International Inoue Enryo Research『国際井上円了研究』8(2020): 136–149 ISSN2187-7459
©2020by International Association for Inoue Enryo Research 国際井上円了学会
【 論文 】
(※井上円了没後 100 周年記念国際シンポジウムでの発表に基づく)井上円了とムハンマド・アブドウにおける進化論
―宗教を中心に―
ハサン・カマル・ハルブ
(Hassan Kamal H
ARB, Cairo University)
はじめに
19 世紀における非ヨーロッパ諸国は、圧倒的な影響力を持つ西洋文明から伝統を 守るため、各国がその対応に追われていた。日本は、エジプトより半世紀後から欧 米諸国との本格的な接触が始まった。その後日本がイギリスの同盟国になったのに 対して、エジプトはイギリスの植民地になった。エジプトと日本の両国において、 従来の伝統と西洋文明とを適切に位置付けることに啓蒙思想家たちの苦悩があっ た。本稿では、19 世紀後半に日本の井上円了(1858-1919)とエジプトのムハンマ ド・アブドウ(1849-1905)が、強い影響力を持つ西洋文明を、そして西洋文明を象 徴する進化論をどのように受容し、利用したかに焦点を当てる。 円了とアブドウ、それぞれの進化論の受容に関する両者の立場については既に論 じられた試みがあるが、両者に関する比較研究はない。円了とアブドウの進化論に おいては、様々な課題が取り上げられるが、本稿では円了の『真理金針』とアブド ウの『第 3 巻 Al-islam bayen Al-lm wa Al-madanyya(科学と文明におけるイスラー ム)』(以下、『第 3 巻』と略称する)を中心にして、両者が進化論を通じて、どのよ1.円了とアブドウの進化論
本章では、円了とアブドウの進化論を全体的に紹介しつつ、その背景を明らかに する。また、両者がどのように進化論を信じているかを明瞭にする。まず、円了の 進化論を見てみよう。 1.1.円了におけるキリスト教普及への抵抗 幕末から明治維新にかけての西洋との出会いは、日本の歴史の中でも大変革であ ったと言えよう。日本人は、黒船来航で欧米の強大な軍事力を知り、それによって 従来の鎖国生活を根底から覆し、欧米列強の品物や武力などのみならず、日本で抑 圧されてきたキリスト教が再生する状況となる。それはキリスト教文化が欧米列強 と対等に渡り合うための手段だと見做されたからだ2。メディアの面においても、 明治初期には端的には 『七一雑報』や『六合雑誌』のように、キリスト教を文明の 宗教として提示するようなものが登場した。一方、仏教を弁証するメディアは排耶 論が中心であった。その他『六合雑誌』と『明教新誌』では相互の論説を参照しな がら自らの正当性を競うような議論が行われていた3。 「耶蘇教」への批判は、少なくとも幕末期から仏教者の重要な課題となり、キリ スト教が日本列島に流入する危険性について注意喚起し続けた。しかし、1880 年代 以降、「西洋」の学問や法的体系が日本に導入されるにつれて、それまでに展開さ れていたような「排耶論」が変貌することとなる。すなわち、「排耶論」は、「哲 学」や「宗教」といった、普遍性を装うようなカテゴリーの枠組で展開されるよう になったのである。1881 年には国会開設が宣布されると、「国家の元気」を図るた めの「宗教」に関する議論が高まり、またそれは、明治政府が「不平等条約」の改 正を目指して各国公使とのより積極的な交渉に取り組み、その実現に際して「内地 雑居」なども避けられない事実として認識されるようになった時期でもあった4。 日本近世における大乗非仏説とは、「大乗仏教は、釈迦の説ではない」という主 張のことである。近世から継続した仏教衰退期における主な論争の一つであり、日 本仏教思想近代化の歴史的過程を如実に示すトピックである。従来、大乗非仏説の 歴史的展開は、近世中期の富永仲基から、明治時代の仏教学者・村上専精らと清沢 満之の精神主義に至るまで、いわゆる近代合理性の単線的な図式として描かれてきた5。こうした状況の中で、キリスト教と西洋哲学を区別しつつ、西洋哲学が提供 する諸々のカテゴリーを通して仏教に意味を見出そうとしたのが、井上円了であ る。井上円了は『真理金針』等において、進化論を使って知力の宗教と感情の宗教 という型を設定した。キリスト教は後者にすぎないとし、仏教は両方とも兼ね備え た宗教であるので、仏教は、キリスト教に劣らない、むしろ優れた宗教として自己 を主張する6。 円了の進化論との付き合いは東京大学時代から始まった。当時同大学の教員の専 攻は、自然科学であった。例えば、外山正一は化学、矢田部良吉は植物学、モース は動物学、フェノロサも動物学を専攻しており、彼らは何れもダーウィンの進化 論、スペンサーの哲学を教授していた。円了が如何に進化論を理解していたかは、 当時の生物学者である石川千代松の証言からわかる。生物学者石川千代松が井上円 了の進化論について語った以下のような記述がある。 井上円了君、君は私より少し遅れて東京大学を出られたと思って居ます。確か君 が出られたのは明治十八年であったと覚えて居ます。専門の学問は違って居たが 在学中でも能く話をした事は君もよく覚えて居られたでせう。其話の多くは進化 論に関係した事であったと覚えて居ますが、私が明治二十二年に欧米から帰って きた時に、君の口頼みで哲学館で進化論の講義をした事をも覚えて居ます。あの 時には君も熱心に私のツマラナイ講義を聴いて下さって、当時にも其後も君が進 化論の事柄に就いて私に質された事で、私が君に終始感服して居た事は、君は他 の哲学者連と違って能く事実に重きを置かれて居た事であった。或る日君の哲学 館で易の先生と私と一緒に課外講義をした後で、其先生と小生との間に一寸議論 が起こった時にも、君は事実だから誰が何んと云はうとも進化論は今日では最早 動かす事のできない真理であるだらうと述べられて、私の説に加勢して下さった 事も今まだ覚えて居す7 上記の証言のように、井上円了は明らかに進化論を受け入れ、大学時代から生物 の進化は動かすことのできない真理であるというふうに考えていたようである。そ して円了は、進化論を通していくつかの目的を果たそうとしていた。それは、進化 論の法則によってキリスト教の優越性に対して衰退している仏教の興隆を説き、仏 教徒の危機感を煽ることである。また、キリスト教の教義と組織に負けない仏教と
なるように改革することである。さらに、キリスト教は非科学的で、仏教は科学的 であることを弁証することである8。 1.2.アブドウの進化論とイスラームの弁証 エジプトでは、19 世紀前半においてはイスラームに則した近代化というより、純 然たる西洋化を目標としていた。こうした世俗的な方針は、イスラームの現実的な 弱点を近代化の失敗モデルに位置付け、発展した西洋を理想的な模範と見なしたた めである。換言すれば、ヨーロッパ、とりわけイギリスとフランスがエジプトを含 むイスラーム世界の民族主義者と世俗国家の支持者にとって完璧なモデルであっ た。一方、イスラームのモダニストは、イスラーム世界の独立を実現し、西洋化に 対してイスラームのアイデンティティーを保護するための唯一の方法はイスラーム に基づく近代化であると考えていた。イスラームのモダニストは西洋文明の恩恵を 認めつつ、イスラーム文明よりも優れている西洋文明への対応に頭を悩ませてい た。その中で、ジャマル・アルディン・アルアフガーニー(1839-1897)とアブドウ が西洋思想、特に西洋思想の代表とも言える進化論を用いたアプローチにより、宗 教(イスラーム)の必要性を弁証した。 アブドウは、西洋の学術の優位性とイスラームの道徳と精神的な優位性を論じつ つ、その間の中立的な立場をとろうとした。彼は、すべての現象に対して、理性に 基づいて合理的に考えて解釈すべきであると奨励しているが、進化論に対する彼の 態度は肯定的でもなく、否定的でもない。アブドウの否定的な態度は、ほぼ師匠で あるアフガーニーから受けた影響である。アフガーニーの考えを採用し、その著作 『物質主義者への反駁』をエジプトのみならずアラブ世界に広めていた9。彼は、 イスラームの本質に害を及ぼさないように、イスラームの伝統と近代化の間の調和 が必要であると考えた。換言すれば、西洋文明の優位性を認めているが、イスラー ムの精神的な優位性と西洋技術の優位性を調和させることによって理想の社会が実 現できると考えている。具体的には、イスラームの精神的で倫理的な優越性と、西 洋の物理的で進歩的な優越性の調和である。そのため、彼はイスラーム教徒が近代 科学を学び、合理的に自然と社会のすべての現象を解釈するように勧めている。し かし、彼の合理性はコーランの解釈や信仰と倫理に関連する問題に及ぶ箇所があ る。例えば、彼は必ずしも完全ではないが、西洋の進化論、特に唯物論に対して否
定的な態度を貫いている。そして、イスラームに適合的な進化論を考え、イスラー ムを文明の進化の頂点に置いている。
2.円了とアブドウにおける宗教の進化
本章では、進化論における円了とアブドウの態度に焦点を当てる。そして、両者 がどのように宗教の進化を考え、優劣や適・不適について論じたか、またその対応 について明らかにする。 2.1.進化論に対する円了とアブドウの態度 本節では、円了とアブドウは進化論に対してどのような態度を貫いているかを見 る。まず、円了は進化論について以下のように述べている10。 「進化論を草するに至りて証明するところあらんとするなり」 「進化全体に関する事情を考うるに、ここに三種の事情あり。曰く競争、曰く変 化、曰く遺伝なり」 「競争の結果、実益の多き者は勝ち、少なきものは敗るるは自然の理なり。ヤソ 教の盛んなるも、仏教の衰うるも、この理に外ならず」 「ひとたび競争すれば強かつ優なる者は勝ち、弱かつ劣なる者は敗るるもまた自 然の理なり。これ競争の社会に起こる原因なり。(略)住所食物を奪い取りて自己 の種属を給養することを得るなり。その際争うて敗るる者その生存を得んと欲せ ば、他所に逃亡するか、優者に服従するかの二者の外選ぶところなかるべし」 「社会進化の原力は競争の一理に外ならず、競争盛んなればますます進歩し、競 争やめば次第に衰う。しかして競争の結果、強弱その淘汰してその最も当時の事 情に適するものひとり生存繁栄するは、これを自然淘汰の規則とす」 上記のように、円了の考えている進化論は、全般的に三つの要因がある。それ は、競争、変化、遺伝である。そこで、競争の結果として、実益の多いものは勝 ち、少ないものは敗れ、また、強く優れている者が勝ち、弱く劣っているものが淘汰されるのは自然の法則であると考えている。一方、アブドウは同様な点に関して 以下のように述べている。 「進化論は西洋の発明ではなく、古代のアラブの学者は生物の進化を論じた」 「進化は神の法則。神の法則ではあらゆる物は小さく生まれ、成長して徐々に昇 順に至る。…全ての生物と物質は変容し進化したことが確実であり、研究でも証 明された」しかし「動植物の創造と起源に関する進化論的な解釈は誤りである。 例えば、人類が猿から進化したことは空論」であり、「進化論者が主張する法則、 所謂「競争淘汰」は、宗教の法則に反している11」 「互いに相手を打ち負かそうとし、互いに相手を殺そうとし、互いに相手をむち 打とうとすることで川には血が流れ、丘は血塗られる。取り分を求めるため、あ るいは自分の取り分を守るため、人々は互いに相手を抹殺しようとするのであ る。強者は弱者を囲い込んでしまい〔弱き者の権利を奪う:引用者注〕、その結 果、もし弱者がある時に力を持てば強者に反逆することになる。結局、常に、力 を持った者が弱き者を粉砕してしまうのである。そして同等の対抗者たちは互い に相手方をたたき潰そうとするので、双方ともが消え去ってしまう。このように 人類は地上から絶滅してしまうのである」 「人々の霊魂が自分にふさわしい分のこの美質―つまり、〔人がそれぞれ:引用 者注〕様々な高貴さに到達する―を手に入れたなら、それぞれが他人と競い合っ て美徳を獲得しようとし、みな一致して善行に向かう状態が続くことになる。す るとそれぞれが、努力した分だけすばらしいものに、高貴な段階に到達する12」 アブドウは、全体的には進化論を認めているが、あくまでアッラーに帰する範囲 においてであり、イスラームに反する部分を排除している。例えば彼の見解では、 ダーウィンが主張する人類進化を空論と形容している。またアブドウは、人間社会 における「競争淘汰」が宗教の法則に反していると主張し、「競争淘汰」の考えは 結果的に人類が地上から絶滅し、人間の幸福と人間社会の秩序を破壊することにな るので誤りであると論じている。彼の理想的競争は、 現世と来世の両世で真の幸福 を得るように競い合い、人間はそれぞれ努力した分によって、霊魂が高位の段階に 到達することができると考えている。
2.2.円了とアブドウにおける宗教の進化 上記で触れたように、円了とアブドウは同様に進化論を認めていることが明らか であるが、アブドウは進化論の一部を否定している。では、両者が宗教の進化論を 認めたのは、何に対抗するためだったのだろうか。円了の場合は仏教の敵としてキ リスト教を名指しする一方、アブドウはキリスト教に対抗するのではなく、西洋文 明とりわけ物質主義をイスラームの「敵」であると考えている。ここで指摘したい 点は、両者が共に敵の現実的な優位を認めている事である。つまり円了の場合は、 キリスト教の方が仏教より優位であると認識し、アブドウは、キリスト教にはイス ラームが勝るが、西洋文明の優位の前ではイスラームは劣ると認識していた。 円了とアブドウは弱者である仏教とイスラームが、競争相手あるいは「敵」に勝 つためにどのような対応を考えていたかを見てよう。両者の対応は二点においてほ ぼ類似している。第一に、原理的な対応として、宗教の観点から自分の宗教の優位 性を実証した点である。第二に、両者が内面的な対応として、競争相手に勝つよう に自分の宗教の内容を考え直し、改革した点である。しかし、円了はプラスアルフ ァの対応として、競争相手であるキリスト教を排除するという外面的な対応を考え ている。まず、円了の原理的な対応は以下のようである13。 「今日の世界の宗教を通観するに、ヤソ教は情感の宗教なること論を待たず。回 教もまたしかり。ひとり仏教は知力の宗教にして、その聖道門のごときは、まさ しく哲理をもって組成したる宗教なり」 「従来の宗教道徳は情感に基づきて起こる」 「理学哲学は知力に基づきて起こるものとす。これを現今の宗教上に考うるに、 ヤソ教はこの想像を本としたる教なるをもって情感の宗教なり、仏教は道理を本 としたるをもって知力に属すべきなり」 「知力に属する以上は、仏教は理学哲学の範囲に属すべき理なれども、余がみる ところによるに、情感に属する宗教と、知力に属する宗教との二種あるべきを知 る」 上記のように、円了は宗教の原理の観点から世界中の宗教を比較し分類してい
る。そこで、キリスト教やイスラームなどは情感の宗教である一方、仏教のみは知 力の宗教であると位置付けている。また、仏教は情感に属する宗教であるうえで、 知力に属する宗教という二つの側面を持つと考えている。一方、アブドウは同点に 関して以下のように述べている14。 「人間に優劣があるとすれば理性と美徳だけによる」 「キリスト教は理性に依存しない感情的宗教である。多神教は頑迷固陋で非理性 的であり、文明を阻害する宗教である。…イスラームは理性と感情に訴える宗教 である」 「イスラームの教えを支える第 1 の柱はタウヒードというたわしで理性を磨き、 妄想という汚れをおとすことである。…現存する宗教の大半にはこのような迷信 が必ずある。もしお望みであるならば、ためしにインドにおけるブラフマー教 〔=ヒンドゥー教〕、中国における仏教、ゾロアスター教やそれ以外の多くの宗教 に目を向けてみるがよい」 「イスラームは真理である。人間は理性と情感がともに進化することによって真 理を得られるような進化をする」 「イスラームは人間の知力と情感を兼ね備えた宗教なので、人類の知情が完全な 状態になったとき、天からの最後の宗教としてアッラーから下された」 アブドウは、人間の情感と理性の進化によって世界の宗教を分類している。彼 は、キリスト教は情感的宗教であり、仏教等の多神教は非理性的で文明の進歩を阻 害する宗教であると述べている。イスラームのみは人間の知力と情感を兼ね備えた 宗教であると主張している。続いて、二人は原理の観点から宗教の適者生存を以下 のように論じて説明している。まず、円了は以下のように述べている15。 「三千年前の古代にありて、インドにすでに知力上の宗教起こりたるは、はなは だ怪しむべきに似たれども、これ当時その地の文明、他邦にさきだちて開きたる によるや明らかなり。しかしてそののち一千余年を経て起こりたるヤソ教は、想 像の宗教なるはまたその地の文明進歩せざるによるのみ。かつまた仏教のその後 に衰えたるゆえんは、中古の人民学理に暗くして哲理を解するの力なきにより、 ヤソ教の中古暗世の間に非常の繁盛を極めたるは、当時の人民学識なきをもっ
て、想像上の宗教のよくその事情に適すればなり」 「今後社会ますます開進して、知者学者世間の過半数を占有するに至らば、知力 上の宗教世に起こらざるを得ず、これ余が今日仏教を改良して将来の宗教となさ んことを切望するゆえんなり。その他、想像上の宗教、開明世界に存すべき理 は、開明人は知力と情感を兼有するによる」 「その教中の聖道門は知力の宗教なり、浄土門は感情の宗教なり。故に今日にあ りては、仏教は感情知力の二元素兼有したるものというべし」 円了によれば、三千年の昔、インドで文明が発達した時に知力の宗教である仏教 が興った。それから一千年後に文明が進歩していなかった時に、想像の宗教である キリスト教が興った。当時、仏教が衰えたのは、人々の学問の力が及ばず哲理を理 解することができなくなったためである。一方、キリスト教が繁栄したのは、当時 の人々に学識がなく、想像の宗教がその状況に適していたためである。また、円了 の考えでは、今後社会は益々発展し、知者学者が世間の多数を占めるようになるの で、知力上の宗教が世に起こるに違いない。円了の切望は、仏教を改良し将来の宗 教にすることである。と言っても、他宗教は淘汰されるというのではない。彼の考 えでは、想像上の宗教が発展した社会にも生存するのは、文明人は知力と情感の両 方を持っているからである。そして、仏教は感情知力の二元素を持っていると考え るべきと論じている。一方、アブドウは宗教の発達に関して次のように述べている 16。 「宗教は人知と情感が発達することで進化する」 「アッラーが時代毎に人間の知力と情感の発達に適する宗教を下す」 「古来から人間の理性と情感が進化する度に、適切な宗教が下され流布してき た。大昔、人類文明がまだ初期であったとき、人間の知力が昇進しておらず、情 感的であったため、アッラーから命令と抑止力を中心とする宗教を下された。そ れはユダヤ教であった。…時代の変化により、人間の情感が進化したことに伴っ て欲望が拡大した。そこで、欲を抑圧し、感情と慈悲に訴え、魂の平安を得るよ うに適切な宗教が下された。それはキリスト教である。…そして時間の経過を通 じて、人間の理性と情感が最も上達してきた状態になったことによって、理性と 感情に訴え、現世と来世の幸福へ導くような宗教が下された。それはイスラーム
である」 ここでアブドウは、人間の理性と情感が進化する度に、アッラーによって適切な 宗教が下され流布したと明言している。大昔、人間の知力が昇進しておらず、情感 的であったため、アッラーから命令と抑止力を中心とする宗教が下された。それは ユダヤ教であった。その後、人間の情感が進化したことに伴ってキリスト教が下さ れた。そして、人間の理性と情感が最も上達してきた状態になったら、理性と感情 に訴え、現世と来世の幸福へ導くイスラームが下されたと説明している。 上記を見ると、両者の議論は宗教の原理と理論的範囲において、競争相手より自 分の宗教が適者であると論じている。しかし、実際問題として二人は西洋文明とキ リスト教の方が強者と適者であると承認している。そのため、自分らの宗教が競争 相手(西洋、キリスト教)に劣らないように、両者は次の内面的な対応を提案して いる。まず、円了は以下のように述べている17。 「理論上ヤソ教を排して、今日のヤソ教は理哲諸学の原理に契合せず、道理界の 宗教にあらざるゆえんを証明したりといえども、かくのごときは口舌上の空論に 過ぎざるをもって、その論なにほど理を尽くし妙を究むるも、これによりてヤソ 教を排斥し、これによりて仏教を興隆するがごときは到底望むべからざるなり」 「仏教の盛衰存亡は、そのよく社会の事情に適すると適せざるとにありて、これ をしてその事情に適せしめんと欲せば、ときどき改良をその上に加えて、社会と 共に進化せざるべからざるものと知るべし」 円了は、キリスト教を排除することを通して仏教を興隆することは合理的ではな いと考えている。仏教を興隆するためには、五カ条を通して仏教を実益的な宗教に することが必要である。それは、「国際上に関して実益を与うること」、「政治上に 関して実益を与うること」、「道徳上に関して実益を与うること」、「教育上に関して 実益を与うること」、「開明上に関して実益を与うること」である 18。円了によれ ば、仏教とキリスト教の盛衰勝劣は、上記の「実益を与えると与えざるとにあ り」、仏教が実益的宗教になるため、僧侶の学識を研き、道徳を修め、資力を蓄 え、精神を養うべきと提案している。 また、仏教の中の弊害を除き、迷信と愚かさを正し、近代的な学問と調和させる
べきであり、社会と共に進化すべきであると提案している。一方、アブドウは、内 面的な対応に関して次のように述べている19。 「イスラームの優越を保守するため、共同体の信条は単なる憶測や想像ではな く、強力な論証と正当な根拠に基づかなければならない」 「ウンマの成員を教育することに従事する一団がいなければならない。彼らは倦 むことなくウンマの成員の理性を真の教養で照らしだし、純然たる学問で飾らな ければならない。そしてまた倦むことなくウンマの成員に幸福に至る道筋を示 し、幸福の道を歩かせるよう努力しなければならない」 「さらに人々の霊魂を見守りながら、霊魂を浄化し、矯正することに従事する別 の一団も必要である」 そうした一団は「霊魂が知らず知らずのうちに勧善懲悪の教え(al-amr bi-l-maʿrūf wa al-nahy ʿan al-munkar)を見失ったり、苦境に陥った時に勧善懲悪の教えを破っ たりしないように、勧善懲悪を強調しなければならない」 ここでアブドウは、イスラームの優越を保守するため、理論的にだけではなく、 実際に強力な論証と正当な根拠に基づかなければならないと述べている。また、イ スラームを興隆するため、全てのイスラーム教徒を教育することに従事する一団の 設立を提案している。この一団は、理性を真の教養で照らしだし、純然たる学問で 飾り、共同体の成員に幸福に至る道筋を示すべきとしている。また、人々の霊魂を 見守りながら、霊魂を浄化し、善事を勧め、悪事を懲らす別の一団の設立も提案し ている。
まとめ
円了とアブドウの理論において類似している点の一つは、世界中の宗教の分類で ある。円了の考えでは、世界における宗教の中でも仏教は情感と知力に属する宗教 なので、近代文明に最も適切であると考えている。アブドウは、イスラームは理性 と感情に訴える宗教なので、近代文明には最も適切な宗教であると主張している。 また、弱者・強者と適者・不適者の競争における変化の可能性についての考察も類似している。円了は、原理の観点から仏教は優越的な宗教であるが、現実的にはキ リスト教に対して劣るとの危機意識を持つので、内向的と外向的な対応を通して弱 者である仏教を適者に変更することに努めている。アブドウも同様に、内面的な対 応を通して現実的に西洋文明に劣り危機的状況にあるイスラームを適者に変更しよ うとしている。一方、両者の相違点は、進化論に対する信用や外面的な対応であ る。例えば、円了が考える外面的な対応はアブドウの理論には見られないことであ る。 これまで見てきたように、円了とアブドウには類似点が多くある。その理由とし て、円了とアブドウが活動した時期には日本とエジプトの状況が似通っていたから であると考えられる。日本とエジプトは西欧列強の軍事的、政治的、経済的圧力を 受けていた。また、同時に先進文明の魅力と経済力に基づくキリスト教の宣教活動 という問題があった。そこで、日本とエジプトで議論となった話題は、西洋の力に 対する国家の独立とアイデンティティーの保護である。円了とアブドウは、進化論 を用いて自らの宗教が国家の独立とアイデンティティーを保守し、近代文明に最も 適切な宗教であることの論証に尽力した。 一方、両者の相違点は、進化論の受容の仕方である。アブドウは円了が完全に信 じている進化論を部分的に否定している。その相違点の理由は、第一に日本とエジ プトにおける進化論の導入方法の相違から生じると考えられる。日本では、進化論 は東京大学の教授によって伝播され、円了もそこで学んだ。一方、エジプトでは翻 訳された記事や宗教家から伝播されたので、どこまで正確にアブドウに伝わったか は不明である。よって、両者の受容と利用に違いが生じることは当然である。ま た、宗教上の問題が挙げられる。進化論の創造説はイスラームなどの一神教の教え に対立する一方、仏教においては対立していない点が挙げられる。円了が進化論に 関して合理的に受容して紹介している一方、アブドウは進化論を含むすべての知識 の最終目的はアッラーを知るためであり、すべての現象は、結局神の業に帰せられ ると考えている。日本とエジプトの伝統文化の蓄積に起因する二人の異なった進化 論の受容の方法は、日本人とエジプト人の深層にある考え方の相違を表現してい る。道徳や原理・原則に固執して素早い転換ができないエジプト人(イスラーム教 徒)と、状況の変化に対応するのに巧みで、原理・原則に無頓着で、転換の早い日 本人の相違は、円了とアブドウの受容の相違点の一つである。もう一つの相違点 は、円了が考える外面的な対応がアブドウの理論に見られないことである。つ ま
り、アブドウが宣教活動をどれほど危険と考えていても、キリスト教を排除するこ とは考えていない。それは、一神教同士であるという理由の他に、イスラームの中 に他の一神教を信じないといけないという教えもあるからである。 最後に、円了とアブドウが考えた進化論を以下の図解に記してみた。 上記右の図はアブドウの理論を図にしたものであるが、彼の考えでは宗教の進化 には始めがあり、永遠に継続することはない。つまり、彼が考える宗教の進化には 限度がある。その進化は直線的でもある。しかし、彼の理論はあくまで原理的なも のであり、現状はその理論に即してはいない。この点に関する記述、あるいは具体 的な対応がほとんど見られないことはアブドウの理論の欠点である。左に示した円 了の図は、宗教の進化に上限を設けておらず、また下限もなく、終着点もない。つ まり、宗教は波形のまま永遠に続くとしている。 注 1 井上円了とムハンマド・アブドウのテキストとして、本稿では、井上円了『井上円了 選集』第 3 巻、東洋大学、1987 年、および Emara,Muhammad.ed.Al-‘AmalAl- KamilahLil-円了の理論 アブドウの理論
ImamMuhammad Abduh, Cairo Dar Al-Shruq, 1993, Vol.3 (『アブドウ』第 3 巻と称する)を 使用する。 2 高瀬彰典「西洋と日本」(『島根大学教育学部紀要』第 38 巻、2004 年)、p.18。 3 大谷 栄一「明治仏教史における雑誌と結社 」(『宗教研究』 第 87 巻別冊、2014 年)、 pp.99-100。 4 クラウタウ オリオン「明治中期における日本仏教の言説的位相: 仏教公認運動を中心 に」(『宗教研究』第 85 巻 4 号、2012 年)、p.154。 5 西村玲「大乗非仏説論の歴史的展開―近世思想から近代仏教学へ―」(『宗教研究』 第 83 巻 4 号、2010 年)、pp.1225-1226。 6 オリオン・クラウタウ「近世仏教堕落論の近代的形成 -記憶と忘却の明治仏教をめぐ る一考察-」(『宗教研究』第 81 巻 3 号、2007 年)、p.58。 7 鵜浦裕「近代日本における進化論の受容と井上円了」(『井上円了センター年報』第 2 号、1993 年)〔石川千代松「老科学者の手記」『石川千代松全集』第 4 巻、興文社、1936 年から鵜浦が引用〕、 p.43。 8 同上、p.44。 9 Cf. 平野淳一「アフガーニー思想におけるイスラームと西洋の布置図―ジャマールッ ディーン・アフガーニー『物質主義者への反駁』―」(『イスラーム世界研究』第 1 巻 第 1 号、2007 年) 。 10 井上円了『真理金針』(『井上円了選集』第 3 巻)、284、183、177、181、185 頁。 11 『アブドウ』第 3 巻、p.99。 12 ムハンマド・アブドウ『物質主義者への反駁』(『アブドウ』第 3 巻)、394-402 頁。 13 井上円了『真理金針』、前掲書、pp.252、201、202。 14 『物質主義者への反駁』(『アブドウ』第 3 巻)、p.401。 15 井上円了『真理金針』、前掲書、pp.202-203。 16 『アブドウ』第3巻(Risala Al-tawhid)。 17 井上円了『真理金針』、前掲書、pp.141、192。 18 同上、p.142。 19 『物質主義者への反駁』(『アブドウ』第 3 巻)、p.406。 (ハサン・カマル・ハルブ:カイロ大学文学部日本研究センター所長) University Cairo -Studies Japanese for Center of Director : ARB H Kamal Hassan