を支配していた伝統が現在では失われ てしまっているという場合である,.」13と述べているが,本論文ではこの原因論までを踏襲. 4.

(8) することはしない。フランクルを踏襲するのはあくまでも実存的空虚という言葉が表す意 味内容のみである。. 次に実存主義について。実存について真摯な思索を行った人々の中にサルトル (Sar廿e,J.P)が名づけたところの所謂「実存主義」の思想家たち14がいる。「所謂」という. のは,彼らの中にハイデガー(Heidegge若M),ヤスパース(Jaspers,K),マルセル (Marcel,G.)など自分の思想・哲学をサルトルらから実存主義と呼ばれることをあくまで拒. んだ人たちがいたからである,、因みに自らの思想・哲学の名称として,ハイデガー(1935) は基礎的存在論15を,ヤスパース(1938;1950)は実存哲学16ないし理性の哲学17を選んだ、, また,フールキエ(Foulqui6,P,)(1961)}ま,マルセルが「もし自分が《イズム》という符牒. に甘んじなければならないとすれば,自分が選ぶのは《新ソクラテス主義》あるいは《キ リスト教的ソクラテス主義》だ」と述べたということを紹介している18。それでもそれら. の人たちは今ではサルトルの例に倣って実存主義の哲学者と一般に呼ばれている,それは 彼らの思想・哲学において,本論文で扱うような意味の実存について深い考察がなされて いるからである。本論文もサルトルの用例に倣う。実存主義はその性格から実存の分析及 び臨床を行うのにふさわしい思想である。. 最後に主体性について。本論文では「主体性」「主体的真理」「主体的な判断」など「主. 体(的)○○」という語が頻出する、それらの語の中で中心的なものとなる「主体性」と いう語について,本論文ではどのような意味を表す言葉として使っているか述べておきた い。主体性をあらわすドイツ語はSubjektivitatであるが, Sublektivitatには主観性とい う意味もある。思想家たちは明らかにSubjektivitatを主体性・主観性の両様の意味をもつ 多義語として用いている。それでは主体性と主観性とはどう違うのか,,また,特に実存主. 義では,主体性という言葉はどのような意味をもつ言葉であるのか.それらについて信太 (Sinoda,S.)(1964)は「主観とか主観性というと,客観や客観性に相対するに認識論的な概. 念となる。(中略)客観内容に対して主観は認識の形式を担うものとされ,理論的な静的な 観察者にとどまっている。(中略)すなわち,主観性は,具体的人間の全機能や行為から抽. 象された意識性を意味している。そのことは,人間が自分自身を対象として意識してゆく 場合にも同じであり,主観性は自己内に深まるか,後退してゆく抽象的な意識性に化する ほかない。ところが,主体性は,行為的な自主性を意味する,,(中略)実存主義では,(中. 略)自己自身の生き方の一切について,つねに主体性を尊重する。実存主義は,たんに客 観的認識をめざすものでなく,実存として自己の真実をいかに生きぬくかということを課.

(9) 題にしているから,たえず倫理的に宗教的に実践的であることを特色としている、:,(中略). 事のなりゆきに自己を忘れて追随したり,他の強制で有無なく走り廻わったりすることは, (中略)自己の真実を決断的に生きぬく自主性を欠くゆえに,主体性があるとはいえない。. 実存主義の主体性は,外見の動きとしてより以上に,内発の自律性に重点が置かれる、,(中. 略)キルケゴールが『主体性が真理である』というのは,この内面的な自主性なくしては いかなる真実も実らず,いかなる事物の生命も深く捉えられないからである,」19と述べて いるが,これは妥当な説明ど言える、、本論文では主体性という語を信太が述べた意味をも つものとして使う。. 第2節 対象選択の理由と研究方法 「はじめに」で,「魔の山」を本論文の研究素材として採り上げる理由を述べた,、本節で. は「魔の山」を採り上げた理由を追加説明した後で,研究方法(研究の進め方と研究手段) について述べる,,. 「魔の山」について関(Seki,T.)(1962)は「『1200ページにわたってくりひろげられる観. 念構図の夢幻的結合』とマンはいい,ジードは『ほかに比較するもののない作品』と評し たこの『魔の山』は,まさに世紀の大ロマーンの一つであって,ゲーテの『ファウスト』 と『ヴィルヘルム・マイスター』,ショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』,ニ. ーチェの『ツァラトストラ』とともに,ドイツが世界に贈った『人生の書』であるという ことができよう」20と述べている1:,また,松岡(Matsuoka,S.)(2001)1ま1970年頃の状況を. 回顧して「ハンス・カストルプはラスコリニコフやジュリアン・ソレルやドリアン・グレ イとともに,あるいはオリバー・ツイストやヨーゼフ・Kやトニオ・クレーゲルとともに 語られていた、,(中略)文学の主人公が人生の代名詞であったからだった、、(中略)文学者. の生き方は主人公に投影され,その主人公を通して人間や社会や恋愛を考える者’が数多く. いた。ハンス・カストルプはそうした者にとって,どうしても欠かせないか,もしくは引 き合いに出したい『ある生き方』を象徴していた。」2ユと述べる.円子(Maruko,S.)(1971) は「魔の山」を「生きることの模索の書」22と呼ぶ,.. すなわち,この小説は,その登場人物たちの思想・行動・発言・感覚・感情・直観など から「人間存在の在り方」「人生の意味」「存在意識の在り方」「人が生きることの意義」な. どについて深く考えさせる作品になっている。主要な登場人物たちは,それぞれが個性的 でリアリティーを実現した存在として形象化されている。このリアリティーの実現は作者. 6.

(10) マンの筆力と人間観察・洞察のカによるものである.因みに,マンは54歳の時にノーベ ル文学賞を受賞している。「魔の山」は37歳から書き始め,49歳の時に出版している1=,ノ. ーベル賞作家が人生経験を積み,人生および世界についての思索を深め,円熟した目で人 間の営みを見ることができるようになった年代に執筆した作品ということができる.、,. 以上に述べたような「魔の山」の性格,その内容の特徴等からも,この作品を実存にかか わる研究の素材として採り上げるのにふさわしいものであると判断した。 次に研究方法について。研究の進め方は次のとおりである,、. ①「魔の山」の主要登場人物であるセテムブリー二,ナフタ,ペーペルコルン,ハンス・ カストルプの思想および彼らの言動に表れる生き方・在り方(存在様態)について実存 の観点から分析する(第2章)1... ②登場人物についての分析結果を考察し応用することによって,実存的空虚の解決のた めの臨床的知見を求める(第3章)。. ③研究の補完・付属として文学作品が実存的空虚の解決にとって有する意味について論 述する(第4章Σ, 以上である,,実存的空虚は実存の本来的な在り方からの頽落態である,ということから して「実存」が研究の中心に位置することになる。. 次に,研究手段(ツール)についで:,本論文では実存主義の思想を多くツールとして研 究を行う、,すなわち,実存の分析・臨床の手段として実存主義の思想を多く用いるという ことである.,,その際ヤスパースの実存哲学をツールとして用いることが殊に多くなろう、,. (前述したようにヤスパース自身,自らの哲学を実存哲学と称していた、,)彼の哲学は諸々. の実存主義思想の中でも,人簡が存在すること・生きることの意味の追求や存在意識の変 革(実存的空虚解決の契機となる)を目指すものだからである,,例えば彼の主著である「哲. 学」(1956)の序説では「私が今,存在とは何か?一何ゆえにあるものが存在して,何も. のも存在しないのではないのか?一私は何者であるか?一私は何を本来的に欲してい るのか?一というように問う場合,私はこのような問いを持って決して発端に立ってい ヘ. へ. るのではない。私は一つの状況の中から,即ち私が過去から現われつつその中に自己を見い だす状況の中から,これらの問いを発しているのである。私自身の意識へと目醒めつつ,私 は私自身を一つの世界の中に見いだし,この世界の中で私自身を位置づける。私は諸事実を 掴んだり,手放したりしてきた。一切は疑うべくもなく自明であり且つ現在していた、.しか. し,いまや私は,本来的に存在するものはいったい何であるか,ということを疑いながら. 7.

(11) 問う.何故なら一切は唯々無常なものであるからである.,私はかつて始めにいたのでもなけ れば,また現在終りにいるのでもない、,まさに始めと終りの問の中にあって私は始めと終り を問うのである,.これらの問いに対して私は,私に拠り所をあたえてくれるような答えをも. ちたいと思う詞23と述べている。また同書の別のところでは「私の存在意識を変革すると ころの思惟が,追求され且つ要請される」24と述べている。上記ほかのヤスパースの言葉か ら,彼の思想が本研究においてツールとして殊に多く用いられることになろうと判断した, いま少し以下に彼自身の言葉(1965)を紹介したい。「哲学は,少なくとも,あざむかれては. ならないことを教える,,哲学はいかなる事実,いかなる可能性をも,傍らへおしのけるこ とを許さない。哲学は一見禍いと見えるものを平然と直視することを教える,、哲学は世界. の中の平穏をみだす。けれども,哲学はまた;禍いを不可避なものと見なすような無分別 を拒む,なぜなら,われわれにとって問題なのは,何が生じるかということであるからで ある,,(中略)ありうべき全体的挫折に直面して,哲学は,没落のうちにあってなお,人間. の品位を守るであろう。真理にもとづいて運命をともにする人たちとの共同体において, 人間は,起こるかもしれない事態へ立ち向かっていぐ=、なぜなら,没落のうちには,無が あるのではない,.究極的なものは,挫折においてもなお愛を失わない人間であり,事物の 根拠に対する不思議な信頼を保ちつづけている人間である」25,,. 第2章 登場人物の分析. 第1節セテムブリーニ セテムブリー二は18世紀のヨーロッパに現れた市民主義者,啓蒙的人文主義者の流れ を引く人物である。以下に彼のそういった面が表されている個所を「魔のL切からいくつ か抜粋する.[以下の文章に於いて,『 』内は登場人物の言葉であり特にことわっていな. い場合はその節の主題となっている人物,たとえばこの節ならばセテムブリー二,の言葉 である。また,(上123)というのは岩波文庫「魔の山」(上下2分冊)1988年忌上巻の123 ページに記載されていることを示している。]「『辛辣は暗黒と醜悪のカにたいする理性の武. 器,もっともかがやかしい武器です。辛辣は,あなた,批判の精神であり,批判は進歩と 啓蒙の根源です.』(上111)」「『わたしは進歩を信じます,もちろんです。』(上111)∬『私. たち人文主義者は,だれも教育者的な素質を持っています、.(中略)人文主義者から教育者. の任務をうばってはなりませんし一また,うばうことはできません1、なぜなら,人間の尊 厳性と美とは人文主義者にのみ伝承されているからです。』(上115)」「『私は理性を尊敬し. 8.

(12) ます』(上,155)」「『理性と啓蒙とは,人類の魂を圧迫していた暗影を吹きはらいました、=,. 一完全にとはまだいえません,理性と啓蒙は今日も暗影とたたかいつづけています,,そ. して,そのたたかいは仕事です,みなさん,地上における仕事,地上のための仕事,入類 の名誉と利害のための仕事です.理性と啓蒙の二つのカは,そのたたかいで日ごとにきた えられて,やがて人間を完全に解放し,進歩と文明の道を日ごとにより明るい,おだやか な,純粋な光明へと近づけてくれるでしょう。』(上174−175)」「イタリア人(セテムブ. リー二)は二人の聞き手の祖国であるドイツにたいして,封建制度の甲冑をがらくたに一 変させた火薬,そして,印刷術がその国で発明されたという理由から,ふかい尊敬を表明 しだ「印刷術は思想の民主的普及,いいかえると,民主的思想の普及を可能にしたからで あった、,(中略)しかし,ほかの民族が迷信と奴隷状態に沈倫しているときに,まっさきに. 啓蒙,教養,自由の旗をひるがえした彼の祖国イタリアに,栄冠が当然あたえられるべき であるとした,(上259)」以上,セテムブリー二が啓蒙的人文主義者であることを示して いる部分をいくつか紹介した,.理性や類としての人類の進歩への明るい信頼,地上(社会). における仕事の尊重,民主的思想の擁護などが見て取れる。そして人文主義者であること. の自認。人文主義とは原文のドイツ語で記せばder Humallismusで,すなわちヒューマ ニズムである。特に,ルネッサンス期のイタリアに起こった思想運動(古代ギリシア・ロ ーマを模範とした,人間の本性としての人間性の発揚を主張した)を淵源とする人間中心 主義をさしている1,,このような18∼19世紀の市民時代に盛んだった考え方は「人類すな. わち類としての人間は,市民としての教養を身につけ,理性的に思考し,迷信を信じるこ とをやめ,人間の本性を開花させ,日々の仕事に励むことによって進歩する,、そうした進 歩に貢献するところに個人の幸せや生きがいがある,.」というものである1=,この場合の「理. 性的思考」というのは,中世を支配していたキリスト教の信仰に基づくものの見方・考え 方に対する概念で,「世界や事物を人間が自分の頭で考えること,とりわけ科学的に考える. こと」を意味している.そしてセテムブリー二ら啓蒙的人文主義者たちは,そうした思考 によって生み出された技術すなわち科学技術が地上の仕事をより生産的で能率的なものに していくことの肯定的な面を強調する,,こうした「キリスト教に代表される,啓蒙的人文. 主義者が言うところの宗教的迷信を脱して,各人が理性的な考えをして,現世の仕事に励 めば人類が進歩し幸福になる。この仕事は科学技術の発達によって,より効率的になされ るようになる」という考え方は素朴で明るいものだが,現代ではナイーブに過ぎる考え方 と言わざるを得ない、,セテムブリー二型の啓蒙的人文主義者が重んじる理性(実際は悟性. 9.

(13) と呼ぶのがふさわしい場合がほとんどである)や人類進歩の観念がもたらしたものの中で,. 中心的な位置を占めるのが科学および科学技術,工業とブルジョア的民主主義の発達であ. る。それらが加速度的に発達した世紀が19∼20世紀であり,そうした時代に起こったの が第1次大戦と第2次大戦であることを考えればセテムブリー二の考え方はナイーブ過ぎ ると言わざるを得ないのである1:、科学技術と工業とブルジョア的民主主義が過度に,そし. て諸国間で歪(いびつ)に発達した結果,列強の帝国主義政策が進展し,その結果として 両大戦が起こった。ファシズムもコミュニズムも,古典的なブルジョア民主主義や科学技 術の進展による工業化や帝国主義の中から生まれてきた鬼子なのである。そうした歴史に 思いをはせる時,セテムブリー二のような人類の進歩への強い信頼を基調とする考え方は 奇麗事といった感を抱かせる.迷信を取り払うことによる人類の本性のうつくしい開花,. 理性(悟性)による人類の進歩などというある種の幻影とでもいうべきものをバックボー ンとするにした個人の生きがいの追及は,脆い基盤の上にたつもの,不確かなものとなら ざるを得ない、,すなわち,現代のクライエントが問いかけてくる「私(という個人)が生 きる意味は何か」という問いや「生きる意味が見出せない」といった訴え,実存的空虚の状 態にあるクライエントの訴えに応えるには不充分であるということになろケ=,. 次に,より実存論的な視点に焦点を当てて,セテムブリー二の思想・行動等に表れる存 在様態について考察したい。「実存は本質に先立っ」26とはサルトル(1946)の言葉である、,. セテムブリー二の思考では,この言葉とは逆に「本質は実存に先立っ」ということになる,. なぜならば,,彼はすべての人間(人間一般)の中にあると想定した理性を中核とする人間. 性(=本質)に信頼を寄せて,その人間性を中世的な迷信から解放し,伸張することによ って各個人が本来的な自己(実存)を実現させることができると考えているからである,, この場合の理性は,前述したように悟性の意味合いが強い,.科学や科学技術などのように,. 悟性の活用により発達したものの一つに官僚的機構がある,,この官僚的機構もヴェーバー (Weber.M.)が詳細に分析したように悟性を使った合理化,合理主義精神がもたらしたもの. である。科学,科学技術,官僚制の発達は啓蒙主義の旗印であった理性(その内実は悟性). の働きである合理化,合理主義の発展の結果だということである.それでは悟性とは実存 論的に考察した詰合,どのような位置を占めるものとして把握できるのだろうか、,また, 悟性的認識のみが過剰となった場合,実存にどのような影響を与えるのだろうか,, 悟性(Vierstand)は元々は理解力の意味であるが,カント(Kant.1.)以降ドイツ哲学にお. いては理性(Vernunft)と区別される,カント(1787)に従えば,悟性は「感性的直観の対象. !0.

(14) を思惟する能力である」27「規則を用いて現象を統一する能力である」28「感性の限界即ち. そのなかでのみ我々に対象が与えられるところの限界をふみ超えることはできない」29な どとされる。それらカントの言葉から判断すると,悟性とは現象界の事象・事物についでの. 科学的認識構成の能力を意味している。したがって,悟性は現象界を超えることができない 相対的・有限的なもの,現象界(経験界)にのみ関与する知性である,,ヤスパースが言う ところの世界定位・を実現させるための能力であって,平たく言えば科学的知の立場におけ. る真理を追究するための能力である,,悟性によって把握される科学的知の立場での真理は ヤスパース(1956)がいう意識一般30の立場において規定されるものであり,打ち消すこと のできない(zwillgend)正確さを有する明確な知識として捉えられる。それは時間に制約さ. れない普遍妥当的な真理として,悟性を持った存在である人問すべてに同一の把握を可能 とするものである,,これは科学的真理がいっでも,どこでも,だれにでも妥当するような 真理であることを考えれば当然のことと言える、この意識一般の立場から個人を捉えると,. 各個人は科学的に識別される何らかの特徴・能力などによって分類されて把握されること になる1,現代社:会では何らかの能力を科学的な心理査定や知能テストなどによって個人が 評価される場面が多い(能力主義社会)1,このような社会は意識一般の立場によって個人を. 評価していると言える。そこでは科学的に評価された能力が同じ者同士は互いに代替可能 な存在として把握される。そして,この能力の評定は企業,学校などの自己以外の組織体 等によって行われる。こうした人間把握が世界に浸透しすぎると,実存が圧迫される事態 が進行することになる。なぜそうなるのか。自由で独自な主体的存在としての個人は互換 性のきく部分で,その存在の意義が認められるようになる.例えば,ある会社で,ある一 人の社員しか操作できない最新式のコンピューターがあり,その社員は会社にとって現時 点ではかけがえのない存在になっているとしても同じ能力を持った新入社員が入社すれば 代替可能な存在になってしまう。こうした互換性を根底に持っている他者からの評価によ って左右される能力主義的な生き方は,主体的・個別的に自らの生を生きるという実存的 生き方からは遠いものである。悟性を使った合理化の過程で生み出され,発展した官僚制 的機構の生活領域への浸透は,人間に実存的在り方を求めるのではなく,機構を維持する ための各人に見合った能力を求める.機構そのものが要請するr機構を守らせようとする働 き」がそうさせるのである.アドルノ(Adorno,ThW)(1970)が言うところの自由に敵対す. ・「世界定位」については第3章第1節の脚注viを参照。 11.

(15) る「他律の機構(Apparat der Heteronomie)」31の問題であり,ヤスパース(1960)が人間. の自発性,自由を妨げるものとして批判した「合理主義(Rationarismus)」32や「容器 (Geh撫se)」33の問題である。すなわち,「合理的容器」としての機構が,まさに閉じ込め. るものとしての「容器」であるがゆえに主体的,個別的な自由存在としての実存を封じ込め るはたらきをするということである、,悟性に信頼をおいた啓蒙的人文主義の帰結としての 合理化がもたらした官僚制機構という「容器」の存在に思いをはせる時,セテムブリー二は 自らの主義について楽観的な見通しを持ちすぎていたと言わざるを得ない:,そして,同じ. く悟性が発達させた科学技術が一般の人間に要求するのも,その技術を使いこなす能力・. 技術を進化させる能力であることを考えると,官僚制について述べたのと同様のことがセ テムブリーニへの実存論的批判として言えるのである。. 第2節 ナフタ イエズス会士にして,現象界を虚無的に捉えるナフタ,,ブルジョア社会を嫌悪し,神の. 国を求める彼。彼によれば,ブルジョア社会は世俗的な欲望を承認するがゆえに,堕落し た社会であって人間を真の人間になし得ない,世俗的な価値や肉体的欲望を否定し,唯一 の実在である神への絶対的かっ敬虚な服従によってのみ人間は存在する意味を見出す、.市. 民的・世俗的な欲望からなる生よりも高貴なのは,それらから離れて唯一の実在である神 へと向かおうとする精神である。個人が世俗的・肉体的欲望から自らのカで脱却するのは 難しいので,強制による世俗的な欲望からの離反が必要である,,そこで,政治はローマカ. トリックの聖職者エリートによる宗教的独裁によるのが望ましい状態と考えられ,その独 裁に従わない者や独裁を妨げるものに対してはチロルも肯定される1.,最終的に実現すべき. は神の名の下で聖職者(ナフタも聖職者である)によって支配された共産主義社会,神と その意志の執行機関である聖職者に従う労働者階級の大衆からなる共産主義社会である.. このナフタの考えはいかにも粗暴で非知性的なもののようであるが,実はセテムブリー二 よりも実存の本質に迫っている部分が多い、.そのことについて述べる前に,ナフタの考え が表れている個所を「魔の山」からいくつか紹介したい。「『プトレマイオスとスコラ派の考. えが正しいとすれば,世界は時間的,空間的に有限ということになります。そしたら神は 超越的存在であって,神と世界との対立は厳然として存在し,人間も二元的存在であって,. 魂の問題は感覚的な面と超感覚的な面との闘争を意味し,すべての社会的な問題ははるか に第二義的なものになります。』(下98)」「『個人の魂の宇宙的,占星術的な重要性から出. 12.

(16) 発する個人主義,人間性を自我と社会との相克として経験せずに,自我と神,肉と精神の. 相克として経験する非社会的で宗教的な個人主義,一このようなほんとうの個人主義は どれほど拘束の多い共同体とも調和します…・』(下107)」「『神の国の創始者であるグレ. ゴリウスー世の時代から,教会は人間を神の統率のもとへ復帰させることを任務と考えて きました。法王の支配権要求は,支配権そのものが目的でなされたのではなく,法王が神 の代理人として行使した独裁権は,人類救済という目的のための手段と道とであって,世 俗的国家から神の国家へ到達するための過渡的形態だったのです:「(中略)神の国家を到来. させるためには,善と悪,来世と現世,精神と権力の二元論は,禁欲と支配とを結合させ た原理によってしばらく止揚されなくてはなりません,,そして,これが私のいうチロルの 必然性です』(下104)」「『教会の長老たちは,「私のもの」「君のもの」という言葉を危険な. 言葉と呼び,私有財産を略奪,窃盗と呼びました、,長老たちは,士地の私有を非難しまし た、,(中略)長老たちは,堕罪の結果である食欲のみが所有権を擁護し,私有財産制を生ん. だのであると教えました.(中略)長老たちは働くことそのものをあまり尊重しない傾向を もっていました1=,なぜなら,働くことは倫理的な問題であって,宗教的な問題ではなく,. 生活のためのことであって,神のためのことではないからです,,そして,問題が単に生活. と経済をめぐる揚合には,生産的な活動を経済的利益の条件,貴賎の標準とすべきである と,かれらは要求したのでした。かれらの目に尊敬すべき人間は農民手工業i者であって,. 商人と機械工業家ではありませんでした。なぜなら,かれらは生産が需要に応じておこな われることを要求し,大量生産をきらったからです、,そこで一このすべての経済原則と 基準とは何百年ものあいだうずもれていながら,近代のコミュニズムの運動となって復活 したのです。この両者の符合は,国際労働者階級が国際商人階級と投機者階級にたいして かかげている支配要求の意味にいたるまで一致しているほどであって,今日の世界で市民 的資本主義の腐敗にたいして人道主義と神の国家とを唱導する世界無産階級がかかげてい. る要求の意味にいたるまで一致しています。労働者階級の独裁時代のこの政治的,経済 的救済の要求は,支配そのものが目的の永遠にわたる支配を意味するのではなく,十字架 のしるしによる精神と権力との対立の一時的止揚,地上支配という手段による地上克服, 過渡性と超越性,すなわち,神の国という意味をもっております。』(下105r−106)」「聡. 明なユダヤ人の多くがそうであるように,ナフタは本質的に革命家でもあり貴族主義者で. もあった。社会主義者であると同時に一誇りの高い上品な,排他的な,伝統的な生活様 式の世界に加わりたい夢を追っていた。(中略)彼はローマ・カトリック教会を高貴である. 13.

(17) と同時に精神的な権力,つまり,反回物的,非現実的,反世俗的,いいかえると,革命的 な権力と感じたのであった、,(下175−176)」「ナフタはイタリア人(=セテムブリー二). が平和と幸福を唱導すると,それを健康と生に執着するのだといって人文主義者を非難し, 肉の愛くamor carnalis),官能の愛(commodorum corporis)だといってやっつけ,生と健 康にすこしでも価値をみとめることは,きわめて市民的な反宗教であるといって面罵した、,. (下184)」「ナフタは,博愛主義者セテムブリー二が血を恐れ生命を尊重する態度をあざ けり,個人の生命尊重が極めて低俗な市民的安易主義の時代のものであって,『安易』をこ. える一つの理念,たとえば,なにか超個人的,超自我的な理念が登場するやいなや,個人 の生命などは,そういうすこしでも熱情的な事情のもとでは,その高い理念のためにいつ もあっさりと犠牲にされるだけではなく,個人自身もすすんでためらうことなく生命を投. げ捨てようとするが,一そういうときこそ人間にふさわしい,したがって,高い意味で 人間の正常な状態でもある。自分の論敵の博愛主義は,とナフタはいった,生命からあら ゆるどっしりとしたきびしいアクセントを取り去り,生命の去勢をめざしていて,その科 学的決定論も同じ去勢をめざしているのである、,(下203)」「彼(=ナフタ)はいった,(中. 略)人間の本性には自由がある,,人間はかくあろうと欲したとおりの人間であり,亡びる までかくあろうと欲してやまないとおりの人間である。(下203)」「彼(=ナフタ)の父. 親は,キリスト教国の粗野な屠殺者よりもずっと繊細で聡明で,かれらが一人としてもっ ていない星のような目をもっていたが,モーゼの立法に従って,意識のハッキリしている 動物にメスを刺しこみ,動物が倒れるまで血を流させるのであった.幼いライブ (=ナフ. タ)には,粗野なキリスト教徒の方法が不徹底な世俗的な善良さにもとづいていて,父親 の手口の厳粛な無慈悲さにくらべたら,神聖なものへの畏敬の念がうすいように感じられ, (中略)レオ(;ナフタ)は,父親がそういう血なまぐさい職業をえらんだのは(中略). 残忍な趣味からではなくて,精神的な意味からえらんだのであり,繊細な体つきにもかか わらず彼の星のような目にあらわれている精神からえらんだのであることをよく知ってい. た(下171)[筆者注:ナフタの父親はユダヤ教徒で,ユダヤ教律法集タルムードの規定 に従ってユダヤの神に犠牲の動物を屠殺してささげる仕事をしていた]。∬ほんとうは神と. 悪魔とは一つであって,人生に対立しているだけである,、一神と悪魔は結び合って宗教 的原理をあらわし,人生,現世的市民性,倫理,理性,徳と対立しているだけである,,(下. 206)」「ナフタは(中略)セテムブリー二二が神と人間との対立をみとめず,人間と言う. 問題,内面的個人の争いを個人の利害と全体の利害の争いとのみ理解し,人生を目的自体. 14.

(18) と考え,非英雄的にも実益のみをねらい,(中略)現世主義的な市民的な倫理性を擁護する. ことを攻撃し,一それに反して,彼ナフタは内面的人間の問題はむしろ感覚的なものと 超感覚的なものとの争いにあることをはっきりと認識していて,その意味で真実の,神秘 的な個人主義を代弁しており,ほんとうの意味で自由と主体の擁護者であると力説した、. (下212)」. 以上,ナフタの言葉と彼の思想を表している部分を引用した。彼はセテムブリー二に比 べて過激で∼般市民受けはしないだろうが,現世に,現世の人生にのみ存在・実存の基底 を求めることのむなしさや無意味さを覚知していた。素朴なフマニスムス,悟性重視の近 代的人間像への信頼に自らの思想の基礎を置くセテムブリー二は善意に満ちて明るい=し かし,前節で記したようにそれはあまりに素朴で浅い人間把握だった。ナフタの場合はそ うした単純な信頼から出発するのではなく,近代的なフマニスムス・単純な悟性信頼に対 する否定,人間存在に確固とした基礎を与えると考えられる神への信仰から出発する1,旧. 約聖書のヨブ記に何ら罪を犯したことがないにもかかわらず神から災いを送られたヨブの 言葉として「われわれは神から幸をうけるのだから,災をも,うけるべきではないか.、(2 章10節)」34「わたしは知ります,.あなた(=主なる神)はすべての事をなすことができ,. またいかなるおぼしめしでも,あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計 りごとをおおうこの者はだれか』。(42章2−3節)」35とある。また,同じく旧約聖書のエ. レミや書に預言者エレミヤが弟子のバルクに語った言葉として「バルクよ,イスラエルの 神,主はあなたについてこう言われる,あなたはかって,『ああ,わたしはわざわいだ,主 がわたしの苦しみに悲しみをお加えになった。わたしは嘆き疲れて,安息が得られない』 と言った、,あなたはこう彼に言いなさい,主はこう言われる,見よ,わたしは自分で建て. たものをこわし,自分で植えたものを抜いている一それは,この全地である、,あなたは 自分のために大いなる事を求めるのか,これを求めてはならない,,(45章2−5節)」36と. ある。このエレミヤの言葉は彼が長い生涯をかけて精魂を傾けてきたことがらがすべて崩 れ落ちるのを見たとき,また,祖国とその国民が破滅し,彼に従う者として最後まで残っ ていた人たちまでがイスラエルの神を裏切ってエジプトの女神イシスに供犠を行ったとき に発せられたものである、こうした信仰,すなわち神が全てであり唯一の実在であって,. 人間も含めて現世のものは一切のものが「神の大いなる栄光のために」あるという考え方 がナフタのものである。この神への信仰に人聞の実存の根を置こうとする態度はセテムブ リー二よりも深いものがある.,,ナフタは実存という言葉こそ使っていないものの,人間も. 15.

(19) 含めた現世のもの一切が移ろい行くがゆえに,そこに確たる存在の根を持つことはできな いと考えているからである。それに対してセテムブリー二は,存在の根拠・実存の根といっ. たことに思い至っていない。ただしナフタの考えが実存にとって本当はどのような意味を もつものであるかということは別問題であるが。ナフタの場合,唯一なる神を信仰しその神. に従うことが正しい,神もそれを望んでいるという考え方から神の命じることには絶対服 従するという態度が要求される。ナフタは前述したように「人間の本性には自由がある」と. 言うが,それは人間の行動についての科学的決定論に反対しての意見にすぎない,,科学的 決定論とは,人間の意志は原因によって全て規定されており,意志の自由を認めるのは, 規定的原因を充分に把握していないからだと考える立場である、.ナフタの言う自由とは神. に従うか従わないか,感覚的・現世的なものに従うかそれとも超感覚的な実在に従うかと 言う意志決定のことであり,神の側にっかないことを選んだ者はその存在価値を否定され てしまう1=,そこには真実の実在である神とその神に対抗する悪魔の方が,浮き草のように. 消えていく現世のものよりも高次の存在であるという意識がある.,前者は絶対的なもの後. 者は相対的なものなのだから,という訳である。ナフタは人間の肉体に対して残酷になれ 歓,その残酷な行為を行うことを可能にするのは決して「安易で低俗な」残酷趣味のため ではない.ナフタは絶対的なものの価値を臆することなく正直に認めるゆえに,「安易で低. 俗な」甘い道徳を心底軽蔑して残酷になれる。彼にすれば肉体など何を配慮する必要があ ろう,、重要なのは霊性である。移ろいゆく物質,肉体に対する霊性の優位を承認するのは,. 絶対なる神に応えるのが人間の霊だからである。18世紀以降の市民主義の発展は現世にお ける肉体レベルの快適さをめざすことを一つの目標とする社会を生んだ,そのような現世 主義は霊よりも肉をかわいがるゆえに,絶対的な神より相対的な人間をかわいがるゆえに 唾棄すべきものである1:,「人問の中には人間性という高貴なものがある」とセテムブリー二. 型の人文主義者は言うだろう,.しかし,その揚合の人間性というのはつまるところ悟性に. 代表される人間の現世的諸能力のことであって,なんら価値を創造し得ない。この場合の 価値というのは,この彫刻には価値があるといった美学的な価値やこの機械には大金を払 うだけの価値があるといった経済的・産業的な価値ではなく,人間が生きること・存在す ることの意味付けとなる価値,生の価値のことである。そういった意味の価値は近代市民. 主義の発展,Humanismusの発展にともなって価値の源泉であった神が実質的に退場する につれて見失われていく事態が進行した.ナフタは言う「人間の堕落についてですが,こ の堕落の歴史は,市民精神の歴史と完全に歩調を一つにしています、(中略)まず第一に近. 16.

(20) 世天文学がそれであって,神と悪魔のどちらもが手に入れようと熱望する被造物の人間を はさんで両者がたたかいあう尊厳な舞台,宇宙の中心であるこの地球を,近世の天文学は 一個の平凡な小さな遊星にかえしてしまい,それによって人間の偉大な宇宙的地位一占星 術の成立を可能にしている基礎である地位を,ここしばらく終結させてしまったのです(下 94)」「純粋認識などは存在しません、,『われは認識せんがために信じる』というアウグス. ティヌスの言葉に要約されている教会哲学は,動かすことのできない真理です、,信仰が認. 識の機関であって,知性は第二義的な存在です.あなた(セテムブリー二)のいわれる無. 仮定的科学などは単なる神話にすぎません,,一つの信仰,世界観理念つまり,一つの 意志がいつも存在していて,理性は単にそれを論評し証明するだけの存在です=,(下96)」. すなわち,ナフタにとっては悟性によって発見される科学的真理などそれ自身では何ら価 値を生み出せないものであるゆえに,それ自身では何ら尊重すべきものではなく,もし価 値の源泉たる信仰に抵触するような場合は否定されるべき次元の真理であるということな のだ.ここで思い出されるのはキルケゴール(Kierkegaard,S.)の次の言葉である。1835年、. キルケゴールが22歳の時、8月!日付の日記に次のように書いている。「私がそれのため ヘ. ヘ. へ. ヘ. へ. ヘ. へ. ヘ. へ. へ. ヘ. ヘ. へ. に生きそして死ぬことをねがうようなイデーを発見することが必要なのだ、,いわゆる客観 的真理などを探し出してみたところで,それが私になんの役に立つだろう.,.(中略)堂々た. る国家論を展開し,あらゆるところがら抜き取ってきたきれぎれの知識をつなぎ合わせて 一つの全体にまとめ上げ,一つの世界を構成しえたにしたところで,私がその世界に生き るわけでなく,ただ他人の供覧に提するというにすぎないのでは,私にとって何の役に立 と久」37このような真理は,それが真理であることを科学的に証明することは難しい,,た. いていの揚合,宗教や信念,劇的体験や感銘を受けた特定のことがらや人間等との選遁な どによってもたらされるものである。キルケゴールの著作に感銘を受けたウィトゲンシュ. タイン(Wittgenstein,L)の言葉として彼から教えを受けたことのあるマルコム (Malcolm.N.)(1958)が次のように書いている。「いちど私(マルコム)がキェルケゴールの. 『キリストが私を救ったことを私自身が知っているのに,キリストが存在しなかったとど. うして考えられようか』といった意味の言葉を引いたとき,ウィトゲンシュタインは『そ れ見たまえ。それは何かを証明するという次元の問題じゃないんだ!』と大声で言ったこ とがある,.」38マルコム(1958)はまたウィトゲンシュタインのことを「彼は,またキェルケ. ゴールを高く評価していた、,『本当に宗教的な人だ』と言った風な表現を使って,何か畏敬. の念をこめてキェルケゴールについて語っていた。」39とも伝えている.周知のようにウィ. 17.

(21) トゲンシュタインは論理実証主義と日常言語分析派に多大な影響を与えた20世紀の哲学 者である,,(論理実証主義や日常言語分析派に属する人々の多くは客観的に表明できない真. 理に触れることを拒否して悟としてかえりみないのではなかろうか=,しかし,ウィトゲン. シュタインはそのような真理の価値を認めることができ,尊敬することができる人だっ た1:,)ともあれ,ナフタに話を戻すと彼の信仰は彼にとっては科学的真理よりも上位にある. 真理だった=,それは彼の実存の根底に据えられた真理であり,彼にとって現世を超越した. 絶対的な真理だったゆえに,その真理が命ずることならチロルも科学の否定もスターリニ ズム的な世界の構築も厭わせないものだったのである,,ナフタには実存の根拠となるもの. への彼なりの確固たる意志が存在した,その意志は彼個人の実存にとって欠くことのでき ないものであった、,しかし,こうした手段をも厭わない信仰は普通の人間にはやはり受け 入れがたい。実存の不可欠性を認識している者にとっても科学的真理はやはり真理である. このことについては,ヤスパース(1956)が著書「哲学」の中で科学的世界定位(£orschende. Weltorientierung)i・として科学的真理の重要性について述べていることを例としてあげる. ことができる。また,ナフタの理想とする神とその代理機関である聖職者に支配された共 産主義社会は窒息的な社会であり,実存が不可欠のものとしてもとめる個人の自由を奪う ものである。前述したようにナフタは人間には自由があると言ったが,自らの意志で,す なわち自由な決断によってナフタが理想とする社会や神に反抗した人間は否定せられると したら,それは実質的には自由がないのと同じことである..またナフタのようにローマカ トリックを信じることを万人に期待あるいは強要するのも無理がある1,ローマカトリック. に真理があるとしても,それは信徒一人ひとりが主体的に選ぶ真理,または主なる神によ って選ばれる者にのみ示される真理であって,科学的真理のようにどの人にとっても否む ことのできない形で伝えられる真理ではないからである,,そういう種類の真理を全ての人. 間に否応なく強制することは,実存の命とも言える主体性を個人から奪うことになってし まう。ナフタ自身にとっては実存の根底を措定し得た彼の思想・信仰も他者にとっては実 存を失わしめるものとなる。当然,ヤスパースの言う人間同士の交わり(実存的交わり)も 実現しない.,,(実存的交わりについては第3章第6節を参照されたい.,)ソビエト連邦の崩. 壊により,スターリニズムが有する個人の自由・主体性への抑圧性が明らかになったが, ナフタの描く社会像はこのスターリニズム国家を髪髭させるものがある.,実質的な個人の. ・ 「科学的世界定位」については第3章第1節の脚注切を参照、, 18.

(22) 自由はソ連にはなかったが,かつてソ連にあった所謂スターリン憲法一スターリン (Stahn,1.)が作成責任者とされる一でも条文上では個人の自由が認められていたことも 思い起こされる。ファウルズ(Fowles,J,)はその小説「魔術師」(1965)の中で次のような会 話を書いている.. 「人類はどうでもいい。裏切ってはならないのは自己です」 「ヒトラーも自己を裏切らなかったとは言えるでしょうね」 「その通りです,,ヒトラーは裏切らなかった。けれども数百万のドイツ人はそれぞれの 自己を裏切った:,それが悲劇なのです:、(後略)」40. ナフタは,この会話にあらわれる悲劇をもたらす可能性を多く孕んでいる.,,. 第3節 ペーペルコルン 「人物(Pers6nlichkeit)」と作品の中で呼ばれるペーペルコルン.、,この場合の「人物」. とは「大物」といった意味である。彼については次のように描写されている、.「この世へ論 理的混乱をもたらすような人物では決してなかった、,(中略)彼(=ペーペルコルン)はそ れとは正反対の人物であった,.(下354)」「彼(=ペーペルコルン)はなにもいわないでし. まったが,彼の顔が文句なくものものしく,表情と身ぶりがカつよく,迫力があり,印象 的であったので,だれも,耳をすましていた、ハンス・カストルプも,なにかきわめて重 要なことを聞かされたように感じ,尻切れとんぼでない具体的な内容を聞かされなかった ことを意識したとしても,だれもそれを物足らなくは感じなかった:,私たちは,『聾者(=. 本論文がテキストとして使用している1988年版の岩波文庫の原文では差別的表現がなさ れているので筆者がこの言葉に替えた)』が聞き手のなかにいたら,どんな気持ちがしただ ろうかと考えるのである,、おそらく彼はペーペルコルンの表情から話の内容までを買いか ぶり,『聾(=同上)』のために精神的な損失をしたように考えて,うらめしく思ったこと だろう、.(下359−360)」「荘漠としているが,印象つよく,人間的に大きい人物(下362)」. 「大きな荘漠たる王者的人物(下368)」「ペーペルコルンの存在が二人の政治家(=セテム. ブリー二とナフタ)の存在を完全に圧倒してしまったのは体の大きさのためだけではなか った。これは人物と比較されるために二人の政治家が圧倒され,影がうすくなり,小さく. なるのであって,一このことは癖者の観察者ハンス・カストルプはもちろんのこと,当 事者たち,つまり,貧弱な二人の饒舌家(=セテムブリー二とナフタ)も尻切れとんぼの 王者(=ペーペルコルン,彼は尻切れとんぼの話し方をする癖がある… 筆者注)も感. 19.

(23) じていた。(下413−414)」「彼(=ペーペルコルン)の立腹は気まぐれな感じではあった. が,彼にはそれがすばらしく似あい,ことにハンス・カストルプはそれをみとめないでは いられなかった。その立腹はペーベルコルンを決して醜くも小さくも見せずに,気まぐれ な感じのために,むしろ大きく,王者らしく感じさせ,(下381−382)」つまり,ペーペル コルンは「支配者的な,(下381)」「貫禄に威圧(下376)」を感じさせる人物,「彼のすべ. てがスケールを,大きな王考的なスケールを持って(下443)」いる人物なのである、次に 彼の考え方・思想・人格を見てみよう1、,「『生は一若い方(=ハンス・カストルプ)一女 性です,押しあう二つの豊満な乳房,たくましい左右の腰にはさまれた柔らかい大きな腹,. すんなりとした腕,肉づきの豊かな腿,なかば閉じた目をして寝ている女性,私たちのも つ最高の熱と力,男性の欲望の弾力のすべてを嘲笑的なすばらしい挑みようで要求し,男 性の弾力がそれに及第するか敗北するかという女性です.,、一敗北する,若い方,これが. なにを意味するかおわかりですか?生にたいする感情の敗北,これはいかなる救いも,あ. われみも,意義もない敗北,容赦なく嘲笑をもってさげすまれる敗北です,一片づけら れ,若い方,唾棄されるのです。・一・この敗北と破産,このおそろしい汚辱には,屈辱 とか不名誉とかいう言葉はおとなしすぎます,.これは終局,地獄のような絶望,世のおわ りです…. 』(下386)」事実,べ一ペルコルンは,病気が進行し,敗北が決定的となっ. た時に自殺する。ナフタの死も自殺であるが両者の自殺は全く異なった性質のものである. が,この違いについては後に述べる,,「カが,とべーペルコルンはいった,物質の世界のす. べてであって,一そのほかのことはすべて第二義的である,,キニーネも薬ともなれば毒 物ともなり,なによりもそのカが特徴である、,(下407)」「『彼(=ペーペルコルン)は僕た. ち(=ハンス・カストルプとサナトリウムの人たち)を一にぎりにできるのです,そして,. 僕たちをちゃかす権利をどこからかあたえられているのです。どこからでしょうか?どう してでしょうか?どういう意味からでしょうか?もちろん利口だからではありません.,,利. 口だからとはほとんどいえないことは,ぼくも認めます,むしろ,彼は荘漠とした人物, 感情の人物であって,感情が彼の表看板です,(中略)彼は利口だから僕たちを一にぎりに できるのではない,つまり,精神的な理由からではないんです,(中略)しかしまた,肉体. 的な理由からでもないんです!船長のようなあのひろい肩,たくましい腕力のためでもな く,(中略)作用が,ダイナミックな作用が働いて,僕たちはみんな一にぎりにされてしま うのです、,それをいいあらわす言葉は一つだけであって,それは「人物という言葉です,, (中略)人物もやはり積極的な価値の一つだと,僕(=ハンス・カストルプ)は考えるんです,. 20.

(24) 一馬鹿とか利口とかよりも積極的な,最高度に積極的な,生命そのもののように文句な く積極的な価値,一言でいうと,生命的価値であって,真剣に取りくむべき価値だと考え るのです、,』(下416−417)」「ナフタは否定と無の礼賛を一セテムブリー二は十年一日の ような肯定と生にたいする親近感とをさけんだ,.しかし,ペーペルコルンを見るだけで,. 一見まいとしても,ひそかな引力で見ずにいられなかったペーペルコルンを見るだけで, 神経,火花,電流はどこへ去ってしまったのだろう?要するに,火花が散らなくなったが, これはハンス・カストルプの言葉を借りると,神秘そのものであった,,(中略)ペーベルコ. ルンは,いつも二つ(セテムブリー二とナフタ〉の傾向のどちらでもあって,彼を見ると,. そのどちらも彼にあてはまり,二つが彼のなかで一つになるようにみえ,こちらでもあり あちらでもあり,あちらでもありこちらでもあったということであった。(中略)この支配. 者的なゼロ!彼はナフタのように混乱と煽動とによって応酬の神経を麻痺させるのではな く,ナフタのように曖昧ではなく,まったく正反対な積極的な意味でつかみにくいのであ った1,(中略)馬鹿とか利口とかを明らかに超越しているのみか,セテムブリー二とナフタ が(中略)持ちだした反対概念をどれも超越していた、、〈下428−429)」「『男性は欲望に陶酔. させられ,女性は男性の欲望に陶酔させられることを欲し,それを待ちうけるのです,で すから男性には感情燃焼の義務があります,感情の貧困,女性を欲望に目ざますことがで きない無力は,おそろしい恥辱です.』(下451)」「『私はくりかえしていいます,だから私. たちは感情燃焼の義務,宗教的義務を持っているのです、、私たちの感情は,いいですか,. 生命を目ざます男性的なカです。生命はまどろんでいます,.生命は目ざまされて,神聖な 感情と陶酔的な結婚を結びたがっています,,感情は,若い方(=ハンス・カストルプ),神. 聖です。人間は感じるから神聖なんです。人間は神の感情の器官です,.神は人間によって 感じようとして人間をつくりました、「人間は,神が目ざまされ陶酔した生命と結婚するた めの器官にほかならないのです1,人間が感情的に無力でしたら,神の屈辱がはじまり,神 の男性的なカの敗北,宇宙のおわり,想像を絶する恐怖になります』(下452)」 以上の抜粋ほかをもとにして,ペーペルコルンについての分析を行う,、彼の特徴を端的 に示すのは「人物(Pers6nliehkeiて)」という言葉である、二.前述したように「大物」とい. ったような意味であり,作中では「スケールが大きい」とも表現されている,,また, Pers6nlichkeitは「人格」と訳すこともできる。本論文ではこのPersδnlichkeitという概. 21.

参照

関連したドキュメント

この説明から,数学的活動の二つの特徴が留意される.一つは,数学の世界と現実の

ベクトル計算と解析幾何 移動,移動の加法 移動と実数との乗法 ベクトル空間の概念 平面における基底と座標系

不変量 意味論 何らかの構造を保存する関手を与えること..

実習と共に教材教具論のような実践的分野の重要性は高い。教材開発という実践的な形で、教員養

第 98 条の6及び第 98 条の7、第 114 条の 65 から第 114 条の 67 まで又は第 137 条の 63

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

[r]

このため本プランでは、 「明示性・共感性」 「実現性・実効性」 「波及度」の 3