東北大学埋蔵文化財調査年報19 第5分冊
著者
東北大学埋蔵文化財調査室
雑誌名
東北大学埋蔵文化財調査年報
巻
19
発行年
2010-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/49233
ISSN 1341-6952
東北大学埋蔵文化財調査年報
19
第
5分
冊
仙 台城跡二の丸北方武 家屋敷地区第
7地
点の調査
分析 ・考察
東北 大 学埋 蔵 文化 財 調査 室
2口
1ロ
年報19第5分冊 正誤表
頁 行 誤 正
P91 5行日 留木、樫、朴、 田木は、樫、朴、
P145 図
8-3英
文キャプション
rig.8-3
Picture of a excavated strawrig.8-3
Picture of a elcavated straw br,r P145 図8-4英
文キャプション 'ig.8-‐4 Picture ofa excavated wooden buck―
lig.8-4
Picture ofa ercavated wooden bucketP148 図
8-8図
中 土硬化実験② 左 上:未塗布 右 上:サンコール 左 下:OH100 中央下:PEG 右 下:OM50 土硬化実験② 左 上 :未 塗布 右 上:サンコール 左 下:OH100 中央下:PEG 右 下:バインダー東北大学埋蔵文化財調査年報
19
第
5分
冊
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第
7地
点の調査
分析
0考
察
東北大学埋蔵文化財調査室
2口
1ロ
例
言
1.本
書 は、東北大学構 内において、東北大学埋蔵文化財調査研究セ ンターが2001年度に行 った遺跡調査、な ら びに研究成果 をまとめた調査年報19の、第5分
冊である。2.報
告書の紙幅の関係か ら、年報19は5分
冊 に分けて刊行す る。本書 は、その第5分
冊である。本書 には、仙 台城跡二の丸北方武家屋敷地区第7地
点(BK7)の
、分析 ・考察 を掲載 した。3.整
理作業お よび本書の編集作業 は、阿子 島香 の指導の もとに、藤沢敦 ・柴 田恵子 。高木暢亮 (2008年度 ま で)。 菅野智則 (2009年度)が
担 当 した。4.本
書 に掲載 した分析 ・考察の うち、 自然科学的分析 な どについては、以下の方 々に分析 ・執筆 を依頼 した。(3)武
家屋敷地区第7地
点出土木簡の樹種 木簡の樹種 同定については、東北大学植物園の鈴木三男氏 に分析 を依頼 した。(5)武
家屋敷地区第7地
点出土の植物遺存体 植物遺存体の同定 と検討 については、2009年度に、古代の森研究舎の吉川純子氏 に分析作業 を委託 した。(6)武
家屋敷地区第7地
点出土の動物遺存体 動物遺存体 については、門脇隆志氏 (鳥取県埋蔵文化財セ ンター)が
東北大学大学 院文学研究科在学 中に、 修士論文作成の際に分析 を行 っている。本報告 にあた り、その内容の一部 を使用 させていただいた。(7)武
家屋敷地区第7地点出土の大骨 1号遺構 出上の大の骨 については、奥松 島縄文村歴史資料館の菅原弘樹氏 に分析 ・検討 をお願い した。(8)武
家屋敷地区第7地
点で出土 した特殊 な遺物の取 り上げ と保存処理 当調査室非常勤職員で保存処理 を担 当 している千葉直美が、実施 した内容 をとりまとめた。 上記以外の項 目は、埋蔵文化財調査室職員が以下の ように分担 した。 (1)。(9):藤
沢 敦(2)。
(4):柴
田恵子 英文要 旨については、柴田恵子が作成 し、阿子 島香が校訂 した。 5。 本書に掲載 した木簡の検討 については、(財 )斎藤報恩会の研究助成 による成果 を含 んでいる。 ・平成14年度(財 )斎藤報恩会研究助成「仙台城下武家屋敷跡出土の近世木簡の総合的研究」 研究代表者 :藤 沢敦、研究分担者 :京 野 (柴田)恵
子・高木暢亮、助成金額:500,000円 6。 本分冊 には、調査年報19第2分
冊 において報告 した、仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第7地
点出土の磁器 お よび陶器のカラー写真 を1又録 したCDを
、付録 として巻末に添付 した。7.整
理・報告書作成にあたっては、以下の方々や関係機関か ら御指導 。御協力 を賜 った (敬称略)。 小井川百合子 (仙台市博物館)、 菅野正道 (仙台市博物館) 仙台市教育委員会、仙台市博物館、東北大学植物園、東北大学大学院文学研究科考古学研究室6.調
査記録は、東北大学埋蔵文化財調査室で保管・管理 している。凡
例
1.方
位は真北に統一 してある。2.遺
物の実測図および写真の縮尺は、それぞれに示 した。3.引
用 。参考文献は、それぞれの項 目ごとに記 した。また本文中で、『東北大学埋蔵文化財調査年報』を引用 する場合は、年報1という形で略記 している場合がある。第
5分
冊
目 次
例言 凡例 目次 図 目次 表 目次 第Ⅲ章 仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第7地
点(BK7)の
調査8.分
析・考察 ………1 (1)仙台城 と周辺武家屋敷 における近世建物の基礎構造 ………1(2)武
家屋敷地区第7地
点出土の18世紀前葉の遺物 についての検討 ………15①建物跡の柱間寸法
………1
②掘立柱列の構造と柱間寸法
………
3①陶磁器
………
15②土師質土器・瓦質土器
………
29①資料の採集方法 。
………。
105②同定および算定について 。
………・
105③礎石の規模と構造
………5
④礎石建物と掘立柱建物
………
10④箸状木製品
………
57⑤駒形木製品
………
60③確認された動物遺存体の種名 ・………。
108④動物遺存体の生態と出土状況 。
………。
111 ③漆器 ………。,… ………52(3)武
家屋敷地区第7地
点出土木簡の樹種 ………67(4)木
簡の樹種 と型式 との関係について ………89(5)武
家屋敷地区第7地
点出土の植物遺存体 ………95(6)武
家屋敷地区第7地
点出土の動物遺存体 ・………。105(7)武
家屋敷地区第7地
点出土の大骨 。………。135(8)武
家屋敷地区第7地
点で出土 した特殊 な遺物の取 り上げ と保存処理 ・………。141(9)武
家屋敷地区第7地
点の調査成果 ―まとめに代 えて ―・………。149 第I章2001年
度 (平成13年度)事
業の概要 第 Ⅱ章 富沢芦 ノロ遺跡第5次
調査(TM5)
第 Ⅲ章 仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第7地
点(BK7)の
調査1.仙
台城跡二の丸北方武家屋敷地区の立地 と歴史2.調
査経緯3.基
本層序 と時期区分4.検
出遺構………以上第
1分
冊 5。出土遺物
1〈陶磁器・土器・土製品 。瓦〉
………第2分冊
6.出
土遺物 2〈 木簡・墨書ある木製品〉
………第3分冊
7.出
土遺物
3(そ
の他の遺物〉
………第4分冊
8.分
析 ・考察…… ………第
5分
冊図
目
次
(1) 図1-1
仙台城跡本丸大広 間断面模式図 。…………6
図1-6
仙台城二の丸第5地点 Ⅲa期
の遺構 ・……11 図1-2
仙台城跡二の丸第2地
点検 出遺構 ・………6
図1-7
仙台城跡二の九北方武家屋敷地区 図1-3
仙台城跡二の丸第17地点Ⅳa期の遺構 。…8
第4地
点I期の遺構 。……H
図1-4
仙台城跡二の九第17地点 Ⅲb3期
の遺構 。9 図1-5
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区 第7地
点 Ⅲ期の遺構 ・……9 (2) 図2-1
武家屋敷地区第7地
点図
2-16
武家屋敷地区第4地
点出土2号
遺構 出土磁器 (1)。 ……19
土師質土器・瓦質土器 。……41 図2-2
武家屋敷地区第7地
点図
2-17
仙台城跡出土土師質土器皿類の変遷 ・…。422号
遺構 出土磁器 (2)。 ……20
図2-18
仙台城跡出土の皿類以外の 図2-3
武家屋敷地区第7地
点土師質・瓦質土器の変遷 (1)。 ……43
2号
遺構 出土磁器 (3)・ ……21
図2-19
仙台城跡出土の皿類以外 の 図2-4
武家屋敷地区第7地点土師質・瓦質土器の変遷 (2)・ ……44
2号
遺構 出土陶器 (1)。 ……22
図2-20
仙台城跡出土の皿類以外の 図2-5
武家屋敷地区第7地
点土師質 。瓦質土器の変遷 (3)。 ……45
2号
遺構 出土陶器 (2)。 ……23
図2-21
仙台城跡出土土師質土器皿の 図2-6
武家屋敷地区第7地
点法量分布 (1)・ ……46 24号土坑出土陶磁器 。……
24
図2-22
仙台城跡出土土師質土器皿の 図2-7
武家屋敷地区第7地
点法量分布 (2)。 ……47 20号土坑・3a層出土陶磁器 。……
24
図2-23
仙台城跡出土土師質土器皿の 図2-8
仙台城跡二の丸地区出土ススの付着割合 ・……48 供膳具 (碗類
)の
材質 ・……25
図2-24
仙台城跡出土土師質土器皿の 図2-9
仙台城跡二の丸地区出土糸切 り技法 と回転方向の比率 ・……48 供膳具 (皿類
)の
材質 ・……25
図2-25
仙台藩領内出土の焼塩壺 (1)。 …………。49 図2-10
仙台城跡二の丸地区出土図
2-26
仙台藩領内出土の焼塩壺 (2)。 …………。50 陶磁器の器種組成比率 ・……26
図2-27
江戸の遺跡出土の規炉類 ・………・51 図2-11
仙台城跡二の丸地区出土図
2-28
仙台藩領内出上の漆器の変遷 (1)。 ……・55 陶器の産地別組成比率 。……27
図2-29
仙台藩領内出土の漆器の変遷 (2)・ ……・56 図2-12
武家屋敷地区第7地
点出土図
2-30
仙台城跡二の丸地区お よび 陶器碗類の産地別組成比率 ・……28
武家屋敷地区出土箸状木製品の長 さ ………58 図2-13
武家屋敷地区第7地
点2号
遺構 出土図
2-31
武家屋敷地区第7地点出土駒形木製品 ・・60 土師質土器皿・焼塩壺 。……39
図2-32
伝世品の木下駒 ・………・63 図2-14
武家屋敷地区第7地
点2号
遺構 出土図
2-33
駒形の郷土玩具 ・………・63 瓦質土器 。……40
図2-34
絵本 などにおける春駒・首馬 ・…………。64 図2-15
武家屋敷地区第7地
点2号
遺構 出土 その他の土師質土器 ・……41(3) 図
3-1
武家屋 敷地 区第7地
点図
3-4
武家屋敷 地 区第7地
点 出土 木簡 の樹種 同定写真 (1)。 ………72
出土木簡の樹種 同定写真 (4)。 …… …75 図3-2
武家屋 敷 地 区第7地
点図
3-5
武家屋 敷地 区第7地
点 出土 木簡 の樹種 同定写真 (2)。 … ……73
出土木簡 の樹種 同定写真 (5)。 … ……76 図3-3
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土 木簡 の樹種 同定写真 (3)。 ………74 (4)図
4-1
武家屋敷地区第 7地 点
図
4-2
『柳生村絵図』に見える居久根の様子 ・…
94出土木簡記載の地名 ・………
94 (5) 図5-1
武家屋 敷地 区第7地
点 出土種 実 (1)。 …。103
図5-2
武家屋敷地 区第7地
点 出土種 実 (2)。 … 。104 (6) 図6-1
武家屋敷 地 区第7地
点 にお け る図
6-6
武家屋 敷地 区第7地
点 出土 動 物遺存 体 が 出土 した遺構 。……。106
動物 遺存体写真 (4)。 … …。131 図6-2
武家屋敷地 区第7地
点図
6-7
武家屋 敷地 区第7地
点 出土2号
遺構 土壌 サ ンプル採取範 囲 ・……。107
動物 遺存体 写真 (5)。 … …。132 図6-3
武家屋敷 地 区第7地
点 出土図
6-8
武家屋 敷地 区第7地
点 出土 動物 遺存 体写真 (1)。 ……。128
動物遺存体 写真 (6)。 …… 。133 図6-4
武家屋 敷地 区第7地
点 出土図
6-9
武家屋敷 地 区第7地
点 出土 動 物遺存体 写真 (2)。 ……。129
動物 遺存体 写真 (7)・ … …。134 図6-5
武家屋敷 地 区第7地
点 出土 動物 遺存体 写真 (3)。 ……。130 (7) 図7-1
武家屋 敷地 区第7地点1号遺構 出土 の図
7-3
武家屋 敷 地 区第7地
点 イヌ遺骸 の出土状況平面 図 。……。135 1号
遺構 出土 の イヌ四肢骨 ・……。139 図7-2
武家屋敷 地 区第7地
点 1号遺構 出土 の イヌ頭骨 。……。138 (8) 図8-1
武家屋 敷地 区第7地
点図
8-4
桶 の 出土状 況 。……… …… …… …… …… 。145 遺構 配置 図 (Ⅱ期)。 …………145
図8-5
犬 の全 身骨格 の 出土状 況 ・………。145 図8-2
武家屋 敷 地 区第7地
点図
8-6
俵 の取 り上 げ と保存処 理 ・………。146 遺構 配置 図 (Ⅲ期)。 …………145
図8-7
桶 の取 り上 げ と保存処理 。………。147 図8-3
俵 の 出土状 況 ・………・145
図8-8
犬 の全 身骨格 の取 り上 げ と保存 処理 ・…・148表
目 次
(1) 表1-1
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区表
1-3
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区 第4地
点掘立柱列の柱 間寸法 ・……4
第7地
点掘立柱列の柱 間寸法 。……4 表1-2
仙台城跡二の丸第17地点 掘立柱列の柱 間寸法 。……4 (2) 表2-1
仙 台城跡 二 の丸 地 区出土表
2-4
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土 供膳 具 (碗・ 皿類)の
材 質別 出土 点数 ・……25
陶器碗 類 の産地別 出土点数 ・………28 表2-2
仙 台城 跡二 の丸地 区 出土表
2-5
仙 台城跡 二 の九地 区お よび 陶磁 器 の器種 別 出土 点数 。……26
武家屋 敷 地 区 出土箸状 木製 品の先端 形状 ・… …58 表2-3
仙 台城跡二 の丸地 区出土表
2-6
仙 台城跡 武家屋 敷 地 区第7地点 陶器 の産地別 出土 点数 ・……27 2号
遺構 出土箸状 木製 品の先端形状 ・……59 (3) 表3-1
同定 され た樹 種 。…… ……… …………72
表3-8
武家屋敷地 区第7地
点 表3-2
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (7)。 ……83 出土木簡観察表 (1)。 ……
77
表3-9
武家屋敷地区第7地
点 表3-3
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (8)。 ……84 出土木簡観察表 (2)・ ……
78
表3-10
武家屋敷地区第7地
点 表3-4
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (9)・ ……85 出土木簡観察表 (3)。 ……
79
表3-11
武家屋敷地区第7地
点 表3-5
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (10)。 …・86 出土木簡観察表 (4)。 ……
80
表3-12
武家屋敷地区第7地
点 表3-6
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (11)。 …・87 出土木簡観察表 (5)・ ……
81
表3-13
武家屋敷地区第7地点 表3-7
武家屋敷地区第7地
点出土木簡観察表 (12)。 …・88 出土木簡観察表 (6)・ ……82 (4) 表
4-1
武家屋敷地 区第7地
点 出土 木簡 の表
4-3
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土木簡 に 型 式 と樹種 の関係 ・……92
記載 された地名 と樹種 の関係 ・……93 表4-2
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土木簡 に 記 載 され た品物 名別 の樹 種 。……92 (5) 表5-1
武家屋 敷 地 区第7地
点表
5-4
武家屋敷 地 区第7地点 出土種 実観察表 (1)。 ……96
出土種実観察表 (4)。 ……99 表5-2
武家屋 敷地 区第7地
点表
5-5
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土種 実観察表 (2)。 ……97 17世
紀代 遺構 別 出土種 実 。…。100 表5-3
武家屋 敷 地 区第7地
点表
5-6
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土種 実観察表 (3)。 ……98 18世
紀代 遺構 別 出土種 実 (1)。 …。100武家屋 敷地 区第
7地
点 表5-9
表5-7
武家屋 敷 地 区第7地
点 明治前半 の遺構 別 出土種 実 。…・102 ・・・。101 18世 紀代遺構 別 出土種 実 (2) 表5-8
武家屋 敷地 区第7地
点 幕 末 か ら明治初頭 の遺構 別 出土種 実 。…。101 (6) 武家屋敷地 区第7地
点 出土 魚類 表6-7
表6-1
武家屋 敷地 区第7地点 出土 ……・118
出土量表(4)(発
掘 時取 り上 げ資料)。……123 貝類 出土量 表 (主要貝類) 武家屋 敷地 区第7地
点 出土魚類 表6-8
表6-2
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土 出土量 表 (土壌 サ ンプル)。 … …124 ・・・・・119 貝類 出土量 表 (その他 の貝類) 武家屋敷地 区第7地
点 出土 表6-9
表6-3
武家屋 敷 地 区第7地
点 出土 鳥類 出土量 表 (1)・ …… 。125 そ の他 の動物遺存体 出土量表 ・……。119 武家屋 敷地 区第7地
点 出土 表6-10
表6-4
武家屋 敷地 区第7地
点 出土魚類 鳥類 出土量 表 (2)。 … …。126 ・・・・。120 出土量 表(1)(発
掘 時取 り上 げ資料) 武家屋敷 地 区第7地
点 出土 表6-11
表6-5
武家屋敷 地 区第7地
点 出土魚類 哺乳類 出土量 表 ・……。127 ・・・・・121 出土量 表(2)(発
掘 時取 り上 げ資料) 表6-6
武家屋敷 地 区第7地
点 出土魚類 ・・・・。122 出土量 表(3)(発
掘 時取 り上 げ資料) (7) 表7-1
武家屋敷 地 区第7地
点1号遺構 出土 の イヌ計測値 ・……。140第Ⅲ章
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第
7地
点
(BK7)の
調査
8.分
析・ 考察
(1)仙 台城と周辺武家屋敷における近世建物遺構の基礎構造
東北大学構 内における、仙台城跡の二の丸地区お よび二の丸北方武家屋敷地区の調査 で検 出 された建物や柱列 な どの近世建物遺構 については、 これ までにも調査の折 々で検討 を加 えて きた。今 回の二の丸北方武家屋敷地区 第7地
点の調査 において も、礎石建物の様相が明 らかになるなど、重要 な知見 を加 えることとなった。 近年、仙台城の他の地区や、若林城跡で も調査が進展 している。仙台城二の丸周辺 などでは、地下鉄東西線建 設 に伴 う調査 も各所で実施 されてお り、城下の武家屋敷 についての調査所見 も蓄積 されて きている。仙台城 とそ の周辺 に留 まらず、仙台藩領内の各所 において も、城館や武家屋敷 に加 えて、足軽屋敷や農村の民家 にいたるま で、近世遺跡の調査事例 も少 しずつ増加 して きている (藤沢敦2008)。 ここでは、当調査室が実施 して きた、仙台城跡の二の丸地区 と二の丸北方武家屋敷地区における調査成果 を中 心 に、関連す る遺跡の調査事例 も参照 しつつ、仙台城 と周辺武家屋敷 における近世建物遺構の基礎構造 について、 若干の検討 を加 えてみたい (註 1)。 なお、二の丸地区や二の丸北方武家屋敷地区では、各調査地点 ごとに遺構の時期区分 をしてお り、全体で共通 す る時期 区分 は行 えていない。そのため、以下で記す時期区分 は、各調査 区独 自の ものである。①建物跡の柱間寸法
建物跡の柱 間寸法 については、 これ までにも調査の折 々で検討 を加 えて きた。その中で、1間
の寸法が、江戸 時代の初期 には6尺 5寸
であったのに対 して、やがて6尺 3寸
へ変化 してい くことが明 らか となっている。6尺
5寸
や6尺 3寸
以外の柱 間寸法が使われている場合 もあ り、必ず しもこの両者 に限定 される訳ではない。しか し、 特殊 な柱 間寸法の建物 は少数で、大多数は1間が6尺 3寸
か6尺 5寸
となっている。そのため本論では、6尺
5 寸か ら6尺 3寸
への変化 について、あ らためて検討 してみたい。ただ し、6尺
5寸
と6尺 3寸
では、お よそ6cmの
違 いで しか ない。 したが って検 出 された柱 の数が少 ない と、 どち らとも判別が難 しい場合が多い。以下で は、検出で きた柱の数が比較的そろってお り、確実 な事例 を中心 に検討す ることとしたい。なお柱 間寸法につい ては、礎石建物 と掘立柱建物 との間で特 に違いは認め られないことか ら、基本的に共通 して変化 してい くと考 え て検討 してい くこととす る。 二の丸地区については、年報9において、それ までのデー タを整理 して検討 した。 この際の主要 な 目的は、検 出遺構 と絵図 との対比 を行い、現地形上での二の丸建物の配置復元 を行 うことであったが、それ との関係で建物 の柱 間寸法 を検討 した。その結果、文化元年図 (1804年)な
どでは1間を6尺 3寸
と考えた方が良 く対応する一 方で、二の丸が置かれる以前の元和6年 (1620年)に
造営 された五郎八姫の西屋敷の遺構では1間が6尺
5寸と 考え られることか ら、時期 によって変化 してい く可能性 な どを指摘 した。 二の丸北方武家屋敷地区で最初の大規模調査 となった第4地
点の調査 においては、多数の掘立柱建物や掘立柱 列が検 出 された (年報13)。 この調査では、掘立柱建物の柱 問寸法が、当初 は1間が6尺 5寸
であった ものが、 遅 くとも17世紀末 までには6尺 3寸
に変化 していることが確認 された。 二の丸第17地点の調査では、 Ⅱ期の11号 。12号建物が6尺3寸
を使用 した もっとも古い建物 と考 えられる (年 報18)。 Ⅱ期 は、寛永15年 (1638年)の
二の丸造営か ら17世紀末の元禄年 間における二の丸大改造 までの時期 と 推定 される。 しか し、両建物跡 とも検出範囲が狭 く、1間が6尺 3寸
と断定 して良いか、確実性が乏 しい。また、 11号 。12号建物の両方 とも、切 り合 い関係か ら、 Ⅱ期の中で も新 しい時期 に下 る可能性が高いことか ら、元禄年間の改造以前であって も、 どこまで遡 るのか判 らない。 この ように、仙台城二の丸地区 と二の丸北方武家屋敷地区の調査成果か らは、元和
6年
(1620年)ま
では確実 に6尺5寸
が使われていること、遅 くとも17世紀末 には6尺 3寸
が使われ始めていることが確実である。6尺
3 寸が使 われ始めるのは、 さらに遡 る可能性があるが、 この点については不確実 な部分が残 っていると言 えよう。 また、明治時代の陸軍第二師団の建物では、6尺
が使 われていることが、武家屋敷地区第4地
点の1∼6号
建物 跡の事例か ら判明 している (年報13)。 今 回の武家屋敷地区第7地
点の調査 では、5棟
の建物跡が検 出された。1号建物が6尺
となっているのを除 く と、全て6尺 3寸
となっている。1号建物 は礎石建物で、19世紀前葉か ら明治初期 と考 えられるⅢ期 に含 まれる が、 Ⅲ期の中では最 も新 しい遺構 であ り、造 られたのが明治時代 に下 る可能性 も残 っている。1号建物の礎石 に は、複数の石 を積み重ねるように して据 えている部分がある。 この ような礎石の据 え方 は、江戸時代の建物 には 見 られない。 この点か らも、1号
建物 は明治時代 に下る可能性がある。1間が6尺 3寸
の建物の中では、2号
・3号
・4号
建物 は、19世紀前葉か ら明治初期 と考 えられるⅢ期 に属す る。5号
建物 は江戸時代初頭か ら17世紀末 頃 と考 え られるI期に所属する可能性がある。 しか し、他の遺構 との関係か らI期に遡 る可能性があると推定 し たに留 ま り、 Ⅱ期以降に下 る可能性 も残 っている。5号
建物 については不確実な点が残 るが、それ以外の建物 に ついては、柱 間寸法 という点では、これまでの検討結果 と、特に異なるところは無い と言える。 この ように二の丸地区などでは、6尺
5寸が使われていることが確認 されているのは、元和6年
(1620年)ま
でであった。一方、若林城跡の調査 によって、 さらに下 る寛永年間まで6尺 5寸
が使 われていたことが明 らか と なって きた。 仙台市の若林城 は、初代藩主である伊達政宗の隠居城 として、寛永4年
(1627年)か
ら造営 され、政宗が死去 す る寛永13年 (1636年)ま
で使用 された伊達政宗一代限 りの近世城郭である。その後は、仙台藩の御帳蔵や御薬 園 として利用 された。 この若林城では、宮城刑務所の建 て替 えに伴 う調査が2004年度以降、実施 されている (佐 藤淳ほか2005)。 これまでの調査で、若林城の主要 な区域 を構成すると考 え られる建物群 などが発見 されている。 若林城 は使われた時期が極めて限定 されるため、一部 を除 くと建て替 えは行われてお らず、建物跡の把握が比較 的容易 である。後世 に破壊 された区域 を除 くと、遺構 の残存状況は良好である。若林城の調査成果 については、 詳細 な報告が出そろっていない段階ではあるが、いずれの建物 も1間が6尺 5寸
と考 えて差 し支 えないようであ る。 したがって、寛永4年
までは、1間
が6尺 5寸
であった と考 えて良いであろう。 問題 は、若林城の造営か ら、 さほ ど間をあけない寛永15年 (1638年)に
造営 された仙台城二の丸が、 どの よう な柱 間寸法 を採用 していたのか とい う点である。 この点について も、若林城跡の調査 で、興味深い成果が得 られ ている。若林城跡の第5次
調査 と第8次
調査 で検出された1号建物跡が、二の丸の比較的初期の段 階を描いた と 考 え られる『御二之丸御指 図』に見 られる「大台所」 と酷似 してお り、若林城の1号
建物が移築 され「大台所」 として使 われた可能性が指摘 されている (仙台市教委2005・ 2007)。『伊達治家記録』には、若林城の建物 を仙台 城二の丸 に移築 した とい う記事があ り (註2)、 それが裏付 け られる結果 となった。移築 に際 して、1間
につ き2寸
切 り縮めるとい うことは考 え難いことか ら、寛永15年造営の二の丸の建物 については、治家記録 に記載 され た建物 を中心 に、6尺
5寸
の ものが含 まれていた可能性 は高い と思われる。 しか しなが ら、全ての建物が6尺
5 寸であったか どうかは、現段階では不明 とせ ざるを得 ない。 二の丸地区における大規模 な建 て直 しは、17世紀末の元禄年間に行われた一連の大改造 と、文化元年 (1804年) の火災 による焼失 と再建が知 られている。藩主 と側室の生活空間である中奥や、付属的な建物については、上記 以外の時期 に も建て替 えが行われていた可能性が高い。 元禄年間の大改造の前後 に描かれた絵図を見 ると、当初のまま維持 されている建物 と、建 て直 されている建物 の両方が認め られる。 この際に建 て直 された主要な建物 に、 どの ような柱 間寸法が使用 されたかを、直接検討できるデー タはない。二の丸で も付属的な建物 については、元禄年間以降は6尺
3寸
が使われている。6尺 3寸
の 使用 開始が、元禄年間以前 に遡 る可能性 もあることは、前述の通 りである。武家屋敷地区で も、元禄年間 までに は6尺 3寸
に転換 している。 しか し、二の丸の主要な建物 については、なお確実 なデー タを欠いている。 文化元年 (1804年)の
火災 によって二の丸建物群はほぼ全焼 し、約5年
の歳月をかけて再建 された と考え られ る。二の丸第17地点では、 もともと建物が なかった区域 に、再建工事が行 われている期 間に一時的に建て られた と考 え られる礎石建物が検 出されている (年報18、 図1-3)。 これ らの建物 は、いずれ も1間は6尺 3寸
で建て られていた。 このことか ら、二の丸のかな り大規模 な建物で も、文化期 には6尺3寸
で建て られていることが確 認で きる。 しか し、火災か ら再建 された主要建物 については、確実なデー タがない。 文化元年の火災 をはさんだ前後の時期の絵 図 を見 る と、二の丸の建物群 にはほ とん ど変化が見 られず、ほぼ従 来通 り再建 された と考 え られる。その際、従来の礎石 を利用 して再建 されていた場合 には、1間
が6尺5寸
で再 建 された可能性 も残 ることとなる。 本丸の「大広 間」 に相当 し二の丸では最 も中心 となる「小広 間」 の裏側 にある、「御橡通」「伺公之間」「時計 之間」付近 については、第2地
点の調査 において礎石建物が検 出 されている (年報1、 図1-2)。 しか し、柱 間 寸法 を検討で きるのが2間分だけなので、柱 問寸法 を厳密 に検証す ることが難 しい。6尺5寸
の方が、礎石の位 置関係では比較的対応す るようであるが、 これのみで確実 に判断す ることは困難である。 仙台城の本丸大広間では、慶長年間に造営 された大広間の全体像がおおむね明 らか となってお り、1間
が6尺
5寸
を基準 として造 られていることが判明 している (渡部紀 ほか2004、 佐藤 。在川2009)。 本丸では、 この大広 間を含む主要 な建物 は、慶長年 間に造営 された ものが、明治時代初期 に取 り壊 されるまで、江戸時代 を通 じて維 持 されていた と考 え られる。 また、造営時期 については意見が分かれるが、仙台空襲で焼失す るまで残 っていた 大手門 も、戦前の実測調査 によって1間が6尺 5寸
で造 られていたことが判 っている。 したがって、仙台城全体 で見れば、1間
が6尺5寸
の建物 と6尺3寸
の建物が、ある時点以降は両方が存在 して維持 されて きたことは間 違 いない。 二の丸の主要建物の柱 問寸法 については、確実 な調査事例 を欠 くため、今後 も検討が必要である。現状では、 時期や建物の由来 などによって、複数の可能性が想定 される。若林城か らの移築 な どの事例が明 らか となって き たため、複雑 な展 開をしている可能性 を想定 してお く必要が高 くなった と言 えるだろう。今後 も、個 々の調査デ ー タを、詳細 に検討 してい くことが必要 となるであろう。 ②掘立柱列の構造 と柱間寸法 柱列 については、柱 間寸法 を中心 に、若干の検討 を加 えたことがある。武家屋敷地区第4地
点の検討では、4 尺が最 も多 く一般的で、次いで3尺 6寸
・5尺
・5尺 2寸
などが使われていること、6尺
・7尺
・8尺
とい うも の も少数存在す ることが明 らか となっている (年報13、 表1-1)。 二の丸第17地点の検討では、4尺
が最 も多 く、 次いで4尺 2寸
が多い。他 には、3尺
8寸
。4尺 5寸
、4尺 6寸
・4尺 8寸
・5尺
・5尺
1寸・5尺2寸
が使わ れている。 さらには6尺
・約8尺
。9尺 2寸
な ど、狭 い柱 間寸法 を三倍 に した ような もの も見 られた (年報18、 表1-2)。 様 々な柱 間寸法があるが、特別な意味が見出せ る ものは、6尺
3寸
の2間分 を3等
分 した寸法が4尺
2寸
となることだけである。 また、柱 間寸法の詳細 な検討 はなされていないが、二の丸第5地
点では二の丸中奥の裏門の周囲で多数の柱列 が(年報6)、 二の丸第9地
点では二の丸全体 の裏門である台所 門の周囲の塀 と考 え られる多数の柱列が(年報8)、 いずれ も多数検出されている。 この2地
点で検 出された柱列 については、比較的間隔の大 きい ものが多い傾 向が ある。 しか し、二の丸第5地点では、極めて多数の柱穴が重複 してお り、柱列の復元 自体 に不確実 な点が残 って いるので、詳細 な検討は難 しい。表
1-1
仙 台城跡二 の丸北方武家屋敷地区第4地点掘立柱柱 列 の柱 間寸法 Tab.1-l List of pillared fence classified depending on the span between pillars at BK4Ia期 :17世 紀初頭か ら17世紀前半 Ib期 :17世 紀中葉か ら後葉 Ⅱa期 :17世 紀末か ら18世紀前葉 Ⅱbl期 :18世 紀前葉か ら18世紀中葉 Ⅱb2期 :18世 紀中葉頃 Ⅱb3期 :18世 紀後葉か ら19世紀中葉 表
1-2
仙 台城跡二 の丸第 17地 点掘立柱柱列の柱 間寸法Tab.1-2 List of pillared fence classified depending on the span between pillars at NⅣ l17
か ら元禄年間 (17世 Ⅱ Ⅲ Ⅳ ︰ 期 期:元禄13年 (1700年)頃か ら文化元年 (1804年) :文化6年 (1809年)頃か ら明治初頭 (1868年)頃 表
1-3
仙 台城跡二 の丸北方武家屋敷地区第7地点掘立柱柱列の柱 間寸法Tab.1-3 List of pillared fence classifled depending on the span between pillars at BK7
遺構名称 時 期 柱 問寸法 備 考 1号柱列 Ⅲ 期 3尺 9寸 控 え柱2尺・途中異なる寸法が入る可能性 2号柱列 Ⅲ期 3尺 9寸 3号柱列 Ⅲ期 3尺 7寸 4号柱列 Ⅲ期 4尺 一部3尺 5号柱列 Ⅲ期 3尺 7寸 6号柱列 Ⅲ期 5尺 5寸 7号柱列 Ⅱ期 7尺4寸 8号柱列 I・ Ⅱ期 4尺 9号柱 列 IoⅡ期 4尺 2寸 I期 :17世 紀初頭か ら17世紀末頃 Ⅱ期 :18世 紀初頭頃か ら19世紀前葉頃 Ⅲ期 :19世 紀前葉頃か ら明治時代初頭 3尺 6寸 4尺 5尺 5尺 2寸 6尺 7尺 8尺 Ia期 27号柱列 28号柱列 I期 (細分不明) 24号柱列 Ⅱa期 21号柱列 19号柱列 20号柱列 22号柱列 Ⅱbl期 20号建物 7号建物 21号建物 Ⅱb2期 16号柱列 3号柱列 Ⅱb3期 13号柱列 14号柱列 Ⅱb期 (Ⅱ b期内での 細分不明) 2号柱列 15号柱列 Ⅱ期 (細分不明) 7号柱列 21号柱列 1号塀 2号塀 3号塀 4号塀 6号柱列 7号柱列 8号柱列 11号柱列 13号柱列
今 回の武家屋敷地区第
7地
点の調査 では、9列
の掘立柱列が確認 された (表1-3)。3尺 7寸
・3尺 9寸
・4 尺が2例、4尺
2寸
・5尺 5寸
。7尺4寸
が各1例であった。7号
柱列の7尺 4寸
は、3尺
7寸
の倍 として考 え ることがで きるか もしれない。4尺
や4尺 2寸
が特 に多い訳ではないが、 これ までの事例 と、大 きく異 なること はない と言えるだろう。 今 回の調査結果 も含めて、柱列の柱 間寸法 には、時期 による変化 などを明確 に指摘することは難 しい。4尺
2 寸 については、1間
が6尺 3寸
とい う寸法が採用 されて以降に下 る可能性が強いことは言 えるが、その他の柱 間 寸法 については、明確 な時期的特徴 などは指摘で きない。 これまでの調査成果 を総合すると、4尺
や4尺 2寸
を 中心 に、3尺
5寸
か ら5尺 5寸
程度の間の寸法が基本で、その倍の間隔の もの も見 られるとまとめてお くのが穏 当であろう。 これ らの柱列 については、塀跡 と考 えるのが妥当であると思われる。 これまでの調査では、塀 になると思われ る遺構 は、全て掘立柱で占め られている。全体 に、柱 は深 く埋設 されてお り、位置 を微妙 にず らしなが ら頻繁 に 造 り替 えられている。塀 は一本の柱 で構造 を支 えるため、柱 を深 く埋設す ることで 自立 させ る必要があるため、 掘立柱形式 を採用 した もの と考え られる。 掘立柱列 については、通常の独立 した掘立柱 の柱穴が並ぶ もの と、溝 を掘 って柱 を立てた ものの2種
類が確認 されている。溝状の掘 り方の ものは、二の丸第9地
点 (年報9)や
第17地点 (年報18)で
検 出されてお り、二の 丸外郭線 などに関わる塀 と考 え られるものである。両者の間で、柱 問寸法 に特 に顕著 な違いは見 られない。溝状 掘 り方の ものには、4尺
前後の寸法が多 く、間隔の広い ものが少 ない点が異 なっている程度である。柱 間寸法が 大 きい場合 には、溝状の掘 り方では無駄が多 くなるため、 この ような傾向は当然のことであろう。 二の丸第9地
点や第17地点では、溝状掘 り方 と独立 した柱穴の ものが、並行 して確認 されている場合があ り、 造 り替 えによる結果 と考え られる。 これ らは両者 とも、塀 と考 えて差 し支 えない。そのこともあ り、溝状掘 り方 と通常の柱穴の もの との間で、上部構造が異 なっていた と言 えるような根拠 は見 出 し得 ない。ただ し、溝状掘 り 方の ものは二の丸地区でのみ確認 されてお り、武家屋敷地区では見つかっていない。今後、武家屋敷地区で発見 される可能性が無い とは限 らないが、注 目される違いである。 このことか ら、掘 り方の違いが、構造や構築方法 な どと関係す るものか もしれないが、現状では判然 としない。 なお、二の丸地区や武家屋敷地区の各地点で多数検出されている掘立柱列で、土塀の基礎 と確実に判断で きる 事例 は確認で きていない。いずれ も、木製の板塀跡 と考えて差 し支 えない もので占め られている。土塀の基礎構 造が どの ような ものであったかについては、確実な調査事例が無 く、良 く判 っていない。他の地区の事例 を含め て、今後 も検討 してい く必要がある。 ③礎石の規模 と構造 礎石建物跡の調査事例の積み重ねによって、礎石の規模や根 固めなどの構造が、建物 によって、あるいは同 じ 建物で も場所 によって、大 きく異 なることが明 らか となって きた。そ こで、建物の規模や性格が、ある程度明 ら か となっている事例 を、次に見てみたい。 本丸大広 間は、本丸の中心 となる建物 で、仙台市教育委員会 による継続的な調査 によって、ほぼ全体像が明 ら か とな りつつある (金森・根本2002、 佐藤 。在川2009)。 建物本体 の座敷部分の主要 な礎石の外側 に、広縁がめ ぐり、 さらに外側 に落縁がめ ぐっている (図1-1)。 礎石その ものが残存 していたのは、床束 な ど一部 に留 まる が、礎石の掘 り方 は、座敷部の主要 なもの、広縁部、落縁部、座敷部の床束で、それぞれ規模 と構造が異 なって いる。座敷部の主要 な礎石の掘 り方は、径160∼ 210cm、 深 さ30cm程
度で、根 固めに小礫 を詰め込んでいる。広 縁部の礎石掘 り方 は、径75∼120cm程
度、深 さ40cm程
度で、根 固め石 は座敷部 よ り小振 りで土砂の割合が多 く なる。落縁部の礎石掘 り方は、径70∼ 90cm、 深 さ40cm程
度で、根固め石 は小振 りとなっている。座敷部の床束11600m J
雨落ち溝 落縁部礎石
広縁部礎石 (KS-532) (KS-533)
図
1-2
仙 台城跡二 の丸第2地点検 出遺構Fig.1-2 Plans of features at NⅣ12
座敷部礎石
座敷部礎石 (床東) (KS-534) 縮 尺 1/80 1間
=6尺
3寸 1間=6尺
5寸 図1-1
仙台城跡本丸大広間断面模式図 (『イ山台城跡9』 より)Fig■-l Schematic profile of main ceremonial hall(0ねfrοma)in sendai Castle
総
議
0 2m
i l l l l
の礎石掘 り方は、径40∼ 90cm、 深 さ10∼
27cmで
、形状や規模 にはば らつ きがある。根 固め石 を少量入れるもの もあるが、根 固め石が入れ られない もの もある。 この ように、本丸大広 間では、座敷部の主要 な礎石、広縁部、 落縁部、座敷部の床束の順で、次第に礎石掘 り方の規模が小 さ くな り、構造が簡素 になってい く様子が明 らかで ある。 二の丸第2地
点の調査 で検出 された礎石建物 については、絵図 との対比か ら、二の丸では最 も中心 となる「小 広 問」 の裏側 にある「御橡通」 か ら「伺公之 問」「時計之 間」 な どの区域 に相 当す る と考 え られている (年報 1・ 7・ 9、 図1-2)。 この内、礎石が残 されていたのは1基
のみで、径70cm、 厚 さ35cmで
あった。礎石掘 り 方 は、径110∼120cm程度、深 さ30cm前
後で、根 固めに小礫が詰め込 まれていた。 この二の丸第2地
点の礎石建 物 は、明治15年 (1882年)の
火災で焼失 した と考 えられることか ら、文化元年 (1804年)の
火災後に再建 された 建物である可能性が高い。 二の丸第17地点の調査 では、文化元年 (1804年)の
火災 によって二の丸建物群が焼失 した際、復興期 に一時的 に建て られた と考 え られる礎石建物が良好 に検 出され (Ⅳa期
)、 礎石建物の具体的様相 を知 る上で重要 な資料 となった (年報18、 図1-3)。 二の丸第17地点のⅣa期
の検 出遺構 の うち、2号
建物 については、攪乱 によって破壊 された部分 もあるが、比 較的建物の様相が明 らか となっている。西辺 は屈 曲を くり返 してお り、い くつかの建物が複雑 に連接す る もの と 思われる。礎石 には、規模の大小や根固めの状況か ら、二通 りの様相が認め られた。大規模 なものは、掘 り方の 径70cm前
後、深 さ40cm程
で、川原石 を充填 して根固め とし、30∼55cmの大振 りな厚み もある礎石 を据 える。建 物全体の重量 を支 える、主要 な柱 を立てた もの と考 え られる。小規模 なものは、掘 り方の平均的な径20cm前
後、 深 さは浅 くて10cm以下で、根 固めを伴わず、20∼30cmの
扁平 な川原石 を直接置いて礎石 とする。 これは、主要 な柱 の間に置かれた柱や、床束 を支 えた礎石 と考 えられる。 これ らの礎石 をつな ぐ地覆石が、外周 を中心 に認め られる。地覆石 も、小規模 な礎石 同様、浅い掘 り方に直接置かれる。 同 じく二の丸第17地点のⅣa期
の3号
建物は、2号
建物の北側 に建 て られた礎石建物である。南辺 と西辺、西 辺か ら2間分の所 には扁平 な川原石 を使 って、地覆石が並 んでいる。建物の北側の区域では、径30∼ 70cm、 深 さ15cmの掘 り方 に根 固め石 を入れた礎石が検 出されているが、南側の石列の区域 には、 この ような礎石 は認め られなかった。2号
建物 では礎石 をつな ぐ形で地覆石が並べ られていたが、3号
建物では独立 した礎石が見 られ ず、地覆石のみで構成 されている区域があることが異 なっている。 二の丸第17地点の Ⅲb3期
(18世紀)の
4号
建物 も、地覆石 を並べ る礎石建物である (年報18、 図1-4)。 薄 い整地層 を施 した上 に、根 固め石や地覆石の石列 を構築する。地覆石 (石列1∼ 4、 石列809)は
、扁平 な角 礫が多いが、川原石 も使われている。 コーナーなど柱が立て られていた と思われる部分には、やや大 きな石が使 われている。根 固め石の可能性のある小礫が分布す る場所 もあ り、その上 に石列や礎石 (ピ ッ ト450)が
置かれ ている場所 もある。石列 5と 石列6は、構造が石列 1な どと類似す るが、間隔がずれるため、他の建物 になる可 能性 もある。 武家屋敷地区第7地
点では、 Ⅲ期 (19世紀前葉か ら明治初頭)の
2号
建物が、比較的様相の判明す る礎石建物 である (年報19第1分
冊、図1-5)。 礎石 と、礎石 をつな ぐ石列状 の地覆石で構成 される。礎石 は25∼35cmの川 原石 を用いてお り、幅35∼50cmの
掘 り方 に据 え られている。掘 り方の深 さは20∼30cmとやや深い ものの、根固 め石 は入れ られず、土で埋 め戻 した上 に礎石が置かれている。礎石の中には、掘 り方が明瞭にとらえられなかっ た もの もあ り、それ らは床束 を支える礎石であった可能性 も考 えられる。礎石 をつな ぐ地覆石 は、礎石 よ り小 さ い15∼20cm程
度の川原石 を用 いている。意識的 に検 出に努めたに もかかわ らず、明瞭 な掘 り方 は確認で きなか った。石 と同 じ程度の範囲をわずかに窪めた程度の掘 り方であったか、あるいは地表面 に直接石 を置いただけで あった と推定 される。そのため、後世 に石が取 り去 られて しまうと、痕跡 をとらえることは極めて難 しくなるこぱ
ボ
一
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二
] 1号。2号・3号建物 の関係 石 敷 雨 落 溝 柱穴の丸印の大 きさは、柱穴の規模 の大小 を表す。 白抜 きの丸印は、推 定 され る柱穴 を示す。 0 10m 図1-3
仙 台城跡二 の丸第 17地 点Va期
の遺構υ
石列
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石列8 ′ (`:,)の
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ヽ 一 ︱ , ︱0
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│ 図1-5
仙 台城跡二 の丸北方武家屋敷地 区第7地点 Ⅲ期 の遺構Fig■-5 Plans offeatures belonging to phase Ⅲ at BK7
― ― . 。 融
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仙 台城跡二 の丸第 17地 点 Ⅲ b3期の遺構 Fig,1-4 Plans of features belonging to phase lllb3 at NN117ど‐8∂び、
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′ ヽ ″ ― ― │とが、容易 に想定 される。 やや特殊 な構造 と考 え られるのが、二の丸第17地点 Ⅳ
a期
の1号
建物跡である (年報18、 図1-3)。 外周 は、 上幅95∼ 120cm、 下幅55∼ 75cm、 深 さ50cm前
後の断面逆台形の溝 を掘 り、川原石 を主体 とした5∼15cm程
度の 礫 を詰め込んでいる。礎石 は全 て取 り払われていたが、詰め られた礫 の上 に据 え られていた もの と考 え られる。 溝 に囲まれた内部には、径30∼ 65cm、 深 さ10∼15cmのほぼ円形の掘 り方に、5∼
10cm程度の川原石 を入れて根 固め とした柱穴が半 間間隔で並 んでいる。 これ も礎石 は残 っていなかったが、床束 を支 える礎石 と考 え られる。 同様 の溝が、隣接す る第1地
点の調査 区で発見 されてお り (年報1)、 それ を合 わせて考 える と、東西2問半、 南北7間以上の細長い建物 になると推定 される。外周の基礎構造は、堅個 なもので、重量 を支 えるための工夫 と 考 えることがで きるであろ う。内部の床束 を支 える礎石 も、比較的丁寧 に造 られている。細長い建物の形態や、 この ような基礎構造の特徴か ら、土蔵のような建物 を想定で きるであろう。 この ように仙台城 と関連する近世遺跡の建物遺構 を見 ると、建物の性格や規模、特 に礎石 にかかる荷重 によっ て、礎石お よび掘 り方や根 固めの構造や規模 は、大 きく異 なっていることが明 らかである。本丸大広 間の主要な 柱 を支 える礎石が最 も大 きく、次いで二の丸小広間周辺の柱が大 きい。 これ らは、かな り大規模 な建物であ り、 荷重 も相当大 きかったことが想定 される。一方、武家屋敷地区第7地
点の2号
建物の礎石 は、最 も小規模で簡素 な礎石であ り、その分だけ荷重 も軽かった と思われる。また同 じ建物の中で も、礎石が支える柱 の種類 によって、 礎石の規模 と構造が異 なってお り、それぞれの礎石が支える荷重 に応 じて、使い分 け られていることは明 らかで あろ う。今回は検討で きなかったが、掘立柱建物で も、同 じ建物の中で柱穴の深 さが大 きく異 なっている事例 も あ り、同 じように柱 にかかる荷重の違いを反映 している可能性が考 えられる。建築学的な検討は行 えていないが、 この ような礎石や柱穴の特徴 を把握 してい くことが、上屋構造の復元 にとって重要であると考 えられる。 ④礎石建物 と掘立柱建物 本丸大広間や若林城の主要建物群、二の丸の中心建物は、当初 よリー貫 して礎石建物であったと考えられる。 西屋敷の主要建物 も全て礎石であったように、城に準ずる主要な施設については、江戸時代の初期から礎石建物 が用いられていたと考えて良いであろう。 ところが、簡素な構造の建物については、仙台城の中においても、江戸時代を通 じて掘立柱建物が使い続けら れた可能性がある。二の丸第5地
点では、中奥裏側の問 (御切手御門)の
東側に大量の掘立柱柱穴が集中してい た (年報6・ 7)。 保存状態が良 くない部分 もあ り、柱穴の組み合わせは、十分明らかにはできなかったが、こ れ らの掘立柱の柱穴には、門か ら延びる塀 と掘立柱建物の柱穴が含 まれていると考えられる (図1-6)。 この区 域の建物は、塀に沿って造 られた「腰掛」 と考えられ、絵図では、桁行 1間 の細長い建物 として描かれ、半間分 が土 間で、半 間が板敷 きと考 え られる。塀 は掘立柱構造 で、頻繁 に建 て替 え られていた ことが判 明 している。 「腰掛」 について も、簡素 な構造のため一貫 して掘立柱建物で、塀の建て替 えに伴い頻繁 に建 て替 え られた可能 性が考 え られる。 この ような簡素 な構造で、なおかつ頻繁 に建て替 え られる建物 については、仙台城内で も掘立 柱が使われ続けていた と考 えて良いだろう。 城以外の一般的な武家屋敷の建物が、礎石建物であったのか、掘立柱建物が使われ続 けていたのか とい う点に ついては、大 きな問題が残 っている (註3)。 仙台城二の丸北方武家屋敷地区の調査 では、圧倒的に掘立柱建物 が多 く、礎石建物 は きわめて少 ない。同 じような事例は、仙台城周辺の武家屋敷 に限 らず、仙台藩領内の各地で 見 られることである。 仙台藩では、家 臣の多 くが仙台城下の屋敷以外 に、知行地に在郷屋敷 を有 していた。在郷屋敷 は、家臣の家格 などに よって規模 や位置づ けが異 なっていた。重 臣が居館 としていた、地域 の中核 的位置 を占める ものは、要 害 。所 。在所 と区分 され、特別な扱いを受けていた。/
√
o3号 建物子♂
5号柱
列
0。
III a期 図1-6
仙 台城 二 の丸 第5地点 Ⅲa期の遺 構Fig■-6 Plans of features belonging to phase Ⅲ a at NⅣ 15
図
1-7
仙 台城跡二 の丸北方武 家屋敷地 区第4地点I期の遺構Fig。1-7 Plans offeatures belonging tO phase l at BK4
礼
靱 珈
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﹁ 、 5. ヽ ヽ + ︲ ︲ m ︲ ︲登米市 (旧迫町
)の
佐沼城跡 は、近世の佐沼要害である。「三の丸」 と呼ばれた こともある、堀 に囲 まれた区 画で、陪臣の屋敷地 として使 われた区域が調査 されている。礎石建物 は見つかってお らず、江戸時代 を通 じて掘 立柱建物が存在 していた と考 えられている (佐久問光平 ほか1995)。 大崎市 (旧松 山町)の
上野館跡 は、仙台藩の奉行 な どの要職 をつ とめた茂庭氏の在郷屋敷で、「所」拝領であ った。屋敷のほぼ全域が発掘調査 されているが、礎石建物 はわずか しか発見 されていない。礎石建物の有無 につ いて問題 となるのは、B期
とされた17世紀末∼19世紀の遺構群である。報告者 は、絵 図 との対比か ら存在が推定 される主要建物が検 出されていないこと、遺構群の性格 と時期か ら掘立柱建物が主体 とは考 えに くい ことか ら、 戦後 に削平 を受けた際に、礎石建物跡の大部分 は失われて しまった と推定 している (佐久間光平 ほか1993)。 この ような調査事例 に対 して、実際に礎石建物が少 なかったことを示すのか、あるいは削平 によって破壊 され 検 出で きないのか、 どち らと考 えるかによって、復元 され る遺跡の姿は大 きく異 なって くる。 この問題 を考 える に際 しては、時期的な問題 と、居住者の階層や建物の性格の問題がある。二の丸北方武家屋敷地区第4地
点Ib
期 (17世紀中葉∼後葉)の
30号建物の ように、比較的大 きな建物で も、掘立柱である場合 も確認 される (年報13、 図1-7)。 したが って17世紀 には、主要 な建物で も掘立柱建物が使 われていた可能性 があ る。その場合で も、や がて主要な建物 は礎石建物 に転換 していった とい うのが、一般的な理解であった と思われる。 農村の民家建築 について も、江戸時代の途中で、礎石 に転換 してい く場合が多いことが知 られている。一般的 な傾向 としては、18世紀前期か ら中期 にかけて上層農家 の主屋が礎石で建 て られ始め、18世紀後期か ら19世紀前 期 には中下層農家の主屋 も礎石 に転換 してい くことが指摘 されている。 しか し、必ず しも全てが礎石 に転換す る 訳 ではな く、従来考 え られていたよ り遅 くまで、掘立柱建物の民家建築が造 られていた場合 もあることが指摘 さ れ るようになっている (浅川・箱崎編2001)。 宮城県内に残 されている民家建物 について も、ほぼ同様 で、18世 紀以降は礎石 を使 った ものが出現 し、現在 まで残 されているものがある (古建築研究会編著1992)。 19世紀以降 では、納屋 な どの小規模 な附属建物で も、礎石が使われている事例は少 な くない。 しか しこれ らは、礎石 を使 っ た建物であるか ら残 った とも言える訳で、掘立柱建物がいつ まで使われたか とい う点 については、残 された民家 建物だけか ら考 えることはで きない。 仙台城下 における武家屋敷 については、農村 の民家建物 よ りは礎石への転換が早か った と考 えるのが穏当な理 解であろう。 にもかかわ らず、発掘調査事例では、幕末 にいたるまで掘立柱建物が多数造 られ、礎石建物 は きわ めて少ない。江戸時代 を通 じて、幕末 まで掘立柱建物が使われ続 けていることは確実である。付属的な簡素 な構 造の建物 は、幕末 まで掘立柱が使 われた場合があったことは間違いないだろう。 しか し、主屋 などの主要な建物 で も、掘立柱建物が使 われ続 けたのか という点については、民家建築の様相 などを参考 にすると、疑間が大 きい と言わざるを得 ない。後世の破壊 によ り、礎石建物が確認で きな くなっている可能性 も高いだろう。 先に検討 した ように、近世の礎石建物の礎石 は、柱 にかかる荷重 な どによって、その構造や規模 に大 きな違い がある。荷重が比較的軽い小規模 な屋敷であった場合、礎石 は小規模で、掘 り方の構造 も簡素であった と考 え ら れる。小規模 な礎石 には、掘 り方がほ とん どな く、若干窪めた程度の場合 もある。地覆石 については、ほ とん ど 掘 り方 を持 たない事例 もある。現在 に残 されている近世民家建築では、地覆石 を据 える際 に、ほ とん ど掘 り方が 無 く、地表面の上 に石 を並べ、石の間を粘土 などで固める方法 も見 られる。 この ような礎石や地覆石が取 り去 ら れると、掘 り方 を確認す ることは極めて難 しく、建物の痕跡 を把握で きないことが容易 に想定で きる。 川内地区の武家屋敷地は、明治時代 に建物が取 り払われ、一時的に畑 として利用 されていた場合があることが、 武家屋敷地区第4地
点 (年報13)や
第7地
点 (年報19第1分
冊)で
確認 されている。畑の耕作 の際、支障 となる 礎石 を除去 した可能性 は大 きく、第4地
点では畑の一画 に大小の礫 を集めた「集石遺構」が検 出されている。後 世 に畑が作 られている区域では、江戸時代の礎石建物がほ とん ど破壊 されている可能性 を考 えてお くことも必要 であろう。一方で、武家屋敷地区で検出される掘立柱建物の数が、幕末にいたるまで多数におよんでいることは、掘立柱 建物が例外的な事例でないことを示唆する。このことは、掘立柱建物が簡素な建物に限定さるのかどうか、江戸 時代の新 しい段階でも、慎重に検討することが必要であることを示 していると言えるだろう。 このように、仙台城周辺の武家屋敷地区において、礎石建物が本来存在 しなかったのか、後世の破壊により確 認できないだけなのかという点については、現在のデータでは確定的な答えを準備できる状況ではない。仙台城 周辺の武家屋敷地は、地下鉄東西線関連の調査によって、急激に調査事例が増加 している。今後 も、両方の可能 性を想定 しなが ら検討を続けるとともに、蓄積 されつつある成果を比較検討 して、仙台城周辺の近世武家屋敷の 実態を解明 してい くことが期待される。 〈註〉
1)本
論については、2001年10月 7日に米沢女子短期大学において開催 された東北史学会2001年度大会考古学部 会において、藤沢敦・京野恵子・高木暢亮の連名で口頭発表 した「近世建物遺構の基礎構造」において報告 し た内容の一部を含んでいる。2)治
家記録義山公巻之二、寛永15年12月 14日 の記事に見える (平重道編1974)。「十四日戊寅。此 日二丸屋形焼 火間、虎間、御納戸茶道部屋、御鑓間上墓所、御風呂屋、大墓所、小姓間、御用間、肴部屋、御鷹部屋、等用 屋、今 日マテ段々上棟アリ。右御作事、若林ノ屋形 ヲ解 シ用 ラル ト云々。」ここに記 された建物の名前は、茶 道部屋・御鑓間・御鷹部屋、算用屋 を除 くと、『御二丸御指図』で確認できる。それら位置は、特定の場所に 固まることなく、二の丸の各所に分散 している。3)近
世遺跡において礎石建物がほとんど検出されないことについては、2008年 5月 に開催 された平成20年度宮 城県考古学会総会・10周年記念大会の際の発表「宮城考古学 ―この10年の歩みと展望 ―近世」において、問題 点を指摘 したことがある。《
引用
0参
考文献》
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『仙台城下絵図の研究』斎藤報恩会博物館図書部研究報告4 入間田宣夫編2006
『仙台市史特別編 7城 館』仙台市 金森安孝・根本光= 2002
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『仙台城跡2-平
成14年度調査報告書 ―』仙台市文化財調査報告書第264集 鹿野仁子・鈴木 隆・渡部 紀2007
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成18年度調査報告書 一』仙台市文化財調査報告書第309集 川又隆央 。小泉博明2004
『下野郷館跡』宮城県岩沼市文化財調査報告書第 2集 古建築研究会編著1992
『宮城県の古建築 ―江戸 。明治期の建造物 ―』宮城県文化財調査報告書第151集 小林清治編1982
『仙台城 と仙台領の城 。要害』 日本城郭史研究叢書第二巻 名著出版 佐久間光平ほか1993
『上野館跡 ―近世茂庭氏居館跡発掘調査報告書 ―』宮城県文化財調査報告書第156集 佐久間光平ほか1995
『佐沼城跡』迫町文化財調査報告書第 2集 佐藤 淳ほか2005
『若林城跡 ―第 4次 発掘調査報告書 ―』仙台市文化財調査報告書第292集 佐藤甲二ほか2007
『り│1内A遺跡 一仙台市高速鉄道東西線関係遺跡発掘調査報告書I―』仙台市文化財調査報告書第312集 佐藤 巧1967
「仙台城の建築」『仙台城』pp.23∼87 佐藤 巧1979
『近世武士住宅』叢文社 佐藤 洋 。在川宏志2009
『仙台城跡9-平
成20年度調査報告書 ―』仙台市文化財調査報告書第348集 鈴木 隆 。渡部 紀2005
『仙台城跡5-平
成16年度調査報告書 ―』仙台市文化財調査報告書第285集 鈴木 隆2006
『仙台城跡6-平
成17年度調査報告書 ―』仙台市文化財調査報告書第297集 仙台市教育委員会2005
「仙台市若林城跡 (第5次 調査)」『平成17年度官城県遺跡調査成果発表会発表要旨』 pp.55∼60 仙台市教育委員会2007
「仙台市若林城跡 ―第 8次 調査の概要 ―」『平成19年度官城県遺跡調査成果発表会発表要旨』pp.55∼ 60 平重道編1974
『伊達治家記録四』宝文堂出版高倉淳ほか編