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片倉家並びに日光・東照宮伝来の小紋胴服二領につ いて

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(1)

片倉家並びに日光・東照宮伝来の小紋胴服二領につ いて

著者 神谷 榮子

雑誌名 美術研究

号 303

ページ 10‑21

発行年 1976‑10‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006417/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

'7h 7L 

片倉家並びに日光

• 東照宮伝来の小紋胴服一

"J 

宮城県白石市の旧白石城主片倉家に伝わる小紋胴服と日光

東照宮に

共に大幅平絹に染めた小紋の裂地を裂幅一杯を桁

伝わる小紋胴服とは︑

にして仕立てた特異な胴服として従来注目されてきた

﹂れらは初期小紋の遺品資料として︑

上杉家に伝わる謙信所用小紋惟

子(美術研究二三三号所載拙稿参照﹀に次ぐ古い貴重な資料であり︑その精

査・究明は小紋染の上からも︑羽織の原形である初期胴服の形態

の点からも究めておく必要があり︑昭和三四年三九五九)九月二五日︑

当時の東京国立博物館染織室長山辺知行氏の許に同時にこれら二領を預

長板中型染色家の松原福奥

男両氏を招いてっておられた機会に︑

の第一回調査に始まり︑続いて江戸小紋の重要無形文化財保持者小宮康

2

助氏並びに同氏御子息の康孝氏を招いての調査等︑今日までに山辺知行

氏(現多摩美術大学教授)︑杉原信彦氏(現文化庁管理課長補佐﹀︑共立女子

大学教授山本らく︑栗原弘子両氏︑北村哲郎氏(現東京国立博物館企画課

永清士氏(現東京国立博物館染織室長﹀の御意見を伺いながら調査

一 領 じ

い て

ノ命、

;口}

その間他の調査

研究が入り︑結局十五年余の歳月を要

したが今回ようやく発表の段階に至ったので以下報告に移りたいと考え

4E E‑

片倉家伝来小紋胴服(図版

Ib

E

a

b

123

9

)

3

片倉代々記(挿

伊達政宗の家臣である二代片倉小十郎島郎(天庇針一手 仙台・伊達家の小藩白石の片倉家に伝来する胴服で︑

!

m

E

年)が伏見へ登り滞留していた際︑即ち慶長の始め頃(慶長四年迄

4の間﹀太閤より羽織を拝領したとあり片倉家に於ける今日までの家伝

でも︑この胴服は太閤より拝領したものとされている︒

後述するように胴服の形態や小紋の様相等から︑時代的に慶長の始め

頃という点には信溶性があり︑片倉代々記並びに家伝に従い︑伝太閤よ

り拝領としてよいであろう︒

(3)

図版

Ea

b

︑挿図

1

等で見られるように︑縫目のほころび︑裏裂の 朽損が著しく︑小紋の表裂にも背面右下方に損傷が見られる︒背面の損 傷は何かの汚れがもたらした損傷であろうが︑縫目のほころびと裏裂の 損傷は︑当初の黒絹縫糸と

︑茶色平絹通し裏の裏裂が鉄媒染であったた

5

め朽損したので︑黒絹縫糸は縫目の処々にその姿を残し︑一畏裂は細かい

なかいれわた断片となって中入綿に付着している︒

紺地に薄藍で小花文様が染め出されている小紋の平絹表裂は

︑袖附の 縫目がなく︑背縫から袖口までが一続き

︑即ち桁が一枚の幅広い裂一幅 で出来ている︒縫糸のほころびと裏裂の朽損部分から背縫及び袖口の縫

代に見られる大幅裂地の両耳が明らかで︑

6

七三センチ幅︒外来裂と思われるこの広幅の平絹は羽二重風の滑ら

かで柔軟な手ざわりの裂である︒袖の丸みから袖下

︑脇の線と襟先が︑

その曲線に添って裁ち出してある︒

即ちその部分が直線仕立でなく曲線 裁断の西欧の影響を受けた裁ち方で

﹂の方法の裁断では︑上杉家に伝

わる謙信所用といわれる陣羽織や景勝所用と伝えられる鎧下着に目立た ない曲線裁断の用いられている数領の遺品資料があり

これらに次ぐ古

い貴重な資料である︒仕立てはほころびを補修した糸と︑背面の裏側︑

襟肩あきの下方︑及び裾から上約四

0

センチの下半に︑朽損しはじめた 裏裂に当て裂して茶色の絹糸で刺して補修した比較的早い時期の濃い茶

色平絹補修裂

これも既に相当の朽損が見られるーーが後のものである

が︑仕立てそのものとしては当初のまま殆ど﹁生﹂だということができ 縫糸と裏裂の損傷が著しいので一見保存状態が不良のように見える る ︒

が︑表裂は裂地に張りも引きもあり︑

小紋染の状態も当初の様子を殆ん

ど変えることなく伝えているといってよい︒

損の著しい裏裂は通し裏で︑ 胸紐は附いていた形跡は見られないが︑一長裂の損傷で定かでない︒朽

7

仕立ては綿入れ︑中入綿は真綿︑総重量は

0

日光・東照宮の胴服が六

00

グラムであるからほぼ同じ

重量といえる︒襟は︑内側と外側は一つづきの裂で仕立ててあって︑後

世の羽織の襟と同種のもの︑

別に襟の折目はないが︑襟は襟首囲りの部

分を外側に折っても内側に折っても着装出来る仕立てである︒

ハ小紋の観察並びに推測染色法)

この胴服に見られ

8

りの跡が図版

E

a

b

3

れるように明瞭であ

り︑その一型の跡は

一 四

幅は七三センチ裂幅

のものに背縫の織耳

袖側に跡があるの

で︑型紙は文様部分

×四九・二センチ以

上﹂のもの︑即ち五

片 倉信光 氏 蔵 宮 城

挿 図

1

片 倉 家 伝 来 小 紋 胴 服 部 分 (裏面と中入綿が見える)

(4)

4

実 測 図 挿 図

2

片 倉 家 伝 来 小 紋 胴 服

6 1 C 1 8  

挿 図

3

片 倉 家 伝 来 小 紋 胴 服 型 送 り 跡 図

(前身頃・後身頃展開を想定) 型 紙 は 五 す 型 , 幅 は ー 尺 九 す か ら 二 尺

斜 線 は 文 様 部 分

度銭湯 易額

h

e

7L 

a 、

4 3  

.N

留のあと

‑ 一

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一 l

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一 l

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I 4

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7 4

J 7 J 7 一 J l

J llJ7/

一 l

J

l / 7

一ーーーーーーは下前 前 下 り

5 . 5 c m  

袖1‑1下から脇にかけての曲線は裁ち出しである。

袖口下のきせは左袖は前に,右袖は後に

寸型で幅は一尺九寸から二尺の型紙が用いられている︒

裏裂と縫糸の朽損のためにこの胴服は表裂の裏面が容易に観察

でき︑そのことにより次のことが明らかになった︒小菊散らしと

もいえる文様は︑藍色の濃度が表裏同様で︑地の部分は表は濃紺︑

裏は文様部分との区別がない(挿図

IY

即ち︑染色は︑七三セン

チ幅の外来裂と思われる白羽二重風の裂を先ず藍に浸染して藍下

とし︑表側にこの小紋型で糊置の型付をし︑墨を引いている︒従

っ て

紺に見える地の部分は︑文様部分と同 じ濃度の藍色の上に

墨が引かれた色である︒糊置の型付は︑この遺品資料を通して推

測すると挿図 3 の方向に順次行われたようである ︒

(形状︑法量︑仕立て方)

形状︑法量は一覧表の下方より四段目と挿図2の実測図に示した︒綿入

仕立で︑裏は通し裏︑袖口︑裾等の抱は裏裂の甚だしい朽損で推測もならな

Cい︒背縫の折被せは表裏ともわれわれがいう正常な方向(美術研究二二

O

︑ 挿 図

3

参照)になっている︒袖の丸みから袖下 ︑脇

にかけてと

襟先の曲線裁断は前述したが︑

上杉家に伝わる謙信及び景勝所用の数領の

曲線裁断の採り入れられている陣羽織や鎧下着よりも︑その度が進んでお

)

り︑袖下から脇にかけての曲線部分の折被せは左袖は前に(前が高く上側に

右袖は後に(左袖とは逆に後が高く上側になっている)なってお

り︑右の袖口には黒絹糸で四回糸がかけてある留めが行われており︑左袖

口にも留めのあとがある︒表裂は背縫線から袖口まで広幅一幅で仕立てて

まちあり︑袖附の縫目と槍裂の縫目がないが︑裏裂は広幅の裂ではないので︑

袖附縫が当然のことながら袖附の縫目と槍裂附の縫目 があったと思われる

が︑その部分の裏裂も断片が附着するのみで縫目の状態は不詳である︒襟

(5)

は表身頃との襟附は平縫いで︑わなになって裏にかえり︑裏身頃の裂がそ

表 裂

¥.J 

の襟裂に縫いつけてある(身頃の裏裂が襟

襟先の曲線裁

経糸︑緯糸ともに精練してあり︑太さもほぼ同じ位で羽二重様の柔かい 断は︑ごくわずかな曲線であるが袖の丸みや脇と同様に裁ち出してあり︑

裏側から二枚を平縫いで縫い合わせ表にかえしてある︒

胸紐の有無は前述

した通りで︑不詳といえようか︒ 五越前後︒裂幅は七三センチである︒ 手ざわりの裂である︒密度は一センチ聞に︑経糸は四

O

本前後

緯糸は三

縫糸は

S

撚黒網糸と

Z

撚鼠色絹糸で︑黒糸の部分は殆どがほころびてい

( 裏

¥.J 

る︒襟附

の縫目は︑二・五ミリ前後の細かい平縫である︒

当初は黒平絹と思われるが︑ 現在は濃茶色平網の断片である︒

すべて抜けており裏は中

東 照 宮 蔵 襟 を 外 側 に 折 る

栃 木

日光東 照 宮 伝 来 小 紋 胴 服 部 分 損 傷 部 分 よ り 裏 面 を 見 る

正 面 日光東 照 宮 伝 来 小 紋 胴 服

挿図 4

挿図 5

入綿に附着している程度

東 照 宮 蔵

であるが︑襟附けの部分 に 元 の 裏 裂 が つ い て い

栃 木

る︒経糸︑緯糸ともに精 練してあり︑太さもほぼ 同じ︑密度は一センチ間

に︑経糸は四五本前後︑

緯糸は四

O

越 前 後 で あ る

(2) 

日光・東照宮伝来小

紋胴服(図版

Ia

a

b

︑挿図

4

5

6 ︑ 7

旗本の士近藤用予が大坂

夏 の

陣 (

一 冗

開 一

日 年

) の 折

(6)

実 測 図

Jl

1

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Fhu‑

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‑ni‑ ‑(I  一幅

5M

1

で 一

:

A

一カ

75

i: 

TA74

FD

勾tiHtτi

日光・東照宮伝来小紋胴服

挿図 6

日光東 照 宮 伝 来 小 紋 胴 服 型 送 り 跡 図 (前身頃・後身頃展開を想定) 型 紙 は 四 す 型 , 幅 は二 尺 か ら 二 尺 一 寸

斜 線 は 文 様 部 分

孟 l

段以勿~

I

挿図 7

h 7L 

5 . 4 1

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J 一 / 一 J 一 出

il

‑ ‑ 一 J

: t U I  

一一一一一ー一一ーは下前 前 下 り

cm 

袖口下から脇にかけての曲線は裁ち出しである。

n

と前身頃の裾は突き什わせ。

川家康(天位

l N

日 元山川区年)から拝領したものを後 一

J

︑ 註

9

光・東照宮に寄進したと伝えられる胴服で︑川の片倉家

に伝わる太閤より拝領の小紋胴服との類似品で︑

﹂ れ

も 袖附の縫目がなく背縫から袖口まで一続きの幅の広い羽 二重風の平絹が用いられており︑片倉家のと同様にその

桁は広い幅の裂が一幅そのまま用い

られている︒そして

片倉家のと同様に小紋染の胴服であり︑小紋染の文様︑

型紙︑染色法も類似しており︑胴服の形も上杉家伝来の

謙信所用胴服八領(美術研究二四二︑二四三︑二四四号所載

の拙稿参照)や吉川家伝来太閤より拝領胴服(美術研究二

稿

︑石川家伝来太閤より拝領紙衣胴

服(図版

M

註叩)より形態上から言って後世の羽織にa

近い形をしており︑

それら十領よりも時代が下るものと考えら

れる︒更にこの日光・東照宮の胴服は︑片倉家の胴服よりも︑

袖幅と見倣される幅が前者より広く︑袖の丸みも大きくて幾ら か時代が下る感じであり︑その上︑前下りが多く(片倉家のは

五・五センチ︑日光・東照宮のは九センチ﹀て︑後世の羽織に近い

点があり︑双方の伝来を比較するまでもなく片倉家のが時代的

に早いことがわかり︑片倉家及び日光

・東照宮の伝来は各

代の点でも確実性が高く思われる︒

図版 Ea ︑b 等で見られるように︑徳川将軍家の紋所=弓葉葵

の丸紋が五ケ所ついている五つ紋付であり︑裏側も共裂が用い

む そ う

てある無双仕立てで︑綿入れ(片倉家の太閤より拝領胴服同様絹綿)

(7)

である︒保存状態は肩山袖山線

に破損の部分が右袖山に三四セ

ンチ問︑左袖山に二 0 センチ間

あり︑裏側の袖口から袖下︑脇

にかけての縫目が︑両側ともほ

ころびており︑朽ちた糸も付着

し て

い な

い ︒

﹂げ茶色がかった黒地に黄色

の小花文様が染め出されている

小紋の平絹表裂は︑片倉家伝来

のと同様袖附の縫目︑がなく︑背

縫から袖口までの桁が一続きの

S

凶.的︒

3 5 . 5  

9 c m  

O . 8 c m ,長さ 2 5 c m

実測図 豊 国 神 社 伝 来 紗 綾 胴 服

1 2

参 照

前 下 り

!I旬紐

挿図

8 び︑裏面の両袖脇縫のほころび部分から裂の両耳や裏面も観察でき︑従

下った位置に︑左胸には同様二七センチ下った位置に︑綾地の嬬子地銀

禰の乳がついている︒襟裂は︑片倉家の胴服と同様内側と外側は一続き

幅広の裂がそのまま用いられていることを先にも述べたが︑袖肩山線及 って袖口の縫代の端と背縫の縫代の端が裂の両耳であることが明らか

の裂で仕立ててあって︑後世の羽織の襟と同種のもの︑ 別に襟に折目は

で︑この裂幅が七三・五センチであることがわかった︒片倉家の胴服の

やはり片倉家のと同様

見られないが︑襟は襟首囲りの部分を外側に折っても内側に折っても着 装出来る形になっているが︑恐らく挿図

4 のように︑後世の羽織の襟の 裂と同様に外来裂と思われるこの広幅の平絹は︑

けての縫目がほころびているために︑ 羽二重風の滑らかな柔軟な感触の裂である︒裏側の両袖口下から脇にか

その部分は明らかに曲線裁断がな ように外側に折り返えして着装したものであろう︒

されていることが観察された︒左脇の表裂の縫目にほころびを後世繕っ

たと思われる S 撚黒絹糸が見られるが︑仕立てそのものとしては当初の

( 小

紋 の

観 察

並 び

に 推

測 染

色 法

片倉家伝来の胴服同様︑この胴服の染色も︑型付の送りの跡が図版

E

形のまま殆ど﹁生﹂だということができる︒重量は六 00

グ ラ

ム ︒

胸紐は挿図 6 に見られるように︑右胸には襟附の肩山から二六センチ a

b

4

で見られるように明瞭であり︑その一型の跡は

一 二

・東照宮伝来の小紋胴服二領について

ンチで︑幅は七三・五センチ裂幅のものに背縫の織耳から五六センチ袖側

一 五

(8)

4

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(す法の 単 位

cm )

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1

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1

内側)

1 2  同 0 1 … 蜘 g

2 . 0 2 1 1 5 . 0  1 卜 . 1 3 9 . 1 15 :   .

(内側)

1 1 1 4 5 . 5 1 川 町 │

向 上

1 3 . 0 0 5 . o 9 . 0 8 . 0 3 . 9 3

1

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5 1 │ ( d L ) 5 1 5 g 1

向 上

1 口 印

7

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8 . 0 卜 0 5  

5 1  1 1 . 5   ! 日 o 1 2 3 .  0  7 9 0  g  美 智 │ 

(内側)

7 2 卜 8 0 l Z 2 4 1 5 0 叶ベ 2 9 . 5 0 . 7 7 10 1

(外側)

9 . 5   │ 岨 5 1 16 1 0 g

向 上

1

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(

1

内側)

1 1 4 8. 7 川 " ' * i J l l 美 星 野

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0 1 川 4 … 美 Z F

(立てたまま)

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(内側)

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1

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(外側)

1 . 3 9 4 . 0  1 … 

向 上

E

があるので型紙は文様部分が

五センチ×五六セ ンチ以上のもの即ち四型で幅は二尺から二尺一寸型紙

が用いられていることがわかる

であ 両袖山破損と裏側袖下縫のほころ

り染めた裂

裏面が観察でき次のこと明らかにな小菊らし 黄色の濃度が表同様で︑地の部分は表はこげ茶がか た黒裏は文様部分との区別がなく更に紋所の部面は 白抜きになている(挿図

5 Y

即ち色は五センチ

の外来裂と思われる羽二重風の裂を先ず紋所の部分五ケ所

に型紙を使

(

全体を黄色に染上にこの小紋型で

みずもと註墨を引き最後に水洗で防染をす落して乾の型付をし かしてから白抜る紋所部分に葵紋墨による 線描きをしている糊置の型付はこの遺品資料を通して推測 すると挿図7の方向に順次行わたようであ

(

法量仕立て方) 形状は一覧表の下方よ二段と挿図6実測図に示

綿入の無双仕立で︑袖前身頃裾後身頃裾襟先

合わせにな枇綴じは行われてい︒背

せは表裏われわれがいう正常な方

(

O

3

照)になており背縫の縫代は表 耳になているの丸から袖下︑脇にかけて曲線は縫代 以外は裁ち落とされている曲線裁断である倉家伝来の は襟先丸く裁ち落とされているが東照宮伝来は角 に仕立ててある無双仕立であるのでも表裂と同

(9)

|柾同 I{耕 ~I 中川|

lrz ト 叫 a

1 1 & ;

ま 慨 苧 胴 服 │ ナ ン │ ナ ン (裾 都 ケ │ 同

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紅 平 絹 │ ゴ

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綿 入 平 ; × 込 紐 (紐一と角共裂裂) 広袖

2 1 .   0  I  3 2 . 0  

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地 五 時 丹 唐 草 文

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1 9 . 0  

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平絹)

可 地 裏 菊 文 睦 襟 醐

1 i f   1 

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3 6 . 5  

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(裏と共裂) 広袖

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胴 家 伝 時 与 花 費 亀 文 門服(一伝紅豊臣) 平絹吉 所 ー ナ シ ナ シ

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広袖

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石川家裏伝紅来紙衣)胴服

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1

( 量 消 │ 帥

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平絹 片倉家伝来秀小所紋胴服

│ ナ ン │ 有 │ ナ シ ! 綿 入 [ 不

1 ' J

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一伝(裏豊臣・茶吉平絹用) 豊伝国(神社蔵秀紗平吉所綾胴服

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1  ' J

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紫 絹

( 東照康立宮伝所来小紋胴服

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薄 伊 子 胴 服

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片倉家並びに日光

東照宮伝来の小紋胴服二領について

であるから袖附の縫目は表裏ともなく

こ の 胴 服 は 重 量 を 測 定 す る 以 前 の 昭 和

3 8

年 度 修 理 で , 裏 打 と 樹 脂 加 工 が 行 わ れ た た め 本 来 の も の の 重 量 は 不 明 で あ る 。

縫︑袖口の縫代を除いた

ものとなっている︒この

胴服は︑片倉

家の胴服よりも袖の丸みが大きいため

袖口もやや内側に斜め

になっており

︑ 袖

口の縫代は袖山線に近いところに左袖の裏だ

け八センチ弱のところまでが耳で(左右表裏とも﹀下方は裁ち落

とされて

即ち断ち目になっている︒その表袖も

右袖の表も 裏も袖山まで断ち目になっている︒袖口には左右両袖とも袖山

より二一センチ下方に留め(虫留)が行われている︒緩色嬬子

地銀欄の乳(幅一センチ︑長さは二つ折りにして一・五センチ﹀が縫

い目が上

わなが下向に(左右とも﹀

右身頃は襟首囲りの肩山 線から二六センチ下方に

左身頃は二七センチ下方についてい

(

6

﹀が左側の乳は取れかかっている︒襟は外側が平縫

乳のついている側にくけつけてある

乳はついているが胸

紐は残されていない ︒

縫糸は S 撚薄鵜色絹糸と︑ S

撚茶色絹糸が当初の

もので

︑縫

目は平縫が0

二センチ

I

0

三センチの細かい針目

くけ目が

0

五センチから一センチの比較的細かい針目となっている︒

( 表

裏 の

裂 ﹀

経糸

緯糸ともに精練してあり

太さは経糸が緯糸の約二分 の一位の太さで細い︒密度は一センチ聞に

経糸は四四本前後

緯糸は三O

越前後︒裂幅は七三

五センチである︒

(

繰色銀欄で五枚嬬子地

文様は不詳

密度は一センチ間に

1 6 1  

※ 

経糸は七O

本前後

緯糸は三

O

越前後

銀糸の幅は0

三ミリ

(10)

ワb

;11.. 

片 倉 代 々 記 註

3

参 照 宮 城 片 倉 信光 氏 蔵 挿図 9

0

以上の調査によって︑ 片倉家伝

来小紋胴服並びに日光 ・

東照宮伝

来小紋胴服には ︑ 次の諸事項が結

論として述べられる︒

﹂ れ

ら 二

領 の

胴 服

は ︑

片倉家伝

来の胴服に比較的早い時期の補修

の跡が見られる以外は当初の仕立てのままで︑ 双方とも﹁うぶ﹂な仕立

ての胴服ということができる︒保存状態は︑片倉家の胴服は縫糸と一畏裂

が鉄媒染による損傷が著しいので一見保存状態が不良のように見える

が︑表裂は︑背面の右側中央やや下方に汚れによる破損部分が一ケ所認

を殆ど変えることな

く今

伝 え

て い

る ︒

められるだけで︑裂地に張りも引きもあり︑小紋染の状態も当初の状態

日光 ・ 東照宮伝来の胴服は左

ろ び

て お

り ︑

右両袖山

破損部分があり︑一表面両脇の縫目が縫糸の朽損によってほこ

で今日

伝えられている

裂地は黄色の部分的槌色が認められるが概して良好な状態

形態の上では桃山時代の胴服に共通する特徴をよく備えており ︑ 胴服

示 し

て い

る ︒

即 ち

一 覧

表 ︑

初期小袖の上にかさねて着たものであることを明らかに

と し

て の

形 が

並びに実測面(挿図 2 ︑ 6﹀に示したように︑

桃山期以前の小袖の特徴で第一にあげられる狭い袖幅

( a

﹀︑広い身幅

( 後

幅はb︑前身幅はh﹀︑が先ず注目されるが ︑ 日光 ・ 東照宮の方が ︑

/

袖幅が広く︑袖の丸みも大きくて ︑ 片倉家のものより時代的にやや下る

感が強い︒袖の形は共に袖口のつまった小袖型で ︑ 比較的年代の上る胴

また︑何れにも後世の羽織の槍

相当す 服に多い広袖(平袖﹀ではない

る大きさの裂の持出し分があり︑更に後世の羽織同様な形態︑ 即ち在が

なく ︑ 襟は裾までついており ︑ その襟は後世の羽織のように外側に折っ

て着装する感が濃厚で︑ 背割れや裾脇あけがない(拙稿

﹁ 伝

上 杉

謙 信

所 用

胴 服

八 領

術 研

究 二

四 二

四 四

号 │

及 び

吉川家伝来山道草花鶴

l

美術研究二八六号│参照)︒そういった後世の羽織

を想わせる形が外来裂の七三センチばかりある幅の裂地で︑ これも外来

の 裁

断 法

西欧の曲線裁断をこの形にまことに合理的に採り入れて仕立

てあげている

しかも文様や染はわが国特有の小紋染でといった外来の

ものと伝統的なものの巧みな組み合わせで以って

小紋の文様も類似し

て お

り ︑

﹂ れ

用いられた小紋染の技法も ︑ 先ず浸染の無地染を行っ

た後 ︑ 糊置防染をして︑墨を引くといった同様な方法がとられている︒

小紋型もほぼ同様の大きさのものを用い ︑ 型送りも双方ともほぼ同様な

方法で大幅の裂地に行っているようである(挿図 3 ︑ 7 ﹀

当時の外来染

織 ・ 服飾の導入が ︑ わが染織 ・ 服飾にさりげなく見事に行われている好

例の二領であるということが出来るであろう︒ より後世の羽織に近い形

ということから日光 ・ 東照宮伝来のが時代的にもやや下るという考察も ︑

双方の伝来に一致し ︑ この二領は桃山期における︑当時の文化や歴史を

反映した ︑ 由緒ある優品であるといえるであろう︒上杉謙信所用小紋惟

子に次いで古い小紋の遺品資料が二点 ︑ それも外来裂の大幅の平絹に小

紋染を施した形も裁断も類似した胴服二領が ︑ 一方は豊臣秀吉からの拝

(11)

一方は徳川家康からの拝領品といった伝来もほぼ確実に︑資料的

( 4 )  

‑美術的価値も高く今日に伝えられていることが考察︑ 究明されたこと (天正十二年より万治二年まで)

片倉代々記巻之七

はまことに意義深いといわねばならない︒重長

藤原村長撰集

ハ一九七五年八月)始重綱と名つく︑後に公方家綱公御語字を避て重長となる︑姓は藤原︑氏は片倉︑

長期間に亙った本稿の調査には屡と

︑片倉信光氏及び同氏御家族︑日光・東照宮宮司額

俗に弥左衛門と称す︑後改て左門と称し︑小十郎と称し︑伊豆と称し︑又小十郎と 賀大興︑同権宮司矢島清文︑同宝物館長田二谷松二諸氏及び同社務所︑宝物館の多くの方 々に格別の御便宜をおはかりいただき御親切にしていただきました︒また比較検討のため

称し︑備中と称す︑父は片倉景綱︑母は矢内和泉定女︑天正十二年甲申十二月廿五 日羽州置賜郡下長井荘宮村片倉館に生る︑長となるに及て︑針生小太盛直女を要て の資料として調査させていただいた本稿所載胴服の各所蔵家にも並ならぬ御世話になりま

一女喜佐と称す松前市正安広に嫁すを生む︑後に真田左衛門佐幸村女を妻とす︑是 大坂落城の時得之︑帰て侍女とす︑誰の女なるかしらす︑先妻死後幸村の女なる事

した

︒ここに記し

厚く御礼申し上げます︒

を知りて後妻とす︑真田家臣慕来て見し終に家士となれり︑三井奉膳等是也 御時代

正親町院御宇

御陽成院御宇

長板中形の重要無形文化財保持者であった

松原定吉氏(認定は昭和初年

2

月 日

日 ︑

後水尾院御宇

明正院御宇 同年ロ月初日死去された)には六人の息子さんがあり︑共に長板中型の修業を積ん

後光明院御宇

後西院御宇 でおられた︒うち二人が戦死︑現在は四人の兄弟が同一工房で父君松原定吉氏の仕

東照大神家康公

事を継いでおられる︒福輿氏は四兄弟の最年長者で

︑その次が利男氏である

江戸小紋の重要無形文化財保持者であった

小宮康助氏(本名は定吉︑認定は昭和 初

2

目︑昭和初年

3

月幻日死去された︒)は昭和

弘 年 の そ の 当 時 は 大 変 お 元

︑江

戸小紋の古い資料に接して感動され

︑種々御考察︑御意見を賜わった

台徳院殿秀忠公大猷院殿家光公

巌有院殿家綱公

貞山公義山公綱宗公

9

︑﹁片倉代々記﹂には三種ほどの異本があるが︑ここには片倉家所蔵にか かる二十八巻(うち一巻が欠本)初代景綱から九代景貞まで約二百八十年にわたる

天正十九年辛卯 日記風の詳細な記録を載せた大型本(縦三十センチ

︑横二十一セ

ンチの大型藍染和

此年月日不知重綱八歳にして元服す︑伊達藤五郎殿成実は御当

家伊達の門葉に

し て

紙表紙の縦本)によった︒片倉家の正式の記録で

︑白石城合戦︑大坂の陣︑白石城

武功も亦世に聞ゆる人なり︑此故に父景綱方より請ふて首服の親となす︑成実も辞 廊の変遷︑片倉家の年中行事︑火事噴火地震などの天災関係︑民政関係︑金ケ瀬宿

せられす︑首服の儀あり︑既にして祝儀式三献のなかはに陣万一腰を出し︑成実言︑

場の移転の記録などが記されている︒原文は勿論伺読点もない草書体である(白石

此刀家伝の

重宝肌小

袖と号する也︑相構て武道怠な

く勇功を励し忠貞を致されよと

白石市史

(

問頁よ

印 頁 に よ る と 左 記 の よ う に 記 載 さ れ て い

懇に示され︑手自賜之云々︑重綱即戴之︑帯而一応之謝礼はかりにて答え詞はなく 退出す︑其後大坂御陣の節︑道明寺口にて右の万を以て敵四騎討取︑成実の前に行 て前時の事を述て謝礼元厚ふす︑貞山公開召及はれ︑重綱は礼節時を得たりと何あ

りて︑甚御称美被成下と云々

市史発刊に当つての史料篇内容解説l昭和必年

1

月│︑及び片倉代々記解題l白石

(

7頁よりげ頁ーによる﹀︒

此年月日不知

重綱

伏見へ登り慶長四年迄滞留す︑其聞に太閤股下秀吉公を拝し奉り

片倉家並びに日光

・ 東

照宮伝来の

小紋胴服二領

について

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