Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤 大學 佛敏學 部 論 集 第
15
號 昭 和59
年10
月Jfianagarbha
の
「
世 俗
不
生 論
」
批 判
に
つ
い て
松
本
史 朗
1
Jfianagarbha
(
8
世 紀こ ろ )のSatyadvayavibhanga
(SDV
,D
.No
.3881
) 及びその 自註Satyadv
のyavibhafigavrtti
(
SDVV
,D
.No
.3882
)には , 次の 様 な一節
が見 られ る。〔
1
〕 悪 い 論争
で 知 られて い る (rtsodhan
grags
pa
)ある人は,「実
義に おいて (
yafi
dag
Par
,
tattvatas
)事物
は生 じない の で, 石 女 子等
の如 く
,世
俗
に よ っ ても
生 じない 。」
と言 う。 (SDV
k
.26
,SDVV
ll
a6
−7
)
こ こ で,
「事物
は, 勝 義におい て生 じない の で, 世俗
に おい て も生 じない 。」と い う主 張(
以 下 に これを便
宜 的に「
世俗
不 生論」
と呼ぶ)
を なす者
をJfianagar
・bha
は「
悪 い 論 争で 知 られた 人」
と呼ん で い る。 で は, 一 体こ れ は誰
を 指 し て い る の であ
ろ うか 。筆者
は既 に , これはCandrakirti
を指
す とす る見解
を 示 し た1) 。 とい うの もCandrakirti
のMadhyamaha
− vata −ra (P
.No
.5262
)に は , 〔2
〕 石 女 子が,自
己の 本 性に よ っ て生 じる こ とは, 実 義に お い て も無 く, 世 間(世 俗 )にお い て も無い
様
に , これ ら 一切
の事物
は,自性
に よっ て, 世間
と実
義
に おい て 生じ ない 。 (VIk
.111
,254a3
−4
) とい う類 似の主張
が見
られた か らで ある。 し か し こ れは , 表 面 的 な字
句上 の 類 似 に惑
わ され た誤解
であ
っ た と思わ れ るの で, そ れを 本稿
に おい て訂
正す
る と とも
に , あわせ てJfianagarbha
に よ る「
世 俗不生 論」
批 判 の意味
に つ い て も考察
し た い 。さて
筆
者が記 述 〔1
〕にCandraklrti
説が言及 さ れ て い る とす る’か つ て の 見 解を 誤 解で ある と見なすに至 っ た最 大の理 由は後
に述
べ るが, こ こ で は まず, 記 述 〔1
〕の「
世俗
不 生論」
と記述
〔2
〕のCandrakirti
説 との間
の 思 想 的 相 違 を 明らか に し て お こ う。Candrakirti
はそ こ で 「世 俗不 生論 」を説 い て い る の で 一418
一(
2
)Jfianagarbha
の 「世俗不生論」批判につ い て (松本) は ない 。「
事物
が世俗
に お い て 生 じ ない 。」
と言っ て い るの で は ない 。 彼がそ こ で 述べ て い る の は ,「
事物
は , 自性に よっ て (自
己 の 本性 に よっ て )は , 勝義
に お い て も, 世 俗に おい て も生 じ ない 。」
とい うこ と なの で あ り, こ の 「自性 に よっ て」
とい う限 定語
を 欠落
す るな ら, こ のCandrakirti
の 主張
は全 く意味
を な さ ない の であ る。 筆 者は 未だ詳 しい 調査 を怠 っ てい るが, こ の 「事 物は , 自性に ょ っ て (自性 を もつ もの と し て), 世 俗に おい て も生 じない 。」とい う主 張は, ある い はCandrakirti
に 独 自なも
の と言え る の か も しれ ない 。何
故 な ら, こ の 主 張 は , 「自立 (Rah
rgyudpa
)は 言 説 に お い て ,自
相 〔ま たは自
性 〕に よ っ て 成 立 し て い る もの を認め る が, 帰 謬 派 (Thal
bgyur
ba
)は そ れ を も認め ない 。」 とい うTsoh
kha
pa
の 学 説 を 生 じる根 拠 と もな り うる もの の様
に 思わ れるか らで ある2 )。 い つれ に し て も, 記 述 〔2
〕のCandrakirti
説を記述
〔1
〕の「世
俗
不生 論」
と同一視
すべき
で ない こ とは 明らかで あろ う。なお本 論に 入 る
前
に , こ の「
世俗
不 生論」
に関 す るD
.S
.Rueg9
氏の見解
を見 て お こ う。Rueg9
氏は , まず
,In
this
treatise
Jfianagarbha
has
mentioned (fo1
。11a
sq .)some ‘bad
disputants
’who
held
not onlythat
entities such as グ砂 σ are notproduced
in
realitybut
alsothat
they
are
not
produced
even
in
sarpzvrti , so
that
they
are comparablefor
example withthe
son ofabarren woman (vandh 夕
diputra
, etc .,
i
. e . a mereflatus
vocis ); として ,「
世俗
不生 論」
を紹
介 し, さ らに,The
allusion mightbe
to
Candrakirti
’stheory
of causalindeter
−minism even on
the
relativelevel
, orit
maybe
to
some otheropponent ; と
述
べ て , こ れをCandrakirti
説に 対 す る言及で ある か も しれ ない し, ま た は 他の 論 者 の そ れに対 する もの で ある か もしれ ない と し て い る3) 。Ruegg
氏は拙 稿 を読
まれて い ない よ うで ある か ら, 氏が こ こ にCandrakirti
の 名を 出したの は , 氏 独 自の判
断に 基 くもの と見ざるを得
ない 。 し か し, ‘‘ causalindeterminism
” とは, 少 く とも筆 者に は 理 解で きない 語で あ る し, ま た こ の ‘ ℃andrak1rti ’ stheory
”とは一 体 彼の 著 作の どこ に 説 かれ て い るの で あ ろ うか。 典 拠の 明示が 無い の が惜 ま れ る の で あ る。 一 417 一
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
Jflanagarbha
の 「世 俗不生 論 」批 判につ い て (松 本) (3
)II
記 述 〔
1
〕の 「世俗
不 生 論」
は,Jfianagarbha
がCandrakirti
説 に言 及 した もの だ とは 思わ れ ない 。 こ の様
に筆 者が考
え た最
大の 理 由は, こ の厂
世 俗 不 生 論」
と 同様
の 説 が,KamalaSila
のMadhyamaka
“toka
(MA
,D
.No
.3887
)に , 批 判される べ き前主張 (parvapak
§a)の 一つ と して 提 出さ れ て い た こ とで ある 。 し か るに筆者
は ,MA
の 前 主 張 を 基本 的
に は唯
識 説 で ある とす る見解 を 既 に示 して い る4) 。従
っ て , こ の 私 見が 正 しい と す れ ば,MA
の 前 主 張に 見られる 「世 俗不生 論 」を も, ま た 記 述 〔1
〕 に 提示 さ れJfianagarbha
に よ っ て 批 判 される 「世 俗不 生論」
を も,Candrakirti
の 説 で は な く唯 識 派の 主張
と考え なければな ら ない であ
ろ う。実
にKamalaSila
がMA
で批判
する唯 識 派 の 何等
か の 主張
が, 既にJ
触 nagarbha に よっ て も否 定 さ れ て い る とい う事
実は , 珍 しい こ とで は な い の で ある5) 。さて 結 論を
急
ぐこ と な く, まずMA
の前
主 張に見
ら れ る「
世俗
不 生論」
とは どの 様な もの か 見てみ よ う。 そ れは 次 の 様に示 さ れ る。 〔3
〕もし
諸
の事
物が , 勝 義に おい て , 有 自性 (ho
bo
fiid
da
血bcas
pa
) でない な らぽ, これ らは , 世 俗 に よっ て も, 〔有〕
自
性に は な ら な い 。 何であ れ, 勝 義 に お い て 無 い もの は, 世 俗 に よっ て も, 自性 と し て (
fio
bo
fiid
du
) 生 じなlt・と見 られ る 。 例 えば , 石 女子 の ご とし。 (MA
138
b
4
−5
)こ こ で まず 注 意 すべ きこ とは, こ こ に 示 された主 張が, 記
述
〔1
〕の「
世俗
不 生 論 」 よ りもむ し ろ記述
〔2
〕のCandrakirti
説に 表 現と し て は 類 似 し て い る こ とで ある。 何 故な ら, こ こ で説か れるの は , 「事 物は , 勝義
に お い て も, 世 俗 に お い て も, 生 じ ない 。」 とい う 「世 俗不 生論 」で は な く, 「事
物は, 勝 義に お い て も, 世 俗に お い て も, 無 自性で ある 。」 とい う, い は ば「
世 俗無 自性 論」
だか らで ある。 で は こ の 記 述 〔3
〕の 主張を 何 故, 記 述 〔1
〕 の 「世俗
不 生論 」と 同様 な もの と見な し うるの か。確
か に , こ の 主張が, 記述
〔2
)のCandrakirti
説の方
に表
現 として近似
して い るの は事実
であ
り, そ れ自体
大変
に奇 妙
なこ とで ある。 し か しそ れに もか か わ らず, これ を「
世俗不 生論」
の 一 類 型 と見ざるを得
ない 理由
が ある。 それ は次の様
な もの であ る。MA
は, その 前 半に お い て唯識派
の様
々 の主張
が前 主 張 と し て提 出され,後
半 に おい て そ れ を中 観 派が 逐一批 判 す る後主 張 (uttarapak §a) が 示 される とい う 一 416 一(
4
)Jiianagarbha
の 「世 俗不生 論」批 判に つ い て (松本)構
成を もつ が ,前
主張で 提 出 された唯 識 派の 何 等か の 説が後 主 張に おい て批
判 さ れる場 合に , そ こ でそ の 説が再び提
示 さ れ るの が普
通で ある。 しか し,後
主 張に お い て再 説 された主張
が,前
主 張で提 出されたも
の と表
現に お い て必 しも 一致
し てい る わ けで は ない 。 そ の表
現 上の 差 異は些 細 なも
の であ る場 合が多
い が , しか し記 述 〔3
〕につ い てい えば , こ の相 違は か な り深 刻 である。 とい うの も, 記 述 〔3
〕は ,後
主張に お い て批 判 され る に あた っ て,次
の 様に再 説 され る か ら で あ る。 〔4
〕 もし一切 の 事 物 が, 勝 義に お い て 生 じない な らば, 同様に , 世 俗に よ っ て も生 じな い で あろ う。 何で あれ , 勝 義に お い て生 じない もの は, 世 俗に よっ て も生 じない 。 例 えば , 兎 角 等の 如 し。 (
MA
210
a3
−4
) こ こ で, 喩が記 述 〔3
〕の 「石 女子 等 」か ら 「兎 角 等 」に 変 っ て い る こ とは , あま り重 要で は ない 。 よ り重 要 な こ とは , 記 述 〔3
〕の い わ ゆ る 「世 俗 無自
性論」
が, こ こ で は 全 く「
世 俗不生 論 」 として 再 説 されて い る こ とで ある。 こ こ に は , 記 述 〔3
〕に 三 度 も現れた 「自
性 」の 語は全 く見 られない 。 記 述 〔3
〕を 「世 俗 無 自性 論」
, 記述 〔4
〕 を「
世 俗不 生 論 」 と見なすな ら, 両者の 間 に あるの は,単
なる表
現 上の差 異
で は な く, 明確
な思 想的
相 違 で ある と言 わ ざるを得
ない で あ ろ う。 こ の 思想 的 相 違に カ マ ラ シ ー ラ 自身が気
づ い て い た の か ど うか , つ ま り, 彼が , 思 想 的 内容の異なる再 説を な し た の は , 故意
か , そ れ と も単
な る 不注意
に よ る の か とい うこ とは ,最
も興 味の ある問 題で ある。 し か し こ の問題
をこ こ で こ れ 以上追究
する こ とは で ぎない 。 た だ 以上 の 考察
に よっ て , 記 述 〔3
〕の 主張を 記述
〔1
〕と 記述 〔4
〕 を 結 ぶ線上 に ,つ ま り 「世 俗不生 論 」 とい う同一線上 に 位 置づ ける こ とだけは許 されるの で は ない か と 思 わ れ る。 記述
〔3
〕 は 確か に「
世 俗 無自
性論」
で はあ
る し, そ の 思 想は , そ れ 自身
と して 充 分に尊重
さ れ な け れ ぽ な らな い。 しか しそ れ がMA
中
で荷
っ て い る意 味は ,「
世 俗 不 生 論 」 と し て も理 解さ れ うる。 とい うの も, そ れは , 記 述 〔4
〕に お い て 「世 俗不生 論」
と し て 再 説 され, さ らに 記 述 〔4
〕に連
続 する記述 に お い て主 として 「世 俗不 生 論」
として批
判 されてい るか らで ある。 とす れ ば,極
め て安 易
な 表 現 で はあ
るが, 「Jfianagarbha
が 記述
〔1
〕 で 提 示 し た 「世 俗不 生論 』は , 唯 識説 を前主 張 して 批判するMA
で前
主 張の 一つ とされて い るか ら, 唯 識説 で ある 。」とい うこ とに も, 一応
の妥 当性
を認
め る こ とがで きる で あろ う 。 しか し, 記述
〔1
〕の「
世 俗 不生 論 」を唯
識 説 と見なす こ とに 関 し て 充 分な確 信を得
る た め に は , 言 う まで もKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
J
醢 nagarbha の 「世 俗不生論」批 判に つ い て (松 本 ) (5
) な くSDV
〔V
〕 とMA
に お ける「
世 俗
不生論」
の批 判
につ い て考察
する必 要が ある の で , 以下それに と りか か ろ う。III
まず
Jfianagarbha
は, 偈 (第25
偈) に示 し た 記述
〔1
〕の厂
世俗
不生 論」
を 自註SDVV
に お い て ,次
の様
に言い か えて い る。 〔5
〕何
で あれ, 実義
に おい て, 不 生 を自
性 とする もの は , 世 俗に よ っ て も,生
じな い で あろ う。 石 女 子 等の如 し。こ れらの 色等 も, そ れ と
等
しい 〔つ ま り,勝 義
に お い て生 じな い 〕。(
SDVV
ll
a7
)こ の 言 い か え 自
身
に 深い意
味は ない 。 た だ 記 述 〔1
〕の 主 張が,Dharmakirti
以後
の 論証
形式に見
あっ た 形で 示 さ れ た だ け で ある。 そ れ故,註
釈者
Santarak
・睾
ita
は ,Saty
αdvayavibhaitgapa
勿jiha
− (
SDVP
,D
.No
.3883
)に おい て , 記 述 〔5
〕を 「能 遍の 無知 覚 (vyapakanupalabdhi )の 様に 装っ た 論証 式 (prayoga
)」 (SDVP
42
b
4
−5
) と 呼ん で い る 。 記述
〔5
〕の 論 証式
を「
能 遍 の 無 知 覚」
と 見 れば , 「勝 義に お い て 生 じる こ と」
が能 遍,「
世 俗 に よ っ て 生 じ るこ と」が 所 遍, そ し て 「色等」
が主 題 (宗 主 辞 ) とな る。§antaraksita
は さ らに ,〔
6
〕これは, 論
証
(bsgrub
pa
, sadhana )か, ま た は帰
謬論 証
(thal
bar
bsgrub
pa
prasahga
− sadhana )か に なる で あろ う。 他の 種 類は 存 在 しない か らで ある。 (
SDVP
42
b
5
)と述べ てい る が, こ の記 述は, 仏
教
論理学の発達 史
上 重要
な意味
をも
つ であ
ろ う。何
故な ら,prasahga
−sadhana とprasahgapadana
とい う語
を用い て ,最
初にprasahga
を 妥 当 な論 証 形 式で あ る と 見 な そ う と し た の は,Santarak
$ita
とKamala6ila
で あっ た と現 代の学 者に よ っ て言わ れてい る か らで ある6)。さて
Jfianagarbha
は , 記 述 〔1
〕 及び 〔5
〕 の「
世 俗不 生論」
を 次の 様に 批判
する。 〔6
〕 そ れ は, 正 しくない 。 即 ち, 世 間に よ る拒 斥 (10kabadha
) 等が あ り うるか ら, これ は論
証
(sadhana ) で は ない の で ある。 (SDVV
11
a7
−b1
)記
述
〔6
〕 以 下(
SDVV
ll
a7
−b5
)
は ,Santarak
$ita
の註 釈に よれ ば,記
述 〔5
〕で 対 論 者が提 出 し た 「世 俗不生 論 」の 厂能 遍の 無知 覚 」が 正 しい 厂論 証(
sadhana)」
で は な い こ とを 示 す もの であ
る が, こ こ で まず
こ の 論 証 式に つ い て 一 414 一(
6
)Jfianagarbha
の 「世 俗不生 論 」 批 判につ い て (松本 ) 「世 間に よ る拒 斥 」 (世 問 相 違,Iokavirodha
) とい う論 理 学 的 過 失 がJfiana
・garbha
に よ っ て 指 摘 された7)。 これは, 「世 俗に よっ て 生 じ ない 」 とい う帰
結 (sadhya )が, 世 間の 人々 の 一般 的理解
(世 間 極 成,lokapratiti
) と矛盾
す る, とい う意
味で あろ う。 こ れ に 対 して ,Jfianagarbha
は, 〔7
〕もし, 「世 間 〔= 世 俗 〕に おい て 生 じ ない か ら, 〔世 間に よる 〕
拒 斥
は無
い 。」
とあな た が主 張 す る な ら ば, (
SDVV
ll
b
1
)
と して , 対 論 者か らの 反 論を予想
し, さ らに こ れを , 〔8
〕証
因 (hetu
)等が無い か ら, そ の 時に は , 帰 結 (sadhya)
が証
明され ないで あろ う。 (
SDVV
ll
b
1
) とい う記述
に よっ て , 批判
して い る。 こ の 反 論は ,「
世 俗 不 生」
は , 世 間の 一般 的に 承 認 する と こ ろ で ある か ら「世
間に よ る拒 斥」
は無 い とい うもの で あろ うし, 「証 因等
が 無 け れば, 帰 結が証
明されない 。」 とい うの は, 証 因 〔 = 「勝 義 不 生」〕等
が世 俗に よっ て 不 生で あ り, 従っ て世 俗に よっ て 存在 しない な ら ば, 帰 結 〔 =「
世俗
不 生」
〕は証
明 さ れ ない とい う意味
で あろ う。次
にJfianagarbha
は , 「世俗
不 生論 」
の 論証式
に対 して,「自
語相
違」
(sva − vacanavirodha )の 過失 を指摘
す る。 〔9
〕〔あな た〕 自身の 語と矛 盾 する か ら, (
(
8) 帰 結は 証明 さ れ ない であろ う。))(
SDVV
ll
b
1
)そ の
意
味は , 〔10
〕〔あな たは 〕 主 張 命 題 (
pratijfia
) を 立て よ う と欲 して , 〔あ なた〕自身
の語
が生 じると承認
し, 承認 して か ら, ま た 〔「
世俗
不生」
とい っ てあ
な た自
身の 語を〕 捨て るの で , 明 らか に自身
の 語と矛 盾 して い る の で あ る。(
SDVP
43
a1
) とい う註 釈に も 明 らか な様に ,「
世 俗不生 」 とい う語が述
べ られ る とい うこ とは , その 語 自身
の「
世俗
生, 世俗 有」
を意味
するが, それに もか か わ らず, その 主 張 命 題は , そ の 語の「
世 俗不 生」
を説い てい る, とい うこ とであろ う。 これに 対 して さらに , 〔11
〕そ れ ((= 〔「世 俗不 生 」 とい う〕 自身の 語 ))一つ を 除 くな らば , ((残 りは ,
世俗 に よっ て生 じ ない , と主 張 命題 を 立て たの で ある 。)
)
(SDVV
ll
b
1
−2
) とい う反論が 予想さ れ, そ れ が,Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
Jfianagarbha
の 「世 俗不 生 論」批判につ い て (松本 ) (7
) 〔12
〕 そ れ な ら ば, そ れ (( 二 自身の 語 ))に よ っ て, あ なた に と っ て 不確 定 (anai −kantika
) に なる こ とは 避 け 難い の で あ る。 (SDV
ll
b
1
−2
) とい うよ うに批 判 されて い る。 こ こ で「
不確
定」
(不 定 ) とは ,「
勝 義に お い て 生 じ ない こ と」とい う証因 が, 「世 俗に よ っ て生 じ ない もの」
とい う同 品 (sapak §a) だ けで な く,「
世 俗に よっ て生 じる もの」 (例 えば, 「自己の語 」) とい う異 品 (vi ・pak
$a)に も存 在 する, とい う意 味で ある。 「世 間相 違」
と 「自語 相 違 」は , 主張 命題 (宗 )
の過
失で ある が, こ こ に示 さ れ た「
不定」
とは ,証
因(
因)
の 過 失で あ り, そ れ が こ こ で は 「自語 相 違 」の 過 失 を 回避しよ う と し た 反 論 者 に よ っ て も た ら さ れた こ とに な っ てい る。さて , 頂
anagarbha
は, 主 張命題
と証
因の 過 失を説い た の で ,次
に 比喩 (
喩)
の そ れ を述べ る 。 〔13
〕また 証 因 (←= 実 義に お い て 不 生 の 性 質 ))が ある と し て も , そ れは 喩 〔= 石
女 子
等
〕に存在
しない の で ある。(
SDVV
ll
b2
)
こ れは , 喩に 証 因が存 在 し な い とい う
「能
立 法不 成」
(sadhanadharmasiddha ) の 過 失 とい わ れる もの である。以上 の 様 々 の論 理 学 的な
過
失は , た だ 対 論 者に の み生 じ るの であ
っ て ,中
観 派 自身 に は 全 く生 じない こ と を,Jfianagarbha
は 次の 様に説 く。 〔14
〕も し, こ の 〔
「
勝 義不 生」
とい う〕証 因が あなた に とっ て 成立 し て お り,帰 結に よ る 〔
証
因の 〕 遍 充 (vyapti ) も同 様に ((あ なた に とっ て 成 立 してい る)
)
な らば, ((こ れは あな た に とっ ての 過 失 である が, 我々 に とっ て は , 〔「勝 義不 生」とい う〕 証因 は成立 し てい るけ れ ども, 遍 充は成 立 し て い ない の で))そ れ 〔= 遍
充
〕 に つ い て私に 過 失は 無い の に , あな たは どの 様に非 難 を 探 すの か 。 (
SDVV
ll
b
2
)こ の 記 述は , 上 述の遍 充を認め る対 論 者にの み
様
々 な論 理 学的過
失が付 随 し, それ を認め ない 中 観 派に は そ れが生 じない こ とを述べ て い るが, そ れ 以外に, 証 因の 成立 , 不成立 を め ぐる次の様
な議
論を導入 する役 割を も担 っ て い る様に 見え る。 〔15
〕((
「
あな た 〔= 中 観 派〕 だ けに 〔「勝 義不生 」 とい う〕 証因 は成 立 して い るが, 私に は 成立 し て い ない 。
」
と 〔対 論 者で あるあな たは 〕 語 るで あ ろ うか ら,
〔
そ れに対 して〕 次の様
に説 明す る 。)) (i
)も し私に とっ て ((証 因が))量 (pramapa
)に よ っ て 成 立 して い るな 一412
一(
8
)Jhanagarbha
の 「世俗不生論」批判につ い て (松 本)こ こ で は,
成 立
(
asiddha , 不 成)
が問題
とされて い る。 まず 註釈 者
Santarak
§ita
は,「
この 証因は , 中観 派に と っ て は 成立 し て い るけ れ ど も,
自
分 達に は 成 立 し て い な い 。」
とい う対 論 者の 見 解 を 想 定 し, 以 下のSDVV
の 議 論を, それに対 し て 「証 因が量に よっ て成立 し て い るな ら, そ れは 対 論 者に とっ て も成立 して い る筈だ 。」 と答
え た もの と見 な して い る。 こ のSantarak
§ita
の 註 釈は極め て重 要であろ う。 とい うの もSantarak
§ita
は こ こ で 「勝 義不 生」
とい う証 因を認め ない もの を対 論 者 と考えて い る か らで ある。 し か る に,「
勝義
不 生 」を認め ない中
観派 な ど存
在
し ない 。 従 っ て , こ の§
antarak
$ita
の註釈
が正 しい とす れ ぽ,記
述 〔1
〕で 「世 俗不生 論 」 を 説い た 「悪 い論 争で 知 られた 人」
とい うの は , 決 し て, 例え ばCandrakirti
な どの 中 観 派で は あ りえ ない こ とが 知 られ る で あろ う。 しか も, そ の註
釈の 正 し さは , 以 下 のSDVV
の 記述
か らも理 解 されるの であ
る。さて , 記述 〔
14
〕は , 「勝義
不 生」とい う証因 が, (i
)量 に よ っ て 成 立 して い る な らばどの様
にな るか を述
べ た もの で あるが ,(
ii
)量 に よっ て 成立 して い ない 場 合が, 次の 様に 想 定 される。 〔16
〕(
ii
) もし ま た, 〔「
勝 義不 生 」 とい う〕 ((証
因が ))量 に よっ て 成 立 し て い ない , と 〔あな た が〕 考えるな ら ば, ((そ れは , 正 し くない 。))有 〔な る果 〕
と無 〔な る果〕 の 生
起
が否 定 さ れ るか ら (yodmed
skyeba
bkag
Pa
yis
),既
に 繰 返 し 〔「
勝義
不生」
とい うこ と が, 量 に よっ て 〕 証 明 され たの で ある。 (
SDVV
llb3
)これ は , 「勝義不 生」 とい う証因 が, 量 に よ っ て 不 成 立 で は あ りえない こ とを 説 く記
述
であ
り, そ れ が量に よっ て成立 して い る こ とはすで に証
明済
み であ ると 述べ て い る。SDVV
の 記述 〔16
〕 以 前の 部 分 で は , 「勝 義不生 」, 即 ち, 勝 義に らば,〔
量に よ っ て〕成 立 して い る それは 9) ,あ
な た 〔=対
論 者 〕に も遍 充 し てい る 〔= 成立 して い る〕 。 ((こ れは, 量に よ っ て成立 し て い る もの は , 誰に と っ て も成 立 し て い ない , と述べ る こ とは 不合理 で あ る, とい う意味
で ある。 ま たそ うで あれば, こ れは あな た だけに とっ て過
失であ
っ て , 私 に は遍 充が成立 し て い な い か ら,私
に は過
失は無い , と考えて, 〔次の 様 に説明す る 。〕))賢
者で あるあ なた が何 故, 自己の 過 失 を 私に結
びつ ける の か 。(
SDVV
ll
b3
)「勝
義に おい て 生 じ ない こ と」
とい う証因 の 成 立 (siddha 成 ). 不 一411
一Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
JfiZnagarbha
の 「世 俗不 生 論」批 判に つ い て (松 本 ) (9
)お ける因 果
関
係 ま たは 生 起の 否 定は ,次
の 様な記述
にお い て説かれて い る と思 わ れる。〔
17
〕因 と
果
の関係
(rgyudah
hbras
buhi
dhos
po
,hetuphalabhava
)も
, 不 合 理で ある。 何とな れ ば,多なる もの は , 一 な る
事物
を作
ら ない 。多
な るも
の は , 多 な る もの を 作ら ない 。 一 な る もの は , 多な る
事物
を作 ら ない 。 一一一・ts
るもの は , 一 な るもの を 作 ら ない 。 (
SDV
k
.14
) 1°)ので ある。
(
SDVV
7
a5
−6
) 〔18
〕滅
して い ない 〔因 〕か ら果
が生 じ る な ら ば, そ の 時 〔 = 因が滅 して ない 時に 〕ど うして 果が 無い で あろ うか。 ((も し果 が有 る な ら ば, そ の 時は, 因
と果の 二 つ は 同
時
に な っ て し ま うの で ある 。))〔因が〕
滅
し て か ら,果
が 生 じ る な らぽ , い か な る 〔因〕 か ら果が 生 じるで あろ うか 。 (
SDVV
8
b
4
−5
)こ の 二 つ の
記述
に 見られるの は, い つ れも 「
勝義
に お ける生 起」
を 否 定 する有
力 な論証
で ある が,記述
〔16
〕 に おい て は,「
有
な る果も
生ぜ ず, 無 なる果
も生 じ ない 。」
とい う論証
が , 生起
否 定の 根 拠 と され て い る。 こ の 論証 自体
は , 既に , 〔19
〕ま
ず
,有 (
sat )が 生 じる こ と (utpatti )と, 無 (asat ) が 生 じ る こ とは , 不 合 理で ある。とい う 『中 頌 』 (
Madhyamakaka
−riha−,VII
−
20
ab
)に , 形 式 的に は見出
され る もの で ある。 し か し, 記 述 〔16
〕の 「有 と無の 生 起が否 定 され るか ら」 とい う文 章は ,後
期 中観 思想 の 展 開 史に お い て 大 きな意 味
を も っ てい る。 そ れにつ い て は 既に拙 稿で紹 介 し た が11) , こ こ で その要
点 を再
説 し て お こ う。依 他 起 性 (因果 関 係に ある もの ) を 勝 義 有 と考える唯 識 派 とそ れ を 世 俗
有
と見
なす 中観派
の論 争
は , か な り早い 時 期か ら生 じて い た と思わ れ る。Bhavavive
−ka
のMadhyamak
’ahrd のyalea
−rika ’第
V
章
や,Candrakirti
の 餓4
勿
α 叨 α々4
一凋 茲
第
W
章
は ,中観派
に よ る唯識
説 批 判 一 そ の 中で も, 依 他 起 性 の勝 義
有
性 に 対 する批判 が最 も重 要なテ ーマ と な る一 を 示 す 好 例で あ る が , 唯 識 派 の方
か ら も, 依 他 起 性 の 有 性 を 擁護
す る中観派 批判
が,Dharmapala
の『
大乗
広百論 釈 論 』 最 終 章12) や, あるい は 最 も初 期に お い て は ,Bodhisattvabhtimi
のtattvarthapata
】a に お ける厂
悪 取空 」
の 主 張に おい て な さ れ て い たの で ある。 こ の 様 な唯
識派
と中観
派との 絶 え ざる論争
は後
期 仏教
思想
史に おい て は ,特
に, 一410
一(
10
)Jnanagarbha
の 「世 俗不 生論 」 批 判に つ い て (松本 )〔
20
〕何
で あれ, 果を生 じる能力
を もつ もの(
arthakriyasamartha)
〔= 依 他起性 〕 が, こ こ で は , 勝 義 有 (
paramarthasat
) である。とい う
Dharmakirti
の 一P
吻 勿 α η4
γ〃漉σ の 一節 (pratyak
§a ,3ab
)に関 す る解 釈の 相 違とい う形に お い て 展 開し た と思われ る。 唯 識 派 の 思 想 家 達は, こ の 一句を文字
通 りに , 依 他 起 性の 勝義有
性 を説 くもの と解
釈 した の に 対 し,中観
派 は こ れを 愚 者 を 勝 義に悟入 させ る ため の 方 便の 説で ある と見な し,依
他起 性
は世 俗 有 で ある と したの で ある。 こ の 論争
に加 っ た思 想 家 と して は ,中観派
の側
に,Jfianagarbha
,Santarak
§ita
,Kamala6ila
,Prajfiakaragupta
が, そ し て唯識派
の 側にDevendrabuddhi
とSakyabuddhi
の師
弟が知 られてい る。 彼 等の歴
史
的 順位
は,私見
に よれば,Devendrabuddhi
・−
Jianagarbha
←Sakyabud
−dhi
←Santarak
$
ita
,Kamalagila
,Prajfiakaragupta
(
←
印
は批
判 がな された方
向を 示す ) とな る。 こ の 論 争 の ある 段 階に お い て , 「勝 義に お け る因 果 関 係の 不 成 立 性の 論 証 」に 関 する議論が 重 要な テ ーマ と して 付加 された 。 そ れはJfiana
−garbha
の 記 述 〔18
〕 と 〔16
〕の 下線付
加部 分
に 対 して ,§
akyabuddhi が 基本 的 に は, 「滅 し た 因か ら は 果が生 じない が, 滅 し て い ない因か らは 果が生 じる 。」 と い う答
と,「
有 なる果は 生 じない が, 無な る果は 生 じ る 。」
とい う答を与
え たか ら ・で ある 。 これに 対 し てSantarak
§ita
は ,SDVP
に おける記述
〔18
〕註 釈 部分
と, 記述 〔16
〕の 下 線 付 加 部 分, つ ま り 「有 と無の 生起が 否定 さ れ る か ら」 とい う文
章の 註 釈 部 分に お い て ,Sakyabuddhi
の答
を批 判 し て い る。 とい う こ と は ,Santarak
§ita
は記述 〔
16
〕に おい てJfianagarbha
が 対 決 し て い る対論
者 をSakyabuddhi
等の 唯 識 派で ある と考え て い た こと を意 味 し て い るで あろ う。 この 様に し て 記 述 〔
1
〕 の「
世 俗不生 論」
を唯識
派の説と見 る想 定がい よい よ妥 当 な もの として補 強
されたの であ
る。Santarak
§ita
の 註釈
に依
る こ とな く,記述
〔
16
〕を そ れ 自体 と して 見る と して も, そ こ で 対論者と され て い る の が 「勝 義不 生 」を認めな い 論 者 で ある こ とは 理解 され るで あろ う。何
故な ら, 「勝義
不 生 」 を 認め て い る論 者に 対 し て , それ は量に よっ て証
明 され 成 立 し てい る と殊 更に言う必 要は
無
い か らで ある。 なお こ こ で さ らに , 「世 俗不 生 論」
を唯
識 派の 説 とする 想 定を支持 し うる よ う な一文を紹介 して お こ う。5antarak
§ita
は, 記述 〔1
〕の厂世 俗不 生 論」を 註 釈 す るに あ た っ て , 次の 様 に 述べ て い る。
〔
21
〕ま た , 勝 義の方 規 (
don
dam
pahi
tshul
) を厭 う他の 人々 が , 非 難を探
して , 「実
義
に お い て ,事
物は 生じない の で, 石 女 子等
の如 く
, 世俗
に よKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
Jflanagarbha
の 「世 俗不生 論 」 批 判につ い て (松本 ) (11)っ て も生 じ ない 。
」
と言 う。 (SDVP
42
b
3
)
こ こ で
Santarak
$ita
は ,「
世 俗
不 生論
」を 説 く対 論 者を「
勝義 の 方 規を 厭 う 人」
と 呼ん で い るの で ある が, 「勝 義の方 規 」 とは 何で あろ うか 。 そ れは , 「勝 義 不 生 」つ ま り,「
勝義
に お い て ものが 生 じない 」 とい う真
理 以外
に は 考え られ な い 。 つ ま り,Santarak
§ita
は最
初か ら, 「世 俗不生 論」
を「
勝 義不 生」
を認め な い 対 論 者の 説 と して註
釈 してい る の で ある。 その対 論 者 が唯 識派
で あ る こ とは ,記述
〔1
〕や 〔21
〕 そ れ自体
か ら直 接 に は導
き出せ ない が,SDV
やSDVP
, 及 びMA
に お け る様 々 な議 論 との 連 関を 考 慮 す れば , それは可能
なの で ある。さて , 本 論の 論
旨
か ら幾
分 逸 脱 したの で, 再 びSDV
に お け る「
世 俗不 生論 」 批 判の 考察
に もどろ う。SDV
に お い て既に 「世 俗 不 生 論」
の 論証
式に 関 して ,帰
結 (sadhya ) の 「世 間 相 違」
,「
自語 相違」
,証
因の「
不定」
,喩
の 「不成」
と い う過失
が指摘
さ れ, さ らに証 因の 「成, 不 成」
(siddha , asiddha )が 問題 と され た。 以下に,証
因 の 帰結 に よ る 「遍 充 」 (vyapti ) の 関 係が否定 さ れ る。 ま ず次
の様
に言わ れ る。 〔22
〕私
に とっ て は , (a)
真 実に お い て 生 じ ない こ と と, (b
)世俗に よっ て 生じない こ とは, と もに , 所 遍 (vyapya = a) と能 遍
(
vyapaka = =b
)で ある こ とは , 成立 して い ない 。 あ なた に よっ て そ の 遍
充
が語 ら れた か ら, あなた に 過 失が ある の で ある。 (
SDVV
ll
b3
−4
)こ の遍 充 関 係が成 立 しない 理 由を
Santarak
§ita
は , 次の様
に 説 く。 〔23
〕 所 遍 と能 遍の 関 係が成立 し ない の は, (i
)tadatmya
(それ を本質
とするこ と) 〔= a が
b
を本質
とす る こ と〕 と (ii
)tadutpatti
(そ れか ら生 じるこ と
)
〔= a がb
か ら 生 じた こ と)
を相 (
lak
§apa , 必 要 条 件 13))とす る結合 (
prat
量bandha
,sambandha )が 無い か ら, とい う意 味 で ある。 (SDVP
44a3
)こ こ で, ある もの (X )が他の もの (
y
)に よ っ て遍充
されて い る とい う関 係,つ ま り (x )が (
y
)に 対 し て 論 証 因(
gamaka
) と な る とい う関係
は, (x ) が (y
)
に対
して ,tadatmya
かtadutpatti
(tadutpannatva
)
の関
係 をも
つこ とを必
要
条 件 として い る とい うDharmakirti
に よっ て確 立 された 論 理学説14)が 示 され, (a )は (
b
)に対 し て こ の い つ れ の 関 係 も欠い て い る か ら,(
a )は(
b
)
に よっ て遍 充 されて い ない , と説か れて い る。§
antarak
§ita
が註 釈す
る様
に ,
Jfianagarbha
も, こ のDharmakirti
の 論理学説 に基 い て議 論を進め て い(
12
)Jfianagarbha
の 「世 俗不 生 論」 批 判につ い て (松本) る。 彼は まず, (a )「勝 義
不生」
と(
b
)「
世 俗 不 生」
との 間にtadatmya
の関
係が見られ ない こ とに よ っ て, 両者
の 遍充 関
係 を 次の様
に 否 定 する。 〔24
〕(
i
) 実 義に お け る生起 (ya
血dag
skye )を否 定 する こ とに よ っ て , 実義
にお い て は 不 生 で
あ
亜
;と
一(a
) が認
め られる。 分 別 された もの 〔= 世俗
的 な もρ
ユ
の 不生 (b
)は , そ うで は ない 〔=実
義に おける 生 起を否 定 する こ とに よ っ て 認め られ るもの で は ない ?〕。
故
に , こ の 二 者 〔 =(
a)
と(
b
)〕に はtadatmya
関
係は ない 。 〔ま たは , こ の 二者は 同 一 で は ない 。〕(
hdi
gfiis
de
bdag
min ) (SDV
llb4
)こ こ で ま
ず
Dharmakirti
の 論 理 学 説の 基礎
と もい うべき tadatmya
とい う述語
に つ い て , 一言 述べ て お か なけれ ばな ら ない であろ う14) 。tadatmya
とは ,最 も厳 密
な意味
に お い て は ,「
同 一 性 」で は あ りえ ない と, 筆 者は考える。 ある ものX
が , 他の ものY
に対
して こ の関係
を有
する とき,Y
はX
に 対 して こ の 関 係 を もち え ない 。し か し, こ の
tadatmya
とい う関係
は ,安易
な見方
, 粗 雑 な 表 現に お い て は , 「同 一 性」
と解
釈 さ れる 可 能 性をその 最 初か らもっ てい た。「
同 一 性 」 とは,仏
教が本 来最 も敵 対
し た概 念
で あっ た筈
で あるの に, あるbhava
と そ れに存
す る と誤 っ て想像
さ れ る svabhava (atman
) との関 係
が , その 二概
念 は事 物 (vastu ) と し て は 等 しい か ら 同一 だ, な ど と表 現され るに至 っ た の であ
る。 し か し,何
故9im
≦apa → vrkSatva で あ っ て, 決 して vrkSatva →6i
卑曲pa
で は ない の か , とい う疑 問に ,「
同 一性」
とい う解 釈は , 永 久に 解 答を与
え ない で あろ う。Jfianagarbha
は , こ こで ,tadatmya
とい う語を,方
向性 を無 視 し て ,「
同 一 性」
の 意味
で 使 用 し て い る 様に 見える 。 とい うの も,hdi
gfiis
de
bdag
min とい うチ ベ ッ ト語
は , (a )と (b
)の 二者 に , 相互的
なtadatmya
関 係の ある こ と を否 定 す る もの の よ うに見え る か らである。 とすれ ば, そ の 関 係
は
「
同一性」
以外
に考 えられ ない 。 そ れ 故に こ そ,Jfianagarbha
に ょ る(
a)
(
b
)
間のtadatmya
関 係 否定 も, 単に (a )(b
)間に「
別 異 性 」(bheda
)が見ら れ る とい うこ との 指 摘に よっ て な さ れ て い るの で あ り, そ れ は,〔
25
〕 否 定 され るもの (dgag
Par
bya
ba
)
〔= 勝 義に お ける生 起 と分 別 されたもの の 生 起 〕 と否 定 す る もの (
hgog
Par
byed
pa
) の 区別に よっ て , その 二 つ の否 定 (
dgag
pa
,pratiSedha
) 〔=(
a)
と (b
)〕 は異な っ て いる, とい う
意 味
である。(
SDVP
44
a3
−
4
)
Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty
Jfianagarbha
の 「世 俗不 生論」批判に つ い て (松本) (13
) て い る か ら同一 で は ない 。」 とい う単 純 な論理 し か 示 されてい ない 様に見 える。さて,
Jfianagarbha
は , 記 述 〔24
〕に続 けて, さ らに 次の 様に 説い て い る。 〔26
〕 (ii
) 実 義に お い て は , 二 つ の もの (( = (a ) 実 義に お ける不生と (b
)
世 俗に よ る不生 ))は無い 。 何 と な れ ぽ, 戯 論 (prapafica
) を離れ た もの が , 実 義である と認め られ るか ら15) 。 故に , そ こ に お い て 〔 = 実 義に おい て〕証 因
等
の 〔論 証の 〕 支 分 (avayava )は 無い 。 〔27
〕こ の 様に , 〔実 義に お い て 〕そ の 二つ 〔(a )と (
b
)
〕 は 無 い の で , 〔そ の二
者
に〕因 と果 〔とい う関 係 〕は 無い 。 (SDVllb4
−5
)Santarak
$ita
は, 記述
〔26
〕 を註 釈 す るにあ
た り, 〔28
〕〔
あ
なた は〕「
そ の 二 つ の 不 生は ,実義
に おい て は , い か なる区
別も無
い〔= 同一 で ある〕の で は ない か 。」と語るで あ ろ うか ら, そ れ に 対 して
「
実義に お い て は, 二 つ の もの … …」 と説 明 す る 。 (
SDVP
44
a4
) と述べ てい る の で ,彼
が そ の記 述を, 記 述 〔24
〕の 延 長線
上 に と ら え,(
a)
(b
) 間のtadatmya
批 判 と見て い る こ とは明瞭で ある。 従 っ て,Santarak
§ita
に よれば, (a)(
b
)
間にtadutpatti
関 係が有る とい う想 定の 批 判は, 記 述 〔27
〕 か ら始まる と さ れる の である16 )。 しか し, 記述 〔26
〕 を素 直に読む な らその 論旨
は , 記 述 〔27
〕 まで 一 貫 して い る よ うで あ る 。「勝 義は戯 論を離れた もの で ある か ら, 勝
義
に おい て は, 証 因 (a ) も帰 結 (
b
) も無
い 。 故に,(
a) (
b
) 間
に , 因 果 関 係は 無い 。」と い うの が, 記 述 〔26
〕〔27
〕の 趣 旨で あ ろ う。 ただ こ こ でJhanagarbha
が 「勝 義に おい て 」 とい う限 定を 持ち 出すの は, フ エ ア で ない様 に見
える。彼
の 言 うよ うに ,勝 義
が「離戯
論 ・ 離 言」
で あるな らば17 ), お よそ論 理 学な ど とい うもの は成
立 し ない 。無
論tadutpatti
の み な らず,tadatmya
関 係 も成立 しえ ない で あ ろ う。 こ の 様にJfianagarbha
が 「勝 義tl
こお い て」 とい う の は , か な り唐 突で , ま た強引
な議論
に見
え る。甑
ntarak §ita
は こ の 不自
然 さ を解 消 する た め に , 記 述 〔28
〕 で , 「勝義 に お い て」
とい うこ とを 口 に する 対 論老
の 反 論を 想 定せ ざるを得
なか っ た の か もしれ ない 。さて , 以 上で ,
SDVV
に お い て , 記 述 〔1
〕 ま た は 〔5
〕 の「
世俗
不 生論 」を,§
antarak
§ita
の 記述
〔6
〕 の表
現を 用 い れ ば, 論 証 (sadhana ) と見
なす
.揚 合に
生
じ る過 失 の 指摘
は終
っ た。 そ こ で,§
antaraksita
は ,〔
29
〕「事物
の 力に よっ て起
っ た論証 (
vastubalapravrttasadhana )が 不合 理で あれ ば ,帰謬 (
prasahga
)で あろ う。.1
と思 う な ら, それ に 対 し て ,(
14
)Jhanagarbha
の 「世 俗不生 論 」 批 判に つ い て (松 本)(
SDVP
44
a6
)と述べ て
,
〔
30
〕こ の 同 じこ とに よ っ て (
hdi
fiid
kyis
), 帰 謬に関 する疑い も斥 けたの である。 (
SDV
llb5
)とい う,
SDV
の 「世 俗不生 論 」批判の 最 後の語を 導い て い る。Santarak
$ita
が,何
等
か の 有 効 性 を もっ た論 証 形 式 を, 記述 〔6
〕の 様に , sadhana とprasaflga
・sadhana とに, ま た 記 述 〔
29
〕の様に, vastubalapravrtta − sadhana とprasah
−ga
とに 分 けた18)様
に , こ の記 述 〔30
〕は ,Jfianagarbha
が朧
げ な が ら も こ の 二 分 法 を 意 識 し てい た こ とを 示 し て い る。 た だ「世俗
不 生論 」
の 論証式
を帰 謬
(prasa
血ga
) と見る場 合の 批 判は,Jfianagarbha
に お い て あ ま りに も簡
単で あ り, ま たそ れにつ い てSantarak
$ita
もい か な る註 釈 も附 し て は い ない 。「
こ の 同 じこ と」
とは, 一体
何 を 指す
の であろ うか。 そ れは, 記 述 〔27
〕の 直 後の 一句 である こ と か ら見
て も,厂
勝 義 におい て は ,証
因た る勝 義
不生 も, 帰結
た る世俗
不 生 も無い か ら」とい うこ とを意 味す る と思わ れ る。 そ うである とすれ ぽ これ は あま り に も安 易
な, ま た 不当
な批 判 であ
る と言わ ざるを得
ない であ
ろ う。 既に見 た よ うに ,SDV
に よっ ても
SDVP
に よっ ても
,「
世 俗不 生論 」
を 説く対論 者
は , 厂勝 義不 生」
とい う証 因を 自ら認め て は い ない 。 とい うこ とは, 「世俗不 生 論」の 論 証は,「
もし事物
が勝義
に おい て生 じ ない と認め るなら ぽ, 事物
は 世俗
に おい て も生じ な くな っ て し ま う。」
とい う帰
謬の 論 証と見 なけ れば な らない こ と を 意味
し てい る。 に もか かわ らず, 帰 謬に 関 する批 判が, 「離 戯 論の 勝 義に お い て は, 証 因 も帰結
もない 。」
とい う余 りに も簡
単 な 原 理 に よっ て , 片づけ られ るの は , 問 題で は なか ろ うか 。 もっ とも
,帰
謬 とい う論 証の形 式に対 し て , どの様な批 判 があ り うる か とい うこ と も, 考慮
すべ きこ とで あろ う。 こ の 点 を も含
め て , 以下 にMA
に お け る「
世俗
不 生論」
批 判を 見て み よ う。IV
既 に述べ た様に,
MA
に お い て「
世 俗不生 論 」は , 前主張の 記 述 〔3
〕に お い て提示 さ れ,後
主張の 記述
〔4
〕にお い て 再説 されて い る。 そ し て 記 述 〔3
〕は, 厂世 俗不 生 論」と い うよ りは む しろ厂
世 俗 無 自性 論 」 とい う体 裁を もっ た もの で あっ た。 ま た注 意すべ きこ と は, 記 述 〔3
〕 と記述
〔4
〕の 論証式
が,「
もし 〔無
自性 ・不 生 〕で あ る な らば, ・ ・… ・にな るで あろ う 。」
とい う仮
言 的 な 様 相 を もっKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
Jiitinagarbha
の 「世 俗不 生論 」批 判につ い て (松 本 ) (15
) て い た こ とである。 今, こ こ で, これ ら「
世俗
不 生 論 」に関
わ る様
々 の 論 証 式 を 形 式の 上 か ら整理 すれ ば, 次 の 様に な る。A
.SDV
B
.SDVP
C
.MA
D
.MA
記 述 〔5
〕 (42b4
) 記 述〔3
〕 記 述 〔4
〕 主 題 色等 色受等 諸 事 物 一切事 物 証 因 勝義不生 勝 義不 生 勝義無 自 性 勝義不生 帰 結 世俗不 生 世 俗不生 世 俗 無 自 性 世俗不 生 喩 様 態 石 女 子 等 石 女 子 ・ 兎 角 等 石 女 子 仮言的 兎 角 等 仮言 的B
.は ,§
antarak
§ita
が註 釈に おい て , 記 述 〔5
〕を自
らの表 現
で 示 したも
の であ
る。 こ れは さして重要
な こ とで は ない であ
ろ うが, 主 題や喩に も, 若 干の 相 違が見
られ る。既に 述べ た よ うに ,
C
.つ ま り記 述 〔3
〕は , 「世 俗無 自性論 」 と もい うべ きも の で あっ て , その 点は 記 述 〔3
〕の直 後
に 続 く,次
の文章
に よ っ て も, 明瞭
であ る。 〔31
〕〔世 俗におい て〕
無 自
性 であ
る こ とに お い て 等 しい か ら, 色等
が 〔世俗
にお い て 〕 顕
現
する様に , 兎角
等 も, ど うして 〔世俗
に お い て 〕 顕 現 しないの か。 こ の顕 現の 区別の決 定 (
hes
pa
, ni6caya ) に, 因は少 しも無い の で ある。 (MA
138
b
5
−6
) これは , 色等が勝 義 に おい て 無 自性で あれ ぽ, 世 俗 に お い て も無 自性に なっ て し ま うが, そ うであ
れ ば, 世俗
に お い て無 自
性であ
る こ とに おい て兎角等
と等
し い か ら, 色等だ け が世 俗に お い て顕 現 し, 兎角 等
は顕 現 し ない , とい う区 別 が ど うして あるの か , と論 じる もの で ある。 こ の 論 証は , 既に述
べ た様
に 帰謬 と見る ぺ き もの で あろ うが , とす れば, そ の 背後
に は,「
色等
= 勝義
有 自性 」とい う 〔唯
識 派の 〕 主 張が秘 め られて い る こ とに な る。さて, 記 述 〔
3
〕 の 「世 俗 無 自性 論 」は , 記 述 〔4
〕で は「
世俗
不 生論」
と し て 再 説 され, そ れに対
し て , まず 次の様
なKamala6ila
の批判
一対論 者
の 論証 式を
prasahga
−−sadhama で は な く一般の sadhana と見
る 場 合の 批 判が 示 される。
〔
32
〕(
A
) (1
)〔
彼等
の 厂世 俗不生 論」
の論証 式
は 〕幻 (
maya )等
に よっ て ,不
確
定 (anaikantika )で あ り,(
2
) 帰結
の反対
に おい て 〔証 因を〕 拒斥
する量 (
sadhyaviparyayeba
・(
16
)Jiianagarbha
の 「世 俗不生 論」批 判に つ い て (松本)dhakapramapa
)が 示 され な い か ら,証因は異 品遍
無 性 (vipakSavyavrtti ) に 関し て , 疑 惑 ある もの である。 (3
)
ま た, 喩の み に よっ て , 主 張 する意 味が証明 される こ とは 無い 。 即 ち , 所 量 性 (
prameyatva
)等
は , 〔同品と異
品の 〕 両 品に 遍 充 し て い る こ ともあ り うる か ら, 勝義
に お い て 無い もの が , 世 俗に お い て も無い な ら ば, 世 俗の 真 実 (sarpvrti ・satya ) を 破 壊 する こ とになっ て し ま うし, そ れ 故 誰 も顛 倒 しな くなる で あろ う。 (MA
210
a4
−6
)まず (
1
)
の「幻等
に よっ て 不確
i
定」
とは い か な る意 味
か。 これ は「幻等」
は,勝 義
に お い て生 じない が, 世俗
に お い て は 生 じ る か ら「
勝 義不 生」
の証
因 が, 厂世俗
不 生」
とい う性質
を もつ 同 品 と「
世俗
生」
とい う性質
を もつ 異 品 と の 両方 に あるの で , 不確
定 (共不定 )
で ある, とい う意味
で あろ う。次に
(
2
)
は,「
勝 義不生」
とい う証因 が, 「世 俗に お い て 生 じ るもの」
とい う 異 品に 有る こ とを 否 定 する論 証が 示 されて い ない の で , 「証 因が 異 品に 無い」
と い う「
異 品 遍 無 性」
につ い て の 疑 惑が ある, とい うもの である。(
3
)は , 必 しも喩 の 過 失を 述べ た もの で は な く, 証因 が帰 結に よっ て遍充
さ れて い る とい う正 しい遍
充 関 係が示 され な け れば , 単に「
兎角
等」
とい う喩 に よ っ て , 「世 俗不生 」 とい う帰 結は 証明 され ない , とい う意 味であろ う。 「所量 性 」 云 々 は,「
声は無常
な り。 所量 (認識 の 対 象 )性 の 故に 」の様
な論 証 式 を 想 定 し て い る。 所量性
が 同品 (
無常
な もの)
と異
品 (常 な もの )の 両 品に あ り うる様に ,「
勝 義不 生」
(「
勝 義無」
) とい う証因 も, 「世 俗 生 」 とい う性 質を もつ 異 品 に あ り う る とい うの が 以下の 議論 の 意味で あろ う。 ま た そ の 異 品に 無 く, 証 因が帰 結に よ っ て遍 充 されて い れ ぽ,次
の様
な過
失が 生 じ る とされ る。 即ち, 世 俗の 真実
(世 俗有
) と さ れる色等
が, 世 俗に お い て生 じな くな っ て し ま うの で , 誰 も顛 倒 しな くな る, とい うの である。以 上 の
Kamala6ila
の 批 判は , 単に ,「
勝 義不 生」
とい う証
因 と「
世 俗
不 生」
とい う帰 結
との遍
充関
係が確
定 されて い ない , とい う論 点に尽 きる と思 わ れ る。 さ らに彼は ,「
世俗
不 生論」
の 論証
を , 帰謬 論 証 と見 な し た場 合の批 判を , 次の 様に 述ぺ る 。〔
33
〕(
B
) 〔その 論証
が 〕帰謬論証
(thal
bar
sgrubpa
,
prasahga
− sadhana )で ある と して も,