茨城大学教育学部紀要(教育科学)42号(1993)183−196 183
ルソーr人間不平等起原論』に学ぶ人間の自然性と社会性 一登校拒否事象を捉える視座を求めて一
生越 達*
(1992年10月7日受理)
On the Essence of Homme de nature in Rousseau:
With a View to Understanding the School Refusal
Tohru OGOSE
(Received October 7,1992)
1.はじめに一問題設定
「登校拒否」という事象を理解しようとするとき,この事象には様々な、《要因》が絡み合ってい ることに気づかされる。そして,最近,この事象を単純に捉えすぎることへの反省が生まれてきつ つあるように思われる。
第一に,「登校拒否(school refusal)」という概念で括ることが,あまりに表面的な《現れ》
に基づいているのではないかという反省がある。登校拒否に陥る子どもたちは,それぞれ個性的な 存在である。したがって,登校しないというそれだけの共通点でもって,子どもたちを括ってしま うことが妥当か否かが問題となる。果して,登校拒否は一つの事象として取り扱うことの出来るよ うな問題なのであろうか。あるいは,一歩譲って,登校拒否は症候群としてなら捉えることができ るのであろうか。それさえをも否定し,まさにひとりひとりの個人として捉えるほかないと主張す る研究者もいる。いずれにしても,始めからある一定の枠を用意し,一定の色眼鏡をかけて捉える ことはできないはずである。登校拒否という《現れ》に基づくに過ぎないラベリングが一人歩きを することは,決して許されることではない。特に最近では,むしろこれまで典型的・中核的な登校 拒否児像であると思われてきた《過剰適応》型の登校拒否とは明確に区別される登校拒否,むしろ 従来の登校拒否とは反対の現れを持つように思われる無気力型・怠学型の登校拒否の増加を指摘す る研究も多い。もちろん,この小論においては,この二つの型の登校拒否の比較について論じるこ とは課題ではない。だが,登校拒否の内実を問うてみるとき,非常に異なった傾向性を備えた子ど もたちを含んでいるとすれば,登校拒否という枠組み自体が再考を余儀なくされることになろう。
さて,こうした登校拒否概念の動揺とともに,その呼び方についての疑問も生じてきている。こ の名称についての疑問は,最初,登校拒否児が本当に登校を「拒否」しているとはいえないのでは
*茨城大学教育学部学校教育講座教育学教室(〒310茨城県水戸市文京2丁目H).
ないだろうか,という批判から生まれた。そして,さらに登校拒否児像の内包の広がりとともに,
その主張の正当性は増すように思われた。登校拒否のなかに異なった傾向性を持った子どもたちが 含まれている以上,むしろもっと無色透明な概念が用いられるべきではないだろうか,という主張 である。そして,「不登校(non−attendance)」という概念が選ばれた。こうした概念を用いること により,登校しない子どもたちにたいする早急な価値判断が留保され,しかも取り敢えずは登校し ない子どもたちを全て包含することができることになる。
第二に,登校拒否をそれぞれの子どもの抱える病理《現象》として捉えることに対する反省があ る。悪しき心理主義への短絡的な結び付け,個人病理への媛小化についての反省である。この反省 は,端的には,文部省が登校拒否を誰にでも起こりうる《現象》であると公式に位置づけたことに 示されている。学校へ通わない子どもであるからには《問題》児に違いないという色眼鏡を取り外 してみれぼ,そもそも,その子どもの欠陥や病理として捉える必要もなくなってくる。そして,む しろ登校拒否という事象を通して,家庭を捉え,さらには学校や社会を捉えなおそうとする方向性 が登場してくる。子どもという枠組みのなかに閉じられていた眼差しが,外へ開かれ,子どもたち をめぐる状況や環境へと向けられることにより,今まで見えなかったものが見えてくることになる。
あるパースペクティヴ(視点)に固執しているかぎり,まったく見えなかったものが,反転図形の ように,視点の変化により突然視界を広げられ,見えてくるようなものである1)。捉える側の眼差 しの変化が事象の現れを180度変えてしまうこともある。さてこうした第二の反省を突き詰めてい くと,登校拒否児は,現代の頽廃的な社会において,それに染まらずにいる優れた子どもたちであ るというところに辿り着く。例えば,渡辺(1983)は,現代のような学校状況においては,むしろ 登校を拒否することは「生物としての自己防衛」であり,登校拒否児は,思春期危機のなかで「盲 目的に追従してきた状況や価値観」に対して疑問を持ちはじめた「目覚めた子供」であると捉える
2)
D登校拒否児は,真に素直で真面目であり,決して未熟などではあり得ないことになる。あるい は登校拒否を通して学校や社会の在り方を捉え直そうとする研究も出てきている。
さて,第一の反省と第二の反省は連動して生じる事態である。学校へ通っていないという枠組み を外しておいて,ひとりひとりの子どもに目を向ければ,登校拒否児として括ってしまうことの限 界を感ぜざるをえない。そこで登校拒否という概念を再編成しようとする試みがなされることにな る。しかも,時代の流れとともに新しい型の登校拒否が現れる。すると,ますます,再編成の動き が促進されることになる。だが,一度登校拒否という概念を崩してみれば,実際のひとりひとりの 子どもたちはそれほど特殊な子どもには見えない。そこで,登校拒否に陥ったことは「致し方のな い」事態だったのではないかという捉え方が生じてくる。
それでは,「致し方ない」ということの意味をどう捉えたらよいのだろうか。すでに述べたよう
に,一方では,社会批判,あるいはより直接的には学校批判へと眼差しを向け変えるということが
あるだろう。だが,学校批判,社会批判がそれだけで一人歩きを始めるとしたら,それは果して登
校拒否事象への妥当な接近の仕方であるといえるだろうか。すでに,登校拒否事象の心理主義的解
釈,あるいは個人病理へと還元する解釈が一面的であることを述べた。だが,反転図形の比喩で述
べたように,今度は逆に外側の状況ばかりを眺めて判断するとするならば,再び一面的把握に陥っ
てしまうのではないだろうか。子どもの権利が現代社会の歪みのなかで押しつぶされている。例え
ぼ,確かにいじめ等の学校状況を契機として,あるいは偏差値偏重の社会状況を契機として,登校
陰