九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
『在明の別』読解考 : 「この君はかりかにこもり給 て」を中心に
辛島, 正雄
九州大学 : 教授
https://doi.org/10.15017/1909877
出版情報:語文研究. 122, pp.18-30, 2016-12-25. 九州大学国語国文学会 バージョン:
権利関係:
『在明の別』には、新旧『とりかへばや』の女中納言を髣髴させる男装の姫君が登場する。ただし、「とりかへ」というモチーフの要請から、女中納言には男尚侍というペアが存在するのに対して、『在明の別』では女装の男君は登場しない。当初、権中納言という官職で登場し、すぐに右大将となった女主人公は、ひとりっ子でありながら、左大臣家の跡継ぎとしての男の立場と、入内して帝の母となる女の立場とを、両立させる。このようにして超人的な活躍を見せる女主人公の男装には、『今とりかへばや』の女中納言が、幼き日のみずからの性向の赴くまま男装の姫君となったのとは異なる、別の理由づけがあった。そのあたりの事情を、まずは物語本文に即して確認してみよう(『在明の別』の本文の引用は市古貞次・三角洋
一編『鎌倉時代物語集成
第一巻』[一九八八年、笠間書院]によったが、 『天理図書館善本叢書6
あさぢが露・在明の別』[一九七二年、八木書店]
により翻字を確認したほか、適宜活用語尾等を括弧内に補い、句読点・鉤
括弧・傍注等にも、必要に応じて私意を加えたところがある)。
をとゞの、をとなび給(ふ)まで、をとこ君むまれ給はで、つぎをはしますまじき世を、かしこきみちにもかんがえたてまつりけるを、いみじくおぼしなげきしあまり、さま〴〵の御いのりをし給(ひ)しに、この君はかりかにこもり給て、神の御しるべ、しめしつげ給(ふ)やうありければ、かく思(ひ)のほかなる御さまに、みなしきこえ給(ひ)てしなるべし。(巻一・6オ~6ウ/三一二頁)
この一節に関しては、妹尾好信「『在明の別』本文校訂覚
辛 島 正 雄 『在明の別』読解考 ― 「この君はかりかにこもり給て」を中心に ―
書」(『中世王朝物語 表現の探究』[二〇一一年、笠間書院]所収)において、先行研究を踏まえた検討がなされているので、まずはそれを引用する。左大臣に男子が生まれず世継がなかったため、さまざまな祈りをした結果、「この君」すなわち女右大将だけが生まれて、神の啓示があったので、女でありながら男子として育てることになったことを説明する箇所である。ここは、諸注「に」を「み」の誤写と見て、「みごもり給て」と校訂する。しかしながら、「この君ばかりが 0」という格助詞と整合しない感がある。そこで、「かに(可尓)」を「み(美または見)」の誤写と見て、「この君ばかりみごもり給て」と校訂することはできないであろうか。なお、鈴木一雄氏は、「かに」の上に「には」の脱落を想定し、「この君ばかりにはかにこもり給て」とする案を出された
(辛島注
―
鈴木一雄「『有明の別れ』ところどころ」[「金沢大学国語国文」6号、一九七八年三月])。それも一案であろうが、「こもる」だけで母の胎内に宿る意ととれるかどうかは疑問である。(三四〇頁)じつは、先行研究だけでなく、妹尾氏もとくに疑問を感じていないようなのだが、「みごもる」の語の認定そのものに問題があるのではないか。例えば、『日本国語大辞典
第二版』(二 〇〇一年、小学館)によれば、「みごもる(身籠・妊)」の語については一七七一年刊行の談義本『世間万病回春』が初例となっている。辞典の説明や用例は、あくまで指標となるにすぎないとはいえ、そのような語を、はるかに遡って『在明の別』の用語として認めるのには、やはり抵抗を禁じ得ないのである。鈴木一雄氏の改訂案も、あるいは「みごもり」の語を避けたかったものか、とも臆測される。では、「みごもり」の誤写と見る説を排したとき、どのように読むことが可能であろうか。あらためて「この君はかりかにこもり給て」という文字列に注目すると、「にこもり給て」とあるのは、例えば、「おやのうづまさにこもり給 00000へるにも」(『更級日記 藤原定家筆(日本名筆選
してみると、ここにはちょっとした脱文が生じていたのであっ とき、これはもう、「かすが」以外に考えられないであろう。 のだが、「○○○か」という文字列の参籠場所を思いめぐらす こもり給て」となり、囲みの部分に寺社名が入ることになる
る。そこで、「か」の文字を後ろに付けると、「かに 問題なさそうなので、あと残るのは「か」の一文字のみであ ととなる。いっぽう、「この君ばかり」についてはこのままで 『更級日記』の「うづまさ」のような寺社の名が期待されるこ とまったく同様の表現である。だとすると、その直前には、
43
)』[二〇〇四年、二玄社]八八頁)ためて、「この君はかりかにこもり 00000給て」という文字列が残されていたことは、まことに僥倖であったというほかない。そして、『在明の別』の読解において、今までどこと特定されることもなく、漠然と神の啓示や恩寵として理解されてきたことがらのすべてが、ほかならぬ藤原摂関家にとっての祭神、春日大明神による、左大臣家の継続と繁栄とを支えようとする神慮であった、と得心できるのである。
*
春日の神の啓示により、左大臣の指示で男装させられた右大将は、さきの引用文につづいて、「神の御しるべやげにいみ 00000000000
じかりけん 00000、そゞろにみをかくすことなんをはする。」として、「かくれみのなどいひけんやうに」(6ウ/三一二頁)、人に姿を見られないで行動することができた。この異能力は、右大将が妊娠した女を見つけ、自分の妻として迎える過程で有効に発揮され、結果的に生まれた男子が左大臣家の跡継ぎとなることで、男としての役割が完遂されることとなる。ただし、右大将は、みずからが男装して生きていることに、かならずしも納得・満足しているわけではなかった。左大将邸に忍び入り、左大将が今北の方の連れ子の姫君をかき口説 て、もとは、「この君ばかり〔むまれ給て、かす〕がにこもり給て」といった内容ではなかったか。神仏のお告げを得るためには、どこか霊験あらたかな場所に籠ることが必要であろう。『住吉物語』の「初瀬」、『石清水物語』の「八幡」、『むぐらの宿』の「清水」などが想起されるが、『在明の別』では、それこそが「春日」であったと思われる。左大臣は藤原摂関家の氏の長者らしいので、氏神を祭る「春日」ならば、家の存続を願って籠る場所としては、まさに最適であろう。陰陽師などに勘申させ、さまざまな祈禱を尽くした末、ようやく一子を授かったものの、それが女子であったため、途方に昏れた左大臣は、今後についての指針を得るべく春日大社に籠り、ありがたくも夢中に神の啓示を受けた、ということなのだ。後文には、右大臣(源氏である)邸に忍び込んだ右大将が、自身についての女房たちの噂話を憎らしく思って、姿を隠したまま(後述の、隠れ蓑の術による)、それを非難する歌を詠みかけたところ、「ようなきこときこえて、かすがの神の御とがめにや 000000000000」(
たことを読み取ろうとする私見が当たっているならば、あら 左大臣家の窮地を救うべく、春日の神がその祈りに感応し 受ける一族である、との認識のあったことが窺える。 があり、ここからも、左大臣家に対して、春日の神の加護を
19
ウ/三二〇頁)と戦く場面く様子を目撃したあとに、人のよのさま〴〵なるをみきくにつけても、めづらかなる御みのありさま、あはれにおぼしつゞけられて、「いとせめてをとゞの御ことをも思ひあまり、かく人に・ (ゝ)ぬふ (ま)
じらひをもするぞかし」と、「このみちをあはれとおぼさ 000000000000
ん仏天 000、ついにことのみだれなくまもり給はなん 000000000000000000」とねんじ給ふも、げに思ふことなかるべきみに、あぢきなき御もてなしなり。(9オ/三一四頁)と描かれているごとく、左大臣家の存亡を賭けて、やむを得ず遂行する男装なのであり、異常な事態が露顕し、現状に破綻を来さないためには、「仏天」に無事を祈るほかすべはなかったのである。この隠れ蓑の異能力は、帝から正体を見破られたのち、右大将死去と称して男装を解き、女御として入内し、帝の子を身ごもった時点で、「なにとか、このよの人のしわざにもあら 0000000000000
ず 0、うちまぎれかくろえ給(ひ)にし御ありきも、よのつねの御ちぎりのまぎれにや、ありしごともをはせねば」(
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ウ/三五三頁)として、失われたことが明記される。これに先立ち、嫡男の喪中にもかかわらず帝と対面した左大臣は、いよいよ姫君を入内させる決意を固めるのだが、その間にも姫君の身には、「わざとたばかり給 00000000(ふ 0)神仏の御しるしにや 000000000、御ぐし も四五月にたけにあまりぬ。」(
に塗って、なんとか髪の伸びを早めようと努力した(にもかか えて女姿になったあと、吉野の宮から贈られた唐物の薬を日々 ていた。思えば、『今とりかへばや』の女中納言が、出産に備
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ウ/三五二頁)との異変が起きわらず、のちに帝が垣間見たときの印象は、全体の美しさに比して丈が足
りない、というものであった)のに較べて、神の手厚い加護を蒙る者の、なんと特別扱いであることか。また、春日の神の啓示により、たったひとりの女子を男装させた左大臣であったが、そこには、さらに意外な過去があった。物語第三年(この年の八月十六日に、右大将の正体が暴露される)の正月、左大臣邸で臨時客が催されたおり、現れた右大将の麗姿に、邸内の人々が感動の涙を流す様子を描いて、次のように記す。
右大将は、上らうの納言おゝく物し給へば、あまたのぼり給(ひ)ぬるのち、たちいで給える御さま・かたち、くまなきはるのひかげに、あまりゆゝしきまでみえ給(ふ)を、とのゝ中の人は、ましてなみだをとすべし。あまりかなしき物におぼしければ、「むまれ給えり」といふきこえをだにつゝみて、十ばかりになり給ふまで人にしらせ給はざりしを、「あまりの御心ども」とて、人にあり
しかど、みたてまつる御ひかりは、げにことはりに、あはれにぞ思(ふ)べかめる。(
35
ウ~36
オ/三三〇頁)ここで明らかになったのは、左大臣はわが子の出生を、十年にもわたって世間に秘匿していたという驚愕すべき事実である。理由としては、「あまりかなしき物におぼしければ」
―
要は、大事にするあまりに―
というのだが、ここからは、さきの神託に従って、女子を男子として振る舞わせるべく、そのための準備期間でもあったことが容易に想像される。左大臣は娘に対して、物心がつくや、すぐに男子としての教育を秘密裡に開始したであろう。娘も父の思いを理解し、その期待にこたえようと、飛び抜けた聡明さでもって学問・教養を身につけていったに違いなく、元服して世に出る見込みが立った頃あいに、「じつは……」というようなかたちで公表したものであろう。加えて、左大臣は、授かったのは男子と女子のふたりである、とも公表したはずである。物語第一年、右大将が十六、七歳と考えられる時点で、帝が、「いとゞひめ君の御まいりを、せめの給はすれど、をとゞ、いみじくつれなくのみもてなし給(ひ)て」(5オ/三一一頁)とあるので、すでに裳着も終えて、いつ入内があってもおかしくない状況であったのだ ろう。さらに想像を逞しゅうすれば、相次いで男子と女子が生まれたのを、どちらも秘密にしていたというのも不自然すぎるので、あるいは、授かった子どもが双生児であった、ということにして、尋常ならざる出生ゆえ、特別に注意を払って成長を見守る必要があり、それゆえ公表が憚られた、といった口実を設けたか、とも考えられる(双子の誕生する物語に『苔の衣』があり、そこでは姉妹のひとりをすぐに連れ出して、双子であるこ
とを隠そうとした)。左大臣夫婦に子ができず、家の将来が危ぶまれることは、誰もが承知していることであったろうから、異様なかたちでの公表にも、深く疑念を抱く者はいなかった、というのであろうか。なお、「人にありしかど」とある本文について、大槻修氏は、「このあたり、錯簡、脱文あるか。」として、「右大将の出生については、前文〔六〕(四四、四六ページ)(辛島注
―
前掲した「をとゞの、をとなび給(ふ)まで、をとこ君むまれ給はで」以
下の部分)に、一応その秘密が語られており、随分離れたこの個所で、再びその数奇な生い立ちを描くのも、考えてみれば、不審感が残る。」(『有明けの別れ
―
ある男装の姫君の物語―
』[一九七九年、創英社]一〇六頁脚注。大槻氏『在明の別の研究』[一九六九年
一〇月、桜楓社]補注一四九頁にも同様の指摘がある。両書には、ほぼ同
様の説明がなされているので、以下、とくに必要のないかぎり、より新し
い前者によった)と説くが、妹尾氏前掲論文では、本来は「人にあか 0しゝ 0かど」とあったものの誤写・脱字と見て、「女右大将の誕生を十歳程になるまで人に知らせなかったが、それではあんまりだというので、その存在を人に明かしたのだが」と解しており(三五〇頁)、いま、その改訂説に従う。また、右大将の出生にまつわる記述が前後で重複するとの指摘であるが、両者はまったく別のことがらについて明らかにするものであり、ふたつを合わせることで、ようやく左大臣の娘の扱いについての全容がわかるようになっているのであって、けっして「不審」を覚えさせるようなものではない。ともあれ、同じく異性装の物語であるとはいえ、『今とりかへばや』では、男女きょうだい(異母きょうだい)の誕生から、ふたりが成長し物心がつく過程で、いかにして男装、あるいは女装することとなったか、その内発的な必然性(めいたもの)が丁寧に辿られていた。かたや、すべてが春日の神の啓示に端を発する『在明の別』では、常に神慮に護られて、異能力さえ自在に発揮する右大将も、左大臣家の存続と繁栄のための方便として男装していたにすぎず、『今とりかへばや』が投げかけた性差の自明性についての懐疑などは、もとより関心のほかであった。
*
こうして見てくると、左大臣は春日で授かった神の啓示を信じ、ひとり娘に家の将来を賭けて、周到に事を運んだことがわかる。そして、男として振る舞いはじめるや、右大将は、左大臣の不安をよそに、その思惑を超えて、万事において卓越した才能を発揮し、たちまちにして宮廷社会の寵児となったらしく、そのあたりの事情が左大臣の回想として、次のように描かれている。
をとゞも、思(ひ)のほかに、あるべくもなきことにはおぼしたりしかど、ならひ給(ひ)しみち〳〵の御さとりふかさ、いはけなくて御あそびにの給(ひ)いでしより、むかしなにがしにとまりけんは、めでたかりし御けはひなどを、えひきこめず、またみしゆめをさえ、かゝるかたにをもてをこし給へ (ママ)て、さま〴〵にもてかくしにへかりし御さまに、おぼ・ (し)かまえてし御さまなれば、いまさらにひかりうせなんは、いみじくのみおぼされて、「いまはただ、かくてもおはしはてなん」とおぼす物から、ひめ君の、丁のうちも (に)こもりをはすとて、いづべき
よなきも、はへなくわびしくおぼさる。(
44
ウ~45
オ/三三五~三三六頁)
じつのところ、全体的に焦点の定まらぬ、相当にわかりにくい文章だといわざるを得ず、大槻氏も、「このあたり省筆または脱文あるか。」(前掲書一二二頁脚注)と疑っている。意を汲もうにも、どうにもお手上げの箇所もあるのだが、できるだけ丁寧に文脈を辿ってみよう。まず、「左大臣も 0」といっているのは、直前に右大将が、男装をつづけることの限界に思い悩み、出家への傾斜を強めていることが描かれているからであり、「(右大将本人だけでなく)左大臣としても、娘に男装させていることを、願ってそのようにしたわけでもなく、このままでよいことでもないとはお思いであったが」とはじまる。それでも、「娘は男として学んだ諸道へのご理解も深く」、男としての社会生活も順調な滑り出しであった、ということなのであろうが、それ以下の解釈がむずかしい。つづく一文は、「若年のころに(あるいは、幼い姿で)管絃の遊びのおりに口になさったことをはじめとして」と、いちおうの理解はできるのだが、「御遊びにのたまひ出でし」というのは、具体的にどういうことなのか。「いはけなくて」というの は、出生の事実を公表してから元服するまでの、十歳から十二歳くらいまでのことをいうのであろうか。「のたまひ出でし」というと、漢詩をその場で作ったようにも思われるのであるが、「御遊び」のおりなので、その場にふさわしい漢詩でも吟誦したということであろうか。いずれにせよ、解釈が定まらない。「の給(ひ)いでし」が「しいで給(ひ)し」とでもあれば、なにか楽器を披露したことになり、「御遊び」とも整合するし、物語中すでに二度にわたり笛による奇瑞を起こしていることとも繫がって、理解しやすいのであるが、安易な本文の改訂は慎むべきであろう。次にくる「むかしなにがしにとまりけんは」が、まったくわからない。「その昔、某所に留まったとかいうのは」の意だとすれば、なにか故事を引き合いに出しているようでもあるが、詳細は不明である。そのあとは、「(披露した音楽などが)すばらしかったご様子などを、隠しておくことができず」、そのため人々に称賛されて、ほどの意であろう。ついで、「また、かつて見た夢についてまで、このような
(才芸の?)方面で左大臣家に面目をほどこしなさり」というのは、春日の神の啓示によるやむを得ぬ男装であったにもかかわらず、かえって想像を遙かに超えて左大臣家に名誉がもたらされた、ということであろう。すると、この「見し夢」と
は、ほかでもない、前述の、「〔かす〕がにこもり給(ひ)て、神の御しるべ、しめしつげ給(ふ)やうありければ」ということで得た、霊夢のことであるに違いない。右大将の卓越ぶりについては、男装の継続に悩むくだりに、うぢをつぎ、くらゐをきはめ給はんに、いさゝかをよばぬ所なく、をとゞにはさしすゝみ、このころより、ときのかんだちめ、をゝくをはするふる人どもにはすぎて、なにがしのさだめ、そのときといふにも、たゞこの君の御ざへをのみ、よのめでぐさにしたれば、わかき御身の、いかゞをしまれざらん。(
(ひ)あはするよもがな」(6オ/三一二頁)、あるいは、「みし 00 なお、「みしゆめを」という表現は、「みしゆめをいかで思 00000 ものがある。 れていて、まさに「面おこし給」うた、というにふさわしい 駕し、博識をもって公卿たちの信望を集めていることが記さ とあるごとく、若くして(十八、九歳か)父左大臣をすでに凌
44
オ/三三五頁)ゆめを 000思ひあはするみちや」(
20
オ~見えたものであるが(前掲『在明の別の研究』六五頁頭注(三三)にも
20
ウ/三二一頁)と、すでに指摘がある)、これらはいずれも、右大将が、かつて見た夢の意味を知りたいと思うものであり、こことは指すものを異にするので、混同しないように留意したい。 「さま〴〵にもてかくしにへかりし御さまに」の傍線部は、従来、「に」を「す」の誤写と見て、「もて隠しすべかりし」と読まれていたところであるが、むしろ、「へ」が「く」の誤写で、「もて隠しにくかりし」と読むべきではあるまいか。「あらゆる状況で目立ってしまうため、(秘密の露顕を惧れるからとて)人に見られないようにはしにくいお姿だと、左大臣もひそかに思案しておられたお姿なので」とでも解せよう。「今さらに」以下は、右述のような、左大臣家にとって窮余の策であったはずの娘の男装が、不安を吹き飛ばすような吉と出たことから、せっかくうまくいっているのに、それをこの期に及んでご破算にすることへの躊躇と、男装をさせたままでは、姫君の出番がいつまでも来ないことへの嘆きである。大槻氏は、「もて隠しすべかりし」の本文により、「女大将が女子であることを、あらゆる手段をもって、隠し通してきたのに、そのかいもなく。」(前掲書一二二頁脚注)との文脈理解を示しているのだが、それでは「今さらに」以下への繫がりが悪いように思われる。十分に解きほぐせたとはいいがたいが、全体をまとめてみると、およそ次のような内容となる。
(右大将本人だけでなく)左大臣としても、(娘に男装させている
ことは)願ってそのようにしたわけでもなく、このままでよいことでもないとはお思いであった。それでも、娘は男として学んだ諸道へのご理解も深く、(宮廷社会へも順調
に溶け込んだ。)元服前に童姿で管絃の遊びのおりに口になさったこと(が評判になったの)を皮切りに、その昔、某所に留まったとかいう人のように、(披露した音楽などが)すばらしかったご様子などを、隠しておくことができず、
(そのため、いよいよ人々に称賛されることとなった。)また、かつて見た(娘を男装させて世に出せ、との)夢についてまで、(あ
れは窮余の策であったのに)このような(才芸の)方面で左大臣家に面目をほどこしなさる。こうして、あらゆる状況で(目立ってしまうため、秘密の露顕を惧れるからとて)人に見られないようにはしにくいお姿だと、左大臣もひそかに思案しておられたお姿なので、この期に及んで、当世の光明ともいうべき傑物がいなくなるのは、たいへんな損失だとばかりお思いになって、「ここまでうまくやってこられたのだから、このように男装したままで、きっと生涯を全うできるだろう」とお思いになる。そのいっぽうで、姫君が帳台の奥で大切にされているという状態のまま、その存在が日の目を見ることがないのも、宝の持ち腐れで、意のままにならぬこととお思いになる。 このあと、右大将の身に重大な事件(帝によって正体が暴露さ
れる)が起きることとなるが、それを承けて左大臣がいかに対応し、さらには宿願がいかに成就するかなどについては、すべて省略に従う。以上、『在明の別』において、藤原摂関家の氏の長者たる左大臣が、家の存亡を賭けて、春日大社において蒙った神の啓示に従い、たったひとり授かった娘を男装させ、危機を乗り切ろうとした事情を確認してきた。春日の神の加護は、右大将の隠れ蓑の異能力や、女に戻るさいの髪の毛の急速な伸長という目に見えるかたちで左大臣家を援け、左大臣も、子ども(世間向けには、子どもたち)の誕生を十年間秘匿するなどして、娘の男装への準備に万全を期したことも窺えた。右大将の出生についての最初の記述に、前述のような本文の損傷があったため、この物語において「春日の神」の担う意義は、従来まったく気づかれずにいたのであるが、今後は、このことをも踏まえて、作品理解が深められることを期待したい。
*
ところで、『在明の別』の左大臣家が藤原氏であることは、『源氏物語』などの平安物語に馴染んでいる読者にとって、じ
つは違和感を覚えさせるものなのではなかったか。そのような読者には、平安物語の主人公の約束事として、皇統に連なる者であることが必要条件である、という文学史的な常識が刷り込まれてもいる。右大将も、母が皇女なので、皇統に連なるということでは例外ではないのだが、藤原摂関家の一員として自家の繁栄の一翼を担っているので、『源氏物語』でいえば、光源氏のライバルである頭中将(左大臣の長男で、母は桐
壺帝と同じ后腹の皇女)が、この物語では主人公の座に就いているようなものである。しかし、『在明の別』に先立って、『今とりかへばや』でも主人公きょうだいは藤原氏のようであり、『狭衣物語』や『夜の寝覚』、『御津の浜松』とつづく源氏を主人公とする物語の伝統は、しだいに変質してきているようである。そして、そのような物語では、当然ながら藤原氏の繁栄が描かれることとなり、それに絡んで、氏神としての春日大社への言及も目立ってくる。さきに、右大臣家の女房たちが右大将の噂話をする場面を引いたが、そこに「かすがの神」が見えることについて、大槻氏は、次のように述べている。春日神社の祭神、藤原氏の氏神。円融
―
後一条帝の代は、皇后・中宮・女御すべて藤原氏出身だが、後朱雀帝のこ ろから変わってきた。院政開始の応徳三年(堀河帝、一〇八六)には、公卿総数廿五人のうち、藤原氏出身一七人、源氏出身八人という激変期を迎える。ただ、この作品の場合は、立后に絡む「春日の神の御咎め」としてでなく、全般的な藤原氏への悪口に対する「春日の神の御咎め」として用いられている。(七二頁脚注)文中の「立后に絡む「春日の神の御咎め」」というのは、藤原氏以外の中宮・皇后がつづくことについての、藤原氏の祭神たる春日の神の思惑をいう。中古・中世の物語のなかで、「春日の神」についての言及が、時代とともにどのように変化していったかについては、新間水緒「物語と社寺―
中宮物語絵巻理解のために―
」(絵詞研究会編『中宮物語絵巻の研究』[二〇〇六年、臨川書店]所収)の「春日社
―
氏の明神・入内・立后問題―
」の項に、手際よく整理されている。そこでは、まず、「『源氏物語』の中の春日社は、栄え行く源氏に押され気味の藤原氏が、女の入内・立后問題に氏神として強く意識される場面で、「春日の神の御心」、「春日の神の御ことわり」が云々されている」(一六〇頁)との指摘があり、それを承けるかたちで、『狭衣物語』でも、「源氏の皇后が続くことについて、「『うちつづき、春日の神もいかが思さん』と、世のひとも悩めど…」(巻四)という一文があり、物語の中でも嵯峨院・後一条院・狭衣と三代続けて皇族出身者が立后するという設定になっている。」(一六〇頁)という。そのいっぽう、しかしこの場合は、『源氏物語』とは異なり、架空の設定ではなかった。『狭衣物語』の成立時期とされる後冷泉・後三条・白河・堀河朝は、いずれも源氏の女が立后したという事実があり、「よのひとも悩めど」という表現は、現実の政治状況を反映していたからである。しかし以後の物語の中では、その後の政治状況や物語作者・享受層を反映してか、藤原氏の立后・御産が、圧倒的に多く描かれるようになる。(一六〇~一六一頁)と、大きな変化が現れたことを指摘し、具体例としては、『我身にたどる姫君』巻四に、藤壺中宮の御産にさいし、祖母の女院が「氏の大明神」に安産と皇子誕生を訴える場面がある
(ここでは、春日明神に対してだけでなく、藤原氏の氏寺である「山階寺
(=興福寺)」の本尊へも祈りを捧げている)ことや、『風葉和歌集』所収の散逸物語『夢がたり』に、春日に籠って夢告を得る(諦
めずに将来の繁栄を待て、と詠みかけられる)話があることを紹介している。そして、「物語における春日社は、藤原氏の氏神という性格が常に前面に出ているところに特色があるといえよう。」
(一六一頁)と総括している。 そのほかの例についても一、二補っておくと、『風につれなき』でも、関白が娘である中宮の御産にさいし、占いでは皇子誕生と出るものの、やはり氏神の意向を知りたいということで春日の社に参籠し、神楽などを奉納したのち、暁がたに、夢現のなか、皇子誕生と、それと引き換えの中宮死去を予告する歌を授かり(大槻修・田淵福子・森下純昭校訂・訳注『中世王朝
物語全集6
木幡の時雨・風につれなき』[一九九七年、笠間書院]一五〇
頁)、その後、夢告のとおりとなる。また、『我身にたどる姫君』巻八には、「長月のころ、左の大臣春日に詣でて、取り分き祈り申し給ふことなどやありけむ。神も仏もあやしき御言のみぞ多かる。」(片岡利博校訂・訳注『中世王朝物語全集
21
我が身にたどる姫君・下』[二〇一〇年、笠間書院]一九〇頁)とあり、殿の左大臣が、麗景殿女御との間に儲けた女子を、春日明神の神託を契機に探し当てる、という話も見える。『在明の別』の場合、女御の二度にわたる御産(ふたり目のと
きは、すでに中宮となっている)のおり、とくに春日の神への言及はなく、無事皇子が誕生したことが記されるのみである。そもそも、その誕生時から、左大臣家の将来のために、春日の神の采配に従う運命だったのであり、男装を解き、置かれた状況が変わろうと、その加護から漏れることなどあり得ないのであろう。
*
最後に、『在明の別』の成立圏に関して、それが九条家、とくに藤原兼実の周辺と関係が深いと考えられることを、金光桂子「『有明の別』と九条家」(「国語国文」
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巻3号、二〇〇八年三月)が論じていることに触れておきたい。金光氏は、『在明の別』における左大臣と右大将との関係が、『栄花物語』等に見える藤原頼通と長男通房との関係を下敷きにしたものである可能性を指摘するとともに、さらにそこには、兼実と嫡子良通との関係までもが影を落としているのではないか、という。そして、右大将を急逝したと偽り、姫君にすり替えて入内させたことについて、この事態は、主人公の側からいえば、男から女に戻ったということであるけれども、外側から見れば、摂関家の嫡男が急死した後、その妹が入内したということに他ならない。つまり、良通・任子の場合とまったく同じ形なのである。(一三~一四頁)とも指摘する。兼実の娘任子の後鳥羽天皇への入内は、良通の亡くなった二年後、文治六年(一〇九〇年)のことであるが、良通を喪い、出家まで考えていた兼実を思いとどまらせたの は、任子入内への期待であったろうこと、そしてそのさいに、氏神である春日大明神への祈請が成就するであろうとの夢を、妻や自身も見たことが、支えとなったらしいことについても、『玉葉』や『愚管抄』に基づく考察がある(一二頁)。金光氏は、「『有明の別』が九条家の人々の願いを託して作られた物語だったとすれば、それは、任子にまだ皇子誕生の期待が残っている時期であったかと思われる。」(一九頁)とも説くが、さきの新間氏の論には、「摂関家姫君の春日社参詣の歴史的事例」(一
七一頁)として、治承元年(一一七八年)の任子五歳のおりの例のあることが指摘されてもいた。兼実もまた、『在明の別』の左大臣同様、春日の神に祈りを捧げ、自家の繁栄を願った者のひとりであった。大槻氏が、前掲のように、「立后に絡む「春日の神の御咎め」としてでなく、全般的な藤原氏への悪口に対する「春日の神の御咎め」として用いられている。」と指摘するのは、その場面の理解としてはそのとおりであるのだが、そもそも『在明の別』の世界を裏で操作・支配するのが、ほかならぬ「春日の神」だったわけであり、そのことを本稿では明らかにしてきたつもりである。そのような神の冥加に護られ、からくも家の存続と繁栄とを実現するこの物語は、巻三の大尾近く、太政大臣となったのち大堰に隠棲した左大臣の、「いとしづか
ながらはてさせ給」(
ととしたい。(二〇一六年十一月稿) 感想を抱きながらも、今はこのあたりでひとまず筆を擱くこ な現実を反映するものであるかもしれない。
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そのような 神」の扱いを超えて、たしかに金光氏の推測するような苛烈 た物語のありようは、従来の作り物語での常識的な「春日の の加護の物語の幕を引こうとしているようであるが、こうし45
ウ/四四四頁)う臨終を描くことで、神〔付記〕本稿は、二〇一五年四月に始まった『在明の別』の輪読会(ありあけの會)での報告(同年六月十三日に担当)を基に、考察を深めたものである。また、「この君ばかり〔むまれ給て、かす〕がにこもり給て」と脱文を想定する私見については、中世文学会平成二十八年度秋季大会(期日:十月二十九日~三十日 会場:愛媛大学)での公開講演会「中世王朝物語研究事始」において、簡単に披露した。
(からしま まさお・本学教授)