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先師のおもかげ

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Academic year: 2022

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

先師のおもかげ

大谷, 雅夫

京都大学

http://hdl.handle.net/2324/4742098

出版情報:雅俗. 19, pp.136-139, 2020-07-15. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

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リレーエッセイ◉私の研究履歴

ちょうど五十年前、昭和四十五年に京都大学文学部に入学した。数年来の苛烈な大学紛争がほぼ終息して、しかし余燼なおくすぶり、ひと月遅れの入学式はゲバ棒にヘルメット姿の集団が会場に乱入して中止。やっと授業が始まったかと思うとすぐに無期限ストライキに入った。どこにも身の置きどころがないような気になり、やがて教室から足が遠のいた。誰でも取れると評判の授業の単位を次々に落とす体たらくだったが、三年次からの専門課程には、国史か国文かどちらかに進もうと考えていた。翌年、二年次学生に配当された専門課程の「国文学講義」に出席した。大柄に見える先生が、教卓の向こうにゆったりと腰をおろし、カードをめくりながら話を進められた。その講義の内容は、幸い なことに、佐竹昭広『民話の思想』(平凡社)によって思い出すことができる。のちの中公文庫版の「文庫版あとがき」によれば、この本の後半のもとになった『月刊百科』の連載は「勤務先の京都大学で、昭和四十五、四十六年度に講義をしたときの手控えにもとづきながら書」かれたものという。その四十六年度の講義を受けたのだった。第Ⅱ部「民話と外来思想」の「マメ祖のこと」「綾つつ、錦つつ、黄金さらさらのこと」「美目は果報の基のこと」などの章を読んでいると、先生の身振りや表情がふと目に浮かぶことがある。ノートなど取ろうともせず、先生の顔を見つめながら話を聞いていた。時間通りに講義が始まることはなかった。毎回、廊下を柔らかな足音が近づいてくるのを待っていた。その足音がいつまでも聞こえず、自然休講となることもあった。

先師のおもかげ 大谷   雅夫

●生年月日 

 

昭和二十六年八月三十一日●卒論題目 

 

「紀貫之論」●デビュー論文 

 

「恕とおもいやりとの間

伊藤仁斎の学問、その一端

」(「国語国文」昭和五十四年三月号)。博士課程に進学してみると、単位取得のかわりに、学年末に研究報告論文を提出することと制度が変わっていた。大学院演習の最後の回、報告論文が出せなかったらどうなりますかと質問したら、皆に大笑いされた。佐竹先生答えて曰く、敗北主義はよくない、と。気を取り直し書いて出したのがこれ。再読してみると、うるさい考証が多すぎて読むにたえない。●思い出の研究書

 

中村元『東洋人の思惟方法3』(日本人の思惟方法)。研究書も論文もあまり読まない方だが、これは熟読した。●研究以外の趣味 

 

趣味とは言えないが、ほぼ毎日、一時間ほど田舎道を歩くのが気晴らし。 ◎プロフィール

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『民話の思想』の平凡社版の帯には「花咲爺や猿地蔵、鶴女房や屁ひり爺等々の昔話から、因果や孝行など外来儒仏思想の外皮を剥ぎ、その基底を貫く日本人本来の善と悪の原思想を浮彫りにする精緻な意味論的考究」とある。そのような議論だとは、たぶん理解できていなかった。次々に繰り出される昔話、ことば、考証を追いかけるだけで精一杯だったに違いない。しかし、ほんのわずかにせよ、日本人の心とは何かを問うこと、そしてその方法を、この講義で学ぶことができたのかも知れない。いつのまにか、国文に進学することに心は決っていた。教養部の単位を大量に残しながら、三年次には希望通りに国文所属の学生になった。「読むことと書くこと」という不思議な題目の学部生むけの演習があり、出席した。待ちくたびれたころに着物姿の老先生があらわれ、わら半紙を一枚配り、国文に入ってどういうことを勉強したいか書きなさいと仰る。読み通したことのある唯一の古典であった『平家物語』について勉強したいと作文して提出した。次の授業では、先生は一枚のコピーを配り、翻字しなさいと指示された。谷 崎潤一郎の手紙だった。穴だらけの翻字を出した。そして三回目は、上級生が潤一郎について研究発表した。先生は、途中からうつらうつらしていたように見えたが、発表が終わると、よくできた、成長したねえと褒められた。それが定年退職前の野間光辰先生だった。その演習の四回目はなかったはずだ。後年、佐竹先生が、今年は講義を十回もしてしまったよ、と笑われるのを聞いた。その頃、私が受けた授業は年に数回だったのだろう。だからこそ、先生の足音に耳をすまし、一回一回の教室でのその風貌姿勢を目に焼き付けたのであろう。当時、文学部閲覧室の図書の借用願いには教員の認め印が必要だった。その印をもらいに、国語学の浜田敦先生の研究室をノックすることが何度かあった。先生は、朝早くから夕方まで部屋に居られた。ある時、ハンコをついて下さる先生に、敬語について勉強したいが、どんな本を読めばいいかと質問した。国語学で卒業論文を書いてみようかと考えるようになった三回生の冬だった。先生は、しばらく手を止めたあと、ぽつんと「自分で考えなさい」と言って、照れたように笑われた。 結局、国語学には進めず、卒論は紀貫之について書いた。非常勤講師の奧村恒哉先生の古今集の講義に心を惹かれたのだった。貫之の歌の見立ての表現を、躬恒と比較して論じた。ほとんど誰の著書も論文も読まず、旧の国歌大観を頼りに貫之集を繰り返し読んだ。試問では、佐竹先生からは「方法が幼い」と指摘された。また、奧村先生の手紙による講評には、躬恒との比較は「上面をなでただけ」という言葉があり、それを朗読した佐竹先生は「僕もそう思う」と付け加えられた。その通りの拙論であった。それでも「自分で考え」て書いたという手応えだけは得られたと思う。大学院修士課程に入学して、九州大学から関西大学に移られていた中村幸彦先生の大学院の講義を受講した。著述集第二巻「近世的表現」の書誌を見ると、昭和四十六年度に九州大学文学部、四十八年と四十九年に京都大学文学部と記してある。その四十九年度の講義であった。先生は、毎回、縦長の原稿用紙の厚い束を机上に置いて、それをゆっくりと朗読なさる。学生はそれをノートに書き写す。時折、ちょっと休みましょうかと、先生は四方山の

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話を始められる。民社党という今はなき政党名の出るような話もあった。ひとしきり談笑が続き、それではと、また原稿にもどる。正直なところ、私はそれまで近世文学の何も読んでいなかった。その講義にはまったく付いてゆけなかった。「カブキが」と聞いて、「キ」は手偏か人偏かと迷っているうちに、朗読はどんどん進む。ノートするのはあきらめて、先生の顔を眺めていた。他の院生たちは黙々と筆を走らせている。ある先輩は万年筆を使っていて、時々、書き違えをナイフでせわしなく削りとるのだった。そのシャシャシャッという音が、それを聞く焦りの気持とともに、今も耳によみがえるようだ。ある時、私はふと腕時計を見たその一瞬の後に先生と目が合ってしまった。先生はちょっと動揺されたふうに見えて、申し訳なかった。お昼前の授業だったと思う。ノートもとれず、腹をすかして時計ばかり見ている学生がいると、心配して下さったのではあるまいか。みなさん、一流の文学だけではなく、どうぞ二流三流の作品も読んでみて下さい。冨士山の高さを知るためにも、そのまわりの低い 山に登る必要があるのです。中村先生のその声には、いつもにもます力があった。一年の講義の終わり近く、あるいは最後の回だったかも知れない。それを実践できないまま今日に至ったせいか、かえって忘れられない教えとなった。伊藤仁斎の勉強をするようになったのも中村先生のこの授業がきっかけとなった。といっても、この年の講義に仁斎は出てこなかった。学年末の単位レポートが、各自専門とする文学作品の時代性について論ぜよという課題であった。私は卒論の貫之論を続けられず、それではさかのぼろうと、万葉集の勉強を試みたものの挫折していた。そのような文学作品を研究するより、なぜ学問をするのか、したいのか、しなければならないのか、学問そのものについて考えたいと思うようになっていた。そして、小林秀雄『古典と伝統について』の「学問」「徂徠」「辨名」などのエッセイに導かれて、仁斎の『童子問』を岩波文庫で読んで感動した。中村先生へのレポートも、仁斎で書いてみることに決めた。『古義堂文庫目録』や「文学は『人情を道 ふ』の説」などの先生のお仕事を知ったのはずっ と後のことだった。底冷えのする史学科の書庫の中で『童子問』『論語古義』『孟子古義』などの版本を見つけ、借り出して読み始めた。レポートの締めきりに間に合うはずがなかった。そのまま仁斎論を修士論文の課題とした。そして、その二年後に修士論文「伊藤仁斎の学問」を提出、さらに三年後にそれが「伊藤仁斎の詩と学問」(「国語国文」昭和五十四年十二月号)という論文になった。仁斎の詩に好んで詠まれる不易の直覚が、『論語古義』の「天下道有り」という特異な訓詁の根底にあり、しかも、それが敷島の道の永遠を詠う中世の歌道思想に通じることを論じたのだが、今思えば、それは仁斎の学問の時代性を問おうとするものだった。五年をかけて、先生の講義の単位レポートを書いたことになる。それにしても、思い出の中の先師、佐竹先生はもとより、野間、浜田、中村の三先生の年齢を、私がもうはるかに越えてしまったとは、信じられない事実である。先生方は還暦を少し過ぎた御歳にして、すでに老大家の風格があった。仰ぎ見るようなお仕事があった。それに比べて、といまさら卑下しても仕

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方がない。それより、これもいまさらだが、先師とここに称するほど、どの先生にも親しく教えを受けることができなかったのが残念でならない。遠くから見ているだけだった。ぶつかってゆけばよかった。中村先生、お言葉ですが、二流、三流を読めと先生が仰ると、後進はみな三流、四流を読むのではないですか。御巣鷹山に登ることに慣れてしまって富士にいどもうとしないと、その高根もやがて目に入らなくなるのではありませんか。一度も経験がないが、酒席で先生とご一緒できたら、こんなふうに、からんでみたかった。そうです、そうです。一流も二流も三流も、みんな読むのです。それでこそ時代性の研究なのです。そう言って、にこやかにお笑いになっただろうか。

雅俗研究叢書(既刊)のご案内

※各1部 1000円(送料別)

※お申込みは雅俗の会事務局まで(奥付連絡先参照)。

﹃福岡藩儒竹田春庵宛書簡集﹄

川平敏文・大庭卓也・菱岡憲司     平成

文人研究・地方史研究者必携の書。 図版、および差出人註、人名・書名・地名索引を付したもの。近世 庵。本書は諸家の春庵宛ての書簡全一一六通の翻刻に、主要書簡の   儒・て、 ₂₁年5月刊

﹃近世後期長崎和歌撰集集成﹄

𠮷良史明 

  ︵残部僅少︶

 平成

『玉園長歌集』『夜雨菴集』の三篇を収録。索引付。 て、か。 で、が、   国学者・中島広足が中心となった近世後期長崎歌壇。東西交流の ₂₄年5月刊

﹃小津久足資料集﹄

菱岡憲司・村上義明・吉田宰     平成

足筆応挙画番附』などを収録。全画像DVD付。 初めて翻刻したもの。『家の昔がたり』『非なるべし』『書目録』『久 時にあって大変ユニークである。本書は小津家に伝来する資料群を   伊勢松阪の国学者・小津久足(桂窓)その文学観・学問観は、 ₃₁年3月刊

﹃盧氏文書 盧草拙資料集

川平敏文   平成

要な資料集。索引および全画像DVD付。 諸儒からの来簡一〇六通の翻刻を掲載。長崎学壇を考えるうえで重 起草した。本書は深見玄岱・西川如見・向井元成ら、長崎ゆかりの   頭。稿 ₃₁年3月刊 第4輯 第3輯 第2輯 第1輯

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