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南アジア研究 第28号 011書評・佐藤 斉華「粟屋利江・井坂理穂・井上貴子(編)『現代インド5 周縁からの声』」

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Academic year: 2021

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(1)書評 粟屋利江・井坂理穂・井上貴子 (編) 『現代インド 5 周縁からの声』. 書評. 粟屋利江・井坂理穂・井上貴子(編)『現代 インド5 周縁からの声』. 東京:東京大学出版会、2015 年、323 頁、5400 円+税、ISBN978 ­ 4 ­13­ 034305­3. 佐藤斉華 『現代インド』シリーズ第 5 巻となる本論集は『周縁からの声』と銘 打たれている。ここでいうところの「周縁からの声」とは、 「既存の秩 序に対」する「さまざまな立場の集団や個の営為」、「対抗的公共圏の 構築」、「下からの動き」、「社会運動」であり、この本は「権力構造や 文化資本などの面で『周縁』的な位置に置かれてきた(置かれている) 多様な集団や個人がそれぞれ彼女/彼らが自らの直面する問題をいか にとらえ、いかなるエージェンシーを立ち上げようとしているか、そし て日々の生活や思索活動の領域で、より良い生と尊厳を追求している かを描いたもの」であるという(序章:粟屋)。実際に章だてを一瞥す ると、独立後のインド社会においてしばしば権力による剥き出しの暴 力・弾圧の対象にもなってきた「農民」や「階級」、「トライブ」とい った集合性に基づく運動をそれとしてとりあげた章はない一方で、逆 に芸能、文学や出版文化など、経済・社会的周縁性のほどはさまでと 1. は思われないトピックも並ぶ 。まずは各章の内容を簡潔に辿ってみよ う。 第 1章「現代ダリト運動の射程」(舟橋健太・鈴木真弥)は、アンベ ードカル後(特に1990 年代以降)のダリト運動を、留保制度を活用し て社会的地位上昇を遂げつつもコミュニティに留まり、運動のなかで 指導的役割を果たす「エリート・ダリト」の活躍に注目して検討して いる。カーストの境界をこえてリーダーシップを発揮しロールモデルと なるエリート・ダリトが活躍するインド仏教徒協会の例、エリート・ ダリトによる公益訴訟を活用した活発な権利獲得運動が展開されてい る清掃カースト・バールミーキの例を通して、エリートと非エリートと の恊働によって推進される運動が描きだされる。差別撤廃という企て が、個人レベルの「上昇」に留まらないコミュニティ・レベルの実践 においてこそ実質的展望を拓くことを確認させられる章である。 ダリトの権利獲得のために生涯闘い、またその闘いの到達点として. 127.

(2) 南アジア研究第28号( 2016年). 仏教を選びとったアンベードカルの軌跡と彼の仏教理解の内実を、そ もそも既存の秩序とそこに組み込まれた差別への異議申し立てとして 2500 年前に出発した仏教の淵源に遡って跡づけるのが、第 2 章「異議 申し立てとしての仏教」 (桂紹隆)である。アンベードカルの仏教理解 は「恣意的」との批判もあるが、仏教は時代と土地に応じて常に再構 築されてきたものであり、彼の仏教理解は独立後インドのダリト社会 において、またさらにはインドをこえてインパクトを持ってきた。ダリ ト運動の原点にいたアンベードカルは、「エリート・ダリト」の系譜の 原点でもあったことが改めて思われる。 その多くはダリト出自といわれるインドのキリスト教徒の「生活世界 の恊働性」を、バンガロールとチェンナイという大都市の教会におけ る「会衆」としての実践、特に聖歌唱和に焦点をあてて論述するのが 第 3 章「歌う会衆」(井上貴子)である。キリスト教徒は多くの教派に 分かれ、教派は教会に分かれ、教会は言語別に分かれてサービスを行 う。聖歌を唱和する礼拝の時空は、かつての共同体が流動化する一方 で公的社会保障はなくばらばらな個としてリスクにさらされる信者達 にある種の情緒的帰属感をもたらすが、それが実現するのは「排他的 な小集団の先鋭化」か、それとも「半径1メートルの幸せ」なのかと 著者は問いかける。その答えは、信者の教会内の時空を彼・彼女らの 教会外の生活世界のなかに位置づけ、また歌だけに限られないその声 を拾い上げる努力を通じて見いだされるものであろう。 パトロン/クライアント関係のなかで芸能活動を行ってきたタール 砂漠の楽士集団が、民俗学研究所ルーパーヤーン・サンスターンによ る文化運動を通して「民俗芸能」として自己を保存/再構築しつつ、海 外展開も含む新たな生存戦略を追求する様を活写するのが第 4 章「『民 俗芸能』が創造されるとき」(小西公大)である。本質主義と構築主 義を接合する民俗学研究所の「伝統」へのアプローチは、研究所が閉 鎖され楽士達が独自にセルフ・プロデュースを行うようになった今日も 継続し、そこでは文化要素の一直線の脱文脈化や脱領土化ではなく、そ の移転不可能性との継続的・多面的な相克・交渉が起こっていると著 者はいう。ではその「本質主義的構築」作業を導く彼らの価値観ない し認識枠組みはいかに構築されてきたのだろうか? もう一段メタ・レ ベルにたった問いも浮かび上がってくる。. 128.

(3) 書評 粟屋利江・井坂理穂・井上貴子 (編) 『現代インド 5 周縁からの声』. 第 5 章「資源開発・環境・住民」(杉本浄)は、独立後の計画経済 路線下のものから今日の外資導入によるものまで、インド各地の天然 資源開発に対抗してきた環境運動をオディシャー州西部を例として検 討し、現代インドの錯綜する「発展」の様相を読みとく。州のなかで 政治経済的に立ち後れ指定トライブ住民も多い同地では、エネルギー /鉱物資源への需要の伸びとともに鉱山開発が進められまたそれへの 対抗運動が展開してきた。社会的公正と環境の持続可能性を要求する 環境運動=開発反対運動と、開発効果の地元還元を含む「適切な開発」 を求める反・開発反対運動がせめぎあうなか、鉱山開発をめぐる「正 解」を導くのは難しいと著者はいう。その結論は「唯一指摘できるの は、経済発展を重視するあまりに急速な資源開発を推し進めることは かなり危険である」という、極めて常識的なものである。 1993 年の地方自治改革で導入された女性議員枠により、女性の村落. 政治への参加がどう変化したかをケーララ州と UP 州の例をもとに検討. するのが第 6 章「女たちが政治に参加するとき」(喜多村百合・菅野美 佐子)である。前者では、女性議員の大幅増加とともに女性向け小規 模貯蓄・融資事業や開発財源の村落レベルへの積極的配分等により、女 性の政治参加は着実に進んでいる。後者では、根強い男性中心の政治. 文化に阻まれつつも政府/ NGO 連携のプログラムを通じて誕生した女. 性議員が行政と女性住民を繋げつつある。全体として「女性が親密圏. において…私的感情を伴いながら…共有してきた生活上の問題を…公 共圏に向けた政治的発信へと転換」することが実現しつつあるという。 女性の政治参加の進捗を、直面する制約や反動にも目配りしつつバラ ンスよく描きだしているが、女性と「私的感情」や「親密圏」をスト レートに結びつけた(それを「しなやかに越境」するにもせよ)議論 が、既存のジェンダー規範の追認にもなってはいないか、若干の危惧 は残るところである。 カースト/ジェンダー/階級という「三重の疎外」を告発し、フェ ミニズムさらには社会運動一般に複合差別の現実を突きつけるダリ ト・フェミニズムが、第 7 章「フェミニズムとカーストの不幸な関係?」 (粟屋利江)の主題である。既に独立前からアンベードカルらは、カー スト秩序とジェンダー規範、とりわけ上位カースト女性において強迫 的な貞潔規範と内婚規範の結びつきを指摘しそれに挑戦していたが、. 129.

(4) 南アジア研究第28号( 2016年). ダリト女性の声や運動が可視化してくるのはぐっと下って80 年代以降 である。そこで明らかになってきたのは、彼女らの日々闘争ともいうべ き過酷な労働の詳細であり、彼女らを襲う種々の暴力の現実であり、上 位カースト女性に対するのとはそのかたちと強度において異なるセク シュアリティ搾取の実態であった。さて、強迫的な貞潔・内婚規範が カースト/階層/女性差別を同時に担保するものならば、ダリト・フ ェミニズムの「より解放的」可能性はどこに拓かれるか? 著者のい う通り内婚打破がひとまず現実的アジェンダにのらないならば、示唆 される一歩はもちろん、貞潔規範との断固たる決別、すなわち少なく とも男性と同等の女性の性的主体性の実現であるのだろう。 地域の女神信仰に焦点をあてて都市化・消費社会化・格差拡大が進 む北インド農村の社会変容に迫るのが第 8 章「北インドの女神信仰にみ る社会変容」(八木祐子)である。住民達は、女性の身体に「力」= シャクティ(性的エネルギー/熱)を認め、その力が「制御(=配偶 者を持つこと)」されているか・いないか(=焼けるように熱いか・穏 やかか)によって女性を差別化するとともに、同じ力を女神にも認め て信仰の対象としてきた。近年、憑依や現代的通信技術を用いる新た な女神信仰が興隆している。そうした女神信仰は圧倒的に「熱い」女 神に傾く特色を持つ一方、生身の女性の教育や就業機会は増大し、女 性に対する管理・規制は一般に弛緩してきたという。熱い女神頼み/ 女性の社会進出容認は、 「危険な力」を頼んででも成就したい個人的欲 望亢進の兆候なのだろうか。そのとき女性達自身が何を思うかは、女 神様さながら、その口から語られることがないではまさかあるまいが、 論述においてそれが直接提示されることはない。 近現代ヒンディー文学の女性作家とその作品世界を概観するのが第 9 章「女が『私』を描くとき」(小松久恵)である。インドでも19 世 紀半ばから女子教育が開始され女性雑誌が創刊された。1920 年代には、 女性雑誌の読者投稿欄という女性が自分の感情を表現できる場が形成 され、女性作家も登場してくる。独立後は第二世代以降の女性作家が 活躍しているが、今なお女性作家自身が作品の一部として消費される 傾向は根強く、女性が表現者たることは困難である。そのことの関数 として女性作家は、自由と自立を求めて「主体的」に生き抜く女性の 姿を描くというフェミニスト的実践を遂行しつつも「女性作家」、「フ. 130.

(5) 書評 粟屋利江・井坂理穂・井上貴子 (編) 『現代インド 5 周縁からの声』. ェミニスト」というレッテルをむしろ拒むという。文学は、個人的な 生の領域からの声を析出する特権的メディアである。その受容 / 消費の. ありようも含め、文学として表出された女性達の声を伝える本章を読. む読者の胸には、 女性/「私」が(性的) 主体性の剥奪を乗りこえ 「生を謳歌」するための突破口はどこにあるかという、彼女達が提起し た問い、単純な答えのでない問いそれ自体が反響し続けるはずである。 ダリトをテーマとしたヒンディー文学と分離独立によって圧倒的マ イノリティとなったムスリムの実践としてのウルドゥー文学を、非抑圧 者/マイノリティ問題という共通項によって括ったのが第 10 章「マイ ノリティ文学からの発信」(荻田博・石田英明)である。独立インドで その「外来性」を批判される立場となったウルドゥー文学は、そのム スリム的世界がインドに深く根差しインド独自の展開を遂げたことを 強調する。従前より被差別問題に関心を寄せるヒンディー文学は、独 立後の現実と向き合う方策を摸索し、ダリト出身作家によるダリト文 学の誕生と普及という展開を90 年代に迎えた。マイノリティ自身を含 む多様な担い手が創作活動を展開する「多様性の横溢」として、著者 らはこれを評価している。 第 11章「言語問題とアイデンティティ」(萬宮健策)では、多言語 国家における言語とアイデンティティについて、パキスタンからインド に移住したシンド人のシンディー語を例に考察している。シンディー語 は1967 年に憲法第 8附則リストに追加されたものの、ヒンディー語・英 語を頂点とする言語序列のなかで弱小言語として周縁化され、表記文 字も統一されていない。さらにシンド人内部においてもシンド語への関 心は低下の一途を辿っているようである。著者は「こうした…現状に 困惑」するが、ある著名なシンド人言語学者の、文字よりも言語を「話 しているという現実こそが重要」という語りに、厳しい現状を織り込 みつつアイデンティティを摸索し続けるシンド人の尋常な姿勢を見る。 多言語下の弱小言語の状況に「異常」事態を見てとりがちな外部研究 者の予断が炙りだされる、興味深い瞬間が定着されている。 経済開放、新中間層の台頭、電子メディアの発達といった新たな趨 勢が目白押しの21世紀インドの出版文化の現状を、より多様な声や運 動を表出するメディアとなる英語以外の媒体と英語媒体の相互作用に 注目しつつ論じるのが第 12 章「多言語社会における出版文化と社会運. 131.

(6) 南アジア研究第28号( 2016年). 動」(井坂理穂)である。インドでは1970 年代後半から識字率の上昇 に伴って在地諸語の出版物・新聞の読者層が急速に拡大し、新聞の大 衆化・商業化・ローカル化が進んだ。エリート層向け英語紙との断絶 も鮮明になっているが、そこに単純な読者層の分離は想定できない。90 年代からは書籍流通が活発化・大資本化し、とりどりのジャンル・形 態の英語本、在地諸語本、相互の翻訳本が書店に並ぶようになった。そ れは、在地言語に軸足をおきつつ英語にも関心の高い新バイリンガル 層の形成と連動し、より多様な声を発信する可能性の拡大ともなって いる。いうまでもなく、近代以降、出版等のメディアは社会を構成す る極めて重要な要素であった。本シリーズのなかでメディア状況をそれ として扱っているのは、実は(第 6 巻第 5 章松川論文を除き)本章のみ である。今後のインド・メディア研究発展の一つのマイルストーンとな る論考であろう。 以上の各章の振り返りを踏まえ、改めて本論集が達成しようとした ことを考えてみたい。ここにいう「周縁」とは何であり、 「周縁からの 声」を聴くとは実際どんな営みだったのだろうか? そしてそれはどこ まで、その意図を達成できていただろうか? 「周縁」とは何かという問いに対して、ここまで本書に随伴してきた 私たちに既に明らかなのは、それが権力や富や文化資本の配分におい て差異化された社会領域内のある位置性であるだけでなく、個々人の 生の領域のなかのある位置性、通常表立って見せたり語ったりしない、 表立って見せたり語ったりすることがためらわれる、いわゆる個人的な 感情や感覚(特に、痛みや羞恥等否定的なもの、 「性的」なるもの)に 関わる領分でもあったことである。そうした領分に関わる声は、一般 には親密な間柄、場合によっては個人内部に留めおかれ、何らかの芸 術的昇華を経なければ広く共有されることは難しい。文学的なるもの を大きく組み入れた構成は、本書が実はこの後者の種類の周縁にも重 きをおいていたことを示していよう。もちろんこの二つの周縁は相互に 繋がっており(第二の意味の周縁性によって規定された集団──例え ば「性労働者」──は第一の意味の周縁にも立たされることになる)、 またいずれの周縁も相対的で、さらには輻輳する周縁化の稜線は相互 に交叉もする(例えば「富裕な女性」は、性的に周縁化されつつ経済 的には支配的地位に立つ)。ではこのようなものとしての「周縁」から. 132.

(7) 書評 粟屋利江・井坂理穂・井上貴子 (編) 『現代インド 5 周縁からの声』. の声を聴くとはどんな営みになるはずなのだろうか? 端的にいって、周縁の声は発されにくく聴きにくいものである。定 義からして「声が聴かれにくい」社会的位置、 「声にしにくい」生の領 分こそが周縁であり、そこからの声をあえて聴く実践なのであれば、い かに聴くかについては十分戦略的であらねばならない。つまり、沈黙 のなかに潜在する声を常に予期しつつ、しかも予断を排してその発掘 に努めるのでなければならないし、さらに(少なくとも部分的にはそう した努力の成果として)きこえてきた声に関してはいかにしてそれが聞 こえたのか、つまりその声がどのような周縁とどう関わる誰によってど んなメディアを通して発され誰にどのように聞かれているかを子細に 明らかにしつつ、聴いていくのでなければならない。端的にいえば、声 は声の媒介状況、 「誰の声がいかにどこまで届きどう受容されたか」と ともに探索されねばならないのである。 社会内の位置性としての周縁からの声について述べておけば、まず その周縁内部に滞留する声がある。その周縁のなかにも相対的周縁化 はおそらくあり、逆にいえば周縁内部でも相対的エリート層は周縁「外 部」に向けて発信することを得るかもしれない。さらにその周縁自体 には属さない層──外部活動家、研究者、ライター、いわゆるメディ ア──が、周縁からの声(を媒介する声)をあげるかもしれない。各 エージェントの声は併存し、引用しあい、混じりあい、ときに鮮烈な 対抗を形成しつつ、互いに反響し増幅もしあえば互いを打ち消し歪め ることもあろう。周縁からの声を聴くとは、こうした周縁からの/をめ ぐる/を越え出ようとする言説の磁場に向き合いさらにはその一端に 食い入ることなのであり、基本的に様々な媒介を通じて接近せざるを えず、究極的にはそれ自体が媒介でもあるだろう種々の声を、その媒 介状況に繊細な注意を払いつつ腑分けし聴きとっていくことなのであ る。場合によっては、聴こうとして聴こえない声を媒介状況から忖度 する営みが要請されることもあるだろう。だとすれば、輻輳する媒介 の性格自体を問題化することは、声を聴く試みと不可分のその一部を 構成するものなのである。いわゆるメディア(文学、出版文化)自体 に焦点を当てた試みが本書に包摂されてある所以は思うに、ここにあ ったのである。 声の媒介状況の探究は周縁からの声を聴く試みに不可欠なのであっ. 133.

(8) 南アジア研究第28号( 2016年). た。改めて振り返れば、本論集の各章がそれぞれにいずれかの相対 的周縁──社会的位置性あるいは生の領分に関わる──の声を聴こう として、戦略性のほどは様々ながらその媒介状況に確かに光を投げか けようとしていたことをおおよそ確認できる。 とはいえ、上の各章への簡単なコメントから見てとれるところもある ように、接近の糸口をつかみ難い媒介状況をおそらくは前にして、声 を聴きとれず/とらず、聴こえない声をめぐる媒介状況の探索自体も とん挫させたとおぼしきケースも散見されぬではない。このことも踏ま えて、評者が最後に強調しておきたく思うのは、徹底的に周縁化され た声、より聴きにくい声、いや声にすらなっていない声をこそ聴く努 力の継続の重要性に関してである。各章がそうした努力の途上で形成 されてきただろうことを疑わないし、各々のフィールドでこの努力が直 面するであろう具体的困難は程度もかたちも様々である以上、その努 力が実を結ばないことも往々にしてあろう。ただ、この企てが直面す べき現実的困難の存在がそれを放棄する言い訳となってはならないし、 努力が実を結ばなかった場合にはそのこと自体が、既存の媒介状況の 兆候として明確に提示されるべきことを指摘しておきたいのである。 結局のところ、 「聴こえない/聴こえにくい声」を聴くことは既存の 秩序に抗う厄介で困難な企てである。瀬戸際で抗い続ける意義を見失 えば、企てはいとも容易に「不可能」として打ち捨てられもしよう。し かしそこで打ち捨てられるのは、「(容易に)聴こえる声」が、つまり 権力の声が構築してきた今既にある世界を別様に構築する可能性、そ れ自体なのである。 註. 1 本書と同時期に出版され、 テーマ・関心も重なるところの多い石坂晋哉編『インドの社会運. 動と民主主義』 (2015年、 昭和堂) では、 「階級的闘争」 や「トライブ」 運動もとりあげられてい る。 さとう せいか ●帝京大学. 134.

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