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2 西ヨ‑ロツノi後期l日石暑旨時代の追跡構造
研究の動向
[古民族誌学の隆盛]
ルロア・グーランがバンスヴァンでの画期的な方法的試みを開始したのは、 1964年であ ったが、年令は50台初め,ウシ科とウマを二元的原理とする洞篇壁画の主題と配置を集大 成した研究をまとめあげ、アルシー・シュル・キュールでの調査が一段落しつつあった時 であり、不世出の巨人と評される(山中1987)彼自身にとっても研究内容の転機が訪れ ていた頃である。プレジョンとの共編になる2編のモノグラフ(Lero卜Gourhat) and BrとZ‖Joh 1966, 1972)は、以後のフランスのみならずヨーロッパ全体の、旧石器時代の 遺跡研究法に範例として君臨することになった。
河川性の泥土堆積物で覆われ、重複する微細層位によって、短期のキャンプ痕跡のよう な単一居住面を分離することが可能な条件の下で、徹底した遺物の点取り、動物遺存体の 轍密な分析、剥片類の母岩への分類と接合、個体別資料の技術および分布の分析を含む手 法が確立された。その意義とその後の展開については、山中(1984. 1992)の要を得た紹 介を参照されたいが、ここで改めて強調したいのは. 「eplsode‑orlented」 (事件志向的)
という側面である。その後にバンスヴァンでの方法を踏襲して、綿密な平面分布図をもと に、そこで何がなされたかを究明する試みが、恵まれた堆積状況をもつイル・ド・フラン ス(パリ盆地周辺の地方)のいくつかの遺跡で続けられた。ヴェルベリー(Audouze ct a 1. 1981) ,エチオルなどが代表的であるが、追跡の内部のそれぞれの「場」での人間活 動を、理想的には次々に生起した一連のエピソードとして個別に復元していこうとする志 向が顕著である。実際には、時系的連続は把握し難いことから、発掘区内を空間的に分け てとらえて、設定されたいくつかのゾーンにおける活動の種類を,石器製作、皮革加工、
調理のように特定していくことになる。
バンスヴァン第1居住地の報告で(Lero卜Gouhrah and Br色各日loh 1966)、隣接する3基
の炉はそれぞれ上屋を有し、おそらくテントが連接していて入り口は3つに分かれていた とされた。それぞれのテント内部と入り口は、遺物分布で捉えられるゾーン(炉の活動空 臥内部の掃除の及ぶ分布希薄部分、モノを寄せる周藤、投げ捨てる外価)を有する。さ
らに36地区の報告で、入口の炉(A)から内側(Bl) 、外側(82) 、奥(C) 、外方へ(D, E, F, G)と、住居空間周囲の機能と遺物の分布がモデルで提示された(Lero卜Gouhran and
Br色zlllon 1972:254) 。この解釈はつとに有名となり、我が国でも旧石器時代の住居の 典型として、しばしば紹介されてきた。
バンスヴァン第1居住地の解釈についてのビンフォードの異論(Blhford 1983:156‑159) は、隣接する炉2と3は住居ではなくて屋外作業の場であり、風向きの逆転による人間の 配置の転回と、それに伴う遺物の分布差を示すというものであった。その根拠はヌナミウ
ト・エスキモーの狩猟の見張り場であるマスク遺跡での、炉の周囲での二重ドーナツ形の 分布(ドロップゾーンとトスゾーン)との類似である。その後、カーは第1居住地につい ての両者の解釈の差が、どういう相違から生じているか詳細に検討を加え、内在する方法 論の差を明らかにしている(Car一 199日。ビンフォードはまずモデルを明示的に提出して、
それに対比するための限られたデータだけに着目するのに対し、ルロア・グーランらはあ らゆるデータを相互依存的にまとめて推定事項を決めていくが、各々の収拠は陰示的な場 合もあることを指摘し、それぞれに補完的な方法であるとする。カー自身は、第1居住地 はなんであったのかについては早急な結論を避けて、並立仮説を整理し、事実を項目ごと に見て、両仮説に対してそれら個別の事実が、肯定的か否定的かあるいは中立的かを考え ていくという方向を提案している。妥当な方向性であろう。
ルロア・グーラン自身は博識の民族学者でもあり、エスキモーの生活様式を熟知してい たが 3)、ピンフォードと違って民族誌と遺跡の資料とを直接的に結合していくことには 禁欲的なまでに慎重であった。しかしその方法は、過去の民族誌を実証的に復元したもの
として位置付け、 「古民族誌学」 (Palbo‑ethhOgraPhje) 、 r古民族学」 (Pal色0‑ethn0‑
logie)、あるいはr先史民族学」 (F.thnologle prthisLorique )と呼ばれている。
[事件志向と痕跡重複の問題]
方法的には金属顕微鏡を用いた高倍率の使用痕分析を導入するなど、先端的な追究が重 ねられた。 「キーリー・メソッド」などと称される使用痕分析法は、現在広く行なわれる ようになったが、遺跡の構造分析と有機的に見事に結合されたのは、ベルギーの中石器時
代のメ‑ア遺跡が最初である(Van Noten ed. 【19781, Cahen and Keeley 【19801, Cahen.
Keeley, Van Notem 【1979】) 。
メ‑ア遺跡では、 4箇所の石器集中部の性格がそれぞれ推定され、器種が豊富な活動の 焦点であり、北半で乾燥皮なめしが、束半で骨角加工が行なわれた居住の場、石器の廃棄 の場、持ち込みトウールの存在も認められる石器製作の場、炉の周囲での骨角加工の場と された。母岩ごとの分布と微細石片の分布を組合せ、トウールを含む接合資料での使用痕 から活動場所と移動にひとつの基準を与え、刃部再生剥片から持ち出された石器を推定す るなど、異なる種類のデータを相互に組み合わせることがいかに遺跡構造の解釈に有効で あるかをはっきりと示したのである。また石器型式は流動的なものであって、ペックから 彫刻刀、再びペックへの変容と、そのつどの使用と複雑な刃部再生が接合資料から知られ るなど、石器の婆の変形論についても興味深い指摘があった。同一母岩の8点のエンドス クレイバーが乾燥皮の掻き取りに使われ、摩耗以前の状態で廃棄された例のように非常に 具体的な人間行動の姿が提示された。
使用痕分析ではそれぞれの石器が、何に対してどのように用いられたのかが明らかにさ れるので、文字通り個別の行動を復元することになり、エピソード重視という方法と強い 整合性を有していたわけである。バンスヴァンでも、モスは36地区を中心に第1居住地、
17、 18、 27の各地区から選択的に129点の石器を観察し、各点ごとの機能推定に取り組ん
だ(Moss 1983:108‑144) 。ニューカマーは、モスと共同して投射具の使用実験などを行 い、背付き小石刃に認められる先端部の衝撃剥離痕と縁辺の平行線状痕が認定できること
を明らかにした(Moss and Neyconer 1982) 。
しかし、キーリー・メソッドの限界もまさにこの個別行動の復元を重視するという点に 関連するのである。使用痕に限らず、一般に考古学的記録は重複して存在する。行動とい う脈絡では分離されていても、多くの場合考古学資料としては、重なりあった痕跡として 存在する。使用痕についてみるならば、文化システムの有する技術的組織の性格によって、
重なるべくして重複する痕跡が、キーリー・メソッドでは据えられずに、いわばノイズと してデータから排除されてしまいがちであるという難点は十分認識されていない。
ルロア・グーランらが実践しつつあったr古民族誌学」の方向に対して、その根拠とな っている「生活面」という概念は信頼できないものであるとして、 50年代の研究をリード
したボルドは強く批判を加えた(Bordes 1975) 。ボルドは、ペッシュ・ド・ラゼ、コン プ・グルナルにおける経験(Bordes 1972)からも、層位的に捉えられる一括性を持つ遺 物群を分析の単位として、その内容を集合として認識する立場を取り、微細層位が短時間 の人間行動をかなり忠実に反映するとの前提は不確実であるとして懐疑的であった。偶然 に蹴飛ばされた一点の石核が、人間活動の場の移動というデータにもなり得るといった批 判はともかく、石器群を集合的に認識して文化の「進化」を跡付けていく、また集団を認 識する、石器文化と環境変化との関係をとらえるという、巨視的な視野に立つ研究方向と
の違いが存在したわけである。
微細な遺跡構造に焦点をあてる「Slte structuTeJ分析が主流となるに従い、より大き な文化変化・環境との関係といった視点が各遺跡の分析の中で必ずしも大きく取り上げら れない傾向が見受けられる。復元される個別の行動がどのように生態学的な視点の中に統 合されていくのかが、問われなければならない。ボルドの批判は、そのような点を含んで いるのであり、現在の時点でも見直すべきではなかろうか。
ニース近郊のアシュール文化期のテラ・アマタ遺跡で複数の文化層を越えた垂直的披乱 の証拠がヴィラによって指摘されるなど(Vllla 1982)、生活面という方法の前提に疑義 を差しはさんだ懐疑的論考もあった。しかし、具体的で手に触れることのできるかのよう な人間の「行動復元」という接近法は遺跡構造論のなかで着実に根を下ろしていった。
[パリ盆地のマドレーヌ文化終末期の遺跡構造分析]
さて、バリ盆地においては12000年前以降に、トナカイ狩猟に特化した高度に移動的な 居住様式が展開していた。オードゥ‑ズに従ってこれまでの成果をまとめておこう(Audo use 1987) 。生活面の認識が可能であるマドレーヌ文化終末期の遺跡として、 7遺跡が研 究されている。バンスヴァンとヴィユ・サン・ジャック(近隣) 、マルサンジ(パリの南 東約100kmのヨンヌ川沿い) 、セポイ(パリの南南東約90kmのロワン川沿い) 、エチ オルとレ・タルテレ(パリ南方約30kmで、セーヌ川の対岸) 、ヴェルベリー(パリの北 北東約50kmのオワズ川沿い)である。
生活面のC14年代は次のようであり、ベーリング気候期からアレレ‑ド気候期を主とし ている。なお熱ルミネセンス年代は、 C14よりも2000年位古く出ている。バンスヴァンTV
2 (IV層2生活面) 9840+‑350B・P.、ヴェルベリー10640ト180B.P.、バンスヴァンIV41 0920+‑540B・P.、同11310ト330B.P.、同12300+1400B.P. 、エチオル12000+1220B.P.
(Audouze 1987:185)、バンスヴァン第1居住地10760+‑GOB.P. (Car一 1991:228)
ここでは年代的、地域的にまとまりを有する複数の生活面を合わせ考えて、文化システ ムの適応様式を復元する手掛かりとしている。同一集団であるかはわからないが、継続し た生活様式の諸側面のあらわれと考えることはできる。動物遺存体が豊富に出土して、か
つ炉虻を中核とする「居住単位」 (occupation uhH)が検出されているのは、バンスヴ アン(12箇所)とヴェルベリー(3箇所)である。またエチオルで21箇所、マルサンジで 3箇所、検出されている。標準的な居住単位臥1基から3基の炉牡、炉を囲む活動空臥 石器製作の場、廃棄の場、から構成されている。
これらの遺跡は、川の合流点付近の低地に存在し、度重なる洪水によって、各年の生活 痕跡が微細層位に対応している堆積状況とされる。洪水はおそらく春先であった。バンス ヴァンでは、約2mの泥土中に、 10両を越える生活面が検出されている。追跡問の相違臥 集団の活動の多様性をよくあらわし、季節性を有する周回的な移動様式の中で、フリント の供給や集約的な資源獲得、加工と貯蔵、装備の維持などの諸活動が組み立てられていた
としている。
エチオル遺跡での大量の原石の加工状態は、フリント原産地に近いことからくる技術的 な面をよくあらわす。石刃は通常20‑25cmと長大で、廃棄された残核と放棄された石核 から、素材の更新地という遺跡の性格が知られる(エチオルについて臥森本[1989]の 書評参照) 。各遺跡での接合資料からは、石核の個々の段階における意志決定の連続とし ての「製作行為の連鎖」という概念を設定でき(各段階での労力と結果の計算で意志決定 をする) 、打面再生、転移、稜調整などの在り方を理解できるが、どういう場合に「手を 抜き」 、また捨てるかが捉えられる。石材環境と技術を総合できる視点であろう。各遺跡
とも、石核が最終段階に近づくと、調整がなくなる傾向にある。
フリントは、パリ盆地全域で採集可能とされるが、バンスヴァン、マルサンジで見られ る外来フリント製トウールあるいは素材石刃の単独的出土(外来石材臥多数接合する個 体を構成しない傾向)は、周回のスケジュールに関連する可能性が指摘される。外来石材 には20‑80キロの範囲での方向性があり.エチオルでは東方と西方から、バンスヴァンで は北方と東方から、ヴェルベリーでは北方と南方から、マルサンジでは北方と南方から、
それぞれ由来している。遺跡に再来した方向を示唆する可能性がある。
バンスヴァンでトナカイ角の加工がまとめて行われ、また各遺跡の炉牡に認められる変 異のうち、多量の焼けた漢を伴う大型炉が獲得資源の加=処理と結びつけて理解されるな ど・非定住かつ計画性のある周期的活動が推定される。バンスヴァンの居住季節について は、 36地区で春から初冬までの問の継続あるいは断続、第1居住地で春から初冬までの継