ニ ー チ ェ ・ コ ン ト ゥ ラ ・ パ ス カ ル ( そ の 1 )
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パ
ス
カ
ル
の
理
「
性
の
論
理
と
」
心
「
情
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論
理
―
」
Nietzsche contra Pascal (I)
Die Logik der "raison" und die des "Coeur" bei Pascal
園 増
治
之
Haruyuki Enzo
(Ⅰ) ニーチ ェはその著 rこの人を見 よJの中でパス カルについて次の よ うに語 っている。「私はパ スカ ルを読むので はない,む しろ愛す るのだ。つま り, 最初 は肉体的 に,次いで心理的 に,徐 々に虐殺 さ れてい ったキ リス ト教の最 も教訓に富んだ犠牲 と して」
川と。この一文か ら「パスカルの没落」(
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の運命 に対す るニーチ ェの限 り なき愛惜の情 が窺われ る。その語調は,人間 につ いての 「人間的な,余 りに も人間的な」理解 を超 えた次元でのパスカルの人間理解が, ニーチ ェの 極めて鋭敏 な心情の琴線に触れて奏で られた調べ ではなかろ うか。それでは一体如何なる次元での 人間理解に於 いて,
「キ リス ト老」(
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昌
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た る パスカル と 「反 キ リス ト者」(
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た るニ ーチ ェとの問 に心情の コ ミュニカシオンがあ った であろうか。 パ スカルはす ぐれた数学者, 自然科学者 として 人生の第一歩 を踏み出 し,若年 に して数多の卓抜 せ る業績を遣 したが,その彼が方向転換 して 「人 間の研究」 に携わ り,その研究を介 して さらに, 晩年 には宗教的生活にまで赴 いていったのである が, この方向転換の事情について記 した次の よ う な一文が r/(ソセj に通 る(2)0 「私 は抽象的 な科学 の研究 に久 しく時を過 ご し て きた。そ して この研究によって もっ ことがで き るコ ミュニカシオンが少ない ことが, この研究に 対す る嫌けを私に抱かせた。私が人間の研究を始 めた時, これ らの抽象的な科学が人間 にふ さわ し くない こと, また,私は抽象的 な科学の研究 に徹 底 したが故 に,それに無知 な他の人 々よ りも一層 私の状態に関 して迷 っていることを知 った」。 この文か ら推察 され る如 く,パスカルの 「人間 の研究」の問題- それは人間は迷 っているとい う人間の根本的 コソデ ィシオンに根差 した問題で あ るが- が問題 となったのは,パスカルの科学 研究の徹底によって開かれた次元 に於 いてであっ たのではなかろ うか。従 ってパスカルに とっての 問題は,最初か ら宗教的に思索 して出会 ったので なければ,いわんや社交的な交際の うちで現われ た問題で もないのであ る。 されば こそ,バスカ′レ のい うところによれば, 「(パスカルの言 う意味で の)人間を研究す る人は幾何学 を研究す る人 よ り も一層少 ない」のである。 我 々もまず この問題次元を, この次元を開示 し たパスカルの科学 の基礎 についての探究の跡を追 って,究明 してい こ う。 (ⅠⅠ) パスカルの科学基礎論は,
「論証の術」(
1
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としての科学の方法論 についての考 察 に基づいている。かかる意味での方法の理想た る 「真の方法」とは,パ スカルの断帝的小論文 r幾 何学的精神についてl(3)によれは,
「一つ には,予め その意味を明確に説明 されていない用語はすべて 用いない。次に,すでに知 られている真理によっ て証明 されなかった命題は提唱 しない こと」 とい う二つの制約によって成 り立つ。 しか るに,かか る 「真の方法」はあ くまで方法の理想に とどま り, 「其の方法」に従 って 「絶対的に完結 した秩序」を もつ科学 を実現す ることは,我 々人間 に とって不 可能である。 なん となれば,我 々がい くら 「定義 と証明」 とい う方法に従 って基礎 に向 って潮 らて ち,最 も基礎的な第-概念を定義 しよ うとすれば, 「それを説明す るのに用い る先行的 な用語 を前提す る」ことになるし,同様 にまた
,
「第一の命題 を 証明 しよ うとすれ ば,それに先行す る他の命題 を 前提す る」 ことになるか らであ る。すなわ ち,料 学が 自分で- つ ま り 「定義 と証明」 とい う方法 で- 自分 自身を基礎づけよ うとした場合,必然 的に推論的な理性の平面上を無限に背進す るとい う事態 に陥 って しま うのである。科学の基礎 に含 まれ るい くつかの 「原始語」(
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紘 定義す ることはで きない し,また「第一原理」(
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も理性 に よって証明す る こ とはで きない。しか し,そ うだか らといって,
「原 始語」や 「第-原理」 (あ るいは公理)が不分明か とい うと,そ うで はない。む しろ 「原始語」が意 味 している事柄 は定義す る必要がない程 明白であ るし,
「第-原理」,
「公理」は証明す る必要がない 程 自明な事柄であ る。つ ま り 「原始語」,
「第-原 理」 は定義不可能 ・証明不可能 とい うよ りもむ し ろ定義不必要 ・証 明不必要だ と,パスカルは言 う のである。そ して 「原始語」や 「第一原理」の定 義や証明の不必要性は,当該の事柄の 「極端 な明 証性」(
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5
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か らくる のである。た とえは 「空間,時間,運動,同等, 多」 といった 「原始語」 はそれが意味 している事 柄 を きわめて「自然 に指 し示す」(
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。同 じことであるが,理解す る 我 々の側か ら言 えは,我 々は「空間,時間,運動, 同等,多」とい った言葉 を 「自然 に理解 している」(
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8
1)のである。 ここでパスカルのい うところの 「自然に」とは, 我 々が 「人為」(
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の手を加 えるのに先立 って とい うことを合意 している。「自然(
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紘 それ 自身で無言で(
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,人為が我 々の 説明によって我 々に得 させ るよ りも明瞭 な意味を 教 える」(p.5
8
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)
。自然は ことばによって説明され ない,む しろ言葉 がそ こに於いて初めて無言裡 に 理解 され る光を我 々に最初か ら与 えている。それ が 自然の光(
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である。我 々 は,定義 ・証明 といった方法す なわち人為的な術(
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t)に先立 って,すでに自然 に,暗然裡 に,原 始語や第一原理が開示 され る地平に立 っているの であ る。その第一 次的 な開示の地平の上に立 って は じめていわば第二次的に定義を与 えることが可 能 なのである。 我 々は元 々元初か らす で に原始語の理解の地平 の うちに被投的に存在 して いる。パ スカルの表現 によれは,「われわれの魂 は身体の うちへ投げ こま れてお り,そ こで数,時間,空間を兄い出す (o
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)
。魂は その上で推理 し,それを 自然,必然 と呼び,他の ものを信 じることがで きない」
(rパ ンセJ
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.
2
3
3
)
のである。単 に数,時間,空間だけでな く,実は, 元初的な地平の開示の うちで人間は 自分 自身を も 兄い出 して存在す る(
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)
。人間の存在に は根源的に地平の開示が属 してお り,その地平の うちで人間 は自分・自身を兄 い出して存在す るので ある。人間が存在するとは常に地平の うちに存在 す るとい うことであ り, また地平の うちで 自分を 兄 い出 して存在す るとい うことであ る。われわれ 人間は抽象的に単 にあるのではな く,常 にある一 定の地平の うちで存在す る。つ ま り或 る一定の情 態く
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において存在す るのであ る。従 っ て,我 々人間はまず一方 に於 いて魂 として存在 し, 他方において身体 として存在 してお り,次いで魂 と身体 とが合一す るとい うような仕方で存在す る のではない。我 々の魂は最初か ら身体の うちに投 げ こまれてお り,そこで 自分 自身を兄い出 してい る,つま り存在 しているのである。上 に引用 した パスカルの発言の真意はか よ うに解 されて然 るべ きである。 以上のよ うに最初か ら人間存在 には元初的な地 平が開示 されている。逆 に言 えは人間は最初か ら 地平の うちに存在 してい る。 日常的生活で もすで に原始語の理解が属 してい る。尤原始語以外, 日 常的に使われている語は多義的で,その語が指 し 示す ものは唆昧なままで はあるのだが。 これに対 して幾何学は原 始語以外のすべての語 を予め定義す る。幾何学 の研究領域 は,人為的に 定義を与 えることによって開かれた地平であ る。 幾何学の定義は名 目的定義 で明白に指示 され るも のに名称をつけるのであ る。逆 に言葉の方か らい えば,幾何学の定義は,他 の意味を剥 ぎ とって, 一義的に一つの事柄を言葉 に指 し示 させ るのであ る。幾何学 の次元は,原始語 ・公理 によって 自然 にす なわち第一次的に開 かれた元初的開示の地平 の上 にさらに我 々が名 目的 な定義を与 えるとい う 技巧(
1
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)
によって第二次的に開かれる。従 って幾何学は証 明不可能 ・定義不可能 な公理を仮説す るが故に
,
「絶対的 に完結 した秩序」ではないが, それだけを仮設 してその他の一切の語を定義 し, 一切 の命題 を証明す るが故に 「人間の世界で最 も 完全 な秩序」(p.579)なのである。 幾何学の地平は,原始語 と予め定義 された語だ けに よって開 かれ るが故に狭い。その代 り,
「証明 にあたっては被定義語の代 りに定義その ものを意 識の上で置 き替 えさえすれば,結論のいかん とも しがたい力 は必ずその効果を発揮す る」(p.597)。 つ ま り,幾何学の地平で証明 され る命題 の確実性(
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)
は保証 されるのである。幾何学 は定義 を 自分か ら自分に対 して与 えることによって強 く て狭 い地平 を開 いているのであ る。「意識 の上 で(
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に)被定義の代 りに定義その もの を置 き替 えなければな らない」 とい うことは,逆 に言 えは, そ こに於 いて命題を確実 に立てること がで きる地平 を開 くために,幾何学 は意識の上で 自分 自身に対 して予め定義を立てておいたのだ と い うことにな る。 このよ うに,幾何学は定義をみずか らに与 える ことによって確実な推論の地平を開 くと共 に,そ の地平 の うちに意識 的 に 自ら閉 じ込 もるので あ る。 してみれ ば,
「幾何学」は常に地平の開示 の う ちにある人間 の在 り方の一つ,すなわち幾何学 と い う地平の うちにあ る人 間存 在 を も表 わ してい る。かかる幾何学 の地平を開 くと共 にそ こに閉 じ こもった人間のあ り方をパ スカルは 「幾何学的精 神」(
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.1) と 名づけてい る。幾何学の地平は狭いがその地平に 於いては推論 は有無をいわ きぬ仕方で展開 され る が,それに対応 してそ うい う地平にある幾何学的 精神 も 「強 くて狭い」(
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パ ソセJ
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.
2
)
のである。 幾何学は予 め一義的に制限 された意味を もつ用 語を立てる ことに よって,狭 く限 られた地平 を開 いている。 それ故その地平 に於いては対象は 「粗 い」(
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)
原理の もとに我 々の前に現象 して くる(
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.
1参照)。すなわち幾何学は ごく単純 な図形のみを対象 として考察す る(p.595)のであ る。幾何学 のパ ースペクテ ィブは元 々微妙な もの を無視 し見過 す ことに よって開 かれてい るが故 に, デ リケー トなものに対 しては幾何学 の見方 は 適 していない。敢 えて強引にデ リケー トなものを 幾何学の地平へ引 き入れて見 よ うものな ら,それ はデ リケー トな ものを歪め ると共に, 自らも歪ん で しま うのである。幾何学は 自らの地平 に閉 じ込 もる(
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)
こ とに よって確実 な基 礎(
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に立つのである。 従 ってパスカルに とって幾何学は名 目的定義 と 公理 とを立て ることに よって 自分に対 して確実 な 基礎 を提供す るが,その確実な基礎 は幾何学だけ にとってにしかす ぎない。 デカル トが求めた よ う に諸科学 における 「確実不易なる基礎」(4)にはな り えない。 デカル トのマテシス ・ウニウェルサ リス (普遍数学)の樹立は, パスカルに とって最初 か らユー トピアである。幾何学は,パスカルか らみ れば大 まか(
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)
な原理 に基づ くが故 に,微妙 なことを無祝 して 「大 まか」(
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)
にな ら話 す ことはで きる。.しか しすべての事柄を幾何学的 に説明 しよ うとす るな ら,幾何学の術(
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)
は幾 何学 の狭 い地平にそれを歪 めて閉 じこめ ることに なる。「自然はすべての真理を各 々それ 自身の うち に置 いた,我 々の技巧が一つの ものを他の ものの うちに閉 じこめた。 しか しその ことは不 自然であ る。 おのおのの真理 は 自分の場所を占めている」(
r
パ ンセIf
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.2
1)0 「幾何学者で しか ない幾何学者」
(r/1'ンセJ
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.
1) は自分が開いた地平 に 自閉的に閉 じこもっている が, これに対 して 「大幾何学者」(
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パ ンセJ
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.
2
)
は幾 何学 の地平 の基礎 に向 って どこまで も潮源 し, しか も単 にそれだけに とどまらず,幾何学 と は別 の一層根源的 な次元 に突破す るのであ る。 元 々人間の生に とって 自然 に(
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t)広 漠た る元初的地平が開かれているが,幾何学はそ の地平の うち- さらに明確に意味限定 (定義) さ れた語 を投 げいれ て地平 を制 限 し,意識 の上 で(
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に)幾何学固有 の一貫的秩序 を も った地平 (すなわちパ スカルのい う 「幾何学的秩 序」)を開 く。幾何学者で しかない幾何学者はその 地平 の上で帰結の方 に向って無限に推理(
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t)を展開 してい くが,
「大幾何学者」は帰結 の方 に向 うだけでない。 もはや理性(
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に よ っては解明で きない- す なわち幾何学 の方法に ょって解明で きない一一 幾何学 の基礎 を潮源尭明 す る。然 して究明す る幾何学老 自身が 自らの狭 く 閉 じられた幾何学的地平をその根底へ と突破 し,元 々人間的生に 自然 に開かれていた包括的な広 い 地平へ と幾何学 の基礎 を究明す る老 自身が出るの であ る。 従 ってパスカルの幾何学 の方法論は単に文字通 り幾何学の方法 について述べただけではない。方 法論を通 して幾何学の基礎 にして且つ もはや幾何 学の次元ではない別の次元- と,方法論を論 じる 者 自身が突破す るのである。この論文 の冒頭でrパ ンセJか ら引用 した文のなかでパスカルは 「私 は 抽 象 的 な科 学 の研 究 に徹 底 した が故 に
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t),それ に無 知 な他 の人々よりも一層私 の状態に関 して迷 っていることを,知 った」 とい っているが,要す るに,パスカルは幾何学の基礎 の研究を通 して,幾何学の狭い地平を突破 して, より広 い地平 に出で立 ったのである。かか る地平 の うちで兄 い出 した 自分 自身 (すなわち自分の コ ソデ ィシオン) は広漠たる地平のなかで 自分 自身 を見失い迷 ってい る(
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)
とい うコソデ ィシ オンなのである。 前述の如 く,幾何学の基礎 は幾何学の方法 (定 義 と推論的証明) によって究明で きない。原始語 を定義 しよ うとして も無駄である。「いたず らに立 ち どまってそれ ら (原始語)を定義す ることな く, それ らの本性に透徹す る(
p
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)
」
ことによっては じめて 「それ らの驚嘆すべ き特質 を発見す る」(
p.
5
8
3
)
ことがで きるのであ る。 と ころで,原始語が指示す るのは,いわゆる 「存在 者(
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)
」ではない。む しろ存在す るものが そこに於いて存在するところの 「地平的な もの」を 指 し示 している。 「時間,空間,運動,数」等は, すべての存在者がそ こにおいて現象す る包括的な 地平を形成す る。 パスカルの用語によれば 「全宇 宙を包む もの(
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」(
p.5
8
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)
である。原始語が 「極端 な明 証 さ」を もつの も実 は,原始語が,すべての存在 者がそ こにおいて兄い出され る地平的な ものを指 し示 しているか らである。それでは一体地平的 な ものは どの よ うな特性を もつのであろ うか。 それは,地平的 な ものは大いさに向 って も小 さ さに向って も無限 に開かれているとい う特性であ る。た とえば どんなに大 きな空間であって も,そ れ以上大 きい空間を考 えることがで きるし, また 反対 にどんなに小 さい空間であって もさらに小 さ い空間を考 えることがで きるのである。存在す る ものはすべて無限大 と無限小 (無) とに向 って開 かれた地平の うちに有限なもの として存在す るの である.我 々人間 も有 限なるもの としてやは りま た無限大 と無限小 (蘇)の中間に存在す る。 このよ うに,パスカルが元初的開示の地平の特 性の解明のために投げかけた光 は, 自分 自身へ と 返照 し,元初的開示の地平の うちに存在す る彼 自 身の存在を照 らし出 した。か くして r幾何学的精 神 についてJの終末部分(
p.
5
9
1)では次のよ うに 言 う。 「これ らの真理を明確 に認め るものは,四方か ら iっれわれを取 り囲んでいるこれ らの二重の無限に あ らわれた 自然の偉大 さと力 とに驚嘆 し, 自分が 広が りの無限 と無 との中間に,数の無限 と無 との 中間に,運動の無限 と無 との中間に,時間の無限 と無 との中間に置かれているのを見て, この驚 く べ き考察 によ り自分 自身を知 ることを学 び うるで あろ う」。(
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il) 以上パスカルの科学基礎論では,幾何学が 自分 自身の基礎 を究明 して行 ったその究極 において, 幾何学的地平を脱却 して,無限 と無 とに自分を曝 す(
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)
ことになる。そ して,その無限(無) はもはや 「理解すべ きものではな く,驚異すべ き ものである」(
p.5
9
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)
。我 々が驚異す るのは理性(
r
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によってではな く,心情 (心臓c
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)
によってである。理性による自己究明の思索が, 自己の根底 に自分 とは別の 「心情」の次元を開示 したのである。「理性の最後の歩みは,理性を超 え るものが無限にあるとい うことを認めることにあ る」(
r
パ ンセjf
r
.
2
6
7
)
。パスカルにおいては,理 性を超 えた もの,不可解な ものに対す る理性の服 従は,理性それ 自身の うちか ら起 こるのである。 理性みずか らが屈す ることによって,「自然の大 き な驚異に対 して心を開 く」(
p.5
8
3
)
のである。 ところで さて,上の ような科学基礎論を通 さな くとも人間は もともと元初的開けの うちに出て, そ こで生 きてい る。元初 的開 けの うちで第-原 理 ・自然原理を,理性 によってではな く心臓 によ って感知(
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r
)
し, 自分 自身を感知 してい る。心臓 において我 々は無限な開けの うちへ出て,無 限な開けに身 を曝 しつつ,かかる自己を感知 して いる。人間で あ る限 り,人間 として存在す る限 り, 無限な開けの うちで 自分 自身 の存在を感知 してい るとい うことが,その存在に根源的に属 している。 人間は単に無 限■に開かれた地平の うち-投げ出さ れて存在す るだけでな く,それ と同時に無限な地 平の うちで 自分 自身を兄い出 しなが ら存在す る。 我 々人間は も ともと自分 自身の外へ抜 け出し,無 限 に開かれた地平へ超 え出て,無限 と無 とに曝 さ れている。人間は存在す るものの真直中に投げ入 れ られて,存在す るものすべてに依存 して存立 し, 存在す るものすべて とのオソテ ィシ ュな(有的な) 関係か ら抜 けだす ことはで きない。 しか し,人間 は同時にまた, 自分が存在す るもの全体 に依存 し ては じめて存在す ることが可能であることを知 っ ていることにおいて,存在す るもの全体をいわば オン トローギ シ ュ (有論的)に超 え出ている。 も し我 々の存立 のための条件が一つで も欠ければ, 自分が生存す ることが可能でない ことを我 々は知 っていることにおいて,我 々の存在は根底か ら無 に曝 し出され ている。我 々人間は人間である限 り, 最初 か ら常
た
,無の うちへ出て, 自分の存在 の空 しさを感知 している。「感 じることがなければ惨め ではない。 こわれた家は惨めではない。惨めなの は人間だけで ある」
(rパ ンセIf
r
.3
9
9
)
0 然 るに,普通我 々はかか る自分の 自然的状態を 自ら晦 まし, 自己逃避せん とす る。賭け事に夢中 になった り,気を紛 らした り,あるいは,仕事に 打ち込む ことす ら,自己か ら逃れんがためである。 「人間は,死 と不幸 と無知 とを癒す ことがで きなか ったので,幸福になるために,それ らの ことをあ えて考 えない よ うにした」(
rパ ンセjf
r
.1
6
8
)
0 しか し,虚 無性が人間存在の根底 に属 している が故に,気 を紛 らす ことによって, 自分の虚無性 か ら逃れ きることはで きない。む しろかえって, 気を紛 らす ことこそ,「われわれの惨 さの最大 の も のなのであ る」
(Fパ ンセJ
f
r
.
1
7
1
)
。我 々は所詮死 を逃れ ることがで きないにもかかわ らず,気を紛 らす ことに よって,知 らず知 らずの うちに死 に至 って しま うか らである。 幾何学の基礎 についてのパスカルの思索は,上 の よ うに ともすればそ こか ら逃れん としがちな無 限の開けの うちへ,我 々を不可避的 に立たせ る。 無限大 (いわゆる無限) と無限小 (無) とい うこ の数学的無限の驚異に打たれた心臓 を抱いて,メ スカルは生の根底に ロを開いた 「無限 と無 との こ のこつの深淵」の うちへ決断的 に飛 び込 んでいっ たのであ る。 九鬼周造博士が r驚 きの情 と偶然性j(5
)の最後 で,「偉大 な思想は心臓か ら来 るといふ言葉がある が,現実の世界の偶然性に対 して驚 くこと,驚い て心臓 に動侍 を打たせ ることが,終始一貫 して, 哲学思索 の原動力でなければな らない と考 えるの である」 と結 んでいるが,パスカルの 「パ ソセ」 こそ まさにかかる思索ではなかったろ うか。 パ スカルに とって,パンセ とはまさになに より も 「自分の ことを考 える」思索である。 この 「あ そ こではな くて ここ,あの時でな くて現在 の時に, なぜ いな くてほな らないのか とい う理 由(raison) が全 くない」深淵な存在 となった 自己については, まさに 「理性(laraison)の知 らない理性をもつ」 心情 による思索によって考 えられるのではなかろ うか (rパ ンセjf
r
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とf
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.2
7
7参照)0 自然の うちへ置かれた我 々の状態を差 しあた り 我 々の心情は惨めな状態 として感知す る。「われわ れは,広漠た る中間 に漕 ぎいでているのであ って, 常 に定めな く漂い,一方の端か ら他方の端へ と押 されてゆ く。我 々がいかなる極限へ 自分をつ なぎ 固定 しよ うとも,それはゆれて我 々と離れて しま う, もしそれを我 々が追いかければ,我 々の把捉 か らのがれ,われわれか ら滑 り,永遠の逃走 で も って逃れ去 る」(
rパ ンセjf
r
.7
2
)
。無限の開 けの うちで我 々は生 きるべ き方向を見失 ない,浮動 し ている。「空間によって宇宙は私を包み(compre n-dre),一つの点のよ うに呑み込む」。 しか し,「考 えることによって,私が宇宙を包み 込む(-理解す るcomprendre)」
(rパ ンセjfr.348) とい う。空間的無限の広が りのなかでは;その う ちを空 しく浮動す るだけで,そ こか ら脱 け出 るこ とはで きない。 しか し 「考 える」 こと- rパ ン セ」ではそれほ とりも直 さず 「自分の ことを考え る」 ことであるが- によって我 々は 自分 自身を 越 え出る。「我 々の尊厳のすべては,考 えることの なかにある。我 々はそ こか ら立 ち上が らなければ な らないのであって,我 々が満たす ことので きない空間や時間か らではない。だか らよく考えるこ とに努め よう。 ここに道徳の原理がある
」
(rパ ン セjfr.347)。パスカルの 「考 える (penser)」 と は単に 「意識す る」 とい うよ うなことではない。 我 々人間は 「考 える」とい う働 きに立脚 し,
「考 え る」 とい う働 きと共に 自分 自身を超 えて上昇 して い くのである。パスカルの 「考 える」 とい う働 き はそ うい う生 の持動を もった心臓の働 きである。 「考 える」とい うことは,単 に考 えるとい う働 きに とどまらない。「よく考 える」(bienpenser)こと を求めて自ら高めてゆ くのである。我 々は宇宙の 無限の拡が りに包み こまれてそ こか ら出ることは で きないが,
「考 える」とい う働 きによって無限な 宇宙を垂直に超越 して 「部分を持たない無限」で ある神(
トくソセJ
fr.231)にまで至 るのである。 自分の 自然的状態を惨め と感 じる同 じ 「心臓」
が同時にまた 自らを超越す る働 きをす る。根底を 失い深淵 とな った 自己の惨めな状態の うちに敢 え て飛 び込んで こそ,その無底の深淵か ら浮び上 る ことも可能なのであるO「我 々に触れ我 々の喉 くび を押 えている我 々の惨 さをすべて見ているにもか かわ らず,我 々は 自分を高め よ うとす る自分で抑 えることので きない一 つ の本能 を もってい る」(
r
パ ンセJ
fr.410傍点は筆者が付記す)。生の根 源に属す る意志 (本能)は,我 々の惨 さを見 るが 「故に」鏑沈す るどころか,かえって惨 さを見 る「に もかかわ らず」,高揚 しみずか ら高めん と欲す る。 ここにパスカルにおけ る 「心臓 の転換」(
-回心 conversiondeleco≡ur)がある。それは自分の惨 さ か ら 眼 を 逸 せ る 「気 を 紛 せ る こ と」(di -vertissement)と異な り,惨 さの直視を通 しての心 底 の全面転換 (con-version)なのである。かかる 転換 こそ,単 なる理性の論理 と異 なった心臓 の論 理に従 って生起す るのである。先 に私が傍点を付 した 「に もかかわ らず」は, まさにこの転換点を 示 している。ニーチェがその自叙伝的作品 rこの人 を見 よJのなかで 「すべての決定的な ものは rそ れに もかかわ らずJ成立す る」(S.372)とい う場 合の 「にもかかiっらず」に相当す る。 無限 と虚無 との二つの深淵の間に宙 吊 りに不安 を感 じる 「心情 -心臓」が,そ こか ら逃れ よ うと す ることな く決意 (これ こそまさに心臓の心臓 ら しい働 きであ る′)を もって飛び こむ ことによっ て,その洞ろなる深淵の底か ら,みずか ら高 まら ん とす る意志 (これ こそ まさに心臓 の心臓た る働 きである.ly) として立 ち昇 って くる。 自然によっ て置かれた位置 (無限 と無 とに曝 された状態)に, 受動的にではな く能動的に決意 して 自ら立つ時, そ こで悲惨を感 じていた心臓 は根本か ら転換す る のであ る。 ニ ー チ ェ も生 の 最 深 の 次 元 を 「心 臓」(das Herz)と名づけ,
「生の心臓」の うちに或 る一つの 意志 (ニーチェの場合 「力への意志」)の働 きをみ とめたが(6),/ミスやル も同様 に,生の心臓 を意志の 働 きにあるとみ とめた。「計算器は,動物のなす ど んなことよ りも,一層思考 に近 い働 きをす る。 し か しそれは,動物のよ うに,意志(volont昌)を も つ といわれ るよ うなことは何 もしない」
(rパ ンセJ fr.340)0 周知 のよ うに, なるほ どパスカルは 「考 える」 とい うこ とを もって人 間 の存 在 を性 格 づ けた が(7㌧ 一層根源的には,そ もそ も「生」を特徴づけ るのは 「意志す る」 とい うことである。 「気を紛 らす」とい う我 々の有 り方は, 自己欺病 的 にして 自己逃避的な我 々の非本来的な有 り方で あるが,そ うい う有 り方 も 「幸福への意志」か ら 生 まれたのである。人間の存在 は根底か ら虚無, 死 に曝 されている。気を紛 らす ことがない とたち まちに して,
「魂の奥底か ら,倦怠,暗黒,悲哀, 傷心,憤葱が湧 き上が って くる」。そ こで,人間は 幸福 になるために,根底か ら虚無 に曝 された 自分 の ことを 「考 えない」 ことに した。気を紛 らす こ とによって人間は, 自分の根底の 「空虚 さ」 か ら 逃れ,人間の本性である 「考 える」 ことか ら逃れ る。二重の自己逃避を企 る。所詮 自分 自身か ら逃 れ ることはで きないに もかかわ らず。 自己逃避的 な生 き方では生 きていなが ら生 きていない。「この よ うに して我 々は決 して生 きて い ない, しか し 我 々は生 きることを希 う。そ して,我 々は幸福で あることに向って用意 しなが ら,決 して幸福でな い ことが避け られない」
。(
r
パ ンセJ
fr.172) 我 々は生 きなが ら敢 えて生を求めなければなら ない。そ うでなか った ら,たちまち自分か ら逃れ るであろ う。生は,絶 えず 自分 自身を求めて 自分 自身を乗越 えてゆ くとい う動性にある。「私は,人 間をはめ ると決心す る者 も,人間を非難す ると決心す る者 も, 気を紛 らす と決心す る者 も,等 しく 非難す る。私 は坤吟 しなが ら求め る著 しか是認で きない
」
(Tパ ンセjfr.421)。 この場合の 「求め る 老」は,
「純粋 な,意志な く,・苦痛な く,時間なき」(8) 認識主観では ないOかか る純粋 な認識主観は自分 自身 は傍観者 の位 置に置 き, 自分抜 きに, 自分 と は別 の何かを,た とえは 「知のために知を」求め るのである。そ うではな く,
「坤吟 しなが ら求める 老」 は,生 きるとい うことの根底か ら衝 き上げて くる苦悩 に迫 られて求め るのである。生 きなが ら, 即 ち 自分の全存在を賭 して,求め るのである。 こ の よ うな仕方 での自己の探索 こそが,パスカルの 思索 (パ ンセ) に他な らない といえるのではない か。 それでは一体 このよ うに挙げて 自分の全存在を 賭 して能 く自分 自身を追求 しうる者 は如何なる者 であろ うか。 それは,虚無の うちに投げ出されて,虚無の う ちに存在す る 自分 自身 を しっか り直視す るに耐 え, かかる自分 自身の上 に しっか り立つ ことので きる者である。現在此処に斯 く私が存在す る理由 (根拠)は無い。私の存在を根底か ら支 えるのは無 であ る (すなわち支 えるものが無い)0「あそ こで はな くて ここ,あの時でな くて現在の時に, なぜ いな くてほな らないのか とい う理 由が全 くない」 (前掲引用文)とい うことは,道 に言 うと, ここ現 在でな くて も,あそ こあの時にで も有 りえたので ある。すなわ ち, この私の存在 は,無限に可能な 存在 の うちの偶然な存在である。偶然な存在 とし ての私は, さ らに,死 (虚無)によって,-刻一 刻脅か されているoいつ死ぬか判 らない, この瞬 間に死ぬか も知れない。生は徹底的に虚無によっ て曝 されてい る。虚無 な無限の うちを根無 し草の 如 く常 に漂い生 きている。斯 くの如 き生に立脚す る者が能 く, 自分の存在を不確実な自分の可能性 に賭 けることがで きるのである。根拠か ら板を引 き抜かれた者 のみ板剥 ぎ自分の存在を賭けること がで きる。 人間が元 々置かれた無限な空無の うちに自ら意 志 して立 ち うる者 にとって,無限な空無の うちに 無限な可能性 をみ ることがで きる。人間存在の空 しさは,無限 な可能性 に向 って空 け開かれている ことの証左に もな りうる。「無限のために生みだ さ れた」(9)人間は,自分 自身を無限に超 えていかなけ ればならない。それが人間の生 くべ き方向であ り, 思索 (パ ソセ)が向 うべ き方向ではないであろ う か。 ニーチ ェは r曙光1の或 る箇所でパスカルにつ いて次のよ うに言 っている(10)0「情熱,精神,誠実 を合一 した,すべてのキ リス ト者の うちの第一人 者」であると。 自分 自身に対 して 自分を どこまで も欺 くまい とす るパ スカルの 「誠実性」 は,無限 の空無の うちで 自分 自身の存在を開示 したに とど まらない。パスカルに於いてはさらに誠実性 は情 熱 と合一 し, 自分 自身を賭 して 自分の真実性を徹 底 して追求 してい く過程のなかで,無限に自分 自 身を高める意志へ と転換す るのである。 自己欺隔 のみならず 自己の根底の虚無す ら突 き破 るパスカ ルの徹底 した誠実 さは,やは り誠実 さをパスカル と同程度に- いや或 る意味で′(スカル以上 に一 一徹底 した ニーチ ェにして,は じめて理解 し うる ところであろ う。 上 の如 くパスカル とニーチ ェは相似た誠実 さ, 相触れ合 う心情を もっていたが,それでは一体如 何なる道程を経て両者は枚を別 ち,一方 (パ スカ ル)は 「神 と共 なる人間の至福」(ll)へ と赴 き,他方 (ニーチ ェ)は 「神 な き世界 の無秩序,偶然 の世 界」(12)を歓喜す る境地 に至 ったのであ ろ うか。 こ の解 明のためには,
「アプラ-ムの神,イサ クの神, ヤ コブの神。哲学者 お よび学者の神 な らず」(13)と いわれるが如 き神 とパスカルは一体いかなる地平 で出会 ったのか, この次元の解明をまず行わ なけ ればならない。 これについては葦を改めて論 じた い。 註 (I) llEcce Homo"Warum ich so klug bin 3 Krそうner版全集 S.322。以下ニーチェからの引用 はすべてKraner版の全集による。 (2) プランシュヴィック版断章144.以下 rパンセ] からの引用はすべてプランシュヴィック版断章番 号によって記す。(3)以下,`Del'espritgeometrique"からの引用は すべてプレヤー ド版の真数による。
(4) M昌ditations"の第-省察冒頭でのべているよ うに,デカル トが求めたのは
,
「諸科学に於ける確 実で不易な何かを確立すること」であった。プレヤー ド版 -Descartes"p.267を参照 されたい。
(5)九鬼周造 r人間 と実存](岩波書店)所収0191
頁参照。
(6) Nietzsche,AlsosprachZarathustra"Yonder Selbstuberwi ndung"で次の よ うに ツ丁ラツス ト ラは言 ってい る。 「わた しが生そのものの心臓 に,また生の心臓の 根底にまで もぐりこんだか どうか,真剣 に吟味せ よ.′ わた しが生あるものを兄いだ した ところ, そ こに力への意志 を兄いだ した」。 Kr8ner版S.124参照。 (7) かかる人間解釈は rパ ンセ」の うちで散見 され る。た とえはfr.339,fr.347などを参照 されたい。
(8) Nietzsche"ZurGenealogiederMoral" Kraner版 S.3610 (9) Pascal"Pr昌face pourle trait昌 du vide" pl昌iade版 p.5330 qo)Nietzsche "Morgenrate''Nr.192Kraner版 S.159