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後期旧石器時代後半のセトルメントパターンと遺跡構造に関する比較文化的研究

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後期旧石器時代後半のセトルメントパターンと遺跡

構造に関する比較文化的研究

著者

阿子島 香

(2)

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後期旧石器時代後半のセトルメントパターンと

遺跡構造に関する比較文化的研究

課題番号07610400 平成7年度∼平成9年度科学研究費補助金 (基盤研究C (2) ) 研究成果報告書 平成10年3月 研究代表者 阿子島 香 (東北大学文学部助教授)

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研究組織 研究代表者:阿子島 香(東北大学文学部助教授) 研究経費 平成7年度       600千円 平成8年度       800千円 平成9年度       400千円 計        1800千円 研究発表 阿子島 香「マドレーヌ文化期における適応戦略と遺跡構造分析」早稲田大学考古 学会F古代』第101号1996年5月 阿手島 香 rアジアから北米大陸への人類の拡散と適応J F科割第68巻4弓 岩波書店 1998年3月 日    次 石塔の分布とl場jの機能をめぐって -パレオインディアン文化の技術の一側面- ・ - - - - ・ ・ ・ -1 アジアから北米大陸への人類の拡散と適応 ・--・・-・-・'''●9 社会構造の復元とモデル -・---・-H H H20 旧石韓文化と現在の狩猟民 --・---●●=25 マドレーヌ文化期における適応戦略と遺跡構造分析  - - - = 30

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石書きの分布と 「場」 の機肯巨をめくやって

-パレオインディアン文化の技術の一側面1

1 はじめに

旧石器時代の遺跡構造分析(Site Structure Analysis)における遺物の空間的分布パタ

ーンの解釈に際して、石器の位置が人間活動の場所と内容を反映するという前提に対し. 肯定的・懐疑的それぞれの評価からの論議が続いてきた。本報告では、石器群を構成する 各石器糖種が、 「場」の機能と分布の関係について均質なものとするのではなく、 「技術 的組織」概念を媒介として技術体系内の分化を推定し、複雑な諸属性の有機的関連を捉え ることにより、分布という静的なパターンと当該地点における人間活動という動的要因と の接点を探ろうと試みる。 筆者はワイオミング大学に訪問研究者として滞在中に、プリソン教授のプロジェクトの 共同研究に参加する機会があった(Frlsoh ed. 1996)。その中で、石器石材における遠隔 地産の良質の石材と現地産の粗悪な石材の区別、生活の中で長く保持される維持的な石器 と、使い捨てに近い不定型な便宜的な石韓との区別、ひとつの遺跡という範囲を越えた移 動生活の中における石器の在り方、などに関する事例研究を通じてこの問題に関する理解 を深めることができた。貴重な機会を与えていただいた、 George C. Frlsoh先生に深甚の 謝意を表したい。 2 「技術的組織」概念 「技術的組織」 (Orgahlzatlon of technology)の概念は、ビンフォード(Blnford 197 9)によりアラスカ北部のヌナミウト・エスキモーにおける民族考古学のフィールドワー クでの事例研究に基づいて、提出された考え方であり(阿子島1983、89)、実際の発掘資 料への応用として、石器群の技術の構成を分析する試論が米国の先史考古学界で増加しつ つある。ここでは、パレオインディアン文化の遺跡を取り上げて、石器群をrOrgahlza-tiohal」な視点でみることが、遺跡研究にとってどのようにプラスになるのか具体的に考 えてみたい。トド、ケリー、イングバーなど、ビンフォードの理論的な影響を受けた若手 の先史学者たちが、発掘資料のなかに応用を試みている。 。 狩猟採集諸民族の各種道具をめぐる技術には複雑な構造が存在する。従って種々の異な る道具各種を、単にrトウールキット」の-構成要素として、均質なものと理解する見方 は不十分なものとされた。同一集団が有する「道具箱」の中身といった一元的な観点では、 道具がどのように生活の中で、製作され、使用され、補修され、補充され、管理され、転 用され、代用され、入れ替えられ、廃棄されるかをめぐる、複雑なシステムを理解する耽. は困難であるとして提示された概念である。 ヌナミウト・エスキモーの保有する技術の構造を分析したビンフォードは、いくつかの 目立った特徴を認めた。 r管理的技術を見る」という副顔の論文(Blnford 1979)で指摘し たのは、従来一般的な道具のとらえ方、すなわち常に保持されている「Toolklt」は、人 間集団の有する「範型」という、頭のなかにある観念が実体化したものという、固定的な

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とらえ方では、現実の狩猟民の技術構造を理解するのは難しいとの点であった。ヌナミウ トの技術の特徴には、以下の諸点があげられる。道具の中で、維持・管理の方式がシステ ム化している「管理的」部分と、当座の状況に規制される要素が大きいr便宜的」部分と が.分離して存在していること,道具には季節的な変動が著しいこと、常に用いるモノと 予備のモノのように常用・常備という面においてバラエティがあること、道具の所属とい う面では、特定の個人装備・場所に付属する「備品」的性格をもつもの・間に合わせ的な ものという、 3つの区別ができることなどである。これらが複雑に有機的な諸関係すなわ ち、組織的な構造を有.しているという実態が観察された. 石器についても,季節の相違、活動の相違、石材の豊富さの度合、石材原産地との関係、 居住地の移動性など、多くの条件の変化により、石井の組成、石盤製作の技術、剥片生産 技術、廃棄される状態などの表現形が多様化している可能性の指摘がなされている。石韓 の相違について、年代差、地域差、人間集団の差という、通常想定される3つの要因以外 に、技術的組織の内部における位置付けの差という、もうひとつの次元が関係するという 理解が必要であるという指摘である。 (加藤(1969)が提唱した、常呂バターン仮説は,宿 動という状況的な差によって、石器組成が変化するという視点を有し、共通する考え方を 含んでいる。また、稲田(1969)の、石器群の技術構造という概念も.広い意味での「技術 的軌織」概念と共通する面がある。 ) 3 民族考古学の性格 「民族考古学」は、先史考古学と文化人類学(民族学)との学際的な研究分野である。 北米の考古人類学の中で多くの論争を経ながら、 1970年代に考古学のひとつの分野として 確立された。民族考古学の第-の提唱者としてあげられるのは、ルイス・ビンフォードで ある。しかし、ピンフォードを理論的指導者としながらも.この分野は多くの研究者によ る、ひとつの大きな流れとして必然的な形成をみたといえる。その具体的な研究内容は非 常に多岐にわたる。 民族考古学の特徴を公約数的に考えてみると、以下の諸点があげられよう。 1)調査の対象は、民族誌的現在の地球上の諸民族である。あるいは近い過去であって. 人々の記憶のなかに、まだとどめられている過去の世界である。例えば祖父母の代の石器 を使っていた頃の居住地の発掘なども行われる。 2)対象は主として、いわゆる未開民族である。この点は文化人類学の伝統的な研究対象 と一致する。青うまでもなく全世界は文化変容が着しいが,かつての「昔風の暮らし」 (Old timers)を復元しようとする志向が非常に強い。近年の文化人類学は、変化する現代 世界を現代的な問題意識からとらえようとするが(例えばジェンダー問題) 、民族考古学 には歴史復元的な志向が、極めて強い。 3)方法としては集約的実態調査によりデータを収集する。フィールドワークは長期にわ たり時に1年以上に及ぶが、この長期間の標準は、また現代民族学の水準を反映したもの

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でもある。 4)考古学者自らが、民族誌の調査方法.観察や記述の技術を修得しなければならないの で、民族誌学(エスノグラフイ-)分野で訓練を受ける。ただし村に入るのは、単身「村入 り」をすることも、調査対象を特定したチームを組んで調査を実施することもある。 5)対象は物質文化を柱とする。経済および技術等の多様な側面に調査対象は広がるが、 基本的に考古学が資料とする、モノの特徴や空間分布、技術の内容、廃棄物、集落構成な どの、物質的・経済的側面に、特に関心が集中する。本来、民族考古学は発掘によって輸 出されたバターンすなわち考古学的記録の、明示的な解釈をめざして発達してきた分野で あるからである。 6)データを分析する視点は、考古学的立場に立脚する点で-貴している。空間,廃棄物、 堆積層や資料の形成過掛こ重点がある。記録作成法は非常に考古学的である。平面図、道 具の一覧、属性表などは標準とされる。 7)目的として、考古学的記録を解釈する手掛りとしての、法則を見出だすことが重視さ れる。民族学のための民族誌ではない。考古資料の様々なパターンを解釈するための、人 間の経験の捻体を網廉したr辞書」作りに例えられるだろうか。この意味では、人間行動 ・活動と、遣物として残る結果を架橋する辞書といえる。 8)既存の民族誌の利用が限定される理由として、考古学者と民族学者では求めるデータ の種類がかなり異なるという側面があげられる。文化人類学分野で長年にわたり蓄積され た資料の利用が困難なのは、記述内容のずれが著しいという点が大きい。集落周囲の「ご み」の棄て方とか、道具の分類と補修法、材料の加工法、空間の利用法などが正確に記載 されている民族誌は、残念ながら非常に稀である。 9)時代性および歴史性を軽視する類推的研究分野ではない。現在の諸民族の生活様式の 中に、人類の過去の姿を求めようとするのではなく、あくまでも実際の考古学上の資料デ ータの内容・パターンと直結する形で考察をすすめる。換言すれば、発掘調査で検出され ない現象は、民族考古学の直接の対象とはならないという原則をとる。 10)民族考古学に対する批判の焦点は、文化的な現象に対する斉一説の適用をめぐってで ある。元来「斉一説」は、近代地質学が確立した歴史のなかで、地質層序・岩石生成は海 底などで現在も進行中の、同様なプロセスによるという考え方が、 1830年頃ライエルの 「地質学原理」で集成されたものだが、新しい地質学が当時の「洪水説」と対立する中で、 考古学の方法論と共通する考え方をふくんでいた。民族考古学は、個別の文化の相違を超 越した共通性が、考古資料の形成過掛こ働いているという前提を有する。この点についてi 通文化的な法則の存在についての激論が続いており、当面結論は期待できない状況である。 個別研究を通じての具体的な論議が、より重要かつ生産的であると考える。 4 ミドルレンジ研究への批判に対して ミドルレンジセオリーとは、考古学的な記録を分析することによって見出だされる様々

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なパターンが、何を意味するのか解釈していく方法である。それは、考古学的記録を文化 の動きを説明するための材料として用いるために、不可欠なものである。それは、現代の 世界にあって、静止した存在としてある考古資料を、過去の世界における人間活動につい ての情報に変換するための理論である。換言すれば, 「静態」から「動態」へ、あるいは 「痕跡現象」から「行動現象」へ解釈を進めるための方法の確立をめざしている。それは、 考古資料の形成過程を問題とする研究なので、システムの動的な状態とそれから派生した 考古学的結果との両者を観察することが可能な場において理論化される。 このような原則を満たすものとして、ビンフォード(1983)は、民族考古学.実験考古 乳二歴史考古学の3分野をあげている。私は、さらに解釈のための方法論としてミドルレ ンジ研究を広義に考えたときに、次の2分野を加えて確立すべきであると考える。 1)逮 開法。異なるカテゴリーのデータ同士を関連させて、あらたな相関(静態における構造) を見出だしていく。貝塚の各層における土器、石器.動物遺存体相互の相関のパターンな どのように、資料体における.より高次な事実の検出法の開発が急務であり、それなくし てミドルレンジ研究の飛躍はないのではなかろうか。 2)比較法。同様な文化進化段階の データ構造同士を比較していく、考古学的静態の比較文化的分析。マドレーヌ文化、パレ オインディアン文化、細石刃文化の技術的組織を比扱するなど。時代性および民族文化の 個別性について、斉一説の当否を抽象的に議論するより、実際の考古資料の構造を通文化 的に比較していくことが重要であろう。

Nlddle Range Theory

(ミドルレンジセオリー)

[

Achlallstlc Approach (現場法) Relatlohal Approach (連開法)

Cohparat lve Approach

(比較法)

Eth血OarChaeol ogy

(民族考古学)

Expe一 llhehtal Archaeology

(実験考古学) HIstoflcal Archaeology (歴史考古学) 静止した考古学的記録は確かに解釈の基準を必要とし、そこに3種のミドルレンジ研究 が導入されたわけだが,しかし,その故をもって、考古資料内部に潜在するパターンを抽 出する(高次の相関を見出だしていく)ことを,資料の限界まで追究する努力を忘れては ならないだろう。上図に示した構成になると考えられるが、後2着と「現場法」とは相対 立するのではなく、相互補完的な役割を果たす。すなわち捉えられる限りの複雑な資料構 造を追究したレベルにおいて、考古資料のパターンと民族蕗上のパターンとが対照される べきだからである。

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5 形成過程の理解における「技術的軌織」概念の意義 文化的適応システムの運動(動態)は、スケールにおいてミクロからマクロまで考えら れる多重性をもつ。したがって、考古学的記録(静態)の構造も多重的に可変的に分析す べきである。たとえば、 300ミクロン(使用痕光沢パターンー静態、被加工物一動態) 、 3mm (微小剥離痕) 、 3cm (石器の形態属性一静態、集団の範型一動態) 、 30cm (共伴) 、 3m ( 「場」の機能) 、 30m (生活空間の構成) 、 3km (キャンプ周囲のフ ォレイジ頼域) 、 300km (セトルメントパターン-静態、居住・移動パターンー動態) のように、さまざまな大きさの現象が複雑に統合されたものが、文化システムの実態であ り、従ってまた資料の実態である。 考古学的記録については、累積という現象を前提としなければ、静態と動態の連結がで きないと考えられる。文化システムの動きは、短期間の活動痕跡が「凍結」されるのでは なく、また痕跡の重複は同じ場所に起こるわけではないが、重複の在り方は体系的である ので、分析は可能である。その秩序の例は、スケールがマクロな場合として文化的適応を 土地一人間の関係(hah-land relationship)でとらえるなど(Blnford 1982)、ミクロの場

合は、使用痕の重複の様相が管理的石器(curated too日と便宜的石器(expedleht tool)

とで異なることなどがあげられよう。 さて石器の場合を考察すると、製作・使用・廃棄のそれぞれの時点における諸属性の分 析を相互関連させながら行うことが重要である。 3つの次元を分離すべきではない。なぜ なら、文化システムのなかの構成が、すでに相互に有機的関連をもって連動するからであ る。たとえば管理的石器と便宜的石器とでは、石材・製作技術の差と、作業内容の多様性. 廃棄の契機・物流(搬出搬入)の各属性が相関して、かつ両者は相違する。遺物の空間分 布のパターンから人間活動を解釈するに際しても、各遺物にはどのような取扱い方がなさ れるものであるかとの理解をもって各遺物類型を評価することが重要である。すなわち、 製作・使用・廃棄の各段階を技術的組織という脈絡で総合して理解することである。 平面分布は行動の反映であるか香かという択一的思考では、技術の実態を十分理解でき ないと考えられる。技術的組級の両での性格が異なる構成要素は、それぞれ異なる方式で 堆積していく(Schlffer(1987)の言葉では、 「考古資料の脈絡に入る」 ) 。また理論的パ ラダイムが範型論であれシステム論であれ、アセンブリッジ全体を性質が一様なトウール キットと捉え、剥片・チップ類(debltage)は均質なその副産物と捉えるよりも、一括遺 物は質的に分化し組織化された技術のあらわれと捉えたほうが、遺跡構造内部における空■● 間分布の諸パターンの.より妥当な解釈に近づけると考えられる。 6 パレオインディアン文化の事例 ミルアイアン遺跡は、モンタナ州南東端に所在するゴシャン期の閑地遺跡で、残丘上に キルサイトとキャンプサイトが隣接している。 George C. Frlsoh 教授により9次にわ

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たる発掘調査が行われ、私は隊員として86、 87、 88年の一部に参加する機会を与えられ、 またワイオミング大学に滞在中に、出土石器の使用痕分析を行った。資料の自由な使用を 許されたプリソン先生に、重ねて深謝したい。ミルアイアン遺跡での分析結果から抽出さ れたバターンは、石材差・器種・分布差・摩滅・表面状況・使用痕の様相、などの諸点が 相互に複雑に相関している。当該期の技術的組織の特徴が、よくあらわれていると考えら れる点を、以下にまとめてみる(参考図は、阿子島(1992、1993)による。以下の各点の詳 細は、同文献参照) 。 1)器種により分布が相違するが、集団の活動内容自体を示すというより技術的組織上の 違いが、 「場」空間の性格を媒介に、結果的にまとまったと解釈できる。 2)石材差が石器の取扱方式(curatloh YS eXpedlehCy)とかなりの関わりを有している。 (チャート・ボーセレナイト・喝瑠・珪化木) 3) 「多段階簸辺摩滅」は、 1点の石器の身辺・凌線相互間の時間差を示す。石器のライ フヒストリーの長さと途中経過を窺わせる。 4) 「多段階表面変化」は, 1点の石器の剥離両相互間の時間差を示し,素材から調整加 工、使用、廃棄にいたる流れの一端を窺わせる。 5)券種の相違により、使用痕の重複の度合いにかなりの変異が窺われる。 (バイフェー ス・エンドスクレイパー・スクレイパー・使用された剥片など) 。 6)表面変化の様相と程度(埋没光沢・輝斑)が、石材差と関連を有し、かつ平面分布に おいて相違が認められる。 7)素材段階での保持、器種の枠を越える形態変容がうかがわれる事例がある。 8)キルサイトとキャンプサイトでは、石器の在り方が極めて大きく異なる。 活動の場の性格と、出土する石器タイプの技術的組織上での位置が関連するのは他の遺 跡との共通パターンである。例として、バイソンの追存体と遺構から場の構成を石器群と

は独立して推定できるアゲイトベースン追跡(Frlson and Stahford 1982)、使用痕分析に

よって石材の相違が石器のライフヒストリーと分布に強く関連することが実証されたラボ

ック湖遺跡(Ban forth 1985)などがある。

前期パレオインディアンの生業・居住様式(subsistence and settleneht)と技術的組 織との整合性について、トド他(Kelly and Todd 1988)によるモデルがある。ミルアイア

ンでの使用痕分析結果は、高度に移動的な生活の中での、必要な石材(石井刃部)確保の ための戦略という技術の特徴と適合する。また石器の使用痕の在り方は、一つの遺跡地点 での人間行動の範囲を越えた広域的活動の痕跡が認められることを示している。 このような使用痕分析の方向は、被加工物や具体的作業を明らかにできない場合もすべ て含めて、資料パターンを差別せず、石器表面での「NIcroyearの形成過程」を問題とし ているので、比喰的に「マイクロウエア・タフォノミー」と称せるかもしれない。メ-ア 追跡(Cahen他1979)などで範例となったキーリーらの使用痕研究法は、実験の枠組み の中で解釈が容易な資料に分析対象が偏る、すなわち使用痕の形成過程の考察が不十分で

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あるという弱点をもつことを指摘したい。 (本稿は、 1995年5月20日および1996年11月9日のr民族考古学研究会1 (於慶応義塾大学文 学部民族学考古学研究室)のための報告資料を補足したものである。 ) 引用文献 阿子島香(1983) 「ミドルレンジセオリー」芹沢長介先生還暦記念論文集刊行会編F考古 学論叢I j 171-197貞 阿子島香(1989) F石器の使用痕Jニューサイエンス社 阿子島香(1992) r実験使用痕分析と技術的組織-/引/オインディアン文化の-事例を通 して」加藤稔先生達磨記念会編F東北文化論のための先史学歴史学論集1 27-53頁 稲田孝司(1969) 「尖頭器文化の出現と旧石器的石器製作の解体J F考古学研究』 15-3、 3-18頁 加藤晋平・桑原護(1969) F中本遺跡J

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∠⊃

・ --」2cM O e 一° ● 図1 ミルアイアン遺跡の石器と使用部分 (棚刃駄平行楓 一点柳刃駄直交方帥軌 畑作新郎恥 図2 ミルアイアン追跡の石器器種別分布と加工対象物 SCRAPER I ENDSt:RAPERII

爪旧川川抄

■   ■

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アジアカヽらヨヒ米大陸への人類の拡散と適応

ヨヒ米大陸最古の文イヒ

北米大陸に初めて人間が足を踏み入れたのはいつだったかという問いは、長い間米国人 の大きな関心を集めてきた。のちの第三代大統嶺トマス・ジェファーソンは、 1784年にバ ージニア州の自分の土地にあった墳丘マウンドの発掘を行ない、草創期のアメリカ考古学 史を飾っている。北米では古代国家の成立という段階に達した文明はついに現われなかっ たが、たとえば南西部の砂漠地帯のなかに忽然と姿を現わす石造大集蘇(ニューメキシコ 州チヤコキヤニオン)や、首長制社会の産物とされるミシシッピ文化の大マウンド(イリ ノイ州カホキア)のように、開拓者たちの目を鴬かすに十分な文化遺産は、各地に残され ていた。北米はヨーロッパ人の到着時、決して原始の大陸ではなかったのである。 北米の考古学は、考古学的な遺跡と民族誌的現在のインディアン諸族とを一連のつなが った対象として、つまり先住民族の研究として成立してきた歴史をもっている。その後も 広義の文化人類学の一分野として発達し、諸文化の比較研究という視点を重視し、,また民 族学とは密接な関係を保っている。極北から熱帯雨林までの極めて多様な環境条件のなか、 各地域それぞれに適応を遂げた特色ある諸文化は「文化額城」概念によって、大きく類型 的にまとめられてきた。しかし本稿で取り上げる北米最古の文化は、全大陸的なスケール における文化内容の同質さを大きな特徴としている。投槍を武器に移動生活を送っていた 大型動物狩猟民たちによる、この総称して「パレオインディアン文化」 (Paleolndlans)と してまとめられる諸文化は、 ll,500年前から約8,000年前まで継続した(1) (図1) 。 槍先形の石器(尖頭器)を伴う類似した文化の痕跡は、南米大陸の南端フエゴ島付近にま で広く残されている。 絶輝動物と人類とが北米大陸でも共存していた事実が学界で認められたのは、 1926年の フォルサムでの発見以後のことである。コロラド自然史博物館のFIGGINSは、ニューメキ シコ州北東端の小さな町で、絶滅種の野牛(バイソン)の肋骨の問に石槍が埋まっている のを発掘した。優美精巧に製作された特異な形の槍先には、表裏の両面を基部から長く薄 く剥ぎとった樋状の剥離が施されていた。石器製作技術の粋を駆使したと評価されるこの タイプの槍先は、その後はぼ全米から出土し、最初の発見地の名を採ってフォルサム型尖 頭器(Folsoh pOlht)と呼ばれている。当時は、人類学の大御所HRDLICKA(ヘリチカ)やHO LuESの主我していた氷河時代無人説が学界の定説であり、当初フォルサムでの発見は疑問 視されたが、さらに同州のクローヴイス・コロラド州のリンデンマイア-と確実な資料甲 出土があいつぎ、ようやくパレオインディアン文化の存在が公認されるに至った。アジア からベーリング陸橋を初めて渡った人々の子孫は、 ll, 000年前頃までには全米にあまねく 拡散して、マンモスやバイソンを追う生活を送っていたのである。 約2万年前に最終氷河期のピークが訪れた後、北半球中緯度地域は15, 000年前から寒暖 の振幅が激しい時期である氷河後退期(tardi-glacial period)を経て温暖化し、約1万年

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前頃までに人類はそれぞれの地域で、新たな環境へ適応する激動の時代をむかえた。のち に諸文明の発生へと導くことになる、人類史の大きな転換の原点となった時代であったと いえよう。北米大陸においては、気候変動と大型動物の大量絶滅と、人類の急速な拡散が ほぼ同時に起こった。 氷期と間氷期のサイクルにともなう気候激変は、酸素同位体曲線で示されるように中部 更新世からの70万年の間に.少なくとも8回以上繰り返し生起していたのであるが、人類 が北米大陸に急激な拡散を遂げたのは、この最後の時期にのみ限られる"事件''なのであ った。北米大陸において人類が広く適応に成功した最初の文化であるパレオインディアン 文他は,年代的には完新世にかかっているが、生業経済や技術の構造など文化的な面では、 かなり旧石器時代的な性格が残っており、人類にとっての新天地であったという南北アメ リカ大陸の特殊な環境的状況のなかで、旧石器の残存形態の文化として位置付けられる。 日本列島では縄文時代初頭の多縄文土器から関東地方撚糸文土器の年代にあたる。西ヨー ロッパでは、後期旧石器時代最終段階のマドレーヌ文化の終末から中石器時代のアジル文 化の年代にあたる。 パレオインディアン文化の第1段階はクローヴィス期であり、 C-14年代は11,500年か らll,000年BPである。フォルサム型より大型で基部の楯状の剥離が短い、クローヴイス 型尖顛器(Ctoyls polht)牢特徴とし、その分布は広くほぼ北米全体に拡がっている。フォ ルサム期は11, 000年から10, 000年B P、その後は大平原地域のプラノ複合の継起そのほか、 各地方において地域的様相がみられる、後期パレオインディアン文化の時期となる。

早期渡来説

それではクローヴイス期以前は、北米大陸はヒトが全くいなかった大地だったのだろう か。それ以前の人類の存在については、無人の処女地であったとするC.Vance HAYNESの ような短期編年派(late arrivals)と、数万年前の遺跡も数多くあるとするA.BRYANのよ うな長期編年派(early arrivals)とを両極として、ながく論争が繰り返されてきた。これ まで長期編年派が存在を主張する「プレクローヴィス」の遺跡に疑問点が多く残されてい たのも事実である。 カナダ北西部のユーコン川流域にあるオールドクロウ遺跡群は、 60年代から北米最古の 文化のひとつとして注目を集めて、 ′27, 000年BPという測定年代を出したトナカイ腰骨製 の「肉削ぎ道具」 (flesher)や、さらに古い地層からの骨器文化が報告された。層序の堆 積状況と年代、石器の癖実な共伴が無いこと、また骨器とされるものの多くは自然破砕や 肉食獣によるものではないか、などの懐疑的な批判を伴いながらも継続調査が行なわれた。 また、 WACNEISHは、ペルーのビキマチャイでオオナマケモノなど絶滅動物と石器が共伴し 2.5万年前に遡ると主張した。カリフォルニアのモハヴェ砂漠にあるキャリコ山遺跡群の 石器披, L LEALF.Yも関わり継続的発掘と国際学界での検討を経たが、決定的な結論に至ら ず論議は分かれていた。 37, 000年B P以上とされたテキサス州ルイスヴィルのSTANFORDに よる再発掘はクローヴイス期の遺跡との結論を出した。

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けれども近年ようやく「プレクローヴィス」の存在が広く認められてきたようである。 仙VASIOの発掘になるペンシルベニア州のメドゥクロフト岩陰は確実な調査事例である。 ここでは、重層する文化層と炉跡が検出されている。 (ただし19,600年という放射性炭素 年代にはHAYNESらの異論もある) 。また、チリ南部のモンテ・ベルデ遺跡について、従来 プレクローヴイスに否定的だった立場の研究者達が、実地調査の結果12. 500BPの文化層を 一致して認める発言をしている(ただし>33,000BPの最下層は保留) (2) 。 しかしパレオインディアン文化の広汎な広がり、発見地の分布の密度、特徴的な石器群 の内容、きわだった生業経済などと比較すると、これら最古段階の資料は非常に断片的で あると言わざるを得ない。それ以前にも両大陸に人類は居住してはいたが、クローヴィス 期を境にしてヒトは爆発的な放散を遂げて、適応に成功した存在となったことが強調され るべきである。サウスダコタ州のホットスプリング地点(約2.6万年前)をはじめ、ノー スダコタ州からネブラスカ州周辺のグレート・プレーンズ地域北部で発掘される、自然遺 物であるマンモスの骨層は、古生物学の観点から詳細な調査が重ねられているが、人工遺 物は全く検出されていない。豊かな資源を意味するこのような骨層に人類活動の痕跡が皆 無であることは、少なくとも人間は当地で普遍的な存在とはなっていなかったことを意味 するのであろう。

激変する環境

当時の北米大陸もやはり環境の激変期で、氷河の後退に呼応して森林と草原は北上を続 けていった。ウィスコンシン氷期(ヨーロッパのウルム氷期に対応)には、カナダのほぼ 全域にあたる部分は、東西ふたつの大氷床におおわれていた。ローレンタイドおよびコル ディエラ氷床である。しかし氷期の最盛期の前後には、両氷床の問に挟まれて、氷におお われない狭い土地、いわゆる「無氷回廊」が、アラスカのユーコン川流域から南東へ細長 くのぴ、ロッキー山脈東方のエドモントン付近までつながっていたとされる。氷期の最中 に回廊は完全に閉じていたかどうかについては説が分かれている。氷河後退期になると、 この回廊状の隙間を通って、アジアの後期旧石器文化最終未の時期に人間集団が流入し、 クローヴイス文化成立のもとになったと推定されている。ベーリング海峡は陸化しており、 また現海峡の周囲は両側に幅数100h以上とされる広大な陸地(ベ-リンジアと呼ばれる 平原地帯)を構成していた。しかし、パレオインディアン文化の最大の特色である、表裏 に樋状の剥離を施した尖頭器文化は、それに先行する時期のシベリア・アラスカの旧石器 文化の中では未発見であるので、クローヴィス文化は北米において自生的発達を遂げた可 能性が非常に高い。       . ●■ シベリアの後期旧石器文化において、すでに寒冷な環境下に大型動物を追う生活様式は 確立していたので、東への旅は、すでに保有していた技術の体系と生活のパターンの延長 であったといっても過言ではないだろう。たとえば石器の素材を製作する石刃技法は、パ レオインディアン文化の時代の前半にもひろく認められる。また、大型動物の狩猟という 生業経済の形態は、植物採集などを大きく取り入れて季節的スケジュールのもとに巧みに

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組み合わせた「多角的採集狩猟戦略」 (FLANNERYによる)の場合に比較して、人間集団がテ リトリー内部の細かな地理・資源の特徴を必ずしも熟知していなくとも、再生産を維持し ていくことがより容易であり、広い土地を移動していく生活にはより適していたものとさ れる。パレオインディアン文化が広がった時期は、著しい気候変動の最中であり、動植物 相は安定した様相を示さず、環境変化に対する各種生物の適応性に応じて、モザイク状に 変化していく進行途上にあったとされる。固定的な豊かな環境に進入した集団が拡大した というより、変転していく環境と相互的に関わって成立した文化なのであった。 周氷河性の沼沢地もあった「無氷回廊」を抜けた集団の前には、やがて絶滅する運命の 動物たちに満ちた、広大な大地がロッキー山脈の東方に広がっていた。現在は大草原(プ レーリー)植生であるグレートプレーンズ(大平原)地方は、パレオインディアン文化が 最もめざましい活動を見た地域である。新しい生活様式は、 ll, 500年前に確立するや否や、 たちまちのうちに伝播し、また人口を増加させたことが遺跡分布の同時的拡大から知られ る。氷床の南に接しては帯状にステップ性ツンドラが、さらに亜寒帯針葉樹林が広がって いた。トウヒを主とするタイガは北上を続けたが、現在のタイガ森林よりも開けた景観で、 草原と混在するサバンナ的なパークランドをも構成していた。さらに南は現在は乾燥度が 高い草原になっているが、そのテキサスやニューメキシコの平原もいまよりよほど湿潤で、 湖と河川も多く存在し、森林も稀ではなかった。オープンサバンナは豊かな動物相をささ えていた。コロンビアマンモス、マストドン、ウマ、ラクダ、バク、オオカミ、オオナマ ケモノ、サーベルタイガー、そして古型のバイソンなどの顔ぶれが揃っていた。 氷河期の終鳶とほぼ前後して、北米では31属もの大型草食獣が絶滅した。環境の変化の 他に,その過程に新来の殺執者の影を見る説がある。アリゾナ大学のP.NARTINのコンピュ ータ・シミュレーションを使った図式がよく知られている。 「殺し屋」たちが11,500年前 にエドモントン付近に現われて、恵まれた土地での年率2パーセントもの「人口爆発」の 結果、水面に波紋が広がるごとくに東へ南へ前進を続けて、 1, 000年足らずで南米南端の フエゴ島に達したという極端なモデルである。ヒトの拡散、温暖化、絶滅の三者がほぼ同 時に起こったことから、大量絶滅の要因として人類による r過剰殺教」があったという考 えは根強く存在するが、人間が動物の絶滅に実際にどの程度かかわっていたのか検証する ことは容易ではない。まずパレオインディアンたちが、いかなる生活様式を確立していた のか実証的に追究する事が前提であろう。この点を次に考えてみたい。

最古の野牛狩猟遺跡

モンタナ州南東端に位置するミルアイアン遺跡は、大平原地域の北西部にあたる荒涼と した草原のなかにある。浸食をまぬがれていた残丘の上に、前期パレオインディアン人の 生活の跡が発見された。バイソンを集約的に狩猟していた実態が明らかな遺跡としては、 北米で最古級である。ワイオミング大学のGEORGE C. FRISON教授によって、 1984年から9 次の発掘調査が行なわれ.筆者も一部参加する機会を得た。野牛の遺存体が累々と折り重 なっている骨層は、 18m'残存し、狩猟と解体の現場を紡初とさせる。厚さ約1.5mの砂層下

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で保存されていた骨眉は、個体数29頭以上で構成され、雌牛の成獣が多く、歯牙萌出と摩 耗から、春(または晩秋)という季節推定がなされている。大量の骨が集積している状況 は、かなり集約的な狩猟をうかがわせる。骨層は相当の風化をこうむっており、肉食獣が 死後にスキャベンジングを働いた形跡も認められるので、狩猟イベントのあと埋没までに、 しばらくの時間経過があったらしい(3) 。 骨の堆積から約30m離れて、集団の一時的な滞在地と推定される地点も発掘された。 65 点の石器と、石器製作の際に生じる破片約3700点、およびばらばらになった野牛骨が約10 m四方の範囲に分布していた。スクレイパー(掻器).両面加工の石器(Biface)、小型の 石錐(Graver)などが含まれている。筆者は金属顕微鏡を用いた使用痕分析法を適用し、こ れらの石器が何に使われたものか、ある程度の推定をすることができた。肉や生皮を加工 したものが21例、骨や角を加工したものが18例、乾燥皮やなめし草が11例、植物質の対象 物の可能性のあるのは1例のみという結果であり、この遺跡の性格をよくあらわしている (4) 。 パレオインディアンたちは.北米民族例で「アトラトル」 (AtlaH)と呼ばれる道具、 投槍器を有していた。投槍器とは、腕の長さ程度の棒の一端に、槍の相元をひっかけるフ ックを有する器具である。ヨーロッパでは、約1.8万年前のソリュートレ文化期にさかの ぼって出現が知られている。ミルアイアンにおける槍先形石器は、クローヴイス型とフォ ルサム型との中開的な形態を呈するゴシャン型尖頭器(Goshen・poiht)が単独で出土し、少 なくとも北部プレーンズにおいては、以前に問題視されていた「ゴシャン期」が存在する ことが確実になった。加速器法による9例のC-14年代は11,000年BP前後を示しクロー ヴイス期の後半からフォルサム期の前半にあたる。 マンモスも彼らの重要な食料資源であった。マンモスは11, 200年前頃にはほとんど絶滅 したとされるが、野牛の群れを暴走させる狩猟法がはじまる以前であるクローヴイス期に は、大きな役割をもち、尖頭器がマンモスの骨と実際に共伴した事例もいくつも知られて いる。アリゾナ州のナコ遺跡では1952年に、 1体のマンモスに8本のクローヴイス型尖頭 器が、前脚から胸廓付掛こ刺さった状況を示す位置関係で出土している。実験的にクロー ビス型尖頭器の能力を検証する試みが行われている。 FRISONはジンバブエの国立公園で複 製石器を使用し、アフリカゾウの死体に対して投射実験を行った。尖頭器は、頭蓋骨のよ うな硬い部分を貴くことはできなかったが、腹部の急所に刺さって致命傷を負わせること は可能であることが確認された(5) 。 ワイオミング州北西部に位置するコールピー遺跡ではマンモスの骨の集積が2ヶ所検出 ●● されている。当時の復元地形は、傷ついた象を追い込むにも好都合な滑れ谷の崖下の岸辺 で、複数回にわたり利用された地点である。骨の集積は、現在も極北の狩猟民(ヌナミウ ト・エスキモー)に見られるような食料凍結貯蔵の場(ミートキャッシュ)と推定されて いる。長距離を巡る移動生活のサイクルのなかで生じる必要な機会に保存資源を利用する、 というのが「キャッシュ」 (cache)である。 TODDの分析によると、骨は7頭分からなり、

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2カ所のうち1つは利用した形跡が認められた(6) 。

後期ノヾレオイ ニ/ディ アニ/の集約的野牛狩猟

パレオインディアン文化の前半と後半とで、野牛の種類に変化が認められる。前半には、

大型で角が比較的直線的に伸びる絶滅種(BJsoTl blsoh antlquus)が主であるが,次第にや や小型で生態的には群生の度が強い種(Bison bison occidehtaIIs)にとって代わられる。

遺跡における出土状況も大きく変化し,フォルサム期までは1つの地点で数頭から10数額 程度の検出が多いのに対して、 1万年前以降の後期になると数十頭から百顔を超える遺体 が1つの文化層から発掘されることがある。パレオインディアン文化に対して、資源浪費 型の「過剰殺敦」乱獲文化のイメージが持たれるのは、この時期の「キル・サイト」 (狩 猟遭跡)の資料がもとになっているが、それは先述した動物種の「大量絶滅」に後続する 時期の狩猟活動なのである。狩猟法も変化し、群れで暴走する性質を利用し、特定の地形 的条件を計画的に活用する集約的な方法が行われるようになる。崖から追い落とす.窪ん だ地形に追い込む、あるいはコロラド州ジョーンズ・ミラー遺跡で推定されたように柵を 使用するなどの方策があった。地形的に特定の場所が用いられることは、考古学的には複 数回の活動が文化層において重複する結果となる。キル・サイトにおいて、従来以上に入 念な層位的検討が一層重要である所以である。 パレオインディアン後期に確立したこのような集約的な狩猟は.北米大平原地域ではそ の後も継続し、開拓時代頃まで残る。いかにプレーンズの生態に適合した方法であったか を示している。ワイオミング州東部のヴォ-ア遺跡は、石灰岩の陥没地形(SINKHOLE)を利 用した事例で、 A.D. 1500から1800年頃まで継続してバイソンの追い込み猟が行われ、遺体 が厚さ約5. 5mの堆積層に累積している。推定総個体数は2万頚に及ぶ。 平原インディアン諸族の民族例によれば,バイソンの群れの狩猟には、その生態を熟知 し、秒単位の高速度での的確な対応ができる熟練ハンターの協働が必要である。バイソン はふだんじっとしていておとなしそうに見えるが、いったん興奮するとたいへんな勢いで 暴れる。 19世紀後半のインディアン戦争中に、平原インディアン(ス一族、シャイアン族. アラバホ族など)の生活の源泉であった野牛は、敵を兵糧攻めにするための白人の意図的 な乱獲で、絶滅の危機に赦した。そのすさまじさは、鉄道駅に山積みにされた毛皮の写真 が伝えるところである。ヨーロッパ人の到着時にはおよそ6000万頭生息していたと推定さ れるが、 1870年には550万頭、 1895年にはたった千頚以下に減ってしまった。その後、国 立公園の設置をはじめとする野生動物保護の動きに助けられて6万額まで回復し、現在は 保護区でまもられている。残念なことに、野牛の生態に無知な観光客が不用意に近寄って 襲われる事故が絶えず、公園レンジャーが注意をうながしている。 パレオインディアンの集団は、暴走する群れを種々の地形のトラップに巧妙に追い込ん で、群れのうちのかなりの部分を一網打尽にする狩猟法を実行することができた。ワイオ ミング州東部のカスバ一浪跡は、そのようなキル・サイトの代表的な例である。強風によ って形成されたゆるやかな起伏の砂丘のなかの、大規模な凍み(約450Ⅹ135Ⅹ12mの大き

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さ)が狩猟の場となった。風上方向にU字形(長パラボラ形)に開いた凹地に、西から群 れを追い込み、砂丘のへりの、のぼり急斜面がちょうどアリ地獄のようになって、先にた った野牛は突進してくる仲間の下敷きになる、そこに石槍を装備したハンターたちが殺到 したとされる。一部工事で破壊された遺跡だが、ここで犠牲になったのは約100頭と推定 され、季節は晩秋、 C-14年代は10,060ト220年BPである(7) 。 民族誌の知見によれば、野牛は視覚能力に劣るが嘆覚に敏感なので、狩猟者は風下から 追うのが定石だという。コロラド州東部のオルセンチュバック遺跡はキル・サイトの古典 的な調査事例で、東西に延びる細い「アロヨ」 (西部の地形で滑れ択)の内部に、長さ50 mにわたって野牛の遺体が高密度で堆積していた。アロヨは東の広い部分で幅が3. 5m、 深さ2m程度のⅤ字形に窪み、北の方向から暴走させられた群れをとらえた。突入方向を 知り得る21頭は、すべて南方(南東から南西)を向き、北向きの個体は無かった。総個体 数は200頭におよび、何層にも堆積していたが、最下層の13頭は全身骨格のままであった。 ハンターたちは底の方まで手をつけることなく、この意味では乱獲が行われた。中間の個 体は部分的に利用され、上層には解体処理の済んだ骨の堆積があった。 発掘者のYHEATは集積骨の内容を分析し、解体法は民族誌の平原インディアンの場合と 同様の手臓に従っていることを認めた。個々の集積骨の点底部には前肢部が遮存するとい うように、同部位の骨が一括して廃棄されており、教頭を一度に処理していった状況が復 元された。バイソンを溝の中で、あるいは平坦地に動かしてうつぶせに転がし、背中から 切り裂き毛皮を剥ぎ、前肢と肩甲骨をはずす。内臓を消費し、舌部を外し(牛タン) 、体 幹部を処理する。後肢を切断し、脊椎を分断し、骨盤、頭骨の臓で、肉を回収しながら作 業は進行した(8) 。 大型動物の狩猟以外に、パレオインディアン人はどのような食料資源に依存していたの かは、実はまだ十分に解明されていない。石器群の地方色は、 1万年前以降の後期になる とより明確にあらわれて、尖頭器タイプは限られた分布を示す地域的な性格を帯び始める。 領域性に関連して、移動と居住の様式に変化をみる解釈もある。また植物質の食料につい ては、後期における石皿・磨石の存在の指摘もある。尖頭器が検出されないと、小規模な 遺跡の編年上の位置付けが困難であるという現実もある。今後の課題といえよう。

移動的生活様式と石材の轟萎済学

次に、彼らの保持していた技術について若干考えてみたい。アメリカ考古学は1960年代 にNey Archaeologyと呼ばれる変革を経験し、 70年代には「プロセス考古学」として発展 ●● した。そのなかで、 BINFORDは考古資料と文化システムの実態との問の橋渡しを意図した、 過去の動態復元のための理論である「ミドルレンジセオリー」を提唱し、具体的な分野と して「民族考古学」の追究を行っている。現在の諸民族の知見を、考古資料の解釈に際し て援用していく立場である。 1969年から中部アラスカのヌナミウト・エスキモーの文化の フィールドワークを行い、その成果を旧石器時代研究に応用を試み、賛否両方の論議を巻 きおこしている(9) 。 「技術的組織」 (Organlzatloh Of technology)の概念はその中で

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提示された考え方で,石器製作を含む技術体系は、各構成要素が有機的な関連をもって構 造化されているのであり、人間集団や機能など限定要因を単純に捉えるべきではなく・総 合的に考察しなくてほならないというものである(10) 。ここでは、 BINFORD理論の影響 を受けている個別研究から、パレオインディアンの石器群をめぐって、技術的組織に関連 する側面を若干見てみたい。 石器製作技術システムは、大型動物を主要な食料資源とする生活様式を継続していくた めに必要な諸条件を具備していた。移動生活における主要な課題に、モノをいかに必要な 場に確保するかという問題がある。いわば「物流問題」のはじまりであろうか。パレオイ ンディアンの後半になると、広範な土地のなかにある程度、回帰的に利用する地点をもち・ 移動にもある種のバターンができていたと考えられている。 FRISONによって発掘されたフ ォルサム期のワイオミング州ハンソン追跡は.ロッキー山系の支脈の山掛こある。焚火の 痕跡を伴う数センチ以下の薄い生活面が、河川性の砂層にはさまれて何層にも分かれてパ ックされ、 600年間の長期間にわたる集団の回帰地点であったことが知られる。浪跡は石 材原産地に立地しており、石器製作に最適のチャートや石英岩の岩塊が、中生代白亜期の 累層のなかに含まれ、浸食により何カ所もの産額として存在する。ところが石材の原産地 でありながら、ハンソン遺跡では石材の使い分けが行われていた。フォルサム型尖頭器の 製作には、約20km離れて産する赤黒色でより良質のチャートを多く使用し、粗型の半製 品の形で持ち込み、ここで完成品に仕上げて、その槍先自体は移動の際に持ち去っていっ た。最終工程で生じる溝状の小剥片が相対的に多数出土している。長距離の遊動生活のな かで、装備の補修や必要な入替えを行なうサイクルがあったことが窺われる。パレオイン ディアン文化の遺跡で、百数十km以上も離れた遠隔地産の石材製の石器が出土すること は通例である。 両面加工の石器である「バイフェース」 (bHace)は、表裏から順次薄手の剥片を剥離 する券種であり、後世までグレート・プレーンズの石器製作の伝統における重要な要素で あった(図2) 。バイフェースは、それ自体が耐久性ある厚い刃部を有する利器であると 同時に、それから非常に薄い剥片を製作する石核でもあった。剥離された石片はそのまま で、あるいはさらに調整加工が施されて、別な石器として機能するわけである。バイフェ ースは、従って次第に小型化していく。このような複合した製作システムは、麻材の重量 を節約するという面で、たいへん優れたものといえる。ハンソン遺跡では、バイフェース は初期工程の製作が多量に行われていて、ある程度整形がなされた段階で持ち出されてい る。岩塊の石質は外部から完全に把握できるものでなく、また初期工掛こおける剥離作業 の失敗の危険性も存在する。石材を事実上無限に供給できる場において、可搬性のある装 備の一部として適切な状鰻まで加工する、すなわち石器製作時に必然的に生じる原石のム 夕も、この地に一緒に置き去っていく行為と評価できる(lNGBARによる。 ll) 。移動民族 の生活様式に非常に適合した技術の組織化がなされていたといえる。 前述のミルアイアン遺跡において、野牛ハンターたちは石材を差別化して使用している。

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遠隔地産の良質のチャートはバイフェースや、エンドスクレイパーなど定形的な石器、す なわち一定の装備(狩人の「道具箱」 )として機能しているが、それと朋Uに、現地で収 集可能な粗惑な珪質泥岩や珪化木塊臥形態も一定ではない粗雑な石器に加工し、使用後 に廃棄されている。 BINFORDのいう技術的組織における「管理的技術」と「便宜的技術」

(curated and expedlenHechhOlogles)の原則にあてはまる事例といえる。筆者の使用痕

観察によれば、良質の石器の刃部録辺摩滅に何段階もの程度差が認められる。これは再加 工を加えて使用し続けた結果と考えられる。あるエンドスクレイ/トを見ると・掻き取り に用いるべき掻器刃部が、逆に鋭いまま新鮮さをとどめる。これは素材の剥片の段階で人 々と長期の旅を共にし、この地で刃に加工を受けた結果であろう。重要な装備は温存し、 間に合わせの道具ですむ作業はその場の材料を活用した例臥BAuFORTHが使用痕を分析し たテキサス州ラボック湖遺跡(8, 600-8, 300年BP)でも認められる。現地産珪質石灰岩の 草刈り用石器と100km以上の遠隔地産石器(瑠璃ほか)が分化した状況が確認された。 若干の例を紹介したが、石器製作技術にも経済的要因があって、それは生業の内容や居住 地移動のパターンと緊密に結びついていたのである。技術と臥合理性を含むがゆえに「 技術」なのである。

l日石暑旨時代の終鳶

人口密度が希薄な新天地の環境変動のなかで、後期旧石器時代に確立された計画件と技 術的軌織に支えられた、移動を常態とする居住様式を維持し、集剛ま生存し人口は増大し た。年や季節による振幅のある不安定な資源に対処するのに、狩猟採集社会での通則とし ては、近隣集団とのネットワークが万一の保障になっているとされる。しかし、パレオイ ンディアンの場合臥広大な地理的範囲の移動が可能であるというシステムが、ある種の 生活の安定をもたらしていたと考えられる。集団間のテリトリーの維持に厳しさは少なく・ 理論的に先史時代文化変化の大きな要因とされている、人口圧の問題はまだ深刻ではない 段階だったのではなかろうか。 TODDが指摘するように、生業活動において・やがて何をど のように行なうべきかは、集団ははっきりと認識していたけれども、それをどこでいつ行 なえるのかは未定であるという生活様式と、種々の技術の体系は整合性を持っていたので ある。 大型動物狩猟民としての繁栄臥しかしながら一時的なものであった。所与の灸件に恵 まれた下での、適者の「高度成長」は、逆に資源の過剰殺教の方向へと向かう要因をはら んでいた。気候温暖化の進行の中で、生態系のバランスはどのようなプロセスを経たので ぁろうか、とにかく大量絶滅が起きた。バイソンはその中を生き延びたが、乾燥した草庭

により適応した小型の現生種(Bison bison bison)に姿を変えていた。パレオインディ

ァン文化もやがて終悪を迎えた。北米での更新世直後という特殊な状況での環境に適応す ればするほど、それゆえに、時代の転換の中で消え去る運命が、この生活様式を待ち受け ていたのである。世界的にみて、旧石器時代の終末は12, 000-10, 000年前頃であるが・北

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時代の落日であった。パレオインディアンの子孫たちは、アルカイック期(古期)と呼ば れる生活様式を確立していくことになる。それぞれの地域の小環境ごとに、中小動物と植 物質食料を含む資源をたくみに、季節的・多角的に組み合わせて利用していくという、新

しい世界にふさわしい新しい採集狩猟文化の誕生であった。 文献

(1) G.C.PRISON: Prehlstorlc lhlhterS Of the High P]alhS, 2nd ed・ Acadenlc press (1991); J.D.Jennlngs ed. : AhClent North Anerlcans・ Y・H・Freenan .. & Co. (1983)

(2) D.I.NELTZER et al.: On the PIcisLocene Antiquity oE Wonte Verde, Southern Chile.Amerlcah Antlqulty, yol.62, pp.659-663 (1997)

(3) G.C.FRISON: The NHl Iron SHe. Unly. oI NeyNexico Press (1996)

(4)阿子島香:実験使用痕分析と技術的組織.東北文化論のための先史学歴史学論

集. 27-53頁(1992)

(5) C.C.PRISON: Experlhehtal Use of CIoyls Yeaponry and Tools oh Afrlcah

ElephahtS. AmerlcanAmtlqulty, yol.54. pp.766-783 (1989)

(6) G.C.PRISON 良 LC.TODD: The Colby Na仙Oth Site. Unlv. of Ney Wexlco

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(9) lJ.R.BTNFORt): ln Pursult of the Past. Thanes and Iludson (1983)

(10) L.R.BINFORD: Qrgahlz,atlon and ForDatlon Processes, Looking at Curated

Technologles. Journal oE Anthropological Research, vol・35, pp・255-273

(1979);阿子島香:石器の使用痕.ニューサイエンス社(1989)

(ll) E.E.INGBAR: The Hansom Site and Folson on the Northyestern PlalhS・

in 'Ice Age Hunters of the Rockles', D.I.STANFORD and J・S・DAY eds・ Uhlv・ press of Colorado. DP.169-192 (1992)

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図1文中の適跡の位置。アメリカ合衆国内の遺跡を示してある。人類はベ-リンジア平 原からアラスカを経て、 「無氷回廊」を通りロッキー山脈東方に至った。 1万1500年前に 拡大した尖頭器文化は、 1000年以内に急速に南アメリカ南端まで拡がった。 -●ヽ

∈≡≡≡≡⊆≡き

図2 両面加工の石器。大平原地域の移動生活のなかで、この器種は後代まで重要であっ た。ワイオミング州マッキーン遺跡、アルカイック中期(5000-2500年前) 。ワイオミン グ大学所蔵、左長さ10.2cm。

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社会構造の復元とモデノレ

ー佐藤氏へのコメントに代えて-工 データの中に内包されているが、直接に自明なものとしては必ずしも表れてこない当時 の社会の諸様相の実態を,どのような方法で実証的に明らかにしていくかは、国内外を問 わず現在の旧石器考古学の大きな課題であろう。人類学において社会構造の分析とは、親 族名称を含めた親族組織の実態研究、親族の構造論的研究と不可分である。また社会構造 そPものが考古学的な資料の形成に直接関わるというよりも・社会的な紐帯を有する集団 の諸活動というレベルにおいて、考古学的な資料パターンの形成に間接的に関与するもの であるという位置付けができよう。従って、佐藤宏之氏も論じるように、人間集団の行動 様式の復元のなかでも考古学的な資料形成に相関の強い側面にまず着目し、そこから社会 構造の在り方にアプローチしていくという手順は、非常に妥当な方向性であり賛同したい。 具体的には、氏が取り上げているように、石材の受給・個体別資料による遺跡聞連鎖・土 地を占有する「テリトリー」を前提としない「活動域」概念による土地利用等の、集団の 居住と移動の様式をひとつの基軸として考察を進めていくことになるだろう。各遺跡地点 における生業活動の実態および人間集団の活動の季節性の解明は、大きな手掛かりとなり 得るが、この面では資料的に非常に恵まれた状況にあり分析も高水準であるヨーロッパ等 での成果との、比較研究の視点は一層重要になってくると考えられる。 このような分野の研究では,モデルの具体的内容について、実際の考古学資料とのフィ ードバックをどのようにすすめていくか、十分な検討を繰り返していかなければならない。 モデルは実際の資料による倹証が可能な形で提出されなければならないし、成果が蓄積さ れていくものでなければならない。仮説として出されるモデルが、 「そうかもしれないし そうでないかもしれない」という状況を続けるなら、本来モデル概念が果たし得る役割を 疑わせることにつながりかねないであろう。佐藤氏の項で取り上げられたビンフォードに よる「フォレイジャー対コレクター」もひとつの類型モデルである。民族誌的現在の地球 上の狩猟採集諸民族について、居住と移動の様式と環境条件との法則的な関係を、生業活 動での規定的要因を通じて、因果的に理解しようとしたものである。非常な多様性に富む 狩猟採集諸民族の行動様式の変異を、対照的な二つの類型を設定することにより各々を位 置付けていくという、いわば「理念型」的なモデルといえる。モデルとして重要な点は、 それぞれの類型に従う集団が残す考古学的な遺跡の内容はどのような特徴を有するのかと いうことである。遺跡の種類における多様性の程度はどうか,遺跡構造の内容にそれぞれ どのような特徴が出てくるのか(例えば大規模な包含層は内的に有機的構造を持つのか, 類似する小部分の繰り返し的な重複堆積物であるのか)というように、モデルでは具体的 に述べられていなければならない。佐藤氏は、 ⅠⅤ下層段階にかけて、フォレイジャーから コレクターへの転化を想定しているが、その仮説を検証可能なものにするには、各類型で

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の考古学的な特質が、明示的に遺跡(群)の属性の上での傾向として示される必要がある。 工Ⅰ 人間集団の行動様式モデルと検証手続きの問題は、プロセス考古学の方法論体系の中で も中心的な課題だったので、ここで若干学史的に振り返ってみよう。かつて「ニューア-ケオロジー」が提唱された当初に、ビンフォードは、文化システムは諸要素が有機的に内

的に整合した統合的全体を形成し、全体として環境への適応手段(身体外的適応の体系-extrasomatic adapHve system)として機能しているとの観点を明確に述べた。それ故に

データの中には直接的に見えない様々な文化特性(ないし特性複合)の性格も、物質的な 資料に残された構造の中に読み取ることは可能であり、研究の実証性を何ら損なうもので はないとの立場を強調した(Bihford 1962. 1968)。 文化特性等を技術的・社会技術的・思想技術的という3レベルに分離し、文化の統合性 を根拠に「下位から上位へ」すなわち物質資料に直接残存しにくいレベルに考察をすすめ ることをかなり楽観的に主張したのであった。この論が立脚した文化パラダイムは、レス リー・ホワイトの文化進化論(文化人類学での「新進化主義」 )をはばそのまま受け継い だものであった。ビンフォード自身も、ミシガン大学での院生時代にホワイトに学び強い 影響を受けたのであったが、極めて文化唯物論的な性格の濃厚な文化観を一貫して継承し ている。 手続き的には、科学哲学にいわゆる論理実証主義者(posltlvlst)の立場で、仮説を検 証していく方法を提唱したのであったが、すでに60年代にこの立場の問題点が問われるこ とになった。イギリスにおいてデビッド・クラーク(Clarke 1973)が問題にしたように、 考古学的な資料のパターンが認められても、それを当時の文化システムの脈絡においてど のように読み取るのかの基準が欠落しているという、方法論の上でかなり本質的な問題点 であった。過去の文化システムの内容をめぐる仮説から、検証可能な形で演辞的にデータ のパターンを予測し、次いで実際の資料に戻り検証していくというフィードバックの手続 きのなかで、データと仮説とを結びつける基準、すなわち静態である資料と動態であるシ ステムの性質とを結合する基準が十分ではなかったのである。この点は考古学という学問 分野に特有である未解決の問題として残り、次第に「演辞的な仮説検証法」の立場をとる 論は少なくなってしまったのである。 ビンフォード自身は、この問題をむしろ積極的に認識して「意味付与の問題」 (meatling assignment)あるいは「解釈の問題」 (Interpretation)と呼んで、仮説検証法からミ I ドルレンジセオリーの提唱へと、大きな方向転換を行なった。システムの動態と資料の静 態とを結合していく方法を具体的に進めていくために、文化が動いている状態とその後考 古学的な資料に転化する段階とを、研究者が両方ともに観察できる状況において基礎的な 研究を蓄積し、法則性を明らかにしていくという研究戦略を、 「民族考古学」として打ち 出したのである。民族考古学はその後欧米において大きな研究分野として確立したのは周 知の通りである(阿子島1991) 。

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今次の研究会での各論は関東地方で蓄積されたデータをどう解釈していくか、さらに論 議を進める上で意義深いが、随所にプロセス考古学への接近が認められる。その意味でも、 第3部での課題の焦点のひとつである石材調達の意義をめぐって、モデルと資料という上 記の脈絡に関連して、どのような前提が問われるのだろうか、若干の指摘を試みてコメン トに代えたい。 (1)遺跡における文化居の厚さは、均質な時間の経過を意味しない。堆積層の量を年代で 除して一応の時間当たりの数字は出るが,それぞれの生活痕跡は考古学的には瞬間とも言 え争経過時間である可能性を謎歳しなければならない。例えば義援資料ではあるが、宮城 県の薬莱山蕗での接合資料(山田・藤村1991)が示す同時性は、長期的に均質な経過時 間の集積が遺跡群であるという前提を否定する。時間経過は連続的ではなく、離散的と考 えられるのではなかろうか。 (2)地域におけるセトルメントパターンの検討に際し、遺跡群の分布は同一集団が残した ものか、石器組成が相違する場合など特に問題とされるが、 「同一集団」という概念の内 容を上記(1)を考慮し考え直す必要があるのではなかろうか。同じ集団かどうか、何年離 れての回帰であるのかという場合、実際に顔が同じ人々というよりも、同様な生活様式の システムを継続する人々という意味で、モデルのなかでは考えておくべきであろうか。直 接系譜上にある個別の人々かどうかはさておき、同様なセトルメントバターンおよび遺跡 内容を残す生活様式が続いた結果、現在の考古学資料が集積し,その一部がデータとして 存在すると考えられるであろう。 (3)文化的適応システムの内容を考えるに際して非常に有力な手掛かりは、人間集団の移 動性と季節性であろうが、動物追存体資料のほぼ完全な欠落は、我々に諸外国の追跡の状 況を垂港の眼で見させる。逆に、石材環境の問題は、この脈絡においてもきわめて重要で あろう。石材がどこから来たかは、集団の移動・回帰のルートに関わる本質的な情報を含 んでいる可能性がある。どちらへ移動していくかが計画的な行動様式である場合、石材の 移動のパターンに、集団移動の情報が内包されることは十分考えられる。ピンフォードの 言う「埋め込み戦略」 (e血bedded strategy)の場合と、集団間で石材が流通する場合とで は、モデルそのものが相違してくるが、両者の場合ともに考古学的な結果をモデルに導入 していく方向が必要であろう(例えばフォール・オフ・カーブの在り方など) 。 (4)石材受給の検討に際しては、分析の基本単位を小さく設定して考えたほうが、人間活 動という脈絡のなかで解釈していくことにつながるのではないだろうか。 (3)の点を踏ま えて、人間活動をできるだけ微細なスケールで捉え得る単位を対象に考察していくのが有 効であろう。ブロックないし、その空間的な一部分を単位として、石材環境を考えていき たい。また、剥片生産技術上での変異、素材のサイズの変異、再加工の程度や残核のサイ ズなど石材利用の集約度(換言するならどれだけ徹底して石材量の潜在的価値を活用する か)も、同様な観点から細かい単位で考察を加えるべきであろう。集団の回帰などの要因

参照

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