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ドキュメント内 ω 津軽弘前藩の武芸 (ページ 73-81)

「御固所備方Jを示す文言。

写真。。

f文化紀要J第31号, 1990年 弘前大学教養部

114 

一︑夜中関門開閉之儀︑最初町内d人足両人ツ斗々

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出候

様直

村一

一 度々近付

AO両人ツ込為差出置中候︒此段委縮清右禽門は心得罷有之候︒

一︑新関之犠

一︑当関級人数当番︑最初回拾五人J当時三拾五人宛相詰為相替申候︒ 規制約も同様別段被抑波も無之c不都合之儀は其段伺之上取斗ひ来ち中候︒

壱人

為取締宿

注 川 殿 樺

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弘 前 第 十 二 代 藩 主 意 軽 承 昭 の こ と む 天 保 一 年 入

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八 月 一 熊 本 藩 主 細 川 議 中 守 斉 議 四 男

︒ 安 政 四 年

ハ⁝八五十伊八月十一百第十一代筆中産軽頼議の四女常濯の鱗養子︒安政六年三八五九三万七日家督相続む開年五月二百

弘前入部︒大正五年三九二ハ)七丹一九日没︒七七議

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凶関連する次の記緩がある﹁此月(一克治元年十二月)二十三日︑公江戸ヲ発シ道ヲ東海道一⁝取り一ア京師一一赴カル︒家者職

手伝・西舘字路︑用人(机

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杉山八兵得︑山野主馬︑制側用人'八木橋其母︑其能者一朗木村繁回路︑山鹿八郎衣筋肉川︑平井

修理︑勘定奉行(一

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小山内靖之進︑馬臨兵企七十人︑其勢合セテ千百五拾人之一一髄フc﹂(い

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伐 材一 路

公 子

﹁元治疋年十二月二十三日︑公︑今日江戸表舞発駕︒者顕三隊(組足軽一一一十人ヅツ)木村繁四郎︑山麗八郎左衛門︑平

井修理︑番頭二援杉山人兵衛︑山山野主馬︑御側用人・八木橋其母︑御山本老西館宇膳︑勘定奉行♂γ山小荷駄奉行兼小山内議

之丞︑御馬兵土七拾入︑惣勢千百五拾人じにい⁝

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川 川 一 一

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問関連する次の記録がある﹁九日︑京部ニ入り︑直一一近議家一⁝抵リテ忠一房公一一謁シ︑又議奏簿奏ヲ其邸時一一訪問問シ︑書ヲ以

テ天機友観主唯后ノ安否ヲ伺ヒ︑而シテ予メ準備アリシ寺町通今出川ししル本識寺ノ行革口‑一世石市二ブレ︑諸勢ハ其近接ノ寺院

旅脂等ニ分宿スむ﹂

「文化紀要」第31号, 1990年 弘前大学教養部

﹁正月九日︑殴様京都御着︑御旅服之侭近衛様御殿へ御着︑御製斗目半袴一一召替御逢︑畢而伝奏議衆へ御廻勤天機御伺

書並親王佳戸敏宮へ御機嫌伺書付御出被遊︑寺町通リ本満寺へ御着ハン︑同仏陀寺山野主馬︑同十念寺西館宇膳︑同阿弥

陀寺杉山八兵衛︑同光明寺平井修理︒

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川町近衛公︒近衛忠房︒当時内大臣︒明治十年二月二六日︑忠房の子英麿が津軽承昭の養子となり津軽家第一三代を継ぐ︒

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一 日 一 )

同御本陣︒﹁京都寺町通り今出川上ルLにあった本満寺︒ 川山野主馬︒後の山野茂樹︒文政六年(一八二二)生れ︑明治一五(一八八二)没c用人兼隊頭︒当時四二歳︒

仰西館平馬︒後の西館孤清︒文政十二年(一八二九)生れ︑明治二五年(一八九二)没︒当時三五歳c

川覚︒門限に関わる心得を四ケ条にわたって記している︒世上の不安を反映し厳かったc

川本陣(本満寺)下陣(仏陀寺︑十念寺︑阿弥陀寺︑光明寺)とも︑門限は暮六時(午後六時)で以後の外出は禁止とす

るということ︒門限以後急用等で外出する場合は上司の印鑑が必要であったら

同五節句︒一月七日(人日)︑二一月三日(上巳)︑五月五日(端午)︑七月七日(七夕)︑九月九日(重陽)の五つの節

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関連する次の記録がある︒﹁慶応元年正月二十一日︑殴様御参内被為拝龍顔︑天盃御頂載被遊候︒ 川杉山八兵衛︒後の杉山龍江︒天保十二年二八四一)生れ︑明治二八年(一八九五)没︒用人兼隊頭当時二三歳︒c 句 ︒

右御参内ニ付献上︒

御 所 へ 御 太 万 御 馬 代 大 判 一 枚 親 王 御 方 へ 御 太 万 御 馬 代 白 銀 二 十 枚 准 后 御 方 へ 白 銀 十 枚 内 侍 所 へ 御 太 万 御 馬 代 白 銀 一 枚

︑ 御 鈴 料 銀 一 枚

其他関白様以下夫々御賦り有之︒

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凶南門︒御所南門のこと︒

﹁此月十五日︑京師所司代松平越中守博奏ノ令ヲ博へテ︑公一一御所南門ノ警衛一一任ズベキ旨ヲ達ス︒此日(正月二十四日)

前 任 松 平 相 模 守 一 一 代 リ テ 其 警 衛 ノ 任 ニ 当 ル

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f文化紀要J第31号,1990年 弘前大学教養部

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亦亙社次郎︒後の赤石行三︒目付︒夫課元年(一人投れ︑明治二九年︿﹂八九六﹀投︒当時三五歳︒弘前藩土

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土岐渡人員仁の二子で島ったが赤石家を薙ぐc弘前第三代市長となった人む

間関連する次の記録がある︒ヱ楠門在勤ノ人数タル︑者頭︑番頭︑銃隊⁝ぃ除名一騎︑兵士拾入︑大山町隊拾五人︑

同 総

話番︒見張番のことむ

京紙

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て次

の一

記録

︑が

ある

Gつ欝車一五年正月二十七日於京都御本陣御家老口達︒

今宮一為御警衛御上京之犠⁝⁝付︑得発鷺前津々相述︑持勢柄各十分心持罷在候帯一一長へども︑時一千易之形を以戒心紹

弛候前ハ︑以之外一一右之︑京地近来之影勢異変瞬息之間に和生長一一付︑一身之不覚︑機一一後h︑時・を欠候事︑遂にハ御大

切御勤務に椙係り候条︑其処深相弁︑各隊各皆︑互ニ申合せ︑ω壮一技柳無油断︑急応之心懸一時為肝要候︒若︑非営之期一一臨

接而ハ︑忠魂を繋ひ烈戦之上︑構守衛之御規模霜立︑御家名を輝較諜可被致︒万一卑怯之振舞於右之ハ蛇度厳科可該部付

侯関︑御時勢厚う梧弁忠勤可被紹勝候︒此旨申達接患の

御家老

同 大 殿 様

Gぺ議応元年二月八日︑於紅一

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表大殿様(弘前第十

遊(実ハ二丹期日御逝去

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べ ⁝ 中

J4JUJ 同時堂︒隊土が京都に登るに当って︑夜具等日常生活花必要な身の題りの品々は船で輸送すること

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なっていたcしかし

月八日の時点で未だ到着していなかったむそのため止むを得ず夜具等感から借りていたが︑その損料支払いが大変であっ

たらしレ︒支給の食品を処分してこれに当てたりしていたc下級隊七たちの生活上の難設の有様を訴えた文弱である︒

側第十一代藷主枠軽順一時阜の死は(江川γurljuhrrk︐)弘前に一一月十回目︑京都広も二月十呂連絡が入っているむ京都で

は直ちに践喪の件を朝廷に中講し︑その結果二丹十六日次のような達しがあったや

{際応記年二丹十六日︑識調門御園御免之議︑訟奏衆より侮達︑錦織之儀一⁝付不及交代︑レ位 代藩主津軽顕承﹀御病鉱之匙鐸養生不被為叶今現御逝去被

引取侯而宜冒とも調達い

右のように

日︑﹁留ツ 御所南門﹂の警高から解除されることになったりしかし︑本資料の本文にはないが︑一自おいた二月十入

警揺を命じられることになる︒

f文化紀要J第31号,1990年 弘前大学教養部

﹁慶車一元年二丹十八日︑構所司代より御留守腎へ鐸渡書付

津軽越中守

松平出雲守

m m ツ塚智警衛見建り組へ被仰付蹴瓶投嵐︑被御免為代其方へ被待付侠問︑請取調鶴岡衛司被棺勤候︒﹂

告に

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一一

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四ツ塚い警衛は三月十松平出雲守との交代は二月三十一日の夕刻行われた︒そしてこの

一一一日より再び﹁御所書門﹂の警喬につくことになった︒

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者頭平井移理︑続馬兵士二拾人τ

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ν夜︑見廻りと交代担務︑御長柄︑御謀︑大砲等以前之通認備候︒

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制京都警需の任期は一一一ケ丹︑すなわち一克治一一年正月か三百末までであったが九日

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を正式に告げられたのは酉月十誌である︒しかしこの期日は前からわかっていたようで︑四月八日に御所に参内しているむ

﹁酉月八日︑京師守衛ノ任期講ツルヲ以テ︑公請暇ノ為メ︑参内龍顔ヲ掠シ︑天歪ヲ賜ハルG而シテ伝奏野宮中納言守 義ノ勤労ヲ思セラル︑ノ叡皆ヲ伝ヘテ︑白羽一一議五構︑末康壱函ヲ賜ハル︒﹂)そして﹁左近議権少将いに推

怪されるのである︒

﹁篠

所南

開け

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警一

語は

松平

飛弾

守と

交代

であ

った

が︑

十九日と決ったということである︒ の交代も十日︑十日の一一日間で万事務了し︑京都出発が鶴見 117 

解 l 説

︑ 本 資 料 の 儒 値 に つ い て

︒ 弘 前 藩 が

﹁ 京 都 二 一 を 幕 府 月 番 老 中 よ り 達 し を 受 け た の が 元 治 完 年 十 一 丹三日︒惣勢一一五ハJ人を整えての江戸出発が同年十二月二十三日︒京都着が翌元治一一年正月九日︒任理議了で江戸に向っ

て京都を出発したのが四月十九日︒この京都勤務中の正月九白から四月十九日までの状況を知る資料にどのようなものがあ

るのだろうかG一津軽承昭公博﹂もあるが︑資料の出血ハを明訴して記述している掛け本にヲ薄軽服代記鎮・下﹄(津軽議昭の

項﹀

があ

る︒

の叶一津軽震代記類・下いが用いている資料品︑﹁津軽日記}(弘前藩庁日記﹀より一四錨費︑﹁平井俊章京都日記﹂より

f文イヒ紀要」第31号,1990年 弘蔀大学教養部

118 

一三富所︑つ投賂題滞京都日記﹂より一簡所で︑いわば王者の日記の合或である︒それぞれ貴重な日記からの引用ではある

が︑本資料の叶浅利万之助・御用議いは一度も援用されていない︒

布の一一一者の日記と比較して吋浅科万之助・御思議いの特徴は︑第一線で檎く奇兵隊土の勤務上の心得についての一記述や日

常生活の難渋ぷりの記述にある︒右の一一一審の日記には︑隊士たちの生活の実慧を示ナ記述が一笛所もない︒この点に﹁御用

富﹂の資料上の綴龍があると考えられる︒

定もこの吋御沼窒﹄には︑理由は不明であるが一一一月中の記述が欠落しているよ一月から︑二一月を抜かして︑いき主り四丹の

記述があり︑この点浅念と云わなければならない︒2︑形態について︒本資料は表紙に一御舟留いとあるが︑仮綴のコ部の冊子を一冊に綴ったものである︒﹁四月十五日(元治

二年﹀﹂までの分が1浅利高之助い島筆の﹁御用寵いで一五枚にわたって記述されているc﹁了八月ナ五日達﹂以後ち分は 筆緋も異なり五枚に寵かれている冊子で︑もとは別の靖子であったと思われるGしかし京都勤務中の﹁達﹂であるというの で︑後になって一諸に綴って一一捕にしたと患われる︒3︑﹁鐸思留いの筆者二浅利前尚之弱いについて︒実名均敷G文政七年(一八二四)一一月生れ︑明治二四年三人九七)二丹

一七

日投

G六八歳G弘前藩における当国流鎚続と林崎新夢想居合の相続者G弘化元年(一八回開)爵師範として門弟の育成 拡当ったむ語紙歴については別に﹁撰挙状H履歴書﹂という自筆の冊子があるc

幕末の動乱期比四

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議会の円熟した武芸者として通しているやちなみに︑図︒蔵のときの元治一五年八月には東京浅草の幕

府縄米蔵間めの奇兵隊として出向し︑同年十二月には本資料にあるように引き続いて京都に出向している︒このときも奇兵

隊長であったc明治二年三八六九)一一一月には摺本武揚の軍の征討のため弘前藩の一小隊長として北海道に出向し︑﹁輿ニ

股﹂で土方蔵一一一事える兵士と対戦して部下に負務者を出すなど官労している︒この時すでに四五議であったり明治一一一年十一

月津軽承昭の家従として高照神社の宮番をしたが︑明治的部七月廃藩の後は無職︑専ら鏡衛・居合の門弟宵成に当った口

没後︑浅利家の菩提寺@京徳寺︿弘前市西茂森町﹀に門弟たちによって吋浅利先生墓﹂の銘を期む墓が建てられた︒

ドキュメント内 ω 津軽弘前藩の武芸 (ページ 73-81)

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