ハンス・カストルプが「雪」の章で得た結論の最後のものは「死に誠実な気持を持ちつ づけ」ながら「善意と愛を失わないために,考えを死に従属させないように」することで あった。換言すれば「死」の絶対性すなわち「死」の不可避性を誠実に了解しながら,「死」
に従属せず善意と愛によって交わりを実現することをめざすということである。本節では,
「死」および「死に誠実な気持ちを持ちつづけること」が実存にとってどのような意味が あるのか,また,それらは実存的空虚の解決にとってどのような臨床的意味をもつのか,
ということについて考察したい。
古来,死について多くの人々がさまざまなことを言ってきたのは周知の事実である。キェ ルケゴールが実存としての自己について述べた「自己自身に関係するところの関係である 自己」の立揚から言えば,死においては自己の自己自身に関係する関係の仕方がどのよう なものになっているのかは把握できない。このことはキェルケゴールにのみあてはまるの ではない。人は死んだ後どのような意識状態にあるのかわからないからである。人間が自己 の在り方・生き方について把握できるのは生ある聞のみである.死がそのようなものである から,実存についての考察を行う場合は自己が生きている世界における人間の在り方・生 き方についての論述しかできない。自己意識の在り様やその有無が不明な世界すなわち死 の世界における実存の考察は不可能だからである。実存論的考察に際しては,今ここに生き ている人間の実存にとって死はどのような意味をもっているかという視点から論究するし かない。本論文では,そういった視点から死および死に対して誠実な気持ちを保持すること が実存的空虚の解決にとってどのような意味をもっているか,ということについて論述す るが,そうした論述の前に一種の前書きのようなことをいくつか記しておきたい,,
ヤスパース哲学では,死は苦悩,闘争,負目とともに「個々の限界状況」119のひとつで ある.ヤスパース(1956)は限界状況について次のように述べている,「私がつねに状況のう ちにあること,私は闘争や悩みなくしては生きえないこと,私は不可避的に負目を引受け ること,私は死なねばならないこと,このような状況を,私は限界状況(Grenzsituationen)
と名づける。限界状況はそれ自体変わることがなく,ただその現象においてのみ変化する、,
限界状況がわれわれの現存在に関係するかぎり,究極決定的であ惹.それは概観しえられな い。われわれは,それの背後にはもはやそれ以外の何ものをもみない、.限界状況は,われわ れが衝き当り挫折する壁のごときものである。それらは,われわれの手で変えられるもので なくて,明るみへ出すことができるだけである、しかしそれらを或る別のものから説明した り,導き出したりすることはできない..」120このヤスパースの説明にあるように限界状況 が「われわれが衝き当り挫折する壁のごときもの」とすれば死は最も徹底した限界状況で あると言えよう。それは死以外の個々の限界状況である苦悩,闘争,負目は人知でもってそ れらを回避することはできないにしても,人はそれらに出会った後,どのような結果が到
来したかを知ることができるのに対して,死の後ではその死んだ当人がどうなったかを他 の者は全く知ることができないからである、換言すれば,前述したように死後の世界の有無 や死後の自己意識状態の在り様は生ある者にはうかがいしれないからである。極めて充実
した生き方を送った者にも自堕落に日々を過ごした者にも死は平等に訪れる。死後,両者が どうなるのかは生きている人間で知る者は誰もいない。実存にとっての死は,少なくとも此 岸における実存の終局を意味している。「どのように生きても結局は死で終わる生には意味 がない」これは実存的空虚の状態にある者が往々にして発する言葉である、.こうした発言に 対立するものとして,先に紹介したキェルケゴール(1835)の次の言葉がある。「私がそれの ために生きそして死ぬことをねがうようなイデーを発見することが必要なのだ」。ここでは,
単なる生や死よりも実存にとって重要なイデー,そのイデーのためには生も死も厭わない ようなイデーの存在が措定されている..キェルケゴールでは,そうしたイデーは自己を本来 的な自己である実存たらしめるものとして捉えられている,,生も死もそうしたイデーより 低い位置にある。すなわち実存にとっては「どのように生きても結局は死で終わる生には意 味がない」という言葉自体が,生や死よりも実存にとってより重要であるイデーのことを 考慮していないゆえに,実存にとっては意味のない言葉だということである,そうした無意 味さは,ソクラテス(S◎krates)の「大切にしなければならないのは,ただ生きるというこ
とではなくて,よく生きるということなのだ(中略)〈よく〉というのは,〈美しく〉とか,
〈正しく〉とかいうのと,同じだ」121という言葉の中にも示されている、.ソクラテスにと って,自らの実存を実存たらしめるのは「よく」生きるということであって,ただ「生き ること」ではなかった。この「よく」が「生きること」と対立した際,彼は自ら毒杯を従容とし て飲み平然と死んでいったことは周知のことである。そこでは「死で終わるから生には意味 がない」という言葉自体がなんら意咲をなさない状況が開示されている..
ほかに,死に対しては抵抗し得ないとわかっていても「結局は死で終わるから生はむな しい」という論法そのものが誤っているということを主張した人の一例としてエピクロス
(EpikUros)をあげることができる.彼は「その他のすべてにたいしては,損われることのな い安全を獲得することが可能である,しかし,死にかんしては,われわれ人間はすべて,
防壁のない都市にすんでいる。」122と述べる一方で「また,死はわれわれにとって何もの でもない,と考えることに慣れるべきである。というのは,善いものと悪いものはすべて感 覚に属するが,死は感覚の欠如だからである。それゆえ,死がわれわれにとって何ものでも ないことを正しく認識すれば,その認識はこの可死的な生を,かえって楽しいものとして
くれるのである,というのは,その認識は,この生にたいし限りない時間を付け加えるの ではなく,不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。なぜなら,生のないとこ ろには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した入にとっては,生きることにも イ可ら恐ろしいものがないからである,」123と述べている,.エピクロスは古代ギリシャの原子 論的唯物論者であるが,死についての彼のこの考え方は現代の唯物論者の多くも賛同する のではないか。このエピクロスの論法は「死で終わるから生には意味がない」という観念に より実存的空虚に陥っている者への唯物論からの一つの解答例と言える。
以上,前書きのようなことをいくつか述べた。次に本題である「今ここに生きている人間 の実存にとって死はどのような意味をもっているかという視点」からの論述,そういった 視点からの「死および死に対して誠実な気持ちを保持することが実存的空虚の解決にとっ てどのような意味をもっているか」ということについての論述を行う、,
ハイデガーは主著の一つである「存在と時間」(Sein und Zeit)(1927)の中で,死について の実存論的分析を行った。その結果,死の本質的特徴について3点を抽出した.それらを要 約すれば次のようになる。①死は追い越せない.すなわち生きている人間は死の後で何かを することはできない,②死は交換することができない。すなわち自分の死は確実にやって くる。終局的には他者に代理で死んでもらうわけにはいかない二,③死は自分ひとりに関わ るものである。すなわち人間は死に際しては独りである。死の瞬間では人間は独りであ る,、;以上の3つである。人間は未来に死を控えた有限な自己であり,自らの死を引き受 けるという宿命を背負っている自己だということである。こうした結論はヤスパースが言
う「限界状況」としての死をより分析的に捉えたものと言える,、ハイデガーの分析やヤスパ ースの考察から明らかなことは,自己の死が自己自身に決定的に関わるものであって,生 きている自己が逃れ得ない究極決定的なものであることである。本来の自己である実存に とってこのような死は決定的に自ら(自己)が引き受けるところのものである、,すなわち 本来的に未来の自己が引き受けるもの,それが死であ惹,このことは死が自己固有の可能 性(自分自身が引き受けることを逃れられない可能性)の一つであることを示している、、
可能性という肯定的なイメージをもつ語を使用する理由は次のようなことによる。もし,
時間的に無限に生きる者がいるとすればそうした者にとっては,「今」「ここ」での本来的 な生き方・在り方をするのに不可欠な決断が真剣さを喪失することにつながってしまう。な ぜならば,無限の時間を生きる者にあっては,一瞬一瞬の時間のもつ意味,かけがえの無 さといったものは意識されがたいものとなるからである。現実の個々の場面において主体