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フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校から関西学院神学部へ : 最初期の神学部編入学生と新入学生解明の試論

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フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校から

関西学院神学部へ : 最初期の神学部編入学生と新

入学生解明の試論

著者

神田 健次

雑誌名

関西学院史紀要

27

ページ

43-81

発行年

2021-03-15

URL

http://hdl.handle.net/10236/00029472

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西

 

  

―最初期の神学部編入学生と新入学生解明の試論―

神田

 

健次

はじめに   関西学院は、一八八九(明治 二二 )年に神戸の原田の森において、神学部と普通学部の二学部 によって創立された。その創立の一年前、東京青山のフィランデル・スミス・メソヂスト一致神 学校に委託神学生を派遣していたので、関西学院の創立にともないその学生達も編入学し、さら に新入生も加わって最初期の神学部の授業が始まったことになる。本稿の目的は、以下の三点で ある。第一の目的は、南メソヂスト監督教会の視座からフィランデル・スミス・メソヂスト一致 神学校を考察することである。第二の目的は、最初期の神学部編入学生と新入学生の解明を試み ることである。そして第三の目的は、最初期の神学部編入学生の三名について、従来よく知られ ていなかった側面を中心に考察することである。   本稿は、まず「フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校」はどのように成立し、いかな る講義と担当教員によって担われていたのかを考察し、南メソヂスト監督教会がその一致神学校

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に一年間限定でどのようなプロセスで参与したのかを明らかにしたい。この一致神学校について の研究は、これまで唯一 John W.Krummel, The Beginnings of Methodist Theological Education in Japan があるだけであるが、クランメルの研究の主眼は、米国北部に由来するメソヂスト監督 教会の東京英和学校とカナダ ・ メソヂスト教会の東洋英和学校にあるので、南メソヂスト監督教 会の動向については周辺的になっている。   そ し て、 最 初 期 の 神 学 部 及 び 普 通 学 部 の 学 生 に つ い て の 研 究 は、 『 名 簿 』 発 見 に 基 づ く 武 藤 誠「明治初期基督教教育史の一史料―関西学院創立時の学生生徒名簿―」 の優れた研究があるだ け で あ る。 そ の 発 見 さ れ た 史 料 は、 確 か に 第 一 級 の 史 料 と 言 え る が、 例 え ば、 二 ヶ 月 後 の 一 二 月 に 入 学 し た 学 生 の 氏 名 は 記 載 さ れ て い な い の で、 そ れ だ け で 初 年 度 の 入 学 生 を 確 定 す る に は 困 難 で あ る と い う 問 題 点 が 残 る。 そ の 意 味 で、 そ の『 名 簿 』 だ け で は な く、 英 文 の Calender of the Kwansei Gakuin や Minutes of the Annual Meeting of the Japan Mission of the Methodist Episcopal Church, South, 及 び 邦 文 の 『 南 美 以 教 会 日 本 年 会 』 や 『 青 年 会 記 録 』 な ど の 一 次資料 を 照らし合わせつつ、解明することが求められている。   本稿は、以下のような構成となる。 【1】フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校とその背景 【2】南メソヂスト監督教会と一致神学校 【3】関西学院神学部の最初の編入学生と新入学生 【4】田中義弘と中山栄之助 【5】鵜崎庚午郎  

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【1】フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校とその背景 (1)メソヂスト監督教会(MEC)とカナダ・メソヂスト教会(CMC)   美以美教会(アメリカ・メソヂスト監督教会:MEC)は、一八七三年以降、日本における宣 教に着手していた。一八七七(明治一〇)年に、 美以美教会において聖書を教授し、 一八七九(明 治一二)年には横浜で宣教師R・S・マクレイ( Robert Samuel Maclay, 1824-1907 )が美会神学 校( The Methodist Mission Seminary )を設立した。マクレイは、一八二四年にペンシルベニア 州に生まれる。幼い頃は、長老派教会の教育を受けたが、メソヂスト派に惹かれる。米国メソヂ スト監督教会ボルティモア年会から按手礼を受け、巡回教師などに従事する。東洋への宣教を志 し、一八四五年にメソヂスト監督教会宣教師として中国福州で二五年間宣教活動を行った後、日 本への宣教のため一八七三年に来日する。   一八七九年に横浜山手でキリスト教神学を教授する「美会神学校」を設立し、日本人伝道者の 養 成 を 目 指 し た。 美 会 神 学 校 の 設 立 の 際 に は、 J・ F・ ガ ウ チ ャ ー か ら の 多 額 寄 付 が あ っ た。 一 八 八 二( 明 治 一 五 ) 年、 美 会 神 学 校 は 東 京 英 学 校 と 合 併 し て 東 京 英 和 学 校 と な り、 マ ク レ イ は初代総理に就任し、一八八七(明治二〇)年に帰米するまでその職にあった。美会神学校の校 長としては、宣教師M・S・ヴェール( Milton Smith Vail, 1853-1928 )が派遣され、一〇月より 学 期 を 四 年 と し 授 業 を 始 め る。 ヴ ェ ー ル は、 米 国 ニ ュ ー ハ ン プ シ ャ ー 州 の コ ン コ ー ド に 生 れ る。 一三歳で受洗し、ペニングトン神学校、ボストン大学等を卒業し、オハイオ大学の助教授となっ た。その後東洋宣教の使命を感じ、一八七九年アメリカ・メソヂスト監督教会メインの年会に教 職試補として入会を許され、直ちに横浜の美会神学校校長を命ぜられて同年九月に来日したので

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ある。一八八二(明治一五)年に宣教局本部が東京に移ったのに伴い、美会神学校も東京へ移転 して東京英学校と合同し、東京英和学校となってからも引続き、ヴェールは神学部長、教授とし て尽力し、牧師養成に努めるかたわら伝道に当たった。一八八六(明治一九)年に一致神学校設 立の際、彼を教頭に選出する。   マクレイは、一八八六(明治一九)年一〇月、一致神学校を創立し美以美教会の伝道会社及び カナダ・メソヂスト伝道会社の管理とする。校舎は煉瓦で築造して壮麗で規模宏大である。アメ リカ合衆国イリノイ州のスミス夫人は、亡夫フィランデル・スミスを記念として一万五千円を寄 付し、これを以て校舎を建築する。永くこの美事を世に言い伝えるために「フィランデル、スミ ス神学校」と名付けている。一八八六年建築の「フィランダー ・ スミス ・ ビブリカル ・ インスティ テュート」という建物があったが、それは煉瓦三階建で、中央の尖塔は文字盤が四面にはめ込ま れた時計台となっていた。当時としては珍しい美しい洋風建築が、評判となっていたが、関東大 震災で倒壊している。   他方カナダ・メソヂスト教会も、一八七三(明治六)年より最初の宣教師であるG・カックラ ン( George Cochran, 1834-1901 )と宣教医D・マクドナルド( Davidson Macdonald, 1836-1904 ) を派遣して日本での宣教を開始している。 一八七六 (明治九) 年には、 第二陣の宣教師としてG ・ M ・ ミ ー チ ャ ム( George M.Meacham, 1833-1902 ) と C・ S・ イ ビ ー( Charles S. Eby, 1845-1894 ) が派遣されて来日している。一八七七(明治一〇)年六月、カナダ・メソヂスト教会は、四年の 課程の神学校を創立しようと計画し、承諾を求めて本国に知らせる。九月に神学校を創設し、神 学博士G・カックランを校長とし、イビーがこれを補佐する。教員の書籍室を教室とし、他に建

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物を築地に借りて生徒の寄宿舎とする。   カックランは、オンタリオ州最大のメソジスト教会であるトロントのメトロポリタン教会の牧 師在任時に日本における宣教の召命をうける。宣教局の初代責任者として日本人伝道献身志願者 の養成に配慮し、日本において活動する多くのメソジスト教会の統一を熱心に主張し、メソヂス ト監督教会日本宣教の創設者R ・ S ・ マクレイと共に、合同メソジスト大学及び神学校のヴィジョ ンをいだいていた。一八七八(明治一一)年カックランが帰国し、またイビーも甲府へ赴くので、 医学博士マクドナルドとG・ミーチャムが担当する。一八八五(明治一八)年に東洋英和学校を 麻布鳥居坂に建立し、同校の神学部と称する時、カックランが帰任して再び校長となり、R・ホ イッチングトンがこれを補佐する。   G・カックランとD・マクドナルドは、男子学校を設立するために一八八三年、麻布東鳥居坂 一三番地の土地を購入することを決定した。当時は外国人居留地以外に外国人が住むことは認め られておらず、外国人名義での出願をすることはできなかったので、学校設立のために「東洋英 和 学 校 会 社 」「 東 洋 英 和 女 学 校 会 社 」 を 創 設 し、 と も に 会 社 社 長 小 林 光 泰 の 名 義 で 出 願 す る と い う方法がとられた。東洋英和学校会社の組織は、社長小林光泰、平岩愃保、土屋彦六、浅川広湖 で、いずれも日本のメソジスト派の牧師である。一八八四(明治一七)年三月、東洋英和学校校 舎と寄宿舎を建設しカックランが初代校長となる。上記の他教会の教師の他、神学博士カックラ ン、医学博士D・マクドナルド、神学博士G・ミーチャム、C・S・イビー、R・ホイッチング トンの五人が教授した。

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(2)東京青山フィランデル・スミス・メソヂスト一致神学校   『 東 京 青 山 フ ィ ラ ン デ ル・ ス ミ ス・ メ ソ ヂ ス ト 一 致 神 学 校 規 則 』( 自 明 治 二 〇 年 至 明 治 二 一 年 ) の構成は、第一章   校則、第二章 教 則、 第 三 章   取 締 の 三 部 構 成 と な っ て い る。 第 一 章 の 校 則 では、 まず第一条に名称として「本校ハ米国メソヂスト ・ エピスコパル伝道会社及ヒ米国カナダ ・ メソヂスト伝道会社ノ管理ニ属スル神学校ナリ」と明記され、 第二條   位置として「本校ハ東京 府 下 赤 坂 区 青 山 南 町 七 丁 目 一 番 地 ニ 在 リ 其 位 置 タ ル 高 燥 ニ シ テ 空 気 清 潔 ナ ノ ハ 生 徒 ノ 為 メ 最 モ 適当ナリ」と、 東京青山の所在地が記されている。そして、 第三條の目的は、   「本校ノ目的ハ神 ノ召ヲ受ケ基督教教師タラント志サス者ヲ養成スルニ在リ。 神学ヲ研究セント欲スル者ニシテ充 分ナル保証アル者ニ限リ制規ノ試験ニ合格スル者ハ亦入学ヲ許スヘシ」 と叙述されている。ここ では、 一致神学校の基本的な目的として、 伝道者の養成が掲げられ、 それと併せて神学研究を志 フィランデル ・ スミス一致神学校 (青山学院資料センター提供) す者に対する教育も明記している。   四條の教員並学監会員では、 説教学、教師職務論( Pastoral Theology ):神学博士   R・ S・マクレイ 聖書神学、組織神学、教理歴史:神学博士   G ・ カックラン 心理学、 道義学 ( Ethics )、 講和神学 ( Apologetics ) : (MA) R・ホイッチングトン 新約聖書釈義:(BA)M・S・ヴェール 旧約聖書釈義、聖書の歴史と地理:小方仙之助(BA)

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  上記のマクレー、ヴェール、カックランについては、記述の通りである。R・ホイッチングト ン( Robert Whittington, 1850-1945 ) は、 来 日 前 は 高 校 の 教 師、 校 長 お よ び 牧 師 を 勤 め る。 東 京 では一八八六年から八九年まで東洋英和学校の他、東京英和学校の神学校(フィランダー・スミ ス ・ ビ ブ リ カ ル・ イ ン ス テ ィ テ ュ ー ト ) で 教 え、 一 八 八 九 年 か ら 九 一 年 ま で 東 洋 英 和 学 校 男 子 部 の 神 学 部 長 を 務 め る。 カ ナ ダ に 帰 国 後 は、 一 八 九 一 年 か ら 九 二 年 ま で ヴ ィ ク ト リ ア 大 学 の 哲 学 講 師、 一 八 九 二 年 か ら ブ リ テ ィ シ ュ・ コ ロ ン ビ ア の ニ ュ ー ・ ウ エ ス ト ミ ン ス タ ー の コ ロ ン ビ ア・ メ ソ ジ ス ト 大 学 の 学 長 お よ び ヴ ァ ン ク ー バ ー・ セ ン ト ラ ル ・ メ ソ ジ ス ト 教 会 牧 師、 そ し て 一八九九年および一九〇二年にはカナダ ・ メソヂスト教会のブリティシュ・コロンビア年会会長 を歴任している。 また小方仙之助(一八五四―一九四二年)は、一八七三(明治六)年に二〇歳 で ア メ リ カ に 留 学 し、 洗 礼 を 受 け、 一 八 八 五 年 に デ ポ ー 大 学 を 卒 業 す る。 そ の 後、 米 国 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 か ら 日 本 へ の 宣 教 活 動 を 命 じ ら れ、 日 本 に 帰 国 し た。 東 京 英 和 学 校 で 英 語 を 教 え、 一八八九(明治二二)年に同校の校主となる。翌年には、日本美以教会銀座教会の初代牧師に就 任し、一九〇九年には青山学院院長に就任している。   また第五條の役員では、校長がR ・ S ・ マクレイ、書記にM ・ S ・ ヴェール、そして会計にR ・ ホイッチントンが任命されている。   第 二 章 の 教 則 で は、 「 本 校 神 学 課 程 ハ 分 テ 二 ト ナ シ、 一 ヲ 邦 語 神 学 科 ト シ 一 ヲ 英 語 神 学 科 ト シ テ邦語神学科ノ修学年限ヲ四ケ年トシ、英語神学科ノ修学三ケ年ト定ム」とあり、四カ年の邦語 神 学 科 と 三 カ 年 の 英 語 神 学 科 に 分 け ら れ て い る 。 邦 語 神 学 科 課 程 に つ い て は 、 以 下 の 通 り で ある。 第一年級   旧約聖書釈義―孟摩西五経(モーセ五書) 、 聖書史、 聖書地理学、 基督教論、 聖書神学、

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基督言行録及使徒行伝 第二年級   旧約聖書釈義―詩編、 約百(ヨブ) 、箴言、 雅歌、 新約聖書釈義―希伯來書(ヘブライ書) 、 哥林多(コリント)書前後及新約聖書小引、組織神学、教会條例、心理学、教会歴史、 教理歴史 第 三 年 級   旧 約 聖 書 釈 義、 世 界 開 闢 論( 講 義 )、 新 約 聖 書 釈 義 ― 羅 馬 書、 組 織 神 学、 説 教 学、 倫 理学 第四年級   旧約聖書釈義―近代預言者及釈義原理、新約聖書釈義―使徒統書及教師ノ書、組織神 学、教会政治、牧師職務論、講和神学、教会歴史、教理歴史   以上のような神学課程と担当教授との関連で、J・W・クランメルは、当時の北米におけるメ ソジストの神学教育のレヴェルと比較して、一八七〇年代と八〇年代における日本での神学教育 の発展は驚くべきであると指摘している。 【2】南メソヂスト監督教会と一致神学校 (1)南メソヂスト監督教会の参与   米国南メソヂスト監督教会の日本における宣教開始は、一八八五(明治一八)年五月六日、南 メソヂスト監督教会宣教局が日本に宣教部を設立することを決議した時点に由来する。マクティ エ ー ル 監 督 に よ り、 年 令 と 健 康 上 の 理 由 か ら、 J・ W・ ラ ン バ ス( James William Lambuth, 1830-1892 )ではなく、その息子W・R・ランバス( Walter Russell Lambuth, 1854-1921 )が総理 に 任 命 さ れ て い る。 翌 年 の 四 月 二 〇 日、 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 は、 O・ A・ デ ュ ー ク ス( Oscar

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A. Dukes 1854-1893 ) と ラ ン バ ス 父 子 の 三 名 と そ の 家 族 を 日 本 宣 教 部 員 と し て 任 命 し、 七 月 二 五 日にJ・W・ランバス夫妻とその娘ノラおよびO・A・デュークスが神戸に到着し、宣教を開始 している。九月一五―一七日に日本宣教部が開設され、W・R・ランバスが総理として任命され、 神戸美以教会 (現神戸栄光教会) の創設はこの時とされている。さらに一一月二四日には、 W ・ R ・ ランバスが家族とともに北京から神戸に到着し、本格的に宣教が着手される体制が整ったのであ る。   南メソヂスト監督教会が、日本宣教を開始した一八八六年には、既に多くの宣教局が宣教活動 を展開していたので、出遅れた開始となったと言える。開港地神戸における諸教派の宣教開始は いち早く着手されている。また記述のように、同じ北米からのメソヂスト監督教会は、一八七三 年に宣教を開始し、 またカナダ ・ メソヂスト教会も一八七三年に宣教に着手し、 東京、 静岡、 山梨、 長野等に展開している。しかし、このように出遅れた南メソヂスト監督教会の宣教開始ではあっ たが、交通面の新たな展開という要因(やがて全線開通する鉄道路線の中心である神戸:東海道 線は一八八九年に全線開通し、瀬戸内海を通して主要な地方都市と連絡ができる)を宣教構想に おいて最大限に活用しようとしたのが「瀬戸内宣教圏構想」と言える。一八八六年一二月三一日 に、 神 戸 の 居 留 地 に 宣 教 部 が 置 か れ、 三 つ の 巡 回 区 の 設 置 が 決 定 さ れ た。 神 戸 巡 回 区 は W・ R・ ランバスが、 琵琶湖巡回区(大阪、 京都、 琵琶湖沿岸)はデュークスが、 そして広島巡回区(広島、 山口、下関)はJ・W・ランバスが、それぞれ主任として責任を担うこととなった。なお、この 「巡回区」は英語の「サーキット」の訳であるが、メソヂスト固有の宣教方式である。   一八八七 (明治二〇) 年九月の年会において、 日本における宣教活動のための基金の件と併せて、

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メソヂスト監督教会から東京青山の神学教育に参加の招待があった件を本国宣教局に照会するこ と が 決 議 さ れ て い る。 「 第 一 に 宣 教 活 動 の た め に、 第 二 に 土 着 の 説 教 者 と 助 力 者 の た め に、 日 本 における基金が要請されたこと。日本における海外や国内宣教協会、海外や本国の様々の諸協会 において加入リストが開始され、日本のキリスト教教育に関心ある者すべてから援助が要請され ている。この基金は、中央委員会によって確定されて支払いされ、そして中央委員会は諸規則に よ っ て 選 ば れ、 日 本 宣 教 協 会 の 代 表 者 会 議 に よ っ て 受 理 さ れ る。 」 も う 一 つ の 決 議 事 項 は、 一 致 神 学 校 に 関 す る も の で あ り、 「 わ れ わ れ は、 日 本 の メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 が 東 京 の 青 山 に お け る 神 学教育の学生達と合同するよう招いてくださったこと、そしてこのような合同をわれわれは、南 メソヂスト監督教会の宣教局の重要事項として心より受け入れる」と決議している。 そして、 J ・ C・C・ニュートンが日本宣教局のメンバーとして、フィランデル・スミス・メソヂスト一致神 学校の教授として来日し、翌年七月の四季会には、ニュートンは一致神学校の教授の資格で参加 し、そこで彼ら夫妻と大分に来任したS・H・ウェンライト夫妻に対して着任歓迎の辞が述べら れているのである。   J・C・C・ニュートン( John Caldwell Calhoun Newton, 1848-1931 )は一八四八年にサウス カロライナ州に誕生している。南北戦争が始まっている時代で、連合軍で父が活躍していたこと も あ り 一 七 歳 で 参 戦 し た が、 す ぐ に 戦 争 は 終 結 し て し ま い、 南 部 は 敗 れ 大 き な 病 を 負 う。 こ の 病 が 後 々 持 病 に な り、 そ の 持 病 を 負 っ た こ と が、 牧 師 に な り た い と い う 要 因 の 一 つ と な っ て い る。神学校での勉学後、一八七四年に南メソヂスト監督教会の牧師となる按手を受け、正式な牧 師としての資格を得る。そして一八八八年に来日するまで、ケンタッキー州とメリーランド州で

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教会の牧会に携わっている。その間、八四年から二年間、アメリカの名門ジョーンズ・ホプキン ス大学の大学院において、指導教授アダムスの下で研究している。ジョーンズ・ホプキンス大学 は、ニュートンにとって最初の日本人の友人となった新渡戸稲造や、後の大統領になったウィル ソンはじめ、 政治家、 学者を多く輩出した大学である。日本に宣教師として働きたいという契機は、 ランバスとのつながりがあり、その呼びかけに応える形で決断している。日本にむかう同じ船に、 同じ南メソヂスト監督教会所属のS・H・ウェンライト夫妻も大分の中学校の英語教師として働 く目的で乗船している。ニュートンは来日して、東京で一年間、フィランデル・スミス・メソヂ スト一致神学校において教授として就任し、関西学院創立にともない派遣された学生たちと共に 神戸に移住しているのである。 (2)一致神学校への参与   『 東 京 青 山 フ ィ ラ ン デ ル・ ス ミ ス・ メ ソ ヂ ス ト 一 致 神 学 校 一 覧( 自 明 治 二 一 年 至 明 治 二 二 年 )』 においては、 【1】において言及した『一致神学校一覧(自明治二〇年至明治二一年) 』と基本的 には変わっていないが、若干変更している点がある。第一の変更点は、第一章の校則、第一條の 名称「本校ハメソヂスト一致神学校ト称シ、米国メソヂスト・エピスコパル伝道会社、米国加奈 陀 メ ソ ヂ ス ト 伝 道 会 社、 及 南 部 メ ソ ヂ ス ト・ エ ピ ス コ パ ル 伝 道 会 社 ノ 管 理 ニ 属 ス ル 神 学 校 ナ リ 」 と、新たに「南部メソヂスト・エピスコパル伝道会社」が追加されている点である。もう一点は、 第五條の教員の担当科目で、小方仙之助(BA)が担当していた旧約聖書釈義、聖書の歴史と地 理をJ・C・C・ニュートンが担当している点である。そして第三点は、第六條の学監会員とし

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て、教頭にM ・ S ・ ヴェール、書記兼記簿にJ ・ C ・ C ・ ニュートン、会計にR ・ ホイッチントン、 書籍掛にM・S・ヴェールとG・カックランが任命されている点である。   東京のフィランデル ・ スミス ・ メソヂスト一致神学校の神学教育の経験に関して、J ・ C ・ C ・ ニュートンは、 一八八九年九月五日の年会において、 特に担当した授業を中心に以下のように報 告している。   「 東 京 に お け る 神 学 校 に 関 わ っ た 一 年 間 の 仕 事 は、 旧 約 聖 書 と 教 会 史 の ク ラ ス を 担 当 す る こ と で あ っ た。 前 者 で は 五 ク ラ ス あ り、 四 ク ラ ス が 日 本 語 の ク ラ ス で、 一 ク ラ ス が 英 語 の ク ラ ス で あった。一クラスは、 創世記とエゼキエル書、 一クラスはヨナ書、 ナホム書、 イザヤ書の三つの書、 そして英語のクラスでは創世記を扱った。   これが日本での最初の年度であり、 その仕事はかなり満足のゆくものであった。学生達は、 普 一致神学校での記念写真(1889 年5月) 段はよく授業を聞き、心から神の言葉を聞きたいと願っている。 もちろん、旧約聖書は全体としてはまだ日本語に翻訳されてい ないので、学生達は旧約聖書の教えに関して多くの知識を得る ことはなかったこともあり、われわれの進行具合はゆっくりし たものであった。日本の学生達は、聖書の言葉に対して、速や かに、そして通常は真摯な姿勢を示してくれる。次年度は時間 を節約することによって、幾つかの点で授業のやり方を改善し たいと考えている。教会史では、使徒時代の研究で一クラス担 当した。これは、特に満足するものであった。もう一つのクラ

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スは、AD三一二年から始めて八〇〇年に至るまでのキリスト教の歴史研究を扱うものであった。   第三のクラスでは、宗教改革の研究を扱い、先駆者から始めて宗教改革の原因、宗教改革の諸 信条の定式化とプロテスタントの福音主義教会の組織化に発展するところを扱った。 」 【3】関西学院神学部の最初期の編入学生と新入学生 (1)英語神学科の学生   東京青山で一八八六 (明治一九) 年に開校したフィランデル ・ スミス ・ メソヂスト一致神学校に、 一八八八年より南メソヂスト監督教会(MECS)も宣教師ニュートンと委託神学生を派遣した。 その神学生について、 『関西学院百年史』は、 「MECSのメソヂスト一致神学校参加は一年ほど の短期間で終わり、所属の諸教会から送られた学生七名(四名は神戸から、二名は広島から、一 名は大分からの学生)もニュートンとともに創立された関西学院神学部に移籍した」 と記載され ている。また、 神学部最初の教授と学生については、 「一八八九年一〇月一一日、 神学部はJ ・ C ・ C・ニュートン、W・R・ランバス、T・W・B・デマリー、C・B・モズレーら四人の教授陣、 五人の正規学生と数名の予備学生をもって開始された」 と明記している。しかしながら、一致神 学校への委託神学生の七名について、また創立時の神学部への編入学生と新入学生について、彼 らがどのような学生であり卒業後どういう進路を辿ったのかについては、これまで必ずしも全て 解明されてきたわけではない。   最 初 に、 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 よ り 一 致 神 学 校 に 派 遣 さ れ た 学 生 七 名 に つ い て で あ る が、 そ の中の三名に関しては、中山栄之助、田中義弘、鵜崎庚午郎であることは確定することができる。

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彼らは、一致神学校の英語科神学科に一年間在籍し、翌年神学部の二年生に編入学して、さらに 二年後に最初の卒業生となったのである。そして彼らの派遣教会は、中山と田中は広島美以教会 で あ り、 鵜 崎 は 神 戸 美 以 教 会 で あ る。 こ の 三 名 に つ い て は、 【 4】 と【 5】 で 詳 述 す る。 も う 一 人は、大分教会出身の中根中である。杵築出身の中根中は、S ・ H ・ ウエンライトによって導かれ、 大分南美以講義所において一八八八年七月二七日にW・R・ランバスより洗礼を受けている。大 分 南 美 以 講 義 所 最 初 の 受 洗 者 五 名 の 内 の 一 人 で あ る。 さ ら に 同 年 九 月 に は 中 根 中 を、 「 青 山 英 和 学校に遣わして勉強させた」という記録があり 、中根は東京青山の一致神学校の邦語神学科に委 託神学生として派遣されたのである。そして翌年には、開校した関西学院に移籍しているが、神 学 部 で は な く 普 通 学 部 の 一 年 生 と し て 在 籍 し て い る。 『 関 西 学 院 青 年 会 記 録 』 の 一 八 八 九( 明 治 二二)年一一月の名簿には中根中の名前が記載され、翌年一月一〇日の例会で正会員としての入 会 を 許 諾 さ れ て い る。 ま た、 一 八 九 〇( 明 治 二 三 ) 年 二 月 二 四 日 の 例 会 の 弁 士 と し て「 廃 娼 論 」 について弁舌を振るい、さらに同年四月二一日の総会では祈祷委員に選ばれているが 、それ以降 は名前が見いだせないので学業半ばで中退したと思われる。他面、出身の大分南美以講義所との 関わりでは、特に杵築に派遣されて伝道活動を担っている姿が報告されている。神学部の普通学 部に入学しつつも、 一八八九 (明治二二) 年一一月には長崎から来た宣教師デビソンが、 中根を 「杵 築に派遣して伝道させ」とあり、翌年の六月にも中根を「杵築に遣わして駐在伝道させ」 と記載 されている。さらに七月一三日には、柳原浪夫と共に中根中を遣わして松山の秘密会に列席させ、 同年の夏期休暇には、中根が杵築で伝道活動に尽力している様子が報告されている。 しかしなが ら、一八九一(明治二四)年の関西学院青年会名簿には中根中の名前は欠如しているので、中根

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はその後伝道者の道を断念している。なお、中根中がその後どのような歩みを辿ったかについて は、出井康博の評伝『日本から救世主が来た』に詳述されているが、とりわけ戦前の一九三〇年 代前半にアメリカのデトロイトにおいて、黒人差別を撤廃するために黒人運動に貢献している足 跡は大変興味深いところである。   と こ ろ で、 初 年 度 か ら 神 学 部 の 正 規 の 新 入 学 生 と し て 入 学 し た の は、 松 本 益 吉 と 蘆 田 慶 治 の 二人である。松本益吉は、一八七〇(明治三)年八月一九日に広島市に生まれる、一八八七年五 月八日、J・W・ランバスから受洗し、二年後に創設された関西学院の神学部に入学した。そし て、 同 年 に 発 足 し た 関 西 学 院 青 年 会 に 入 会 し 、 一 八 九 一 ( 明 治 二 四 ) 年 に は 青 年 会 の 会 長 に 選 出 さ れ 、 活 躍 し て い る。 し か し な が ら、 健 康 を 損 ね た こ と に よ り 中 途 退 学 せ ざ る を 得 な か っ た。 一八九六年に健康を回復し、米国のアズベリー、ヴァンダービルト、イェールの諸大学に留学し、 一九〇二年に帰国と同時に関西学院神学部教授に就任する。新約釈義、聖書神学、社会学を講じ、 誠実な教育者としての生き方は多くの学生に影響を与えた。一九〇八年には同窓会の初代会長に 選出され、また一九二〇年に副院長に選出され、二三年から二五年には学院の礼拝主事として貢 献 し た。 学 院 の 要 職 を 務 め る か た わ ら、 国 際 連 盟 協 会・ 日 米 協 会 の 幹 部 と し て 国 際 親 善 に も 尽 力 し た の で あ る。 他 方、 蘆 田 慶 治 に つ い て は 既 に 本 格 的 な 研 究 が な さ れ て い る。 一 八 六 七( 慶 応 三)年一一月一八日、丹波氷上郡鴨内村に英太郎の次男として生れる。京都、神戸、大阪と転居 し、 一八八八 (明治二一) 年に大阪の塩町講義所 (後に大阪西部メソヂスト教会に発展) でJ ・ W ・ ランバスより受洗し、大阪における最初の南美以教会の初穂となった。受洗後、蘆田は母教会の 講 義 所 の 伝 道 や、 翌 年 の 五 月 以 降 は 大 分 地 方 の 伝 道 に も 補 助 し て い た が 、 一 二 月 に 関 西 学 院 神

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学 部 に 入 学 し て い る。 翌 年 に は、 青 年 会 会 長 に 選 ば れ る。 病 気 の た め 少 し 遅 れ 九 七 年 に 卒 業 し、 翌年から米国ヴァンダービルト大学およびイェール大学に留学して一九〇二年に卒業し、帰国後 には母校で教鞭をとる。〇九年には同志社に迎えられ、同志社大学神学部教授として組織神学を 講じた。   さ ら に 翌 年 の Calender1890-1891 で は、 中 山 栄 之 助、 田 中 義 弘、 鵜 崎 庚 午 郎 の 三 名 は 英 語 学 科 の 第 三 学 年 、 英 語 学 科 第 二 学 年 に 松 本 益 吉 、 蘆 田 慶 治 、 そ し て 阿 保 栄 次 郎 の 名 前 が 記 載 さ れ て い る。 阿 保 栄 次 郎 の 名 前 が、 突 如 二 年 生 と し て 記 載 さ れ て い る 点 は、 恐 ら く 青 山 の フ ィ ラ ン デ ル ・ ス ミ ス 神 学 校 の 英 語 神 学 科 で 一 年 間 勉 学 を 終 了 し た 後、 第 二 学 年 に 入 学 し た と 考 え ら れ る。 阿 保 が 卒 業 式 を 迎 え た 際 に、 一 人 だ け の 神 学 部 卒 業 式 の た め に 青 山 フ ィ ラ ン デ ル 神 学 校 の 山 田 寅 次 郎 教 授( 阿 保 と 同 じ 青 森 県 弘 前 教 会 出 身 ) が 招 か れ て 祝 辞 を 述 べ て い る 点 は、 青 山 の フィランデル・スミス神学校の英語神学科で一年終えて転入してきたことを証左している。 阿保 は、一八六四年に青森県弘前で誕生し、七九(明治一二)年に弘前教会の牧師本多庸一より受洗 している。青森師範学校を八二(明治一五)年に卒業し、その後南津軽郡本郷小学校に勤務した が、途中廃校になり、藤崎小学校に転任、八六年に山鹿元次郎の転任の後を追って弘前女学校に 就職している。 阿保は、その後一八八九年に青山フィランデルの英語神学科に入学し、翌年に関 西 学 院 神 学 部 に 転 入 学 し た と 推 定 さ れ る。 な お、 「 青 年 会 」 記 録 に は、 九 〇( 明 治 二 三 ) 年 一 一 月に阿保栄次郎の入会が承認され、 翌年の一〇月五日の演説会では 「学理の経験」 についてスピー チしている。 九二(明治二五)年七月、英語神学科を卒業後、伝道師試補に登用され、松山巡回 区(松山、多度津)の補助伝道者に任命され 、その巡回区で二年間その任を務めた後、伝道試補

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を辞任している 。   英 語 神 学 科 に 移 籍 し た も う 一 人 の 学 生 豊 崎 善 之 助 は、 一 八 六 三( 文 久 三 ) 年 七 月 一 日、 西 宮 に 生 ま れ る。 一 八 七 六 ( 明 治 九 ) 年 五 月、 一 三 才 で 洗 礼 を 受 け る。 初 年 度 に 普 通 学 部 に入学した豊崎善之助が、一八九二(明治二五)年には英語神 学科の一年生に移籍している。 一八八九年一一月の『関西学院 青年会記録』の会員名簿に豊崎善之助の氏名が明記され、九二 年には青年会の会長に選出される。 豊崎は、同年九月より、神 戸美以教会より宇和島に派遣され、神学生として勉学に励みつ つ、 「 定 住 伝 道 師 」 と し て、 主 任 の 宣 教 師 デ ヴ ィ ス を 補 佐 し な 関西学院神学部での記念写真(1891 年) がら約一年半、伝道活動に尽力している。 九五年に神学部の英語神学科を卒業し、教師試補(伝 道者試補)に登用され、広島巡回区に二年間働き 、九七年一〇月に豊崎善之助は伝道者試補を解 除 さ れ る。 教 職 を 辞 め た 直 後 に、 『 六 合 雑 誌 』 第 二 〇 三 号 と 二 〇 四 号 に キ リ ス ト 教 倫 理 の 見 地 か ら「 社 会 主 義 の 福 音 」 を 掲 載 す る。 一 八 九 八 年 に 上 京 し、 一 〇 月 一 八 日 に 第 一 回 社 会 主 義 研 究 会(安部磯雄と村井知至が設立を協議)の結成に参画し、会長に村井知至、幹事に豊崎善之助が 就 任 し、 高 木 正 義、 片 山 哲 な ど 会 員 と な る。 キ リ ス ト 教( ユ ニ テ リ ア ン ) を 基 盤 と し た 社 会 主 義を志向する研究会が発足し、一八九九年五月にはユニテリアン協会の牧師となる。 豊崎はその 後、一九〇一年七月より三カ年、イギリスのオックスフォード大学を中心に、ドイツ、フランス、 アメリカの大学に学び、帰国後欧米での研鑚をベースに社会主義批判を唱えた。彼の著書『社会

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主義批評』 (警醒社、一九〇六年)は、緒言に「社会主義は、其本質に於て経済的改革案なれど、 経済上より之を評論するを妥当とす」と記し、倫理・宗教・文学の方面からこの主義を主張する のは正鵠を失するものであるから、経済問題を中心として社会主義を評すと、マルクスの『資本 論』を中心に論じている。 日露戦争後、一九〇六年九月立憲政友会系の『人民新聞』主筆をつと め、一九一〇年一月には東京ユニテリアン協会発足(会長   安部磯雄)にともない評議員に就任 している。 (2)邦語神学科の学生   一 八 九 一( 明 治 二 四 ) 年 九 月、 そ れ ま で の 三 ヶ 年 程 度 の 英 語 神 学 科 の 他 に、 四 ヶ 年 程 度 の 邦 語 神 学 科 を 設 置 し て 、 有 能 な 青 年 に 対 し て 、 単 に 語 学 面 だ け で は な い 、 神 学 教 育 を 受 け る 道 を 開 い た 。 初 年 度 の 邦 語 神 学 科 に 入 学 し た 小 俣 素 直 は、 初 年 度 の『 カ レ ン ダ ー』 に は 邦 語 神 学 科 に 入 学 し た と 記 載 さ れ て い る が、 実 質 的 に は 一 八 九 一 年 か ら で あ る。 『 青 年 会 』 の 八 九( 明 治 二二)年の会員名簿にもその氏名が記載されており、翌年の九〇(明治二三)年には副会長に選 出 さ れ て い る。 し か し な が ら、 そ れ 以 降、 『 カ レ ン ダ ー』 に も『 青 年 会 』 の 記 録 に も 名 前 が 記 載 されていないので、勉学半ばで退学した可能性がある。また、普通学部から邦語学科に移籍を考 え て い た 安 達 金 之 助 は、 そ の 後 移 籍 し た 形 跡 が な い の で 普 通 学 部 に 在 籍 し た ま ま に な っ て い る。 但し、休暇期間中に大阪巡回区において宣教師デュークスの補佐として、太田義三郎と共に奉仕 したことを口頭で報告し、年会の四日目の通訳者として氏名が記載されている。 また基督教青年 会では、一八九一(明治二四)年の会長として活躍している様子がうかがえる。

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  さらに太田義三郎は、邦語神学科の予備入学者として一八八九(明治二二)年に入学している。 太田は、パルモア英学院から入ってきている。 九四(明治二七)年九月の青年会総会で、委員長 に選出されている。 卒業後 は 、 伝 道 者 試 補 に 登 用 さ れ 、 神 戸 部 の 姫 路 巡 回 区 に 任 命 さ れた 。さ らに翌年の年会では、松山部の大分巡回区に任命されている 。九九年には、神戸教会(現神戸栄 光教会)の第七代牧師に就任する。最後に住田(三戸)吉太郎は、一八六七年一一月一七日に父 大嶋彦三、母住田咲の三男一女の末子として広島市で誕生する。夜学で学んでいた頃、砂本貞吉 の話を聞き、キリスト教と出会う。八七年のクリスマスにW・R・ランバスより受洗する。翌年、 南美以教会派遣の神学生として加伯利英和学校(長崎鎮西学院)へ入学し、翌年九月、関西学院 普通学部に在籍しつつ神学部予備学生に転入する。関西学院神学生時代は、週末多度津へ行って、 日曜の礼拝と日曜学校を担当し、また三戸吉太郎編『えほばを賛美せよ』をメソヂスト出版舎よ り発行する。一八九三(明治二六)年二月、南メソヂスト教会が日曜学校を組織したことにとも ない書記となる。九四(明治二七)年八月、三戸皆由の娘ヒデ(秀子)と結婚して、三戸吉太郎 と な る。 翌 年 九 月 に 御 影 教 会 の 日 曜 学 校 校 長 を 務 め、 ま た 一 二 月 二 四 日 に は 神 戸 美 以 教 会( 現・ 神戸栄光教会)の日曜学校クリスマス祝会で勧話を行う。九六(明治二九)年六月に関西学院神 学部を卒業した後、米国、欧州の日曜学校へ視察旅行し、一〇月の年会で松山部多度津巡回区に 任命され、多度津教会牧師に就任する。

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【4】田中義弘と中山栄之助 (1)田中義弘   一致神学校から神学部へ編入学し、関西学院の最初の卒業生となった三名の内の一人は田中義 弘である。田中義弘 (一八七〇―一九三〇) は、 一八七〇年一〇月二日に田中莠造 ・ ツネの長男 (幼 名は愼太郎)として広島市稲荷町に生まれた。田中は、小中学校時代を広島で過ごして後、海軍 兵学校入学の希望をもち、大阪の第三高等中学校(予科)に入学したものの、病を得て広島に帰 郷 し た。 当 時 広 島 で 伝 道 活 動 を し て い た W・ R・ ラ ン バ ス と 出 会 い、 一 八 八 七 年 六 月 二 六 日 W・ R・ランバスより洗礼を受ける。受洗後、再び上阪、私立大阪予備校の教師となる。同校で教師 をしていたB・W・ウォータスと出会い、一八八八年三月、ウォータスが大分尋常中学校に赴任 する際には通訳として同行し、大分美以教会での伝道にも協力した。再び上阪した田中は、関西 学院創立時に校主となった中村平三郎が経営し、W・R・ランバスやB・W・ウォータスも教鞭 をとっていた大阪予備校の教師となっている。 田中義弘   一 八 八 八 年 に 南 美 以 日 本 宣 教 局 よ り 選 ば れ、 フ ィ ラ ン デ ル・ ス ミ ス・ メ ソ ヂ ス ト 一 致 神 学 校 に 入 学 し て い る が、 そ こ で 同 級 で あ っ た 杉 原 成 義 は 田 中 の 英 語 力 が い か に 秀 で て い た か を 次 の よ う に 回 顧 し て い る。 「 当 時 よ り 英 語 は 頗 る 達 者 で あ っ た こ と を 記 憶 し て 居 ま す。 ニ ュ ー ト ン 博 士 の 旧 約 釈 義 の 時 に は、 邦 語 科 生 の 為 め に、 博 士 の 通 訳 の 労 を 取 っ た 事 を 覚 え て 居 ま す。 生 徒 の 答 や 質 問 を、

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巧妙な英語にて英訳することを為されたのであります。今日では、こんな事は敢て珍らしくはな いが、其頃は仲々容易な業ではなかったのであります。是を為すものは、余程明敏な頭脳の持主 で な く て は 出 来 な か っ た と 思 ひ ま す。 」 一 八 八 九 年 に 関 西 学 院 の 創 立 に と も な い 神 学 部 英 語 神 学 科の二年生に編入した。在学中の田中は、勉学に励む一方、関西学院青年会でも活躍し、その創 立時に青年会の副会長兼会計となり、また翌年の一〇月、青年会の役員改選で会長に就任してい る。一八九一年一月と二月には、山口美以教会(現・日本基督教団山口信愛教会)の英語学校設 立に際し、K・ハーランを補佐している。   一八九一年六月、田中は、中山栄之助と鵜崎庚午郎と共に、フィランデル・スミス一致神学校 で一年、関西学院で二年のコース、計三年のコースを修了したので、神学部最初の卒業生として 卒業を認められた。友人達が集い、東京英和学校の総長本多庸一からの祝辞が述べられ、神学部 の歴史にとって記念すべき時となった。 その卒業式において、卒業生のスピーチが行われ、中山 栄 之 助 が「 使 徒 パ ウ ロ 」、 鵜 崎 庚 午 郎 が “Green Young Manhood ”、 そ し て 田 中 義 弘「 真 の 教 育 」 についてスピーチを行った。中山と鵜崎が日本語で行ったのに対して、田中は英語で行い、その 語学力の高さを示している。   神 学 部 第 一 回 卒 業 生 と し て 卒 業 し て 後、 田 中 は 広 島 教 会 補 助 伝 道 者 と し て 就 任 し た。 そ の 後 一八九三年には、神戸美以教会に移り、南メソヂスト監督教会の日本における最初の自給教会の 牧師となった。さらに一八九八年には、大阪東部美以教会主任牧師に任命され、一九〇二年には 広島で高等英学院を設立、翌〇三年に広島女学院牧師兼教師、〇四年には山口教会牧師、そして 〇五年に京都中央メソヂスト教会牧師に就任した、さらに一九〇六年には京都中央基督教会(後

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の日本メソヂスト京都中央教会)を歴任する。そして一九一一年、関西学院神学校教授(説教学、 牧 会 学 ) な ら び に 礼 拝 主 事 に 就 任 し 、 二 〇 年 四 月 以 降 は 中 学 部 長 を 務 め た が 、 在 任 中 に 急 逝 し た。 (2)中山栄之助   もう一人の中山栄之助(一八六七―一八九四年)は、一致神学校から神学部へ入学した神学生 の中で、 二七才の若さで夭折している。中山栄之助は、 中山与六郎の第四男として、 一八六七(慶 応三)年六月二三日、広島県下備後国府中市市村に生まれる。五歳の時に母を失い、一〇才の時 には父を失って祖母に養われる。そのような境遇で育ち、幼少の時より独立精神が強かったと言 える。一八八二(明治一五)年九月、広島中学校に入り頭角を顕したが、中途で退学する。八四 年東京の共立学舎に入って英学を修めて当時医者を志していた。八六年春、広島県北部の庄原英 学 校 に 招 か れ 教 師 と な る。 庄 原 英 学 校 は、 一 八 八 四( 明 治 一 七 ) 年 に 校 長 と し て 貴 虎 武 俊、 教 中山栄之助 師として中山栄之助を招聘して開校しているが、本格的な 開校は翌年からで、学生数六五人、教師二人となり、慶應 義塾の教則にほぼ近い形で英学・理数学・漢学の授業が行 われた。庄原英学校に関して詳細な研究書を著した寺田芳 徳 は、 「 貴 虎 は 校 長 の 職 務 の ほ か に 主 と し て 英 学 と 漢 学 を 担当し、もう一人、すでに一足先きに来任の中山栄之助は 数学と英学を担当したと推定する。中山は福山市に近い芦

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品群府中町(現在府中市)の出身で、貴虎校長を補佐する正教師格であったと考えられる」と叙 述している。   一八八七年に、広島から約五〇マイルの山地に在る庄原の青年教師中山が、J・W・ランバス に 庄 原 ま で 来 て く だ さ る よ う に と 手 紙 を 書 い て い る。 ラ ン バ ス は、 同 信 の 砂 本 貞 吉 を 伴 い 五 月 一七日に庄原を訪問し、中山より温かく迎えられた。当初は中山の借家の一室に招かれたが、や がて町の旅館の一室が、中山によって長期の滞在に事欠かないように確保された。中山の机上に は聖書、トラクト、賛美歌集が置いてあった。その旅館に着くと直ぐ、五〇人以上の一団の人々 が一行のまわりに集って来たが、これらの人たちは実際にそのような都会から遠い山間の奥地で 既 に 聖 書 の 福 音 に ふ れ る 読 書 研 究 会 を 開 い た 経 験 が あ っ た の で あ る。 庄 原 英 学 校 の 教 師 松 浦 は、 過ぐる一月に広島においてキリストの福音を聴いていたわけである。彼は庄原に帰ると直ぐ家族 と共に聖書を読み始めた。中山は、二一才の若さであったが、庄原英学校の校長代理を退職して 神戸に赴き、そこでJ ・ W ・ ランバスのもとで親しく神学を学ぶに至ったのである。中山が、J ・ W・ランバスより受洗したのは、一八八七(明治二〇)年六月一二日、広島美以教会においてで あった。庄原に残した多くの同信、求道の人々のことを心に覚えて熱心に彼は手紙を彼等に毎週 書き送っている。彼の先生方から聴いた説教と英語聖書クラスの講解に関する幾つもの詳細な手 記が含まれているのである。   ラ ン バ ス に 従 い 神 戸 に 赴 い た 後、 中 山 は 伝 道 者 へ の 献 身 を 決 意 し、 一 八 八 八( 明 治 二 一 ) 年 一〇月より東京のフィランデル ・ スミス一致神学校の英語神学科に派遣神学生として入学してい る。そして翌年の一〇月に神戸の地に創立された関西学院神学部に編入した。関西学院が創立さ

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れてから二カ月にも満たない一一月に関西学院青年会が組織され、発起人三名を含む一一名の会 員 で 役 員 の 選 挙 を 行 い、 中 山 栄 之 助 は 会 長 に 選 出 さ れ て い る。 そ れ と 共 に、 大 阪 基 督 教 青 年 同 盟会に加盟することを決定した。 田中義弘と鵜崎庚午郎が一八七〇年生まれなので二人より三才 年長であっただけでなく、既に庄原英学校で教師としての経験を積んでいたことから、初代会長 に 選 出 さ れ た と 思 わ れ る。 ま た 中 山 は、 困 難 な 庄 原 で の 伝 道 活 動 で の 貢 献 に よ り、 J・ W・ ラ ン バ ス か ら 絶 大 の 信 頼 を 得 て い た こ と も あ り、 在 学 中 に は 夏 季 休 暇 期 間 中 に 宣 教 局 よ り 雇 用 さ れ、宇和島と八幡浜を調査している。そして、早急に四国南部の伝道体制を強化することの重要 性を訴えて、評価されているのである。さらに、神学生の身分ながら禁酒問題委員会の委員長と して。年会では「禁酒委員会のリポート」を提出している。 既述のように、卒業式のスピーチは、 「使徒パウロ」について述べているが、 初代教会の使徒パウロの伝道者としての働きとその思想は、 伝道者として新たな出発をしようとする中山にとっては、深い関心事であったと言えるであろう。   一八九一(明治二四)年、中山栄之助は松山巡回区の多度津に任命される。 「明治二三年多度 津 は 二 十 名 の 信 徒 を 以 て 神 戸 教 区 よ り 分 離 し、 一 教 区 と な り 」、 松 山 駐 在 の モ ズ レ ー が 主 任 と な り、 中 山 は 補 助 伝 道 者 と な っ た の で あ る。 さ ら に 翌 年 の 年 会 で は、 南 美 以 教 会 第 一 期 日 本 年 会 (一八九二年) 、松山部の大分巡回区(大分、杵築、佐伯、中津)の補助伝道者として主任伝道者 のW ・ A ・ ウィルソンの下で伝道者として働き始め、 ウィルソンと中山は、 毎月二回、 交互に佐伯 ・ 杵築に巡回している。 一八九三年一〇月、中山は、大分教会で大阪浪速教会員の近藤リン子と大 分教会において結婚式あげるが、一二月二七日には彼は、夏以来病気であったが重篤化したので 大阪の長春病院へ入院し、教会も辞任した。 しかしながら、翌年の三月二三日逝去したのである。

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  亡 く な る 一 年 前、 中 山 は、 J・ W・ ラ ン バ ス が 一 八 九 二( 明 治 二 五 ) 年 四 月 二 八 日 に 逝 去 し たことを記念する追悼文の中で、以下のように恩師に深い感謝の思いを心に刻みながら綴ってい る。 「 回 顧 す れ ば、 余 が 始 め て 故 ラ ン バ ス 師 に 接 し た る は 実 に 今 よ り 六 年 前、 閑 地( 庄 原 ) に あ りて病痾を養ひしときなり。神の摂理は奇なり。余の疾病を機として余に神を求むるの心を興さ しめられたり。然れとも未だ善く之を導く者なし時に、師の広島に在るを聞き書を送りて師を招 く。師直ちに来りて余等を教えゆ。其光輝ある白髪は永年の苦戦を以て購ひたる栄冠の如く温乎 たる容貌は君子の風采を示す。諄々として聖教を説き、更に倦色を現はさす。余が基督を知るを 得たるは師の感化実に其多きに居る。爾来数年一日の如く遭えは即ち共に祈り離るれは為めに書 を以て励ます。 」 【 5】鵜崎庚午郎   (1)神学生時代   最 後 に、 田 中 義 弘 と 中 山 栄 之 助 と 共 に、 一 致 神 学 校 に 一 年 間 派 遣 さ れ、 関 西 学 院 創 立 と 共 に、 神学部英語学科の二年生として移籍した鵜崎庚五郎について言及したい。   鵜崎庚午郎は、一八七〇(明治三)年三月一七日、兵庫県姫路市に姫路藩の藩士の子弟として 誕生している。八二(明治一五)年、一三歳にして小学校補助教員を命じられ、小学教員を数年 間勤め、八六(明治一九)年一〇月、洋学の志を立て神戸において最初の英学校であったパルモ ア英学院に入学した。鵜崎は、一意専心して新たな知識を求め、真理を探求してやまない青年で あり、その純真な気魄が、W・R・ランバスと出会い、その人格と信仰に動かされ、八七(明治

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二〇)年七月三日にランバスより洗礼を受ける。南メソヂスト監督教会の日本伝道最初の洗礼を 受 け た 一 人 と な っ た の で あ る。 そ の 経 緯 に つ い て、 弟 の 鵜 崎 鷺 城 は、 「 初 め 兄 は 単 に 英 語 を 学 ぶ 為めで、基督信者にならうといふ考へはなかったのですが、ランバス博士父子の教へを受けるに 従って両者の人格に傾倒し、又基督教の真理を聞いて、それに心を打ち込む様になりました。そ こ で 兄 は 将 来 宗 教 家 と し て 立 つ べ く 決 心 し、 ラ ン バ ス 博 士 か ら 洗 礼 を 受 け ま し た。 こ れ は 明 治 二〇年、 一八歳の時と思って居ります」と述べている。 受洗後、 鵜崎は同年一〇月に宣教師C ・ B ・ モズレー( Crowder Bell Moseley, 1859-1916 )の助手として赴く。モズレーが和歌山県中学校か ら英語の教師として招聘され、傍ら和歌山で伝道することになったのである。それには英語の話 せる日本人が一人附いて行く必要があったので、ランバスの推薦で通訳と兼伝道補佐として同行 することになった。和歌山伝道に赴き、傍ら英語を学び、翌年の一月神戸メソヂスト教会におい て勧士に挙げられる。 鵜崎庚午郎   そ の 後、 モ ズ レ ー の 下 で の 鵜 崎 の 働 き が 評 価 さ れ、 一八八八(明治二一)年九月に彼は東京青山のフィラン デル ・ スミス一致神学校の英語神学科に委託神学生とし て派遣され、さらに翌年の九月に創立された関西学院神 学部の英語神学科二年生に編入学する。東京で一年、神 戸で二年、その学生生活三年間で、鵜崎は勉学や伝道実 習に多くの労力を注いだ。特に、神戸美以教会が生み出 した兵庫の佐比江町仮講義所(現・兵庫松本通教会)の

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形成のために大きく貢献している。 鵜崎が、神戸美以教会に提出した報告書は、そのことを如実 に 物 語 っ て い る。 「 明 治 廿 二 年 十 月 廿 日 午 後 第 二 時 兵 庫 佐 比 恵 町 忠 馬 泰 造 氏 宅 ニ テ 聖 書 講 義 ヲ ナ ス、之レ余ガ兵庫二伝道シタル第一着ナリ、爾后毎安息日午後二時ヨリ三時迄聖書講義(当分路 加 福 音 書 ) 第 三 時 ヨ リ 訪 問、 第 七 時 ヨ リ 説 教 ヲ ナ ス。 此 三 ヶ 月 間 二 聖 書 講 義 ヲ ナ セ シ 事 拾 壱 回、 説 教 ヲ ナ セ シ 事 十 四 回( 内 三 回 ハ 神 戸 会 堂 )、 出 席 人 員 ハ 五 名 乃 至 十 名 ア リ 。 余 ハ 早 ク 講 義 処 ノ 此 地 に 定 マ ラ ン 事 ヲ 望 ム 。 右 報 告 候 也。 」   一方、学生時代に実に旺盛な文筆活動においてその能力を発揮して活躍する。同期の田中義弘 は英語の語学力に秀でており、また中山栄之助はより実践的な宣教・伝道力において頭角を顕し ていたのに比して、鵜崎はその思索力及び文筆力で多くの随想を残しているのである。まず注目 したいのは、一致神学校に入学する直前に刊行された『ジョン・ウェスレー氏伝』 (一八八八年) である。これは、宣教師モズレーがヴァンダービルト大学時代に叙述した英文の伝記であり、モ ズ レ ー の 下 で 働 い た 時 に 手 渡 さ れ、 そ れ を 翻 訳 し た も の で あ る。 九 頁 ほ ど の 短 い も の で あ る が、 ウェスレーの簡単な略歴から始め、ジョージア伝道への船上で出会ったモラヴィア派の深い印象 から、ロンドンのアルダスゲートにおける回心経験の意義、 「世界はわが教区」の理念について、 貧民層の救済理念等について、よくまとまったウェスレーについての紹介であり、モズレーの英 文の翻訳ながら、恐らく日本で最初のまとまったウェスレーの紹介となっている。 また一致神学 校時代のクリスマスの時期に、 「高娯廬主人」というペンネームで、 「クリストマスについて」 (明 治 二 一 年 一 二 月 発 行『 基 督 教 新 聞 』) に 投 稿 し て い る。 こ れ は ク リ ス マ ス の 歴 史 的 起 源 に 言 及 し つつ、その意味をめぐって、米国の基督教雑誌におけるクリスマス・メッセージにも言及しつつ、

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日本においてそれを祝う意義を論じているのである。神学校の一年生で、当時教派を超えた基督 教界を代表する新聞の一つに寄稿文が掲載されていることは、その秀でた文筆力を物語ると言え るであろう。   さらに関西学院神学部に移籍後も、青年会での活動に積極的に関わり、その持ち味である演説 や 文 筆 活 動 で 貢 献 し て い る。 演 説 会 で は、 「 青 年 ノ 真 面 目 」、 「 学 海 ヲ 棹 ス 羅 針 盤 」 等 の 演 題 で ス ピーチしている。 また、青年会の回覧雑誌『正気』の発行を中心となって推進し、一八九一(明 治二四) 年六月一五日の例会で決定している。 非売品であり、 範囲は学術のみに限らないこと、 三ヶ 月 中 に 寄 本 金 募 集 の 事 な ど を 決 め、 『 正 気 』 編 集 委 員 に 選 出 さ れ て い る。 こ の 題 号 は、 中 国、 南 宋末の文天祥の詩、 「正気歌(せいきのうた) 」に由来する。北方から侵入してきた元の軍隊に抗 戦して捕虜となった文天祥が、一二八一年に獄中で作った詩であり、自分には正気がある、その 正気とは、孟子のいわゆる浩然の気であるといい、自分が節操を守っていることをうたう 。また、 『正気』 (第三号、明治二四年四月)には「神は我の批評者なり」 を寄稿している。 (2)伝道者時代   一八九一(明治二四)年六月二九日、関西学院神学部第一回卒業生とし、神戸美以教会(現神 戸栄光教会)の伝道師に就任する。鵜崎が神戸美以教会の伝道師時代に、何編か雑誌に投稿して い る が、 ま ず 注 目 し た い の は、 一 八 八 五( 明 治 一 八 ) 年 七 月 に、 新 た な 欧 化 主 義 の 時 代 に お け る 女 性 の 啓 蒙 を 意 図 し て 創 刊 さ れ た『 女 学 雑 誌 』 に、 三 編 の 論 攷 を 寄 稿 し て い る 点 で あ る。 「 我 青年何ぞ老ゆるの早きや」 (『女学雑誌』第三二一号) 、また新たな時代における男女の恋愛につ

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いて論じつつ、結婚の在り方を論じた興味深い論説である「婚事雑感」 (『女学雑誌』三三〇号) 、 そして「紅蘭詩集を読む」 (『女学雑誌』第三三四号) を寄稿している。紅蘭という詩人は、幕末 の激動の時代に、妻は家庭を守り家事を司るという通念を越えて、夫から漢詩、儒学の指導を受 け、夫とともに旅をし、文人生活を送るというたぐいまれな人生を送り、四〇〇余首の詩を残し ている。   か つ て 一 致 神 学 校 時 代 に 通 っ た よ し み も あ り、 東 京 青 山 の 英 学 校 が 発 行 す る『 青 山 評 論 』( 第 三 四 号 ) に「 趣 味 を 論 ず 」 を 寄 稿 し て い る。 こ の 随 想 で は、 「 趣 味 」 を め ぐ っ て カ ー ラ イ ル や ラ スキンなどの欧米の思想家の見解を紹介しながら、趣味が快楽であるという美的な段階から発し、 さらには人生問題にも関わる宗教的な段階へ転じることを論じ、趣味の修養と宗教との相即関係 を 論 じ て い る の で あ る。 も う 一 つ 特 筆 し な け れ ば な ら な い の は、 一 八 九 二( 明 治 二 五 ) 年 四 月 二八日にJ・W・ランバスが逝去し、記念としてJ・W・ランバスの略伝を執筆することを依頼 さ れ、 若 干 二 三 歳 で 三 六 頁 に 及 ぶ『 藍 巴 斯 先 生 略 伝 』( 一 八 九 三 年・ 明 治 二 六 年 五 月 ) に 刊 行 し ていることである。 これは、日本語で著された最初のJ・W・ランバスの伝記である。一八三〇 年、米国南部のミシシッピー州に生誕し、その幼少期、大学での勉学後、深い回心の体験、そし て宣教師としての召命と結婚後、中国の上海蘇州を中心に三二年間の伝道活動、さら来日し神戸 を拠点として、瀬戸内沿岸での伝道、特に中国地方及び四国における伝道の展開などについて叙 述している。ランバス自身の説教や伝道報告なども盛り込みながら描写されている、見事な出来 映えである。   神 戸 美 以 教 会 の 後、 一 八 九 三( 明 治 二 六 ) 年、 広 島 美 以 教 会 牧 師 に 転 任 し、 一 八 九 五 年 九 月

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に 長 老 の 按 手 礼 を 受 け、 翌 年 の 夏 に は 大 阪 東 部 美 以 教 会 に 転 任 す る。 九 七 年 一 〇 月、 再 び 神 戸 美 以 教 会 に 転 任 す る。 九 九 年 よ り 二 年 間、 ア メ リ カ・ ヴ ァ ン ダ ビ ル ト 大 学 に 留 学 し、 一 九 〇 一 年 に 帰 国 し て 京 都 メ ソ ヂ ス ト 教 会 在 任 中、 第 三 高 等 学 校 教 授 を 兼 任 す る。 ま た 関 西 学 院 神 学 部 で も 実 践 神 学 の 講 義 を 担 当 し た。 そ し て、 一 九 〇 七 年、 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 三 派 合 同 後 に は、 上 京 し て 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 機 関 紙『 護 教 』 の 主 筆 を 務 め る。 『 護 教 』 は、 山 路 愛 山 が 初 代 主 筆 と な り、 一 八 九 一( 明 治 二 四 ) 年 に 創 刊 さ れ た も の で、 第 四 代 主 筆 と な る。 そ の 間、 青 山 学 院 神 学 部 教 授 を 兼 任 す る。 一 九 一 一 年、 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 伝 道 局 長 に 選 出 さ れ、 一 三 年 に 鎮 西 最初の神学部卒業生 学院院長に就任するまでつとめる。そして一九年には、日本メソヂスト教会第三代監督に推挙さ れ、 三 期 務 め る。 そ の 間、 二 三( 大 正 一 二 ) 年 の 関 東 大 震 災 と い う 難 局 に 尽 力 し 教 会 の 復 興 に 大きく貢献し、また大成運動の大きな伝道プロジェクトを展開し、そのことにより多くの教会の 自 立・ 自 給 を 果 た す こ と に 貢 献 す る。 さ ら に、 監 督 と し て の 在 任 期 間、 日 本 基 督 教 会 同 盟 会 長、 一九二五年新たに組織された日本基督教連盟の常議員会長等の要職を務め、日本におけるキリス ト教界の指導者、スポークスマンとして国際舞台でも活躍した。   一 九 一 〇 年 の エ デ ィ ン バ ラ に お け る 世 界 宣 教 会 議 以 降、 そ こ で 取 り 上 げ ら れ た 諸 問 題 は 継 続 委 員 会 に 委 ね ら れ る こ と に な り、 一 九 二 一 年 に ニ ュ ー ヨ ー ク 州 の レ イ ク・ モ ホ ン ク で 開 催 さ れ

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た会合において、継続委員会を母胎とした会議は、 「国際宣教協議会」 ( International Missionary Council : IMC ) と し て 正 式 に 結 成 さ れ、 鵜 崎 は そ の 会 議 に 参 加 し て い る。 そ し て、 I M C と し て 最 初 の 開 催 さ れ た 世 界 宣 教 会 議 が 一 九 二 八 年 に エ ル サ レ ム で 開 催 さ れ た 世 界 宣 教 会 議 で あ っ た。 そ の 宣 教 会 議 に お い て、 一 つ の 重 要 課 題 が 欧 米 の 諸 教 会( Older Church ) と 若 い 教 会 と が どのような関係を形成するかということであり、鵜崎は、その論議において日本の教会を代表し て 重 要 な 貢 献 を 果 た し て い る の で あ る。 「 古 い 教 会 と 若 い 教 会 の 関 係 に お け る 協 力 関 係 は 全 面 的 に相互的でなければならないし、非難と称賛は等しく分かちあわなければならない。宣教師と土 着の教職は、同等の同じ処遇を受けるべきである。日本人と外国人の間には調和が欠如してきた 諸 事 例 が あ っ た が、 賢 明 で 先 見 の 明 の あ る 宣 教 師 達 は、 第 二 の 場 を と る 内 容 と な っ て き て い る。 日本側はこのような態度に感謝してきた」 と力説しているのである。関西学院の最初の卒業生鵜 崎庚午郎が、日本のキリスト教界のエキュメニカルな指導者として草創期のエキュメニカル運動 に重要な貢献を果たしたことは銘記されるべきであろう。 結論的考察   本稿の目的は三点あり、第一の目的は南メソヂスト監督教会の視座からフィランデル ・ スミス ・ メソヂスト一致神学校を考察するということであった。この点は、フィランデル・スミス・メソ ヂスト一致神学校その成立過程と『神学校規則』を通して神学教育の内容、また南メソヂスト監 督教会の一致神学校への参与の経緯と貢献について明らかにした。   第二の目的は、関西学院神学部の最初の編入学生と新入学生を解明することであった。まず一

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致神学校への委託神学生については、これまでよく知られていたは神戸から鵜崎庚午郎、広島か ら中山栄之助と田中義弘に加え、大分から中根中が派遣されていたことであったが、神戸からの 三名については不明のままである。その中で、中根中についてはこれまでほとんど明らかではな かったが、関西学院創立時に普通学部に入学して基督教青年会などで活躍し、中途退学して故郷 の杵築での伝道活動の後、渡米して黒人運動に尽力してゆく数奇な足跡が解明された。神学部英 語科に移籍して二年編入したのは、上記の鵜崎、中山、田中の三名であり、新入生としては松本 益吉と蘆田慶治の二名であった。この両名は後に米国留学後神学部で教鞭をとっている。英語科 で次年度に二年編入してきた阿保栄次郎について、これまでほとんど知られていなかったが、青 森の弘前出身で、東京の東京英和神学校に一年間在籍して神学部に編入学して、卒業後短期間で あったが南メソヂスト関連教会で伝道者として働いていたことが明らかとなった。初年度には普 通学部に在籍していたが英語神学科に移籍したのは、これまでほとんど不明であった豊崎善之助 であり、卒業後には南メソヂスト関連教会で伝道者として働いている。短期間で教職を辞した後、 キリスト教倫理の視座から社会主義に関する論文を著し、また日本で最初の社会主義研究会を立 ち上げたが、その後欧米での研鑽を通して宗教倫理的見地からの社会主義に対する批判的著書を 刊行している。神学部に邦語神学科が設けられるのは二年後以降であるが、試行的に初年度から 設けられていたことが神学部カレンダーに見出され、小俣素直が在籍しているが中途退学してい る。また初年度から普通学部に在籍しつつ、神学部予備学生として安達金之助、住田(三戸)吉 太郎、 太田義三郎の三名がいる。その中で安達金之助は、 神学部に移ることなく普通学部に留まっ たが、三戸吉太郎、太田義三郎は邦語神学科に移籍し、卒業後は伝道者として活躍した。

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最後の第三の目的は、最初の神学部編入学生の三名について、これまでよく知られていなかっ ・ W ・ ランバスより絶大な信頼を寄せられるようになっ そして鵜崎庚午郎については、その初期に『ウェスレー伝』の翻訳や『J ・ W ・ ランバス略伝』 以上のささやかな研究成果を踏まえて、個々の編入学生及び新入生の更なる研究が推進される 【注】 John W.Krummel, The Beginnings of Methodist Theological Education in Japan (『青山経営論集』 第一五巻   第二 ・ 三合併号、一九八〇年一一月、四二一―四四四頁) 2) 武 藤 誠「 明 治 初 期 基 督 教 教 育 史 の 一 史 料 ― 関 西 学 院 創 立 時 の 学 生 生 徒 名 簿 ―」 (『 関 西 学 院 史 学 』 一 九 六 七 年 三 月、 一 ― 一 八 頁 )。 尚、 『 名 簿 』 は 学 院 の 第 二 代 院 長 吉 岡 美 国 の 逝 去 後 に 学 院 図 書 館 に 寄贈された書類の中に存在していたもので、表紙に『明治二二年十月・名簿』と記載されている。

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