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政 治 的 体 験 の 概 念 と 精 神 科 学 的 方 法

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(1)論. 説. 政治的体験の概念と精神科学的方法 スメント憲法理論再構成の試み. 憲法理論としてのスメント理論. 4. 3. 2. 1. 小括︵以上︑七四巻四号︶. 政治的体験と国家思考. いわゆる精神科学的方向. いわゆる精神科学的方法. ︵三︶. スメント憲法理論の実践的意義. 宅. 1. 三. 2. 科学観︑真理観. 3. 2. 小括. 精神諸科学の解釈学的基礎. 精神諸科学の心理学的基礎. 結論と展望. スメント憲法理論の再構成. 4. 1 現実科学としての精神諸科学. スメント憲法学説の哲学的基礎. スメント憲法理論の理論的意義. 1. 大学観︑ベルリン大学︑ゲッティンゲン大学. スメント理論の問題視角. 4 本稿の目標・行論. 3. ︿目次V. 序論. 一. 2. 憲法学説︑法史学︑教会法学 小括︵以上︑七四巻二号︶. 3. スメン ト 憲 法 学 説 の 全 体 構 造. 4. 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶. ニ. 三 四. 雄. 彦. ︵以上︑本号︶. 四四七.

(2) スメント憲法学説の哲学的基礎. 早法七五巻二号︵一一〇〇〇︶. 三. 四四八. 本稿は︑まず最初に︑憲法危機の打開の為︑憲法核心の徹底吟味と憲法解釈の指導誘導の学問分野としての憲法. 理論の存立に論及し︑この憲法理論の神髄としてのスメント理論の地位に言及した︵序論︶︑そして︑スメントの. 科学観︑大学観︑法史学︑教会法学の連関からスメント理論の核心に生の観点を突き止め︵一︶︑続けて︑精神科. 学的方法と︑政治的体験と国家思考の関連から︑ディルタイ哲学への突破口を探し当てた︵二︶︒今や︑その次に︑ ︵1︶ スメント憲法理論解明の鍵を捜索する為に︑ディルタイ哲学の全体構造を探索しなければならないが︑その際︑特 ︵2︶ に︑スメント﹁政治的体験と国家思考﹂と︑ディルタイ﹃体験と詩作﹄のパラレリテートが︑この捜索と探索の為 の糸口となるであろう︒. ﹇﹃序説﹄における精神諸科学の基礎づけの試み﹈ところで︑この﹃体験と詩作﹄という書物の真意を知るに. ﹃精神科学序説﹄の主要目的と全体構造. 1 現実科学としての精神諸科学 一. ω. は︑これをディルタイ自身の精神諸科学の哲学的基礎づけの文脈に位置づける必要がある︒つまり︑一九六〇年代 ︵3︶ ︵巴 以降のディルタイ研究の進展と︑遺稿の編集︵ディルタイ全集一五〜二一︑壬二巻︶の公刊で判明した事項だが. ︵Oρ図≦戸蝕−図崔︑従来のディルタイ観の如く︑彼を︑著作を悉く未完成にする︑体系的思考能力を欠いた哲学.

(3) 者︵﹁謎の老人﹂︑﹁第一巻の人﹂︶︑哲学史︑美学史︑芸術史を﹁緻密に冒のぎ巴目蒔﹈﹂に描写する単なる精神史家︑. ︵6︶. 更には︑客観的認識を丸ごと生へと溶解させる︑非合理主義的な生の哲学者︵リッケルト︑フッサール︑シェーラ ︵5︶ 1︑ルカーチ︑リーバー︑マルターゼなどの理解︶︑生と科学の緊張を自然科学的発想で解消する客観主義者︵ハイデ. ガー︑ガダマi︑ハーバマスなどの理解︶︑こう理解するのはどれも誤りであり︑そうではなく︑ディルタイの著作 ︵7︶ は︑その全てが︑彼の認識理論上の諸々の探究と関連づけて理解しなければならない.実際︑﹃体験と詩作﹄自体︑. 元々個別に公表済みの︑レッシング︑ゲーテ︑ノヴァーリスの論文三編と︑﹁新たに追加された﹂ヘルダーリン論. 文からなる︑精神史上の﹁論文集﹇留筥ヨ一目巴﹂であるものの︑実は︑この書物全体には︑ゲーテ論文︵﹁ゲーテ. と詩作的空想﹂︶で論及される﹁内的連関﹂が︵国P㎝︶︑即ち﹁精神諸科学を︑記述心理学﹇又は︑実在心理学. 冤$甘亀魯90ひq邑﹈で基礎づける﹂考え方︵︒︒輿く讐﹂ま山轟曽㌣曽ρ<管Oρく﹂ま︶が︑一貫した問題意識とし. て内在しているのである︒. 従って︑この﹁体験と詩作﹂の検討は︑必然的に︑この﹁精神諸科学の基礎づけ﹂の解明を前提とするが︑そう. なれば︑ここでは︑まさにこの基礎づけ作業を行う︑ディルタイの主著の一つ︑﹃精神科学序説ー社会と歴史の研. 究の為の基礎据えの試み﹁田巳蝕9鑛営象Φ○蝕ω叶8三ω器謬号臥9pくRω8びΦぎR9§色Φ磐轟隔自厩量ω誓&賞筥. αRO霧色鶉富津仁且○①ωo匡昌鼠﹈﹄全二巻︵一八八三年︑一九八二年︶を検討することが必要となってこよう︒. ω ﹇﹃序説﹄の主要目的﹈ところで︑この﹃序説﹄は︑その一巻と二巻全体で哲学上の如何なる間いを問い︑そ. の問いを如何なる道で問うているのか︒﹃序説﹄の検討対象と検討方法は︑﹃序説﹄一巻の﹁まえがき﹂︑とすれば. 四四九. ﹃序説﹄全体の﹁まえがき﹂の中で明らかにされているから︑この主著の内容を詳細に検討する前に︑まずはこの 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(4) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. ﹁まえがき﹂を手掛かりに本稿が獲得を目指すべきディルタイ哲学の内容の概観を予握しておく︒. 四五〇. 最初に︑ディルタイは︑﹃精神科学序説﹄の課題を︑﹁精神諸科学の哲学的諸基礎への問いを︑自分にとり達成可. 能な最高の程度の確実性をもって解決すること﹂であるとする︵Oωレ図<︶︒つまり︑﹁序説﹄では︑その考察対象. を︵ア︶﹁精神諸科学の哲学的基礎への問い﹂に見据えて︑その解決方法を︵イ︶﹁自分にとり達成可能な程度の確. 実性﹂に見定めているのである︒となれば︑この精神諸科学の基礎への問いが出現する事情︑そして︑このできる 限りの確実性の歩みが保有する内実︑これがまずもって問題となろう︒. まず︑︵ア︶﹁精神諸科学の哲学的基礎への問い﹂は︑次のような問題状況から出現してくる︒つまり︑ディルタ. イによると︑①中世末以来︑﹁個別諸科学の解放﹂が開始され︑﹁社会と歴史の諸科学冨①﹇名一ωω窪零富津窪﹈αR. O①ω亀零訂津琶α080匡畠辞①﹈﹂︑即ち︑精神諸科学の解放も︑形而上学への奉仕︑自然科学への服従への後︑次第. に散見されるようになってきた︵Oω﹂ 莞︶︒この﹁歴史的意識と歴史的科学の解放﹂を初めて打ち立てたのが. ﹁歴史学派冒ω8誘魯Φω畠包①﹈﹂である︒﹁ヴィンケルマンとヘルダi﹂︑﹁ロマン主義学派﹂︑﹁二ーブール︑ヤコ. プ・グリム︑サヴィニー︑ベック冨o良三﹂といった歴史学派の学者たちは︑﹁歴史的成長を︑全ての精神的諸事. 実の中の過程として直観し﹂て︑一方で﹁個別の事態の価値をただ﹇歴史的﹈発展の連関からのみ確定しようとす. る︑歴史考察の普遍的精神冒三<Rω巴ROの翼αRO①ω98窪筈o霞碧げε鑛﹂﹂と︑他方で﹁現在の生には説明と規. 則を過去の研究の中に求めようとする︑社会論の歴史的精神﹇鳴零霞魯島3RO虫ω什αROoωΦ房魯臥邑Φぼ①﹈﹂と ︵8︶. をもって︑新しい理念を打ち出したのである︵x糞︶︒しかしながら︑②この歴史学派は︑﹁理論を具体的形成する. こと﹂も﹁﹇現在の﹈生へ影響﹂を及ぼすこともなかった︒何故なら︑歴史学派には︑﹁究極の審級に確保される.

(5) 確実な知識に基づく基礎づけ︑端的には︑哲学的基礎づけ﹂が欠如していたからである︵図色︒. ﹁精神諸科学の基. 礎についてのそのような不安定﹂状況が継続しているからこそ︑この基礎づけの欠如の間隙を縫って︑﹁歴史的世. 界という謎を自然科学上の諸原理と諸方法の導入により解決せんと試みる﹂︑コント︑ミル︑バックル窃唐匹Φ﹈. の諸業績が幅を利かせ︑それと共に︑﹁単なる記述﹂や﹁気の利いた主観的な統握﹂で満足し︑﹁形而上学への軍門. に下る﹂という︑個別科学者の妥協的態度が後を絶たないのである︒いまや︑③そういった事態とは手を切って︑. ﹁歴史学派の原理と︑歴史学派によってアリアリと徹底して規定された︑社会の諸科学の作業とを︑哲学的に基礎. づけ﹂︑そして﹁この歴史学派と﹇啓蒙主義的﹈抽象的諸理論の間の論争を調停する﹂作業が︑つまり﹁精神諸科. 学の一つの基礎据えの欲求と計画﹂が必要となる︵砦ε︒いわば︑﹁精神諸科学の哲学的基礎への問い﹂を真剣に. 取り上げることが差し迫った課題として現れているのである.要するに︑ディルタイによると︑歴史学派により︑. 精神諸科学の分化独立という成果が打ち立てられながらも︑未だ︑精神諸科学独自の理論的基礎づけが供給され. ず︑その結果︑再び︑精神諸科学の自然諸科学への吸収︑形而上学への合併という窮状が打ち出されるに至ってお ︵9︶ り︑故に︑そのような精神諸科学の哲学的基礎づけが喫緊の課題として差し出されているのである︒. その次に︑︵イ︶この﹁精神諸科学の哲学的諸基礎への問い﹂の﹁ディルタイにとり達成可能な程度の確実性に. よる︑解決﹂とは︑次のような方針選択から規定されてくる.まず︑④コントら実証主義者︑ミルら経験主義者た. ちによる︑この問いへの解決の試みでは不十分である.なぜなら︑彼らによる﹁答え﹂では︑﹁歴史的現実が切り. 刻まれ﹇<Rω葺巨B色9﹈︑歴史的現実が自然諸科学の諸概念と諸方法に押し込め﹂られてしまうからである︵09. 四五一. Hヌ昌︶︒そうではなくて︑⑤﹁哲学の全体的根本﹂は﹁意識の諸事実の連関﹇浮鐙Bヨ①昌餌轟α段↓簿銘39号ω 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(6) 早法七五巻こ号︵二〇〇〇︶. 四五二. ω①名島房虫霧﹈﹂の中に︵葦邑︑即ち︑精神諸科学の﹁確固たる投錨点﹂は﹁専ら︑内的経験の中︑意識の事実の. 中に﹂求めなければならない︒というのも︑﹁全ての科学は経験科学であ﹂り︑﹁全ての経験はその始源的連関とそ. れにより規定される妥当とを︑その諸経験が出現するところの︑我々の意識の諸条件の中に︑即ち︑我々の本性の. 全体の中に︑有している﹂からであり︑﹁目がなくては見えず︑目自身の後ろに認識の眼差しを向け﹂はできない. ように︑意識の事実という﹁この諸条件の背後に遡る﹂ことなど無理な相談であるからである︵砦芦罐一●<し︶︒. ﹁生は生自身から解釈せねばならない﹂︵薯℃る︒為︒葛P嵩①口︒︒ρ≦H﹂琶︒しかしながら︑⑥意識の事実に哲学の. 根本を据えるとしても︑ロック︑ヒューム︑カントら﹁認識理論学派﹂たち︑とりわけカントの﹁経験主義的認識. 理論﹂による︑意識の諸事実の連関の探究の試みでは不十分である︒なぜなら︑彼らの取組みでは︑﹁経験と認識. が︑単なる表象に属する事態から説明﹂されるのであり︑その意味で︑﹁ロック︑ヒューム︑カントが構成した︑. 認識する主体という血管の中に流れるのは︑現実の血ではなく︑単なる思考活動としての理性という薄められた体. 液でしかない﹂のである︵Oωレ莞崔︒そうではなくて︑⑦﹁現在の抽象的︑科学的思考のあらゆる構成部分﹂の. 解明は︑﹁全体的人間本性﹇覧自Φ冨窪ω魯窪轟9二﹂から展開しなければならず︑﹁現実に関する我々の像と我々. の認識の最重要の諸構成部分﹂の説明は︑﹁意思作用︑感得作用︑表象作用﹂ではその一つの側面しか見せない. ﹁実在的生プロセス﹂であるような﹁この全体的なる人間本性﹂から展開しなければならず︑我々皆が哲学に向け. なければならない諸々の問いへの回答は︑﹁凝固しアプリオリな︑我々の認識能力﹂からではなく︑﹁我々の本質の. 全体性より出発する発展史冨導&o匹§甥鴨零匡9冨﹈﹂から展開しなければならないのである︵莞豊︒ここで. は︑単なる悟性は﹁抽象的人間﹂に過ぎず︑意思し感得し表象する﹁人間全体﹂こそが﹁具体的人間﹂であるとの.

(7) 考え方が示唆され︑更には︑強い個人も弱い個人も共に理性的人間であり︑意志と感情と思考の生の機能全てを包. 括する全体的人間であって初めて具体的人間を語ることができるとの考え方が暗示されるのだが︑要するに︑ディ. ルタイによると︑精神諸科学の哲学的基礎づけという問いは︑実証主義の道ではなく︑﹁意識の事実﹂からの道を. 歩み︑しかもそれでいて︑単なる悟性ではなく︑人間全体から出立しなければならない︵く鵬rO9≦戸一置山お︶ 図H〆ω○︒Oご︒. 結局のところ︑﹃序説﹄は︑その﹁前書き﹂から判明する限り︑全体を通じて︑︵ア︶精神諸科学の独立化を目指. す歴史学派の功績を基礎づける為に︑精神諸科学の基礎据えを間い︑︵イ︶意識の諸事実を根本に据え︑しかも単. なる悟性でない全体的人間の視座から︑可能な限りの確実性を求める訳である︒勿論︑ここには︑精神諸科学と自. 然諸科学の境界づけの視点︑心理学による精神諸科学の基礎づけの観点︑外界の実在性への我々の確信の問い. ︵Oωレ図昌5︑歴史哲学と社会学の拒否の論点など︑その哲学の核心的問題が数多く予告されるが︑少なくとも︑. この﹃序説﹄をその論理展開を見失わぬよう丁寧に追跡すれば︑自ずと︑精神諸科学基礎づけの問題背景と解決方. ﹇﹃序説﹄の全体構成﹂それでは︑﹃序説﹄一巻と二巻の全体の論理の展開は如何なるものとなっているのか︒. 針は明らかになるように思われる︒. ⑥. それは︑﹃序説﹄一巻前書における︑ディルタイ自身によるこの書物全体の簡略な構成予告により︑明らかとなる︒. まず︑ディルタイは︑精神諸科学の哲学的基礎づけというこの作業を︑﹃序説﹄﹁上巻﹇Rω叶①=巴津色﹂で﹁歴. 史学的手続﹂を適用し︑﹃序説﹄下巻で﹁体系的手続﹂即ち﹁認識理論的基礎据え﹂を展開して︑この﹁歴史学的. 四五三. 描写と体系的描写﹂を相関させて論を展開するという方針を採用する︵○ρ押莞︶︒つまりは︑この﹃序説﹄全体 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(8) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四五四. は︑上巻の歴史的手続と下巻の体系的手続の二つの手続から編成されているのである︒ヨリ詳細に観察すると︑ま. ず︑第一巻第一部では﹁精神の個別諸科学を概観﹂し︑そこで﹁この作業全体の幅広い素材とモチーフ﹂を確認 ︵10︶. し︑第二部では﹁知識の確たる基礎を求める哲学的思考の歴史﹂を通覧し︑特に﹁形而上学的基礎据えの﹇繁栄と. 没落の﹈運命﹂を鳥轍する︒そして︑第二巻第三部では﹁個別諸科学と認識理論の研究﹂の歴史的経過を見て︑. ﹁現在までの認識理論的諸作業﹂を描写し且つこれを判定し︑続けて︑第四部と第五部では︑以上を受けて﹁精神. 諸科学の︑独自の︑認識理論上の基礎据え﹂を試行する︵Oρ押臥図︶︒尤も︑厳密に見れば︑第一巻を歴史学的手. 続担当︑第二巻を体系的手続担当とする区分は︑実は︑第一巻第一部が寧ろ体系的手続の先取りであり︑第二巻第. 三部は寧ろ歴史手学的手続の継続であるし︑また︑その後の研究進展を考慮に入れれば︑この予告された全五部編 ︵11︶. 成は︑後に︑第六部が追加されて︑第四部を認識理論担当︑第五部を論理学担当︑第六部を方法論担当とする区分. に変更され拡張されるから︑この前書での計画は︑結果的に必ずしも﹃序説﹄の全構成を再現するものではない︒. しかしひとまずは︑第一巻第一部では︑精神諸科学を概観すればそれらには哲学的基礎づけが必要不可欠であるこ. とが︑第一巻第二部では︑精神諸科学を哲学的に基礎づける一つの選択肢としての形而上学が歴史学的には破綻崩. 壊することが︑そして︑第二巻では︑精神諸科学を哲学的に基礎づけるもう一つの選択肢としての認識理論︑論理. 学︑及び方法論が体系的に建設構築されることが︑それぞれ順を追って論証される訳である︒. 勿論︑この﹃序説﹄自体には︑①一八八三年以降の続刊が︑歴史的手続がその研究成果が﹃序説﹄編入に適せぬ ︵12︶. 程膨大化し︑体系的手続がその核心を成す記述分析心理学への専門心理学者による徹底批判により頓挫して︑結局. 未完成に終わること︵Oρζ〆葵蚤<−図藁琶︑②ディルタイ自身が断念した﹃序説﹄計画は︑いわゆる﹁ブレスラ.

(9) ウ完成稿﹂や﹁ベルリン草稿﹂を中心に全集一九巻で復元されたものの︑厳密な文献批判の結果︑その復元は矛盾. なき統一的把握を困難とする複雑な形態を採るに至ったこと︵Oω︒ζ〆臥−尊崔︑③﹃序説﹄編成に対応する︑デ. ィルタイ自身の諸々の副産物的作業が︑﹃序説﹄計画理解に有益としても︑特に参照すべき作品は︑全集二巻︑五. ︵13︶. 巻︑六巻︑七巻︑八巻などに分散し︑しかも︑これにディルタイの前期・中期と後期の関連問題が付着し続ける. こと︵09酋〆昌豪ヨ図〆臥図h︶︑これら諸々の解釈上の大問題がある︒だがしかし︑本稿では︑ディルタイ全集 ︵14︶. の編者︑ディルタイ年報の編者の︑諸々の権威の意見に耳を傾けて︑ディルタイによる精神諸科学の哲学的基礎づ けの概略獲得に努力することにする︒. ㈲ ﹁小括﹈結局のところ︑﹃体験と詩作﹄からの﹁政治的体験と国家思考﹂解明には︑ディルタイ哲学の精神諸. 科学の基礎づけ作業の精査が必要であり︑その為には︑歴史学派の功績の哲学的基盤整備を図り︑意識の諸事実と. いう確実な地盤確立を目指す︑﹃精神科学序説﹄全二巻の考究が特に必要となる︒そこで︑以下では︑ディルタイ. 自身にその哲学を語らしめる為に︑また︑彼の名と結合する様々な術語に無造作に飛びつき︑全体な論理を見失わ. ぬ為に︑基本的に﹃序説﹄全体の編成に沿って︑論の展開を試みることとする︒従って︑まずは︑精神諸科学が歴. 史的社会的現実全体を考究する科学領域であり︑そこから︑精神諸科学の認識理論的基礎づけなる基本要請が出現. することを検査し︑次に︑精神諸科学が︑生︑体験から出発し︑それでいて了解も故郷とする科学であり︑そこか. ら︑独自の認識理論︑論理学︑方法論からなる全体構成が出現することを吟味する︒前者の作業からは︑スメント. 四五五. の国家現実︑憲法現実︑法現実の把握に哲学的基礎づけを提供する成果が予想され︑後者の作業からは︑スメント の具体的人間像による憲法学説の構築を射程に入れる成果が予想される︒ 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(10) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 二 精神諸科学における﹁精神﹂と﹁科学﹂. 四五六. 最初に︑ディルタイは︑﹁精神の個別諸科学の連関についての概観﹂を展開して︑これら諸科学の﹁基礎据えを. 行う︑一つの科学の必要性﹂を描写する︵○ω狐る︶︒つまり︑そもそも精神諸科学の確立を目指す歴史学派の作業. ﹇精神諸科学の境界づけ﹈まず︑ディルタイは︑精神諸科学の問題領域を境界づけることから︑議論を出発. が︑精神諸科学の如何なる問題状況から要請されるかを︑検討する訳である︒. ω. させる.彼によると︑﹁精神諸科学﹇○Φ醇霧ヨωω窪ω9臥富三﹂とは︑﹁歴史的・社会的現実をその対象とする諸科. 学の全体﹂︑即ち﹁人間︑歴史︑社会の諸科学﹂のことである︵Ooo﹂鴇県︶︒もっとも︑ここではこの概念内実それ. 自体の充填のみが問われるのではなく︑まさに︑この精神諸科学自身が︑﹁生そのものの実践の中で成長し︑職業. 教育の諸々の要求により展開され﹂︵§︑しかも︑法学や政治学の成立が物語るように︑﹁響導的諸身分の職業教. 育の必要﹂から﹁諸々の包括的科学的理論﹂へと展開されたものであるとして︵量︑精神諸科学の学問史も論及. 対象となるのだが︑ここでは︑検討範囲を︑先の精神諸科学の概念規定そのものに自制することにする︒. 図 ﹇精神諸科学における﹁歴史的社会的現実﹂﹈この歴史的・社会的現実の科学としての精神諸科学という考え. 方は︑仔細に見ると︑これらが﹁精神﹂の科学であることと︑精神の﹁科学﹂であること︑この二つの点で重要で ある︒. まず︑①一つめに︑精神諸科学が﹁精神﹂の科学であるというのは︑これが﹁歴史的・社会的現実の全体﹂を取. り扱う科学であることを意味する︵09一る㎝︶︒つまり︑﹁歴史的・社会的現実﹇ひq①ωo匡9島9−鴨ω①房魯餌塗8冨.

(11) ≦首巴一魯訂三﹂︵﹁人間的・歴史的・社会的世界﹂︵Oρ≦一レ︒︒一﹂︒ ︒ ①︶︶とは︑ある側面から見ると︑過去と現在を通. じて未来へと己れを展開する︑歴史的現実の全体であり︑また︑別の側面から見ると︑諸々の個人の相互作用が織. り成す︑杜会的現実の全体である︒一つには︑社会の﹁現在の状態﹂は﹁以前の状態の結果﹂であり︑同時に﹁次. の状態の条件﹂となるし︑﹁今の瞬間の﹂社会の状態も﹁次の瞬間は既に歴史とな﹂っているし︑﹁ある与えられた. 瞬間に社会の状態を描写する﹂あらゆる断面は︑﹁歴史的状況として考察﹂されるから︑現実は﹁己れを展開して. ゆく全体﹂として︑即ち︑歴史的現実として見なければならない︵ω㎝一︶︒また︑もう一つには︑個人は︑社会とい. う﹁出来事の流れ﹂の中で︑一要素として出現し︑他の要素と﹁相互作用﹇≦09ωΦ芽一詩巨巴﹂を成しているし︑. しかも︑個人は︑巨大で多種多様で錯綜した社会の構造につき殆ど何も知らずに社会に生まれ出で︑死に逝く存在. であるから︑現実は諸個人の相互作用の全体として︑即ち︑社会的現実として見なければならない︵ω︒︶︒いわば︑. 精神諸科学の対象たる現実とは︑瞬間の連続展開という点で﹁歴史的﹂現実であるとともに︑個人の相互作用とい ︵15︶ う点で﹁社会的﹂現実であって︑この二つの意味が融合して﹁歴史的・社会的現実﹂となる訳である︒もっとも︑. ②そうすれば︑この歴史的・社会的現実に関わる科学は﹁精神諸科学﹂と名づけるべきでなく︑もしそう呼ぶので. あれば︑この諸科学が︑﹁精神的生﹂だけを考察対象とし︑﹁人間性質の︑心理的・物理的な諸々の生統一体﹂は︑. 或いは﹁人間性質の全体﹂は考察対象としないかの印象を与えて適切でないかもしれない︒しかしながら︑第一に. は︑この精神諸科学という名称は︑ジョン・ステユアート・ミルの論理学と結びついて︵ミルの﹁道徳科学﹇B興巴. ωo一窪8﹈﹂が一九世紀に﹁精神諸科学﹂と独訳されて︶︑広く普及した概念となっているし︑また第二には︑この名称. 四五七. は︑この当の諸科学の統一性と範囲と境界を呈示するような﹁中心的事実圏﹂は最低限捕捉しているから︑次善の 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(12) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶ ︒︶︒. 策としては妥当な名称である︵舞﹄覧く戸︒︒ρに︒. 四五八. 精神諸科学の独自性は︑この︑精神諸科学の﹁現実﹂という対象から出現してくる.つまり︑③ここで精神諸科. ︶︑その際︑歴. 学とは︑﹁科学というこの概念﹂で呼ばれる﹁精神的諸事実の総体﹂のコ一つの構成物﹂のうちの一方のタイプの. 科学を指し︵Oω﹂﹄︶︑即ち﹁自然諸科学﹂と明確に区別されるタイプの科学を指すのであるが︵. 史的・社会的現実という対象の把握は︑精神諸科学をして︑自然諸科学とは全く異なった性質を与える︒いわば︑. 精神諸科学の対象は︑﹁第一次的に心理的出来事と活動の内的統握によって描写されるもの﹂としての﹁内的世界﹂ ︵︒. ︒︶︑﹁内的経験の中︑感官のあらゆる共作用なく与えられる﹂もの︵︒︒い︶︑﹁内的体験の中その自立した源泉と素材. をもつ︑諸経験の独自の王国﹂︵︒︶︑内的経験によって存立する﹁我々にとって現存在するもの﹂︑我々の感情と. 我々の意思の体験の中でのみ与えられる﹁我々にとって価値をもち目的であるもの﹂︵︒︶︑これであり︑故に︑こ. の内的経験で直接的に与えられる内的世界を対象とする﹁特別の経験科学﹂として︑しかも﹁自立した地位をもつ. 科学﹇ω①一σ馨ぎ蝕鴨ω8旨轟①ぎRωo一〇げ零≦一ω器霧魯臥二﹂として︑精神諸科学が成立してくる︒反対に︑自然諸. 科学は︑﹁感官による外的知覚の中で与えられるもの﹂としての﹁外的世界﹂︑﹁感官の中で与えられる素材から︑. そして︑これからのみ︑試行的接合により形成される諸過程﹂︑これらを考察対象とするものであり︵︒︒︶︑従って︑. 精神諸科学には︑この自然諸科学とは全く性質をことにする学問領域として︑その独自性が承認される︒更にはこ. こから︑﹁目的︑機能︑構造の関連﹂といった精神諸科学の術語を自然諸科学へと導入するのは﹁自然に適って﹂. いるが︑反対に﹁有機体﹂など自然諸科学の概念を精神諸科学に転用するのは非常に﹁危険﹂とされ︑精神諸科学. を﹁自然諸科学との言語混同﹂から守り︑﹁精神諸科学の領域で︑確固とし︑且つ普遍妥当な概念﹂の展開が要請.

(13) されてくる︵芦く閃H40ρダ器−0︒︒﹄ ㌣ま8≦一為︒当9お−蕊一 爲︒︸ζ〆N窪−曽︒︒ 図〆一NPまご︒. ただし︑④精神諸科学が︑内的経験︑体験によって初めから与えられる内的世界を探究する︑自然諸科学とは全. く別の諸科学であるとしても︑このことは︑今し方言及した︑精神諸科学が︑歴史的社会的現実全体を探究する諸. 科学であることと矛盾するものではない︒むしろ︑このこの内的世界の精神諸科学を独我論とか︑現実全体と無縁. なものと︑断定してかかるのは禁物である︒何故なら︑この内的世界︑即ち︑意識の諸事実は︑実は︑歴史的社会. 的現実を己れの内に担うものであり︑従って︑物体︑他者などありとあらゆる現実を己れの内に引き受けるものだ. からである︒本当は︑精神諸科学は︑この現実全体を担う体験の諸科学である︵﹁現象性の命題﹂︵09<る︒埜ζ〆. ⑥. ﹇精神諸科学における﹁科学﹂﹈他方︑①二つめに︑精神諸科学が精神の﹁科学﹂であるというのは︑これ. ㎝︒ ︒−謡︶︒. が︑諸々の概念と命題により構築された事実であることを意味する︒つまり︑﹁科学﹇≦一ωω9零富a﹂とは︑概. 念を確定し︑概念の結合を理由づける﹁諸々の命題の︑総体﹂であり︑しかも︑その諸々の命題の結合により︑現. 実の一構成部分を思考し︑人間活動の一部門を規律して︑諸々の部分を全体へと結合させるものである︵県︶︒加. えて︑﹁科学﹂とは︑そのような﹁メルクマール﹂を持ち︑総じて﹁科学の名称﹂を適用される︑﹁精神的諸事実の. 総体﹇ぎ幕鴨醸鴨響蒔R↓蝉冨8幕三﹂︑即ち︑﹁人間の中で展開してきたところの精神的諸事実﹂のことである ︵㎝︶︒. ︵16︶. この︑精神諸科学の﹁科学﹂としての性質︑概念と命題の総体としての性質から︑精神諸科学の危機を惹起する. 四五九. 内在的問題が出現してくる.つまり︑②精神諸科学は︑﹁歴史的・社会的現実﹂を﹁素材﹂とし︵Oω﹄墨︑この 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(14) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四六〇. 現実の歴史的把握︵事実︶︑理論的認識︵定理︶︑実践的確認︵価値判断と諸規則︶の三種の作業を﹁諸目的﹂とする. が︵§︑その際︑精神諸科学のこの諸目的は︑﹁思考作用という技巧﹇国琶曾瞬籔Φ﹈を媒介とし︑分析と抽象を. 媒介として初めて﹂達成可能となるものである︵い︒刈︶︒いわば︑科学一般は︑検討対象たる﹁事態の︑特定の諸側. 面を取り除き﹂︑その残りを把握する﹁抽象的表現﹁筈磐声耳R>霧融8置﹂を﹁不可欠な手段﹂とし︵思︑そし. て︑精神諸科学も︑﹁歴史的認識︑理論的認識︑社会を事実上響導する諸規則の展開﹂︑この三つの構成部分のいず. れにおいても︑﹁この抽象化的認識作用﹇ぎ曾轟圧R9号ω国蒔9器巳﹂を不可避な通路とする︵§︒要は︑精神 ︵17 ︶. に関するあらゆる個別諸科学は︑﹁歴史的・社会的現実から︑ある部分内容を引き出すという技巧﹂があって初め. て成立する訳である︵N鳶︶︒しかしながら︑③これにより︑精神諸科学は︑相対的且つ部分的なものとなる︒つま. り︑これら思考作用︑分析と抽象︑抽象的表現︑抽象化的認識作用は︑歴史的・社会的現実から不要な部分を切除. し必要な部分だけを搬出して把握しようとするから︑こうした分析と抽象を不可欠な手段とする﹁精神の個別科学. は︑別の精神の諸科学との関連を考慮すると︑社会的・歴史的現実を相対的にしか認識できない﹂︵N︒・︶︒そうなれ. ば︑④﹁これら諸科学を編成し︑精神諸科学を特化しながら健全に拡大﹂させるには︑精神諸科学の﹁諸々の真理. が現実全体へ関連すること﹂を洞察し︑加えて︑精神諸科学の﹁これら諸真理﹂を現存在せしめるのはまさに﹁抽. 象作用﹁︾σω賃鴇ぎ三﹂以外になく︑そのような抽象的性格に合わせてそれら諸真理に付与されるのは﹁限定的. な認識価値﹂でしかないことを常に意識しておかなければならない︵鵠︶︒つまり︑精神諸科学のあるべき姿を獲. 得するには︑﹁そのように幾らか標本のように抜き出された部分内容が︑生自体が脈動する現実という有機体へ関. 連すること﹂を忘却せず︑認識作用が︑﹁この関連からのみ︑諸概念と諸命題に精密な形式を与え︑適切な認識価.

(15) 値を分け与える﹂ことを常に念頭に置かねばならない︵畠h︶︒. もっとも︑単なる示唆でなく確かな確認が求められる事実だが︑ディルタイの精神諸科学においては︑歴史的社. 会的現実の歴史的把握や理論的認識と並び︑その現実の実践的確認もがその目的とされ︑しかも︑そして︑この三. つの目的が一体連関とされることにも留意せねばならない︒つまり︑⑤ディルタイによると︑精神諸科学は︑﹁三. つの異なった類別の諸言明﹂︑﹁三つの類別の諸命題﹂から構成される.その言明と命題とは︑第一が︑﹁知覚の中. に与えられた現実的なるものを語る﹂︑﹁認識の歴史学的構成部分﹂としての﹁諸事実﹁↓象鋸魯窪﹈﹂であり︑第. 二が︑抽象により析出された﹁現実の部分内容の等形式的行態を展開する﹂︑﹁認識の理論的構成部分﹂としての. ﹁諸定理胃冨oお日の﹈﹂であり︑第三が︑﹁価値判断を表現し︑諸規則を規定する﹂︑﹁精神諸科学の実践的構成部. 分﹂としての﹁諸価値判断と諸規則﹂である︵Oωレま︶︒その上︑その三種類の命題は相互に独立の関係にあり︑. 例えば︑第一の﹁単数的なるもの︑個別的なるものの統握﹂は第二の﹁抽象的等形式性の展開﹂から分離してお. り︑また第三の﹁諸価値判断と諸命令﹂は他の二つから独立している︵鐸き︒げ︶≦一し︶く嗅ふ癖︶︒︒マ︒︒Pく﹄︒︒︒︶︒. る㎝︶︑だがしかし︑⑥ディルタイによると︑この三種類の命題の区別は︑暫定的且つ限定的なもの. ﹁この三つの諸任務の連関は﹂﹁認識理論的分析︵ヨリ包括的には︑自己省察︶﹂によって初めて明瞭となるのだが ︵Oωレ零くひq 一. であり︑前二者の諸言明と後者の諸言明は︑即ち︑事実認識と価値定立は相互に密接な関係に立つ︒つまり︑﹁心. 的生の中のある連関の統握﹂は﹁独自の価値づけ﹂と﹁分離不能﹂であり︑﹁あるところのもの﹂と﹁妥当すると. ころのものと︑あるべきところのもの﹂とは﹁分別不能﹂であり︑﹁生の諸事実﹂は﹁生の諸規範﹂に連続する︒. 四六一. 一方で︑事実認識は価値定立の表現であるという意味で︑﹁諸々の生現出の本質的なるもの﹂は︑その諸現出の 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(16) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四六二. ﹁生きた価値連関の表現﹂であるが︑他方︑価値定立は事実認識の表現であるという意味で︑﹁この本質的なるもの. は︑己れを諸理念表象の中と規範の中に表現する﹂︒故に︑﹁理論的諸命題﹂を﹁実践的諸命題﹂から﹁分け隔てて. はなら﹂ず︑﹁諸真理﹂は﹁諸理念表象と諸規範﹂から﹁分けてはらな﹂ない︒もしそんなことをすれば﹁諸認識. からはその有用性が﹂剥奪され︑﹁諸理念と諸規範からはその連関とその基礎づけ﹂が略奪される︒従って︑全て. ﹇小括﹈以上︑精神諸科学に関する境界づけからは︑我々の関心事の一つたるケルゼンの精神科学観︑即ち︑. の精神諸科学を︑この諸事実と諸規範の結合が貫流しており︑全ての﹁体系的精神諸科学﹂は︑﹁相応の諸事実の ︵18︶ 認識それ自体が︑この体系の諸規範の前提を含むよう︑構造化され﹂ているのである︵くる①§く箪Mく戸お︒ ︒︶︒ ⑥. 精神の考察が精神科学︑生の考察が自然科学であって︑精神のみを考究する純粋法学のみが精神科学であり︑精神. ︵19彬. と生を同時に探究する統合理論は偽の精神科学との考え方が︑哲学の正統から見れば実は全くの誤解であると判明. するのだが︑それはひとまず措くとして︑結局のところ︑精神諸科学とは︑過去と現在を通じて未来へと己れを展. 開し︑諸々の個人の相互作用から己れを編制する︑世界全体という意味で︑歴史的社会的現実を考察対象とし︑そ. れでいて更に︑その現実に﹁基礎的な分解冒巨量BΦ耳巴ΦN段8讐口鴨三﹂を施して︑事実の等種的なもるもの︑. 関係の等形式なるものを︑事実と変化の並列関係と前後関係に合わせて取り集める精神的作業である意味で︵○ρ. 一㌔ω﹂一︒︶︑相対的真理獲得を限界とするといえる︒つまり︑精神諸科学は︑﹁心理物理的相互作用の部分内容﹂と. しての﹁継続的諸事態﹂︑例えば﹁諸々の宗教︑諸々の国家︑諸々の芸術﹂といった﹁継続的形成体﹂のみを探究. ︵20﹀ する限りで︑即ち︑歴史的社会的現実の部分内実のみを把握する限りで︑相対的科学となる︵一一㎝︶︒.

(17) 三. 精神諸科学の基礎づけの必要性. 以上の精神諸科学の問題領域の境界づけ或いは特徴づけに続けて︑ディルタイは︑精神諸科学の主要領域をその. 連関につき概観して︑それら諸科学の認識理論的基礎づけの必要性を導出する作業へと︑議論を進展させる︒. ところで︑その精神諸科学の主要領域とは︑﹁心理学と人間学﹂︵○ωレω︒︶︑﹁文化の諸体系の諸科学﹂︑﹁社会の. 外的組織の諸科学﹂︑﹁民族学﹂の合計四つである︵﹄戸崔一︶︒もっとも︑このうち民族学は︑文化の諸体系の諸科. 学︑社会の外的組織の諸科学の助けがあって初めて探究可能となる科学とされるから︵§︑それを考慮すれば︑. ﹇心理学と人間学﹈まず︑ディルタイは︑第一の﹁心理学と人間学冒亀魯90笹①§α>鼻ぼ80δ讐Φ﹈﹂は︑. 精神諸科学は︑実質的に︑心理学と人間学︑文化の諸体系の諸科学︑社会の外的組織の諸科学の合計三つに分類さ れる︒. ①. 次にように特徴づける.つまり︑彼によると︑①﹁心理学﹂又は﹁人間学﹂とは︑﹁生統一体F39器写. ﹁個人﹇冒島く置⁝ヨごを対象とする科学である︵ω︒︶︒そして︑②この生統一体. 箒ぎ三︑心理物理的個体冒亀38ξω凶ω9Φぎ&<置巳ω﹈﹂の研究︵N︒︒︶︑﹁心理・物理的生統一体﹇℃亀90もξ巴甲. 9①﹃﹂の理論﹂であり︵8︶︑. 又は個人とは︑歴史的社会的現実の中では﹁直接的に与えられ﹂た︑社会の一要素としての統一体であり︵鵠︶︑. ﹁内的経験の中で諸事実として与えられている実在的統一体﹂であるから︵8︶︑この生統一体の研究︑即ち︑心理. 学と人間学は︑﹁基礎的な部類の︑精神の諸科学﹂︑いわば﹁歴史的生の全ての認識と︑社会の活動と継続形成の全. ての規則との︑基礎﹂となり︵§︑﹁精神の個別諸科学の中での︑且つ︑最も要素的な︑個別科学﹂︑﹁第一水準の. 四六三. 諸理論﹇↓ぼ○工窪αRR馨震♀α萱凝﹂﹂と見なされることになる︵ωG︒︶︒だが︑③心理学が︑精神諸科学の体系の 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(18) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四六四. 全体連関を基礎据える機能をもつものであれば︑心理学の基礎の中にある不確定要因をできるだけ排除しておかね. ばならない︒つまり︑﹁そのような基礎据えを行う科学という︑諸任務﹂を心理学が履行するためには︑この心理. 学は︑外部から仮説を持込み︑﹁精神的生の全体連関を何らかの仮定により導出しようとする﹂﹁説明心理学﹇Φ詩−. 田お且①℃亀倉90臨①﹂﹂であってはならず︑そうではなく﹁諸事実と諸事実の等形式性を確定する︑記述的科学の. 諸限界の中に留まる﹂﹁記述心理学冒83邑げ98勺﹂﹂となる必要がある︵弩.というのも︑説明心理学は︑. ﹁心理学上の諸々の仮説﹂を﹁精確で︑予断なく確認された素材﹂で﹁検証﹂を行って︑精神諸科学の基礎据えを. 確実に行おうとするが︑しかしながら︑この説明心理学では﹁諸仮説に基づいて諸仮説を建てる﹂だけで︑実際は. ︵22︶. 確実な基礎据えは遂行されえない︵ωN戸く箪る9<口紹幽参図ヌるミ山一︒︒︶︒記述心理学があって初めて︑意識の諸 ︵21︶ 事実としての直接立てられるものが︑外在的仮説を経ずして分析され記述されるからである︵茜一ひ︒︶︒ディルタ. イの心理学は︑説明心理学ではなく︑記述心理学でなければならない︒. もっとも︑④その際︑心理学が考察対象とする生統一体又は個人とは︑それ自体で完結する存在ではなく︑﹁社. 会的現実の連関の中で﹂出現する限りでの︑﹁そのように完結し︑その統一体の自己意識の点で確実な全体﹂︑即ち. ﹁外から作用を受け取り且つ外へ作用を戻す﹂全体︑つまり︑心理学の対象となる生統一体又は個人とは︑﹁歴史. 的・社会的現実の生き生きとした連関から分別された個人﹂︵Oω﹂る︒︶︑人為的に抽出された﹁社会の構成部分と. しての個人﹂であることに注意しなければならない︵︒︒一h︶︒従って︑心理学は︑﹁抽象により︑歴史的・社会的現. 実の全体科学から分別される﹂科学であり︑心理的個別体がこの連関の中で展開する一般的特徴を︑﹁抽象の過程. により﹂確定する科学と考えなければならないのである︵︒︒︒︶.だがそうはいっても︑⑤心理学と人間学が︑歴史.

(19) 的社会的現実から︑生統一体又は個人という部分内容を切り出して捕まえ︑その意味で歴史的社会的現実を断片的. 部分的にのみ概念把握する精神科学であると︑決めつけることも実は早計である︒何故なら︑今し方言及したよう. に︑生統一体又は個人は︑内的経験の中で諸事実として与えられた実在的統一体であり︑従って︑この生統一体又. は個人を考察対象とする心理学は︑この意識の諸事実を所与のものとして取扱う科学︑即ち︑記述心理学であるか. らである︒つまり︑いわば︑生統一体又は個人は︑歴史的社会的現実を己れのうちに担い︑全体的現実を己れの内. に秘めたものであり︑故に︑心理学又は人間学は︑この現実を担う意識の諸事実を考察対象とする︑即ち︑そのよ. うな意味で︑単に現実の部分内実の探究学︑﹁第二水準の諸理論胃訂oユ窪αRNぞ簿窪OH9β⇒ひQ﹈﹂に先立つ︑. 現実の自体全体の探究学︑﹁第一水準の理論﹇↓箒oユ①αRR簿窪9﹂﹂という訳である︵合め目一︶︒. 詰まるところ︑精神諸科学としての﹁心理学と人間学﹂は︑生統一体又は個人を考察対象とする科学であるが︑. しかし︑そこでの生統一体又は個人は︑飽くまでも歴史的社会的現実全体から抽象作用により抽出された断片的な. 個人であり︑故に︑この個人の研究は︑現実全体との関連を前提とした上で検討されねばならず︑いわば︑心理学. ﹇文化の諸体系の諸科学︑社会の外的組織の諸科学︑法諸科学﹂ところで︑心理学と人間学の対象が︑歴史. と人間学の作業は︑歴史的社会的現実全体の連関を念頭においた上で遂行されねばならない︑という訳である︒. ω. 的社会的現実から抽出された個人であるのと同様に︑精神諸科学を構成する︑民族学︑文化の諸体系の諸科学︑社. 会の外的組織の諸科学も︑歴史的社会的現実から析出された︑民族︑文化の諸体系︑外的組織をそれぞれ対象とす. る︒つまり︑そもそも歴史的社会的現実の中では︑初めは︑個人から個人へと物質的諸過程を媒体として照射す. 四六五. る︑小規模の諸々の作用が存在するだけであるが︑次第に︑この社会的世界の中で﹁等種の諸々の効果﹂が結集す 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(20) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四六六. るようになると︑明確且つ強固な諸々の事態が成立してくるのであり︑続いて︑諸力の緊張が﹁特定の方向﹂に向. かうようになるか︑或いは︑﹁特定の力強い意志力﹂により﹁そのような方向に﹂向かわせられるようになると︑. 更に大きな作用が出現してくる︵OρH﹂鐸︶︒そして︑このような﹁コンスタントな形成体﹂は︑﹁現実的に科学的. な理論的作業﹂により取り扱われるようになる︵蕊︶︒例えば︑@﹁社会的編成の自然基礎﹂や﹁種族愛︑子への. 愛︑母なる大地への愛﹂により︑等種的な﹁大小の集団と共同体﹂が形成され︑加えて︑歴史的展開があれば﹁個. 別の諸民族﹂が生成されてくる︒この諸民族が﹁境界づけられた諸統一体﹂として研究対象となれば︑﹁民族学﹂. が成立してくる︵§︒更に︑㈲﹁人間本性の一つの構成部分に立脚し︑それにより継続する一つの目的﹂により︑. ﹁個別の個人の中の諸々の心理的行為﹂が相互に関連づけられコつの目的連関へ﹂と﹁接合﹂される場合には︑. 社会の中に﹁文化の諸体系﹇ω窃8日①血R囚包ど二﹂が析出されてくる︒この﹁文化の諸体系﹂が﹁社会的分析の. 対象﹂となれば︑﹁文化の諸体系の諸科学﹂が成立してくる︵琶︒或いは︑◎自然の編成や人間本性の目的など. ﹁継続する諸原因﹂により︑個人の﹁諸々の意志﹂が全体へと﹁結合﹇田巳巨巴﹂される場合には︑社会の中に. ﹁外的組織冨島Φお○お曽巳鋸江〇三﹂が可視的となってくる︒そして︑この﹁外的組織﹂が﹁社会的分析の対象﹂. となれば︑﹁社会の外的組織の諸科学﹂が成立してくる︵琶︒要するに︑社会的歴史的現実の中で︑個人間を照射. し合う諸々の作用から︑段々と︑民族や︑文化の諸体系や︑社会の外的組織が生成してくるといえ︑それぞれに分. 析が加えられると︑民族学や︑文化の諸体系の諸科学や︑社会の外的組織の諸科学が成立してくるという訳であ る︒. そこで︑ディルタイは︑⑥﹁文化の諸体系の諸科学﹇≦一ωω9零冨津窪αRω蕩8ヨ①昌α段因巳ε二﹂を次のよう.

(21) に特徴づける.つまり︑彼によると︑①﹁文化の諸体系﹂とは︑個人が歴史的社会的現実の相互作用の中で活動す. るときに︑そのエネルギーを生き生きと働かせて現実化しようとするところの︑﹁多様な諸目的﹇竃磐巳職聾茜. 匿評<9N薯9冨邑﹂のことであり︑しかも︑人間が生まれ死ぬという人間宿命を超えてその欲求を追求するとき. に︑﹁人間的作業の分業﹂と﹁世代間の遺産継承﹂に従って︑同時代人の共同作業と先人の作業の成果とに己れの. 行為を適合させる際に現れるところの︑歴史と社会を貰通する﹁人間の諸々の本質的生目的﹂のことである︵8︸. 一﹂撃︒そして︑②﹁文化の諸体系の諸科学﹂とは︑﹁人間本性の一構成部分に依拠し︑個人を超え出る目的連関. の内部において︑個々の心理的諸要素又は心理物理的諸要素の間に存立するところの︑依存関係﹂を確定せんとす. る諸科学であり︑しかも︑その人間本性の諸々の特徴の間にある依存関係を確定せんとする科学である︵唇︒も. っとも︑③この科学は︑飽くまで︑文化の諸﹁体系﹇ω誘δ邑﹂の科学であることに留意する必要がある︒つま. り︑文化の諸体系の諸科学は︑これらの諸要素を﹁諸々の単語に表現し﹂︑﹁諸々の命題の全体に写像﹂するのだ. が︑その際写し取られる心理的要素はどれも単なる﹁理性と思考作用﹂であるとか︑写し取る方の命題もどれも単. なる﹁論理的結合﹂ではなく︑むしろ︑それら心理的要素は﹁思考作用︑感情作用︑意志作用﹂のどれかであり︑. また︑それら命題も﹁諸真理︑諸感情言明︑諸規則﹂のどれかであって︑故にそれら要素と命題は﹁非常に様々な. 本性﹂を持つと了解せねばならない︒従って︑文化の諸体系の科学が扱う対象は︑法則という一律のものではな. く︑多種多様の目的連関︑即ち﹁体系﹂と考えるべきである︵唇︒加えて︑④この科学は︑飽くまで文化の﹁諸﹂. 体系の科学であり︑コ﹂体系の科学ではないことに注意する必要がある︒つまり︑﹁与えられた個人の生. 四六七. F魯窪霞虫魯9日﹈﹂が︑他の個人のそれと全く比較不能で全く移入不能であるのを想定すれば︑諸個人に﹁共通 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(22) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四六八. の内容﹂は皆無となり︑そもそも社会的生の体系など存立などその余地を喪失するが︑かといって︑個人の生が︑. 比較可能且つ移入可能であれば︑その個人の相互作用が即社会の活動となり︑現実には﹁唯一の体系﹂しか成立せ. ず︑従って︑この唯一の体系がそのまま﹁社会の全体的生﹂となってしまう︒むしろ︑社会には︑甲から乙︑丙︑. 丁へという﹁直接的相互作用﹂もあれば︑甲から乙︑乙から丙へという﹁間接的相互作用﹂もあり︑従って︑多様. な複数の体系の存立を必然的に承認するべきである︒つまり︑文化の諸体系の諸科学は︑文化の﹁体系﹂の諸科学 ではなく︑まさに文化の﹁諸体系﹂の諸科学となる︵おい︶︒. ところで︑⑤この文化の諸体系の諸科学は︑まさに歴史的社会的現実の中の﹁文化の諸体系﹂をその検討対象と. するものである︒つまり︑例えば︑﹁人間本性の個別の構成部分としての︑空想の能力﹂が﹁芸術﹂に化体される. ように︑﹁人間性質の内容性や豊かさ冤の一魯εB﹈﹂が︑人間のそれぞれの世代の中で特定の人々の中でアリアリ. としたものとなり或いはその人々に関連づけられて︑﹁体系﹂へと体現されてゆき︵Oω﹂ふ︒︶︑更には︑この体系. の目的に沿って形象化される外界の諸々の構成部分が︑コ時的ではあるが生き生きとした︑諸人格の活動﹂と結. 合すれば︑この体系が︑﹁全き実在性と客観性﹂を備えた体系へと︑即ち﹁諸個人から独立した継続性と︑無敵の. 客観性﹂を備えた体系へと︑例えば︑﹁宗教︑芸術︑法といった﹂文化体系へと転化してくる︵9渉︶︒そして︑こ. うした文化の諸体系が﹁抽象的科学﹂の対象となれば︑﹁文化の諸体系の諸科学﹂が成立してくるのである︵竃︶︒. 要するに︑歴史的社会的現実から文化の諸体系が不断に形象化され︑次いで︑この文化の諸体系を対象とする文化 の諸体系の諸科学が成立してきた︑という訳である︒. もっとも︑⑥精神諸科学一般にいえるように︑ここでもやはり︑文化の諸体系の諸科学は︑文化の諸体系の検討.

(23) という目的を︑思考という技巧︑分析と抽象を媒介として実行する︒つまり︑この科学における﹁科学的構想力. ﹇aωω窪ω3鉱島9①田昌ま琶暢ξ駄什﹈﹂は︑検討対象たる文化の諸体系を︑﹁それ自体で静態する客観性﹁9す. 醇三紐8菖﹂として呈示し︑例えば︑文化の諸体系の諸科学は︑﹁諸概念︑諸定式︑諸制度﹂を取り扱う﹁悟性. ﹇く段ω雷且﹂﹂の強い影響の下︑﹁経済秩序や宗教︑更に科学さえも﹂︑﹁それ自体︑像として﹂表象する︵Oωレ. 竃︶︒しかしながら︑⑦これにより︑やはり︑文化の諸体系の諸科学も︑相対的︑部分的なものとなる︒つまり︑. 文化の諸体系の諸科学は︑﹁これら諸体系を並列させて分析を加え﹂ようとするから︑歴史的社会的現実のうち文. 化体系として並列されない部分は︑依然として分析されないままに終わる︵量︒そうなれば︑この文化の諸体系. の研究は︑﹁歴史的・社会的世界の内部の諸共通性と諸団体をその対象とする﹂社会の外的組織の諸科学など︑そ. の他精神諸科学と常に関連づけて︑且つ︑その他の文化の諸体系の諸科学を常に念頭において︑実行しなければな らない︵目︶︒. 更に︑ディルタイは︑㈲﹁社会の外的組織の諸科学﹇≦誘窪鶉富津窪αR警ご︒ΦおpOお鋤巳ω讐一目αRO窃巴−. ω09巳﹂を次のように特徴づける︒ところで︑①もしも︑コつの体系又は複数の体系での心理的作用の入り組み. の中で﹂のみ相互作用を展開する﹁本質﹂しか存在せず︑そして︑その本質が︑﹁そのような目的連関に侵入﹂し︑. コつの目的連関又は複数の﹇目的﹈連関に︑その目的活動を適合させる﹂能力をもつのであれば︑要するに︑歴. 史的社会的現実に文化の諸体系しか存在しないのであれば︑その本質それらの間には﹁共同体に関する生き生きと. した感情﹂は存立する余地はなく︑しかも︑それらの本質はその﹁諸目的連関の諸任務﹂をただ﹁几帳面且つ完全. 四六九. に﹂実行し︑その結果︑それら本質の間には﹁強制も団体も﹂存立する余地はなくなる︵Ooo﹄盆h︶︒つまり︑文 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(24) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四七〇. 化の諸体系だけで人間の目的が全て完了すれば︑共同体感情も強制も必要なくなるであろう︒しかしながら︑﹁人. 間﹂はそのような存在ではない︒つまり︑人間は︑文化諸体系の構造連関の構成部分であるように︑﹁共同体につ. いての内的欲求と感情﹂をもち︑﹁規則なき暴力的な力を備えた情熱﹂をもつが故に︑﹁人間の外的組織の構成員﹂. でもある訳である︵§︒そして︑②ここから︑﹁社会の外的組織﹂の概念と︑﹁社会の外的組織の諸科学﹂の概念. が必然的に登場してくる︒つまり︑ディルタイによると︑﹁社会の外的組織﹂とは︑﹁ある目的連関に関連づけられ. た︑複数の人格からなる意志統一体﹇≦旨9紹ぎぽ三﹂のことであり︵ぎ︶︑そして︑﹁社会の外的組織の諸科学﹂. とは︑﹁団体の中で諸々の意志統一体から成立する構造﹂を探究する科学であり︑﹁社会の外的組織︑諸々の連帯︑. 諸々の団体︑支配諸関係や意志の外的拘束の中で成立する連関構造︑これらの諸々の特徴﹂を分析する科学である ︵ミ︶︒. そして︑③ディルタイにおいては︑この社会の外的組織には︑文化の諸体系以上に重要な﹁基礎﹂が存在してい. る︑つまり︑社会の外的組織の基礎には︑第一には︑人間をして﹁社交的本質﹂ならしめる﹁人間の特性﹂︑即ち. ﹁共属性という継続的感情﹂が存在し︑第二には︑諸々の意志をして団体へと結集させる﹁ヨリ力強く作用する別. oレミ︶︒この共属感情と強制のこつの契機の優劣関係は︑時代時代︑ の諸力﹂︑即ち﹁利益と強制﹂が存在する︵Oo. ケースバイケースで規定されるのだが︵ミh︶︑これら﹁二つの心理的事実﹂のうち︑まず︑一つめの共属感情︑即. ち﹁共同体と共同体意識﹇O①日Φぎ零冨ヰ信邑守名島冨蝕ロαROΦヨ蝕諺魯緯二﹂についていえば︑これは︑祖先が. 共通との意識︑共通の地域での居住︑その帰結としての諸個人の等種的性質︑諸任務と諸目的の多様な連関秩序︑. これらにより﹁共同体感情﹇OoBo日ω魯臥房鴨露匡﹈﹂が成立するということを指す︵①︒︶︒例えば︑甲がある目的.

(25) と衝動をもって行いをする際︑乙や丙の対応する過程が既に考慮されており︑その意味で︑この甲の行いには︑. ﹁共属の感情と共同体の感情﹂が織込まれ︑﹁諸利益の連帯性﹂が事前に確立している︵α︒︶.次に︑二つめの利益. と強制︑即ち﹁支配と依存冨Rあo富津琶α>嘗ぎ讐讐〇三﹂についていえば︑権力関係の﹁反対作用﹂により. ﹁外的権力関係の強度の増大﹂が﹁限界﹂づけられ︑場合により﹁凌駕﹂されるときがあるが︑この支配と依存と. は︑そのような反対作用が働く場合に投入される︑﹁意志の外的拘束﹇習留お国ぎ身轟①ぎ8どく旨窪ω﹈﹂︑意志の. ﹁外的強制冒島RRN≦き巴﹂のことである︵①謡︶︒もっとも︑この外的拘束と外的強制の度合には︑権力関係の. 反対者の﹁動機﹂よりも﹁ヨリ強く働く﹂動機を彼に与えるとき︑﹁反対に作用する動機﹂の余地を全く与えない. までに拘束するとき︑更に︑この外的強制を押し進めると﹁主権国家﹂が出現するときなど︑様々な﹁量的﹂違い. がある︵①謡§︒結局のところ︑コつには共同体に関する︑もう一つには支配と依存に関する︑二つの心理的諸. 事実﹂が﹁毛細血管の血液﹂のように﹁社会の外的組織を貫流し﹂ており︵①︒︒︶︑ ﹁この二つの心理的基本関係﹂ ︵23V が︑﹁人間の外的組織という織物全体﹂を仕上げているのである︵ぎ︶︒. ところで︑④この社会の外的組織の諸科学は︑まさに歴史的社会的現実の中の﹁社会の外的組織﹂をその検討対. 象とするものである︒つまり︑例えば︑﹁社会を一瞥﹂すればすぐ分かるが︑歴史的社会的現実には︑微小且つ一. 時的なものであるものの︑﹁意志が統一化され﹂拘束力ももつ︑無数の諸関連が存在しており︵のωレ3︑これが︑. 経済生活やそれ以外の文化諸体系の中で﹁継続的諸関係﹂として出現し︑更には︑﹁家族︑国家︑教会の中︑諸団. 体の中︑諸施設の中﹂で︑﹁諸々の意志が諸団体へと結集﹂されてゆき︵︒q︶︑ついには︑構成員の参加や脱退があ. 四七一. っても︑その継続性が維持される﹁コンスタントな形成体﹂へと転化してくる︵︒㎝︶︒つまり︑﹁歴史の中では︑多 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(26) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四七二. 種多様の寿命をもつ諸団体﹂が絡み合って存在する︒そして︑こうした社会の外的組織が︑抽象的科学の対象とな. れば︑社会の外的組織の諸科学が成立してくるのである︒勿論︑これら団体自体とその他形成体との厳密な区別. ︵芭︑及び︑諸々の団体同士の厳格な区分けは元来困難なのだが︵認h︶︑要するに︑歴史的社会的現実から社会の. 外的組織が不断に形象化され︑次いで︑この社会の外的組織を対象とする社会の外的組織の諸科学が成立してき た︑という訳である︒. もっとも︑⑤精神科学一般にいえるように︑ここでもやはり︑社会の外的組織の諸科学は︑社会の外的組織の検. 討という目的を︑思考という技巧︑分析と抽象を媒介に遂行する︒つまり︑﹁全ての理論﹂が﹁複合的現実の部分. 諸内実のみ﹂を把握し︑﹁歴史的・社会的生の諸々の理論﹂が﹁量りがたく錯綜した事実性﹂から対象を切り出し. て︑それに肉薄してゆくように︑﹁社会の外的組織の諸科学﹂も︑﹁具体的現実穿○爵お8ゑ畔匹8冥色砕﹈﹂それ自 ︵24︶. 体をその対象とせず︑﹁生の現実から団体を対象として﹂抽出し︑﹁国家諸科学﹂なども﹁抽象作用においてのみ呈. 示可能な部分諸事実﹂のみを取り扱う︵Oωみ︒︒顕︶︒例えば︑社会の外的組織の科学の考察対象たる家族は︑それ. に結集される諸個人を︑完全に己れの中に吸収しはしないし︑また︑同じくこの科学の考察対象たる国家も︑個人. を﹁部分的にしか︑相対的にしか﹂拘束し服従させはせず︑故に︑社会の外的組織の諸科学は︑家族や国家という. 概念に包含される限りでのみ歴史的社会的現実を把握せず︑これら概念でカバーされぬ現実を放置したままに終わ. る︵︒ ︒N︶︒従って︑⑥これにより︑ここでもやはり︑社会の外的組織の諸科学は︑相対的︑部分的なものとなる︒. つまり︑社会の外的組織の諸科学は︑団体を歴史的社会的現実から抜き出して検討を加えようとせず︑団体も︑個. 人を相対的︑部分的にしか拘束し支配しないから︵︒︒N︶︑結局︑歴史的社会的現実のうち国家や団体として抽出さ.

(27) れない部分は︑依然として分析されぬままに終わる︒そうなれば︑この社会の外的組織の研究は︑その他の精神諸 ︵25︶. 科学と常に関連づけて︑且つ︑その他の社会の外的組織の諸科学を常に念頭において︑遂行しなければならないの である︵お︶︒. ところで︑ディルタイは︑精神諸科学のうち︑﹁文化の諸体系の諸科学﹂と﹁社会の外的組織の諸科学﹂の接点. に位置するものとして︑@﹁法諸科学寅9窪ω謁ω器房魯駄9昌﹂﹂が存立すると述べる︒つまり︑彼によると︑①. ﹁法﹂の中には︑後に﹁文化の諸体系と社会の外的組織へと分岐してゆくところのもの﹂が︑﹁未分の統一体﹂とし ︵26︶. て含まれており︑﹁あらゆる法概念﹂の中には︑文化の諸体系のモメントと﹁社会の外的組織のモメント﹂が同時. に含まれている︵Oωレ罵︒換言すると︑法は︑一方で﹁恒常的に作用する心理学的事実としての法意識に基礎づ. けられた目的連関﹂であり︑もう一方で︑﹇全体意志による﹂諸個人の権力領域を確定する﹁確固とし普遍妥当な. 尺度設定の中での意志の外的拘束﹂である︵㎝県︶︑要するに︑法は︑目的連関と︑全体意志の外的拘束という︑二. つのモメントを持つ︒従って︑②この二つのモメントがあって初めて法の﹁全き現実﹂が成り立つのであり︑﹁体. 系的精神﹂を追求しすぎて︑思考展開の単純性の闇雲の追求でこの全き現実を犠牲にすることがあってはならない. ︵蜜︶︑即ち︑﹁法の事実の中の二つの側面のうち一方だけを﹂を強調したり︑或いはもう一方だけを強調すること. があってはならない︵鰹︶︒例えば︑目的連関のモメント︑文化の諸体系の側面のみの追究を試みても︑或いは︑. 全体意志とは無縁と想定した﹁法の目的連関﹂があり︑この目的連関が成り立った後に全体意志が成立すると仮定. してみても︑しかし︑﹁人間本性の中に﹂︑法意識から出発する目的連関と結合し﹂た﹁諸々の力﹂︑即ち﹁社会の. 四七三. 外的組織﹂が︑﹁法秩序の要求を待つまでもなく﹂初めから﹁現存在し﹂ているのであり︵㎝銀︶︑従って︑結果的 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(28) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四七四. ︵27︶. に全体意識の外的拘束のモメント︑即ち︑社会の外的組織の側面の探究が不可避的とならざるをえない︒また反対. に︑全体意識の外的拘束のモメントのみの研究を試みても︑或いは﹁社会の外的組織︑例えば︑家族団体として︑. 国家として﹂の外的組織を︑目的連関なしで﹁それだけで機能する﹂ものと仮定してみても︑しかし︑この外的組. 織には︑︵目的連関の前提の︶﹁法意識の中で実効的である︑人間本性の諸構成部分﹂が包含されており︑故に︑団. 体は己れの中に﹁法秩序を展開し﹂︑団体構成員同士の﹁権力諸領域﹂を秩序づけていることになり︵墨︑従っ. て︑結果的に法の目的連関のモメント︑即ち︑文化の諸体系の側面の検討が回避不能とならざるをえない︒要する ︵28︶. に︑﹁法における目的連関と︑社会の外的組織という︑二つの事実は︑相関的穿o霞巴簿貯﹈であ﹂り︵困︶︑両者. の間には﹁相関的関係﹂が成立している訳である︵遇︒更には︑③法において︑文化諸体系の側面と外的組織の. 側面が同時に配慮されねばならないとなれば︑法を考察対象とする法諸科学と︑社会の外的組織の一つ︑国家を考. 察対象とする国家諸科学との間にも相関的関係が成立してくる︒つまり︑法諸科学で法のみを純粋に考察しようと. しても︑法は﹁社会の外的組織の機能﹂であり︵ミ︶︑﹁法秩序は︑社会の外的組織により強制もって維持される︑. 社会の強制の秩序であ﹂り︑﹁意志の外的拘束は︑組織化された完全な社会により準備され﹂︑﹁あらゆる法概念は︑. 社会の外的組織のモメントをもつ﹂以上︵︒︒︒︶︑論理必然的に︑法の探究と同時に国家の探究も並列して展開せざ. るをえない︒また反対に︑国家諸科学で国家のみを純粋に検討しようとしても︑﹁国家の強制﹂は﹁法秩序﹂によ ︵29V. って支持されるものであり︑あらゆる団体は︑﹁法概念のみの中で構成される﹂以上︵︒︒︒︶︑ここでも論理必然的. に︑国家諸科学と同時に法諸科学を展開せざるをえない︒そうなれば︑法諸科学と国家諸科学のうちの︑一方の中. の概念は︑他方の中の概念を﹁媒介としてのみ﹂展開可能となる︒つまり︑法の﹁目的連関﹂は︑﹁個々の全体意.

(29) 志︑個々の民族の作業を媒介として﹂歴史的に展開可能となり︑逆に︑国家の共生秩序は︑法の目的連関を媒介と してのみ探究可能となる︵︒ ︒︒︶︒. 結局のところ︑ディルタイにおいては︑法とは︑目的連関という文化の諸体系のモメントと︑全体意識の外的拘. 束という社会の外的組織のモメントを同時に包含するものとして把握され︑従って︑法を探究する法科学は︑文化. の諸体系の諸科学の任務と︑社会の外的組織の諸科学の任務を同時に履行するものとして把握される訳である︒. もっとも︑④心理学と人間学︑文化の諸体系の諸科学︑社会の外的組織の諸科学︑要するに精神諸科学一般にい ︵30曽. えるように︑法科学もやはり︑法の検討という目的を︑思考という技巧︑分析と抽象を媒介に遂行することにな. る︒つまり︑イエーリンクの指摘の如く︑この﹁法学的思考﹁甘誘冴魯8U窪落三﹂は︑﹁法生活自身の中で実施. される意識的な精神的作業﹂から﹁ローマ法の基本諸概念﹂を創造するのであり︵Oωレ昌︑﹁悟性適合的に引受. けられた意識的な法学の術﹇冒冨冴鼠①内§旦﹂は︑まさに﹁悟性﹂的であるが故に︑法の﹁始源的で流動的な. 内実﹂をそのままにせず︑﹁諸概念︑諸定式︑諸制度﹂を利用して︑現実を﹁最小の空間までに︑いわば法諸概念. の形象にまで︑客観化し圧縮する﹂︑即ち﹁古代ローマ法の諸概念と諸定式﹂を創出する︵琶︒更に﹁法学的方法. ﹇甘冴冴魯①冒Φ跨9色﹂は︑﹁分解する悟性の方法﹇三の島&①8ωNR一紹98⇒<Rω$鼠窃ピとして︑法の素材︑. ︵31︶. 実在的生諸関係からの抽象化作用を経て︑﹁古代ローマ訴訟と法律行為の構造﹂や﹁古代ローマ法学の実体的法諸. 概念の構造﹂を解明しようとする︵$い︶︒しかしながら︑⑤これにより︑またしても︑法科学は︑相対的︑部分的. なものとなる︒つまり︑法科学は︑法を歴史的社会的現実から抜き書きして吟味しようとするから︑結局︑この現. 四七五. 実全体のうち法として析出されぬ部分は︑引き続き点検されぬままに終わるのである︒そうなれば︑法の研究も︑ 政治的体験の概念と精神科学的方法︵三︶︵三宅︶.

(30) 早法七五巻二号︵二〇〇〇︶. 四七六. 単なる相対主義に頽落しない為に︑その他の精神諸科学︑即ち︑文化の諸体系の諸科学︑社会の外的組織の諸科学 ︵32︶ と常時一緒にし︑歴史的社会的現実を常時頭の隅において︑敢行しなければならない訳である︵罫く嗅︸く﹂8︶︒. 結局のところ︑ディルタイによれば︑文化の諸体系の諸科学も︑社会の外的組織の諸科学も︑更には︑法諸科学. も︑それぞれ︑継続的諸事態や継続的形成体︑具体的には︑芸術や宗教︑国家︑法など概念や命題で捕捉可能なも. のを考察対象とする科学であるが︑しかしながら︑それら考察対象は︑どれも︑歴史的社会的現実全体から抽象作 ︵33︶. 用により析出された部分的現実に過ぎず︑この現実全体との連関から遮断された相対的真理を提示するものに過ぎ. ﹇精神諸科学の認識理論的基礎づけ﹈そうなると︑心理学と人間学︑文化の諸体系の諸科学︑社会の外的組. ない訳である︒. ⑬. 織の諸科学︑法諸科学︑結局は︑歴史的社会的現実を考察対象とする全ての精神諸科学は︑この現実全体から抽象. 作用により析出された部分内容を概念と命題により操作する諸科学であり︑そして︑その意味で部分的相対的真理. のみの獲得を宿命として背負う諸科学であるが︑その相対性という宿命により︑歴史的社会的現実全体の連関を常 に考慮に入れながら作業を遂行すること余儀なくされてくるのである︒. つまり︑ディルタイ自身が再確認するところによると︑①﹁個別諸科学﹂は︑﹁全体連関から︑分析と抽象の過. 程を通じて︑分化してくる﹂のであり︑個別諸科学の﹁真理﹂は︑﹁現実への関連の中でのみ﹂獲得され︑この現. 実への関連が個別諸科学の﹁諸命題﹂に取り込まれて初めて︑獲得されるのである︵Oω﹂﹂屋︶︒勿論︑現実の観 ︵34︶. 点が大事からといって︑﹁歴史的・社会的現実の具体的な全体連関の認識﹂が一挙に与えられるのではなく︑むし. ろ︑この現実を把握する為には︑現実全体を﹁諸々の個別連関へと分解し﹂︑それぞれの﹁個別諸科学の媒介﹂を.

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