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啓示信仰と実存一ナフタ(1)

 本節では啓示信仰と実存について考察し,あわせてナフタの臨床について述べたい。なお ナフタについての臨床は次節でも行う。

 古代から現代にいたるまで啓示宗教は多くの人々の実存的な存在基盤となってきた。個 体としての自己は生まれる前はどこにいたのかわからない。いっ死んでしまうのかもわか

らない。死んだ後どうなるのかもわからない。何が善で何が悪なのかハッキリした基準が欲 しい。不可解なことが偶然発生する人生に偶然を超える安らぎが欲しい。以上のような疑問 や欲求は実存に深くかかわっている。なぜならば,それらは「自分の生を生きている」とい

う意識に,「だがそれはいつ終止符が打たれるかわからない」等の不安や恐れを抱かせるも のに対する問いや欲求だからである。換言すれば現実的,個別的,主体的に自由に生きよう とする自己をおびやかす問いや欲求だからである。そうした問いや疑問に答えるものの一 つとして啓示宗教がある。啓示宗教はその教祖・預言者などの言葉や経典の文言によってそ れらの問いや欲求に答える。ユダヤ教キリスト教,イスラム教などは典型的な一神教の啓 示宗教である。こうした啓示宗教を信仰することを啓示信仰という。ナフタが従うローマ・

カトリックはキリスト教の中に含まれる(ここで留意しておきたいのは,カトリックの信徒 でない者からは当然のものと思われるこの「ローマ・カトリックはキリスト教の中に含ま れる」という表現が,カトリックの熱心な信徒からは肯定されないだろうということであ る。なぜならば,カトリックこそ正しい信仰であると信じるゆえに,ローマ・カトリックこ そ唯一のキリスト教,それどころか唯一の正しい宗教真理を保有している唯一の教団と 捉えるだろうからである。このことについての実存論的考察を後で行う)。

 啓示信仰では,教祖や預言者などによって神から啓示された言葉を信じることが人間の 救いとなる。(バイブルでは言葉のみでなくモーゼが神を見たことまでが記されている。)

こうした信仰に基礎づけられた生き方に自らの生の意味を見出すことはその信仰者個人に とってはその実存的欲求を満たすことになる。理性では捉えられない神を自らの決断によ って信じ愛することにより個人の主体性が充たされる。現実の場面で出会う個別的な悩み を信仰が支える。無神論者であるサルトルは第2次世界大戦中に実在した青年の行動につ いて記したことがある。母親と二人でフランスに暮らすこの青年は,ナチス・ドイツとの戦 いに参加したいと思っていた。彼についてサルトル(1946)は次のように言う.「この青年は そのとき,イギリスに向かって出発し,自由フランス軍に投じるか一つまり母親を捨て

るか,それとも母のもとにとどまり,母の生活を助けるか,どちらかを選ぶ立場にあった。

彼は母親がただ彼だけをたよりに生きていること,彼がいなくなれば一おそらく戦死す るかも知れない一母は絶望にたたきこまれるだろうことをよく理解していた。(中略)二 つに一つを選ばねばならない。しかしだれが選ぶのを助けてくれるだろう。キリスト教の訓 えか。そうではない。キリスト教の訓えはいう.恵みぶかくあれ。汝の隣人を愛せよ。他人の 犠牲となれ。最も苦しい道を選べ,など… 。しかし最も苦しい道とは何か。だれを兄弟の

ように愛すべきか。戦士をか、母親をか。全体のなかで戦うという漠然とした効用と,明確 な或る特定人の生活を助けるという明確な効用と,どちらの効用が大きいか.誰がそれを先 験的に決定し得よう.誰もない.既成のいかなるモラルもそれをいうことは出来ない。」72し かし,層これは無神論者の言葉であって信仰をもっているものならば,こういう時にこそ信 仰がそのカを発揮するというだろう。たとえば,神に祈ることによって,その祈りの中で選 ぶ道が示される。教会へいって神父に神の意志を聴いてもらってその決定に従う。以上のい ずれもが不可能な状態にあって,自分が決断した道を選んだ結果,その選択が失敗だった としても戯悔することによって神に赦していただける,など。こうしたことは無神論者から 見れば信仰者の安易な欺隔的態度に見えるかもしれない。しかし信仰者は時には自らの宗 教・宗派のためには殺人も辞さない。また,信仰を守るために殺されるのも厭わない、,十字 軍やフランスのユグノー大虐殺ジョルダーノ・ブルーノの火刑による死,ローマ帝国皇 帝ディオクレティアヌスなどによるキリスト教徒迫害の際の殉教などがその証である。基 本的に信仰は安易どころではないものである。そうした厳然としたものであるがゆえに信   よ仰に尭り頼むことができるともいえるであろう。言わば「信仰に賭ける」とでもいったもの が要求されている。ヤスパース(1948)は「新約聖書はすでに,何の抵抗もせずに山上の垂訓 を説いたイエスにさえ,私は平和をもたらすために来たのではなく剣を投げこむために来 たのであるという言葉を語らしめている。イエスに従うか否かという二者択一が立てられ,

私に味方するのでないものは私に敵対するものだとされている」73と示唆している。すべて の現象は教祖や預言者が残した言葉やその言葉を「正当に」解釈しているとされる教会の 言葉などの啓示によって説明・了解される。ヘーゲルなどの汎論理主義による世界解釈との 決定的な違いは,根本にあるのが論理ではなく信仰であること,神は信仰の対象としての 人格神であり,その神に向かって祈ことによって何らかの神からの応えを何らかの方法で 聞くということなどである。基本的に啓示信仰とは神と個人との「我一二」の関係である。

神が絶対であるとしても,その神と信仰者の間に関係が結ばれるのであって,汎論理主義

の中に個人が飲み込まれるような関係ではない。その信仰の中で,信仰している者にしかわ からない自由や実存に不安を与える問いや欲求への答が与えられている,そうした信仰に おいては「神のために行う=自己の実存のために行う」と言った境地も生まれるようであ る、,たとえばキェルケゴール(1843)は次のように言う。「一体アブラハムは,何故かく行う か。神のゆえに,また(これとまったく同一であるが)彼自身の故に」74しかし,信仰者が味 わう自由や実存的な充足について考察することは差し控えたい.それはまさに一神教の信 仰にかかわる分野であって,そのような信仰者でない筆者にとっては窺い知れない世界だ からである。たとえば,処女マリアからイエスが誕生したことを信じるといったことがその 世界に含まれているが,こういつたことをキリスト教の信徒でない者が生物学的な見地か ら批判することは信仰への批判としては的外れなものとなろう。これはまさに信じる信じ ないの次元の話だからである,,ナフタは一神教の信仰の世界に生きた、,彼の信仰は彼にとっ ては絶対のものであった。この後の第3節以降でナフタの存在様態について批判がなされ るが,少なくとも彼は彼自身にとって満足できる実存の根を啓示宗教の中に見つけること ができた、その意味では彼の臨床として次のように言える、①ナフタは実存的に生きること ができた。②彼の実存の根は啓示宗教におろされている。啓示を信じることから始まる実存 は,何らかの契機によって信仰をもった者以外には知りえない実存的充足をもたらす(啓示 信仰の無い者には窺い知ることはできない).③ニーチェ(Nietzsche,R)は100年以上前に

「神は死んだ」といったが,現代においても啓示宗教は亡びておらず,ナフタのように啓 示信仰によって生きている者は数多くいる。そうした信仰をもっか否かはその知性の高低 や科学(技術)の発展している地域にいるか否かといったこととはかかわらない。ナフタは 現代に生きても実存的空虚に陥ることはないと考えられる。

第3節  全体主義と実存一ナフタ(2)

  ナフタは全ての人間にローマ・カトリックへの絶対的な服従を強制する、.カトリック

(Katholik)は「普遍的な」を意味する言葉であるが,ナフタはカトリックをまさに普遍的 な宗教と捉えているのである。厳格な信仰を要求する彼は,カトリック教会ひいてはバイブ ルが示す絶対的なもの・実在にのみ存在価値を認めそれ以外のものは無価値としたことは 第2章第2節で述べたとおりである、人間を例にとれば霊と肉では霊にのみ価値があり肉 は無価値である。霊は実在である神に応えるものであり肉はそうではないのだから,と言う わけである。ナフタには「ほんとうは神と悪魔とは一つであって,人生に対立しているだけ

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