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茨城大学教育学部紀要(教育科学)42号(1993)183−196       183

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)42号(1993)183−196       183

ルソーr人間不平等起原論』に学ぶ人間の自然性と社会性 一登校拒否事象を捉える視座を求めて一

生越 達*

(1992年10月7日受理)

On the Essence of Homme de nature in Rousseau:

With a View to Understanding the School Refusal

Tohru OGOSE

(Received October 7,1992)

1.はじめに一問題設定

「登校拒否」という事象を理解しようとするとき,この事象には様々な、《要因》が絡み合ってい ることに気づかされる。そして,最近,この事象を単純に捉えすぎることへの反省が生まれてきつ つあるように思われる。

第一に,「登校拒否(school refusal)」という概念で括ることが,あまりに表面的な《現れ》

に基づいているのではないかという反省がある。登校拒否に陥る子どもたちは,それぞれ個性的な 存在である。したがって,登校しないというそれだけの共通点でもって,子どもたちを括ってしま うことが妥当か否かが問題となる。果して,登校拒否は一つの事象として取り扱うことの出来るよ うな問題なのであろうか。あるいは,一歩譲って,登校拒否は症候群としてなら捉えることができ るのであろうか。それさえをも否定し,まさにひとりひとりの個人として捉えるほかないと主張す る研究者もいる。いずれにしても,始めからある一定の枠を用意し,一定の色眼鏡をかけて捉える ことはできないはずである。登校拒否という《現れ》に基づくに過ぎないラベリングが一人歩きを することは,決して許されることではない。特に最近では,むしろこれまで典型的・中核的な登校 拒否児像であると思われてきた《過剰適応》型の登校拒否とは明確に区別される登校拒否,むしろ 従来の登校拒否とは反対の現れを持つように思われる無気力型・怠学型の登校拒否の増加を指摘す る研究も多い。もちろん,この小論においては,この二つの型の登校拒否の比較について論じるこ とは課題ではない。だが,登校拒否の内実を問うてみるとき,非常に異なった傾向性を備えた子ど もたちを含んでいるとすれば,登校拒否という枠組み自体が再考を余儀なくされることになろう。

さて,こうした登校拒否概念の動揺とともに,その呼び方についての疑問も生じてきている。こ の名称についての疑問は,最初,登校拒否児が本当に登校を「拒否」しているとはいえないのでは

*茨城大学教育学部学校教育講座教育学教室(〒310茨城県水戸市文京2丁目H).

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ないだろうか,という批判から生まれた。そして,さらに登校拒否児像の内包の広がりとともに,

その主張の正当性は増すように思われた。登校拒否のなかに異なった傾向性を持った子どもたちが 含まれている以上,むしろもっと無色透明な概念が用いられるべきではないだろうか,という主張 である。そして,「不登校(non−attendance)」という概念が選ばれた。こうした概念を用いること により,登校しない子どもたちにたいする早急な価値判断が留保され,しかも取り敢えずは登校し ない子どもたちを全て包含することができることになる。

第二に,登校拒否をそれぞれの子どもの抱える病理《現象》として捉えることに対する反省があ る。悪しき心理主義への短絡的な結び付け,個人病理への媛小化についての反省である。この反省 は,端的には,文部省が登校拒否を誰にでも起こりうる《現象》であると公式に位置づけたことに 示されている。学校へ通わない子どもであるからには《問題》児に違いないという色眼鏡を取り外 してみれぼ,そもそも,その子どもの欠陥や病理として捉える必要もなくなってくる。そして,む しろ登校拒否という事象を通して,家庭を捉え,さらには学校や社会を捉えなおそうとする方向性 が登場してくる。子どもという枠組みのなかに閉じられていた眼差しが,外へ開かれ,子どもたち をめぐる状況や環境へと向けられることにより,今まで見えなかったものが見えてくることになる。

あるパースペクティヴ(視点)に固執しているかぎり,まったく見えなかったものが,反転図形の ように,視点の変化により突然視界を広げられ,見えてくるようなものである1)。捉える側の眼差 しの変化が事象の現れを180度変えてしまうこともある。さてこうした第二の反省を突き詰めてい くと,登校拒否児は,現代の頽廃的な社会において,それに染まらずにいる優れた子どもたちであ るというところに辿り着く。例えば,渡辺(1983)は,現代のような学校状況においては,むしろ 登校を拒否することは「生物としての自己防衛」であり,登校拒否児は,思春期危機のなかで「盲 目的に追従してきた状況や価値観」に対して疑問を持ちはじめた「目覚めた子供」であると捉える

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D登校拒否児は,真に素直で真面目であり,決して未熟などではあり得ないことになる。あるい は登校拒否を通して学校や社会の在り方を捉え直そうとする研究も出てきている。

さて,第一の反省と第二の反省は連動して生じる事態である。学校へ通っていないという枠組み を外しておいて,ひとりひとりの子どもに目を向ければ,登校拒否児として括ってしまうことの限 界を感ぜざるをえない。そこで登校拒否という概念を再編成しようとする試みがなされることにな る。しかも,時代の流れとともに新しい型の登校拒否が現れる。すると,ますます,再編成の動き が促進されることになる。だが,一度登校拒否という概念を崩してみれば,実際のひとりひとりの 子どもたちはそれほど特殊な子どもには見えない。そこで,登校拒否に陥ったことは「致し方のな い」事態だったのではないかという捉え方が生じてくる。

それでは,「致し方ない」ということの意味をどう捉えたらよいのだろうか。すでに述べたよう

に,一方では,社会批判,あるいはより直接的には学校批判へと眼差しを向け変えるということが

あるだろう。だが,学校批判,社会批判がそれだけで一人歩きを始めるとしたら,それは果して登

校拒否事象への妥当な接近の仕方であるといえるだろうか。すでに,登校拒否事象の心理主義的解

釈,あるいは個人病理へと還元する解釈が一面的であることを述べた。だが,反転図形の比喩で述

べたように,今度は逆に外側の状況ばかりを眺めて判断するとするならば,再び一面的把握に陥っ

てしまうのではないだろうか。子どもの権利が現代社会の歪みのなかで押しつぶされている。例え

ぼ,確かにいじめ等の学校状況を契機として,あるいは偏差値偏重の社会状況を契機として,登校

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生越:ルソー『人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         185

拒否状態に陥る子どもがいる。このことは正しい。だが,子どもの存在をすっかり前提して,そこ に問いかけることなく問題を捉えるとするならば,心理主義的解釈と結局は同じ過ちを犯すことに なるのではないだろうか。たとえば,学校へ行くか行かないかは自分たちで「自由に」決める権利 があると自ら主張する子どもたち,あるいは登校拒否の発生を家庭教育の在り方に結び付ける捉え 方に反発し個性を許さない画一的な教育状況を批判する親たち,それらの主張は,これまで主流 だった捉え方にカウンター・パンチをくらわせるという意味,あるいはそうした主張をすることで 登校できない不安や混乱から抜け出し,心の安定を取り戻すという意味では重要であるとしても,

果して全面的な真理であるということができるであろうか。社会を批判するということは,同時に その社会を織りなしている一つの糸である家庭を批判することになるはずではないのだろうか。そ れをまるで自らの家庭は一方的な社会の犠牲者であるかのように捉えることは,そこに,自己存在 からの逃避・防衛が隠されているということができるのではないだろうか。もし,学校が加害者で あるとするならば,家庭もやはり加害者の一端を担っていることになるのではないだろうか。何 故,家庭だけがその責めから免れるというのであろうか。

したがって,「致し方ない」とは,社会や学校に問題を帰着させて済ますことではない。「致し方 ない」と認めることの意味は,人間存在の重さに耐忍することである。人が世界のなかにどうしよ

うもなく投げ込まれているという「現事実性(Faktizitat)」3)から出発することである。そしてこ のことは,実際には,一面的な捉え方に帰着させずに,常に全体構i造を捉えようと踏み止まること であろう。反転図形の比喩で言えば,常に反転する両面を眼差すことである。他者理解に関わる研 究者はこうした不安定な立場に立ち続けなければならないのである。

さて,この小論においては,こうした登校拒否の捉え方の問題の詳細に踏み込むことはしない。

なぜなら,こうした問題は,事象の表面に留まるかぎり解きえない問題だからである。社会が悪い のか,個人が悪いのかといった問題設定においては,既に述べたように,研究者の価値観がそのま ま反映してしまう可能性が高いのである。それぞれの理論づけは一定の枠を前提として行われる。

そしてその前提のなかに留まるかぎり,確かに,その理論は真理の一面を突いている。だが,その 一面的な捉え方に固執し,今見えてきている両義的状況を直視しないかぎり,その捉え方を抜け出 し新しいパラダイムに至ることはありえないのである。そこで,事柄から少し距離を取り,事柄の 根源・発生へと目を向けてみたい。

2.問題を捉える視座の提出

登校拒否事象を専ら社会批判・学校批判へと置き換える捉え方に限界がありそうなことはすでに 明らかにしてきたとおりである。「むしろ子どもが直面している学校状況にこそ不登校発現の要因 を求め」(渡辺,1983,p.28)ようとする立場の意義やある意味での正当性については十分に認めな がらも,その一面性を指摘せざるをえないのである。登校拒否の問題が偏差値教育,高学歴志向,

画一化,学校至上主義といった歪みを背負っているという現事実,さらには現代の技術化した日本

社会そのものの歪みを背負っているという現事実は否定できないにしても,このような問題点の指

摘のなかに登校拒否事象を解消してしまうことは妥当ではない。そして,社会批判・学校批判とし

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て捉えることが,そこにある種の逃避を内在させていることも指摘したとおりである。ひとりひと りの子どもに問題を帰着させてしまうことはできない。だが,どこにも《原因》を求めないと不安 に陥ってしまう。そこで,学校や社会に《原因》を求めて,安心しようとする。私はこの小論でそ

うした立場を克服しなければならない。

そこで,問題そのものを捉え続け,そこに耐忍し,そこから目を逸らさないために,社会と個人 との関係を捉えなおすことが求められるだろう。社会の在り方は個人の在り方と切り離せないはず である.だからこそ,個人の問題を社会的問題として捉えなおしたり,逆に社会の問題を個人的問 題として捉えることが可能となる。というよりも,正確にいえば,個人の問題は必ず社会的側面を もっているし,社会の問題は個人的側面をもっている。したがってまた,そのどちらかの捉え方に 帰着させようとすることは,限界を持つことにもなるのである。そこで,人間存在にとっての個人 と社会との関係にまで立ち戻って,考えてみることが求められるであろう。人間にとって社会とは 何なのだろうか。あるいはまた人間を社会から切り離すことは可能なのだろうか。社会を持たない 人間を考えることは可能だろうか。個性を発揮するということを社会との関係においてどう捉えた らよいのだろうか。個性とか自由といった人間らしさの根底にあると思われる性質は,社会のなか で生きることといかなる関係にあるのだろうか。個性にとって社会は「致し方のない」現事実なの だろうか,それとも個性と社会は共に求め合うようなものなのだろうか。

以上のような問いに応えることは非常に難しい。問いはあまりにも大きいからである。そこで当 小論においては,ルソーの思想に学ぶということに限定して,それも特に『人間不平等起原論』(以 下r不平等論』)を中心的に取り上げながら,そこから得られる示唆を求めていくことに止めたい。

3.ルソーのr不平等論』における自然と社会

ルソーは,『不平等論』において,自然と社会を明確に区別し,しかも自然状態を無条件に肯定し ているように思われる。それが最もはっきり示されるのは,一つの注において以下のように述べて いる箇所である。

人間は邪悪である。……けれども,本来,人間は善良である。……ではこれほどまで彼を堕落さ せたものは,彼の組成中に生じた変化と,彼の行なった進歩と,彼の獲得した知識でなければいっ たい何であろうか。人間社会を讃美したけれぼいくらでも讃美するがよい。それにしても,社会は 必然に,人々の利害がもつれるにつれて,人々が互いに憎しみあい,互いに表面的には尽し合い,

実際は想像しうるかぎりのあらゆる害をたがいに加え合うようにしむけているということはやはり 真実であろう。(pp.147−148)

ルソーは,自然状態の人間を善と捉える。そして,人間の歴史を自然状態から社会状態への移行

の歴史として捉えている。人類はその誕生のときは純粋な自然状態にあり,しかもそれはr不平等

論』の第一部で述べられているように,豊かな恵まれた状態なのである。ルソーは,自然状態から

社会状態への移行の過程を具体的に追ってゆき,そして純粋の自然状態から移りゆく過程を二段階

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生越:ルソーr人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         187

にわけて記述する。第一の段階(第二の自然状態,第一の社会状態)は,言語が発生,家族が成立 し,やがて未開民族において達せられていくような段階である。それは中庸の時代であり,「原始状 態ののんきさとわれわれの自尊心の手に負えない活動とのちょうど中間に位して,もっとも幸福 でもっとも永続的な時期」(p.95)である。だが,「忌まわしい偶然」(p.96)としか考えられない事 態により,第二の段階(第二の社会状態)が訪れる。そこでは,私有制度が確立し,そこに人間の 悪が始まる。不平等が発生し,社会契約によって法と権力が生み出される。ルソーは,社会が堕落

していく過程をこのように歴史を歩み直す仕方で記述する。

だが,ルソーの捉える人類のこのような発展過程には,一見するだけでも,いくつかの曖昧さが 存しているように思われる。そこで,この曖昧さを捉え直していくことにより,ルソーの思想を根 底で支えているものが何なのかを明らかにしていかなければならない。

第一に,自然状態についてのルソーの微妙な記述の仕方に目を向けてみよう.ルソーはr不平等 論』の序文において,自然状態を定義して,「もはや存在せず,恐らくは存在したことがなく,多分

これからも存在しそうにもない一つの状態,しかもそれについての正しい観念をもつことが,われ われの現在の状態をよく判断するためには必要であるような状態」(p.27)と規定している.自然状 態は人間にとって理念的な概念であるかのような記述である。自然状態から社会状態への過程を描

こうとし,社会が悪であることを経験的事実として捉えようとする一方で,そもそもの出発点であ る自然状態を実在するものではなく理念的なものと捉えているとしたら,それでも自然状態を人間 にとって根源的なものだと言うことはできるのだろうか。だが,ルソーの提起する自然状態は,理 念的・価値的であるとしても,まったく理念的・価値的であるとして実在性を奪い取ってしまうこ とを躊躇させる性質を持っているようにも思われる。この点については,多くの研究者が指摘する とおりである。

第二に,ルソーにおける自然状態と社会状態との関係におけるある曖昧さがある。というのは,

ルソーにおける自然状態は二段階にはっきりと区別されているからである。一つは,純粋の自然状 態であり,一つは未開民族としての自然状態(第一の社会状態)である。フィロポリス(博物学者

ボネのペン・ネーム)は,ルソーへの手紙のなかで次のように主張している。

人間のさまざまな能力に直接に由来することはすべて,人間の自然〔本性〕に由来するといわれる べきでばないでしょうか。ところで,社会状態が人間の諸能力に直接由来することは十分に証明さ れうると私は信じています。私はわれわれの著老に対して,社会の確立に関する彼自身の考え以外 の証拠をもち出そうとは少しも思いません。それは卓抜な考えであって,彼が論文の第二部でたい へん見事に証明したことです。だから,もしも社会状態が人間の諸能力から生じるものなら,社会 状態は人間にとって自然なのですの。従って,それらの能力が発達するにつれて,この状態を生み だしたことを嘆くのは,神が人間にそのような能力を与えたことを嘆くのと同じように無分別をま ぬがれないでしょう(p.201)。

この批判は,非常に妥当なものであるように思われる。例えば,人間の本性を捉えようとする哲学

的人間学においても,人間はあくまでも教育を必要とする存在であり,社会的存在として理解され

ている。またルソーが多大な影響を受けたと思われるロックにおいても,その主張する自然状態

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は,社会生活そのものを否定するものではなく,あくまでも市民社会との対比における自然状態で あった(ロック,1968)。ロックは人間の自然が社会的であることを認めている。ところが,フィロ ポリスの問い掛けに対して,ルソーは,「社会が人間種にとって自然なのは,老衰が個人にとってそ うであるのと同じであること,人民にとって芸術や法律や政府が必要であるのは,老人にとって松 葉杖がそうであるのと同じであることを,どうか忘れないでいただきたい。」(p.209)と反論してい る。だが,この反論は,フィロポリスの批判に応えたことになるのであろうか。

第三に,ルソーが人間の自然性を善と考えたことについても曖昧さが付きまとわざるをえない。

ルソーは自然状態の存在を認める点においてホッブスと一致する。ところが,その自然状態を善と みるか悪とみるかという点において,二人は全く反対の立場に立っている。もちろん,こうした相 違には,そもそもホヅブスの捉える自然状態がロック同様,ルソーの捉える第一の意味での社会状 態,つまり政府は未だ存在しないが,家族は存在するような状態を意味していることが関係してく る。だが,ルソーがホッブスを批判する際には,この点に関する曖昧さをぬぐい去ることが出来て いないように思われるのである。ルソーは,ホッブスを,「彼(ホッブス)は,未開人の自己保存の ための配慮のなかに,社会の産物であり,法律を作る必要を生みだした多くの感情を満足させたい という欲求を,故なくして入れた結果,まさに反対のことを言っている。」(p.70)と批判する。つ まり,ホッブスが自然状態を想定する際に,既に社会状態にあることを前提するという誤りを犯し ているという批判である。だが,そもそもホッブスにおいては,ルソーとは,自然状態の規定その ものが異なっている。また,ホッブスが自然状態を悪であるとすることへの批判の一つとしてル ソーが挙げる「憐れみの情(piti6)」,つまり「同胞の苦しむのを見ることを嫌う生得の感情」(p.7 1)が,はたして社会的状態を前提とした感情ではないのかどうかにも疑問の余地が残る。ルソーの ように動物の示す憐れみの情と人間の示す憐れみの情を同一視して構わないのだろうか。また,人 間が「自己を改善する能力(perfectibilit6)」を持つかぎり,あくまでも人間は動物と区別され,社 会のなかで自己を道徳的に完成させていくことを前提としているのではないだろうか。あるいはま た,そもそもルソーが,自然状態を善と見ること自体が,ルソー自身がホッブスを批判したのと同 じ過ちを犯していることになるのではないだろうか。善ということのうちにすでに社会が前提され ているようにも思われるからである。

以上のようにルソーには,何重にも絡み合った記述が見られ,その主張は首尾一貫していないよ うにも思われる。だが,一方ではこのようなルソーの,曖昧さを残した,時に矛盾しながらも述べ られていく主張のなかにルソーの主張の豊かさ,さらには真理性が隠されているという印象を受け ることも確かなことである。それでは,この一見して矛盾した主張をどの様に捉えたらよいのだろ うか。この矛盾した主張の皮相に留まっていては,そこにある統一的結論を導き出すことは出来な いように思われる。ルソーの思想に錯綜する,「両義性(曖昧さ)」,あるいはその時々の主張の「ず れ」を統一的に捉える視点はどの様にして獲得されるべきなのだろうか。ルソーの記述そのもの が,以上のような多様性を示しているかぎり,そこから何らかの統一的な意味を導こうとするなら ば,事象を捉える側が,ルソーの思索に含意されつつ隠されているところまで反省的に遡って,一 見した矛盾を貫く原理を見いださなければならないはずである。

さて,このようなルソーの思想を捉える一つの視点として,ルソーの思想をルソーという人物の

分裂した存在の仕方に還元する視点がある。そこではルソーの思想は伝記的に解釈されることにな

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生越:ルソー『人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         189

る。確かに,ルソーの用いる概念は,ルソーの内面によって色づけられ,したがってルソーの内面 の変化により,あるいは記述される場所によって,明らかにそこに異なった意味が含意されている ように思われるのである。特にルソーの思索は《客観的な》論理性よりもルソー自身の内面的な感 覚に基づいた記述の仕方になっている。確かにルソーは,常に自己から出発し,自己を問題としつ づけた思想家であるように思われる5)。

だが,ルソーの思索に豊かさが隠されているとするならぽ,それは,決してルソーの個人的問題 に留まることはないはずである。そこで以下のような捉え方が出来るように思われる。つまり,ル ソーの《内》にある社会と自然との関係に対する両価的感情は,ルソーの個人的な捉え方の問題で はなく,世界そのものが両義的であることから生まれてくるという捉え方である。そしてその場 合,人間は社会と自然の両義的状況のなかで中庸の道を生きるほかないことになる。重要なのは,

ルソーの指摘によって,人間にとって社会というものにも,あるいはまた理性や文化にも,両義性 が貫徹していることを知らされるということである。社会も理性も文化も単純に進歩という観点か ら捉えることには限界がある。社会状態の進展は,実はその裏にある否定的な側面を内在させてい る。それは,社会状態の進展と表裏一体の関係であり,都合よくこの裏面だけを否定することなど できないのである。ルソーは,フィロポリスの手紙への返事のなかで,社会状態化を老衰になぞら えているが,まさに,社会状態の進展とともに前進していると思っているそのことのうちに,実は 死へ向かっての後退が潜んでいるということをルソーは言いたかったのではないだろうか6)。ル

ソーの思索から学ぶべきなのは,人間の理性を絶対視するような人間中心的な考え方への反省であ り,彼の思索はそうした捉え方に風穴を開けるという意味をもっている。

ルソーは現代人にとっての社会の必要性を決して否定していない。少なくとも,社会化された世 界を生きなければならない人間にとって,法律や芸術や政府は,「松葉杖」として絶対に必要なもの なのである。しかも,ルソーの記述のある部分においては,社会がそうした必要悪に留まっている とは思われない側面が示されている。明らかに,ある側面,ルソーは,社会状態に魅かれている。

その極端な例は,すでに述べたとおり,社会状態の第一段階を「原始状態ののんきさとわれわれの 自尊心の手に負えない活動とのちょうど中間に位して,もっとも幸福でもっとも永続的な時期」で あり,「人間にとって最良の状態」(p.95)と規定していることにも示されている。もしルソーが,

自然状態を悪であり,社会状態を善として捉えているとしたならば,なぜこの社会状態の第一段階 をもっとも幸福で,最良の状態などと記したのであろうか。明示されてはいないが,ルソーは,こ の段階において生まれてくる社会関係を前提とした感情のなかに,ある人間らしい豊かさを感じ とっているのではないだろうか。確かに,そこでは嫉妬や,虚栄と軽蔑,恥辱と羨望が生まれる。

ここでは,人間相互のあいだの感情が忌まわしさを生み出す。例えば,侮辱が侮辱となるのは,侮 辱されたものがそこに「損害そのものよりも堪えがたい,自分自身に対する軽蔑を見てとったか

ら」(p.94)なのである。だが,嫉妬や恥辱はそれだけで独立に生まれてくるのではない。その裏に は,美の観念や恋愛といった「甘い感情」,「情熱のなかでもっとも甘美なもの」(p,93)が存在して いるのである。そして,ルソーは,未開人の「無関心さ」,あるいは「静寂主義」(p.212)を讃えな がらも,実は他者を前提とする感情の機微を誰より以上に豊かに感じとる人間だったように思われ る。ルソーの思想全体には,常に一体感への希求が流れているように思われるのである。

人間を理解しようとするような場合,一面的な理解は危険である。もちろん,論理的に言えば,

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相互に矛盾のない一貫した理解が《正しい》理解に思われるかもしれない。だが,人間理解につい てはそうはいかない。一面的理解に固執すればするほど,実はある価値観を前提とした理解に陥っ てしまうことになる。簡単に論理一貫して人間が説明されえたとき,それこそが恣意的な理解であ る可能性を孕んでいる。

ルソーが,自らの自然状態への憧れに固執して,人間の他の豊かさを全て否定しようとしている と捉えるならぼ,ルソーの理解も一面的なものであるとしてその豊かさを失うはずである。だが,

ルソーは,一見,多くの矛盾した記述をする。そして,ひとつひとつの言葉の意味が揺れ動いてい く。だが,今までの議論を踏まえるかぎり,このような揺れこそがルソーの思索の豊かさ,真理性 を保証しているということはできないだろうか。

もう少し,具体的に,自然状態と社会状態との関係について,考えてみよう。確かにルソーは,

その記述において,自然状態の優越に傾いた記述をしている。だが,ここから人間存在にとっての 社会状態の価値をすべて否定してしまうとするならば,それこそ,ルソーの思想の一面的理解であ る。社会状態は,確かに,必要悪として捉えられる側面を持つ。だが,同時に,人間の豊かさもま たそこにある。ルソーは,『エミール』においてはもはや純粋の自然状態を想定してはいないし,む しろ社会状態において,いかに個性を殺し歪めないように教育するかということに焦点があてられ ている。rエミール』においては,すでに『不平等論』におけるような自然状態と社会状態とのあい だの断絶は存在してはいないのである。ルソー自身の比喩を用いれば,社会状態において老衰をい かに遅らせるのかということを表立った主張としながらも,その主張の背後にはその老衰の時期に

こそ人間としての豊かさが試されるということが隠されているのである。

社会状態を否定することは出来ない。だが,その社会状態においてユートピアを描き,無垢な社 会状態を想定することもできない。個人が社会のなかで生きるからには 社会とのあいだに葛藤が 生じ,自らの個性が社会によって抑圧されることを免れることは出来ないのである。したがって,

ルソーの思想を一方的に社会に対して個人を絶対視するものであると捉えることが出来ないことに なる。個性を強調する余り,つまり自らの立場の正当性を強調する余り,現代社会をあげつらって みても,それはルソーの思想に従ったことにはならない。ルソーが第一に教えてくれているのは,

自然状態の絶対性でもなければ,その自然状態に回帰しようとすることでもなく,我々が自然状態 と社会状態との関係に引き裂かれながら,両義性に満ちた世界を生きているということである。

我々はこのような両義的状況のなかで引き裂かれながら生きているからこそ,人間としての豊か さ,つまりは人間としての個性を見いだすことが出来るのである.自然状態と社会状態との関係に 引き裂かれないような世界においては,個性という言葉さえ生まれえないはずである。そして自ら の個性にしがみつくことは自らの個性を押しつぶすことになる。自然や,社会や,とりわけ他者と のかかわりのなかでこそ人間でいられるのであり,まさに人「問」なのである。もちろんだからと いって,ルソーの思想が個性を社会のなかに閉じ込めうと言っているのでないことは明らかであ る.むしろ,ルソーの主張は直接的には逆のことを言っているのだから。

ルソーの記述する自然概念は確かに理念的・抽象的である。《現実の》自然状態とオーバーラッ

プしつつも,ルソー自身述べているように,可能態として記述されている。その意味では,第一の

自然状態と第二の自然状態は段階の違いというよりは,《現実》と本質との相違として異なったレ

ベルで捉えられなけれぼならない区別である。そして現実の自然状態は本質的な自然からの派生

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生越:ルソーr人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         191

態,この世界における現れだということになる。しかし,それにもかかわらず,常に自己は《現実 の》不透明さのなかに留まっている。そしてルソーが引き裂かれつつその両義的状況に留まってい ることが自然概念の両義性を生み出している。ルソーの思想における様々な二項対立,つまり合理 性と感情重視,経験の強調と理念的概念の提示,道徳性と欲望への忠実さ,孤立感の受入れと一体 感の希求等々は,ルソーが引き裂かれつつもそのことに耐忍していることを意味し,それは人間性 の本質をも意味している。

ここで,ここまでの考察を簡単にまとめておこう。自然状態を想定し,しかも社会状態に対して 優越させるルソーの思索には,表立った様々な矛盾が存在している。だが,この表立っている矛盾 が,ルソーの思索の深さを保証しているのである。なぜなら,ルソーの抱えるこの矛盾は,ルソー の社会状態と自然状態との関係に対する両価的な関係を示しているからである。ルソーが自然状態 を強調する背後には,社会状態への志向性が隠されている。もちろん,彼の置かれた時代状況やま た彼の存在の仕方が自然状態を強調するような記述の仕方を取らせたとしても,彼の思想を自然状 態ばかりに囚われたものであると考えることは出来ない。

さて,こうしたルソーの両価的関係は,第一義的には,ルソー自身の内面の問題であるように思 われる。そして,ルソーの記述や概念の規定の仕方がしばしば揺れ動くことからも理解できるよう に,ルソーの記述の仕方が密接にルソーの存在の仕方と結びついていることも確かなことである。

だが,こうしたルソーの両価性は,ルソー個人の問題として解消されえるものではなく,事象そ のものの性質でもある。つまり,事象が両義的であるからこそルソーの内部に両価的な捉え方が生 まれてきたと考えられるのである。人間存在の真理は,唯一絶対の真理ではありえない。真理は,

玉虫色の深みを持っている。ハイデガーによれば,真理とは第一義的には実存の真理である。つま り真理を捉えるものが社会のなかで世人化し,社会の常識に囚われることによって真理は隠される のであり,したがって真理を捉えようとする者の存在の仕方が,まずもって重要だということにな る。そしてこの意味でルソーは矛盾に正面から挑むことによって,真理を求めるべき態度に留まっ ているといえるだろう。また,次のような真理観も存在する。ビンスワンガーは,フランツ・マル クが青い馬を描いたとき,それは決してでたらめではなく,普遍的な馬的なものの本質を描いたの だという。さらに,ビンスワンガーは,次のように言っている。「ドストエフスキーが彼のr分身』

の中で描いた初期精神病は臨床的にはこのような形では決して生じえない種類のものでした。つま

り,ドストエフスキーは,臨床的あるいは自然科学的な意味で言えば,この精神病をまったくr描

き損なって』いるのです。ところが彼がこの作品の中で見ていたもの,表現したものは,精神医学

の文献の中には何処を探してもこれほどの的確さでもって記載されてはおりませんけれども,私た

ちの患者によってしばしばこれに劣らぬほど印象深く述べられることなのです」(1968,p.15)。ビ

ンスワンガーによれば,真理とは,事柄の現れを超えている。ここにおいて,ルソーが現実とも非

現実とも判断のつかないような仕方で,自然状態を描こうとしたことも理解できることになる。彼

は,自然状態の本質を描こうとしたのである。しかも,ハイデガーによれば,人間についての真理

を捉える際には,真理を捉える者の存在がそこに関わらざるをえないのである。つまり,人間理解

は自己理解を出発点として,また常に自己理解を含まざるをえないのである。その意味で,ルソー

の思索のなかに,ルソー自身の存在が色濃く反映していたとしても,そのことからルソーの主張全

体を意味のないものであると考えることはできないことになる。人間理解に関わる真理を捉える際

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には,論理的整合性に囚われすぎないことが重要である7)。

4.登校拒否事象から導かれる社会批判の再考

すでに触れたように,登校拒否という事象を通して社会や学校の様々な問題点を指摘することは 可能である。そして,社会や学校が少しでもよりよい方向へと変わっていくためには,この事象の 語りかけることに謙虚に耳を傾けることが重要であることも確かであろう。

だが,ここで繰り返し確認しておかなけれぼならないことは,人間は決して社会を離脱すること はできないという現事実である。人間が社会的存在であるということは,例えばシェーラーやゲー    o 激刀Cフレスナー,ロータッカーといっった哲学的人間学の思索について考えてみれば,人間存在 を根底で規定する事実として捉えられていることがわかる。ところが,すでに述べてきたように,

ルソーは自然状態を強調する。もちろん,ルソーの思想を単純に捉えることは出来ないのであり,

そこでルソーの主張の意味を捉えることが目指されたのである。登校拒否に関していえば,もし自 然状態への回帰が可能ならば,あるいは,そこまでは出来ないにしても,自然状態へと向かう方向 性が肯定されるならば,登校拒否児が学校を離れていくことをそのまま是認する,あるいはもっと 積極的に支援していくことがよいのかもしれない。だが,ルソーの思想はそれほど単純ではなかっ た。ルソーは,自然状態への回帰を可能だと考えているわけではない。彼は,ヴォルテールへの手 紙のなかで明示的にそのことを述べている。またルソーはエミールの教育においても,当時の社会 を否定するのではなくむしろ前提にして教育を行っている。つまり,ルソーは決して社会から逃避 しようとしているのではない。確かに,ルソーはエミールに社会の悪影響ができるだけ及ばないよ う配慮する。だが,社会の悪影響から守ることと登校拒否児に学校からの離脱を許すことは,全く 意味の異なる事柄である。家庭教師によるエミールへの教育において,エミールへの干渉は最大限 制限されていたとしても,むしろ社会の害悪が及ぼないよう見守ることに家庭教師の能動的な受動 性,つまり社会の悪影響が及ばないよう障害を取り除く能動的な働きが求められていたのである。

こうした能動的受動が社会の影響を最小限に抑えるのであって,登校しない状態を許容すれば社会 の影響を解消できるわけではない。それどころか,登校拒否児は,社会から離脱しても社会にどっ ぷり漬かったままであるし,さらには社会から離脱したことによって,隠された仕方で尚更社会に 縛りつけられることになるのである。

あるいはこの点については,次のような捉え方ができるかもしれない。すでに述べたように,ル ソーによれば,第一の自然状態から第二の自然状態への移行過程においては連続性を断ち切る裂け 目が存在した。「忌まわしい偶然」により,人類は第二の自然状態(半社会状態)への道を歩まざる をえなかったのである.だが,このことは同時に,一度その裂け目を通りすぎてしまえば,再びそ こを越え戻ることができないことを意味しているのである。

さて,以上のようなルソーの思想から何を学ぶことができるだろうか。これまでのルソーの思想 の解釈は登校拒否事象を理解する上でいかなる着眼点を与えてくれるのだろうか。

第一に,個人レベルでの問題と祉会レベルでの問題を明確に区別することの重要性がある。人類

は「世界(Welt)」に開かれた存在者である。したがって,「環境世界(Umwelt)」に閉じ込められ

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生越:ルソーr人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         193

た動物と異なり,いまだ実現していない理想に向けておのれを企投することのできる存在者である。

人間は「改善能力」を持っている。つまり,社会へ向けておのれの存在を投げ入れ,そして社会を 変革していくことのできる存在者である。だが,同時に,世界に開かれているということは,世界 から決して抜け出ることができないことを意味する。つまり,自らの存在を社会から切り離し,宙 に浮いた仕方で社会を批判することはおのれの存在を度外視した観念的な批判でしかないことにな

る。

もちろん,このことは登校拒否という事象を社会批判へと結びつけることの否定を意味しない。

登校拒否児を理解しようとする過程において,社会の問題点が浮き彫りにされるということはしば しぼ生じることである。しかし,そこで浮き彫りにされた問題点を,そのままひとりひとりの子ど もを理解し,そしてひとりひとりの子どもに対応していく際にそのまま当てはめようとする態度 は,果たして妥当であろうか。ここには,ルソーの社会批判,文明批判を,そのまま建前として,

あるいはスローガンとして,教育のなかに持ち込むことの危険と同じ危険が存しているように思わ

れる。

私が,登校拒否児を社会を批判する優れた子どもとして捉える見方にたいして感じる疑問も同じ ことである。確かに,登校拒否児の存在は,社会にどっぷり漬かってしまっている我々に,そこか ら距離をとり,社会を再考する視点を与えてくれる。社会の危機にこそその社会は社会として自覚 され,新たな一歩へと開かれていく可能性をもつことになる。だが,それは研究者としての眼差し であり,ひとりひとりの子どもよりは社会という枠組みを志向した捉え方ではないだろうか。子ど もの権利擁護としての社会批判の意味は十分に認めつつも,それは子どもに寄り添いつつ理解する こととは全く別の事柄である。

一部の登校拒否児たちは,自らの権利を盛んに強調する。第一に,彼らは,学校状況の劣悪さを 指摘する。いじめ,体罰,管理教育,偏差値重視,等々の指摘である。第二に,彼らは,自ら学校 へ行かない権利をもっていることを主張する。学校へ行きたい人は行けばよい。我々は,行きたく ないのだから,学校へ行くことを強制される必要はないはずである。我々は,学校で教わるぐらい のことは,自分で学ぶことができる。それどころか,学校なんかで学ぶことの何倍も意味のある勉 強だってしているんだ。彼らの主張は以上のようなものである。

だが,彼らのように早急に結論を出してしまってよいだろうか。彼らは,自分たちが非行少年た ちとは絶対的に区別されることを願う。学校へ行っていないからといって,非行少年と同じように 見られることは耐えられないと言う。だが,ここまで主張されるとき,彼らの主張に,ある逃避が 存在していると考えざるをえないのではないだろうか。社会を批判するとき,そして学校がその社 会の在り方によって色づけられていることを批判するとき,実は家庭や個人もまた同じ社会のなか にあることが巧妙に隠されてしまうのではないだろうか。自己の存在を特別視することは,自己の 存在を問わないことから生まれるのである。社会の在り方や問題が浸食するのが学校までで留まり 家庭や個人を冒さないと考えることは,あまりに都合が良い。社会の常識を批判しつつ,自らはそ の常識の上に立っているという矛盾,常識の上に立って常識を批判するという誤りを冒すことにな るのである。

自己への反省を遮断するような社会批判は地盤を失った理想主義的社会への逃避である。既に述

べてきたルソーの思想の両義性はこの点を明確に教えてくれているように思われる。登校拒否とい

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う事象を通して我々は社会を捉えなおすことを教えられる。だが,社会批判の眼差しをもって子ど もを理解することは,子どもに真に寄り添うことにはならないのである。教育は,個性に開かれな ければならないといわれる。とくに,最近では,個性を尊重した教育,個性を開花させる教育とい うことがしばしば言われる。だが,個性を尊重することはそれぞれの子どもの在り方に目をつぶる ことではありえない。現在の子どもの在り方をそれでよしとし,眼差しを社会批判へと逸らすこと ではないはずである。むしろ,子どもに自らが社会を変革する存在であると同時に,あくまでもそ の社会のなかに投げ込まれている存在であることを受け入れさせることが真に自らの個性に開かれ てゆくことを可能とすることになろう。個性の主張は自己を知ることから出発するべきである。個 性を強調する登校拒否児が,実際は社会の常識に染め上げられてしまっていること,しかも自らに とって都合のよいところだけを受け入れるような仕方で染め上げられてしまっていること,あるい は登校拒否児の親の会などで,しばしば見受けられる自己弁護iを基底とする主張は真に人が個性へ 開かれることと相いれない在り方である。

ルソーの思想から学ぶ第二は,彼の思想の包括性である。すでに述べたように,ルソーは自然と 社会との二項対立に引き裂かれつつも,そこに留まり続けた。つまり,表立っては自然状態にひか れながらも,すべてをそこに還元してしまうのではなく,常に自己へと問いかけ,自己に響いてく る事柄を「聞き取ろう」とした。ルソーは,事柄を対象化して「見よう」とする思想家ではなく,

むしろ事柄を自らのうちに引きつけ吟味しようとする思想家であった。ルソーが,憐れみの情を人 間の自然性の一つの特徴として捉えていることは興味深い。常にルソーにおいては,「自分自身の なかで生きている」(p.129)ことが重視された。すべてが自己のうちから生み出されることが重要 であった.このことは,ルソーがいつも事柄と対話しつづけたことを意味するし,「世の中の人々が 自分をどう見ているか」とか,「他人の立証」(p.129)に基づいて自己を規定することを拒否したこ とを意味する。そしてルソーのこうした自己回帰の態度が彼の思想が感覚的なものにひかれつつ も,そこへと還元されることなく,またもちろん対象的捉え方に還元されることもなく,両者のあ いだを揺れ動きつつも包括的なものに留まることを可能にし,ひいては自然の両義性,あるいは自 然と社会の二項対立に留まりつづけることを可能にしたように思われる。

登校拒否児を理解する際にも,常に事柄に問い掛け,そこに開示されてくることを聞き取ること が重要である。登校拒否という捉え方と不登校という捉え方,あるいは個人病理として捉える捉え 方と社会病理として捉える捉え方,確iかに両方の捉え方が可能である。だが,どちらの捉え方を選 んだとしても,すべてを理解することはできない。それは自然という概念が両義的だからである。

現実の社会のなかで登校拒否について判断を下すかぎり,どうしても自らの生きている社会が見え

なくなっている。したがってそこでの社会批判は不徹底なものでしかあり得ない。もちろん,だか

らといって登校拒否を個人病理と捉えて済ますことが社会への眼差しを持っていることにはならな

いことになる.そこで人間の自然(本性)へと戻って考えることが目指されることになろう。登校

拒否児を理解する場合にも,時にはこうした次元にまで戻ってみる必要がある。だが,現実の社会

のなかではこの自然の本質を捉えることは出来ない。そこでルソーはこの自然を,発生的・遡及的

に捉えることを目指した。だがさらにここで困難なのは,時間的・歴史的な遡及は十分ではないと

いうことであった.したがって,ルソーは単に原始状態へ発生的起源を求めるのではなく,根源へ

向けての,人間の本質に向けての遡及を求めたのだった。ルソーの捉える自然概念が抽象的概念で

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生越:ルソーr人間不平等起源論』に学ぶ自然性と社会性         195

あることは,自然概念の本質的特徴なのである。そして根源へ向けて問うことは,自己へ向けて問 うことが求められることを意味する。しかも,ルソーにおいて,この自然概念は最後まで解消しえ ない両義性の内に留まった。自然概念は最後まで憐れみの情を否定できなかったのである。登校拒 否を包括的に理解しようと思うならば,やはりこうした両義性を甘受する他ない。つまり,登校拒 否児の理解においても,包括的な理解をしようとするならば,最後まで両義性に甘んじなければな

らないのである。

1) この点については,例えばメルロ=ポンティの優れた思索がある。r行動の構造』, r知覚の現象学』,『見え るものと見えないもの』等で両義性の問題が存在論的な深さをもって論じられている。

2)渡辺の主張については,『子どもたちは訴える』や『児童精神科』に詳しく展開されている。

彼の捉え方は特に登校拒否の親の会等には大きな影響を与えたように思われる.

3)ハイデガーによれば,人間存在(現存在)を構成する一つの契機は「被投性(Geworfenheit)」である.つ まり,人間が選ぼうと選ぶまいと世界のなかへ受動的に投げ出されていることを否定することは出来ないの である。人間はこうしたどうにもならない「現事実性(Faktizit乞t)」の内に存在している。

4) もちろん自然(nature)には本性という意味がある。

5)ルソーの思想は,ルソーという存在と切り離された,つまり対象化された仕方での思想ではない。自己を問 うという不安定な地盤から思索し,自己を問わない安定した地盤に立つことを拒否する。この意味で彼の思 想は習慣化された積み重ねの思想ではなく,常に概念を問いなおしていく思想である。

6) ハイデガーは,人間を本来的に「死へと関わる存在(Sein zum Tode)」であると捉えている。

7) フィンク(1978)は,「思惟が思惟されたものを確定し保管しているような概念」である「主題的概念」と

対比する形で「操作的概念」の存在を主張する。それは以下のような概念である。「創造的思想家たちは,主

題的概念を形成するとき,別の概念や思惟範型を使用している。彼らは,全然対象的確定にもちこまない本質

的な主題的概念に向かって思惟している。彼らの概念による理解は,彼ら自身がまったく見極あることがで

きない或る概念領野,或る概念媒体のなかを動いている。彼らは,彼らの思惟によって思惟されていることを

樹立するために,思惟の軌道を媒体として使用している。このように哲学する思惟によって日頃使いこなさ

れているもの,哲学的思惟がそれによって貫かれているもの,といってもとくに考慮されることのないもの

を,われわれは操作的概念と名づける。この概念は一比喩的に語れば一ひとつの哲学の影である」(pp.2

6−27)。ルソーの自然概念も,それ自身明確に定義されることなく,少しずつ意味合いのずれを持ちながら用

いられている。もちろん,ルソーにおいては,自然概念が全く対象的に確定されていないわけではなく,その

意味では,純粋な操作的概念とは言えないかも知れない。だが,操作的概念に思想家の思索の秘密が隠されて

いるのと同様に,ルソーの自然概念も彼の思索を影で支え,深める働きをしているように思う。

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引 用 文 献

フィンク,E.1978.「フッサールの現象学における操作的概念」,新田義弘訳,(r現象学の根本問題』,晃洋:書 房,所収)

Heidegger,M 1984. Sein und Zeit , Max Niemeyer Verlag T蔵bingen, Austria

ロック,」.1968.「統治論」,宮川透訳,(『世界の名著27 ロック ヒューム』,中央公論社,所収)

ルソー,J.J.1962.(L),1963(中),1964(下), rエミール』,今井一雄訳,岩波文庫 ルソー,J.J.1972。『人間不平等起原論』,本田喜代治・平岡昇訳,岩波文庫

渡辺位.1983.『子どもたちは訴える』,勤草書房

渡辺位,1984.r児童精神科』,プレジデント社

参照

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