む す
び 6 rJ 4 3 9 ]
村年錬成所の終末 ヴィシーとレジスタンスのはざまで 青年錬成州の理想と視実 肖年錬成所の機構 青年錬成所の歴史 青年錬成所の誕生
青 年 錬 成 所
複数の青年連動
7ひよわで自叩落な青年﹂
はじめに
渡
辺
ヴィシー時代の青年運動ー—ー青年錬成所について
三五
和
子J
ノ イ
15‑‑3 ‑‑‑445 (香法'95)
動員を窺うことができる︒ よってなされた﹁一九四一年の収穫﹂はヽ
穫 ﹂
(ヴィシー政府の大臣となるブノワ—メシャンの本の閤名)は、
1 . i
ギ ︑
•Fr/ー一
‑ i
︱ ‑ ︳ ‑
﹁祈しいフランスの職人
( l e s a r t i s a n s ) で
ある
﹂ ポール・ボードゥアン総理府長官はリヨンの労働取引所で挨拶をし︑
ペタンは︑家族と労働と祖国を破壊する個人︑じ義を.掃し︑
共同で働くことを述べた︒
( l e s a t e l i e r s d e J e u n e s s e ) や﹁青年曲辰村センター﹂
( l e s c e n t r e s r ur au x d e J e u n e s s e ) での半年間の勤労を呼びかけて
いた︒ジャーナリストのアルフレッド・ファーブルーリュスは︑
仏独協力のシンボルとなったが︑
新しい﹇民共詞体のシンボルだと五叩った︒ ヽ
こも
'
ここ
青年屑の農作業への
一部青年の力に
フランス人捕虜の力を一部借りた
﹁一
九四
0
年の収真と農作業や鍛沿仕れや料坪を学ぶ
E1
年男女の
J l ナ
士具
を載
せて
︑
︱七
\二
□
歳のフランス人の青年に
﹁胄
年作
業場
﹂
また
︑ 青少年庁の柏宣部が発行した
□几四二年のリーフレットには︑
ペタン元帥とラミラン青少年庁長官が並ぶ冗
J
p r i t ' d e q u i p e ) を
壺い
︑
帥はラジオから青年に呼びかけた︒ぶ叶間精神L
( l ' e s
演劇
祭で
︑
ラミランはトゥルーズで︑ペタン元 社会を想起させる﹁職人﹂
9 9
の比峠を川いて訴えた︒
一九
四
0
年一
^一
月
□
九日に青少年庁が地力支部ごとに開いた青年
たし
︑
l . . .
i f
? p
.
↓1
]︶ ゞ
1
レジ
ュ
. n .
﹈4ー
; ‑ r
︱苫L口
j o
シ
︳ こ
︸
. ︑
︑‑
i
~J
・ペロルソンも︑
青年は
とヽ
伝統
国民革命の精神は青年連動をつうじて注人された︒
を窺うことができる︒ジョルジュ・ラミラン青少年庁長官は︑
それは国民吊命の真の推進者だ
Lと位憤づけ 四
0
年七月に設
P q直された
ー家族・青少年庁﹂
に ヽ
政府の意気込み
:九
四
0
年じ月に成立したヴィシー政府は︑は じ め に
﹁労働・家族・祖国﹂のスローガンに象徴される国民や命を掲げた︒ I I I J
︑
ii̲i/
15
—-
3 ‑446 (香法'95)ヴィシ一時代の青年連動(渡辺)
青年連動の実態を明らかにし︑ 九
:
1:一年にナチス・ドイツを出れていたフランス社会党吊命左派のダニエル・ゲランは︑
年の連動である
Lと報内していた︒
三七
とくに青年 ヴィシー政権下の
ーファシズムは本質的に青 ヽ隣
l E
ナチス・ドイツでもヒトラー・ユーゲントが疑似吊命性の中心となっていたことは周知の巾実であった︒
J o
7 <
かく
して
︑
~)こゞ、力
) t
ヵ
なかには即主職者もいた︒
ペタン元帥に熱狂的なカトリック教徒や軍人が多
青 年 の 教 化 組 織 と し て 一 九
四
0
年七月に︑﹁青年錬成所﹂ある
︒
r f L
の奉'什者としての役割が青年に期待された︒ヴィシーの青少年対策は︑
国民吊命と不即不離の関係にあったので
ヽ︑Jt フランスの復話や阿春いシンボルとして︑青年が動いされたのである︒ 1
新秩庁
L を創出する実働部隊︑
玉新
秩 つ
ま
﹁フランスの未来を代表する﹂ このようにヴィシー政府は︑
青年に大いなる閃心を表明した政体であった︒国民革命の達成のために︑青年のエネ ルギーを動員しようとした︒青年にフランス再興の望みが託された︒なぜなら︑青年は 老人支配
( G
e r
o n
t o
c r
a t
i e
) の川であった︒ ︵ペタン︶からである︒青年は杓さや生命力にあふれた春を表象した︒ヴィシー派にとって唾棄すべき第三共和政は︑
それは︑退嬰︑E義
( i
m m
o b
i l
i s
m e
) やデカダンスが似合う国であった︒
﹁フランスの仲間﹂
( C
o m
p a
g n
o n
d s
e F
r a
n c
e )
と
( C
h a
n t
i e
r s
e d
l a
J e u
n e
s s
e )
が設けられた︒その日的は︑祖国の崇拝と勤労の義務を教えること︑
弱にする主知主義にピリオドを打ち︑手仕事を行芙し︑
な青少年を有成するというものであった︒青年運動の指羽者には︑
ヴィシー政府の青年への眼芥しの附大と︑
民革命に奉仕することと教会の要求を満たすことに集中した︒
すなわち︑精神を柔 スポーツをつうじて明るい目とたくましい筋骨を持った健全 カトリック系スカウト連動のリーダーが︑伝統的価伯を教えこもうとしたのであ
青年連動の指祁者の思惑とが交差する︒指導者たちは︑国 このような比較ファシズム的視点をも認識しつつ︑
フランスの青年連動の特色を解明することを日的としている︒本稿では︑
本稿
は︑
15 ‑‑3 ‑‑44 7 (香法'95)
三五一人であった︒裁判に付正された者の総叶では︑一九四二年の時点で三万四七八一人おり︑このうちパリが三五 九四一年には四六六人︑
一九
四
0
年には二三八人︑実際間題として︑休戦直後には︑戦争やエクソダス
によって家族と離反し職を失った青年の道徳的退廃
すでにここに胚胎している︒ あ
る︒
それ
は︑
つまり﹁新しい酒を古い皮袋に﹂人れようとしたので
し)
ゎ
﹁享楽の精神が犠牲 間題とされた︒ く社会的責任や徳性を欠いているとげわれた︒スポーツを嫌い︑
タバコやアルコールに過度にふけるひよわな肉体が
﹁ひよわで自堕落な青年﹂
本誨にはいるまえに︑当時の青年がおかれていた状況を索描しておこう︒当時の若者は︑非愛国的であるだけでな ペタンも︑敗戦の原因をフランス人の道徳的脆弱さに求めた︒彼は一九四
0
年六
月一
1 0
日に
︑
不幸に際会したのである﹂ の精神に打ち勝ってしまった︒人びとは求めることのみ多くて奉仕しなかった︒人びとは努力を怠った︒だから今日
と述べていた︒そこで︑ヴィシーは宋教に道徳の指針を求めた︒ヴィシー体制は︑
ばカトリックの旧迅徳のうえに新秩庁を打ち建てようとした︒
﹁新しい酒は祈しい皮袋に﹂という聖内の教えに反するものであった︒ヴィシーの本質的な矛盾は︑
この
矛盾
が︑
ヴィシーを曖昧模糊とした体制にしたのである︒
︵大
脱出
︶
の問題があった︒復員した店者のうち九万︱
1 0 0 0
人が両親や家を失っていた︒たしかに少年犯罪はヴィシー期に附 加した︒戦前の一九三八年に一
00
0
人当たり一九四人の少年犯罪の率であったが︑
一九四一︳年には五三一人と増加の一途をたどった︒その後やや減少するが︑一九四四年でも 錬成所を取りあげて︑この課題に接近しよう︒ 三八
15 ‑‑3 ‑‑‑448 (香法'95)
ヴィシ一時代の青年運動(渡辺)
年は年長世代の過ちの犠牲者だと見なされた︒
三九 ﹁フランスの未来﹂を担う青年への支援を訴えた︒青
ヴィシー政府が誕生して約一カ月後の一九四
0
年八月一三日に︑ペタン元帥は国民に発した訓辞のなかで
﹁戦
争の
六六人を占めた︒
降で
︑
おもな犯罪は︑浮浪罪︑食品や燃料や金品の窃盗と盗品の横流し︑売春などであった︒
ペタンの青年運動担当顧間であったアクション・フランセーズ系のアンリ・マシスは︑問題を公民教育の問題とみ
てし
t
モラルの権化と言うべき教会は︑ダンスホールを非難しポルノ雑誌の流通を嘆いた︒そこで青少年の保護 という観点から︑学校近辺でのカフェの営業禁止や強い酒の飲酒禁止がアルコール対策として考案された︒
一六度以上のアペリティフの泊費を禁止したし︑火木土の週二回はアルコール自体が禁止された︒
ワインやアペリティフヘの課税とアペリティフの消費址の制限︑酒類販売店舗数の制限︑
アルコール中毒はヴィシー期に減少した︒
以上のようなアルコール対策はあったが︑少年犯罪は日にあまるものであった︒ヴィシー政府は少年犯罪の増加を
一九四三年に道徳的危機にある
f
どものための専門会議や青少年の再教育と救済のための協会を設けた が︑同様の目的を持って道徳的な規律を教える組織として早期に設けられたのが青少年組織である︒それでは次節以
その経緯を追ってみよう︒
複数の青年運動
犠牲者のなかで青年はとりわけ気がかりの的である﹂と語り︑青年の組織化について考えを述べていた︒彼は︑
しいフランスの希嗜﹂である青年の悲惨な境遇に同情を示し︑
﹁ 新 ペタンは︑参戦しなかった一九四
0
年兵に労働作業場が開かれ︑彼らまえにして︑ する情状酌情の廃止などがなされ︑ さらに ヽ
酪酎中の犯罪に対
年八月二五日法は︑
一九四〇
15‑‑‑3‑449 (香法'95)
外――‑‑ ・‑
だ 九 と 四 語 〇
っ ・年
た五;一ヽ.
0 ‑‑•
{ )
また彼は︑
、
ジ ェ ル リ エ 枢 機 岬 に
﹁青年の単一組織﹂
に 反 対 で あ る こ と を 再 保 証 し た
︒ ボ ー ド ゥ ア ン
じ要な青年糾織の代表と会見して︑
単 一 の 指 専 ド に さ ま ざ ま な 青 年 連 動 を 糾 合 す る こ と は 間 題
年組織は画餅に帰した︒ タ
ン は メ ッ セ ー ジ を 岱 せ て
︑ ボ ー イ ス カ ウ ト 連 盟 の な か に 連 合
・ 努 カ
・ 信 仰
・ 名 贅
・ 規 律 な ど の シ ン ボ ル を 見 い だ し
て阻えた︒
ドイツ刑じの単一い青年組織を志向する者もいた︒
しか
し︑
ペ タ ン も
︑ 既 仔 の 多 几 的 な 連 動 を 呪 屯 す る こ と を 保 訛 し て い た
︒ ボ ー ド ゥ ア ン 総 理 府 長 官 は は青少年間題の中心人物であった︒青少年庁は総即府の所管であった︒
その間にも︑ダルラン副首相の周間にいてドイツ型の青年連動をめざしたピュシュー内務大臣︑マリオン情報大臣︑
プロテスタントも自派の青年組織の独立を引んだし︑
ドイツ占領軍は占領地域での青年組織を繁じたので︑
41
1
▲1:
.
4 ー
︶.
ベ"
"
H‑
0
ーL
こうして槻仔の青年述動は公認されたが︑
カトリックも
リエ枢機卿が︑じ宰して執り行ったとき︑
而軍大佐が几帥の名代として︑
ラミランが政府代表として出席していた︒
ペ
連盟
が︑
巡礼の地ル・ピュイで一几四一年年八月
□九日の叩母被昇大祭を︑
教 爪 大 使 列 席 の も と に リ ヨ ン 大 司 教 ジ ェ ル
あった︒だから︑ スの店返りが始まる︑と告げた︒しかしペタンは︑既存のあらゆる青年連動は維持され︑それらの独自性は作用され︑そ
の 活 動 は 新 し い イ ニ シ ア テ ィ ヴ に よ っ て 鼓 舞 さ れ 拡 大 さ れ 完 成 さ れ る と 明 げ し た
︒ カトリック系の青少年組織はそのまま存続が許された︒
そして彼は︑
フランスの青年を た く ま し く て 心 身 と も に 健 康 な 青 年 に
︑ フ ラ ン ス 人 男 女 の 魂 を 高 め る と い う 使 命 に 備 え の で き た 青 年 に 育 て る と い う すべての運動体に要求した︒
カ ト リ ッ ク 系 の フ ラ ン ス
・ ボ ー イ ス カ ウ ト
I f l
民 吊 命 の 原 罪 が カ ト リ ッ ク 教 会 の 教 氏 に 大 き く 依 存 す る
以
L
︑多 様 な 青 年 組 織 を 容 認 す る ペ タ ン の 態 疫 は 灯 然 で
lS
詞じ努力を︑ に
森 林 や キ ャ ン プ 場 や 競 技 場 の 間 発
︑ 村 の
﹁青
年の
家﹂
の建設などの仕巾が与えられ︑
これらの作業によってフラン
四〇
J ‑450 (香法'95)
ヴィシ一時代の青年連動(渡辺)
)
>
J O
し
t
ソルボンヌの溝師であったモーリス・バルデーシュは︑
四 統一されたじ日年運動は一党制国家への庁曲であると述
qL
Ll
1
ド1
ロー
こ︑
‑︸
"
Li 4̀
︱
J i
ー ! l>
ドリオ派の機閃紙
~^•11.
^^•
t l
uミー/ell
は︑独伊の青年連動をモデルとした統一された青年連動を
t
張して のユリアージュ・グループも支持した︒
から非難を浴びた︒
した
︒ この声明は
ACJF
に伝えられ︑
c‑11
ル
.
モ
/
,ド
,
.'
の創始者のブーヴーメリなど 開かれた枢機卿と叶教と大消教の総会は︑
ー国民に奉什する統↓した青年団に賛成︒単一の青年組織に反対﹂
と声明
それでも教会は︑
青年連動の多几じ義を公式に表明する︒
一九四.年二月に自由地区で︑
また七月に占領地区でも
ベール・ゴルテ︑
農民青年団のシャルル・ニコのほかに︑
青少年庁次府のルイ・ガロンヌ︑
フランス青年カトリック行動団
( A C J F )
のアル
フランス・ボーイスカウト連盟からラフォン将軍︑
フラン /几四一年四月七日にラミラン行少年庁長官は︑
多様な
︑ ‑
︑
ら力にするカ
4 ,
枢機卿L
サリJ
ーシ
i
師も単
1の青年組織に反対で︑
フランスのプロテスタント教会連合の会長で︑
プロテスタント青年会議を率いたマルク・ブーニェ牧
一九四一年一
0
月にピュシ
L
ー内相と会談し︑家教運動は
f
を触れられないことを明
ピLシ1
ーは未来い政沿家を鍛えるために他のライバル組織を作ると腎告した︒
一ー
も全
体︑
E義的運動を批判した︒
このような
9ぷ教人の姿勢を支持する集団も生まれていた︒
青年組織を集めた青年全国評議会を開催した︒
そこ
には
︑ ス・キリスト教勤労青年
( J o e F )
総裁のジャンヌ・オベール︑
デュノワイエ・ド・スゴンザックなどがおり︑教会利益のロビー集団として機能した︒
ラミランやド・スゴンザックや
ュリアージュ幹部学校の このような青年連動への教会 の影郷げ力の強さは︑政府内でも権威的でかつ侃俗的な﹇民吊命をぷ向する︳派から批判された︒
このようなじ張は、対独協力じ義派の新間,ウ—ヴルし いかと恐れた︒ ナール枢機卿は︑ •L日J1Filこ、
‑ ︶ " "
VE
‑I '1
﹁1Ji
単一の青年組織の出現によって教会の影籾ドから青年が引き抜かれるのではな
ベルジュリ大使︑ジャン・マーズたちは︑
;フランスの仲間﹂を単一組織に変えるための策略を弄した︒
しかしリエ
1
s ‑
3 451 (香法,95)本節の最後に︑
ラミランが青少年庁長官に任命された理由を見ておこう︒彼は︑
っ て
︑
一 九 四 三 年 九 月 に 統 一 推 進 派 の ペ ロ ル ソ ン が 単 年 運 動 の 一 元 化 は つ い に 実 現 し な か っ た
︒
ペロルソンは︑
ぶご
同年六月に青少年庁次官となっていた︒
リ ヨ テ イ 元 帥 の 著 書 冨 付 校 の 社 会
一 九 四 二 年 二 月 に 辞 任 し て い た 多 元 派 の ガ ロ ン ヌ に 代 わ
を ︑
の青年糾織をめざして再編しようとしたが︑
ナ チ ス の よ う な 青
年 初 め に か け て 空 製 な ど の 戦 災 か ら の 住 民 保 護 を 日 的 と し て 公 的 に 設 け ら れ た
﹁国民の仲間﹂
( E
q u
i p
e s
N a t i o n a l e s )
一九四三年三月のラミランの辞任後に︑
単一の青年組織への一1一度日の動きが燃えあがった︒
一九四一年末から四
これに対して︑
マルセル・デアは
ーゾ
レ︐
~ー
l l
Lゥ
‑
Lリ・ド:こ﹈:ニー)
‑ i } V" "
i] II {i rl /‑
︱ 一 ︱
‑ l
のな
生よ
︑
︑
,1
J 国民的間題のなかに位置づける必要がある︒
ペタンは︑
しく攻幣された︒しかしペタンは︑
三月五日の開会演説のなかで︑
こ れ ま で の ヴ ィ シ ー の 青 少 年 対 策 を 次 の よ う に 語
その後も続く︒
はないラミランやド・スゴンザックやド・トウルヌミールは︑
った︒ヴィシー政府は既仔の青年運動を激励し︑祈しい連動を生みだし︑家朕を肉体的にも精神的にも支持したし︑
ア ル コ ー ル や 猥 褻 な 本 や 映 画
︑ 不 健 全 な 興 釘 を 煽 り た て る も の か ら 青 少 年 を 守 る こ と を 惜 し ま な か っ た
︒ 青 少 年 に 努 力や労働や英雄︑E
義 や 自 已 犠 牲 を 教 え て き た
︒ 今 や こ れ ら の 試 み か ら 教 訓 を 引 き 出 す べ き と き で あ り
︑ 青 少 年 間 闊 を
﹁青年連動の多様性は維持されるべきである︒なぜなら多様 フランスの精神的家朕の実竹的な多彩さに対応するからである﹂と述べ︑
を欲しないし︑単一の青年連動も惰まない﹂ことを繰り返し︑
体 な ど の 役 割 だ と 語 っ た の で あ る
︒
冗 帥 は さ ら に
﹁ 国 家 に よ る 青 年 連 動 青 少 年 の 公 民 的 で 愛 日 的 な 教 育 は 家 朕 や 教 会 や 職 能 団 かで︑単一の青年団と単一の政党がなければ貞の近代国家は存在しないと繰り返した︒
青年運動の組織形態をめぐる対立は︑ ベ
て
し)
たiY
゜
ピュシュー︑ベルジュリ︑
ア ン リ
・ マ シ ス に よ っ て 激
一九四二年三月卜句の国民評議会青少年委員会で︑
四 親独派で
1 ;'j 3・‑‑452 (香法'%)
ヴィシ一時代の百年連動(渡辺)
祝福されて誕生したわけではなかった︒
ユ将軍は次のように述べている︒
‑
jロ
ーこ
︑
L!Vl│
彼は友人で参謀本部副官から休戦直価の六月八︑
四 九日に召集された
錬成所の結成にいたる経緯について︑
指導者のド・ラ・ポルト・デュ
・テ
イ
青年錬成所の誕生
織で
あり
︑
た︒かれらは︑
これらの指導者は︑各組織の独立を咋屯し
︑i
‑
:T
i}
的役割﹂の影評を受けて︑
一九三二年に﹃技師の社会的役割﹄を著してペタンの注目を浴びていた︒この本に︑
ヨテイが序文を書いている︒そのなかでラミランは︑産業家は青年労働者に規律や建設的行動や位階的な社会秩序ヘ の従順さをとおして性格形成に関する軍事指祁者の考えを適川することを噌むと︑記していた︒
的役割の継続として徴兵制を考えていた︒青年に軍隊的編成と規律を施すことが求められたのである︒
リヨテイの影郷けを受けた軍人たちも第二次大戦前に︑社会間題を議論するクラブを作っていた︒そのなかに︑青年 錬成所の指導者になるド・ラ・ポルト・デュ・テイユ将軍や︑
隊将校のド・スゴンザックもいた︒
は青年錬成所の隊付き神父になった︒彼はデュ・テイユの友人であった︒
一元的な青年組織をめざした対独協力
E
義者とは見解を異にしたのである︒
青年錬成所
先述した多様な青年連動体の一
[3 ]
っとして︑青年錬成所は生み出された︒青年錬成所は︑
リ
ペタンも学校の教育 ユリアージュ幹部学校の創設者になるカトリック騎兵
スカウト連動に従事してきたドミニコ会のマルセルードニ・フォレスティエール
ヴィシーの主要な青年組 ヴィシーの公的制度であった︒錬成所は一九四
0
年七月三:日の法律によって組織されたが︑満場一致で15‑3 ‑‑‑453 (香法'95)
フー::,' コ ー
ゞ ︑
J L ・テイこ/
めら
れた
︒
錬成州い間題を考えた背景には次のような巾帖があった︒
一九
0
四年七月
□
日 に
︑
そこには青年団の規約も原理も日的も明ぷ\;れていなかった︒四
0
年九月半ばまでに
休戦協定にし
とも
あれ
︑
て施行されたが︑の団が嗣
の管帖下に結成される
六月に召集された青年はい
5 1 1
に動員解除されて民間人となり︑
一青
年団
L(
Gr
ou
pe
me
nt
s
de
J
e u
n e
s s
e )
に半年間釦人されることになった︒
この青年団が錬成所
(C
ha
t i n
e r s )
となるのである︒
この政令は法とし
三一日に公布された政令によって︑
彼ら
は︑
青少年庁 成されたが︑物賓不足のため服装もちぐはぐであったし︑窃盗なども多くて︑指雌者の権威の樹立と規律の阿復が求
・テイユは国防省に呼び出され︑晩
[I
/
に錬成所を公認する政令がペタン几帥によって署名された︒この間の政府内の政沿力学をつまびらかにしえないが︑ 一
九四
0
年兵を家庭に帰す政令を加帥に提出することを拒んだ︒
J^
; こ ー こ ゞ ユ
ふ
9
1 0
│
│ テ
をぶしたのである︒じ月一几日に闘軍大いが︑
錬成浙結成に一歩踏み出すべくデュ
・テイユをせきたてるが︑閤議は が貼閉したために︑閲議を通らなかった︒ヴィシー政府の閃係者は︑
ドイツ占領軍の不興を買うのを恐れてためらい
ストは修正を加えられたが︑
錬成叫が陸軍省と明確に鮎びついていなかったので︑
イバルネガレー初代青少年庁長官
七月:几日の最初いテキストには︑
労働作策場でのフランス人の川民的義務奉仕期間を設けるとあった︒
ヽーノーニ
こ ¥ : : : , I f " "
' 1 1
しえないフランスじ日年い受け皿としても錬成所は位叩
l t づけられた︒
備役将校の就職先として錬成所の幹部職が位附づけられていた︒
さらに徴兵制度が廃止されたために︑
軍事教錬を諜
でのキャンプ生活や公共巾路といった︑
後の錬成所の機構や力針が叫されていた︒
軍にとっても︑
動員解除された
f
と考えたが︑
翌日に陸軍大臣と会って︑
完全なイニシアティヴを仔えられた︒七月一
0
日に︑デュ・テイユは叶画案
を提出し承認された︒デュ・テイユの案には︑隊編成や都巾のよからぬ影秤から青年を逃れさせるための自然のなか 数千人の新兵の指揮を腔軍大臣コルソン将軍が彼に任せたがっていると間かされた︒
彼はこの使命は一時的なものだ
四四
l.1 :3 ‑454 (香法'95)
ヴィシ一時代の青年運動(渡辺)
の徴標である﹂ の
なか
でも
︑
面辰村生活の人間形成力L
面 ︶
と語られていた︒ が屯視されたり︑ 1農民の個性の淋
r n
は ︑四五
諸価値のより健全なヒエラルヒー
状認識があった︒
しよ
︑
そォ︷ペタンの﹁大地は嘘をつかない﹇という農本じ義と共嗚するものであった︒
パンフレット
こ︒
ここ
こよ
︑
t ( l
>
一九四一年の宣伝パ
彼は
︑
二
0
歳の"右人をこの種の役務につかせることを コロラリーと言いうる︒ 妻子をほっておいて︑ ーイスカウト連盟のイール・ド・フランス地方本部長を務め︑フォンテンヌブローの森ヘキャンプに行ってしまうという生活を送っていた︒
ウト運動の精神や機構が錬成所にも刻みこまれるのは︑
スカウト連動の即想と準軍事組織とを結びつけようとして︑
提案した︒軍務を離れた青年を嬰業や林業の現場に送って︑全体の利益になる仕事につかせようとしたのである︒農 ンフレットは︑錬成所の目的を失業対策においているが︑
それも日的の一 業
( a g r
i c u l
t u r e
) や林業
( s i l
v i c u
l t u r
は︑心身の修養e )
( c u l
t u r e
を弥く意識させたことであろう︒)
つであった︒それ以
t
に錬成所は︑
キャ
ンプ生活をつうじて同志的結合を打ちたて︑諸社会附級を融合させ︑都市と股村とを接近させる
F
段と位附づけられ 無秩庁な産惚文明と都巾化の波がフランス社会の対立を拡大し︑純朴な製村を危機に陥れたという現
このようなスカ
スカウト連動の長い経験を持っていた︒彼は週木には
このような青少年の窮状に︑
3 1
‑ 7
こ彼は打時五六歳で︑
一九
: ‑
0
年代にはフランス・ボができただろうか︒錬成所い初期のメンバーは︑
敗走して流浪し途方に付れた:九四
0
年兵からなったのである︒i " ‑
・テイユは心を悩ました︒
一九
0
四年兵の九
J j
ニ 000
人も動員解除された︒しか
し︑
会し︑仕
を再び見つけるという物質的労芳や心労に直向した︒両視を失いホームレスとなった佑者や︑交珀
i f
f
段のマヒ
ゆえ
に︑
ただちに故郷に帰れない杓者もいた︒占領地区出身の村年を︑境界線を越えてどうやって送り返すこと
たの
で︑
多くの者は住居を再獲得し︑
さまよう家族と再 たがってフランス軍は解散された︒ドイツ軍が秩庁の維持に最低限必要な︱
o j j
人の軍隊しかフランスに認めなかっ
15‑‑3 ‑45:i (香法'95)
第二期は︑ダルランのヴィシー期に当たる四一年二月から四二年四月までの時期である︒錬成所は常設の制度とな り︑原理も摩きがかけられ︑国民革命の精神をもっとも体現した時期である︒錬成所の発展期であり︑約一
0
万人の隊員を数え︑
五一ーの団があったときである︒この時期のカルコピーノ国民教育大臣のもとで︑デュ・テイユとラミラ
ンとテラシェール︑
あっ
た︒
果が
︑
オリンピックの元テニス選手ボロトラは省内の四課を占め︑
しかし︑政府内の対独協力派から青年運動の統一に向けた圧力が弥まる時期でもあった︒
第三期は︑ラヴァルの再登場からドイツ軍によるフランス全土占領までの四二年四月から四二年一
四一年一月一八日の法であった︒ が︑青年に勤勉さや社会性や祖国を教えこみ︑ 2
青年錬成所の歴史 青年錬成所の歴史は五つの時期に区分することができる︒第一期は︑
の組織化の時期である︒手さぐりの状態で組織化を進めてきた錬成所が︑
をおろす時期である︒
張し
た︒
四一年一月の法によってフランス社会に根
しかし錬成所は︑軍隊的組織へと発展する芽を持つがゆえに︑
活の厳しさに苦柏を奇せたし︑
ドイツ国防軍の疑惑の日につね にさらされていたし︑食糧や物行の不足︑隊員による窃盗と横領などは︑批判の的になった︒親たちは︑
キャンプ生
キャンプがドイツの兵役センターになるのではないかと恐れた︒このような抗議はヴ ィシー政府をも動かし︑政府は錬成所に対する視寮や調在を増やして︑デュ・テイユに説明を求めた︒
0
月には︑錬成所の解散すら政府は考えていた︒デュ・テイユは︑錬成所が軍隊と一線を両すべく努めたし︑錬成所
かくして四
0
年︱一月に︑
フランスの将来の幹部を作り出すという教育的任務を達成しうると︑E
アンティジェール陸軍大臣の支持と青少年庁長官の保証を得たのである︒この結
ドイツの勝利には中立的か反対かで
一月の時期であ
一九
四
0
年一九
四
0
年八月の誕生から四一年一月まで
四六
lS ‑ :1 ‑‑4S6 (香法'9S)
ヴィシ一時代の青年運動(渡辺)
かく
して
︑
︱ ‑
0
歳のすべての青年に参加が義務づけられた︒四七
訓錬期間は六カ月から八カ月に延ばされ︑
青年錬成所
この一月i八日法で召集に応じない者は︑五年の禁固と
1 0
0 0
フランの罰金が課せられた︒ は常設の国の制度となった︒その目的は︑これによって︑
いわば試行期間が終わり︑
錬成所
第一期生の半年の訓純期間が終了する一九四一年一月に︑ 3 成所での義務奉仕を免除されていたし︑四ー炉年じ月にはユダヤ人が排除され︑風向きは変化していた︒ 力政策に加わるように錬成所に圧力がかけられたときである︒すでに四二年一一月には︑ドイツで一年間働いた者は錬 る︒ラヴァルの復帰とともに錬成所は︑国民教育省の管轄ドに移り︑新たな方向づけがなされた時期である︒対独協
第四
期は
︑
第五
期は
︑
四二年︱一月から四四年一月までの時期である︒錬成所は存続したが︑
四四年一月の瞥察国家の成立から解放までの時期である︒
フランス人青年をドイツで強制労働に従事させる政策に反対したという理由でドイツヘ追放さ 青年錬成所の機構
その方向性や生存についての不 四四年一月四日にデュ・テイユ将軍はドイツ
ニカ月の期間延氏と連動の義務化を決める法が通過し た︒この一月一八日法は︑錬成所に安定した性格をもたらした︒
とで
あり
︑
﹁全階級が融合したフランスの青年に道徳的で男性的な教育を補足するこ
その教育が同じ国民的い念の熱情のなかで結ばれる健仝で誠実な指導者と人間を創ること
L
であった︒
総本部は国民教育省と青少年庁に結びつけられた︒臨時の総本部がクレルモンーフェランにおかれたが︑正式の可令 れた︒こうして錬成所は終局を迎えるのである︒ 軍によって逮捕され︑ が問われたときであった︒ 確実性が増大した時期である︒
一九
四
] .
年.日月からドイツでの怖制労働徴川が始まり︑1
錬成所はそれに従うのか否か
15‑‑‑3 -~457 (香法'95)
からなった︒隊は自身のキャンプを持っていた︒ 地の干拓などの全体的な作業に従事した︒ に
前進
﹂
の名ではなくて︑
軍隊や中間やカトリックの英雄を守晶叩人とした︒
︱つの隊は:九
0¥
︱ 1
0 0
人 ほ ど の 隊 員
ロフン ヽジャンヌ・ダルク︑
7^iぶ
一人
川 ボナパルト︑ジ
1 部が管轄する団の数は︑四七\五二であり︑団員は約二
0
万人に逹した︒おのおのの団は︑革命家や共和派や芸術家
こよ
︑
9_~9_
労働係・職員係・保健係・教介係・連輸係・社会係・川祭係というじつの行政組織がおかれた︒
パつの地力本 プロテスタントー名と
. .
名のカトリックの隊付き牧師や神父︑
‑^ダ名の似者と/名の歯科似と薬剤師がいた︒
団のなか
1 4 ] パ
00
人の団員を擁した︒たとえばい山:一じ団には︑
︱じ
00
人の団員に対して︑可令官と四人の補佐と几人の助‑]︑
自由地区の地方本部には軍隊の連隊に相甘する八から一
0
の[ (
g r
o u
p e
m e
n t
) が
あり
︑
︱つい団は約
□九
00
から
河川森林賓源局の監督官てあった︒ 件などを監督した︒錬成州の幹部は軍から︑ モンペリエ︑
ーズにおかれた︒各地
j j
本部は︑地域の錬成所と接触を保ち︑衛生・食巾・住居の状況や労働条件や迅徳的涵長の条キャンプ地は河川森林資源いから供給された︒デュ・テイユの父親は︑
ッフル︑フォッシュ︑ペタンなどの軍人の名を取ることが多かった︒またおのおのの団は︑二つねにフランスを
L
ロ 日 的 を め ざ せ
﹂ な ど の ス ロ ー ガ ン を 持 っ て い た
︒ 同 一 地 域 の 作 業 場 に あ る 団 は
︑ 森 林 の 間 墾 や 柏 林
︑ 沼 この団は︑軍隊の中隊に甘たる七から一︱一の隊
( g
r o
u p
e )
から構成され︑
キャンプはテントや組立式の小屋であった︒隊のキャンプはわざと
の組織を持った︒地灯本部市務いは︑
アル
ジェ
︑ ク レ ル モ ン フ ェ ラ ン
︑
リヨ
ン︑
マルセイユ︑
︑
,J
レJ ー
員課
︑ 新間・冗伝課の五つの課があった︒
北アフリカに
つと自由地いに五つの地方本部が設けられ︑
総 本部と同様
六七四
0
人を組織していた︒総本部長には︑デ
こL
・テイユ将軍がなった︒総本部には︑
庶務
課︑
労働
課︑
保 健 課
︑ 職
>よ
︑
立ロ ー
一九
四
0
年1 0
月からピ上イードードーム県のシャテルーギュヨンに設けられた︒
︶七
寸片
"で
︑
こ0廿lハ
錬成所は八
J j
四八
15 ‑:-\~458 (香法 '95)
ヴ ィ シ ーfL『代の青年連動(渡辺)
0
人と
なり
︑
デュ
このなかには六二人の隊付き咆職者もいたが︑
ほとんどがイエズズ派であった︒
四九 彼らのために︑祖国
{ L
よ ︑
.︱
フィ
:︵
運動の成功は指祁部の質にかかっていると考えた︒
一九
四
4・年:一月までに常任スタッフは四
0
四 執り︑労働や食糧に責任を負い︑ この班長会議を鉦日主宰したのが隊長である︒が生まれることが期待された︒
そこでは一日の反省や翌日の活動についての話し合いのほかに︑隊 どに費やされた︒こうして︑労働と娯楽をともにする連幣的な共詞体が築きあげられることになった︒﹁仲間精神﹂
また隊長会が毎週︑団長によって開かれた︒
キャンプの視察を行った︒ 長教育の実施や育成などが話し合われた︒団長たちは月に二詞︑会合を持った︒
団長は四
0
歳代であり︑団の指揮を
ここでは行政や機構の間題のほかに︑班
員の心身状況も報告された︒行動は班単位の共詞行動として行われ︑一日の半分は労働に︑
他の半分は体育と学苦な
スを経て作り出された︒一般隊員の日灯は•五フラン、班長は三フランであった。 ﹁大地への阿帰L
というヴィシーの農村的フランスのノスタルジーと
ニニ\二八歳の数歳年長の隊長がいた︒隊長は二\三年を錬成所の助手として過ごし︑
施に責任を負い︑体育や展乾会や余暇を指羽した︒隊は一
0
の班
( 3
u ip e )
が集まって形成された︒したがって︑
﹁おのおのの班が眠りの場︑合流の場︑食事の場︑学びの場︑集いの
場であることを望んだ﹂︒班には同年令の班長がいた︒錬成所のリーダーは︑若くて自発性に富むという条件を満た
す見習士官学校の生徒から︑E
要にリクルートされた︒班長は︑最初の四カ月の間に選抜されて数週間の特別投成コー
かまど﹂と位附づけられた︒デュ・テイユは︑ 錬成所の基本単位は︑-:~\:lL人からなる班である。
この
班こ
そ︑
錬成所の生祈と労働の統合がなされる
﹁真
の つの団には/
00
以卜り班があった︒
間に各地方本部ごとに
つの割で組織された相打者汎成学校で:年間の課程を修了した者がなった︒
隊長は労働の実
共鳴していた︒
隊に
は︑
都会から離れた場所に設けられた︒
しよ
︑
そ
ti
その
15 ‑‑3 ‑‑459 (香法'95)
錬成所は︑デュ・テイユ将軍個人に依拠した組織であった︒錬成所は︑軍とスカウト運動の影籾を大きく受けてい る︒錬成所がスカウト迎動の影翌を受けていることは︑自然のなかでキャンプ生活をし︑
いやコーラスなどを
F T c 視しているところに表れている︒錬成由の新人隊員は 動の模倣である 実際には︑錬成所は軍事糾織や準軍巾組織にはなりえなかった︒デュ・テイユ将軍も︑錬成所の即時解散をもたら
ただ︑指導者に軍出身者が多く︑ すような武器の隠胴による錬成所の正規軍化の試みに正式に反対した︒ドイツ軍は︑もちろんそれを許さなかった︒
その影評が刻印されたことは否めない︒錬成所の日常生活のなかに︑行進︑敬礼︑
4 •神学校学生・初等教師であった。指導者には無私が求められた。なぜなら、デュ・テイユ将軍はペタン元帥と詞じく︑利他︑じ義や徳性の衰退とエゴイズムと欲惰の経延に欠陥を見たからである︒視
され
た︒
しかしデュ・テイユは︑指項者は個人にとどまるべきであり︑
青年錬成所の理想と現実
た︒最下級の幹部は二般隊員から選ばれた︒
五い
きフ
ラン
ス﹂
と呼
ばれ
︑
ティヴは咋
義国の指導部との相違を弥調した︒されるべきことを語って︑全体︑
f n
Eキャンプファイアや夜の集
スカウト連
ー備えよつねにL
が迎動のモットーだと教えられた︒軍の影臀は日課や機構に明らかである︒
トップダウンではなくて指導者のイニシア また︑指羽者には知性より健康が巾
このため︑ある指祁者訓綽課程では︑
八一人の訓練牛のうち半分が学牛
は一六几人中の一六二人を数えた︒ への義務や相国の概念についての特別講義があった︒もっとも年長の指導者は軍の将校であり︑
それより杓い指導者は陸軍士官学校生徒であった︒
は軍出身者の占める割合が高いけれども︑錬成所でボランティアとして働く軍の関係者はあまり成功を収めなかっ
このように錬成所の指導者に
四二年六月の時点で
五〇
15-·3~460 (香法'95)
ヴィシ一時代の青年連動(渡辺)
L
‑ ︶ よ ︑
ー し '
五
規律︑国旗掲揚︑制服など︑軍の牛活様式が取り人れられた︒
また︑指祁者への忠誠と服従や位階制も権威ヽじ義の特
軍とスカウト連動の
. . つは︑デュ・テイユ個人によって具現された︒彼は職業軍人であり︑
彼は理工科学校出身で︑陸軍大学校教授や砲兵学校長を勤めたこともあった︒彼は経験ヽじ義者であり︑体系的で独 彼がペタンの国民吊命に熱狂する兵士であったことは事実である︒それは︑
して表現された︒錬成所は非政治主義を方針としていたが︑政泊とは︑
彼は錬成所をフランス再聰の本質的な迅具としたかったのである︒錬成所は︑
あり
︑
キリスト教国民 ペタン個人とヴィシー政府への忠誠と
ペタン元帥の行動を論議することではなくて︑彼を伯頼することが求められた︒錬成所の講義に は︑教育活動に付年を祁くことであった︒この二つは︑デュ・テイユのなかで分かちがたく結びついていた︒つまり︑
そこでの教育は青年を道徳的市民的愛国的にする
f
段と考えられた︒錬成所が日的とした青少年育成とは︑国 民革命への使徒的な使命感︑国に奉仕する労働を青年に教えることであった︒このように教行を屯視するデュ・テイ
ペタンから一几四︱・年年末に国民教育大臣の候補としてあげられるほどであった︒ 彼は錬成所に一.屯の日的を仔えた︒
↓ )
ょ ︑
l
マ {
国民経済に打川な仕事を青年にりえて国に奉仕させること︑
は︑元帥のメッセージや国民吊命の素材が川いられた︒
フランスぃ口年に理想を教化する手段で 他の
‑)
られたからである︒
フランス人の間に分裂をもたらす要索と芳え
の祖先の伝統を護持することなどに要約できた︒ 断的な思想とは無緑の人物であった︒彼の厭罪は︑人工的な都巾文明に対する反感や几帥への崇拝︑ ・テイユによって紬りあげられた︒
テイユ個人の思和心を論ずることに笠しいのである︒ 任者であった︒錬成所の原罪もデュ
ゞ ︶
J
︑
t
ヵ ︑ し
錬成所の思想を論ずることはデュ・徴ではあるが︑それは軍隊組織のエートスでもあった︒
かつスカウト連動の責
15‑‑‑3 ‑461 (香法'95)
舞った︒デュ・テイユは一几四
0
年几月に︑
( I l l )
賛えた︒合nと
な心の分野でその責任を果たす﹂ と信頼の的である︒
﹁隊付き叩闘者は︑
団長にとって真の助手である︒
彼らはもっとも重要 された︒宗教は私事だとされたが︑錬成所にも多くの隊付き聖職者がおり︑
カウンセラーや精神的指導者として振る
几帥の行動は大衆の支持を集めている﹂
スヘの忠誠だけを持った非政治的なものにしたかった︒
将軍
は︑
1 q
;
こj
1Lu~.Fr
‑ju
ト 一
/
r︳
‑ l i
円︶
. .
と隊員に泊った︒
﹁元
帥の
人柄
は︑
満場一致の作敬
の職人的フランスを罪想としたが︑職人厨を育成すべく技術教育も錬成所では屯視された︒しかし︑デュ・テイユも 率貞に認めているように︑追具不足や胄格をもつ指淋員不足ゆえにこの日的は達成されなかった︒
錬成所の日的の一つである道徳教行は︑名腎と義務を屯んじた訓純︑
﹁名腎崇拝﹂や共生をつうじた道徳的規律を 屯視した︒デュ・テイユ将軍は宋教的確いにもとづいた道徳的原雌で知られていた︒彼は錬成所を︑
ペタンとフラン 道徳教育はヴィシーの幹であり︑錬成所もそれに従った︒追徳のプログラムには︑名贅︑国家への絨実さ︑公正︑
愛国心︑自由︑労働への愛︑家放愛︑家庭︑連舟︑自己犠牲︑献身︑努力︑仲間精神︑社会的災徳などの徳日が列学 トルの暖り川木材の成果を得たことを誇ポし︑
四.一年には野菜の大半を廂出すると豪出すらした︒
またペタンは過去
は悪かった︒ ゞL
テ
/ こ
・テイユは一万八
000
人の隊員が葡萄の取り人れに参加し︑
木炭一五
00
トン
と一
0
万立法メー
り︑中ー時の経済的必叩女性に対応していた︒隊員や指ウ吋者はこの種の仕巾に不慣れであったので︑
はじめは作業の能牽
であった︒錬成所の人手は︑
はじめ農務省が草刈や収穫などに用いた︒
ついで暖房用の木材や木炭の供給︑上地の耕 社会にとって︑労働や連帯の概念の
l n
要性を人々に教えるべく努力された︒社会に打用なものを生み出すことが重要 作や森を切り開いた道路建設などの仕巾があった︒木炭製辺は︑木炭が自動車の燃料として用いられていたこともあ国民吊命のスローガンの
つが
ぶ労
働﹂
であるように︑労働は︑教育的価値にとって本質的なものと見なされた︒
五
};j‑‑J 462 (香法'95)
ヴ ィ シ 時代の付年連動(渡辺)
に学生の肉体的弱体に関心が集まった︒そこで将軍は︑
五
国立体育学校から育つ体育教師の祈厭代に彼の希情を託すこさせると考えられた︒ す
るに
︑
﹁男
らし
さ﹂
の鍛錬が追徳的訓練につながるとされた︒戸外での労働と実背︑太閻と喉気と水に体をさらす
健康法が屯視されたのも︑
そのためである︒白然と接するアウトドアライフは︑人間を高め怖壮にし︑不快にも耐え
このような 1
男らしさ﹂というジェンダーの怖調は︑強力な指導者崇廿というファシズム的心
性と相関するものであろう︒
しかしデュ・テイユ将軍は︑現実の新人隊員が想い肉体条件にあることを認めた︒
とく
なものと位置づけられ︑
しよ
︑
そ ォ
t
このような友愛が最屯要
無視された︒このメニューはナシーナリズムをかき立てる内容を持っていた︒このように歴史や地理は︑隊員にフラ ンスと帝国を教え︑祖同を曖させ︑川民共同体の感就をりえることを目的としていたのである︒
このナショナリズムはドイツ占領軍に向けられてはならなかった︒
ナシゴナリズムを怖調する教育はドイ ツの不信を買った︒ヴィシー政府は︑同民革命の純化を押し進めようとすればするほど︑矛盾に突き中ーたったのであ
る︒ヴィシーの伝統への回帰も︑
ドイツ占領軍の存在ゆえに不徹底なもの︑曖昧なものに終わらざるをえない︒
道徳訓練の第一の原理は︑自尊にもとづく個人の名許感に訴えることであった︒それによれば︑
己犠牲が性格を鍛え︑友愛を育みつつ︑責任感や他者への義務感を発達させると言われた︒
共通善のための白 キャンプファイアの日りでのタベのひとときによって鼓舞されると若えられた︒要
しか
し︑
ン︵
近代
フラ
ンス
の条
件︶
︑
レー
い︑
スト
ゥー
ノ
︵科
学的
人道
的人
オ︶
︑
)1
1‑
イr
ー こ
︸
︸
9
︵植
民地
の大
オ︶
であ
った
︒ 第 .
1.
共和
政は
抗 ︶ ︑
シャルルマーニュ︵文明の精蔀︶︑ジャンヌ・ダルク
︵領
上の
防衛
︶︑
ルイ^四世︵フランスの統^︶︑ナポレオ
され
た︒
伝記を用いた倫理が説かれた︒取りあげられる英雄とその出号は︑ウェルキンゲトリクス︵古代ガリアの抵
デュ・テイユは四
0
年 一
0
月の週報で道徳教育のプログラムを述べていた︒
それは名腎から英雄
t
義までの芙徳 のカタログといった趣のあるもので︑歴史ではポレミックは避けられ︑伝記と通史からなる一二つのプログラムが用意
15・3・‑46:l (香法'95)
し)
た.
‑
jt,̲,,・プ^
。 ュ
‑
はじめ隊員の士気は嘆かわしかったし︑ ・テイユ将軍は︑
を支持したのも︑それが諸階級の協調のシンボルであったからである︒ 宿るとして︑体育に賛成するが︑ 錬をめざす︒同年 一
九四
0
年八月にヴィシーは︑ 宣伝冊子にも︑ とにした︒理想は完憶な肉体的健康であったが︑戦争という状況ドでは非現実的であった︒このように体育が強調されたのには理由がある︒
説を掲載して︑教育改革を訴え︑ ヴィシーは︑敗戦はフランス青年の軟弱さも一因であると杓え︑
﹁ 健
康 ︑
C両世界評論
l C
﹁‑ J
C 帥は︑青年を作り直しつつしか国民を取り戻せないことをよく知っていた﹂
社会的融合は今一
に﹁国民教育﹂と題する論
9 )
︵ じ
I
汎気︑規律﹂を
l j
一えようとした︒当時の七七ページの1/
1j
と記されている︒
オリンピックのテニス選
f
ボロトラの指導ドにスポーツ総合委員会を設附し肉体の鍛 一月の通逹で︑小学校に三\四時間の体育授業を勧めた︒教会も﹁健全な内体に健全な精神﹂が
スポーツの流行が末教的義務を忘れさせることを懸念しもした︒
つの公民教行の即想であった︒デュ・テイユは︑学生が
f
の技術を欠き︑学業の中断を後悔し︑手仕事を時間の浪費と苔えていることに気づいた︒これは︑手仕れを竹美する錬成所の方針に反することであった︒
ところがラミランを補佐するペロルソンは︑隊員の待遇の完全な平罪を惰んだ︒
かくして学生は︑技術不足を補うた めの役務期間の延長が許されなかった︒なぜなら︑学生にのみ補習を課すことは︑錬成所の最屯要な側面の一っであ る社会的融合を無にすると考えられたからである︒デュ・テイユも︑新しいフランスの形成における学生の中心的役 割を認めるけれども︑指祁者の賓質は︱つの社会階屑の特権ではないと考えた︒錬成所が︑
ヴィシー政府の労働憲章 了几四一年二月の最初の召集隊の解散式のとぎに︑社会的融合について楽観的見解を述べて
テントの麻布や毛布︑調理席具や道具もなかった︒良家の
f
息と労 働者の若者が雑居状態にあることや良家のf
息を伐採や道路T事の手作業に従事させることに︑
スポーツによって
体育教育とスポーツを奨励したからである︒
ペタ
ンは
︑
一九
四
0
年八月のブルジョアジーは不
五四
15‑‑J ‑464 (香法'95)
ヴィシ一時代の青年運動(渡辺)
これらの青年が比類なき自己犠牲を受け人れるまでに輝いていると語って︑将 軍は︑愛国心・社会・個人道徳・健康・労働の分野について︑錬成所が果たした役割を総括した︒愛国心に燃えて︑
1 0
人に一人は国民吊命のためのアクティヴな活動家となったし︑階級と職業と出身地方を巽にする青年たちが錬成 所のなかで︱つに溶けあった︒個人的に彼らは誠実さや自己統御を学び︑病気も減り︑体脂の回
L
を見た︒青年の根 民衆階層出身の青年とブルジョア青年とのハビトゥスやプラチックの違いがなお大きかったこの時代を勘合する
と︑ヴィシーの社会的融合政策は︑青年の社会的統合という向で
1定の役割を果たしたと評価することもできる︒
しかしここでも︑ヴィシーは異なる陪屑には異なる教育課程を与えて︑社会的ヒエラルヒーを維持しようとしたので︑
諸階級融合の理念も︑欺隔的で曖昧なものに終わらざるをえなかった︒
公民教育に関する錬成所の教義は単純で︑
遊び
︑歌
︑
‑ 0
時三
0
分 ︑
パトロール隊長の助言︒
五五
1ヒ
仕 f
昼食︑自由
キャンプの視察︒
八 時 ︱
i O
分 ︑
それは共同体の理想にもとづき︑
ドクトリンを教えることであった︒青年に愛国心を育むことが課題とされた︒同時に︑錬成所の教育はアカデミック で文化的で職業的目的を持った︒錬成所の隊員は授業に出るように 格を取っていない者もいた︒彼らは歴史や地理を学んだ︒ある団では三四人の初等卒業賓格の候補者が出て︑
( 4 9 )
ちの
1 : 1 0
人が修了した︒その資格を持つ者は︑
そのう
コーラスやダンスなどの文化活動に従巾した︒その他︑地方の記念 碑を探訪したり︑農民コルポラシオンの代表や社会委員会のじ場労働者の講油を聞いたりした︒
錬成所の青年は︑
‑﹇を二分して︑肉体労働︑肉体の鍛錬・教育・食事・余暇︑睡眠にあてた︒日課は軍隊式に編 成された︒六時に起床︑洗面︑任意の宗教礼拝︒七時︑国旗掲揚とコーヒー︒
キャンプ設営︑雑用︑体操︑水浴び︑朝食︒ 本的明白な変化はまだ実行されていないけれども︑
\与 J廿i
われた︒文盲者は二割を占めたし︑初等卒業資
必要な円建は始まった︑ 満を述べたが︑今や青年の愛同心は︑
ペタンの油説のなかに含まれる国家の と
。
15‑‑: ‑3‑465 (香法'95)