• 検索結果がありません。

山部赤人の天平八年吉野讃歌の特質

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "山部赤人の天平八年吉野讃歌の特質"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

山部赤人の天平八年吉野讃歌の特質

著者 菊地 義裕

著者別名 KIKUCHI Yoshihiro

雑誌名 文学論藻

巻 89

ページ 1‑23

発行年 2015‑02

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00012940/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

天平八年︵七三六︶六月二十七日︑聖武天皇は吉野に行幸

した︒天武朝以来︑持統・文武朝に継起的に行われた吉野行

幸は︑聖武天皇への譲位を機に元正天皇の養老七年︵七二三︶

に二十二年ぶりに復活し︑聖武が即位した神亀元年︵七二四︶︑

翌二年に繰り返し行われた︒天平八年の行幸は神亀二年以来

十一年の空白を置いてのことであり︑還御は七月十三日と伝

えられる︵﹁続日本紀ご○﹃万葉集﹄によってその行幸が確認

される神亀二年五月の行幸を除くと︑養老七年は五月九日〜

十三日︑神亀元年は三月一日〜五日の日程で︑二週間にもわ

たる吉野への行幸はこれまで例のないことであった︒

山部赤人の天平八年吉野讃歌の特質

﹁万葉集﹄巻六には︑その折の作と伝えられる︑次のような

山部赤人の吉野讃歌が収められている︒

八年丙子の夏六月︑吉野の離宮に幸す時に︑山部宿禰

赤人︑詔に応へて作る歌一首井せて短歌

やすみしし我が大君の見したまふ吉野の宮は山

高み雲そたなびく川速み瀬の音そ清き︵A︶神さ

びて見れば貴く宜しなへ見ればさやけし︵B︶こ

の山の尽きばのみこそこの川の絶えばのみこそ

︵C︶ももしきの大宮所止む時もあらめ︵一○○五︶

反歌一首

神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を良み

︵一○○六︶

菊地義裕

(3)

題詞に﹁詔に応へて作る﹂と記される応詔歌で︑長反歌二

首から成る︒長歌は全体一九句で構成され︑冒頭﹁やすみし

し我が大君の見したまふ吉野の宮は﹂と宮を提示したのち︑

A﹁山高み雲そたなびく川速み瀬の音そ情き﹂︑B﹁神さび

て見れば貴く宜しなへ見ればさやけし﹂︑C﹁この山の尽き

ばのみこそこの川の絶えばのみこそ﹂の三つの対句を連ね

て︑﹁ももしきの大宮所止む時もあらめ﹂とうたい納められる︒

このうち︑Aは冒頭部と連接して第一段落を︑Bは独立し

て第二段落を︑Cは末尾三句と連接して第三段落を構成する︒

従来こうした三段の構成については︑順に︑﹁芳野の離宮の地

勢を讃へたもの﹂︑﹁山川の神性を讃へるもの﹂︑﹁絶対に無い

ことを云って︑大宮の永遠を賀したもの﹂︵窪田空穂﹃万葉集

評釈乞︑あるいは﹁芳野の宮の山川を叙す﹂︑﹁山川の貴く清

くあることを叙す﹂︑﹁その山川につけて︑大宮の永久である

ことを祝う﹂︵武田祐吉﹁万葉集全註釈乞と整理される︒対

句を連ねた構成については︑﹁極めて単純な歌で︑対句によっ

て成立する技巧もそれ程うるさくない︒内容は稀薄で結局平

凡な作であるが︑人麿模倣の域を出られなかった︑赤人の帰 着点としては︑亦止むを得まい﹂︵士屋文明﹃万葉集私注﹄︶といった辛口の評もあるが︑構成自体は﹁山川の美と不易とを三つの対句を並べて離宮を祝福したところ︑いかにも赤人らしい整然たる結構﹂︵沢潟久孝﹃万葉集注釈﹄︶を示すものとしてとらえられる︒

奈良朝の吉野讃歌には︑当該歌同様︑吉野宮を﹁宮は﹂と

うたい起こす長歌が︑養老七年の笠金村の歌︵6.九○七︶︑

神亀元年の大伴旅人の歌︵3.三一五︶︑神亀二年の赤人の歌

︵6.九二三︶に見られるが︑複数の対句を用いるのは赤人の

作以外にはない︒赤人の神亀二年の作には︑

やすみししわご大君の高知らす吉野の宮はたた

なづく青垣隠り川なみの清き河内そ春へには

花咲きををり秋へには霧立ち渡るその山のいや

ますますにこの川の絶ゆることなくももしきの 大宮人は常に通はむ︵6.九二三︶

とあり︑同様に三つの対句を擁し︑離宮の地勢を讃えた﹁た

たなづく青垣隠り川なみの清き河内そ﹂︑山川にかかわって

春秋の趣を叙した﹁春へには花咲きををり秋へには霧立ち 一一

(4)

まず第二対までを範囲に︑A・Bの対句に注目すると︑A

では﹁山高み雲そたなびく川速み瀬の音そ情き﹂と︑山が

高いので雲が棚引くこと︑川の流れが速いので﹁瀬の音﹂が

清らかであることがうたわれる︒﹁吉野の宮は﹂に続く叙述で 渡る﹂︑大宮人が常に通うことを山川によって比嚥した﹁その山のいやますますにこの川の絶ゆることなく﹂と︑当該歌同様に﹁整然たる結構﹂をもつ︒また大宮人が常に通うことをうたった﹁大宮人は常に通はむ﹂は︑大宮の永遠を意図してのものであるから︑表現は異なるが当該歌のC以下と意味的には同様である︒双方において異なるのは︑地勢を讃えた第一対を受けた第二対の表現で︑一方は山川の神性︵当該歌︶を︑一方は山川の春秋の趣︵九二三︶をうたう点にある︒当該歌においては︑第一対と第三対を結ぶ第二対において山川の神性を示すこと︑その点に意を用いていることが知られる︒

本稿では︑こうした対句の構成・内容に注目して︑当該歌

の特質について考察したい︒

|︑賛美される山と川 あるから︑前者は宮で目にすることのできる景︑後者は宮で聞くことのできる音である︒視覚・聴覚を通して宮に備わる山川の趣を述べたものと解される︒

続くBには﹁神さびて見れば貴く宜しなへ見ればさやけ

し﹂とあり︑対象を目にしての感慨が示される︒その対象に

ついては︑﹁宮の有様が神々しくあって﹂と解し︑宮と理解す

る﹃私注﹄の見解もあるが︑﹁万葉集略解﹄が﹁神さびては山

をいふ︒よるしなへは川をほめて言へり﹂と述べて以来︑山・

川と解するのが通説となっている︒集中のカムサブの用語例

は︑カミサブの一例︵別.四三八○︶を含めて延べ二九例を

数えるが︑直接宮を対象とした例は見られない︵注l︶︒また

Bは︑文脈上Aの﹁山高み﹂﹁川速み﹂を受けて︑Cの﹁この

山の﹂﹁この川の﹂に続く︒用例からも︑また文脈からもBの

対象は山・川と解され︑BはAを敷術して︑それぞれのあり

よう︑またそれらを目にしての感慨を述べたものと理解され

る︒

ただし︑﹁宜しなへ見ればさやけし﹂については︑﹁宜しな

へ﹂が何に対して﹁宜しなへ﹂なのか︑問題を含んでいる︒

一一一

(5)

﹁宜しなへ﹂は﹁ふさわしく◎ちょうどよく﹂含時代別国語大

辞典上代編﹄︶の意で一般には整理されるが︑﹃窪田評釈﹄は︑

﹁宜名倍﹂︵原文︶をョロシナベと訓み︑

﹁宜しなく﹂は︑宜しいことの並ぶ意で︑宜しさが揃って

の意の副詞︒流の速さと猯の声の清さを讃へたもので河

の神性を讃へたもの︒﹁情けし﹂は︑川の神としてゐるの

でそれを讃へたもの︒

とし︑﹁河である神は︑宜しきことを揃へてゐて︑その有様を

見ると清かである﹂と解する︒一方︑﹃万葉集注釈﹄は︑﹁よ

るしなべ﹂は﹁都合よく︑ふさわしく﹂の意として︑﹁山の姿

は神々しくて見ると貴く︑川の姿もそれにふざはしくて見る

にさやかである﹂と訳出する︒この場合は山に対しての川と

いうことになる︒また︑﹁小学館古典全集﹄は︑﹁自然の風光

が天皇の威徳とよく調和していることをいうのであろう﹂と

注し︑﹁ご威光に似つかわしく見ればすがすがしい﹂と訳す︒

みやどころさらに﹁新潮古典集成﹄は﹁川の姿も宮所にあつらえむきに︑

すがすが見た目にも清々しい﹂と解し︑対象は﹁宮所﹂とする︒以後

近時の注釈はこの集成の見解を踏襲する傾向にある含和歌大 系﹄﹃小学館新編古典全集﹄﹃全注﹄﹃釈注﹄﹃岩波新古典大系﹄︶︒なお﹃新編古典全集﹄は︑旧版の前掲の注を修正して︑﹁離宮の壮麗と自然の風光とがよく調和していることをほめていったのであろう﹂とし︑﹁天皇の威徳﹂との調和を﹁離宮の壮麗﹂との調和と改め︑同様に宮を対象としたものと解している︒ただし︑その訳出においては︑﹁山川それぞれ神々しくて︑見れば貴く︑宮にふさわしく︑見ればすがすがしい﹂とし︑﹁神さびて﹂﹁貴く﹂﹁さやけし﹂の対象を山・川に分けることなく︑﹁山川﹂とする︒

このように︑﹁宜しなへ﹂についてはその対象をめぐって諸

説があり︑それはBの対句全体の解釈にも微妙に影響する・右

の整理において︑﹃新編古典全集﹄が﹁神さびて見れば貴く﹂

﹁見ればさやけし﹂の対象を﹁山川﹂とすることが注意される

が︑カムサブの用例で﹁山川﹂を一体のものとしてその対象

とする例は見られない︒また︑サヤケシについても︑用例の

傾向としては川を対象とする例が多く︵注2︶︑﹁山川﹂を対

象にした例に﹁夜麻加波乃佐夜気吉見都︑﹂︵加・四四六

八︶︑﹁山河之清見者﹂︵6.一○三六︶があるが︑どちらも

(6)

赤人以後の大伴家持の例である︒用例には︑﹁春の日は山し見

が欲し秋の夜は川しさやけし﹂︵赤人︑3.三二四︶︑﹁山か

らし貴くあらし川からしさやけくあらし﹂︵旅人︑3.三一

五︶︑﹁山見れば高く貴し川見ればさやけく清し﹂︵過・三二

つい三四︶と︑山と対にして川について用いた例もあり︑当該歌

のサャヶシも︑通説通り川についての表現とみるのが穏当で

ある︒とりわけ︑山と川が対を成す右の三例中︑巻三の旅人

の歌︑巻十三の歌には︑山については﹁貴し﹂︑川については

﹁さやけし﹂とあり︑注目される︒用例・文脈から﹁神さび

て﹂の対象は︑Aの﹁山高み﹂に呼応して山とみるべきであ

り︑﹁見ればさやけし﹂の感慨は川についてのものと解される︒

そうすると︑川が何に対して﹁宜しなへ﹂なのかというと︑そ

れは川と対をなす山会注釈﹄Jもしくは川を備えるものの一

つとする宮亀古典集成ごと解するのが順当であろう︒

この点にかかわってあらためて注意されるのは︑対句のA

とBとの関係である︒Aは冒頭部の﹁吉野の宮は﹂にそのま

ま続き︑宮に備わる視覚的・聴覚的景であることが明かであ

る︒一方続くBはAとは並列の関係にあり︑﹃窪田評釈﹄が指 摘するように︑﹁第一段の山と川は風景としてのそれであり︑第二段の山と川は︑神性の現れとしてのもので︑一つの物に二つの面を持たせ︑それを結び合せて深化させようとした﹂ものと解される︒つまり︑Bは宮に備わる山川の景をAを補いつつ強調するものとして据えられている︒﹁神さびて﹂﹁貴く﹂ある山も︑﹁さやけし﹂川もともに宮に備わるべきものであり︑Bの文脈は︑山の姿は神々しくて見ると貴く︑川の姿もまた山同様に宮にふさわしく︑見るとすがすがしい︑と解してよいのではなかろうか︒﹃新編古典全集﹄の評言を借りれば︑﹁離宮の壮麗と自然の風光とがよく調和していることをほめていった﹂ものというべきであろう︒山と川とを合わせ見て︑それらと宮との関係を﹁宜しなへ﹂と表現したものと考えられる︒以上整理したように︑A・Bの対句は宮に備わる山川の景について︑二つの対句を重ねて︑景そのものと景から受ける感慨とに分けてそのありようを強調したものである︒

吉野讃歌において︑宮の賛美が山川の景を通してなされる

ことは周知の通りである︒宮が﹁は﹂で提示される同類の歌

のうち︑前掲の赤人歌︵九二三︶以外の例でも次のように表

(7)

現される︒

I.:⁝み吉野の秋津の宮は神からか貴くあるらむ

国からか見が欲しからむ山川を清みざやけみ

うくし神代ゆ定めけらしも︵6.九○七︶

Ⅱ︑み吉野の吉野の宮は山からし貴くあらし川か

らしさやけくあらし天地と長く久しく万代に 変はらずあらむ行幸の宮︵3.三一五︶

Iは︑養老七年五月の元正天皇の行幸に際して笠金村が詠

んだ歌である︒﹁秋津の宮﹂について神の性格ゆえに貴いのだ

ろうか︑国の性格ゆえに見たいと思うのであろうかと賛美し︑

そのうえで﹁山川﹂が清くすがすがしいことを理由に︑﹁うべ

し神代ゆ定めけらしも﹂と︑﹁神代﹂以来宮が営まれたことを

もっともなこととして賛美する︒﹁山川を清みさやけみ﹂の表

現は︑先行する柿本人麻呂の吉野讃歌で︑

やすみしし我が大君の聞こし食す天の下に国は

しもさはにあれども山川の清き河内と御心を

吉野の国の花散らふ秋津の野辺に宮柱太敷きま せば・⁝:︵1.三六︶

と詠まれ︑たくさんの国のなかでも﹁山川の清き河内﹂として︑持統天皇が吉野に﹁御心﹂を寄せられて宮を設けられたとする︑その表現を踏襲するものである︒またⅡは︑神亀元年三月︑聖武天皇が即位した翌月の行幸時に︑奏上はされなかったものの大伴旅人が詠んだと伝えられる歌である︵題詞︶︒同様に宮を賛美して︑山の性格ゆえに﹁貴く﹂︑川の性格ゆえに﹁さやけく﹂あることがうたわれる︒この﹁山から﹂﹁川から﹂については︑﹁山可良﹂﹁水可良﹂︵原文︶と表記され︑﹁山﹂と﹁水﹂の対応が見られることから︑﹁論語﹂雍也第六の﹁知者楽水︑仁者楽山﹂の表現・思想を踏まえたものと解されている︵注3︶︒

儒教に基づく山水仁智の表現は﹃懐風藻﹂の吉野詩に顕著

であり︑中臣人足の﹁五言︒吉野宮に遊ぶ﹂と題された一首

には︑次のように詠じられる︵注4︶︒

惟山且惟水︒能智亦能仁︒万代無挨堂︒一朝逢異民︒

風波転入曲︒魚烏共成倫︒此地即方丈︒誰説桃源賓︒

︵惟れ山且惟れ水︑能く智亦能く仁︒万代挨全くこと無く︑

一朝異民に逢う︒風波転じて曲に入り︑魚烏共に倫を成

. 一 ノ、

(8)

す︒此の地は即ち方丈︑誰か説く桃源の賓︒︶

吉野の山川は智者・仁者の宿る聖地であり︑そこは万代に

わたって塵が湧くことはなく︑朝には異郷の民に逢う所であ

るという︒また風や波の音は楽人の奏でる音曲に入り︑魚も

烏も友となると述べ︑この地はまさに神仙が住む方丈であり︑

誰があらためて桃源郷を訪れた客人のことなど話題にしよう

か︑という︒﹁方丈﹂はいうまでもなく中国の神仙思想におい

て︑東方海上に思い描かれた︑神仙が住むとされる三神山の

一つである︒桃源郷も不老不死の楽士であり︑吉野は神仙境

にして儒教的聖人である仁者・智者ゆかりの聖地とみられた

ことがわかる︒

また大伴王の﹁五言︒吉野宮に従駕し詔に応ず﹂と題され

た応詔詩の一首にも︑

山幽仁趣遠︒川浄智懐深︒欲訪神仙迩︒追従吉野濤︒

︵山は幽かにして仁趣遠く︑川は静かにして智懐深し︒神

仙の通を訪ねんと欲し︑追従す吉野の濤・︶

とあり︑前二句では︑山は幽寂で仁者の趣が遠い昔からあり︑

川は静寂で智者の思いが深いとして︑吉野の山水仁智の趣が 詠まれ︑後二句では︑神仙の跡を訪ねようと思って吉野に来たことが述べられている︒﹁吉野の濤﹂は吉野川の波濤であり︑仙境吉野の景は﹁吉野の濤﹂に象徴してとらえられてもいる︒

これらの詩の表現を合わせ見ると︑吉野宮に宿る天皇は神

仙的有徳の君子といってよく︑そうした天皇像は吉野の山川

の清浄さと不即不離の関係にあり︑それをもって保証される

ことになる︒吉野宮の永続が﹁山川を清みさやけみ﹂︵金村︑

九○七︶の感慨のうちに納得されるのはそのためである︒そ

うした吉野の山水仁智の土地柄に神仙を意識したのが金村歌

の﹁神から﹂であり︑その士地柄をさすのが﹁国から﹂であ

ろう︒またその﹁国から﹂を山と川に即して言えば︑旅人歌

の﹁山から﹂﹁川から﹂ということになる︒宮はその士地柄に

支えられ保証されたものとしてとらえられるから︑奈良朝の

讃歌では︑宮は山川とともに﹁貴く﹂﹁さやけく﹂﹁見が欲し﹂

ものとしてうたわれるのである︵注5︶︒

赤人の当該歌および前掲の九二三番歌に﹁国から﹂﹁山か

ら﹂﹁川から﹂の語は見られないが︑山川の景を賛美する︑そ

れぞれ二つの対句は︑その実質を赤人なりに詠んだものであ

(9)

ろう︒当該歌に即してみると︑第一対の﹁山高み雲そたなび

く﹂の﹁山高み﹂の句は集中に二例︑意を等しくする﹁山

を高み﹂は五例見られる︵注6︶が︑雲が下接する例はなく︑

赤人が意を用いた表現と考えられる・吉野の歌においても︑養

老七年の金村歌の本文第二反歌に︑

山高み白木綿花に落ち激つ瀧の河内は見れど飽かぬかも

︵6.九○九︶

とあり︑その類歌として式部大倭の︑

山高み白木綿花に落ち激つ夏身の川門見れど飽かぬかも

︵9.一七三六︶

の例があるが︑﹁山高み﹂は川が﹁落ち激つ﹂ことを導くもの

となっている︒

また︑吉野の歌に詠まれた﹁雲﹂に注目しても︑

滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はな

くに︵弓削皇子︑3.二四二︶

み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はな

くに︵或本︑3.二四四︶

たけみ雪降る吉野の岳に居る雲のよそに見し児に恋ひ渡る かも︵圃・三二九四︶

の三例が見られるが︑離宮が所在した宮滝︵吉野町︶の対岸

に位置する三船山に﹁居る雲﹂﹁立つ雲﹂であり︑﹁吉野の岳﹂

の例も﹁居る雲﹂である︒﹁吉野の岳﹂は集中この歌にのみ見

られる語句であるが︑一首は次の長歌に添えられた反歌であ

ブ︵︾○

みかねたけ

み吉野の御金の岳に間なくぞ雨は降るといふ時

じくそ雪は降るといふ・⁝:︵E・三二九三︶

長反歌の対応を考盧すると︑﹁吉野の岳﹂は長歌の﹁み吉野

の御金の岳﹂ということになる︒﹁御金の岳﹂を通説にした

がって金峰山とすると︑﹁吉野の岳に居る雲﹂は宮からは遠く

離れた︑吉野山の奥の金峰山に望まれる雲ということになる︒

もっとも︑﹁居る雲﹂にしても﹁立つ雲﹂にしても︑それらは

作者の目に雲がどう映ったかにかかわる表現だから︑それが

﹁たなびく雲﹂と表現されることもあり得ただろう︒ただし︑

﹁雲そたなびく﹂の表現は︑集中ではほかに次の防人歌に一例

見られるだけである︒

なにはとかみ難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そたな

(10)

びく︵加・四三八○︶

これは下野国の防人大田部三成の歌と伝えられ︑難波津か

ら出港した折の景を想像してのものと見られる︒﹁山高み﹂の

﹁山﹂は高いことを前提とするものではないが︑こうした例を

踏まえると︑赤人がうたう︑山に﹁たなびく﹂雲は︑宮から

間近に見られる三船山に﹁居る雲﹂﹁立つ雲﹂とは視覚を異に

し︑雲とはいっても︑むしろそれなりの高さを持った山にあっ

て︑そこに遠望の景として望まれる雲であろう︒それゆえに︑

続く対句では︑その山を﹁神さびて見れば貴く﹂とうたうの

ではなかろうか︒

また︑続く﹁川速み瀬の音そ情き﹂についても︑﹁川速み﹂

は集中二例︑同類の表現として﹁瀬︵を・の︶速み﹂は十例︑

みを﹁水脈︵を︶速み﹂は五例で︑表現においてその川の﹁音﹂が

詠まれるのは︑次の一首のみである︒

きよ泊瀬川流るる水脈の瀬を速みゐで越す波の音の情けく

︵7.一一○八︶

泊瀬川の流れる水脈の瀬が速いので︑堰を越して流れる波

の音がさやかに聞こえることだという︒一首は︑吉野川に即 した赤人の当該歌の表現に通じるものがある︒また﹁速み﹂にかかわる例ではないが︑同様に吉野川の﹁音﹂を詠んだ歌に︑

千鳥鴫くみ吉野川の川の音の止む時なしに思ほゆる君

︵車持千年︑6.九一五︶

見まく欲り来しくも著く吉野川音のさやけさ見るに

ともしく︵島足︑9.一七二四︶

の二例がある︒千年の歌は﹁川の音﹂を﹁止む時なしに﹂の

序詞としたもの︑島足の歌は﹁川音のさやけさ﹂に心ひかれ

ることをうたったものである︒それぞれ吉野川の永続性や聖

性を背景に﹁川音﹂を詠んだものといえよう︒ただし︑この

ように類例は拾えるものの︑山と取り合わせての表現は集中

当該歌のみであり︑吉野の山川の聖性を述べるにあたって︑山

と同様に赤人なりに意を用いた表現と考えられる︒

第一対は︑吉野の山は雲が棚引くほどに高く︑またそこか

ら流れ下る川はたぎち流れて︑瀬音も清らかであると︑視覚.

聴覚にかかわって山川の景をうたい︑第二対はその聖性を強

調し︑それらを宮に備わるものと位置づけて︑山川と一体の

(11)

当該歌はこのように︑二つの対句を用いて︑吉野の山川を

宮に備わるものとして強調する︒山のみを取り上げれば︑第

一対では﹁山高み雲そたなびく﹂︑第二対では﹁神さびて見れ

ば貴く﹂であり︑山は高く神々しく︑また見ると貴いとうた

われる︒集中には前記したように︑カムサブの語が二八例︑カ

ミサブの語が一例見られるが︑それらのうち︑山について用

いた当該歌以外の例を整理すると︑次のようになる︵注7︶︒

1.やすみししわご大君高照らす日の皇子荒たへ の藤井が原に大御門始めたまひて埴安の堤

の上にあり立たし見したまへば⁝.:耳梨の青菅

山は背面の大き御門に宜しなへ神さび立てり

︵1.五二︶

2.何時の間も神さびけるか香具山の桙杉が本に苔生す

までに︵3.二五九︶

3.天地の分れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる

存在として吉野宮を賛美したものと解される︒

二︑青根ヶ峰と吉野川いやひこ4.弥彦おのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そほ降

る一に云ふ︑あなに神さび︵陥・三八八三︶

5.難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲そた

なびく︵加・四三八○︶

1は﹁藤原宮の御井の歌﹂の一節で︑大和三山の一つ﹁耳

成山﹂について︑北の御門にふさわしく﹁神さび立てり﹂と

うたう︒2は﹁鴨君足人の香具山の歌﹂の第二反歌である︒対

象は香具山で︑その神々しさを︑杉の根元に苔が生えるまで

の長い時間を提示して実感的にとらえられる︒3は赤人の﹁富

士の山を望む歌﹂の長歌冒頭部で︑﹁富士の高嶺﹂の崇高性が

﹁神さびて高く貴き﹂とうたわれる︒4は弥彦山を詠んだもの

で︑青雲がたなびく日でさえも小雨がそぼ降るといい︑その

景に神々しさが見出されている︒5は先にも引用した防人歌

の一首で︑難波津からの出港に際して目にする生駒山を﹁神

さぶる生駒高嶺﹂とうたい︑その山に雲のたなびくざまがう

たわれる︒なお︑巻七の﹁吉野にして作る﹂の一首に次の歌 富士の高嶺を天の原振り放け見れば:::

︵3.三一七︶

(12)

も見られる︒

神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば悲しも

二一三○︶

吉野の﹁水分山﹂を詠んだ歌であるが︑この場合の﹁神さ

ぶる﹂は次句の﹁岩根﹂にかかると見られるから︑﹁水分山﹂

を直接に﹁神さぶる﹂存在として詠んだものではない︒ただ

し︑その山の岩の神々しさは山そのものを象徴する景でもあ

るから︑この場合も間接的に﹁水分山﹂を﹁神さぶる﹂存在

として詠じたものとみてよいであろう︒同様の例は︑天平十

九年︵七四七︶四月二十八日の作である︑大伴池主の﹁立山

の賦に敬みて和する一首﹂の長歌にも見られる︒一首では立

山について︑﹁こごしかも岩の神さびたまきはる幾代経にけ

む﹂︵Ⅳ.四○○三︶とあり︑険しい岩山の神々しいさまにそ

の聖性が実感されている︒

これらの例を通してみると︑山について﹁神さぶ﹂という

場合︑その特徴として見出されるのは︑第一にその山が特定

される傾向にあるということである︒﹁神さぶ﹂の感慨は自然

を対象とする場合︑その実際に即してのものであるからこう した結果になるのも当然といえば当然であろう︒また第二に︑直接にその対象とされる山は﹁耳成山﹂﹁香具山﹂﹁富士の高嶺﹂﹁弥彦﹂﹁生駒高嶺﹂で︑信仰にかかわる山が多いということである︒櫻井満は︑集中において﹁高嶺﹂とうたわれる山は﹁富士の高嶺﹂︵前掲3︶︑﹁生駒高嶺﹂︵同5︶︑﹁伊予の高嶺﹂︵赤人︑3.三二二︶の三例で︑愛媛県の石鎚山と考えられる﹁伊予の高嶺﹂を含めて︑いずれにも信仰的要素が見出されることを指摘している︵注8︶︒

この点は﹁香具山﹂にしても﹁弥彦﹂山にしても同じで︑香

具山については﹁天降りつく天の香具山﹂︵3.二五七︶︑﹁天

降りつく神の香具山﹂︵同.二六○︶と表現され︑宮廷祭祀に

かかわって国見のことも伝えられる︵1.二︶︒また崇神紀十

年九月条には武埴安彦の反乱伝承が見え︑それには香具山の

埴土が大和の国魂の象徴として﹁倭国の物実﹂と伝えられ︑神

武即位前紀にも大和の支配にかかわって﹁香具山の社﹂の埴ひらかいつへ士で﹁平釜﹂﹁厳釜﹂を作り﹁天神地祇﹂をまつるべきことが

記される︒また︑日本海と新潟県の越後平野とを隔てて位置

する弥彦山︵海抜六三八メートル︶の麓には︑越後一の宮の

(13)

弥彦神社が鎮座し︑弥彦山の山頂︵一名﹁神剣峰﹂︶にはその

御神廟が鎮座する︒社伝では主峰北方の峰を十宝山と称し︑御

祭神︵天香山命︶が神宝を納めたところと伝え︑祭神につい

ては製塩・漁業・稲作の方法を教え導いた越後開拓の文化的

祖神と伝えられる︒弥彦山もこうした信仰に根ざして﹁おの

れ神さび﹂︑あるいは﹁あなに神さび﹂と表現されたとみるこ

とができよう︒﹁耳成山﹂については︑こうした顕著な明証を

欠くが︑大和三山の一つで︑三山中唯一︑三輪山同様に円錐

形の秀麗な山容をもつこと︑また祈年祭の祝訶含延喜式﹄︶

で祭祀対象とされる﹁山口に坐す皇神﹂︵六社︶の一社である

耳成山口神社が鎮座することが注意される︒﹁神さぶ﹂ととら

えられた要因の一つといえよう︒

こうした用例上の傾向にあって︑赤人の当該歌の﹁神さび

て﹂については︑それが何についてなのか直接にはうたわれ

ない︒しかしこれらの例を踏まえると︑吉野の山一般ではな

く︑特定の山を意識してのものとみるべきであろう︒

この点にかかわっては︑﹁山高み﹂の表現も注意される︒集

中の用例については先に整理した通りであるが︑赤人にはそ の使用例が当該歌のほかにもう一例見られる︒

.::.明日香の古き都は山高み川とほしるし春の

日は山し見が欲し秋の夜は川しさやけし朝雲に

鶴は乱れ夕霧にかはづはさわく:⁝.︵3.三二四︶

これは﹁神岳に登りて︑山部宿禰赤人の作る歌﹂と題され

た作の長歌である︒飛鳥のカムナビ山である﹁神岳﹂︵注9︶

からの﹁明日香の古き都﹂の景が︑﹁山高み川とほしるし﹂と

うたわれる︒﹁神岳﹂の所在についてはミハ山説・南淵山説

︵注皿︶などがあるが︑明確ではない︒ただし︑明日香川は

﹁川とほしるし﹂というほどの川ではなく︑山にしても飛烏の

周囲にはこの表現に対応するほどの高い山は見出されない︒

赤人の表現は誇張であるが︑飛鳥の土地の神のいます︑信仰

の山である﹁神岳﹂に登っての詠であるところに︑この歌の

﹁山高み﹂の表現はあるといえよう︒

集中の﹁山高み﹂の用例で山を特定する例には︑﹁いざみの

山︵高見山︶﹂︵1.四四︶︑﹁倉橋の山﹂︵3.二九○︑9.一

七六三︶︑﹁三笠の山﹂︵6.九八○︶︑﹁高円山﹂︵6.九八二

があり︑同一の性格があるとはいえないが︑赤人の他の一例 一一一

(14)

が信仰にかかわることは︑当該歌の﹁神さびて﹂の表現を考

えるうえで注意される︒なお︑集中には一例︑﹁嶺を高み﹂の

表現が見られる︒

富士の嶺を高み恐み天雲もい行きはばかりたなびく

ものを︵3.三二一︶

左注に﹁高橋連虫麻呂の歌の中に出づ﹂と注記される﹁富

士山を詠む歌﹂と題された長反歌三首から成る歌群の第二反

歌である︒富士の嶺が高く畏れ多いので︑空行く雲もはばま

れて棚引いているという︒﹁山︵を︶高み﹂の例にこの例も加

えると︑山が高いゆえに雲の﹁たなびく﹂ことをうたった︑当

該歌以外の唯一例ということになる︒この例が︑赤人が﹁神

さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺﹂︵︵三一七︶と詠んだ

富士山についてのものであることが注意されるが︑この例や

﹁神さぶ﹂と表現された山の例を踏まえると︑当該歌で﹁山高

み雲そたなびく﹂と表現された﹁山﹂は︑吉野の山々のなか

でも信仰にかかわって︑特に注目される﹁神さびて高く貴き﹂

山とみるべきである︵注Ⅱ︶︒

そうした信仰の山として注目されるのは青根ヶ峰︵標高八 五七・九メートル︶である︒吉野宮の南方に位置し︑その山腹のヒロノの地に現在吉野町子守に鎮座する吉野水分神社がまつられていたと伝えられる︒その遷座は十七世紀初頭前後という︵注岨︶︒

青根ヶ峰は巻七に︑

み吉野の青根が峰の苔席誰か織りけむ経緯なしに

︵一二一○︶

とうたわれるが︑前掲の﹁神さぶる岩根こごしきみ吉野の水

分山﹂︵二三○︶とうたわれた﹁水分山﹂がその山と考えら

れる︵注旧︶︒青根ヶ峰からは東に音無川︑西に秋野川︑南に

丹生川︑北に喜佐谷川が流れ︑いずれも吉野川へと注ぐ︒水

分の神は水の分配をつかさどる神であり︑青根ヶ峰は分水嶺

として水分の神がまつられた聖なる山であった︒その祭祀に

ついては︑﹃続日本紀﹄文武天皇二年︵六九八︶四月二十九日

条に︑

馬を芳野水分峯神に奉る︒雨を祈ればなり︒

とあり︑朝廷が祈雨のために馬を吉野の水分の神に奉ったこ

とが記される︒また宮廷の祈年祭の祝詞には︑豊穣祈願の対

一一一一

(15)

象として︑大和の吉野・宇陀・都祁・葛木の四社の水分神社

があげられ︑御県や山口の神々などとともに祭祀の対象とさ

れた︒吉野水分神社が大和の水分四社の筆頭に位置し︑文武

朝に祈雨のことが伝えられるのは︑天武朝以来の王権の聖地

としての認識を背景に︑吉野での豊穣祈願の祭祀が朝廷の安

泰を導くものと意識されていたからであろう︒持統天皇の度

重なる吉野行幸の折にもかかる祭祀は行われる機会があった

ものと考えてよい︒当該歌で﹁山高み雲そたなびく﹂﹁神さび

て見れば貴く﹂とうたわれた山を具体的に求めれば︑その山

は青根ヶ峰を中心とした吉野の山であろう︒

一方川については︑﹁川速み瀬の音そ情き﹂﹁宜しなへ見れ

ばさやけし﹂とうたわれる︒川の流れが速く﹁瀬の音﹂が清

らかであるといい︑またその川の流れを見るとすがすがしい

という︒こうした川に対する神聖観は︑和田革・櫻井満︵注

陞︶が説くように︑吉野川の水が水分の神によってもたらさ

れた聖なる水であることと無関係ではあるまい︒

旅人の神亀元年︵七二四︶の讃歌の反歌には︑

昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにける かも︵3.三一六︶

とある︒﹁象の小川﹂は︑吉野宮とは吉野川を挟んで南に位置

する喜佐谷を流れ下る喜佐谷川のことである︒﹁昔見し﹂とは

持続・文武朝での経験をいうのであろう︒そしてその昔に比

して︑﹁今見れば﹂その流れはいよいよすがすがしくなったと

うたう︒また︑旅人が大宰府の長官として赴任していた折︵神

亀四年頃〜天平二年︶の︑﹁帥大伴卿の歌五首﹂と題された望

郷歌︵3.三三一〜三三五︶には︑

我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むた

め︵3.三三二︶

我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵に

もありこそ︵三三五︶

とうたわれる︒一首目では︑自身の老いの自覚のもとに命の

長からんことを念じつつ︑﹁昔見し象の小川を行きて見むた

め﹂と︑再び﹁象の小川﹂を見ることを願い︑二首目では﹁夢

のわだ﹂が昔のままに変わらずにあることを願う︒﹁夢のわ

だ﹂は﹁象の小川﹂が吉野川へと注ぐその場所の称である︒こ

れらの歌では吉野への思いは不老長生への思いとなって表れ

(16)

ている︒これは吉野が神仙境と仰がれたことと無関係ではあ

るまい︒先の歌で︑旅人が﹁いよよさやけくなりにけるかも﹂

と詠んだのも︑﹁象の小川﹂を見ることによって身体の活性化

が実感されたことによろう︒大宰府から帰京した翌年︑天平

三年︵七三二七月に旅人は六十七歳で莞じている︒吉野川

の水は︑水分の神によってもたらされる聖水としてヲチ水の

信仰を有していたと考えられる︵注旧︶︒当該歌で吉野川につ

いて﹁瀬の音そ情き﹂︑﹁見ればさやけし﹂とうたうのもかか

る信仰を背景にしてのことであろう︒

﹁神さびて見れば貴く宜しなへ見ればさやけし﹂の山川の

対句は︑水分の神の鎮座する青根ヶ峰を讃え︑それと一体の

存在として︑そこから流れ下る吉野川の聖性を賛美したもの

と考えられる︒﹁宜しなへ﹂は︑山の聖性に対してそれと見合

うかたちで川の聖性があること︑実感されることを含意しつ

つ︑それらが宮に備わることをいったものと解される︒第一

対・第二対は︑山や川の聖性を景と感慨とを並記して強調し

たものであり︑当該歌では特に水分神社が鎮座する青根ヶ峰

を見据えて︑水分の神がもつ豊穣性と宮とが一体であること 長歌は冒頭︑﹁やすみしし我が大君の見したまふ吉野の宮は﹂と︑天皇が宮を﹁見したまふ﹂とうたう︒﹁見給﹂︵原文︶については︑﹃万葉代匠記﹄︵精撰本︶が﹁ミシタマフトョムベシ︒ミソナハシ給フナリ﹂と注し︑﹃万葉集古義﹂が﹁メシタマフと訓ベシ︵中略︶御覧じ給ふなり﹂として以来︑一部に﹁ミシタマフ﹂の訓を踏襲する注釈︵折口信夫﹃口訳万葉集﹂︑﹃万葉集全釈﹄︶があるが︑﹁メシタマフ﹂の訓が採用されて現在に至っている︒もっともその意味については︑御覧なさるの意で解するものと︑﹁御支配になられるの意﹂︵窪田﹃評釈岳で解するものとに分かれ︑以後﹃全註釈﹄﹃私注﹄﹃注

釈﹄は前者で︑﹃古典大系﹄ほかほとんどの注釈が後者で解し︑ をうたったものと考えられる︒それは吉野宮が水分の神をまつる宮として︑王権による豊穣の祈願︑またその実現と無関係ではなく︑山水仁智の儒教思想とも相俟って︑豊穣を導く有徳の君子たる天皇のいます宮として賛美するものであったといえる︒

三︑宮の永遠

(17)

近時の﹁新古典大系﹄が前者で解すといった状況である︵注

陥︶︒

﹁やすみしし我が大君﹂は伝統的な天皇賛美の表現であり︑

吉野讃歌では人麻呂︵1.三六︑三八︶が用いて以後は赤人

によってのみ用いられた表現である︵6.九二三︑九二六︑当

該歌︶︒各例において﹁見したまふ﹂が下接する例はほかには

なく︑当該歌同様﹁は﹂で宮を提示する︑赤人の神亀二年︵七

二五︶の長歌では﹁やすみしし我が大君の高知らす吉野の

宮は﹂︵九二三︶とうたわれる︒また︑当該の反歌でも﹁神代

より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは﹂︵一○○六︶と︑同様

に﹁高知らす﹂の語を用いている︒この点で︑当該歌の﹁見

したまふ﹂は︑宮殿の造営あるいは統治を意味する﹁高知ら

す﹂とは区別して︑赤人が意図的に用いたものとみるべきで

ある︒語自体は動詞﹁見る﹂に尊敬の助動詞﹁す﹂がついた

ものであり︑語義もこの語が本来的にもつ﹁見る﹂ことに重

点を置いた表現と解してよいであろう︒

﹁見る﹂については︑﹁万葉集全解﹄が﹁﹁見る﹂ことは見ら

れる対象のもつ呪力を引き受け︑それによって対象を支配す る意﹂とする︒集中には﹁見る﹂にかかわって次のような歌が見られる︒

水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ

︵別.四四九四︶

雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しき我が身またをちぬく

︵5.八四八︶

先の一首は︑大伴家持が天平宝字二年︵七五八︶一月七日

の侍宴のために用意したと伝えられる作である︒奈良朝にお

ける﹁青馬の節会﹂の存在を伝える貴重な作であり︑﹁青馬を

今日見る人は﹂寿命が限りないことをうたう︒また次の一首

は︑天平二年︵七三○︶の一月十三日に大宰府の長官旅人邸

で催された梅花の宴での歌三二首に添えられた︑﹁員外︑故郷

を思ふ歌両首﹂の二首目の作である︒天を飛ぶことができる

仙薬を飲むよりは︑奈良の都を一目見たならば︑賤しい我が

身もまた若返ることをうたう︒ともに生命の充足にかかわっ

て﹁青馬﹂や﹁都﹂を見ることによって︑それが果たされる

ことをうたったものである︒これらの例によると︑﹁見る﹂行

為には対象がもつ霊魂や生命力を取り込む働きのあったこと 一一ハ

(18)

が知られる︵注Ⅳ︶︒

当該歌冒頭の﹁見したまふ﹂の表現も︑天皇が﹁見したま

ふ﹂対象として宮をうたうことによって︑続く二つの山川賛

美の対句が含意する︑宮は︑①儒教的聖人の宿るところとし

て仁智の儒教的徳を備える︑②青根ヶ峰と一体で︑水分の神

に保証された豊穣性を備える︑というその特性と天皇とが一

体であること︑言い換えると︑それらを身に帯びた有徳の君

子として宮を支配することを示したものであろう︒宮ぼめは

すなわち主ぼめであり︑宮の特性を賛美の念のもとに強調す

ることは︑そのまま宮を﹁見したまふ﹂天皇を賛美すること

吉野讃歌の最後の作品といってよい家持の吉野行幸儲作歌

の長歌には︑行幸の実際に即してのものではない分︑吉野の

自然についての具体的な叙述は見られないが︑

高御座天の日継と天の下知らしめしける皇祖の

神の尊の恐くも始めたまひて貴くも定めたまへ る吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふら

︑︐︲︶●●●●●●︵略.四○九八︶ ることは︑そのま↑に通じるのである︒

とあり︑﹁神代﹂以来の﹁あり通ひ﹂がうたわれる︒この場合

の﹁神代﹂は笠金村の養老七年の讃歌における﹁山川を清み

さやけみうべし神代ゆ定めけらしも﹂︵6.九○七︶の﹁神

代﹂同様︑天武・持統朝とみるべきと本稿は考える︵注岨︶

が︑この﹁あり通ひ﹂を長歌をも踏まえて具体的にとらえれ

ば︑﹁あり通ひ︹見したまひ︺高知らせる﹂ということになろ

う︒吉野宮に通い︑宮を見る天皇の姿に天武・持統といった と︑吉野宮を天武天皇によって創始された宮︵注肥︶とうたい︑天皇がそこに﹁あり通ひ見したまふ﹂ことがうたわれる︒またその第一反歌にも︑

古を思ほすらしもわご大君吉野の宮をあり通ひ見す

︵四○九九︶

とあり︑同様に天皇が﹁見す﹂ことがうたわれる︒天皇は吉

野宮に﹁あり通ひ見す﹂存在として︑天武以来の皇統に位置

づけられ︑吉野の聖性のうちにとらえられるのである︒

当該歌の反歌にも︑

神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川を良み

︵一○○六︶

以この場合

﹁山川を清み

(19)

皇統の祖との重なり︑変わらぬ統治が意識されるのである︒

吉野讃歌における﹁高知らす﹂の使用は︑人麻呂の例︵1.

三六︑三八︶のほかは︑﹁やすみしし我が大君﹂の場合同様︑

赤人の神亀二年の作︵九二五︶に﹁やすみしし我が大君の高

知らす吉野の宮は﹂の表現で見られるだけである︒赤人は人

麻呂の表現を踏襲し︑聖武天皇を皇統の祖である天武・持統

と重ねてとらえるべく意図したものとみられる︒

また反歌の結句では︑﹁あり通ひ高知らせる﹂理由が﹁山川

を良み﹂と︑平板な表現ながら山川のよざを強調して端的に

示される︒この場合の﹁山川を良み﹂は︑人麻呂の﹁山川の

清き河内と﹂︵1.三六︶︑金村の﹁山川を清みさやけみ﹂︵6.

九○七︶と同様に︑仙境吉野の山川を賛美してのものである︒

景のすばらしさをうたうことによって︑宮はそこにあるべき

ものとして位置づけられ︑その宮を﹁あり通ひ見す﹂天皇も

また神仙的有徳の君子として確認されるのである︒

賛美される仙境の山川は︑当然永遠・不滅のはずであるが︑

当該の長歌では二つの対句を受けて︑﹁この山の尽きばのみこ

そこの川の絶えばのみこそ﹂と︑山が﹁尽きる﹂こと︑川 が﹁絶える﹂ことを逆説的に提示して︑もしそうしたことがあればそのときには﹁ももしきの大宮所止む時もあらめ﹂とうたい納める︒この三つ目の対句にあたる﹁この山の﹂﹁この川の﹂の表現も人麻呂の﹁この川の絶えることなくこの山のいや高知らす﹂︵1.三六︶の表現を踏襲するものであり︑赤人の神亀二年の作では﹁その山のいやますますにこの川の絶ゆることなく﹂と表現される︒また家持の儲作歌でも﹁この川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎに﹂と︑山川は永続するものとして肯定的にうたわれることを常とする︒逆説的に提示するのは赤人の当該歌の大きな特色である︒

こうした逆説的な山川の提示は︑当該歌と他の讃歌とのも

う一つの違いである第二対の﹁神さびて見れば貴く宜しな

へ見ればさやけし﹂の表現と不可分にかかわるものであろう︒

この第二対は︑青根ヶ峰を見据えつつ水分の信仰を背景に︑吉

野の山川の聖性や豊穣性を宮に備わるものとして示したもの

である︒それを受けて示された﹁尽きばのみこそ﹂﹁絶えばの

みこそ﹂の表現は︑そうした吉野の自然がもつ豊穣性を不滅

のものと信じ︑それに依拠しつつその永遠を強固に希求する

■■■■■■■■■Ⅱ■

(20)

心情に発したものとみるべきである︒

そうした強固な希求の感慨が示された必然性は︑この歌だ

けではわからない︒歌の外側にあることながら︑天平八年の

行幸の状況に目を向けて︑考えるべき事柄である︒この行幸

については︑吉井巌が︑天平七年︵七三五︶の状況として﹃続

日本紀﹄に︑

すこぶ是の歳︑年頗るみのらず︒夏より冬に至るまで︑天下︑碗

豆瘡俗に裳瘡と日ふ︒を患む︒天くして死ぬる者多し︒

と記され︑凶作や天然痘の流行が八年︑九年とうち続く状況

にあったことを踏まえて︑

八年の行幸は︑このような凶作と伝染病との脅威のなか

で行われているのである︒私はこの行幸を真夏のことで

もあり︑天皇の生命力付与を主とした︑吉野宮への一種

の逃避的行幸と見たい︒

と述べる︵注別︶︒

﹃続日本紀﹄天平七年条において︑災害・異変のことは五月

二十三日の記事から見える︒それには天皇の勅として︑

われしら朕︑寡徳を以て万姓に臨み駁す︒自ら治むる機に暗くし やすあたこのころきうちょうなほて寧く済ふこと剋はず︒迺者︑災異頻に興りて答徴価あらは

われ見る︒戦々競々として責め予に在り︒

とあり︑徳の少ない身でありながら民に君臨しているが︑政

治の要諦に暗く︑民に安らかな生活をさせることができない

という︒またこの頃災害や異変がしきりに起こり︑自身の不

徳を責め答める徴候がたびたび現れるので︑戦戦恐恐とした

気持ちであること︑またその責任はすべて自分にあることを

述べる︒そして︑この状況を受けて大赦および︑京︑畿内︑和

泉・吉野の二監の﹁自存すること能はい者﹂への賑伽を命じ

ている︒記事の﹁答徴﹂について新日本古典大系﹃続日本紀﹄

は︑﹁災異答徴の具体的事実は未詳﹂としつつも︑同年の﹁是

歳条﹂︵前掲︶を踏まえて︑﹁夏も半ばを過ぎた五月下旬には

凶作・疫病が憂慮すべき事態となっていたか﹂と注している︒

また翌二十四日条には︑

宮中と︑大安・薬師・元興・興福の四寺に於て︑大般若

経を転読せしむ︒災害を消除し︑国家を安寧ならしむが

為なり︒

とあり︑災害の消除︑国家安寧を祈念して宮中と四大寺で大

(21)

般若経の転読が行われる︒これが行幸一年前の状況であり︑以

後八月十二日条には︑大宰府管内で疫死者が多いこと︑その

ために管内の天神地祇への奉幣︑観世音寺はじめ管内の諸寺

での金剛般若経の読謂︑疫民への賑伽や施薬︑長門国以東の

山陽道諸国への道饗祭の実修が命じられ︑二十三日条には大

宰府管内の疫病の蔓延への対処として西海道諸国の調の停止

が認められたことが記される︒また閏十一月十七日条には︑しばしぱあらはや﹁災変数見れ︑疫痛已まいを以て︑天下に大赦せむ﹂とあり︑

夏五月と同様の処置が講じられる︒

前掲の﹁是歳条﹂に総括されるように︑凶作と疫病の大流

行に悩まされたのが天平七年の夏以降の状況であった︒五月

条に記されるように︑天皇にとって﹁災異﹂は天が答めるし

るし︵﹁答徴﹂︶であり︑﹁責め予に在り﹂と︑みずからの不徳

として受け止められることになる︒こうしたなか︑翌八年六

月に吉野への行幸は行われたのであり︑王権の聖地である仙

境吉野への行幸は︑吉井がいう﹁天皇の生命力付与を主とし

た﹂ものとする理解は方向として正しいであろう︒山水仁智

の仙境に身を置くことによって︑神仙的有徳の君子としてそ の活力の増強が意図されたのであろう︒また疫病の蔓延︑凶作続きという社会状況のなか︑それからの脱却を目的に︑有徳の君子として︑祈年祭ゆかりの吉野水分の神に豊穣祈願がなされたことも十分考え得ることであろう︒稲岡耕二﹃和歌文学大系万葉集﹄も︑﹁あるいはこの吉野行幸も山川への祈祷を目的としたものであろうか﹂という︒

先行する人麻呂の表現とも︑それを踏まえた自身の神亀二

年の表現とも︵6.九二三︶︑後の家持の表現︵弼・四○九

八︶とも異なる︑当該歌特有の︑

この山の尽きばのみこそこの川の絶えばのみこそも

もしきの大宮所止む時もあらめ

という逆説的賛美表現は︑かかる状況ゆえのこととみると理

解しやすいのではないか︒凶作にあえぎ︑疫病に悩まされる

不安な状況ゆえに︑尽きることも絶えることもない吉野の山

川について︑あえて﹁尽きばのみこそ﹂﹁絶えばのみこそ﹂と

言挙げし︑神仙的有徳の君子を保証する吉野の山川︑またそ

の山川の徳の備わる吉野宮を永遠・不滅なるものとして強調.

賛美したのではなかろうか︒反歌で︑吉野の変わらぬ自然︑

(22)

本稿では天平八年の赤人の長反歌について︑三つの対句を

核とする構成︑またそれを通しての山川の表現に注目してそ

の特質を検討した︒吉野宮を仙境吉野の山川と一体のものと

してとらえるのは人麻呂以来の伝統であるが︑この赤人の長

歌では︑﹁神さびて﹂貴い山として︑水分の神が鎮座していた

青根ヶ峰が意識され︑それと一体の存在として︑その山から

流れ下り︑見る者に新たな活力を付与する川として吉野川を ﹁山川﹂のよきことを理由に︑﹁神代﹂︵天武・持統朝︶以来﹁吉野の宮にあり通ひ高知らせる﹂ことをうたうのも︑宮の永続︑いまに変わらぬ行幸をうたうことが王権の安泰を確認することに通じるからであろう︒

赤人の当該の長反歌は︑吉野がもつ︑王権の聖地としての

歴史性︑神仙ゆかりの聖地としての思想性︑豊穣祈願の聖地

としての信仰性のそれぞれを基盤にして詠まれた離宮賛美で

あるところにその特質が見出される︒それはおのずと︑神仙

的有徳の君子たる聖武天皇の賛美に通じるものであった︒

とらえるところに大きな特色が見出された︒当該歌では︑そ

うした性格の山・川を備える宮として吉野宮はうたわれてい

るのであり︑そうした宮を﹁見したまふ﹂天皇は︑おのずと

豊穣を体現する神仙的有徳の君子として位置づけられること

になる︒当該歌の作歌年代については︑赤人の作品に本来年次は記

されていなかったとする考証や集中の応詔歌のありようなど

をもとに︑吉井巌は年次や﹁応詔﹂の記載に疑問を呈し︑﹁天

平八年の吉野行幸に結びつけたのは︑編者の判断に基づくも

の﹂として︑当該歌は︑同様に﹁神代﹂をうたう養老七年︵七

二三︶五月の金村作︵巻六︶と同じ時のものとする︵注別︶︒

この点について坂本信幸は︑﹁﹁編者の判断に基づく﹂もので

あったなら︑他の題詞に合わせて記されるべきであり︑わざ

わざこれだけを﹁応詔作歌﹂と記す必要がない﹂ことを指摘

する︵注朗︶︒同年次の作とみた場合︑たしかに赤人の歌にだ

け﹁応詔﹂と記すのは疑問である︒本稿ではむしろ︑対句の

表現︑またその内実から︑天平七年以来の凶作と疫病の流行

を背景に実施された︑天平八年の吉野行幸時の作として評価

一一一

(23)

すべきではないかと考える︒歌の内実からその歴史性を問う

こと︑それが本稿の方法的課題でもあった︒

奈良朝の吉野行幸はこの天平八年をもって終わる︒した

がって吉野に従駕しての讃歌も当該歌が最後である︒家持の

行幸儲作歌︵巻十八︶では︑前記したように︑﹁この川の絶ゆ

ることなくこの山のいや継ぎ継ぎに﹂と︑人麻呂以来の表

現を踏襲しつつも︑吉野の山川を直接にうたうことはなく︑天

武以来の皇統譜をよりどころに︑そのいにしえを追慕しての

天皇の行幸と︑それにつき従う﹁八十氏人﹂による永遠の奉

仕とをうたい︑観念的な君臣和楽の世界を描出するに過ぎな

くなる︒その点で︑﹁万葉集﹄における吉野をよりどころとし

た神仙的有徳の君子たる天皇の観念は当該歌を機に希薄化し︑

聖武の仏教への帰依と呼応してしだいにその実質を失うこと

になる︒その意味で︑吉野行幸の最後を飾る当該歌は︑古代

の吉野の特質に根ざしてうたわれた吉野讃歌の終焉を告げる

作品として評価される︒ ︵1︶カムサブの語は︑巻十六・三八八三の本文・異伝に各一例あ

り︑複合語の例も含めて二八首二九例を数える︒用例には︑赤

人の﹁伊予の温泉に至りて作る歌﹂の﹁遠き代に神さび行か

む行幸処﹂︵3.三一三︶の例があるが︑これは寄明天皇ゅか

りの行幸地についてであり︑﹁宮の有様﹂︵﹁私注ごとは言い

難い︒

︵2︶﹁萬葉集索引﹄︵古典索引刊行会編︑塙書房︶をもとにすると︑

当該歌以外については︑﹁川﹂七例︑﹁山川﹂二例︑﹁月﹂三例︑

﹁渚﹂﹁名﹂︑地名﹁的形﹂各一例となる︒

︵3︶清水克彦﹁旅人の宮廷儀礼歌﹂︵﹁万葉論集﹄桜楓社︑一九七

五年七月︑初出一九六○年︶

︵4︶本文・訓読は︑辰巳正明﹃懐風藻全注釈﹄︵笠間書院︑二○一

二年九月︶による︒

︵5︶拙稿﹁笠金村の養老七年吉野讃歌の主題﹂︵﹁國學院雑誌﹄第

二五巻第一○号︑二○一四年一○月︶︒

みね︵6︶ほかに﹁嶺高み﹂︵家持︑Ⅳ.四○○三︶︑﹁嶺を高み﹂︵虫麻

呂歌集︑3.三二二の例が見られる︒二例には﹁雲﹂がと

もに詠まれるが︑前者には﹁嶺高み﹂を受けた文脈において

﹁清き河内﹂に夕方棚引く雲が︑後者には﹁富士の嶺﹂に棚引

く﹁天雲﹂がうたわれる︒後者は当該歌の類例として注目さ

れる︒この点︑後述︒ 一一一一

(24)

︵7︶巻七・一三七七に﹁木綿掛けて祭る三諸の神さびて﹂の例が

あるが︑﹁三諸﹂は神社をさすとみて︑掲出例からは除く︒

︵8︶櫻井満﹁赤人の富士讃歌﹂︵﹁万葉集の民俗学的研究﹄おうふ

う︑一九九五年三月︑初出一九九三年︶

︵9︶﹁日本紀略﹄天長六年︵八二九︶三月条に﹁大和国高市郡賀美

郷甘南備山の飛鳥社を同郡同郷烏形山に遷す︒神の託宣に依

るなり﹂とあり︑天長八年以前︑﹁飛鳥社﹂︵現︑飛烏坐神社︶

はカムナビ山︵神岳︶に鎮座していたことが伝えられる︒

両︶ミハ山説は︑岸俊男﹁万葉歌の歴史的背景﹂︵﹁宮都と木簡l

よみがえる古代史l﹂吉川弘文館︑一九七七年一○月︑初出

一九七一年︶︑南淵山説は︑櫻井満﹁飛烏の神奈備山﹂︵﹁万葉

集の民俗学的研究﹄おうふう︑一九九五年三月︑初出一九九

○年︶参照︒

︵Ⅱ︶第二対の﹁見れば﹂は目で見てそうとらえられるということ

であり︑体験的︑具象的表現である︒﹁さやけし﹂の対象が吉

野川とすると︑﹁神さびて見れば貴く﹂についても︑その対象

は具体的にとらえられるべきである︒

︵岨︶和田幸﹁日本古代律令国家と道教的信仰﹂︵菊地康明編﹃律令

制祭祀論考﹄塙書房︑一九九一年二月︶

︵旧︶五来重﹁金の御嶽﹂︵﹁山の宗教﹄淡交社︑一九七○年八月︶︒

五来は前掲の巻十三・三二九三の﹁み吉野の御金の岳﹂につ

いても青根ヶ峰と見ている︒ ︵M︶和田革注E論文︒櫻井満﹁吉野川と神仙思想﹂二古代の山河

と伝承﹄おうふう︑一九九六年二月︶

︵賜︶注凶に同じ︒

︵略︶小学館﹁日本古典文学全集﹄は︑﹁ここは天皇の行幸来臨する

ことをいう﹂と注し︑同﹃新編日本古典文学全集﹄は﹁ここ

は︑天皇が行幸︑遊覧されることをいう﹂と注記する︒﹁遊覧﹂

への修正は﹁見る﹂要素を踏まえてのものであろうか︒

︵Ⅳ︶拙稿﹁みる﹂︵青木生子・橋本達雄監修﹃万葉ことば辞典﹂大

和書房︑二○○一年一○月︶

︵略︶神野志隆光﹁補説聖武朝の皇統意識と天武神話化﹂︵﹁柿本人

麻呂研究l古代和歌文学の成立l﹄︵塙書房︑一九九二年四月︑

初出一九九○年︶が天武朝であることを指摘する︒

︵四︶注5拙稿参照︒吉井巌は持統朝舎万葉集全注巻第六﹄有斐

閣︑一九八四年九月︶︑神野志隆光は天武朝︵注岨論文︶とす

るが︑同論文で天武・持統朝とみるべきことを論じた︒

︵別︶吉井巌﹃万葉集全注巻第六﹄︵有斐閣︶

︵別︶吉井巌﹁万葉集巻六についてl題詞を中心とした考察l﹂︵﹁万葉集への視覚﹄和泉書院︑一九九○年一○月︑初出一九八一

年︶︑同﹃万葉集全注巻第六﹄︵有斐閣︶

︵〃︶坂本信幸﹁山部赤人﹂︵有吉保他編集﹁和歌文学講座第三巻万

葉集Ⅱ﹄勉誠社︑一九九三年三月︶

一一一一一

参照

関連したドキュメント

部を観察したところ,3.5〜13.4% に咽頭癌を指摘 し得たという報告もある 5‒7)

 神経内科の臨床医として10年以上あちこちの病院を まわり,次もどこか関連病院に赴任することになるだろ

第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

限られた空間の中に日本人の自然観を凝縮したこの庭では、池を回遊する園路の随所で自然 の造形美に出会

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

市民的その他のあらゆる分野において、他の 者との平等を基礎として全ての人権及び基本

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時