オ ー ス トリ ア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て
倉 田 稔
は じめ に
12345678
目 次
併 合 以 前 2月 蜂 起 以 後 ナ チ ー 揆
ア ン シ ュ ル ス ま た は併 合 ク リ ス タ ル ・ナ ハ ト ナ チ ス の 犯 罪 抵 抗 運 動 そ の 後
は じ め に
本 稿 で は,オ ー ス ト リ ア の ナ チ ス 以 前 の 時 代,そ し て ナ チ ス 時 代 を,幾 つ か の 側 面 に つ い て 述 べ る 。 後 者 の 時 代 は 主 に,1938年 の ドイ ツ に よ る オ ー ス ト リ ア 併 合,つ ま り ア ン シ ュ ル ス(Anschluβ)の 時 点 か ら,第 二 次 大 戦 に お け る 1945年 の 敗 戦 ま で,お よ そ7年 間 で あ る 。
1併 合 以 前
第1次 大 戦 の 終 結 に よっ て,オ ー ス ト リア は小 国 に な っ た 。 オ ー ス トリア の 労 働 者 は,オ ー ス トリ ア社 会 民 主 労 働 党(SDAP)の 下 に 結 集 した 。 同 党 は, 第 一 共 和 国 の議 会 で40%の 得 票 率 を え た 。1923年 に は,8万 人 の 共 和 主 義 護 国
〔1〕
同 盟(Schutzbund)を 作 っ た 。1919年 か ら1934年2月 ま で は 社 会 民 主 党 が ウ ィ ー ン を 支 配 し た 。 オ ー ス トリ ア ・マ ル ク ス 主 義 は,改 良 主 義 的 左 翼 で,一 方, 共 産 党 は ド イ ツ に 較 べ て 大 衆 党 で は な か っ た 。
オ ー ス ト リ ア の フ ァ シ ズ ム は,重 要 な 潮 流 と し て は,国 民 社 会 主 義(=ナ チ ズ ム),郷 土 防 衛 軍,前 線 戦 士 の3つ で 表 わ さ れ る 。 だ が,別 の 表 現 を す れ ば,
1つ は,ド イ ツ 民 族 的 な 都 市 ・小 都 市 の 運 動,2つ は,カ ト リ ッ ク 的 保 守 的 な 農 村 の 運 動 に 分 け ら れ る 。 後 者 に 士 官 の フ ァ シ ズ ム が 入 る 。 こ れ は 前 線 戦 士 組 織 で あ る 。
郷 土 防 衛 軍 運 動 は1920年 代 の 終 り に,ま た オ ー ス ト リ ア ・ナ チ ズ ム は1930年 代 に,最 も 強 く躍 動 し た 。 地 理 的 に 言 え ば,オ ー ス ト リ ア の フ ァ シ ズ ム は,親 イ タ リ ア が 西 と 北 の 州,親 ドイ ツ は,ケ ル ン テ ン,シ ュ タ イ ア ー マ ル ク,サ ル ッ ブ ル ク,ウ ィ ー ン で あ っ た1)。 ゴ ス ワ イ ラ ー は 述 べ る 。 オ ー ス ト リ ア の フ ァ シ ス ト運 動 は,他 の 国 々 で も 成 立 し た そ の 同 じ 諸 原 因 か ら 生 じ た,と2)。 し か し,そ う 単 純 に は 言 え な い だ ろ う。
他 方,国 民 の90%が カ ト リ ッ ク で あ る オ ー ス ト リ ア で は,キ リ ス ト教 社 会 党 (ChristlichsozialePartei)が 強 か っ た 。 同 党 は1920年 か ら 指 導 党 に な っ た 。 ドイ ツ 人 大 ブ ル ジ ョ ア ジ ー は,政 治 戦 略 で は 一 致 し て い た 。 つ ま り敗 戦 で 失 っ た 大 権 力 を 回 復 し,強 力 な 国 家 を 創 ろ う と し た 。 し か し そ の 政 治 勢 力 は,大 ド イ ツ 的 な 国 民 党(Volkspartei)と キ リ ス ト教 社 会 党 と に 分 裂 し て い た 。
1927年1月 に シ ャ ッ テ ン ド ル フ 事 件 が 起 き た 。 ハ ン ガ リ ー と の 国 境 に あ る 村 シ ャ ッ テ ン ドル フ で,フ ァ シ ス ト団 体 と 共 和 制 防 衛 同 盟 が 衝 突 し,防 衛 同 盟 員 と児 童 が 死 亡 し た 。 こ の 裁 判 が7月 に 行 わ れ,裁 判 所 は,フ ァ シ ズ ト団 体 の 被
1)GerhardBotz,Soziale"Basis"undTypologieder6sterreichischenFaschismen ininnerδsterreichischenundeurop瓢schenVergleichin:Faschis〃zus勿Osterreich
undInternational.Jahr∂uch.勉 プZeitgeschichte1980‑8ヱ,Hrsg.v.der6sterreic‑
hischenGesellschaftfUrZeitgeschichte,L6ckerVerlag,Wien1982 2)KurtGosweiler,FaschismusinOsterreich.EinVersuchederEinordnungin
eineTypologiedesFaschismus.in:Zeitschrz7tノ 涜7Geschichtswi∬enschaft,33.
Jg.,1985,Heft8,S.704.
オ ー ス トリ ア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て 3 告 に無 罪 判 決 を言 い 渡 した。 そ の 判 決 に た い し,抗 議 ス トラ イ キ,デ モ な どが 行 わ れ,裁 判 所 へ の 放 火,警 官 隊 との衝 突 で,多 数 の 死 傷 者 が 出 た3)。
1930年 の 選 挙 で,社 会 民 主 党 が43%の 議 席 を得 て 勝 っ た 。 た だ し1932年4月 の ウ ィー ン選 挙 で は,オ ー ス トリ ア ・ナ チ ス は得 票 が 前 回 の27457か ら201411 へ と7倍 に増 え た 。1932年 に ドル フス(EngelbertDollfuβ,キ リス ト教 社 会 党) が 首 相 に な っ た 。1932年10月1日 に は 戦 時 経 済 授 権 法 が 通 っ た 。FranzNovy
(ウ ィ ー ンの 鉱 山労 働 者 の組 織 者)の 思 い 出 に よ る と,ウ ィ ー ンの 鉱 山労 働 者 はす で に1933年 に非 合 法 に 追 い 込 ま れ た 。1933年,キ リス ト教 社 会 党 に よ っ て 議 会 が 解 散 され た。
1934年2月 に,ド ル フス 体 制 に 対 して オ ー ス トリア 労 働 者 の英 雄 的 な抵 抗 が 起 き た。2月 蜂 起 と言 わ れ る 。 社 会 民 主 党左 派 と共 産 党 の 抵 抗 で あ っ た。
22月 蜂 起 以 後
1934年2月 蜂 起 の敗 北 で,共 和 国 が で きて 以 来 の オ ー ス トリア支 配 階 級 の反 動 派 の 目的 が 実 現 す る こ と に な っ た 。 つ ま り合 法 的 な 労 働 運 動 の廃 止 と無 制 限 独 裁 の確 立 で あ る 。1934年2月 闘争 でFG(=自 由 労 働 組 合)が 禁 止 され,13
日 に解 散 させ られ,指 導 者 は捕 ま り,地 下 運 動 を始 め た 。 中 央 指 導 部 は な くな った 。2月 以 降 す で に フ ァ シ ス ト的 体 制 とな った 。 こ の体 制 は労 働 運 動 を抑 圧 し よ う と した 。2月 事 件 で13名 の 死 刑 判 決 を出 し た。2月12日 とそ の 数 日後, 労 働 組 合 組 織 は 解 散 され た 。 自由 労 働 組 合 の事 務 所 は警 察 に 占領 され,そ の財 産 は没 収 され,指 導 者 や 代 議 員 は 逮 捕 さ れ る か 亡 命 せ ざ る を得 な か っ た 。 社 会 民 主 党 も禁 止 され た。
だ が 非 合 法 に追 い 込 まれ た労 働 組 合 員 は非 合 法 組 合 を作 った 。 ドイ ッ と の違 い は,オ ー ス トリ ア の 労 働 運 動 が 降 伏 しな か った こ とで あ る。 す ぐに,違 っ た 面 で 闘争 を続 け た 。 労 働 者 ・勤 労 者 の 核 心 的 層 は残 っ た 。
3)『 オ ー ス ト リア 』 早 稲 田 大 学 出 版 部 。
ドル フ ス 独 裁 は,5月 憲 法 を 公 布 し た 。2月 闘 争 後,ド ル フ ス 政 府 の3月2 日命 令 で,労 働 組 合 同 盟(Gewerkschaftsbund)が 作 ら れ た 。 そ れ に は 民 間 経 済 の 労 働 者 ・職 員 だ け を 含 ん だ 。 公 共 労 働 者 の た め に は,1934年9月 に 公 共 奉 仕 の 仲 間 団(Kameradschaftendes6ffentlichenDienstes)と い う 強 制 組 織 が 作 ら れ た 。 こ れ ら は す べ てStandestaat(身 分 制 国 家)に 組 み 込 ま れ た4)。1934 年 か ら1938年 は,オ ー…一ス ト リ ァ ・フ ァ シ ズ ム の 権 威 的 身 分 制 議 会 の 時 代 と さ れ る 。
3ナ チ ー 揆
1934年7月25日,オ ー ス ト リ ア ・ナ チ の 一一揆 が 起 き,オ ー ス ト リ ア 労 働 者 が 参 加 し な か っ た の で,挫 折 し た 。 こ れ は オ ー ス ト リ ア 労 働 運 動 の 反 フ ァ ッ シ ョ 伝 統 に 基 づ い て い た 。
1934年7月25日 に,‑i揆 隊,つ ま りSS(=Schutzstaffel,親 衛 隊)隊 員 ら は,SiebensterngasseのBundesturnhalle(国 立 体 育 ホ ー ル)(7区)に,10
:15か ら 集 ま っ た 。 グ ラ ス(Glass)ら3人 の 計 画 で あ っ た 。10:30に,ウ ラ ベ ル(Wrabel)憲 兵 大 佐 が 来 た 。
11:40に 閣 議 が 始 ま っ た 。12時 こ ろ ウ ラ ベ ル 計 画 を フ ァ イ(Fey,第3次 ド ル フ ス 内 閣 の 無 任 所 大 臣,Heimwehr)に 知 らせ た 。12:15に,フ ァ イ は,首 相 ドル フ ス に 知 らせ,閣 議 が 中 断 し た 。12:53,一 揆 者 が,首 相 官 邸 に 入 っ た 。
そ し て 占 拠 し た 。13:11前,一 一Pt者 は 放 送 局 を 占 拠 し,13:00に,内 閣 が 倒 れ た と の 放 送 を 強 制 し た 。13:11こ ろ,プ ラ ネ ッ タ(Planetta)と も う1人 の 銃 弾 が,ド ル フ ス 首 相 の 左 耳 か ら脇 の 下 に 貫 通 し た 。 第2弾 に つ い て は 沈 黙 さ れ た 。
13:05に,… 警 察 は ラ フ ァ グ(Ravag)を 捕 ま え た 。13:30に,警 察 は バ ル ハ ウ ス プ ラ ッ ツ(Ballhausplatz=首 相 官 邸 前 広 場)に 着 い た 。13:45に,首 相 は,
4)OttoLeichter,δsterreichsFreieGewerkschafteninUntergrund.EuropaVerlag, Wien1963.
オ ー ス ト リア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て
5
死 を 目前 に し た の で,一 一揆 者 に,医 者 と 司 祭 を 頼 ん だ が,断 ら れ た 。15:30に, グ ラ ス が 捕 ま っ た 。15:00‑15:40に,首 相 は 亡 く な っ た 。こ の 一 揆 に か か わ っ た 人 物 は,ド ブ ラ ー(Dobler,Nazi党 員,プ ッ チ を 強 制 さ れ た 。 国 家 警 察(Bundespolizei)のRevier(管 区)inspektor)や シ ュ テ フ ァ ン(Stephal1,BundesleiterderVaterlandischenFront)で あ る 。 ド ル フ ス の 後 任 に,シ ュ シ ュ ニ グ が な っ た 。
一 方,1936年9月,自 由 労 働 組 合(=FreieGewerkschaften)の 代 表 者60 人 が プ ラ ハ に 集 ま っ た 。
ゴ ス ワ イ ラ ー は 述 べ る 。「オ ー ス ト リ ア ・フ ァ シ ズ ム は,他 国 の そ れ の コ ピ ー で は な い 」 「ド イ ッ と イ タ リ ア の2つ の フ ァ シ ズ ム の 跡 と 個 性 が オ ー ス ト リ ア 独 自 の も の と 共 に あ る 。」 「2つ の,ド イ ツ と イ タ リ ア の 主 要 型 に 組 み 込 ま れ て
い な い 。」
オ ー…ス ト リ ア で は1つ の 政 党 だ け で な く,Wehr組 織(民 間 防 衛 組 織)も 重 要 で あ る 。 しか し こ れ ら は,次 の 勢 力 に 較 べ れ ば 主 要 で は な い 。 オ ー ス ト リ ア の 反 フ ァ シ ス ト権 力 の 主 な 支 柱 は,全 反 動 体 制 の,つ ま り軍 ・警 察 ・政 治 家 ・ 官 僚 と教 会 の,伝 統 的 な 支 持 で あ っ た5)。
4ア ン シ ュル ス また は併 合
ヒ ト ラ ー は ま ず,1938年3月13日 に,オ ー ス ト リ ア 併 合6)(Anschluβ)を 行 っ た 。 『わ が 闘 争 』 で,す で に ヒ ト ラ ー は,ド イ ツ と オ ー ス ト リ ア の 統 一 を 説 い て い た 。 前 年1937年11月,ヒ ト ラ ー は,ヨ ー ロ ッ パ 大 陸 に 「生 存 圏 」 を 獲 得 す る 必 要 が あ る こ と,と く に オ ー ス ト リ ア と チ ェ コ ス ロ ヴ ァ キ ア を 占 領 す る 必 要 が あ る こ と を,説 い た 。
5)Gosweiler.
6)CharlesA.Gulick,δsterreichvonHabsburgzuHitler.BandV.Wienl948 1938‑Anatomieeinesノ 々加 θ3.Wien1987.
F.L.Carsten,FaschismusinOsterreich.MUnchen1978.
『オ ー ス ト リ ア ス イ ス 現 代 史 』 山 川 出 版 。
オ ー ス ト リ ア ・ナ チ 党 が,オ ー ス ト リ ア で 秩 序 を 混 乱 さ せ て い た 。1938年2 月12日,ヒ トラ ー は,オ ー ス ト リ ア 首 相 シ ュ シ ュ ニ グ を,山 荘 ベ ル ヒ テ ス ガ ー デ ン に 招 い た 。 ヒ ト ラ ー は 彼 を 非 難 し,オ ー ス ト リ ア の 軍 事 占 領 で お ど し た 。 そ し て,オ ー ス ト リ ア ・ナ チ 党 の ザ イ ス ・イ ン ク ヴ ァ ル トの 内 相 就 任,ナ チ ス 政 治 犯 の 釈 放 な ど の,オ ー ス ト リ ア へ 介 入 す る 十 ケ 条 の 協 定 を 押 し 付 け た 。 シ ュ シ ュ ニ グ は 署 名 せ ざ る を え な か っ た 。
3月9日,シ ュ シ ュ ニ グ は,13日 に 国 民 投 票 を 行 う と 発 表 し た 。 彼 は,独 ・ オ ー ス ト リ ア 合 邦 問 題 を.これ に か け た 。 勝 算 も あ っ た か ら で あ る 。 ヒ トラ ー は
し か し,11日,国 民 投 票 中 止 を 要 求 し た 。 そ し て,シ ュ シ ュ ニ グ を 辞 職 さ せ, ザ イ ス ・イ ン ク ヴ ァ ル トを 首 相 に す る 要 請 を し た 。 ヒ ト ラ ー は 同 日,オ ー ス ト
リ ア へ 侵 入 せ よ と,指 示 し た 。12日,シ ュ シ ュ ニ グ は 辞 職 し,ザ イ ス ・イ ン ク ヴ ァ ル ト に 政 権 を 譲 っ た 。12日,ド イ ツ 軍 は,新 首 相 の 要 請 の 形 で 実 は 違 う の だ が 一 オ ー ス ト リ ア に 進 軍 し,次 々 に 国 境 を越 え た 。13日,新 首 相 は,
ドイ ツ ・オ ー ス ト リ ア の 合 併 を 宣 言 し た の で あ る 。1938年 の ナ チ 占 領 で オ ー ス ト リ ア と い う 名 は な く な り,オ ス トマ ル ク と な っ た 。 オ ー ス ト リ ア 全 土 に ガ ウ が 作 ら れ た 。 つ ま り,州 で は な く,郷 と な っ た 。
5ク リ ス タ ル ・ナ ハ ト
1938年11月7日,パ リ で,ド イ ツ 大 使 館 付 きLegationsekratar,フ ォ ン ・ラ ー ト(VonRath)が ユ ダ ヤ 人 に ピ ス トル で 暗 殺 さ れ た 。こ れ を 境 に 全 国 宣 伝 さ れ, 反 ユ ダ ヤ 主 義 が 高 ま っ た 。7)
ヒ ト ラ ー は11月 初 め,ユ ダ ヤ 移 民 が パ リ の ドイ ツ 大 使 館 書 記 エ ル ン ス ト ・フ ォ ン ・ラ ー トを 射 殺 し た の を 機 会 に 大 規 模 な 宣 伝 作 戦 を 開 始 し た 。 こ の 暗 殺 は 主 と し て 個 人 的 動 機 か ら 出 た も の な の に,ヒ ト ラ ー は た め ら う こ と な く,こ れ を"世 界 ユ ダ ヤ 主 義 の 陰 謀"に 仕 立 て あ げ た 。 … … 学 校 か ら企 業 に い た る ま で
7)1)asNove〃zberPogrom1938.ウ ィ ー ン 抵 抗 研20971/Ex.a.1988・11・10
にORFで 放 送 し た 参 考 資 料 。 当 時 の 重 要 資 料,当 時 の 新 聞 の 切 抜 き か ら な る 。
オ ー ス トリ ア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て 7
「哀 悼 の 意 を 表 す る時 間」 の 運 動 が 組 織 され,大 げ さ な葬 儀 や ベ ー トーベ ンの 音 楽 や 大 衆 扇 動 的 な悲 しみ の 演 説 が行 わ れ … … た 。11月9日 の 晩,ド イ ッ 国 内 い た る と こ ろ で ユ ダ ヤ教 会=シ ナ ゴ ー グ が 炎 上 し,ユ ダヤ 人 の住 宅 は荒 さ れ, 店 舗 は 掠 奪 され,約2万 人 が 逮 捕 され た。親 衛 隊 の新 聞"シ ュ ワ ル ツ ・コー ル"
(黒 色 兵 団)は,す で に 「銃 火 と剣 」 に よ る せ ん滅 を,「 ドイ ッ にお け るユ ダ ヤ 人 の 事 実 上 の 最 終 的 終 り」 を考 え て い た8)。
ク リス タ ル(水 晶)・ ナ ハ ト(夜)と は,ユ ダ ヤ 人 の 商 店 な ど を破 壊 し,そ れ に よ りガ ラ ス が 路 上 に散 り,あ た か も水 晶 の よ うに 輝 く,と い う意 味 で 言 わ れ た の で あ る。
6ナ チ ス の 犯 罪
1938年 か ら1945年 ま で の,お よ そ7年 間 の ドイ ツ お よ び オ ー ス ト リ ア の ナ チ ズ ム ま た は フ ァ シ ズ ム の 犯 罪 に つ い て,一 般 的 に 記 し て お こ う 。
1938年 の 占 領 に よ っ て,ド イ ツ の 国 防 軍(=Wehrmacht)と 警 察 とSS・(親 衛 隊)が オ ー ス ト リ ア に や っ て き た 。SS指 導 者 で 警 察 長 官 で あ る ハ イ ン リ ヒ ・ ヒ ム ラ ー(H,Himmler)は,3月12日 に オ ー ス ト リ ア に 来 た 。
3月 と4月 に 第1の 大 き な 逮 捕 の 波 が や っ て 来 た 。「祖 国 戦 線 」,共 産 主 義 者, 社 会 主 義 者,有 名 な 反 ナ チ ス,ユ ダ ヤ 人 が,5万 人 か ら7万6千 人 に 及 び 犠 牲 に な っ た 。
1938年 に は ナ チ の テ ロ ル は2つ の 側 面 か ら 行 わ れ た 。 国 家 的 抑 圧 と,SSと SA(突 撃 隊)の 任 意 の テ ロ ル で あ っ た 。 オ ー ス ト リ ア の ナ チ は,他 国 と 違 っ て,先 頭 に 立 っ て テ ロ ル に 参 加 し た 。 オ ー ス トリ ア の ナ チ で 有 名 な 者 は,カ ル テ ン ブ ル ン ナ ー(Kaltenbrunner),ア イ ヒ マ ン(Eichmann),ブ ル ン ナ ー (Brunner),シ ュ タ ン グ ル(Stangl>,ザ イ ス=イ ン ク ヴ ァ ル ト(Seyβ 一lnquart), ゴ ロ ボ ク ニ ク(Golobocnik)ら で あ る 。1938年 に,ラ イ ヒ ス ク リス タ ル ナ ハ ト
8)ヨ ア ヒ ム ・フ ェ ス ト 『ヒ ト ラ ー2下,231ペ ー ジ 。
(Reichskristalnacht)と 呼 ば れ る ユ ダ ヤ 人 ポ グ ロ ム(=迫 害)で,テ ロ ル は 頂 点 に 達 し た 。
オ ー ス ト リ ア の 最 も 重 要 な ナ チ ス ・テ ロ ル の 機 関 は ゲ シ ュ タ ポ(Gestapo=
秘 密 国 家 警 察)で あ り,こ れ は1938年3月 に 作 られ て い た 。 ウ ィ ー ン,リ ン ッ, サ ル ツ ブ ル ク,ク ラ ー ゲ ン フ ル ト,イ ン ス ブ ル ッ ク,ア イ ゼ ン シ ュ タ ッ トで そ の 機 関 が 作 ら れ て い た が,ウ ィ ー ン の そ れ が 他 の 機 関 の 上 に 立 っ た 。 ゲ シ ュ タ ポ は,初 め ドイ ッ 人 役 人 が 頂 点 を 占 め た が,そ の 後,オ ー ス ト リ ア の ナ チ と,
シ ュ シ ュ ニ ク 体 制 の 警 官 と が 加 わ っ た 。1942年 に は オ ー ス ト リ ア で1998人 の ゲ シ ュ タ ポ が お り,そ の11%は ド イ ツ 人 で あ っ た 。 そ し て そ の 内934人 が ウ ィ ー ン で 働 い た 。1938年 か ら1944年12月 ま で,そ の 指 導 者 は,SS指 導 者 の フ ー バ ー (FranzJosefHuber)で あ っ た 。 か れ ら の 主 な 仕 事 は,社 会 主 義 者,共 産 主 義 者,そ の 他 左 翼 の 迫 害 で あ り,つ ま り警 告,逮 捕 そ し て 間 違 い も起 こ し た,戦 線 送 りで あ っ た 。 ゲ シ ュ タ ポ の 活 動 は 血 ま み れ で あ り,ゲ シ ュ タ ポ は ナ チ ・テ ロ ル の 化 身 と な っ た 。 刑 事 警 察 も ナ チ ・テ ロ ル の1部 に な っ た 。
1938年5月 と6月 に 大 行 動 が と ら れ,多 く の ジ プ シ ー が 捕 ま り,強 制 収 容 所 (KZ=Konzentrationslager)に 送 ら れ た 。 オ ー ス ト リ ア の ジ プ シ ー の 半 分 以 上 が 強 制 収 容 所 に 行 っ た か,あ る い は 「最 終 解 決 」 さ れ た,つ ま り殺 さ れ た 。
SSの 保 安 部9)が 特 別 の 機 能 を 果 た し た 。 こ れ は ヨ ー ロ ッ パ の フ ァ シ ス ト 占 領 政 策 で 指 導 的 役 割 を 演 じ た の だ が,オ ー ス ト リ ア で は こ の 保 安 部 は ユ ダ ヤ 人 迫 害 で 決 定 的 役 割 を 演 じ た 。 ウ ィ ー ン の ユ ダ ヤ 担 当 官 で,ウ ィ ー ン の ユ ダ ヤ 移 民 の 中 央 署 指 導 者 で あ る ア ド ル フ ・ア イ ヒ マ ン は,後 に,「 ユ ダ ヤ 人 問 題 の 最 終 解 決 」 の 主 導 者 と な っ た 。
ゲ シ ュ タ ポ と そ の 他 の 部 局 の テ ロ ル は 強 制 収 容 所 と 結 び 付 い て い た 。 政 治 的 ・人 種 的 ・非 社 会 的 ・犯 罪 的,あ る い は 同 性 愛,等 の 人 々 が,オ ー ス ト リ ア で 数 万 人 検 束 さ れ た 。1938年4月1日 に,ダ ッハ ウ(Da6hau)強 制 収 容 所 へ,オ ー ス ト リ ア の 最 初 の 輸 送 が 行 わ れ た 。1938年 に 作 ら れ た マ ウ トハ ウ
9)略 語SD=SicherheitsdienstderSS.
オース トリアの フ ァシズ ム時代 につ い て9
ゼ ン(Mauthausen)10)強 制 収 容 所 もそ の1つ で あ っ て,ガ ス 室 と火 葬 場 の あ る絶 滅 所 で あ っ た 。 こ こ で は10万 人 が殺 さ れ た 。 大 部 分 は非 オ ー ス トリァ 人 で あ っ た 。
強 制 収 容 所 は,サ デ ィズ ム と野 蛮 の場 所 で あ る だ け で は な く,経 営 体 や工 場 集 団 に,数 千 人 の 捕 虜 が ドイ ツ企 業 の た め に強 制 労 働 を させ られ た 。 ま た 強 制 収 容 所 以 外 に多 くの 出 先 機 関 が あ っ て,「 非 社 会 的 分 子 」 が 強 制 労 働 を させ ら れ た 。
マ ウ トハ ウ ゼ ン強 制 収 容 所 は,そ れ だ け で な く全 国 に47以 上 の 副 強 制 収 容 所 が 散 在 し た。 そ れ に加 え て ダ ッハ ウ強 制 収 容 所 の 出 先 機 関 もい くつ か 西 オ ー ス
トリア に あ っ た 。
占 領 後 す ぐ,法 廷 も ナ チ の 道 具 に な っ た 。 オ ー ス トリ ア の判 事1550名 の うち 205名 が 逮 捕 され た。 大 戦 後1945年 か ら46年 に,オ ー ス トリ ア の 法 廷 の 全 人 員 の44%が 非 ナ チ化 され,つ ま りナ チ と して 追 放 さ れ た ほ どで あ る 。
健 康 制 度 の テ ロ ルが あ っ た 。 オ ー ス トリ ア で は 「人 種 衛 生 」 制 度 と法 が1938 年3月 以 降導 入 され た 。 い わ ゆ る遺 伝 の不 妊 化 が,強 制 的 に暴 力 的 に1940年 に 導 入 され た。40万 人 が 強 制 的 に 不 妊 化 され た 。1940年 か ら45年 に,精 神 ・身体 障 害 者 が 約5千 人 強 制 不 妊 化 され た。
この 時 点,つ ま り1940年 に,安 楽 死 が オ ー ス トリア で 実 施 され た 。 ハ ル トハ イ ム で 安 楽 死 施 設 が 建 て られ,約2万 人 の 精 神 病 ・身体 障 害 者 は,1940年 か ら 41年 に行 わ れ た不 妊 行 動 で,ガ ス 死 させ られ た。1945年 まで に数 千 人 の 患 者 が 電 気 シ ョ ック か飢 餓 で 死 ん だ 。 ダ ッハ ウ とマ ウ トハ ウ ゼ ンか ら送 られ て 来 た1 万 人 の 強 制 収 容 所 捕 虜 が ハ ル トハ イ ム で ガス で 殺 さ れ た 。
強 制 不 妊 や安 楽 死 は,ナ チ の 規 範 に 適応 し な い 人 々 に対 して も行 わ れ た。 少 な くて も500人 の7才 以 下 の 青 少 年 が 安 楽 死 させ られ た。
10)上 条 氏 に よ る と,マ ウ タ ウ ゼ ン と 発 音 す べ き と。 小 生 は オ ー ス トリ ア の 友 人 か ら の 発 音 で,さ しあ た りマ ウ トハ ウ ゼ ン と書 く。 だ が 検 討 を 要 す る 。 小 生 は,こ の 強 制 所 の 見 学 記,そ し て オ ー ス ト リ ア ・フ ァ シ ズ ム に つ い て も,『 ウ ィー ン の 森 の物 語 』(NHKブ ッ ク ス1997)で 書 い て い る 。
1939年 に は オ ー ス トリ アで,遺 伝 記 録 の カ ー ド化 が 始 ま り,精 神 病,非 社 会 的 分 子,青 少 年,酒 飲 み,そ して そ の 全 親 類 が 載 っ た。
オ ー ス トリ アで は,ニ ュ ル ンベ ル ク法 の た め にユ ダ ヤ 人 が6万5千 人殺 され た 。1944年 か ら1945年 の オ ー ス トリ ア に強 制 労働 の た め に1万 人 以 上 のハ ン ガ リー の ユ ダヤ 人 が 連 行 され た 。 オ ー ス ト リア の ジ プ シ ー は5千 〜8千 人 が 殺 さ れ た 。
オ ー ス トリ ア 人 は1600人 以 上 が ス ペ イ ン市 民 戦 争 で 戦 い,そ の う ち212人 が 死 ん だ 。そ して92人 が 強 制 収 容 所 か パ ル チ ザ ン闘 争 か連 合 軍 兵 士 と して 死 ん だ 。 ケ ル ンテ ンの パ ルチ ザ ン闘 争 で は500人 か ら千 人 が 死 ん だ 。
少 な くて も2700人 の オ ー ス トリア 人 が 死 刑 判 決 を受 け,絞 首 刑 と な っ た 。3 万2千 人 の オ ー ス トリア 人 が 強 制 収 容 所 と監 獄 で,ゲ シ ュ タ ポ に 捕 ま っ て死 ん
だ 。 ソ連 の戦 争 捕 虜 は10万 人 が 犠 牲 に な っ た。 オ ー ス トリ ア の 戦 争 犠 牲 者 は28 万 人 で,市 民 の 戦 争 犠 牲 者 は24万 人 を数 え る。11)
7抵 抗 運 動
独 ソ 戦(1941年)で ドイ ツ が ソ 連 に 負 け て か ら,オ ー ス ト リ ア の 抵 抗 運 動 は 上 向 き に な っ た 。1941年 冬 に,ウ ィ ー ン の あ る 工 場 か ら,会 議 を 開 こ う と い う 提 案 が な さ れ た12)。 そ し て 約1年 後,1942年10月 に オ ー ス ト リ ア 解 放 戦 線
(AustrianFreedomFron)の 創 立 会 議 が オ ー ス ト リ ア の 山 中 の あ る 秘 密 の 場 所 で 開 か れ た 。
全 国 か ら40人 の オ ー ス ト リ ア 人 が 参 加 し た 。 あ ら ゆ る 住 民,政 党,世 界 観 の 代 表 者 た ち で あ っ て,労 働 者14名,非 手 工 業 労 働 者1名,主 婦1名,医 者1名, 大 学 教 授1名,農 民8名,教 師2名,司 祭1名,鉄 道 員2名,農 業 協 同 組 合 の
11)Neugebauer,NS‑GewaltverbrecherinOsterreichl938‑1945.in:Faschismus Krieg17priderstand.Wien1989.
12)L)ocumentsoftheAustrianFreedomFront,Londonn.d.[1944ま た は1945],
P.3.
オ ー ス ト リア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て 刀 前 議 長1名,事 業 家1名,公 務 員1名,兵 士3名,で あ っ た13)。 こ れ は 政 党
で は な か っ た 。 そ の 直 接 の 目 的 は,「 人 民 戦 争 を 行 う こ と 」 で あ っ た 。
一 方,外 国 の 抵 抗 組 織 に つ い て 見 よ う 。 以 下,1942・8・15のKarlCzer‑
netz(ツ ェ ル ネ ッツ 。 前 オ ー ス ト リア 革 命 的 社 会 党 の ウ ィー ン執 行 委 員)の 演 説 で あ る 。
イ ギ リス で は,1941年11月3日 に,FreeAustrianMovement(オ ー ス ト リア 解 放 運 動)が,在 イ ギ リス の11の 組 織 に よっ て 作 られ た 。 す ぐあ と,つ ま り1942年1月24日 に,1500人 の オ ー ス ト リア 人 が ロ ン ドンで 集 ま り,綱 領 を作 っ た 。
ドイ ツや オ ー ス トリア で 最 も基 本 的 な 形 は,友 好 サ ー クル(friendlycircle) で,か つ て の社 会 民 主 党 員 た ちが カ フ ェで 集 ま り,天 候 や 国 内 事 件 を語 り,連 絡(contact,以 下 同 様)を 維 持 す る 以 上 の こ と は余 り しな か っ た。 この こ と
で す ら重 要 で あ る。 信 頼 し う る 同志 が 存 在 す る こ と を示 す の で あ る。
第2に,合 法 的 な体 制 が,活 動 の カ モ フ ラ ー ジ ュの た め に使 わ れ た。 数 千 人 の男 女 が 教 会 に 行 っ た。 反 ナ チ 思 想 を も っ た人 々 が 会 え る 唯 一 の 場 所 だ っ た か らで あ る。 時 に は 宗 教 組 織 の 中 で ス ピー チ が 反 対 方 向 で な され えた 。 こ の 方 法 は 中 間 階 級 と農 民 の 間 で用 い られ た 。 労 働 階 級 で は 少 な か っ た 。
労 働 階 級 は,フ ァ シ ス ト労 働 組 織 を つ か っ た。 オ ー ス トリア で は シ ュ シ ュニ ク体 制 の 元 で行 わ れ た。 フ ラ ンス で は ヴ ィ シ ー の 労 働 組 合 が広 く使 わ れ た 。 チ ェ コ ソ ロ ヴ ァキ ア で は ナ チ組 合 が,雇 用 者 と さ ら に国 家 と衝 突 す るた め に 時 々 使 わ れ た 。 ナ チ ス 労 働 戦 線 を使 う こ とは で きな か った 。
第3に,地 下 労 働 運 動 で あ る。 多 くの 方 法 が と られ た。 例 え ば,あ る労 働 者 が ナ チ の 冬 の助 け 合 い で 表 向 き に金 を 集 め よ う とす る。 事 実 彼 は 地 下 目的 で 集
め る 。 労 働 者 た ち は彼 を信 頼 し,質 問 をせ ず に与 え る。
都 市 間 の結 び付 き は 困 難 だ っ た。 どの 建 物 や 街 路 に も ナ チ の ス パ イが い て,
13).4ustria'sFreedo〃zFront.Manzfestoげ 伽.4〃stiranUndergアoundMove〃zenち AustrianActionNY.C.n.d.p.3.
彼 らを訪 れ る 見 知 らぬ 人 は報 告 され る。 だ が工 場 で は連 絡 は 止 ま らな か っ た 。 高 度 に謀 議 的 な社 会 民 主 党 組 織 の ネ ッ トワ ー クが,オ ー ス トリア で 発 展 した 。 連 絡 が 広 まっ た 。 全 国 的 執 行 委 員 会 は なか っ た 。 だが 地 方 で 連 絡 が あ っ た 。 例
えば,ウ ィー ン,ニ ー ダ ー ・オ ー ス トリ ア,サ ル ツ ブ ル ク で あ る。
ドイ ツ で は,イ タ リア と 同 じ くネ ッ トワ ー ク組 織 は壊 さ れ,連 絡 は もっ と難 しか っ た。 組 織 は 「島」 型 で,地 方 で の 小 組 織 で,町 か ら町へ の 連 絡 は な か っ た 。
フ ラ ンス で は 革 命 的 社 会 主 義 地 下 運 動 が 強 く,連 絡 は広 ま り全 国 執 行 委 が 可 能 だ っ た。
情 報 の 伝 達 が 第1に 重 要 で あ る。 ナ チ は宣 伝 を独 占 した。 唯 一 壊 す こ とは 外 国放 送 だ っ た 。 地 下 新 聞政 策 は ドイ ツで はで きな い 。 印 刷 や コ ピー を複 写 す る 手 段 が な い か ら。 タ イ プ ラ イ タ ー は総 て 中 央 警 察 に登 録 さ れ ね ば な らず,謄 写 版 で 用 い られ る か ど うか を 見 に,機 械 を調 べ に,ゲ シ ュ タ ポ は マ イ ク ロ ス コー プ を も っ て くる 。
フ ラ ン ス に は多 くの 地 下 新 聞 が あ る。 社 会 党 の 「ポ ピ ュ レー ル」"Populair"
は,ど ん な公 式 新 聞 よ り もヴ ィ シ ー ・フ ラ ンス14)の 多 くの 人 に読 まれ て い る 。 ポ ー ラ ン ドで 多 くの 地 下 新 聞 が 発 行 され て い る 。1つ の 方 法 は,武 器 を 一緒 に 印刷 機 械 を運 ぶ,ゲ リラ ・グ ル ー プ の 発 行 で あ る 。
制 限 あ る短 い ス トだ けが 可 能 だ。
サ ボ ター ジ ュ や 仕 事 を遅 くす る の は可 能 だ 。 占領 国 や ドイ ツ 自体 で 採 用 さ れ て い る 。
い くつ か の工 場 で 生 産 指 数 は40%に 下 が って い る。
大 陸 の 労 働 者 は,機 械 を損 な う形 で の サ ボ は しな い 。
チ ェ コ か ら移 入 さ れ て た 労 働 者 は オ ー ス トリ ア労 働 者 助 け で サ ボ を し て い る。
地 下 運 動 の 目的 。 第1は,民 族 的 で,ナ チ を追 放 す る こ と。 旧政 府 の 復 活 と
ユ4)南 フ ラ ン ス,自 由 地 区 。 た だ し実 際 は,自 由 で は な か った 。
オ ー ス トリ ア の フ ァ シ ズ ム 時 代 に つ い て 13 民 族 主権 の 思 想 は,占 領 国 内 の 人 々 よ り もむ しろ ロ ン ドンの 亡 命 政 府 に代 表 さ れ る 。
ヨ ー ロ ッパ の 地 下社 会 主 義 運 動 で は,改 良 主 義 思 想 は 死 ん だ。
地 下 運 動 で は次 の3つ に賛 成 した 。
1)ヒ トラ ー の軍 事 的 敗 北 は 絶 対 的 だ 。 ヒ トラ ー の 軍 事 機 構 が 壊 され て も革 命 の チ ャ ンス は ない 。
2)ソ ヴ ィエ ト ・ロ シ ア と統 一 す べ きだ 。 社 会 党 と共 産 党 の派 閥抗 争 的 な 闘 争 は 終 わ るべ きだ 。
3)民 族 解 放 運 動 は 社 会 主 義 革 命 の 完 成 へ ゆか ね ば な ら ない 。 西 か らの 資 本 主 義 の 干 渉 を妨 げ る た め に イ ギ リス 労働 党 の 了解 が な けれ ば な らな い 。15)
8そ の 後
ナ チ ズ ム に支 配 され て い た ころ の オ ー ス トリ ア に,あ るエ ピ ソ ー ドが あ る。
ウ ィー ンで,ユ ダヤ 人 の あ る 少 年 が ドナ ウ運 河 沿 い を歩 い て い る と,悲 鳴 が 聞 こ え た 。少 女 が 運 河 に落 ち た の だ っ た。彼 は す ぐ飛 び込 ん で,少 女 を助 け た 。 こ れ は 美 談 とな っ て,新 聞 に も載 っ た。 ナ チ ス の 地 区 大 会 が あ っ て,そ こ で こ の 少 年 を表 彰 す る こ とに な っ た 。 彼 は 呼 ば れ て,「 立 派 な ドイ ツ 少 年 」 と言 わ れ た。 だ が,「 い え,僕 は ユ ダ ヤ 人 で す よ」 と言 う と,「 な に,ド イ ッ少 年 で は な か っ た の か 。」 そ して,「 こ の ユ ダ ヤ の豚 野 郎1」 と言 われ て,戸 外 に叩 き出 さ れ た 。少 年 は職 人 と な り,あ る 時 オ ー ス トリ ア を脱 出 し,イ ギ リス に逃 れ た 。 そ して 「自 由 オ ー ス トリ ア 同 盟 」 に参 加 し,そ の 活 動 家 に な っ た 。
そ の 後 の40年 代 の 事 件:
1942年 に,ベ ー メ ン と メ ー レ ンの代 理 帝 国 総 督 ハ イ ドリ ヒが,亡 命 チ ェ コ人 に 暗殺 され た。 そ の 報 復 と して,ゲ シュ タ ポ と保 安 部 は,プ ラハ 近 くの リデ ィ チ ェ村 を破 壊 した 。
15)ド イ ツ社 会 民 主 党 の プ ラ ハ 綱 領 と 比 較 す べ きで あ る。 プ ラ ハ 綱 領 が 訳 載 さ れ て い る 『ヒ ル フ ァデ ィ ン グ ナ チ ス 経 済 構 造 分 析 』(新 評 論)を 参 考 の こ と 。
1943年 に,カ ー ル ・ベ ー ム が,ウ ィ ー ン ・国 立 歌 劇(Staatoper)の 監 督 に な っ た 。 一 方,捕 ま っ て い た ム ソ リ ー 二 が ウ ィ ー ン に 連 れ て こ ら れ た 。 そ し て す ぐ北 イ タ リ ア に 行 く 。
同 年,オ ー ス ト リ ア が,連 合 国 の 「モ ス ク ワ 宣 言 」 で,ヒ トラ ー の 攻 撃 政 策 の 犠 牲 で あ る と 認 め ら れ た 。 連 合 国 は,オ ー ス ト リ ア 独 自 国 家 を 承 認 を し た 。 1943年10月 末 に モ ス ク ワ の 外 相 会 議 が あ り,そ し て11月1日 に 「モ ス ク ワ 声 明 」 が で た 。
1943年12月 に テ ヘ ラ ン 会 議 が 行 わ れ た 。
1944年,ア ウ グ ス チ ナ ー 合 唱 隊 長 ロ マ ン ・シ ョ ル ツ が 処 刑 さ れ る 。 俳 優 オ ッ トー ・ハ ル トマ ン に 裏 切 ら れ た240名 の 抵 抗 戦 士 の1人 だ っ た 。
1939‑45年 た,30以 上 の ヒ ト ラ ー 暗 殺 計 画 が お き,す べ て 失 敗 し た 。 も っ と も 大 騒 ぎ に な っ た の は,ド イ ッ で は,1,ミ ュ ン ヘ ン の ビ ュ ル ガ ー ・プ ロ イ ケ ラ ー で,時 計 職 人 ゲ オ ル グ ・エ ル ス ナ ー の も く ろ み 。2,1944年7月20日 の, シ ュ タ ウ フ ェ ン ベ ル グ の 計 画 。 こ の 際,ロ ン メ ル 将 軍 は 共 謀 者 と し て 自 殺 を 強 制 さ れ た 。
1945年,ソ 連 が オ ー ス ト リ ア の 東 を,英 米 仏 が 南 と西 を 占 領 し た 。 1945年4月27日,臨 時 政 府 が 成 立 し,カ ー ル ・ レ ン ナ ー が 首 相 と な る 。
戦 争 で5500万 が 死,3500万 が 負 傷,200万 が 不 明 で あ っ た 。22のKZで,ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ か ら ダ ハ ウ,マ ウ トハ ウ ゼ ン ま で,600万 の ユ ダ ヤ 人,50万 以 上 の 非 ユ ダ ヤ 人 が 殺 さ れ た 。
亡 命 中 死 ん だ オ ー ス ト リ ァ の 文 人 は,ヨ ー ゼ フ ・ロ ー ト,シ ュ テ フ ァ ン ・ツ ヴ ァ イ ク,ロ ベ ル ト ・ム ジ ー ル,ヴ ェ ル フ ェ ル,マ ッ ク ス ・ラ イ ンハ ル ト ら で あ る 。
オ ー ス ト リア の フ ァシ ズ ム 時 代 に つ い て
15
文 献
FaschismusinOsterreichundInternαtionale.JahrbuchfttrZeitgeschichte1980/81.
Hrsg.v.der6sterreichischenGesellschaftftirZeitGeschichte.L6ckerVerlag Wien.
KarlStadler,Osterreich19381945.Wien1966 A.Reisberg,、Februar1934.Wien1974
Garschha/Hautmann,Februar1934inOsterreich.Berlin1984 Kerekes,VonSt.GermanbisGeOf
∫osePhRausch,Z)erPartisankamPfinKOrnteni〃zZweitenWeltkrieg.
MiltarhistorischeSchriftenreihe.Hrsg.vonHeeresgeschichtlicheMuseum (Milit2rwissenschftlichesInstitut)Heft39/40.1979.Verleger:Osterreichischer BundesverlagGesellschaftm.b.H.Wien
ErikaWeinzierl,KurtSkalnik,Osterreich1918‑1938.GeschichtederErstenRe‑
publik.1.Styria1983.お よ び2.
SeppPlieseis.PartisanderBerg.GlobusVerlagWien[1971]副 題 がLebenskalllpf
eines6sterreichischenArbeiters.Hrsg.v.Dr.JuliusMader.
エ ン リ ヒ ・ タ ロ シ ュ,ヴ ォ ル フ ガ ン グ ・ ノ イ ゲ バ ウ ア ー 編,田 中 浩,村 松 恵 二 訳 『オ ー
ス ト リ ア ・ フ ァ シ ズ ム 』 未 来 社1996年 。(本 書 は,日 本 で の オ ー ス ト リ ア ・ フ ァ シ
ズ ム の 初 め て の 体 系 的 研 究 書 と さ れ,副 題 が 「一 九 三 四 年 か ら 一 九 三 八 年 ま で の 支
配 体 制 」 で あ る 。)