課程博士・論文博士共通
博 士 学 位 論 文 要 約
論 文 題 目: 「稼得とケアの調和モデル」の実現に向けて-国際比較と移行経路-
氏 名: 田中 弘美
要 約:
一家の主たる稼ぎ手の夫と家事や育児・介護の担い手の妻という性別役割分業にもとづく「男 性稼ぎ主モデル」は,産業構造や家族形態の変化が進むなかで社会・生活保障システムとして の機能を弱めてきた.このことは,母子世帯や子どもの貧困といった現代日本が抱える福祉的 課題を生み出し拡大する構造の一端をなしていると考えられ,「男性稼ぎ主モデル」転換の必要 性が唱えられてきた.また,「男性稼ぎ主モデル」の転換には,福祉的課題の発生・拡大の予防 だけでなく,個人や家族のウェルビーイングの向上,経済の活性化,財政への貢献など多層的 な社会的意義がある.しかしその一方で,では「男性稼ぎ主モデル」に代わる新たなモデルは 何なのか,いかにしてその新たなモデルを構築していくのか,といった議論は十分になされて いない.
そこで本研究は,「男性稼ぎ主モデル」の社会・生活保障システムを超克するため,このモデ ルに代わる新しい社会システムの「ビジョン」を提示し,さらにそれを現実のものにしていく
「移行経路」を明らかにすることを目的とする.この目的に迫るため,本研究は方法論として
「規範論」,「政策論」,「動態論」という3つの視点を導入する.「規範論」は「男性稼ぎ主モデ ル」に代わるどのような社会をめざすべきかという,新しい社会システムの「ビジョン」であ る.「政策論」は,その「ビジョン」 をどのような政策によって実現するかという「手段」で ある.なお,本研究では保育サービスや育児休業といった個別の施策ではなく,後述する5つ の政策群を「政策パッケージ」として包括的にとらえ分析する.そして「動態論」は,政策パ ッケージがどのようなプロセスを経て選択・形成され実施に至るのかという「道筋」である.
先行研究では各視点にもとづく研究蓄積はあるものの,3つの視点を相互につなぐことへの 意識は弱く,これまでほとんどなされてこなかった.しかしながら,これらの3つの視点が連 動してこそ,「男性稼ぎ主モデル」からの脱却のプロセスをより体系的に検討することが可能と なる.本研究は,先行研究におけるこの課題点を乗り越え,3つの視点を1本の軸で結びつけ る.そのことを通じて「男性稼ぎ主モデル」を超克するための具体的で実現可能な方法を考察 する.
本論は6章からなる2部で構成される.第Ⅰ部では,「男性稼ぎ主モデル」に代わってめざす べき社会システムの「オルタナティブ・ビジョン」を検討し【規範論】,さらにそのビジョンを 実現する「手段」としての具体的な政策パッケージを考察している【政策論】.まず,先行研究 の批判的検討を行ったうえで(第1章),これまで論じられてきた「男性稼ぎ主モデル」とは異 なるモデル・概念を整理し比較検討する.その結果,「稼得とケアの調和モデル」が今後めざす べき規範的モデルにふさわしいことが明らかになる.そのうえで本研究におけるこのモデルの
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定義を「ジェンダーにかかわりなく,稼得とケアの調和をはかりたいという個人の主体的な選 択・実現を支援する社会・生活保障システム」と設定する(第2章).
次に,欧州6か国(スウェーデン,フィンランド,ドイツ,フランス,オランダ,イギリス)
における政策パッケージ(①税制・社会保障制度,②ECEC サービス,③家庭内・外ケアに対す る現金給付,④育児休業制度,⑤労働政策の組み合わせ)の比較分析を通じて,「稼得とケアの 調和モデル」を実現しうる政策パッケージのパターンを検討する.その結果,先行研究で示さ れた1つのタイプの政策パッケージよりも多様な,3つの異なるタイプの存在が明らかになり,
それらを本研究オリジナルの「3タイプの政策理念型」として提唱する(第3章).
タイプⅠ「連続就労・公的ケア型」(典型国:スウェーデン)は,公的 ECEC サービスの充実 によって育児期を通じた親のフルタイム就業を支援する.他方で子が約1歳になるまでは育児 休業制度によって親の「ケアする権利」を保障する.タイプⅡ「断続就労・(選択的)家族ケア 型」(典型国:フィンランド)は,育児休業と現金給付を通じてタイプⅠよりも長い期間(子が 約3歳になるまで)親が自宅で育児に携わることを支援する.ただし同時に公的 ECEC サービス の利用も保障することで,親は家族ケアを強いられるのではなく「主体的に選択」することが 可能となる.ドイツとフランスもこれに類型される.タイプⅢ「柔軟就労・共同ケア型」(典型 国:オランダ)は,通常の働き方の柔軟性を高めて育児期を通じた親のパートタイム就業を支 援する.また ECEC サービスの財源・供給は,国家に限らず市場や雇用主などを含む多様なアク ターで共同分担する.イギリスもこれに類型される.
さらに,以上を踏まえて,欧州6か国において実際に男女がいかに「稼得とケアの調和」を 遂行しているかを統計指標から明らかにする(第4章).それを通じて,上の「3タイプの政策 理念型」と実態とがどれほどマッチしているかを考察する.
第Ⅱ部では,特定の政策パッケージが選択・形成される「道筋」としてのダイナミズムを明 らかにしている【動態論】.欧州6か国のなかでも日本と比較的共通点の多いイギリスを取り上 げ,労働党政権下(1997〜2010 年)で形成・実施された政策パッケージが,なぜタイプⅠおよ びⅡではなく,タイプⅢ「柔軟就労・共同ケア型」へ移行したのかを検討する.研究方法は,
政策関係アクター22 名を対象としたイギリスでのキー・インフォーマント・インタビュー調査 を採用している.
まず,なぜイギリスはタイプⅠ・Ⅱに移行しなかったのか.タイプⅠ・Ⅱは家族ケアの支援 のあり方に違いがある一方で,公的な ECEC システムの充実という点では共通している.そこで,
イギリスはなぜこの「北欧型」の ECEC システムに移行しなかったのかを検討する.その結果,
労働党政権は「北欧型」ECEC システムのアイディアはもっており,またそれを推進するワーキ ング・グループも存在していたことが明らかになる.しかしその一方で,①過去から引き継い だ政策遺産(歴史的要因),②重要アクター間におけるアジェンダ対立とこの解消の回避(政治 的要因),③子育てに関する親の責任の強調・容認(社会・文化的要因)という3つの側面にお ける制約があり,これらが「北欧型」に移行する選択肢を阻む要因となったと考えられる(第 5章).
次に,なぜイギリスはタイプⅢの方向に移行したのか.ここではタイプⅢの政策パッケージ において鍵となる「柔軟な働き方」制度の法制化プロセスを分析する.その結果,政府,官僚,
労働組合,使用者団体,ロビー団体,「仕事と親に関する特別委員会」など多様なアクターによ
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る実に複雑な交渉と妥協の過程を経てようやく成立した制度であることが明らかになる.紆余 曲折のプロセスのなかで各アクターがそれぞれ重要な役割を果たし,最終的に「全会一致の合 意」にこぎつけたことが,制度の法制化およびその後の拡大の鍵となる要因であったと考えら れる.ただし,父親のケア役割の推進に対しては政府内外に強力な対抗勢力が存在したことか ら,明示的な政策目標としては打ち出されなかった(第6章).
最後に,以上の第Ⅰ部と第Ⅱ部をとおして得られた知見が日本に与える政策的示唆について 検討している(エピローグ).
本研究は,「男性稼ぎ主モデル」の超克について「規範論」,「政策論」,「動態論」の視点を1 本の軸でつなげるという学術的に新たな試みである.そのなかで「稼得とケアの調和モデル」
の優位性およびこれを実現しうる「3タイプの政策理念型」を明らかにし,さらにこの枠組み にもとづいたイギリスの事例研究をとおして,政策形成過程において特定の政策パッケージへ の移行を阻害あるいは促進しうる要因を考察している.そこから得られる知見は,今後本格的 に「稼得とケアの調和モデル」に取り組まなければならない日本にとって重要な示唆を与える.
ただし,次の4点は本研究で十分に検討できず,今後に残された課題である.
第1に,「稼得とケアの調和モデル」をめぐる定義,すなわち「このモデルの到達地点をどこ に設定するのか」という問題である.本研究は「個人の主体的な選択」に軸足を置く定義を設 定したが,この点については研究者の中でも合意を得られておらず,議論をより深める必要が ある.
第2に,「3タイプの政策理念型」と実態との関係性について検証を深めることである.この 点は第4章で若干試みたが,体系的で綿密な考察には至っていない.今後はこの分析を深め,
さらにマクロレベルの制度・政策論に留まらず,地域や企業などメゾレベルの取組みなども視 野に入れて,政策が現実において実効性を発揮しうる具体的諸条件を追究していくことが重要 である.
第3に,「動態論」の研究に関する限界と課題である.本研究ではイギリスの政策関係アクタ ーにインタビュー調査を行ったが,アクセスに成功した人物のみを対象としているため調査デ ータの代表性には限界がある.さらに「移行経路」の理論化に関しては,イギリスの事例の検 討だけでは不十分である.イギリスでみられた要因は,ほかの国にも当てはまるのかどうかな どの点は,重要な検討事項である.
第4に,本格的な日本研究の必要性である.日本における政策的方向性についてはエピロー グで若干触れたが,今後は本研究の枠組みに日本を位置づけ,諸外国との異同や日本の特徴を 明らかにしていく必要がある.こうした作業をとおして,日本がとるべき政策的・政治的戦略 もより鮮明になっていくことが期待される.