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ドキュメント内 ω 津軽弘前藩の武芸 (ページ 81-89)

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「奇兵隊11大小抱隊被仰付候一件」の最後の頁。

写真帥

「文化紀要」第31号, 1990年 弘前大学教養部

122  右砲隊へ被下置候問︑取調申出候様被仰付候

て 右 ニ付御時合柄

ニ ハ 候得共︑格段以御沙汰両 季為御手当別紙頭書之通被下置

格役

AO御取入

之族は︑小晋請銀御用捨ニ付被下方一一不及旨被

仰付候︒当分代之儀は並合通被下置候︒

一︑是迄御旗本H

西北海岸兼川東海岸非常大筒隊 川鉄砲隊御止之上︑非常御用川宇和野内習なら び内々習之節は︑此度被仰付候砲隊之内

J相勤

候様被仰付

︒内習ならび内々習之節は順番立置︑

組頭

J

隊頭へ申遣次第罷出相勤候様被仰付候

尤︑非常出張之節御用所

AO被仰付候︒

一︑砲隊之面々︑内習内々習パ出精罷出候族︑度 数ニー寄御賞被下置候問︑年末‑一至り名前取調申 出候様︑此旨とも夫々可被仰付候︒以上

七月十一日

作 左 衛

門7

佐藤源太左衛門様

はさまっていた紙片(隻)。

縦13.3C7IIX6.0C7II 写真同

「文化紀欝j31号.1990年 弘前大学教義部

猶々護士口日割佐玉薬己下方之義ハ

取謁之上可被仰付候︒巳上

一志

川山

差{

向︒

出向

の意

山川欝字詰︒対芯策の意︒

間接立︒ここでは繭成の意︒

川山緋帰京堂︒とかく武装穂市は流儀

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と ら わ れ

︑ し

︑ ま た 諮 り と も し て い た と 思 わ れ る

︒ し か し こ れ で

は鱒人対鱒人の戦斗ではよいとしても︑ひとつの号舎のもとむ援関される集団対集団の実戦では︑混乱が予想きれ︑あまり

用に立たない︒そのため幕府は﹁講武所Lを設立し︑議議にかかわらず︑例えば防具や竹万を一定にしたり︑﹁面打ちL

を主とするような穫占法を撮り入れた︒

弘前審の﹁修武堂﹂は︑藩主の見解もあるが︑﹁講武一所﹂設立の題UEを採用したと思われるG

﹁移

武堂

﹂設

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趣旨

は︑

文久

二年

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一月

二十

四日

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の@﹁拝見護持付震鶴吉筆之写﹂②﹁御家老口達﹂③﹁武芸引担之番頭へ

相渡侯覚書﹂@﹁一一一番頭へ栢渡候演説者﹂に詳しい︒

﹁修武堂﹂設立の趣蓄は︑②の﹁別而去丑年(金江主)異露経務質へ襲来L︑告の﹁当今之時勢不容易Lという欝勢誌

識のもとに︑舎﹁執(移)行ハ新古流儀一一不拘︑実用相立候儀専一之事﹂広あった︒また︑@に﹁公辺ハ馨府﹀ニ一部も︑

先年より講式場(正式名称は講武所﹀被差立︑組仕合致番古挨様講世話有之︑尚又此度小野次郎右衛門殿(守一九州純一一げ唯一

とあるように︑弘前議の武会もこの方向に進むべしとレうポ峻があり︑それ民基いて

123 

の設立と思われる︒

右の越設のもとに︑文久一一年八月古学校敷地ハ武芸一般・練式場とも﹀な建築し︑同年一月一五段︑六誌の コ 訪 問

︑ 始 業 式 を 兼 ね て 鰯 街

︑ 槍 術 の 磁 大 な

﹁ を 実 擁 し た

﹁ 出 席 千 草 百 人 余

︑ 何 れ も

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飯被

下脇

陣骸

いと

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また︑文久一一一年一一月九日には﹁砲術稽古初めいも実擁している︒そして関年一一月にはじめてこの轄台所に﹁修武堂﹂と

命名したわ﹁移設営んいという額の三文字は﹁大番頭・林昇﹂の揮選と公われている︒

f文北紀要j第31号、 19部 年 弘前大学教養部

124 

(3)  (12)  (11)  (0) (9)  (8) ('1) (6)  (5) 

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間子

‑或芸謂方・武芸締方の役をおいたが︑浅利万之助均致は武芸締方であった己最初の

こ だ わ っ っ た よ う で あ る が

︑ や が て 藩 の 方 針 に

解説1

︑ 本 資 料 は

︑ 弘 前 藩 の 奇 銃 隊 と い

・ 砲 縁 へ と 議 革 し た 時 の 概 要 を 用 人

・ 州 知 馬 作 左 横 門 が 御 馬 車 組 頭

・ 生

藤震太左密門当てに述べ︑それを浅利万之助均致が議き写した袈綴の冊子本である合

本資料の年記が﹁鹿応元年(一八六五)七月十一一日﹂となっているが︑この時に法じめて兵制を改革したかどうか託つ

いては疑問がある︒改革の機運は弘前からあったと考えられる︒﹁修武堂﹂開設

2 M

一 一 年 一

八 人 一

Jもその例とみることができる

し︑﹁砲街稽古之儀︑何れも存知之通︑当分之形勢追々変革致し︑自然砲隊に無之高ハ難得必勝(以下略一﹂と一克治元年三八

六四﹀一一一丹期日の﹁御目見以上登城之上拝見被仰付候簿意書﹂

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23

にも和式銃から洋式銃へ武器の変更と

組識の改革の時機到来聖水綾していることからも推察ができるむまた﹁元治一一年︿一八六五)正月﹂の﹃京都留供付・御

用留いには事実上﹁資兵隊・大路縁いの名称を使用している9志のような状洗から兵畿の改革は時間の問題と考えられる

が︑一記録の上で﹁誌渡新日一砲隊組被設立︑縄入選之上賦役被仰付︒諸事壌にて惹関之上取扱供いと文字に晃みえるの

f文化紀要J第31号,1990年 弘前大学教義部

人六六)五丹﹂の﹁小出内又右衛門家記﹂

から

であ

る︒

﹁奇兵隊﹂についての記録は見当

が﹁

慶応

一一

年︿

らな

い︒

この改革も︑明治一克年三八六人﹀正月十八5以後一舟び改革することになる︒すなわち同日の﹁御目付以上懇与力造奪

城拝見被仰丹挟︒御自筆写﹂によれば泊々註態変遷に龍ひ︑

J Kハ制改革之儀ハ島然之影勢ニ有之︒中古以来銃法次第ニ結

問ヶ︑終ニ当今之形勢ニ推移り︑旦︑朝廷調沙汰之趣も有之︑此上出法之憲法ニ拘泥致候而ハ部高徳先代議之尊議広も相

一戻可申ぷ付︑此度惣丘ハ投降ニ変革之儀︑取謁申付設問︑向れも淳く差含︑一際砲撫稽吉勉励致接様︒灘︑委細之議ハ家者

共より可宇遠藤也︒いと﹁惣丘ハ銃隊﹂組織と改革することに・なるのである包

2︑本資料は一五項自から成り立っているむ内容は告奇良縁︒砲隊編成の動機︑経緯︑②人事の立案は移武堂幹部が行うこ

と口事高砂防の隊頭の待遇︒告奇既ハ瞭の⁝縞成と人数︑隊員の持遇及び条件︒@碍離の繭成と人数︑隊員の待遇及び条件︒

命両酸員採用の条件ハ資務

) C

⑦従来の奇銃撃設の採患のこと︒事柄隊の説錬計画のこと︒@出向した場合の隊員の取扱

い︒︒表彰のこと︑等々である0

3︑本資料に示された兵舗は︑前述したように明治一瓦年には再び﹁惣丘ハ銃隊﹂組織広改革きれ短期間で終ることになるが︑

短期間であってもその期間の弘能藩の兵説を知る上で貴重な資料と考えられる︒

4︑本資料では︑﹁奇兵隊弐組い﹁砲隊六経﹂の編成となっているが︑その﹁勝一線﹂奇兵隊二名︑砲畿大名の氏名に関する

資料が

m m 存されていたので次に紹介するむ

125 

「文化紀要」第31号,1990年 弘前大学教養部

126 

O

関 係 資 料 人

太 迄 右弥 八助

石 廉

助 竹ノ助之

f 進躍

会熊

= 久甚之進 太佐弥ノ'¥

兵右共儀奇隊頭人同 I所

高助

「奇兵隊頭J2名と「砲隊頭J(大小抱隊頭兼務)6名の氏名「覚」

写真岡

「文化紀要」第31号,1990年 弘前大学教養部

④  5 

﹁撰 挙状

H

歴書

撰挙状

履歴書

明治元年ヨリノ

履歴調ノ表

撰挙状

青森県士族 冊子本

浅利氏

陸奥園中津軽郡弘前森町八

番地居住

陸奥歯岩木神社等外出仕

127 

学 術

文政七申年十一月出生

五十五年明治十五年十月

利 高之助

「撰挙状li履歴書」の表紙。

写真凶

「文化紀要」第31号,1990年 弘前大学教養部

128 

天保六未年旧藩稽古館

ニ於テ︑猪股繁永

‑ 一

主化元辰年ヨリ世田回流銅術

従ヒ皇漢

修業

H

林崎新夢想流居合師範致シ候︒

質朴堅正 行

履 歴 一︑旧藩一一テ深浦町奉行相勤候︒ 一︑大関越峠口固メ小隊長

ニテ兵隊引率出張申付 候 事

明治元年五月 一︑平生心掛宜シク門人取立方格別行届候

ニ付 ︑

奮 藩 主 着 用 紋 附 羽 織

n上下及銀子弐枚被下候事︒

明治元年八月

口 達 一︑出羽園秋田県へ小隊長

一一テ兵隊引率出張申付

候事

「撰挙状11履歴書」書き出しのー頁。

写真白1)

「文化紀要」第31号, 1990  弘蔀大学教養部

明治元年八月

一︑高部領へ

明治元年九月

ノ賊長征討ノ

明治

二年

一 二股ノ役突衝ノ賊

明治

︑自藩主家従被申付︑高照神社宮番被中付侯事︒

明治

月 129 

︑岩木出神社等外出仕中付候事︒

γ︑其功不設︒

ヲ 河

ドキュメント内 ω 津軽弘前藩の武芸 (ページ 81-89)

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