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辻 野 稔 哉

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Academic year: 2021

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『クリスマス・ストーリー』と『サマーウォーズ』における大家族の肖像

辻 野 稔 哉

S u r  d e s  p o r t r a i t s  de g r a n d e  f a m i l l e  d a n s  Un Conte de NoeZ e t  Summer wars 

Toshiya TSUJINO 

Resume 

Dans c e t  a r t i c l e  n o u s  comparons  Un C o n t e  d e  N o e l   ( 2 0 0 8 )   un f i 1 m  f r a n c a i s  d '   Arn aud D e s p 1 e c h i n  a  Summer  W

r s (2009)  un 1 0 n g  m e t r a g e  d ' a n i m a t i o n  j a p o n a i s  d e  Mamoru H o s o d a .  T a n d i s  q u e  1 e  p r e m i e r  d e c r i t  1 e s  v a c a n c e s   d e  No 邑 1 , 1 e   d e u x i と med e s  v a c a n c e s  d ' e t e .  On p o u r r a i t  c o n s i d e r e r  c e s  a u v r e s  v r a i m e n t  c o n t r a i r e s  s o u s  p 1 u s i e u r s   a s p e c t s .  C e p e n d a n t  d a n s  t o u t e s  deux ,  i 1   s ' a g i t  d ' u n e  g r a n d e  f a m i l l e ,  q u i  e n g e n d r e  1 a  m o r t  e t  1 a  n a i s s a n

t o u ra  t o u r .   C ' e s t ‑ a ‑ d i r e  1 a  v i e .  Comme c e s  f i 1 m s  1 e  r e p r e s e n t e n t  n o u s  v i v o n s  t o u j o u r s  d a n s  1 a  v i e  p o 1 y p h o n i q u e  e t  i m a g i n a i r e   ( a u  s e n s  du mot 1 a c a n i e n ) .  Nous p o u v o n s  y  t r o u v e r  d e s  e x p r e s s i o n s  modemes de 1 a  f a m i l l e  ou de 1 a  v i e  d a n s  n o t r e   t e m p s .  

Mots‑ c 1 e f s :  D e s p 1 e c h i n ,  Hosoda ,  g r a n d e  f a m i l l e ,  i m a g i n a i r e   Key words :  D e s p 1 e c h i n ,  Hosoda ,  b i g  f a m i 1 y ,  i m a g i n a r y  

はじめに

今やフランスを代表する監督アルノー・デプレシャン の『クリスマス・ストーリー Un  C o n t e  d e  Noe l . l   (2008 年) は,それぞれが様々な思いを抱えたままぶつかり合うあ る家族を描いた物語である。一家の中心である母親の白 血病発覚をきっかけにして,クリスマスに集う子や孫達。

決して仲睦まじかったとは言えない家族の過去をストー リー展開に織り込みながら,クリスマス休暇の数日聞が 描かれる。やがて,母親の為の骨髄移植手術が行われ,

クリスマスの想い出を胸に人々はそれぞれの生活の場に 帰って行く。

複雑な人間関係を巧みな演出で次々と描き出すこの作 品は,むしろ家族聞のすれ違いや憎しみといった負の側 面を物語の前面に押し出し,決してハッピーエンドとも 言えないラストへと至る。それはしかし我々の現実に も似て,淡い希望のようなものと,祭りの後の寂しさと,

日常へと立ち戻る安堵感の入り交じった様なぁと味を残 す。この作品を素晴らしいと言うのは簡単なのだが,そ れをどのように表現すれば良いのか。決して掴みどころ が無いと言うのではなく,あまりにも様々な要素が目の 前を通り過ぎて行く為に,かえって何かを語るきっかけ

を逃してしまう様な映画であった。

不思議な事に. 2009 年の夏に話題となった細田守監 督のアニメーション映画『サマーウォーズ J を見ている うちに,その『クリスマス・ストーリー』が思い出され

た。そのタイトルからして明らかな様に,この二作品は 正反対の季節を描いており,洋の東西も巽なるのである から,日に入ってくる風景といったものは全く違う。勿 論,実写とアニメーションという違いも大きい。また. r サ マーウォーズ』の「ウォーズ」の意味するところは,ネッ

ト上の仮想空間に出現した悪意のプログラムとの戦いで あり,両作品の表商的なストーリーにほとんど共通点は 無い。にもかかわらずこの二つの作品を共に想起する契 機があるとすれば,それは勿論これらが両方とも大家族 を描いている,ということにある。核家族の物語ではな く,父と子の闘い,母と娘の葛藤といったものを描く物 語とも異なる.大家族の肖像を描いた作品なのである。

ところで,家族親戚一同が集まる機会と言えば,おおよ そ冠婚葬祭, もしくは何かの記念日ということになるだ ろう。すなわち『サマーウォーズ』では,ヒロインの曾 祖母の誕生日にあたって親族が集結し. r クリスマス・

ストーリー』では,イエス・キリストの生誕を祝うクリ スマスに人々が集い, どちらの映画においても大家族が

とりあえず祝いの食卓を囲むことになる。しかしどち らの映画においても,それはあくまで表面的なものにと どまっており,本質的には「死」の影がその集いを招き 寄せていることが明らかになってくる

O

しかしいったい,

この 2 1 世紀初頭において大家族をめぐるドラマを描く とき,それはどのような問題性を持ち得るのだろうか。

本稿では,それぞれの作品の特徴を検討しながら,双方

(2)

をその結末まで比較して行きたい。

1  r クリスマスストーリー』あるいは可能性としての家族

f クリスマス・ストーリー j (以下『クリスマス』と略 す)は,フランス北部の町ルーペが舞台である

O

ヨーロッ パの家族の集いを扱った物語としては,この映画の家族 がとりわけ大きい訳ではない。それでも,この映画では 家族一人一人と彼ら相互の微妙な関係こそが主題となる ので,まずはこれを確認しなければならない。問題の家 族ヴュイヤール家には初老の父アベルと母ジュノンのも とにエリザベート,アンリ,イヴァンの三人の子がいる。

だが実は一家には最初の子として長男ジョゼフという存 在があった。彼は,幼くして白血病を発症したのだが,

父母や長女エリザベートとの白血球の型が一致せず骨髄 移植ができなかった。夫婦は次に生まれてくる子に望み をかけたが,胎児の段階でその子の血液型も適合しない ことが判明し,ジョゼフは 6 歳で亡くなってしまう。こ うして一家の期待を裏切って生まれて来た子供が次男ア ンリであり.その後三男イヴァンが生まれた。これが,

この映画の冒頭で語られる一家の物語である。

時は流れ,ルーベに残るのは老夫婦のみ。彼らの子供 達はパリに住んでいる。今ではエリザ、ベートもイヴァン も結婚し子供もいる。イヴァンには妻シルヴイアとの聞 に幼い二人の息子がいる。エリザベートには数学者の夫 クロードとの聞にポールという青年期を前にした息子が いるが,彼は心を病んでいる。一方,次男アンリは一家 の問題児となった。何かにつけ家族と上手く行かないこ との多かったアンリは,あるトラブルから莫大な負債を 抱え,助け舟を出した父親の工場まで差し押さえられそ うになり,結局姉エリザベートに助けられた。その際彼 女が出した条件は,二度と自分たちの前に姿を現さない 事。こうして一家から追放されたアンリは.今やアルコー ル中毒の態である。そしてアンリの追放から 5 年後の冬 のある臥母親ジュノンの白血病が発覚する。そのこと を契機として,その年のクリスマス,久しぶりに子や孫 たちが故郷ルーベの町にやってくる。アンリ達の従兄弟 にあたるシモンやアンリの新しい恋人フォニア,アベル の母親の「友人」だったロゼメといった人々も集まる。

ここからメインのストーリーだけを追えば.まず,問 題児アンリの久々の帰還は決して歓迎されない。母とア ンリは子供の頃からの冷たい関係を E いに隠そうともせ ず,ユダヤ教徒のフォニアは居心地の悪さからパリに 帰ってしまう。アンリと再会したエリザベートは,相変 わらずのアンリに不快感を露わにしクリスマスイプの 夜二人は衝突する。家族とそれに連なる人々の心は,互 いにぎくしゃくしたままである。それでも家族は共にイ ブの食卓を囲み,プレゼントを交換しジュノンとアン

リ,そしてポールはクリスマスのミサに出かけて行く

O

家族全員の血液検査の結果,アンリとポールの型がジユ ノンと一致したことが分かり.ジ、ユノンはアンリからの 骨髄移植を決める。クリスマスが終わり,皆が戻って行っ た後,骨髄移植の手術が行われる。移植後の母親の病室 へ行ったアンリが,成功か失敗かを占うコイントスを提 案する。コインは投げられ,ジュノンがその結果を知り たがるが,アンリは手を伏せたままで,誰にもその答え は分からない。映画は,早朝のパリでエリザベートがジュ ノンの快復を念仏息子ポールと共に生きょうと決意す る独自で終わる。

こうして. I メイン」のストーリーは母親ジュノンの 難病と一家の問題児アンリをめぐる愛憎劇を中心に展開 される事が分かるが. r クリスマス J にはその他にも様々 な人間関係が重ねられている。

まず,すでに述べた長男ジョゼフの死。この不在の長 男と同じ病気にかかったジュノンに対し,今度は「役に 立たなかった」アンリとエリザベートの息子ポールの二 人の白血球の型が適合する。エリザベートは,兄ジョゼ フを救う事ができなかった自分とアンリを憎んで、生きて 来たのだ、ったが,今度はそのアンリには母親を救う可能 性があるのに,自分にはまたしてもその可能性が無いの だ。彼女の息子ポールは精神的に不安定で、,骨髄移植に 耐えうるかどうか誰もが危倶している。それで、もエリザ ベ}トはボールを選ぶようにと母親に願い出る。アンリ からジュノンが移績を受ければ彼女が助かっても助か

らなくても,エリザベートはアンリに対し幾重にもねじ れた複雑な憎しみを抱くだろう。悲嘆にくれる彼女を父 親アベルがなぐさめる,ニーチェの言葉を引きながら。

「われわれ認識者が,すなわちわれわれ自身がわれわれ 自身に知られていない。それはそのはずである。われわ れは決してわれわれを探し求めたことがないのだ。(中 略)一われわれに対しては,われわれは決して「認識者 J

ではないのだ・ . . . . . 1 J

「不在」の家族はジョゼフだけではない。実はアンリ には妻としてマドレ}ヌという女性がいた事が.映画の 中程で突然明かされる。彼女の写真をアンリの現在の恋 人フォニアが見つけるからである。マドレーヌは交通事 故で亡くなったという。また,そこには今は亡きヴュイ ヤール家の人々の写真も並べられている。一家の父アベ ルの両親の写真もある。クリスマスイブにやってきて,

一家の祖母よろしくやさしく皆を見守るロゼメという女 性は,実はアベルの母親の「愛人 J だったという。そし て,このロゼメの口から,三男イヴァンの妻シルヴイア には,アンリとシモンも思いを寄せていた事が語られる。

それを聞くシルヴィア自身にも,思い当たる節はあった

が,ロゼメはさらに,その男達三人が納得づくでシルヴイ

(3)

アにはイヴァンをと決め.残る二人は身をヲ│いたと言う。

そして,それをシモンはいまだに引きずっていると。

こうした挿話は, もしそうした人生の岐路で誰かが違 う道を辿っていたら,家族構成が今とは異なっていたで あろうことを示唆している。もし過去に起こった事が そのような形でなかったとしたら, どのような別の可能 性が家族の上に生じていただろうか。今現在の家族の形 は,その生死を含めて数ある可能性の中の一つに過ぎな いという,当然ではあるものの過酷でもある現実を,こ うした挿話の連なりが示すことになる。

他方で,我々は,この映画の外側の世界をも意識させ られる。大家族,クリスマス,長男の死ということで言 えば,この作品はただちにイングマール・ベルイマンの

『ファニーとアレクサンドルj ( 9 8 2 ) を思い起こさせる。

実際,インタビューなどにおいて,デプレシャンは同作 に言及しているし引用と思われる場面も存在してい る

2

。ところで,ベルイマンの作品の中では,幽霊が見 えてしまうという特権が主人公アレクサンドルにのみ与 えられていた。『クリスマス』では.エリザベートの息 子ポールが,ヴ、ュイヤール家に伝わる迷信の生き物を見 てしまう。だが,アンリはその話を何気なく受け入れる。

一家に馴染みの伝説の存在に出会うのも,出会わないの もまた単なる偶然,可能性の一つであるかの様なのであ る

O

また,映画の外への参照という意味で言うと,この作 品の登場人物の名前が,フランス王家の人々やキリスト 教あるいはギリシャの神話上の人物達と同じであること に気づかない者はいないだろう。我々が本稿で行ってい るように彼らの名を言語によってのみ語ると,まるでど こかの王家の誘いごとの様に聞こえてしまう。そのこと は,この映画を見る者の内部に,断片的にではあれ,本 来この映画とは直接関係の無い文脈との重なり合いや連 想を生じさせるかも知れない。さらに,この映画の始め の方で,カトリーヌ・ドヌーヴが演じるジ、ユノンが,い わゆる「カメラ目線」で観客に語りかけるように台詞を 言うシーンがある。これは映画制作上の一種の違反,フィ クション映画における逸脱であるが,こうしたことが平 然と行われるのであれば,観客の方もそのような映画で ある事を心得て向き合わなければならないという事にな る。また,登場人物に絡めて見れば,デプレシャンの映 画に様々な役柄で度々出演している面々が「家族」を「演 じている J ということもある

3

。そして,母親ジュノン にとって末っ子の妻にあたるシルヴイアを演じているキ アラ・マストロヤンニが, ドヌーヴの実の娘であること は誰もが知っている。

こうしてデプレシャンは,スクリーン上に登場する人 間同士の様々なレベルにおける多層的な関係性を,観客

に十分意識させながらこの映画の物語を紡いでいる。

我々がここでは挙げなかった関係性の網(例えば,劇中 劇といったものや音楽の使用法,映像や言語における引 用等々)も様々に張りめぐらされているし我々が気づ かないものも多々あるだろう。しかし,そうした種明か しの様な事を行うのが本稿の目的ではない。そうではな く,この映画が,上述したような多層的構造を持ってお り,それを一部の観客にそっと目配せするように描いて 見せている訳ではなく,あからさまに前面に押し出して いるという事を確認したいのである。つまり,この映画 はそのタイトル通り.ある家族がクリスマスを過ごす物 語として見る事ができるのだが,誰の目にもそれだけに 納まらない過剰な要素に満ち満ちた作品なのである

第 2 章 『サマーウォーズ』と喪の作業

映画『サマーウォーズj(以下『サマー J と略す)では,

数学には天才的な才能を発揮するものの,今ひとつ冴え ない高校生小磯健二がとりあえずの主人公である。話は 夏休みのある日,健二が先輩の篠原夏希に「アルバイト」

を持ちかけられ,よく事情が分からぬまま信州上田の町 にやってくる所から始まる。そこには大家族を束ねる夏 希の曾祖母陣内栄(じんのうち さかえ)が住んでいて,

彼女の 9 0 歳の誕生日を祝う為に親戚一同が集うのだと いう。実は,健二の「アルバイト j とは夏希の恋人にな りすまし夏希の体面を取り繕うことであった。この辺 りから,本作の本当の中心がこの陣内家であることが分 かつてくる。この映画に登場する陣内家の人々は四世代 2 7 人にもおよび,室町時代から続く旧家の屋敷を舞台 に文字通りの大家族の物語が展開される

5

。とは言え. r ク リスマス』とは異なり,ここでは家族内の葛藤といった ものだけがメインのストーリーを構成する訳ではない。

『サマー』のストーリー上で最も前景化されるのは,ネッ ト上の仮想空間 o z で暴走する AI (人工知能) r ラブマ シーン J と,健二を含む陣内家の人々との戦いである。

仮想空間とは言え,膨大な数の人々がアクセスする o z

内部の混乱は,現実世界にも及び,人々の日常世界に様々 な変調をもたらす。この混乱によって,陣内家の人々は なかなか上回の屋敷に集結することができず,一方で健 二は化けの皮がはがれ,屋敷から追い出されそうになる。

しかしこの最初の危機は,一家の大黒柱である栄の日 本の中枢部にまで及ぶ人脈への働きかけと,健二のセ キュリテイ暗号の解読という奮闘によって回避される。

一方で、'暴走する AI の元を作ったのは,栄の亡夫が家 族外の女性に生ませた息子佑助であることが判明する。

そして,その AI r ラブマシ}ン J はまだ消え去ったわ けではない。

ここで,陣内家の家族について我々の視点からまとめ

(4)

ておく必要があるだろう。大家族の中心が一家の「おば あちゃん」と呼ばれる女性であることは. r クリスマス J

や『ファニーとアレクサンドル J とも共通している。そ して,陣内家でも,なぜか長男はすでに物故しており,

大きな発言力を持つのは第二子である長女である。その 下に弟が二人というのも『クリスマス』と奇妙な一致を 見せる。さらに,一家の運命を左右するキーマンとなる のが,家族から望まれなかった「息子 J (アンリと佐助) である点も共通している。彼らは,家族と上手く行かず 追放となり,アンリは 5 年ぶり,佐助は 1 0 年ぶりに故 郷に帰って来た息子たちなのである

O

ちなみにとりあえずの主人公であり,狂言回しの様な 役割を担う健二の「架空の」プロフィール「東大,良家 出身,アメリカ留学帰り」というキーワードは,イ宅助に 当てはまるのであり,実は夏希の初恋の男性である佑助 の属性が健三に投影されたものだ ったことが明らかにな る。従って,この三人を分身のような存在と捉える事も 可能であり. r クリスマス』で母親がアンリからの骨髄 移植を受け入れたように,この二人を陣内家がどのよう に受け入れるのかが,この作品での問題になるように見 える。ところが. r クリスマス』とストーリー展開の上 で大きく異なるのは. r サマー』では一家の中心である「お ばあちゃん」の死が物語のほぼ真ん中であっさりとおと ずれてしまうことである。「ラブマシーン J の暴走を一 旦押しとどめた次の日の早朝,何の前ぶれも無く. I お ばあちゃん」は心臓の病で亡くなる。医者でもある三男 は「寿命だった」と結論付けるが. OZ の混乱によって 彼女の心臓のデータが届いていなかったことも明かす。

このようないきさつから『サマーウォーズ』の物語の 後半では,中心を失った陣内家は崩壊の危機に瀕するこ とになる。彼らが再び家族の粋を取り戻すためには,祖 母の死を受け入れ,そのことを自らの生の中に正しく位 置づけなければならない。すなわち,フロイトの言う「喪 の作業 6 J . この映画に即して言えば「弔い合戦」が行わ れなければならないだろう。事実彼らは,佐助や健二ら と共に,今や圧倒的に強力な存在に進化した「ラブマシー ン」に立ち向かう。陣内家の面々は現実世界に於ける各々 の持ち味を生かしつつ,仮想空間のアバターによって敵 と戦い,そのことによって最終的には現実世界の危機を 救うという,仮想と現実の入り乱れた戦いが展開され,

最後に彼らの団結力が AI を打ち破る。失われかけた家 族の鮮を取り戻すという大家族のメロドラマ

7

はこうし て大団円を迎えるのであった。

以上がこの作品の概要なのであるが,この様に本作の 構図を整理すると .IAI 対陣内家の人々」という設定は,

実は物語の最重要部ではない事が分かる。映像に於いて は.綴密な仮想空間の構成や迫力ある描写の優越が感じ

られるのであるが,そこでの戦いはゲームプレイヤ一同 士の戦いという図式を出るものではないし 3 0 人近い 大人数を擁する陣内家も,それほどの人数が必要だ、った のかと思えてしまうのである九しかしながら,それで、

もこの映画を支えているのが「家族関係」というもので あったことを改めて踏まえると,やはり陣内家の「大家 族」には意味があったように思われる。では.それはど のような意味においてであろうか。

3  二つの映画の比較が明らかにするもの

まず,この三作品を我々の観点からもう一度見なおし ていこう。『クリスマス』は, どこにでもある家族の単 なるクリスマス映画のように見えるし事実,少々複雑 な事情を抱えた家庭のクリスマスの日々を描いた映画だ と取ることもできるだろう。しかしそれにしては家族 構成員の不自然な名前といい,複雑な愛憎関係といい,

平然と行われる不倫場面や同性愛関係への言及といい,

あまりおさまりの良い内容ではない。そして何よりも,

この物語の中心問題であった母ジュノンの病状に関し て,何の見通しも出ぬままに,むしろ逆に意図的にこれ を宙吊りにしたまままクリスマスは終わってしまうので あり,その事は多くの観客にとって釈然としない結末で はないだろうか。

一方『サマー』という作品は,終わってみれば,仮想 空間 OZ でのプログラム暴走を陣内家の人々が一家総出 で食い止めたという物語のように思える。しかしむし ろそれは逆の事態であって,実はこの戦いは,栄を失う 予感を抱いていた陣内家の人々が,それが現実のものと なった際,喪の作業を成すために自ら引き寄せたできご とではなかっただろうか。事実,栄は狭心症の持病を持 ち,その夏体調を崩していたことが語られる。栄の死は 予感されていた。そして,そんな彼女を励ますために,

「フィアンセを連れて行くまで死んでは駄目 J という,

夏希との約束が存在したのである。その約束は方便であ り,偽の恋人として健三がバイトに雇われたのであるが,

栄は健二が偽物である事が分かつた後,改めて「夏希を よろしく」と後を彼に託して死ぬ。佐助が 1 0 年ぶりに 帰郷したのも,栄に迷惑をかけた償いの為であり.家族 の輸の中に戻る事を望んで帰国したのであった。結果的 に,この二人が陣内家に入り込む事によって,一家は「ラ プマシーン」との対決を余儀なくされるのであるが,そ れは陣内家そのものが招き寄せたものだと捉える事がで きょう。

要するに,これら二作品が表向きに纏っているストー

リーやその結末には,どこか額面通りに受け入れ難いも

のが残る。すなわち,これらの作品は共に大家族のメロ

ドラマであるのだが,それにしても,単線的なストーリー

(5)

や構図に落とし込んで捉えるには,余分な細部,あるい はちぐはぐな部分が過剰なのではないだろうか。

そこで,両者に共通するいくつかの要素を比較する事 によって,そこに浮かび、上がってくる問題を検討してみ よう。

まず,両作品において,確固たる「現実 J といったも のが揺らいでいる点が見て取れる。現実世界と仮想世界 の関係において,あるいは今現在と可能性としての世界 との関係において,その戯れや一種の相互作用を描いて いる点で,両作品には根本的に通じるものがある。『サ マー J ではネット上の仮想空間における存在と現実の 家族とが重なり合い絡み合うことによってそれが端的に 表現される。その上,文字通り「大家族」が描かれてい るのであり,一人一人の名前や人物間の関係は初めてこ れを見る者にとっては最後まで混乱したままであろう。

恐らくそれは意図的なものであって,実際.同時刻に他 の家族が何をしているのか. といった細部もクリアなも のではない。従って,確固たる家族像というものが,存 在しているようでいて実は暖昧なまま物語は進行して行 く。主人公健二のバイト自体,恋人=婿を「演じる j こ とであり,そもそも仮想的な役割で陣内家の輸の中に参 加している。また, OZ における「キング・カズマ」こ と陣内佳主馬は,少林寺拳法を教わった祖父万助のこと を「師匠」としか呼ばない。一方,すでに確認したよう に『クリスマス』では,病や事故,あるいはタブーや何 らかの意図といったものへの言及によって「実現しな かった他の可能性 H 現在の形ではない家族の形」が様々 に暗示される。また,二つの作品の家族の中にいるやや 年長の少年が, r 日常的現実」とは異なる世界と戯れあ るいは交錯する者としてあらかじめ設定されていて,確 固たる「現実j を揺るがしている。

次に,生と死の交錯,あるいは反転というモチーフが 両作品を貫いていると言えるだろう。『クリスマス』では,

言うまでもなくキリストの「生誕」を祝うクリスマスが,

家族の生と死の交錯点として設定されている

O

映画は,

長男の死によって始まり,長女の生への祈りによって終 わる。また,一家の父親は,敢えて人気の無いクリスマ スの墓地を訪れ,速い昔に亡くなった長男の墓を撫でて ゆく

O

母親と次男が,この家族の生と死の主題の中心に 位置するが,その関係は母と子の鮮といった紋切り型で はない。母は「役に立たなかった」息子を遠ざけ,息子 も冷たい母を憎んで、来たのだ。その関係には「戦争」と いう言葉さえ使われる。しかも,それは実家の庭で家族 の過去を恋人同士の様に振り返り,語り合う母子の間で 交わされる

O

この場面は,長男の死に端を発する長年の 愛憎が凝縮されたみごとなシーンであるが,今やその長 男を襲った病に母が冒され,憎み合った次男の骨髄が母

の命の可能性へと転じる事になる。無論,二人の過去の 傷がそれで償われる訳ではないが.母親は骨髄移植のこ とを「生んだ子を再び体内に戻す J のだと表現する。現 代の先端医療が母子の遺伝子的鮮を証明し生と死の複 雑な交錯を通じて,家族はまた新たな日々へと向かう。

一方, r サマー』では, r おばあちゃん J の誕生日を祝い

に集まったはずの人々は,一転,葬式の支度に追われる 事になる。生と死のあっけない反転。誕生日の紅白鰻頭 が葬式鰻頭に変わっただけで,誕生日祝いの準備に大わ らわた った女達は,相変わらずあくせくと今度は葬儀の 準備に追われる

O

栄はその圧倒的な存在感によって家族 を支えて来たが,そこに健二と{宅助という分身のような 三人,家族の内部であり同時に外部でもあるような存在 が現れる

o

彼女は基本的に彼らを家族内に取り込もうと するが,家族は彼らを拒否する。『クリスマス』同様.

ここでの家族もまた理想郷として描かれている訳ではな い。彼らが,家族の中に自分たちの位置を定める事がで きるのは,一族が共に栄の死を乗り越えた時でしかない。

映画のラストは栄の葬儀のシーンだが.一家は栄の遺影 を前に「ハッピーパースデートゥユー J を歌う。

また,これらの作品は我々の日常が多くのすれ違いや コミュニケーションの困難性に満ちあふれでいる事を 様々な形で表している。『サマー』では,まず陣内家の 内と外は隔絶されており,外とのやりとりには多種類の メディア(ネット.携帯,黒電話,スマートフォン,手 紙,テレビ, GPSなど)が総動員されるが,屋敷内では,

男性と女性,大人と子供,本家と分家といった異なる立 場の間にコミュニケーションの不全が露呈している。そ れを纏めるのは,またしても「おばあちゃんからの手紙」

というメディアだ。しかしこの手紙は本人が生きてい

る内に死後の家族へ宛てて書かれた手紙であり,書き手

はもはや存在せず,この手紙に対する返信は不可能であ

る。ところで,この屋敷のテレビは.家族から離れた場

所に居て高校野球の地方大会で奮闘する息子とその母親

をつなぐ存在でもある。彼がこのトーナメントを勝ち進

むことによって,このテレビ映像はこの映画の始まりか

ら終わりまでの「現実世界jの時の経過を表しているの

だが,それがかえって別時空の出来事の様な印象をもた

らす。『クリスマス』でも.テレビはクリスマスを過ご

す家族の中に異空間を形成する。イブの夜に映し出され

るのは,なぜか『十戒.1 ( 1 9 5 6 ) のモーゼが紅海を分け

るという奇跡を起こすシーンであるしその前夜には『真

夏の夜の夢.1 ( 1 9 3 5 ) が放映されている

9

。これらは映画

の中のテレビの中の映画であり,その入れ子細工状の存

在がこの作品の多層性を強調している。そしてこの一家

のコミュニケーション不全は,そもそものストーリー設

定から当然とも言えるが,さらに進んで撮影スタイルに

(6)

も反映されている。家族同士が二人で話をするシーンな どでも,通常の切り返しはあまり使われない。多くの場 合,会話は続いているのにカットが切り替わると場所や アングルが激しく変化する。あるいは会話の途中に別の ショットが入り込んだりし常に落ち着きが無い。もち ろん,両作品で最もコミュニケーションに困難を抱えて いるのは,家族から追放された二人の息子である。出自 において家族から疎まれた二人。しかし結局は彼らが 家族にとって不可欠な存在であることが明らかになり,

彼らは家族の危機を救う鍵を握る存在となる。この辺り,

メロドラマにいかにも相応しい筋立てではあるが,その

「不可欠」の実体が.白血球の HLA 型の適合性といっ たレベルの問題であったり,高度なプログラミングの問 題であったりして,単なる家族同士の愛情や心の通い合 いといったレベルではない所が,これまた二作品を近づ けていると言えよう。

結論:とりあえずのエンディング

不思議な事に,両作品には数学者や数学に秀でた登場 人物が存在する。『サマー』では,様々なパスワードの 解読やプログラムの計算が行われ. r クリスマス』では

治療方法の選択をめぐって,母親の生存率の計算が行わ れる。ただ,それらが最終的な解答を家族にもたらす訳 ではない。いずれにしても,最後は生か死かという問題 に行き着くのであり,これらの作品でそれを左右するの は「ゲーム」あるいは「賭け」である。

すなわち. r サマー』では「コイコイ」というゲーム(し かも仮想空間でのゲームであるにも関わらず,現実世界 へとつながるゲーム)が人々の命運を握るわけだが,そ のゲームが選択されるのは,それがこの一家に共有され たゲームであり. r おばあちゃん仕込み J であることが その理由である。一方. r クリスマス J では,単純にコ イントスが行われ,その結果は伏せられたままとなる。

生か死か,コイントスに賭けられた生死と「コイコイ」

に賭けられた命運という訳である。

『サマー』では,喪の作業=弔い合戦としてのコイコ イに勝ち,一家は滅亡の危機を切りぬける。一族の長が 死に,新たな子孫の芽が生まれる。大家族の営みにおけ る歯車が一つ回り,次なるジェネレーションへと続くこ とを示して物語は終わる。一方『クリスマス』では,誰 も「まだ」死なない。賭けに勝ったのか負けたのか,最 後まで示される事は無い。従って,大家族はそれぞれの 場所へ戻って行くだけである。しかし家族が再び集うと き,このクリスマスと同じ顔ぶれである保証はない。そ れぞれの夫婦やカップルがそのままである保証もない。

そもそも,このクリスマスにおいて示されたのは. r

の形であったかも知れない J カップルや人生の可能性で

ある。他方で.一家の長男の死から説き起こされるこの 物語自体は,喪の作業を完遂できない一家族の物語に他 ならない。その上,一家の中心である母親の死がいずれ 避ける事の出来ない運命であることを予感しつつ,あく

までこれに抗うように振る舞い続けた数日間の家族の物 語でもある。極論すると,彼らにとって「家族 J とは誰 とのどのような関係のことであるのか.不分明のまま映 画は終わりを迎える。しかしその世界で生きて行こう という長女の独自で映画は締めくくられる。血液の適合 性の問題がどうであろうとも,愛情によってであれ,憎 しみによってであれ,人は何らかの形でまた人と繋がっ ている。そこには.様々なレベルでの重層的な関係が必 然的につきまとう。それは「家族」がどのような形であっ ても変わらない事だ。実は『サマー J で描かれていたの も. r 家族 J と呼ばれるものの不定形な在り方であり,

どこまでが「家族 J と呼ばれるべきものなのか実は分か らないといった事態ではないだろうか。だからこそ. r

マー』のラストでは,自分たちのアカウントを提供する 世界中の人々が. r 仮想空間での家族 J を強大なものに

して敵に立ち向かうのであり,また一方で祖母に「ゆか り」のある人々が葬儀の庭先に延々と列を成すのではな いか。そもそも主人公自身.本来この家族に縁もゆかり もなかったただのバイト男だったのだ。すっきりと終わ るかに見える『サマー』に対し,何もかも宙づりのまま 終わるように見える『クリスマス』であるが,それらは 完全に相反している訳ではない。両作品の共通点は,数 日のあいだ家族と呼ばれる人々がほぼ同じ空間.同じ時 間を過ごしその結びつきの宿命性というものに十分に 自覚的でありながら,一方で.その関係性においてアン ピヴァレントであったり重層的な存在である事を示して いる,という点である。そして,我々の生とはおそらく そうしたものであろうということをその聞の出来事を通

して描いている

loo

ほんの数日のあいだ「死 J . あるい はここにはない「どこか J といったものを彼らは共に横 切り,そしてもと居た場所へと帰って行く。やがて季節 が巡れば,上回の山々にも冬が訪れ.ルーペの町にも夏 のヴァカンスはやって来るだろう。だが,その時にはそ れぞれの場所で何かまた別の物語が生まれるはずであ り,今はまだ誰もそれを知ることがないだけのことであ る 。

1

ニーチェ『道徳の系譜.1.木場深定訳,岩波文庫 . 2 0 1 0 年 , 7

8 頁 。

2  r アルノー・デプレシャン インタヴユー J . nobody  i s s u e  3 4 .   2 0 1 0 年 p . l l において. r ファニーとアレクサ

ンドル』へのオマージュに言及している。

3 父アベルを演じるジャン=ポール・ルシヨンや母ジ、ユノ

(7)

ンのカトリーヌ・ドヌーヴそして息子アンリのマチュー・

アマルリックらは,デプレシャンの前作『キングス&ク イーン.1 ( 2 α)4)に出演しているしエマニュエル・ドゥ ヴオスは,デプレシャン映画のほとんどに出演している 彼の映画には欠かせない女優である。その他にも,デプ レシャンの幾つかの映画に出ている俳優逮がここで家族 を演じている。また,エリザベスの息、子の名は ポール・

デタリュス"という名前だが.これはデプレシャンの 1 9 9 6 年の作品『そして僕は恋をする』でマチュー・アマ ルリックが演じた役名に他ならない。

4 こうした反写実主義.反レアリスム的な映画の在り方は.

彼自身が発言していることと一致している。例えば,ア ルノー・デプレシャンの発言集である『すべては映画の ために!J.港の人発行,新宿書房. 2 ∞ 6 年. p . 6 5 .   p . 7 0   などにおいて.そうした姿勢が監督自身によって語られ ている。

5 ホビー書籍部編『サマーウォーズ完全設定資料集J.エン タープレイン. 2 αゅ年. p p . 4 6 ‑ 4 7 . 以下,映画の中では不 明瞭なキャラクター設定や家族関係は基本的にこの資料 集を参照している。

6 ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典.1.村上仁 監訳,みすず書房. p p . 叫4‑44 5 。

7 本稿での「メロドラマ J という語は. i 通俗的なドラマ」

の意でとりあえず使用しておく。

本稿の対象となっている両作品と例えば,ピーター・

プルックスの言う「メロドラマ的想像力」の持つ射程や 日本的なメロドラマの系譜との関わりを論じることも興 味深いのであるが,その為には稿を改める必要があるだ ろう。

8 こうした図式の単純性や設定における「敵」の問題など,

様々な指摘が東浩紀らによってすでに為されているが,

本稿ではそれらを参照しつつ,やや異なる観点から『サ マー』を捉えたいと考える。 C f . 座談会「物語とアニメー ションの未来 J (東浩紀+宇野常寛+黒瀬陽平+氷川竜 介+山本寛). r 思想地図 J vo l . 4 .   NHK 出版. pp . l 7 4 ‑ 2 1 4 。

r クリスマス・ストーリー』パンフレット,ムヴィオラ,

2 0 1 0年. 3 2頁 。

1 0 斎藤環「ラメラスケイプ,あるいは「身体」の消失 J . r 思

想地図 J vo l . 4 .   NHK 出版. pp . l 4 1 ‑ 1 7 3 。斎藤環は,この

論文の中で,こうした日常の人間関係の多層性を描いた

事が『サマー』の新しさであるとし. i 現実世界jの認

識において,この映画がラカンの用語で言う想像界の在

り方を示唆している点を指摘しているが,これはまさに

我々の視点と共通する。

参照

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