ミルの利潤起源論分析序説
その他のタイトル J. S. Mill on the origin of profits
著者 杉原 四郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 9
号 1
ページ 1‑16
発行年 1959‑04‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15604
(t he
g
s t of La bo ur )
に依存する﹂とにおいて論
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
he caus
e o f p ro f i ts )
を問題にしているからである︒
この節につづく二つの節︑すなわち第六節﹁資本家の前払 ここで利潤の原因というのは︑
︑
ル の 利 潤 起 源 論 分 析 序 説
杉
原
利潤の分量の大小を規定す
四
郎
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
古典学派の利潤論︑とくにその最高の理論家といわれるリカードウの利潤論においては︑利潤原因論がほとんどす
べてであって︑利潤起源論は見られない︑すくなくともまとまったかたちではどこにも展開されていない︑という事
情である︒ミルもまたリカードウ学派の一人として︑利潤原因論については基本的にはリカードウの所説に依存し
一八ニカ年に書き後に﹃経済学試論集﹄(‑八四四年︶におさめた
( 1 )
﹁利潤と利子について﹂の前半の部分はその努力の成果であり︑
r原理﹂第二篇第十五章の第六および七節の内容
( 2 )
は大体においてその要約である︒しかし﹃原理﹄においてはさきに見たようにそれを論ずる前提としてリカードウ
にはなかった利潤起源論がわざわざ一節を設けて論ぜられているのである︒
第一巻第五篇第十四章︵﹁絶対的および相対的剰余価値﹂︶においてミルの利潤起源論を吟味するにあたつてつぎのよ
﹁リカードウは剰余価値の起源には無関心である︒彼は剰余価値を︑彼の見る
ところでは社会的生産の目然的形態たる資本制的生産様式に内在する事象のように取扱っている︒彼が労佑の生産
性について語る場合︑彼がそのうちに求めるものは︑剰余価値の定在の原因ではなく︑剰余価値の大いさを規定す
労佑の生産力を利潤︵剰余価値とよめ︶の発生原因だと声高く宣言し
た︒いずれにしても︑重商主義者ーー彼等の立場では生産物の価格がその生産費をこえる超過分を交換から・すな
わち生産物をその価値以上に販売することから・導き出す
│
よりは一歩前進である︒とはいえリカードウ学派も
lまた︑問題を回避しただけで解決はしなかった︒事実上これらのプルジョア経済学者は︑剰余価値の起源に関する
焦眉の問題
( di e br en ne nd e F ra ge n ac h d em Ur sp ru ng e d s Me hr we rt s)
をあまりに深く探究することは極めて危険
(3
‑
だという︑正しい本能をもつていたのである﹂︒リカードウの死後利潤起源論が経済学者にとつていかに﹁焦眉の る原因にすぎない︒これに反して彼の学派は︑ うな学説史的解説をあたえている︒ つつそれの一そうの精密化を自分の課題とした︒
マルクスもこの点に注目し︑
r資 本
論 ﹂
ゆくことにしよう︒ でわれわれは︑第五節の説明を︑
( 4 )
問題
jになったかという事情についての説明は別稿にゆずるけれども︑この重要な問題をあえて正面からとりあげ
た第五節をとくにとり出して検討することが︑ミルの利潤論の研究にとつての︱つのポイントになるであろうこと
は︑以上の説明だけからも容易に理解されることと考えられるのである︒
と こ
ろ で
︑
このような重要な意義をもつているにもかかわらず︑第五節の叙述はきわめて簡単で︑第十五章の全
七節の中でも一番みじかい︒利潤起源論をあまりくわしくとりあつかうことは危険だという﹁本能﹂をミルもまた
このことは彼の真意を正確に理解することを非常に困難に もつていたことがその原因であるかどうかはともかく︑
している︒さらに︑第五節が簡単であることの︱つの理由は︑ それが﹃経済学原理﹄の第四版(‑八五七年︶におい
て﹁補足的説明﹂
a dd i t io n a l ex pl an at io ns
の一っとしてはじめて﹁挿入された﹂一節であるということであるが︑
のように後から追加された第五節における説明を︑
そ れ
以 外
の ︑
こ
つまり元来存在していた諸節における説明といか
関係づけてよむならば︑ミルの利潤論を全体として統一的に把握することができるか︑という問題がある︒そこ
l c﹃原理﹄の他の箇所におけるミルの所論との関係を念頭におきながらできるだけ
忠実にかつ丹念にあとづけることによって︑研究史上くりかえし論議されてきたこの問題の正しい解釈にせまつて
註
(1 )
ミルはその中でつぎのようにのべている︒
﹁われわれは今や最も完全な状態におけるリカードゥ氏の利潤論の明確な理解に達した︒そしてこの理論をばわれわれは真 実の利潤論の根底
( th e b as i s o n t he t r u e theory
o f p ro f i ts ) だと考える︒残されたなすべき仕事というのは︑なおそれ をとりまいているある種の難点︑実質的というよりもむしろ非常にみせかけの性質が強いがだからといつて全く根も葉もな いものとして斥けてしまえはしない難点をそれから除去することだけである﹂︒
M i l l ,
J.
S .
: E
ss ay s o n S om e U ns e t tl e d
ミルの利潤起源論分析序説︵杉原︶
の原因である
(t he ca us e of t he gains
o f c ap i t al i s ts )
﹂と考える常識論の批判からはじまる︒ミルによれば︑
うな考え方は経済の仕組みの表面だけをみているものであって︑
に観察するなら︑生産者がその商品の代価として得る貨幣は︑彼が利潤を得たことの原因ではなく︑利潤が彼にし はらわれる様式にすぎないことがわかるだろう﹂︒利潤の原因を流通過程にもとめる俗見をしりぞけて﹁生産者の はたらき﹂に注目する必要をといたミルは︑彼の積極的見解をつぎのように展開する︒原文は全部が︱つの︒ハラグ
ラ フ
で あ
る が
︑
し よ
う ︒
理解の便宜のため︑これを五段にくぎり︑更にその中を細分した上で︑
れるからであるから︑
問 題
の 第
五 節
は ︑
ミルの利潤起源論分析序説︵杉原︶
その全文を引用することに
﹁もしわれわれが生産者のはたらきを一そう入念
四
このよ
Qu es ti on s・ of o l P i t i c a l E
" s ̀ o
my
1844•
p .
98 .
末永訳ーニ八ー
' ̲ J L
.ヘ ージ
︒ (2 ) 第二篇第六および七節の叙述は第三篇︵﹁交換﹂︶第二十六章︵﹁交換が分配に及ぼす彩囲﹂︶の第三鏑﹁交換および貨 幣は利潤の法則に変更をきたすものではない﹂によって補完されているが︑ミルはそこでこの問題の一囮籾密な吟味にあた つて は
r試論集J
の中の﹁利潤および利子について﹂の参照をもとめている︒
M i l l ,
J. S .
: P r
i nc i p le s of o l P i ti c a l Ee
S 8
my
18 48 ,
Ashley•
sedition•
19 26 ,
p .
69 4. 一 戸田 叩 iE I 四三1ハ
ペー ジ︒ (3 ) Ma rx , K ・
ぃ
Da s K ap it al
I,
M‑ E‑ L I n s t i t u t , S .
541•
長谷部訳(青木版)第一部八一三ーー‘四ページ。
( 4 )
杉原﹁ミルの利洞論に関する一考察ーー'いわゆる監督役金論を中心として﹂盆堀博士編﹃ジョン・ステュアート・ミル研
究﹄近刊所収︶参照︒
﹁生産者または商人﹂にとつて利潤がそもそも存在するのは商品がコスト以上の価格で販売さ
﹁商品に対する需要︹ヨリ正確には有効需要ーー杉原︺ーー顧客̲ー市場こそが資本家の利得
• 五
﹁︵イ︶利潤の原因は︑労佑がみずからを維持するに必要であるより以上のものを生産するからである︒︵口︶農業
の資本が利潤を生み出す理由は︑人々の生育しうる食料が︑農具の製作その他すぺての必要な作業のための時間を
ふくめてその生育に要する期間彼等をやしなうものをうわまわるからである︒︵ハ︶これから出てくる結論は︑もし
資本家が生産物を自分のものにするという条件で労佑者達をやしなうことを引きうけるなら︑彼の前払を補填した
後になお若干を自分のためにのこす︑ということである︵以上第一段︶︒
︵二︶この法則はつぎのようにも変形される︒資本が利潤を生ずる理由は︑食料︑衣料︑原料および道具が︑それ
らを生産するに要した時間より永くもつということに存する︒︵ホ︶したがつて︑もし資本家が一国の労佑者に︑生
産物はすべて自分がうけとるという条件のもとに︑これらのものを提供するとすれば︑労佑者は︑彼ら自身の必需
品ならびに労佑用具を再生産する以外に︑資本家のために労佑する若干の時間をあますことになる︵以上第二段︶︒
︵へ︶かくして︑利潤が生ずるのは交換という事柄からではなくて労佑の生産力からであることがわかる︒︵卜︶.一
国の一般利潤は︑交換の行われると否とにかかわらず︑ つねに労佑の生産力によって生ずるのだ︒︵チ︶もし分業が
なければ売買は行われないとしても利瀾は依然として存在しよう︵以上第三段︶︒
︵リ︶一国の労佑者が全体として労賃より二 0 バーセント多く生産するなら︑価格の如何にかかわらず利潤は二〇
︒ハーセソトであろう︒︵ヌ︶もつとも︑偶然的な価格事情によってある商品が他との関係上自然価値より高くなり他
商品がひくくなるために︑価格がふたたび調整されるまでの間しばらくは︑ある生産者達は二
0︒ ハ
ー セ
ン ト
以 上
の
利潤をえ他の人々はそれ以下しかえない︑ということもありうる︒︵ル︶しかし︑彼ら全体に分配される利潤総額は
( 1 )
つねにちょうど二
0︒ ハ
ー セ
ン ト
で あ
ろ う
︵ 以
上 第
四 段
︶ ﹂
︒
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
このようなミルの所論を全体として特色づけるのは︑流通に対して生産を︑貨幣に対して実物を︑個別に対して
全体を強調する考え方であり︑
ら対立する考え方であるということができるだろう︒われわれはここで︑ミルの所論の具体的な内容に立ち入るま
このような︑ミルの考え方の基調が︑彼の全理論体系にとつてどういう意味をもつているかということ
え に
︑ ま
ず ︑
重商主義的譲渡利潤
( pr o f it up on l i a e na t i on )
論に真正面か
よくしられているように︑﹃経済学原理﹄の﹁静態論﹂の部分の構成は生産←分配←交換という序列をとつている︒
すなわち︑まず人間の意のままにうごかすことのできない生産の法則が一切の経済現象を最も基本的に制限するも
それによって規定された限度
(
l
百ぽ︶の内部で人為的制度的に
形成することの可能な分配の法則が展開され︵第二篇﹁分配﹂︶︑最後に︑その分配の法則が競争を通じて貫徹する場合
( 1 3
a ch in e r y)
としての交換の法則が説明される︵第三篇﹁交換﹂︶︒
結論は︑分配が﹁交換と貨幣の複雑なメカニズム﹂を通じて行われる場合にも︑ そしてこの交換論の
それを捨象して展開された分配の
法則は依然として妥当するというのである︵第三篇第二十六章﹁交換が分配に及在す影唇﹂参照︶︒﹃原理﹄が全体として このような構成をもっている以上︑利潤論において︑ミルが譲渡利潤論的見解に真向から対立することは当然であろ
う︒重商主義に対する批判についていえば︑ミルにおける重商主義批判の問題意識は︑その切実さの点でスミスの
場合と比すべくもないけれども︑﹃原理﹄はその序論において重商主義の貨幣形態にとらわれた個人主義的な富概念
を批判するとともに︑本論でもたとえば第三篇の第十七章﹁国際貿易﹂や同第二十五章﹁同一市場における諸国の
競 争
﹂ ︑
さらに第五篇第十章﹁謬説にもとづく政府の干渉﹂などにおいて︑﹁今日なお依然として購買者あるいは消 にとるところの
﹁ 機
構 ﹂
の と
し て
と り
あ げ
ら れ
︵ 第
一 篇
﹁ 生
産 ﹂
︑ ︶
つ い
で ︑
を問題にしなければならない︒ ヨリ具体的にいえば︑
六費者とは区別された販売者の経済学
( th e p o l i t i c a l e
co no my f o th e
器l l
i n g c l a 器
g )
ともいうべきものの基礎である﹂
( 2 )
重商主義の思想を検討しているのであって︑譲渡利潤論批判もこれらの所説との関連において読まれるべきもので
あろう︒しかしこの利潤起源論で批判されている流通主義的見解の中でミルが当面最も重要と考えていたものは︑
おそらくリカードウ体系へのアンティ・テーゼとして主張されたかの有効需要論乃至は過少消費説的見解であった
ろうと思われる︒﹃原理﹄は第一篇第五章﹁資本に関する根本命題﹂の第三節﹁資本の増加は労佑のための雇用の増加
をもたらし︑しかもそれには明らかな限界はない﹂において︑不生産的消費をきりつめることによって生じた余分の
蓄積は︑かくしてつくり出された資本が生産する商品にとつての市場が存在しない結果︑
るだろうと主張するマルサス︑
チ ャ
ー マ
ー ズ
︑
シスモンディ等の見解を批判して︑
消費者の不足ではなくて︑生産者および生産力の不足である﹂ことを力説しているが︑
商品の一般的過剰生産なるものははたしてありうるかという問題ー
̲ ̲
︑
ル に
よ れ
ば こ
の 点
にひびいてくるという意味でそれはこの学問にとつて﹁基本的﹂ にすこしでも意見の相違があれば経済学の理論のみならずわけてもその政策における立場の根本的な相違にただち
( 4 )
(f un da me nt al )
な意義をもつている問題点である
ー '
ー を
吟 味
し ︑
マ ル
サ ス
︑
ドウの立場を擁護するのであるが︑ミルの利潤論は︑本章︵第二篇第十五章︶第四節における平均利潤論ーー信用機
構を媒介とする円滑な資本移動を通じての利潤率平均化とそれにともなう自動的需給均衡化の主張ーー.といい︑今
ここで問題としている需要ー顧客ー市場こそ利潤の原因だとする説に対する批判といい︑
る利潤率は労佑費に依存するという主張ならびにそれをうけて展開される第四篇第四章﹁利潤がその最低限度に達
̀ `
` ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
給 の
過 剰
﹂ ︶
に お
い て
︑
七
同章第六・七節におけ 更に第三篇第十四章︵﹁供 ただそれだけの浪費に終
﹁富を制限するものは︑決して
チャーマーズ︑シスモンディに対して一般的過剰生産を否定するセイ︑父ミル︑リカー
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 賑
︵ 杉
厩 ︶
せんとする傾向﹂ーそれによつて市場不足が利潤率低下の真因ではないことがあきらかにされるーー'といい︑す
ペてこの両派の論争に密接な関係があるのであつて︑との点はこのミルの利潤論ひいてはかれの経済学の基本性格
を正しく理解する上に重要な意義をもつと思われるのである︒ミル経済学のこのような理論構成と問題意識とを念
頭においた上で︑以下彼の利潤起源論の積極的主張の吟味
I L
入ってゆくことにしよう︒
註
( 1 )
M i l l "
P d
5
ciples••
pp .
416 1
41 7.
戸田 訳口 三六 三ー ー' 四ペ ージ
︒
(2)Ibid••
p . 67 8.
戸田訳曰四0
九ペ ージ
︒
(3)Ibid••
p .
6 8 .
末永訳H
一四 三ペ ージ
︒ (4 ) Ib id ., p .
56 2.
戸田訳日ニー五ページ︒
前節に引用したミルの所論の第一段は︵イ︶︵口︶︵ハ︶の三つの文章からなっている︒まずその︵イ︶は︑労佑の生産
力がその労佑をささえるために必要である以上のものをつくり出すことができるほどに高いということが︑利潤が
そもそも存在する根本原因であることをのぺているのである︒これについてつぎの諸点に注釈を加えておこう︒
H
︑ルがここで問題にしている利潤は︑決して個別資本にとつての特殊な利潤ではなく︑社会全体にとつての一
般的な利潤である︒すなわち︑労佑の生産力によって生みだされるとされているのは︑第三段︵ハ︶の文章がしめし
の 表 現 を も つ て す れ ほ ︑ ているように﹁一国の一般利潤﹂
(t he ge ne ra l p ro f i t o f th e co un tr y)
なのであり︑あるいは︑同じ章の第七節の中
( l )
﹁一国のすべての資本家に利潤としてわかたれる総額﹂なのである︒
八
九
口︑ルが利潤の原因を生産力にかかわらせる場合︑生産力を労佑の生産力としてとらえている点が重要である︒
この点をョリ正確に理解するために﹃原理﹄の他の箇所から二三の文章を引用しよう︒﹁われわれはしばしば﹃資
本の生産力﹄という言葉をつかうが︑この表現は文字通りに正しい表現ではない︒世にある生産力は︑労佑と自然
( 2 )
要因の生産力のみである﹂︒ ﹁われわれは︑生産諸要件がわかれて労佑・資本および自然があたえる原料および原動
カの三つに帰することを知った︒これらのもののうち︑労佑と地中に含まれる原料とは︑根本的且つ不可欠な要素
( 3 )
で あ
る ﹂
︒
﹁すべて分量に限りがある自然要因は︑
自然を制御する力が増加すれば︑ その究極の生産力に限りがあるのみならず︑ その生産力の極限
に達しないよほど前から︑すでに需要の増加をみたすのに条件がますます困難となる︒しかしこの法則は︑人間が
ことに人間の知識が増大してその結果自然要因の性質や力を支配する力が増大す
( 4 )
れば︑停止せられあるいは一時抑制されるものである﹂︒
これらの文章からもうかがわれるように、ミルにおいては本源的な生産は労佑と自然ーーとくに土地・~との二
つであって︑後者は前者を客体的に基礎づけ制約するものであり︑前者は後者によって基本的には制約されながら
も後者の作用をどの程度に実現させるかを逆に決定するものは前者であるという意味では主体的積極的な性質をも
つているのである︒労佑の生産力の実現乃至は発展に対して資本と土地とがどういう関係をもつかについてのミル
の所論をョリくわしく吟味することは︑
が︑ここではただミルの生産論において労佑が右にみたような基軸的な意義をあたえられていることを注意するに
と ど
め る
︒
日︑ミルが利潤の存在を説明する場合に利潤にくらべてヨリ広義の概念である純生産物の存在からそれを基礎づけ
ミルの利潤起縣論分析序説︵杉原︶
彼の利潤論の究明にとつて必要であり︑ 後にとりあげなければならない
段階をもつてただちに利潤の発生原因そのものと同視するならば︑
れなければならないであろう︒ミルはこの点をどう説明しているか︒彼の利潤論についての︱つのポイントはここ ではないこともまた事実であって︑
ミルの利潤起源論分析序説・︵杉原︶ようとしていることは︵イ︶の文章からあきらかである︒ところで純生産物というのは総生産物から必要生産物を
差引いた剰余として広く一般に使用されている概念であって︑ミルも
r原理﹄では第一篇第十一章﹁資本増加の法
( 6 )
則について﹂の第一節でそれに関説しているが︑﹃経済学試論集﹂の第三論文﹁生産的および不生産的という言葉に
ついて﹂の末尾には一そうまとまったかたちで﹁純生産物﹂の定義がつぎのようにあたえられている︒
生産物とは︑年々生産されるもののうちで︑材料および用具のたくわえを損ずることなく維持し︑すぺての生産的
労佑者を生存させまた佑きうる状態にたもち︑彼等の数を増加させずにちょうど同じにしておくために必要なもの
を超過したすぺてのものである︒これらの目的すなわち一国の︹人的物的な︺生産的資源を維持するために必要なも
の︹すなわち必要生産物︺は︑
﹁ 重
﹁ 一
国 の
純
その国民を全体として貧困にすることなしにはこれをその本来の目的から転用する
ことはできない︒しかしこれを超えて生産されたもの︹すなわち純生産物︺は︑労佑者の手にあると資本家または
多種多様の地代所有者の手にあるとを問わず︑
ためにとりさることができるし︑
必要条件であることは事実であり︑ その社会の生産的資源に損傷をあたえることなくして直接の享楽の
このようにとり去られない部分はすぺて国民的資本または享楽の恒久的源泉に対
( 7 )
する︱つの純増加分をなすものである﹂︒このような意味での純生産物の存在が利潤の存在にとつての前提であり
この点の確認は︑第一節で引用したマルクスの文章ものぺているように︑
商主義者よりは一歩前進である﹂ことはたしかである︒しかしそれが利潤の存在のための必要にして十分なる条件
もし純生産物の存在乃至はそれを可能ならしめる労佑の生産力の一定の発展
それはあきらかに問題をすりかえたものといわ
10
ミルの利澗起源論分析序説︵杉原︶ 註 (1 M i l ) l :
Pr i苦 i p l e s . , p .
41 9.
戸田訳口三六七ページ︒
(2 )
Ib id ., p . 6 3.
末永訳日[‑三四ページ︒
(3 )
Ib id ., p .
10 1.
末永訳日二
0 1
︱ー ペー ジ︒ (4 )
Ib id ., p .
18 8.
末永訳日三五七ページ︒
(5 )
︑︑︑ルの生産力概念については﹃原理﹂第一篇のほか﹃試論集﹄第四論文﹁利潤および利子について﹂のぱじめの数節が参
照されるぺきであるが︑ミルはそこで﹁生産力としては労佑の生産力あるのみ︒もちろんその湯合それは道具によってささ
えられ︑原料に対してはたらきかける労佑の生産力のことなのだが﹂とのぺている
( M i l l :
E ss a y s. , p . 90 .
末永訳︱二0
ページ︶︒ミルが労佑を主軸として生産力を把握していることはこの文章からもあきらかである︒
( 6
)
M i l l :
P ri n c ip l e s. , p
p.
163ー
16 4.
末永訳日三一六ー│'七ページ参照︒
(7 )
M i l l :
E ss a y s. , p .
89 .
末永訳︱︱八ページ︒
(8 )
杉原﹃︑ルとマルクス﹄︱二八ーー一三0ページ参照︒
こ と
に し
よ う
︒
四一般に生産された剰余を問題にする場合︑われわれはこれを実物乃至使用価値形態でとらえることもできれば︑
価値乃至価格の次元でとらえることもできるし︑またこれを労佑時間の局面でとらえることも可能である︒そして
( 8 )
この点は剰余価値ひいては利潤の起源を正しくとらえる上に決定的に重要である︒
ルはこれを生産物のかたちでとらえていると解してよいだろう︒しかしこのとらえ方はそれ以外のとらえ方をゆる
さないような排他的な仕方で主張されているのだろうか︒もしそうでないとすれば︑
ういう風に関係づけられているのだろうか︒ に
あ る
︒
このような疑問を念頭におきながら︑ これはその他のとらえ方とど
︵口︶以下の文章へ眼をうつす ︵
イ ︶
の 文
章 に
関 す
る か
ぎ り
︑
る を
要 し
な い
︒
おこなうというのは︑仕事に必要な住居︑保護物︑道具︑原料をあたえ︑作業中の労佑者に食糧その他の生活資料
をあたえることである︒
奉 仕
で あ
る ︒
これらは現在の労仇が過去の労佑から︑および過去の労佑の生産物から要求するところの
このような用途にむけられるもの︑すなわちこれら各種の要件を生産的労佑に供給することになつて
( 1 )
いるものは︑何でも資本である﹂︒そしてこのような意味での資本は︑必ずしもいわゆる資本家の提供するものた
﹁あたかもささやかな小作農又は自作農がその土地の生産物によって生活する場合のように︑また
あたかも識人が自己の計算で仕事をする場合のように︑およそ労佑者がみずから自己のファンドで生存してゆく場
( 2 )
合でも︑彼らはやはり資本︑すなわちあらかじめ準備されたファンドによって維持されているのである﹂︒ミルの
資本概念には吟味を要する多くの問題がふくまれているが︑ここでは右の文章からもうかがわれるつぎの三点︑す
なわち︵イ︶それは貨幣としてではな<富としてつかまれてぃることヽ︵口)それは特定の生産関係にかかゎらし
( 3 )
めて規定されているのではなく超歴史的一般的なものとして規定されていること︑︵ハ︶その中には生産された生
産手段だけではなく生活資料もふくまれていること︑を注意するにとどめておく︒ ﹁
資 本
に つ
い て
﹂ 第
一 節
︶ が
︑
彼はその節で資本の具体的内容をつぎのように説明している︒ ﹁資本が生産のために
と に
し ︑
ミルの利潤起源論分析序説︵杉原︶H ここでは利潤が盟業の資本
( ag r i cu l t ur a l c ap i t al )
に関してとりあげられている︒農業については次項で見るこ
まず資本であるが︑
四
ミルによれば﹁資本とは再生産的使用にあてられる富のことである﹂ ︵口︶の文章で注目されるのはつぎの諸点である︒
︵ 第
一 篇
第 四
章
口(口)の文章が問題を生産一般ではなく特定の生産部門である農業ーー↓ての中でもとくに食糧生産ー~にしぼ
つてとりあげているのはなぜだろうか︒ミルはここでその理由を明示していないので︑前後の関係からこれを推測
する外はないが︑第一に考えられることは︑ この文章は純生産物したがつてまた剰余価値を生産することができる
のは農業だけであるとする重農学派の主張を意味するものではないということである︒前節で見たミルの純生産物
の概念が重農学派の純生産物
pr od ui t ne t
のそれを継承するものであることはいうまでもないが︑自然のめぐみに
依存する殷業においてのみ純生産物の生産が可能であるとする重農学派の実物費用論にもとづく剰余価値ー地代論
に労佑費用論と差額地代論とを主軸とするリカードウ理論の継承者であるミルがくみしえないこともまたあきらか
である︒﹃原理﹄におけるとくに重農主義と指定した批判は重商主義に対する場合ほど強くも明確でもないが︑
た と
えばつぎの文章はこの点に関するミルの立場をあきらかにしめしているといつてよいであろう︒﹁著述家の中には︑
自然はある種の産業においては他の産業よりも労佑に対してヨリ多くの援助を与えるものかどうかという問題を提
起 し
︑
これに答えて︑ある職業においては労佑がもつとも多くのものをなすが︑他の職業においては自然がもつと
も多くのものをなすといった人が幾人かあった。•…・・右のような奇想がとるところの通例の形態は、自然は工業よ
りも農業においてヨリ多く人間の努力を助けるという考えである︒
の経済学者がこれをいだいており︑スミスもまたこれの影響を免れなかうたものであるが︑これはもと地代の性質
( 4 )
に関する誤解から起ったものである﹂︒しかしだからといつてここで食糧生産が問題とされていることは単なる一
例としてあげられている以上の意味は全然ないと考えてよいだろうか︒わたくしはこの場合すくなくともつぎのよ
うな点がミルの所説の十分な理解の上に重要な意味をも︐つているのではないかと考える︒
ミルの利洞起源論分析序説︵杉原︶
このような考えは︑かつてフランスの重農学派
ミ ル
の 利
潤 起
源 論
分 析
序 説
︵ 杉
原 ︶
本稿第二節で説明したミルの問題意識からもあきらかなように︑
もしめしているように︑利潤の起源を正しく把握するためには交換や価格や貨幣といった流通過程の複雑な諸現象 を一応捨象して端的に富の生産という次元で問題をとらえることが必要であるというのが︑ミルの基本的な態度であ
る が
︑
このような視角からみれば︑
とくに利潤起源論を第三篇交換の前に位置する第二篇分配の中でとりあげる場 合食糧生産こそ問題の核心を最も明確にするに適当な部門であるということができるであろう
C
﹁工業においては︑総じて︑労佑者は直接には︑自分の生活手段も︑自分の生活手段をこえる超過分 も生産していない︒過程は売買により︑流通上のさまざまな行為によって媒介されているのであって︑
理解するには価値一般の分析が必要である︒︹これに反して︺農業においては︑過程が直接に︑労仇者によつて消費 された使用価値をこえて生産された使用価値の超過分となつてあらわれるのであり︑
マルクスものぺて
この過程を
したがつて︑価値一般の分析 をまたないでも︑価値の本性にかんする明瞭な理解なしにでも︑
( 5 )
料一般に還元されても︑把握されうる﹂という事情があるからである︒その上︑さきにみた︵イ︶の文章がしめし ていたように︑およそ利潤が存在するためには︑労佑の生産力がその生産過程によって要求される必要をこえて生 産することを可能にするような水準に達していることが必要なのだが︑
現存しなければならないという事情がある︒というのは︑ い
る よ
う に
︑
この生産力はさしあたりまず農業において これまたマルクスもといているように︑
﹁対外商業を捨
象すれば・・・・・・工業などで佑かされ、自立的に農業から分離されている労佑者・…••の分凪は、農耕労佑者がみずから 消費する以上に生産する農業生産物の分鼠によって規定されているということは明らかである。•…••かように、農 業労佑は︑それ自身の部面における剰余労佑のための自然的基礎をなすばかりでなく︑他のすべての労佑部門の自立
つまり価値が使用価値に遠元され︑使用価値が質
ま た
後 に
と り
あ げ
る 第
三 段
の 文
章 ︵
こ て
' ︶
︵ チ
︶
一四註 (1 ) M i l l : P r i n c i p l e s . , p . 54 .
末永訳
H‑
︱九ページ︒
(2 ) I b i d . , p . 58 .
末永訳
H︱二五ページ︒
(3 )
︵口︶の文章で食糧生産の主体が資本家ではなく﹁人間﹂
(h um an be in gs )
となっていることに注意すべきである︒
(4 ) I b i d . , pp . 2
5ー
26 .
末永訳日七一ー七ニページ︒
( 5 )
M
ar x: T he
01 ︑
i e n b u er den M
eh rw er t, Te i
! I•
D ie t z V er la g
19 56 , S. 1 2.
長谷部訳
H五ニページ︒
(6 ) I b i d . , S. 1 4. 長谷部訳
H五五ページ︒
なお﹃資本論﹂のつぎの箇所︑とくにそこで引用されているラムジーおよび>ヴンストーンの文章を参照︒
ミルの利澗起源論分析序説︵杉原︶
られるべきではないであろうか︒ この耕境における生産力の程度が労佑者と資本家と地主との間に生産物がどのように分配
( 7 )
されているかという現状をしめす﹁インデックス﹂であるとされていること︑これらの点がこの場合あわせて考え
marg in f o c ul t i va t i on )
︑
か く
て ︑
( F )
化のための︑したがつてまたそこで創造される剰余価値のためにも︑自然的基礎をなす﹂からである︒この二つの
事情はミルの場合だけに重要であるというものではなく︑
一五
の問題との関連においてミルにとつて重視されなければならない特別の事情として︑おそらく︑ミルの利潤概念が︑ 第四段の文章〔(リ)(ヌ)(ル)〕ー~それは利潤と労賃との量的な対抗関係を単純に主張するものであるーー・からもう
かがえるように︑剰余価値概念と明確に区別されていないということ︑ したがつてミルの場合労賃ー~彼のヨリ正
確な規定によれば「労佑費」ー~の変勁が直接無媒介に利潤率の変動にむすびつけられるということ、
Ma rx : D as
しかもこの
労仇費を実質的に規定する食糧その他の生活資料の大部分が収獲逓減の法則の支配下にある土地の生産物であり︑
労佑の生産力が自然の生産力との競争において到達した究極点としてのいわゆる﹁耕境﹂
(t he ex tr em e
一般に妥当するわけであるが︑食糧の生産が利潤の起源
源論の序論的部分に関する若干の考察にとどめる次第である︒ 以下とを媒介するものといつてよいであろう︒ とは︵ハ︶以下の展開に対する理論的前提であり序論であり︑
む す
び
ミルの利潤起源論分析序脱︵杉原︶
K ap i t al ,
I
S •
. 53
"
6.
長谷部訳H八0七ページ0ミルの﹃原理﹄もその﹁緒論﹂に*いて人顆史に*ける剰余生産物の成立
と発展の過程を野蕃状籐'~遊牧状態ー—晟菜状態という段階にそつて筒単に説明している。
M巳"Pri言iP-es.0
.PP•
10ー
12 .
末永訳H四四ー四六ページ参照︒
(7 )
M i l l :
P ri n c ip l e s. , p .
69 0.
戸田訳曰四三0
ペー ジ︒
以上で第一段の︵イ︶および︵口︶の文章についての吟味をおわったので︑
っ た
わ け
で あ
る ︒
つぎに︵ハ︶をとりあげる順序とな
︵ハ︶にいたつてはじめて﹁資本家﹂と﹁労佑者﹂とが登場し︑両者の関係を通じて﹁資本家の
分け前
(t he sh ar e o f th e c ap i t al i s t)
﹂としての利潤が問題とされるにいたるのである︒その意味では︵イ︶と︵口︶
︵ハ︶は第一段の結論であると同時に序論と第二段
︵ハ︶以下の分析はこれを別の機会にゆずり︑本稿は︑ミルの利潤起
(一九五九•三・一五)
一六