ケータイ・コミュニケーションにおける他者に関する研究‐E.レヴィナスの他者論を手がかりにして‐
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(2) 貝次. 序章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… ’’・’’・・’… 1∼9. 第一章 電子メディアの中のケータイの位置づけ. 第一節メディアの概念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 10∼13 第二節電子メディアが人間に与えた影響・・… 1・・・・・・・… 13∼21 第三節電子メディアとしてのケータイ・・・・・・・・・・・・・・… 21∼24. 第二章 ケータイ・コミュニケーションの構造. 第一節 コミュニケーションの概念・・・・・・・・・・・・・・・・… 25 第二節 自己充足酌コミュニケーションについて・・・・・・・・・・… 25∼32 第三節 排除された他者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 32∼37. 第三章 レヴィナスの他者論に基づく自己充足的コミュニケーションの克服 第一節他者諭とは何か・・・・・・・・・・・・・・・…. 第二節他者への応答一責任・・・…. .・・…. H・・・・・・… ’・・…. 」・38∼43. 43∼47. 第三飾倫理的な主体の主体性・・H・・・・・・・・・・・・・・… 47∼50. 終章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 51∼53. 主要・弓1月参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 54∼56.
(3) 序章. 1.問題の所在と研究の日的. 日本で携帯電話が利用されるようになってから20年以上経った現在、携帯電話とそれ を利用する子どもや若者の人格と、コミュニケーションの「病理」とが結びつけられて考 えられる傾向にある。「病理」の一つの例として挙げられるのが「メール依存症」である。 メール依存症とは、一人でいる寂しさを埋めるためにメールのやりとりをする状態をさす。. 他愛ないメッセージのやりとりを通して、他者とのつながりを確認し、寂しさを低減しよ うとしているのである。. マイアソン(Myerson,∫,1957・)は、ハーバーマスのコミュニケーション的行為に基づ. き、われわれが行う携帯メールは功利的な目的を達成するための戦略的行為だと主張する。 マイアソンによれば、哲学者が考えるコミュニケーションは、理解に達するこ二とを目指し. て言葉を使う。一方、戦略的行為は序段」であり、個人が支配権を握って個人の目的を 果たすことである(マイアソン2004=30頁)。マイアソンはコミュニケーションの戦略的 行為を批判しているのである。戦略的行為は、他者とのつながりの確認を可能にする。し かし、そこに空白が生じたとき、その空白をまたメールによって埋めようとする状態が生 じるという(辻2006:46頁)。ケータイ・コミュニケーションにおいて他者との関わりは 必要不可欠である。しかし、他者を自己の欲求を満たすための手段とすることは、他者を 必要としながら道具のように扱っているといえ、他者への理解に近づくことはできないの ではないだろうか。ケータイ・コミュニケーションにおいて現れる他者についての考察が 必要であると。考える。. 本研究では、携帯電話の自己充足酌な利用を強化しているメール機能に者同する。そし て、メール機能を用いたコミュニケーションをケータイ・コミュニケーションと呼ぶこと にする。ケータイ・コミュニケーションにおける自己充足的な利用は、メッセージの送り 手である主体からの働きかけによるものであり、メッセージの受け手である他者に対して 接近を求めながらもコントロールを試みるという矛盾したコミュニケーションのあり方と 言えるのではないだろうか。ケータイ・1コミュニケーションにおいて現れる他者について. 考察するという問題関心から、本研究では他者について論じたE、レヴィナス (Le由naslE、,1906−1995)を取り上げる。. レヴィナスは、ハイデガーの存在論を批判的に継承しつつ、独自の実存的思索を行った.
(4) ユダヤ系フランス人哲学者である。レヴィナスは自らナチスに迫害された経験を元に、自 我の持っ本質的な性のエゴイズムを超越するための哲学的方法を考察し、他者との没利害 的で無私なる「倫理的」関係のあり方を探求した学者として知られる。自己と他者の関係 において、両者の間には絶対的な隔たりが存在している。よって自己は他者を同化するこ とはできない。だからこそ自己が他者への接近を試みるのだと捉えているレヴィナスの思 想は、他者との理想的な関わり方を示し、良好な人間関係を築くためのヒントを与えてく れるのではないだろうか。. レヴィナスの思想に注目して、ケータイ・コミュニケーションにおける他者の解明を目 指す。それにより、他者とのコミュニケーションの新たな可能性を探究することを目的と する。. 2.先行研究の検討と本研究の特色 現在、小学生のような小さな子どもから高齢者まで幅広い年齢層の人がケータイを持ち、. 各々コミュニケーション・ツールとして利用している。そして、人々が行うケータイ・コ ミュニケーションについて、通話、メール、インターネット機能を、どのような人々がど のように用いているのか、さまざまな研究がなされている。数多くのケ二タイ利用者のう ち、最も研究の対象とされやすいのが、かつてケータイを仕事用からプライベートヘの利. 用にシフトさせた若者たち、つまり10代、20代を中心とする若年層の人びとである。若 者たちはケータイを最も頻繁に利用してきたし、携帯電話会杜は若者たちに利用してもら えるようにケータイそのものの形や機能、サービスを改良してきた。そして現在も若者た ちとケータイの相互作用は起こり続けており、ケータイがさらに便利になるように改良さ れる一方で、ケータイの新たな機能が開発されるたびにわれわれはその被験者となってい るのである。そうしてケータイは進化を遂げていくことになる。常に新しいものを求め続 ける性質を持つ若者たちは、ケータイ利用の最前線といえるのである。. しかし、注目されているのは、彼らがケータイを頻繁に利用しているという事態だけで はない。若者たちがケータイを用いて行うコミュニケーションそのものや、コミュニケー ションによって取り持たれている人間関係といった側面も注目されているのである。 若者によるケータイ・ニコミュニケ』ションが注目されるようになった背景には、現在の 日本における社会問題が関係している。社会問題の中でも、特に「人間関係の希薄化jは、 若者のケータイ・コミュニケーションと結び付けて考えられやすい。なぜなら、「ケータイ.
(5) を持つことによって、若者は対面でのコミュニケーションがとれなくなってしまったので はないか」と考えられる傾向にあるからである。たとえば小原(2004)は、ケータイ・コ ミュニケーションが若者に与える影響として、対面での会話の機会を減少させる可能性が あることを述べている。ケータイ・:コミュニケーションに慣れた若者にとっては、対面で. の会話は疲れるし、恥ずかしいものであると感じられる可能性がある。そのため、向き合 って話すよりもメールを使ってコミュニケーションをとる傾向にある。一対一で話すこと. ができない者にとってケータイが便利な道具として働くというのである(小原2004:166 −167)。対面でのコミュニケーションにおいて必然的に発生するわずらわしさは、実際の. 対面の状況を作り出さないケータイ・コミュニケーションでは感じることはない。ケータ イ・コミュニケーションの便利さに若者が慣れてしまうと、対面での会話を面倒に感じる ようになり、ケータイ・コミュニケーションが強化されるのではないだろうか。つまり、. 電子メディア、特にケータイをはじめとする持ち運び可能のポ』ダブル・メディア、個人 と個人とをつなげるパーソナル・メディアとしての特徴をもつメディアが、対面でのわず らわしさを解消する点や、時間・空間に拘束されないという利便性をもつために、利用が 強化されたと考えられる。そして、若者がメディアを用いて人と接する姿を見て、人間関 係希薄化を感じるようになったと考えられる。. しかし、人間関係希薄化論は、ケータイの普及以前から問題にされていたことであり、. ケータイの普及により起こった問題というわけではない』ケータイより先に普及していた. PHSやポケットベルは、現在のケータイ利用の元となっており、PHSやポケットベルの 普及は、プライベートな利用へと結びついていった。ケータイを用いる以前に若者の人間 関係が何らかの理由で希薄化し、ケータイなどのメディアを通じて人とつながりをもつこ とが、希薄化を助長しているのではないかと考えられてきた。. こうした議論について、中村(2003)は、若者の人間関係の希薄化論を否定する。中村 は、愛媛県松山市内の学生469名に、携帯メディア〈ここではポケットベル)を常用する 者と、しない者とでは、表層的人間関係の態度をとろうとする者の差が出るかどうかを調 べた。すると、ポケットベルを常用する者で23,5%、常用しない者で38.5%と、議論とは. 逆に、ポケットベルを常用する者よりも、そうでない者のほうが表層的人間関係の態度を とる傾向にあることが明らかになったのである。つまり、ポケットベル常用者は、対面関 係が活発ということである。ポケットベル常用者は、人と会っておしゃべりをすることが 多く、社交的な集まりによく出かけ、昼食を誰かと一緒に食べることが多い傾向があった.
(6) という。つまり、ポケットベルのような携帯メディア利用と、表層的人間関係の関連性は、. すでにポケットベルの段階で否定的なものだったということを中村は明らかにしたのであ る(中村2003:86−88頁)。. ポケットベルだけでなく、同じ携帯メディアである携帯電話の通話・メール機能にも同 様の結果が見られた。通話機能と表層的人間関係の関連は、97年に行われた「第三回情報 化と青少年に関する調査」を橋元(1998)が再分析したところ、携帯電話利用者は、非利 用者よりも深い友人関係を好む傾向が見られたという。橋元は「同性の一番の親友とは何 も言わないでも分かり合える」「同性の一番の友人であってもあまり深刻な相談はしない」. などから「友人関係の深さ」スケールをつくり、携帯電話利用との関連を見たところ、利 用者の平均が1.33であったのに対し、非利用者はO・71と、利用者よりも友人関係が浅い 傾向が見られたという(橋本1998:121・122頁)。. メールについては、辻が友人へのメールの送信数が多い学生ほど、友人数が多く、普段 友だちと行動することが多いなど、友人関係が活発であることを明らかにした。また、r仲 の良い友だちでも、ずっといっしょにいると、別の友人と話したくなる」と考える人が少 なく、「自分の本音を話すことが友だちづきあいで重要」と考える人が多いなど、メールを. 利用する人ほど友人と密に付き合うことを好む傾向があることも明らかにした(橋本 2007:155頁)。. さらに中村(2003)は、社会心理学的な視点から見ても、メールを多用する者は相談事 などを親しい人に何でも相談でき、対人不安が少なく、周りの人たちと親密に付き会えて いると感じており、孤独感が低い傾向があることを明らかにした。同様に、松岡(2001). が関東と関西の2大学の学生586人を対象に、2001年に行った調査でも、メールのヘビ ーユーザーには、友人数が多く、恋人がおり、社交性が高い傾向があることを明らかにし. た。さらにモパイルコミュニケーション研究会(2002)が2001年に全国の12∼69歳に 対して行った調査でも、メール利用者は友人と深い付き合いを志向していることが明らか にされた。すなわち、「友人であっても、互いのプライベートには深入りしたくない」と答 えた割合は、メールと通話機能の利用者で58,4%、通話機能利用者は79.9%、携帯電話非. 利用者は80.3%と、メール利用者で最も低かった。つまり、メール利用者は、友人との深 い付き合いを望んでいるということである。この傾向は、年齢層ごとに見ても同じであっ たという(中村2003:88頁)。. 中村、辻、松岡、そしてモパイルメディア研究会の調査により、携帯メディアの利用者 4.
(7) が表層的人間関係を好むという議論が、一貫して否定されたのである。. さらに、調査対象を若者に限定して、若者の友人関係が表層化してきたという議論につ いて、橘元(1998)が各種調査を検討したところ、そのデータ的裏づけは見出せなかった という。たとえば、総務庁の「青少年の連帯感調査」では、「心を打ち明けて話せる友人の. 数jは80年2.8人、95年3.1人と増加している。NHK放送文化研究所の調査によると、 1982年から92年にかけて、若者の友人数は増加しているし、友人との付き合い方も「心 の深いところは出さないで付き合う」という人の割合はこの間ほとんど変化していなかっ たという。モパイルコミュニケ]ション研究会(2002)の調査によると、友人関係は、10 代から60代へと、年齢が上がるほど希薄化していた。すなわち、「友人であっても、互い のプライベートには深入りしたくない」「友人とは互いを傷つけないようにできるだけ気を. 遣う」という項目は年齢が高いほど選択率が高くなり、襯友であっても自分をさらけ出す. わけではない」も10代を除いて年齢が高いほど選択率が高かった。これは、若者の人間 関係が表層的で希薄なものになっているという議論とは、全く逆の結果であったという。. 若者の人間関係が表層的であるという議論そのものが、データに基づかない、思い込み の議論であったことにすぎないことが明らかにされたのである。. しかしそれでも、人間関係希薄化論は、未だに消えることはなく人々の思い込みとなっ. て残っている。たとえば、読売新聞記事(2006年6月12目付)の「豊かさ再発見」とい うコラムは、「「つながり」求める若者」と題されている。人付き合いや人間関係が希薄に. なりつつあると「思う」人が、20∼70代のどの年齢層の割合を見ても2007年7月よりも 増加しており、人々が人間関係の希薄化を危惧していることを示している。コラムの中で、. 鷲囲清一氏はギライブドア事件に象徴されるように、社会が投機的なものへ傾倒している ことも一因。そうした世界では、義理とか信頼といったウエットなものが通用しないこと をみんな感じていて、底知れない不安がある」と述べ、調査結果に対して「二一トやひき こもりなど最近の若者の社会現象も背景にあると思われる。人とのつながりを築くことへ の思い、願望は強くなっていることの裏返しでもある」と分析している。 また、同コラムの中で、診療内科医の海原純子氏は、「少子化などの影響か、若者を中心. に一人の時間を作りつつ、人と関わる距離感をつかむのが下手な人が増えている」と指摘 し、晦離がつかめず、他人に近づきすぎていやな思いをするのも面倒で、避けてしまいが ち」と述べている。つながりを求めながらも、うまく人間関係を築くことができず、主に パソコンなどの電子メディアに向き合う若者像を容易に想像できる。 5.
(8) 人間関係希薄化論が否定されてもなお、人々が人間関係の希薄化を危惧しているのは、 つながりを求めながらも、うまく人間関係を築くことができず、他者とどれくらいの距離 感をとって問わればよいのかが分からないからであると考えられる。. 人生を豊かにするために、多くの人と信頼しあえる関係を作り、良好な人間関係を築く ことは講じもが望むことである。しかし、どのようにして良好な人間関係を築けばよいの か、人々は迷い悩む。対面だけでなく、ケータイ・コミュニケーションによってつながり をはかり、人間関係を保とうともする。活発に他者とのコミュニケーションをとろうとす るが、人間関係が希薄化したと思わずにはいられないのである。. 携帯電話の自己充足的な利用をもっとも先に行ったとされるのが若者であったことは先 に述べた。若者の携帯電話の利用方法が特殊で、利用頻度が高いことから、「(日本の)若. 者や子どもは携帯電話に依存している、メールに依存している」という印象がわれわれの 申に定着していることは事実である。では、携帯電話を頻繁に利用するのは、若者や子ど もだけの特質なのか、それとも日本人ならではの特質なのであろうか。岡田(2002)によ ると、携帯電話の普及率の高さから見ると、普及率が高いのは日本だけではないという。. 貝本に限らず、北欧のフィンランドやスウェーデン、ノルウェーなどの国では普及率が7 割を超えており、アジアでは韓国が日本同様に携帯電話の利用が活発である国であるとい う。北欧の国々では、日本よりも先に、携帯電話によるメールサービス(SMS:ショート メッセージ・サービス)が開始されていた。しかし、北欧諸国では、日本ほど携帯電話の 利用が活発化することがなかった。なぜなら、北欧諸国には、日本におけるポケットベル のような、携帯電話の前身になるようなものが存在していなかったからである。事実、北 欧諸国では、ケータイ・コミュニケーションはあまり行われることはなく、携帯電話の主 な使用胃的は通話なのだという。日本の若者が一目に何十通もメ]ルのやりとりをする一 方で、北欧の若者は一目に数通しかメールのやり取りをしないのだという。この違いの元 になるのぽ、先に述べたように北欧諸国にはポケベルのようなものがなかったことが一つ の原因である。北欧と比べ、日本では携帯電話利用の前身になるポケットベルが存在して いたため、若者によるポケットベルの自己充足的な利用は当たり前のものとなっていた。. ポケットベルが携帯電話に取って代わり、メール機能を備えた携帯電話が普及すると、各 携帯会社の闇で顧客獲得競争が激しくなり、メール料金が一気に急落した。メール料金が 安価であることは、若者や子どもの、ケータイ・コミュニケーションの利用を強化した。. このような状況が北欧にはなかったため、北欧ではメール料金が下がることはなく、メー.
(9) ル料金が日本のように安価になることはなかった。その結果、北欧諸国ではケータイ・コ ミュニケーションが活発になることはなく、メールよりも通話機能が重視されるようにな ったのだという。北欧諸国と、アジア(韓国・日本)でこれほど利用状況に差があるのは、. 東洋人が間接的なコミュニケーションを好むことや、東洋人が恥ずかしがり屋であること. といった安易な理由だけではない。確かに、日本人はrケータイ依存症」やrメール依存 症」という言葉ができるほどケータイやメールを頻繁に利用している民族である。これほ どまでに日本人が携帯電話と深く結びついているのは、日本だけではないが東洋人として の性質、携帯電話の通信費用の問題などといった要因を含んでいるからなのである(岡田 2002:43−45頁)。つまり、日本の若者や子どもがケータイ・コミュニケーションを活発 に行う理由として、日本人特有の恥ずかしがり屋である気質と、若者特有のつながりを大 切にする気質と、通信金杜の事情とが複雑にからみあっていると言えるのである。. 携帯電話やポケットベルは、もともと企業などが外出先の社員と連絡を取り合うために 作りだされたものであった。それが今日では、個人と個人とをダイレクトに結ぶパーソナ ル・メディアとしてその地位を確立している。ポケットベルは携帯電話同様、文字メッセ ージのやり取りが可能であったが、本当に即時に誰かと連絡を取る必要がある場合に用い る電話の機能を備えていなかったために衰退していった。一方携帯電話は、個人と個人と をダイレクトに結ぶだけでなく、あらゆる機能をそなえたマルチメディアである。携帯電 話の多機能1性が、人々の利用を強化していると考えられる。. しかし、個人と個人とを緕ぶメディアであるはずの携帯電話によって、つながりの確認 ができなかった場合、携帯電話は他者とコミュニケ]ションをとる楽しみではなく、寂し さや孤独をもたらすメディアとなる。辻(2006)は、携帯メールの性質として、つながり の確認ができなければ、再びメールを送ることで寂しさを埋めようとする悪循環を「つな がりの不安スパイラル」であるとして指摘している。「つながりの不安スパイラル」とは、. 言い換えると、メール依存症に見られるように、常に誰かと携帯メールのやり取りをして つながりを確認しておかずにはいられなくなる状態である。携帯メールのやり取りが途切. れた時、つながりも途切れるのではないかと恐怖感を抱いているということである(辻 2006:46−49頁)。当然のことながら、携帯メールによってつながりの確認を求めるのは、. メールの送り手による自主的な働きかけである。やり取りする相手がどのように感じてい るか分からないまま、メールはすすめられる。つまり、メールの送り手が勝手に、やり取 りする相手に対してコミュニケーションを求めていると言い換えることができる。つなが 7.
(10) りの確認ができる者とのメールのやり散りにおいて、メールの相手は、自己の欲求を満た すための手段となっているのではないだろうか。ケータイ・コミュニケ㎞ションにおいて 他者は、メールの返信という反応を求められる道具のように扱われているのではないだろ うか。. 本研究では、ケータイ1コミュニケーションを全面的に否定するのではなく、人間関係 構築のうえで役立つものとして、尊重するものとなる可能性を秘めるものと考える立場に 立つ。しかし、ケータイ・コミュニケーションにおける自己充足的な利用が、結果的にわ れわれに人間関係の希薄化を感じさせる要因の一部となっていることは容易に理解できる、. 他者との理想的な人間関係の構築のために、ケータイ・コミュニケーションにおける自己 充足的な利用の問題点を探り、哲学者レヴィナスの他者論に基づくことでどのように克服 できるかを探究することが本研究の目的である。. 3.論文構成 本研究では、ケータイ・コミュニケーションの特徴を明らかにした上で、ケータイ・コ ミュニケーションの一つの側面である自己充足的コミュニケーションを、レヴィナスの純 音論の観点から基づき、どのように克服することができるのかを探るため、以下のように 論文を構成する。. 第一章では、そもそも携帯電話をはじめとする電子メディアが、人間形成にもたらした ものとは何かを明らかにする。また、あらゆる電子メディアの中で、携帯電話のメール機 能がどのような特徴を持つのかを明らかにする。. 第二章では、ケータイ・コミュニケーションの構造の申でも、他者を道具のように利用 し自己の欲求を満たす手段とする自己充足的な利用という側面に注目する。自己充足的な 利用の背景には、ケータイ・コミュニケーションによって他者とのつながりの確認をはか ろうとする意識があり、他者への近接への欲求が結果的に他者を支配しようとする行動に 結びついており、他者は排除されている点を指摘する。ロミュニケーションにおいて必要 不可欠である他者が、自己充足的コミュニケーションにおいては自己の欲求を満たす手段 となりうる。携帯メールが生み出す対面でないという状況が他者の存在を見えにくくして いる可能性を指摘する。. 第三章では、自己充足的コミュニケーションが、レヴィナスの他者論に基づき、どのよ うに克服できるのかを考察する。レヴィナスは自己と他者との関係において、他者の優位 8.
(11) 性を述べている。他者は自己を支配し、支配された自己は他者に応答という形で働きかけ る。レヴィナスの思想において、自己は、他者への絶対的臣従により初めて主体になり、 他者からの呼びかけに応答することで主体性を発揮する。. さまざまな電子メディアが、人間の欲求を満たしてきたと同時に、われわれ人間も便利 を追求し科学技術を発展させてきた。科学技術は、人間が何もかもを支配しコント1コール できると思わせてしまうほど進歩を遂げ、結果人間が介入する必要がなくなった部分は否 定できない。電話に端を発するパーソナノレ・メディアは、テレビやラジオと違い双方向通. 信可能で、一人対一人で情報が通信できる点が利点だが、人間と人間の間に介入する機械 は、コミュニケーションをとっているのが同じ人間である感覚を忘れさせてしまう。ケー タイ・コミュニケーションにおける自己充足的な利用は、あたかも一対一で会話をしてい るかのようにすすめられ、メールのやり取りをする相手と自分とが親密になった、距離が 縮まったという感覚に陥るが、ケータイ・コミュニケーションが他者への理解につながる と言い切ることはできないのである。. 9.
(12) 第一章 電子メディアの中のケータイの位置づけ. 現在、携帯電話に関する研究や調査が、様々な視点からなされている。携帯電話に関す る研究や調査の内容としては、次のようなものが挙げられる。. ・どの機能をよく利用するかなどの利用方法についての調査 ・一目どれくらい利用するかという使用頻度についての調査 ・通話やメール、インターネット機能を利用するのであれば講とコミュニケーションを とっているかについての調査 ・どのように利用しているかという利用内容についての調査 これらの調査から明らかになった携帯電話の利用実態は、人々がいかに携帯電話を、た だの小型電話以上の道具ととらえているかを表している。利用方法に偶人差があるものの、. 携帯電話の利便性が人々の携帯電話利用を強化していることは確かである。. 本章では、これまでどのようなメディアが存在し、われわれに何をもたらしたのかを明 らかにする。そして本研究で注目する携帯電話がどのような特徴をもつメディアなのかを 明らかにする。. 第一節 メディアの概念. メディアとは、ラテン語「拠eaiu剛の複数形から派生した概念で、媒体や手段とい う意味を持つ。「もの」と「もの」との間をつなぐのがメディアの働きであり、つないで. いるものそれ自体もメディアのうちに含まれる。われわれにとって一番身近なメディア の典型例を述べると、人と人との間をつなぐ言葉や文字といった、コミュニケーション を媒介するものが挙げられる。さらに、マスーコミュニケーションの媒体、つまりテレ ビやラジオ、新聞、雑誌といったマスメディア(大衆伝達)もメディアとしてとらえら. れている。近年では、科学技術の発展がめまぐるしく、新たに開発された電子通信機器 もまた、人と人をつなぐ役割を果たしている。電子機器は、現在電子メディアとして定 義づけられることとなった。メディアとしてとらえられるものが多岐にわたるようにな った現在では、メディアという言葉を厳密に定義することは難しいとされている。. イギリスのメディア研究者ウィリアムズ(2002)によれば、メディアの意味は次の3. 10.
(13) つに収束してきているという。つまり、「①古い一般的な意味で、あいだに入ったり、媒 介する作用や実体、②印刷、音声、視覚を媒体として区別することに見られるような、. 意識的、専門的な意味、③薪闘や放送事業という、すでに存在する、あるいはこれから. 計画可能なものが、広告など何か別のもののためのmedium(媒体、媒介手段)とされ るような、特殊な資本主義的な意味i」という3つの意味である。メディアの概念は、非 常に広範になってきており、明確に示すことは難しいといえる。. ウィリアムズ(2002)によれば、メディアの古い一般的な意味とされる「あいだに入 ったり、媒介する作用や実体」という第一の意味とは、メディアが人とのあいだでのコ ミュニケーションのなかで果たす機能ということである。たとえば、自然環境と密接な 関わりを持ちその中で生きるわれわれ入間にとって、例えば農機具は自然とわれわれと. の間をつなぐものであり、農機具も一つのメディアと言えることになる。ウィリアムズ は、メディアを、人と人のあいだのニコミュニケーションを媒介する作用や実体という意. 味に限定すべきであるという(ウィリアムズ2002:203頁)。なぜなら、コミュニケー ションの媒介機能こそがメディアのもっとも基本的な意味だとウィリアムズがとらえて いるからである。. ②の印刷、音声、視覚などを媒体として区別するとは、それぞれのメディアが独特の 物理的特性を持ち、その特性によってコミュニケーションの媒介機能のあり方が違って くるということである。メディアの物理的特性は、人々の空間の認識・時間の認識のあ り方や思考法、さらに言うならば社会のあり方にも深く関連している。. 機械的なあるいは電子的な伝達技術、複製技術の発達は、印刷、音声、視覚などそれ ぞれのメディア特性を強化し、薪闘・ラジオ・テレビ等の具体的メディアが現実のもの となる。それらメディアは、社会の重要な機構のひとつとなり、また社会のあり方が特. 定の方向へのメディア技術の発達を促してきた。さらに、新聞・放送といったそれぞれ のメディアーのなかに独自の個性を持った多くの変種が生成する。活字メディアとしての 新聞の中にも、政論新聞、絵入り大衆新聞といった様々な種類が生まれ、それらは政治・. 社会・文化のあり方と対応している。放送についても、国ごとに様々な制度の違いがあ る。. ③の「すでに存在する、あるいはこれから計画可能なものが、広告など何か別のもの のための㎜eaiu㎜(媒体、媒介手段)とされる」という意味は、ウィリアムズ(2002) によると、広告など資本主義的経済活動から生まれたものであり、メディアという言葉. 11.
(14) が日常語化したのは広告業界から始まったとされる。しかし、この意味は、広告媒体と. いうだけではなく、非常に広く拡張していく。新聞やテレビ、ラジオ放送といったわれ われが普段利用するメディアに限らず、様々なものが「何か別のもののための㎜ediu㎜ (媒体、媒介手段)」の媒介手段となっており、儀式などのかたちのないものもまた伝統. 的価値の再確認などの媒介手段となっている(ウィリアムズ2002:203−204頁)。 現在われわれにとってメディアとは、一般的にマスメディアのことである。しかし、 コミュニケーションにおいて、メディアとは、古くはことば、音声のことを指していた ことは先に述べた。また、対面でのコミュニケーションであれば、言葉だけでなく身振 り手振りもメディアとして機能していた。われわれは、メディアだと認識したうえでこ とぱや音声を使用していたのではなく、無意識にことばや音声を使っていた。ことばや 音声といったメディアは、従来、人と人とをつなぐ媒介手段としてとらえられており、 メディアそれ自体はメッセージを持たないものと考えられてきた。しかし、マクルーハ. ン(McLuhanM,,1911−1980.1995)は、メディアそのものが、メディアが運ぶメッ セージとは別に独立した形で、人間の経験や社会関係を構造する力を持っていると考え た。「メディアはメッセージである」とはマクル]ハンの有名なことばであり、彼はこの. ことばで、メディアにはカがあることを主張しているのである。メディアの発展にとも ない、マクルーハンが言うような、目の延長である本や、耳の延長である電話、そして 人間の中枢神経系の延長である電気回路が開発された(マクルーハン1995:34−40頁)。. そして、本や電話、電気回路つまりコ1/ピュ]タというメディアは、あらゆる形へと姿 を変えながら普及していった。本は著者の思考や主張を、電話は話し手の生の声を、コ ンピュータは不特定多数の情報発信者の意見を、それぞれ他者へと発信する装置として. 機能することとなった。人々は、声のように自分の体から直接生み出されるメディアを 介したコミュニケーションから、本や新聞、テレビ、インターネットなどの物理的な道 具を介した:・ミュニケーションを可能にしたのである。. しかし、かつて人間に利用され、操られる存在であったメディアはもはや、人間を巨 大なネットワークの申に人間を組み込んでしまっている。事実、「人間ではな一 ュ機械を相. 手としたコミュニケーションの割合は不断に増加しているii」と、ボルヅ(2005)は述 べている。ホルツは、先史時代の人々がトーテムiiiを崇める様子と、人間精神をデジタ ル計算機の機能様式と比較するチューリング・テストの様子とを比較し、「人間が自己を 定義するにはつねに問題が存在する圭・」ことを主張する。ホルツによれば、「人間は自己. 12.
(15) を自己とは違う何かと等置し、かつ同時に自己をそこから区別しなければならない・」た. めに、先史時代の人々はトーテムと自らを、人間はデジタル計算機の機能様式と自らの 精神とを比較してはじめて自己を区別できるのであるという。ボルヅの言葉で言い換え れば、「人間は自らを発見するために、繰り返し自らを自分が生み出した技術と比較する. 可玉」ということである。人間は、自分たちが生み出したメディアを自分たちと比較する ことによって、自らを発見することができる。よって、私たちは、身の回りにあるあら ゆるメディアとの関わりによって、自分を知ることができるということである。. 第二鎌 電子メディアが人間形成に与えた影響. メディアの概念が現在非常に広範になっており、厳密に定義することが難しいことを前 節で述べた。しかし、メディアという括りだけではなく、さらにその中の電子メディアの 概念も広がっている。なぜなら、現在では、ラジオやテレビといった一方方向通信の大衆 向のマスメディアだけではなく、個人から個人へとダイレクトにつながる携帯電話やイン ターネットといった双方向のメディアが登場したからである。ラジオやテレビと、携帯電 話やインターネットの大きな差は、一方方向通信であるか、双方向通信であるかという点 である。ここでは、小澤(2006)にならい、電信・ラジオ、電話・テレビなどの古いアナ ログタイプの電子メディアと、インターネットアクセスが可能な新しいデジタルタイプの. 電子メディアとに分けて考える。なぜなら、メディアの性質がアナログかデジタルかによ って、人間形成に与える影響が異なると考えられるからであり、詳しいことはのちに述べ る。前者のアナログタイプのメディアを「電子メディア(e1eCtroniC media)」、後者のデ. ジタルタイプのメディアを「デジタルメディア(d壊taI media)」と呼ぶことにする(小 澤2006=22頁)。. はじめに、電子メディアにいたるまでのメディアが、人間形成にどのように影響を及ぼ したのかを述べる。メディアの一番原始的なものとして挙げられるのが言葉であったのだ が、小澤(2006)は、オンダ(Wa1ter工Ong,1991)が行っている口承社会から文字社会、. 活字社会という移り変わりについての歴史的考察に着目する。オンダ(1991)は、「声」 だけを話す人々と「文字」を覚えた人々とを比較し、両者の間には思考習慣の相違が見ら れるとしている。さらに思考習慣だけでなく、社会的相違にまで及んでいるとしている。. 13.
(16) オンダによれば、文字をもたなかった時代、つまり口承世界では「剤が人々をつなぐ 役割を果たしていたとする。そして「声」が共同体を形成、維持するうえで重要であった としている(オンダ1991:147頁)。. その後、文字の登場により、人々は声の及ぶ範囲を超えてコミュニケーションをとるこ とを可能にした。文字は従来の小さな共同体の範囲を広げ、声の届かない遠方の地まで支 配することが可能になり、結果として国家や帝国が作り出されだとしている。国家や帝国 では、多くの人々を支配するため、法律や「聖なるテキスト」、つまり聖典が、文字に記さ. れ肩に見える形となって具現化されたのである(オンダ1991:219頁)。小澤(2006)に よると、文字はさらに、法律や聖典だけでなく、物語や伝承を書きとめられることにより、. 時間を超えて内面的世界を持続させてきた。そのため、文字を知る者と知らない者との差 異を拡張することとなったが、声と結びつくことによって、支配者の権力を声の届かない 範囲にまで拡張したとしている(小澤2006:22頁)。声が届く範囲は限られているが、文 字の登場によって、声を遠くにいる者に文書として届けたり、文学として書き残すことが 可能になったのである。. 口承社会の次に到来したのは、文字社会であった。小澤(2006)によると、文字社会の 申で登場した新聞は、近代国家の形成には必要不可欠であり、新聞があったからこそ国民 を統合することが可能になったとしている(小澤2006:21頁)。なぜなら、新聞に記され た事柄が多くの国民に知れわたることによって、国民が共通の知識を得られるようになっ たからである。新聞というマスメディアは、国家が人々を統合するのに都合のよいメディ アであったといえる。. しかし文字社会においては新聞だけではなく、聖書も特殊な役割を果たしていたと考え られる。オンダ(1991)は、人々が聖書を黙読する習慣を身につけたことで、個人意識の. 形成が可能になったとする(オンダ1991:268頁)。文字の黙読によって個人意識が形成 され、人々が個人の尊厳を主張する傾向にいたったのである。オンダによれば、文字を読. むことで視覚的能力を発達させた人々は、文字を書くことによって、正確さと分析的な厳 密さを求める感覚を身につける。そしてその感覚が内面化されると、今度は書くことだけ でなく、口頭での話の中でも同様に、正確さと分析的な厳密さを求めるようになるという (オンダ1991:217頁)。. 口承社会においては声が、文字社会では文字が、人々のメディアとなっていた。そして それらメディアは、共同体の中にいる少数の人をつなぐ役割から、国家や帝国の申にいる. 14.
(17) 多くの人々を連帯させ支配する役割を果たすようになっていった。文字の登場によってわ れわれは、講かが書き遺したものを見ることができ、偶人意識の形成を可能にし、正確に 厳密に書こうとする意識を身につけたのである。. 次に、本研究と関連のある電子メディアが人間形成に与えた影響を述べる。電子メディ アの中でもアナログタイプのr電子メディア」から先に述べる。. 文字杜会においては、新聞が、国家や帝国を統合させるために重要な役割であることを 述べた。その後、新聞に代わって国民国家の統合を行い、人々に共通の知識を与える役割 を果たしたのがラジオやテレビであった。しかし、ラジオが国民統合のメディアであった. のは、テレビの出現までの時期である。テレビがラジオに代わって大衆向けメディアの頂 点にたつと、ラジオは株式市場、音楽番組、趣味の番組などに細分化され、さらに学生、 女性、高齢着など異なる視聴者を対象とするように変化していった(小澤2006:22頁)。. 子ども向け、学生向け、高齢者向けというように、番組のおもな聞き手となる世代に焦点 をしぼって制作された番組が放送されるようになったのである。ラジオに限らずテレビも 同様で、子ども向けのアニメ番組や、若者向けの音楽番組などが放送されるようになった。. ラジオとテレビの差は、情報を耳で受け取るか、耳と目から受け取るかである。現在、 われわれの身近にある電子メディアと子どもの関係について、ザンダース(1998)は、大 多数の子どもたちが、主にテレビや映画、ラジオといった電子メディアから人間の声を聞 き、また人間の言葉を見ているとする。ザンダースは、オンダのいう口承社会の必要性を、. 特に子ども期に体験する必要性を主張する。テレビや映画、ラジオといったメディアは、 ザンダース(1998)によれば、「2,3世代にもわたる人々に、電気的刺激を現実のものと して受け入れるよう催眠にかけた、電気の魔術vii」である。この電気の魔術、つまりテレ ビやラジオなどの電子メディアからは、絶えず人間の声が流されているため、子どもたち を口承世界に浸らせる機会を与えている、というのが現代の社会的な通念になっているよ うである。しかし、実際にはザンダースが主張するように、テレビやラジオといった電子 メディアは、子どもたちを口承世界から遠ざける。なぜなら、電子メディアから流れてく る人間の声は、口承世界における物語や会話とは性質が違うものだからである(ザンダー ス:46−47頁)。物語や会話こそ、子どもたちを口承世界に導くというのが、ザンダース の主張なのである。. 現在子どもたちは、さまざまな電子メディアと長時間触れ合っている。たとえば、テレ ビ、パソコン、テレビゲーム、小型のポータブルゲーム機といった電子メディアである。. 15.
(18) ザンダース(1998)によれば、子どもは電子メディアを介して多くの人間の会話を耳に している。電子メディアが、子どもに会話を提供することで、子どもを口承世界に導くか. のように考えられる可能性がある(ザンダース1998:4ト46頁)。 しかしテレビから流れてくる音声を聞くご二とは、一見たくさん会話を浴びているように. 見えるが、口承活動とはならない。電子メディアで話す人は皆、話すことが台本によって あらかじめ決められているとザンダースは述べる。話すときの声のトーンやイントネーシ ョン、強調点といった話し方も、あらかじめ練習されているものである。番組はどれもそ. れぞれが、視聴者に見てもらうためにおもしろおかしく作られたものであり、なりゆきや 即興に任せる番組は、皆無とはいえないまでもほとんどないに等しい。テレビ番組のよう にあらかじめ話し方が練習されている会話は、口承世界の中で必要な、自然なリラックス した会話ではない。. 電子メディアに耳を傾けている人は講も、口承文化に参カ日してはいないとザンダース (1998)は述べている。電子メディアは会話のもっとも基本的な規則に違反しており、闇 き手が口をはさむことができない。そして、口論や質問や繰り返しなどの割り込みが、口. 承の中心にはある。会話では、参加者たちには規則を破るというオプションがある。無作 法が突発する恐れがいつでもある。人間の自然な会話に対して、ラジオ番組は、決められ た時間の中で内容を放送する必要があり、われわれは整えられた会話を伝えられる。しか し、「もし二人の人がお互いの顔を見ることができなければ、会話が起こっているとはほと んど言えない洲」のである。. また、テレビは人間の声を殺してしまうとザンダース(1998)は述べている。なぜなら、 テレビのスクリーン上に映しだされるイメージは、あまりにも遠く通り過ぎてしまうため、. 子どもの心ではそれについて考えたり分析したりすることができない。その上、子どもた ちは、コマーシャルで流れるものが、本当に満足を与えてくれるものだと思ってしまう。 現に、テレビから流れるキャッチフレーズや、音楽を子どもたちは覚える。その言葉がた とえあまり子どもにとってふさわしくない言葉であっても、子どもたちはその言葉を覚え、 ときにそれを友人や周りの大人に話したりする。. テレビが声を殺してしまう要因として、テレビは子どもの意義を受け付けないことも挙 げられる。テレビは情報を一方的にわれわれに伝えるのみであり、テレビの内容にこちら が異議をとなえたとしても、テレビにそれが伝わることはない。気に入らなければ、見る 番組を変えたり、テレビの電源を切ってしまうことができる。一方方向で情報を提供する. 16.
(19) テレととの会話は当然不可能であり、そこからは声を用いた会話は生まれない。また、気 に入らない番組を見ずに、テレビの電源を切ってテレビから離れることは、結果的に自分 の意見と違うものの見方を切り捨てることになり、そこからは自分の考えとは違う意見を 受け入れ、それについて議論する態度が育つとは考えにくい。テレビは、人間の声、人間 の自然な会話を減少させるというのである。. 現在、子どもにテレビを見せることによって、暴力のイメージを見た子どもが外で、暴 力行為を真似してやってしまうかもしれないと思われているが、ザンダース(1998)にと っては、テレビを見ることによって子どもたちが暴力的になってしまうなどということが 問題なのではない。そうではなくて、テレビや映画やテレビゲームで育った子どもたちは、. 非人閥的な暴力が、一般的な有効性や刺激のしるしではない世界、つまり、非人間的な暴. 力がまかりとおる残虐な世界を想像するという困難な課題にぶつかることであるという (ザンダース1998:48−49頁)。. ザンダースによれば、テレビは、人が自分自身でイメージを作り出す能力を低下させ、. 作られたイメージにいっそう影響されやすくなるという悪循環をもたらす。テレビは聴 覚・視覚の両方から、見るものの脳にイメージを作り出す。テレビに対し、口承文化では、. 人は会話や語りといった、耳からの情報でなければ物事を知ることができなかった。耳か ら入る情報を忘れることができれば、何も問題はない。しかしテレビは聴覚だけでなく視. 覚にも訴えかける。子どもがひとたぴ見た恐ろしいものは、その一瞬だけでなく、何かの 拍子に子どもの目の前に現れるのである(ザンダース1998:48−49頁)。 また、テレビの視聴は、意思を弱めるとザンダースは述べている。なぜなら、テレビと いう娯楽が手近にあると、子どもは自然の資源に頼らなくなる。つまり、子どもが自然の 中で遊ぶ機会が減少する。テレビの存在が、子どもが退屈な状態に直面する必要をなくす のである。たとえば、子どもたちが学校から帰ってきて、やることもなく退屈な時間をす ごすことがある。子どもは、そんな退屈な時間を、自分たちでゲームを作って自発的に遊 んで過ごしたり、夢中になる何かおもしろいものを見つけ出したりしていた。しかし今日 では、子どもたちは自分の想像力を働かせる必要がない。新しいゲームを作り出すことも、. 新しい物語を作り出すことも、必要がなくなった。なぜなら、テレビが、子どもたちの代 わりに、退屈な時間を過ごすために働いてくれるからである。子どもたちは、テレビに向 かう。逆にテレビも、講も一時たりとも、楽しまないで過ごすべきではないと、視聴者に 働きかける。. 17.
(20) 退屈な時間は、まったく活動がない状態として無言のうちに過ぎていく。大人であって もそのような時間を過ごすことは望ましくなく、子どもたちにとっても無意味であるとと らえられがちである。しかし、退屈は思索の機会として機能する可能一性を秘めている。つ. まり、退屈は、子どもが自分でおもしろいと思うことを発見することのできる、静寂の空 間なのである。退屈というのは、テレビのイメージとは逆に、何も起こっていないように 見えながら、その背後に子どもが非常に重要な、あるもの一「彼ら、彼女らといった、 つまり自己であるi・」一を発見する可能性を秘めているのである。静寂の空間は、子ど もたちに、子どもたち自身が信じていること、考えていることは何なのかを気づかせる機. 会を子どもに与える。子どもが、退屈な時間を、すぐにテレビやゲームなどのメディアに 頼らずに、自分の力で有効に使うことができれば、退屈は自己内省的な洞察の機会へと変 わることができるのである。しかし、テレビは、子どもたちが退屈な時間を有効に使い、. 子ども自身が自己を発見しようとするのを妨害する。テレビは子どもを退屈な時間から遠 ざける。つまり、テレビは子どもが自己を発見する機会を奪うのである。テレビでは常に 何かが起こっている。テレビで起こっていることは、子どもたちにとって、人生がどのよ うであるべきかの強力なモデルとなる。子どもが何か「する」ことを求めてテレビをつけ ると、テレビはコマーシャルやアクション番組を通して、子どもが必要とし望んでいるも. のをしゃべりだす。つまり、子どもが自分の内へと向かい、芽生えつつある自己という社 会的構成物と沈黙の内に対話する機会を奪うのである。テレビは、感情面・心理面の必要 や要求を消費価値に置き換えることによって、発達過程を短絡化させる。子どもは、自分 の内的声に耳を傾ける代わりに、ものすごいスピードで流れていくコマーシャルや、常に. 誰かが殺害されるようなサスペンス劇場に注意を払う。子どもが過ごす退屈な時間を、テ レビは有意義なものに変えるが、「子どもにとって退屈な時間を過ごすことこそが発達の過 程である・」とザンダースは主張しているのである。. われわれは、テレビの画面を、何かを見るように見ているのではなく、むしろ現実に触 れているかのように、触覚的に感じているのかもしれない。その意味では、われわれはテ レビを見てレ.・るというわけではないのかもしれない。. テレビ同様にスグリ㎞ンに映像を映し出す電子メディアとして映画があるが、和囲 (2006)は、テレビと映画とは全く異質なメディアであることを指摘している。和囲によ ると、テレビは、映画のような「視覚メディア」ではなく、「情報=言語メディア」である. という。テレビからの情報のうち重要なのは映像ではなく音声である。一方、映画と比べ. 18.
(21) てテレビの映像はそれほど必要でなく、むしろ見るに堪えないものであるというのである。. テレビは、過剰の画面情報と音声情報によって「見ること」や「思考すること」を抑圧す る。そのため、ザンダース(1998)が主張するように、テレビは「見ること」や「思考す ること」を放棄し、主体性を放棄して、過剰な南面情報と音声情報に受動的に従う態度を 養う。っまりそれはテレビの画面を見る態度だといえるのである。.和閏によれば、テレビ. は映画よりも、むしろ音声情報を重視するラジオと同じような「放送」であるという(和 尚2006:36−37頁)。. つまり、メディアが果たしてきた役割は、人々にメディアを通じて共通の知識を与える ことによる共同体・国民国家の統合であったといえる。まさに、新聞・ラジオ・テレビと. いったマスメディアは、人間の声を遠くまで広めることにより、国民国家を形成したもの といえるのである。. しかし、小澤(2006)は、古いメディアが、新しいメディアに対して細分化の傾向を示 すように、それぞれのメディアは、すでに細分化あるいは差異化の契機を内包していたと. いう(小澤2006;23頁)。たとえば、すでにテレビ放送の多チャンネル化による番組選択 の多様化が始まっていることが挙げられる。テレビは、単に放送受信装置としてだけでは なく、ホームビデオやレンタルどテオ再生画像のモニタ]、ゲームのモニターとしても利 用されているというように、テレビ利用の細分化が始まっている。その点で、テレビも共 通のものの拡張というメディアの役割を終えつつある可能性を小澤は指摘している。. 新聞やラジオ、テレビが人々に共通の知識を与えていた時代は終わりを告げようとして いる。そして皆が皆共通の知識を持つのではなく、各々が求める情報を手に入れることが できるようにメディアが変容をとげた。よって現在、アナログタイプの「電子メディア」. 以上に、インターネット機能を有するデジタルタイプの「デジタルメディア」が、われわ れにとって身近なメディアとなっているのである。. デジタルメディアは、世界中にウェブを張り巡らすことによって、地球規模でのコミュ ニケーションを可能にした。グローバル化を具現化したインターネットは、時間、空間の 物理的限界を超えて、われわれの声やわれわれが書く文字を世界中に届けることを可能に したのである。デジタルメディアの、時間、空間という物理的な限界を超えるという特徴 が、われわれに便利さを感じさせ、デジタルメディアは結果として現在のように急激に発 展、普及していったと考えられる。. 小澤(2006)は、デジタルメディアが急速に発展したの1辛利便性だけではなく、いって. 19.
(22) も双方向からコミュニケーションがとれるという特徴が要因の一つであるとしている。こ のことは携帯メールにも言えることであり、誰もが自分の意見を発信できるようになるこ とによって、主体的に生きることができるのである(小澤2006:25頁)。. 高度情報通信社会である現在は、コミュニケ]ションの形態が大きく変容した。アナロ グタイプの「電子メディア」と、インターネット機能を有する「デジタルメディア」との. 差は、マスコミからの楕報の受信が中心という「受け身jの状態から、各々が自分の意見 を自由に述べることができる情報の「双方向通信」へと変化したことであった。かつて、. 情報は、読み書きができるごく少数の人のみが独占するものであった。たとえ文字の読み 書きができたとしても、自分の意見を世に公表するためには、本を出版する必要があった。. 本の出版は当時講でもできたというわけではなく、やはり権力を持つ者や、裕福な者に限 られていた。新聞やテレビ、ラジオなどのマスコミは、人々に共通の知識を、与えるだけ のものであり、人々は情報の受け手に過ぎなかった。コミュニケーションがインターネッ トを通じて双方向通信に変わったことにより、人々の生き方が、情報の受け手という受動. 的1他律的な姿勢から、講でも自由に自分の意見を発信するという能動的・主体的・想像 的な生き方へと転換を図られているというようにも考えられる。. デジタルメディアによって、情報は一極集中型ではなく、分散的点在的になる。必要な 情報をネットワークによって求めると同時に、自分の意見や意思を伝達できるようになる. ことは、人としての生き方の基盤をなすものである(生田2008:4頁)。デジタルメディ アの普及により、われわれは自分の意見を自由に、世界中の人に即座に知らせることが可 能になったのである。. デジタルメディアの利便性は、われわれに、いつでも好きな時に好きなことができると. いう万能感をもたらす。デジタルメディアを利用すれば、人間一人の力ではできない複雑 なことや、時間や力が必要な物事が一瞬で片付く。たとえばインターネットを利用すれば、. 世界中の情報がいとも簡単に手に入る。遠い外国のことを調べるときでも、インターネッ トで検索すればいくらでも情報が見つかる。それは自分の操作方法のうまさではなく、機 械の性能が良いからこそできることだが、デジタルメディアの性能の良さは、人聞に、自 身が有能になったと勘違いさせる可能一性を含んでいる。デジタルメディアがわれわれに与. える万能感は、われわれ個人が、いつでもどこでも好きな時に、自由に何でもすることが できると誤解させる。確かにデジタルメディアの利便性は、時間や空間という物理的限界 を超えて、情報収集やコミュニケーションをとることを可能にする。しかしそれは、あく. 20.
(23) までも機械が行っていることであって、われわれ人間が生み出したものとはいえ、人間だ けのカでは彼いのである。. また、デジタルメディアを用いたコミュニケーションにおいて、われわれが忘れがちな のは、万能なのはデジタルメディアなのであって、人間が万能というわけではないという. ことだけではない。デジタルメディアを用いたコミュニケーションに介在するのは機械だ が、その向こうには必ず他者がいる、または他者が関わっているということである。たと. えば、現在若者の間で流行しているm虹iやG既Eに代表されるソーシャル・ネットワー キング・サービス(SNS)、プログやプロフ、チャット、パソコンの協メール、そして携 帯メールである。このようなデジタルメディアを介したコミュニケーションは、対面での、 言葉によるニコミュニケーションを前提としている。本来デジタルメディアは、対面のコミ. ュニケーションの不足を補う役割を果たし、われわれは利便性を高めるためにデジタルメ ディアを利用するのである。. しかし、コミュニケーションにおいて、人と人との間に介在する機械は、機械の向こ二う 側にいる他者を見えなくする可能性がある。なぜなら、パソコンでのチャットやEメール、. 携帯メールのやり取りをする際、われわれが見ているのは他者の顔や姿かたちではなく、. 液晶画面だからである。液晶画面に現れるのは多くが電子文字であり、電子文字はそれを 記した者の筆跡などを持たない。そのため、デジタルメディアを用いたコミュニケーショ ンにおいて、他者が関わっていることが見えなくされると考えられる。. メディアは、口承社会から文字社会、そして現在に至るまで、さまざまに形を変えなが. ら人と人とをつなぐ役割を果たしてきた。電子メディアはさらに、アナログタイプの帽 子メディア」と、インターネット機能を有する「デジタルメディア」へと細分化されてい った。本研究で取り上げる携帯電話は、デジタルメディアの枠組みの中に入るが、携帯電 話は1司じインターネット機能を持つパソコンとはまた異なる性質を持っており、人々への. 受け入れられ方、利用のされ方もパソコンとは異なっている。次節で、電子メディアとし ての携帯電話がどのような位置づけをとるのかを述べる。. 第三節電子メディアとしてのケータイ. 第二節では、現代に至るまでに登場してきたさまざまな電子メディアと、それぞれが人. 21.
(24) 閥形成に与えた影響について述べた。本節では、パーソナルなコミュニケーションツール として普及している携帯電話に注目し、電子メディアの中で携帯電話がどのように位置づ けられるのかを述べる。. これまでの様々な携帯電話に関する研究から明らかになっているように、携帯電話はデ ジタルメディアの枠組みの中にふくまれる。インターネット機能を有するため、双方向通 信可能なメディアである。. はじめに、「携帯電話」と「ケータイ」という表記の違いについて述べる。現在、携帯 電話をrケータイ」と略する言い方が普及しており、むしろカタカナ表記でrケータイ」 というほうがなじみのある、しっくりくるといった感覚をわれわれにもたらしている。な ぜなら、携帯電話という道具が、もはやただの無線電話ではなく、まるで体の一部のよう なものとなっているからである。そして現在、携帯電話が「ケータイ」と略される理由と して、われわれが携帯電話の通話機能以上に、メール機能に重点を置いて利用しているこ とが挙げられる。通常、日本人は四文字の熟語を略するときは、一番目と三番目の文字を. つなげて略することが多い。たとえば、各駅停車はr各停」、○X大学とあればr○大」と いうようになり、携帯電誘も同じ要領で略すと「携電」となるはずである。しかし、携帯 電話は「携帯」、ケ]タイと略される。なぜなら、人々にとって携帯電話はメール機であり、. 通話機能がメール機能に比べるとさほど重要視されていないからであると考えられる。. 前節でも述べたとおり、携帯電話は時間や空間といった物理的限界を乗り越えるカを持 っている。そのため、いつでも、どこでも、コミュニケーションをとることを可能にする。. 携帯電話が、コミュニケーションをとる相手と自分との間の時間や空間といった隔たりを 無くすということである。. 携帯電話を、同じインターネット機能を有するパソコンと比較すると、携帯電話の特徴 がさらに明らかになる。携帯電話は文字通り、利用者が持ち歩き、いつでもどこでも利用 できるものである。パソコンと違い、携帯電話は軽量で、小型である。また電源を入れて から起動するまでの時間がパソコンよりも短く、ボタンの数も少ないため操作が比較的簡 単である。携帯電話がコンパクトであることは、普及を拡大し、身近な存在となるための. 要因の一つであると考えられる。逆にいえば、携帯電話が今よりもずっと大きく、重たか ったならば、気軽に携帯することができなかっただろうし、現在ほど普及していなかった かもしれない。だからといって、パソコンの利用が低下するということは考えられない。. 石野(2008)は、携帯電話は軽量であるにも関わらず、パソコン同様インターネット機能. 22.
(25) を有する。そのために若者がパソコンから遠ざかり、携帯電話のみを利用しているのでは ないかと仮説を立てた。しかし実際は、若者はホームページの閲覧には大画面のパソコン を利用し、メールのやり取りをする際には携帯電話を使うといったように、メディアを使 い分けていることを明らかにしている(石野2008:105頁)。. また、携帯電話が小型で軽量であることは、常時身につけることを可能にし、個人利用 をさらに強化してパーソナル・メディアとなる要因の一つであるとも考えられる。. 携帯メールを用いたコミュニケーションをケータイ・コミュニケーションと呼ぶが、そ の内容は主に連絡事項や、他愛のないメッセージである。そして、それらの内容を表記す る際、文面はまるで会話のようになっていることが多いという。会話しているような内容 を文章化してメールで送っている感覚なのである。. あたかも会話のキャッチボールをしているかのようにやり取りされたメールは、自分が 送信したものだけでなく受信したものも携帯電話に記録される。つまり、ケータイ・コミ ュニケーションにおいて、他者とどのような内容のメールをやり取りしたのかが可視化さ. れる。同時に、自分が講とメールをやり取りしたのか、つまり自身の人間関係についても 可視化されるのである。. いつでもどこでも、自分が望む相手とのコミュニケーションを可能にする携帯電話は、. 現前する他者に対する関心を失わせる側面を持つ。自分が欲しいものだけを選択して手に 入れるという行動を、ケータイ・コミュニケーションにあてはめると、コミュニケーショ ンを取りたい相手だけを選択して密なコミュニケーションをとるようになると考えられる。. そして親密にしたい相手以外の者は排除されることになる。しかも自身の人間関係が携帯 電話のメモリーによって可視化し、把握できるため、親密にしたい者とそうでない者とを 選別する傾向は強くなると考えられる。. インターネット機能を有するデジタルメディアの出現により、自分が欲しい情報を選択 して手に入れることが可能になった。携帯電話にも同様のことが言え、自分が欲しい情報 だけでなく、自分が親密になりたい相手を限定してダイレクトにつながることが可能にな. った。しかし、携帯電話のこうした利用は、携帯電話の向こうにいる親密になりたい他者 との関係は強めるものの、今現前している他者との関係を阻害する要因となりうるのでは ないだろうか。親密になりたい誰かと、ケータイ・コミュニケーションをとることによっ て、今日の前にいる他者の存在をないがしろにしてしまうと考えられる。. 23.
(26) 註. iレイモンド・ウィリアムズ、椎名美智ほか訳『完訳キーワード辞典』平凡杜、2002年、203 頁。. 並ノルベルト・ホルツ(今井康雄訳ドニュー・メディア」、クリストフ・ヴルフ編『歴史的人 間学事典 第2巻』勉誠出版、2005年、384頁。 描トーテムとは、社会の構成単位となっている親族集団が神話的な過去において神秘的・象徴 的な関係で結び付けられている自然界の事物のことである。主として動物・植物が当てられ、 集団の祖先として同定されることも多い(広辞苑)。先史時代において、トーテムは社会の 申の父祖であり守護神であるものとして崇められていた。 ivノルベルト1ホルツ(今井康雄訳)「ニュー・メディア」、クリストフ・ヴルフ編『歴史的人 間学事典 第2巻』勉誠出版、2005年、384頁。 ・同書、同頁。 悦同書、同頁。. 油バリー1ザンダース(杉本章訳)『本が死ぬところ暴力が生まれる 電子メディア時代にお ける人間性の崩壊』新曜杜、玉998年、44頁。 池岡書、47頁。 淑同書、53頁。 x岡書、54頁。. 24.
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