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3 マ ドレ‑ヌ文イヒの適応戦略
西ヨーロッパ旧石器文化の最終段階であるマドレーヌ文化は、生業経済・居住様式・追 跡構造の三者を関連させていく研究の試みの中で、近年ひとつの焦点となっている。約17 000年前から約11000年前までにかけて、スペイン北部(カンタブリア)とフランス南部を 中心に、スペイン東部(バレンシア)から、フランス北部、ベルギー、ドイツ中部・南部
・東南部(Yenlger 1989)、スイス、モラヴィア、ポーランド南部に至る、広大な土地に展 開していた文化を総称して呼んでいるわけである。確かに、石刃技法を基盤としながら小 型化が進行して、小石刃が増加し、背付きの小石刃【backed bladelet】がトウールとして
数的に卓越し、一部は投射具の形態に調整され、双面彫刻刀など各種の彫刻刀とエンドス クレイ/トを伴うという石器文化としての共通性がある。また、骨角製錬先が豊富で、可 動美術が隆盛し、大形獣の集約的狩猟を生業の中核にするという特徴も基本的に共通する。
フランコ・カンタブリア美術の栄えたフランス南部からスペインにかけての地域(図1) が、レ・ゼジー村の北北東5 kmにあるラ・マドレーヌ岩陰にその名を取るこの文化の典 型とされる。
しかし年代的には開始と終末のそれぞれに地域差が認められ(Straus 1987a. Otte and Keeley 1990) 、また石器群の様相にも、技術基盤(北部での、より長大な石刃の存 在など).石器組成(背付き小石刃の比率、短形エンドスクレイ/トと彫刻刀の割合、幾 何形細石器・アジル型尖頭器などの共伴)に多様性を含み,かなりの地方色を有する石器 文化として捉えていくことが必要である。生業経済についてみると、各地域での相違は相 当に顕著であり、ウルム氷期の極相期直後から氷河後退期にかけての環境変化、続いて約 13000年前以後の激変の中で、文化的適応システムが実際にどのような様相をみせていた か、地域間の比較は理論的にも非常に興味深い問題である。
[環境変動の中でのマドレーヌ文化の位置】
最終氷期の最盛期の問、 20000年B.P.から17000年B.P.までにかけては、ヨーロッパ北西 部と北部中央地域での遺跡は事実上認められず、 17000年前以降まで無人の地域が多かっ た。北東部では,ドニエストル川中流のコールマンlV遺跡で18600‑18000年前、モロドヴ アV/Vl遺跡で16700年前など、東方グラヴェット文化(Eastern Grayettlan)が継続して
いる。氷河後退後に北西部、北部中央地域へ「再植民」がなされ、例えばイングランドの
ケンツ・カヴァ‑ン(洞窟)で14200年前、南ドイツのシューセンケールで14100‑13000 年前、ハンブルグ近郊のマイエンドルフで最古ドリアス気候期の居住が確認されている
(Gamble 1986:205) 。
氷期極相期の西ヨーロッパは、ソリュートレ文化が主になる時期であり、マドレーヌ文 化はその直後からの所産であった。マドレーヌ文化は、その後半にあたる氷河後退期にお いて、人類の北への再適応の諸様相をよく示すわけである。寒冷期にフランスの南半分か らスペイン北部は、いわゆる人口の「避難地」であり、壁画美術の隆盛を含めて,文化の 進化の考察には全ヨーロッパ的な視点を必要とする(Straus 1991)。マドレーヌ文化期の 適応様式については、その分布嶺域の北半の地方と、南半の地方での地域性を見逃しては ならない。
北半の地方では、隣接する諸文化との生活様式の類似が指摘されている。東には、東方 グラヴェット文化とそれに後続して続グラヴェット文化の地域がある。北には、無人期の 後に、背付き小石刃を有し、それぞれ各種の有府尖頭器、ツインケン(先端部が傾斜する 小型の石錐).ベンナイフ形尖頭器、有舌尖頭器で特徴づけられる諸文化が広がる。ハン ブルグ文化(北ドイツ) 、フェダーメッサー(ペンナイフ)文化(北ドイツ) 、ア‑レン スブルグ文化(北ドイツ) 、チョンゲル文化(ベルギーとオランダ) 、クレスウェル文化
(イングランド中部) 、タルノヴィアン文化(ポーランド)などがある。イングランドで は、断片的であるが有肩尖頭器の存在など、マドレーヌ文化後乗との類似が指摘されてい
る(へンジストベリー・ヘッドなど【Canpbell 1977 日。ドイツ中部と南部、スイス
ではマドレーヌ文化期の後半になって継続的居住がなされるようになり、より北方の地域 との関係が、人間集団の長距離移動を含めて論議されている。南半の地方ではマドレーヌ 文化は、その前後する時期と、石器文化の連続的性格が指摘される。アジル文化との問に は、かなり連続性が認められる(背付き小石刃、アジル型尖頭器、短形エンドスクレイパ ー、アカシカに重点を置く生業) 。
北半での適応という面では、広大な「北部ヨーロッパ平原」 (現在の海面下をも含む) に進出した集団を含め、高度に移動的な居住様式が広がっていたとされている。広範囲に わたって環境的に均質な状況において、トナカイという特定の狩猟対象に重点が置かれた 生業形態である。南半では、環境的に多様な場所が、比較的狭い地域で利用可能であると いう地理的条件があり、また狩猟対象はより多角的である。トナカイ、アカシカ、ウシ科、
ウマといういわゆる4大・大形獣資源(Gabble 1986:104‑9)の組合せと、それらへの戦略 が問題となる。後述のように季節的移動、拠点への限定的定住、多様な微小環境への適応、
集団頼域の問題などが論議の焦点となっている。
氷河後退期(Tard卜glacial period)の気候変動は、 3度の短JgJ的な寒冷期を経て温暖 化したことが知られ、オランダ、デンマーク、北ドイツでの泥炭の花粉帯に従い、第1 ( 最古) 、第2 (古) 、第3 (新)ドリアス気候期と呼ばれている。第1ドリアス期は1300 oB.P.頃より以前、ベーリング期は約13000‑12000B.P.、第2ドリアス期は12000‑11800B.
p‥ アレレ‑ド期は11800‑11000B.P.、第3ドリアス期は11000‑10000B.P.で、続いて
プレボレアル期となり、完新世に移行する。ベーリング気候期とアレレ‑ド気候期は、亜
間氷期(interstadlal)であるとされる。 13000‑10000年前は、また晩氷期(Late
Glacial)と称される。西ヨーロッパにおける終末期の旧石器時代文化層は、この気候期
区分との対比で位置付けられる事例が多い(Gamble 1986:94‑5, 20517) 。またマドレー
ヌ文化の終末以後も、様々な面で旧石器時代的な性格が濃厚であることから、新石器時代 の開始までの問を「続旧石器時代」として区分している(竹花1994) 。
[ドイツにおける長距離移動説]
北ヨーロッパ平原に人類が再進出した時期に遺跡を残した集団は、どのような適応を遂 げていたのだろうか。ハンブルグ周辺のマドレーヌ文化後期から終末期並行の遺跡群は、 ・ 遠く商ドイツとの問で定期的に移動を行っていた集団が残したとする大胆な仮説が、スタ
ーディによって提起された(Sturdy 1975) 。長距離の移動は片道600kmにおよび、主
要な食料資源であったトナカイの群れの移動に合わせた季節的なものであったとする。ト ナカイの角の成長と落下には季節性が明確であることに注目し、エルベ川下流の北海沿岸 にある遺跡群と、ドナウ川上流.ライン川上流、およびスイスの諸遺跡を比較し、大きな パターンを認識した。鹿角の数カ所の径、スポンジ質と硬化部分の差、根元の状態などの
観察と計測から、季節を示す資料を文化層ごとに量的に捉えた。成獣オスでは、ベルベッ トの発達(3月)に始まり、角の生長(6月)、叔元からの硬化と内部への級密化(8月)、落 角(11月)に至る年周期がある。可能性はどの範印なのかを同定するので、例えば成獣メス で完成した角を持ち殺された場合、 10月から4月の問のどこか、というようになる。
ハンブルグの北東約20kmにあるシュテルムール遺跡はア‑レンスブルグ文化期である が、 1241点の鹿角を分析した結果は、秋季の狩猟が主体をしめる。夏の問の居住を示す例 は希少である。落角しようとしているオスの存在から、 10月には居住していたことがわか る。大規模な狩猟は秋に行われた。若干は春に狩猟され、また冬に死んだ個体もある。こ の地方では夏の問トナカイはおらず、おそらく冬季のえさ場であり、秋の草地にトナカイ の群れが移動してきた時、人間集団もそれを追ってきたとする。
一方、南ドイツの高地地方(シュヴァ‑ベン山地の周辺)では、夏の痕跡が認められる。
トナカイ骨の量に比して角の出土が少ない保存状況は,角がまだ柔らかい季節を示唆する。
得られたデータは、 4月から5月、および6月から9月が多い。 10月中旬から11月中旬を 示す1本は落角で、骨角器の材料に持ち込まれたものか。ドナウ川上流でチュービングン 東方のシューセンケール遺跡では、夏を中心とする。特に8月から10月中旬の問に多くの 可能性が重複するが、 6月から10月中旬まで居住されているとすれば、同定された鹿角全 体(25点)を説明することができる。
ドイツ中部では,ライン川中流地域のヴィルドシュア遺跡(ゲナスドルフから束に約40 kmの山あい)に、春の居住の事例があり、 4月から5月中旬に集中を見る。 8点中6点 がこの特定の季節で、あと2点も5月中、 9月から冬を経て5月までの問で、この鞄朗に は含まれている。
層位によって季節が相達し、その解釈に気候変動との関連も考慮される遺跡として,シ ュヴァイツェルビルドをあげている。追跡はシュヴァ‑ベン山地とライン川上流の谷との 間にあり、標高472mで中間的な立地である。 4眉は夏季を示し、 5層は冬季を示す。冬 季の層はアレレ‑ド気候期すなわち、やや温暖湿潤な時期であり、夏季の層は新ドリアス 気候期すなわち、寒冷な時期に形成された。また、ボーデン湖の西岸に近いぺテルスフェ ルス遺跡(標高600m)での鹿角パターンは、秋季の8月中旬〜10月未. 10月中旬〜11月 中旬、秋〜春の10月〜4月のそれぞれの可能性のものが併存している(ただし戦災による 一部資料の散逸がある) 。さらに南方のスイスでは、コンスタンツ地方(ライン川源流地 帯とボーデン湖西方)の諸遺跡で秋から冬を示すが、一部夏の居住のデータも存在する。
気候変化の要因もあろうが.夏・冬ともにトナカイの生息が推定される。
トナカイの生態は地形・環境の影学が大きく、移動は短距離であり得ること、ドイツ各 地域内部でのセトルメントパターンの変異性(遺跡規模と内容の多様性)を十分考慮して いないこと、ゲナスドルフのようにウマが主要な食料資源である遺跡を説明しないことな ど、批判も受けている仮説(Yenlger 1989:353‑5)であるが、マドレーヌ文化期後半にお けるトナカイの重要性を強調しているわけである。コケ類(llckeh)を求め、また冬季に