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信州綿内村における山割制度の創始事情

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信州綿内村における山割制度の創始事情 二四

信州綿内村における山鯨制度の創始事情

序 口       む  近世の切割︵入会山林の分割利用︶制度研究上、押割と耕地の割替との関係如何ということは重要な問題点の一つである。 奥田或氏が部落有林野の割替制度についてはじめて全国的な調査を試みられた際に、林野の割替が耕地の割替と共に行わ         れているか否かに留意されたことは適切な判断であるといわねばならない。同氏は調査の結果得た資料に基づいて、 ﹁注 意せねばならぬことは林野割替制度は必ずしも単独に行はる瓦のではなくて耕地割替と共に行はれてるるものも決して少 なからざることである。例へば現存制度に於ては総数二百二十三の中出、既存のもの総数百二十一の中七十三に⊥ってゐ     ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ る。然しこのやうな場合には耕地が主で林野は副たる地位に立ってみるやうである。蓋し昔は採草用の野山は一定の面積 をかぎり、其れに直接する水盤の附属地として取扱はれてるたこともあり、又林野の生産物の価値は水田のそれに比する        と鹸り重要でないのによってもわかる。﹂︵傍点筆者、以下同じ︶と述べられた。上田藤十郎氏は同じく奥田氏の調査をもと         にして、山割実施団体数百九十六のうち耕地割烹と共に行われているもの僅か五に過ぎないのに対し、既に山割制度が廃 滅せる団体数百十四のうち山割実施当時耕地割替とともに行われたものが七十三にも達するということについてであると 思われるが、その原因の一つとして﹁江戸時代においては、山割制度のみを施行した例は少なく、その多くは耕地割替に        も 附随して行われた﹂と述べておられる。奥田氏の所説は後に述べるようにその数字が内容的に見て、果して全国的な傾向

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を推論する基礎資料たりうるか否か、という点に疑問はあるが、同氏が調査された範囲に関する限り一応承服できるひし かし士田町が説かれる所は一見奥田氏の所論に近いようであるがその実内容にかなりの径庭があり、吟味の必要がある。 第一に江戸時代においては区割制度のみが単独に施行された例は少ない、といわれるのはいかがであろうか。奥田氏の研 究において山割が耕地割替と共に行われたとされた七十三例はすべて江戸時代に耕地における地割制度が著しく発達した 北陸地方、すなわち新潟・富山及び石川の三県の事例に限られており、そのうち新潟県が五十三例を占めている。この研         究において新潟県の事例が他府県の事例に比して圧倒的に多いのは、それまでに同県の地割制度に関する中田薫氏や石井     清吉氏の研究が公けにされていたからに外ならない。ところが北陸以外の地方においては、耕地の割替制度が全く存しな いにかかわらず、山割制度のみ単独で施行される場合の方がむしろ多いのではなかろうか。同様に全国的にみた場合、山 岸制度の多くは耕地思寝に付随して行われた、とされる点もいかがであろうか。管見の及ぶ限り、少なくとも江戸時代の 近畿地方において、耕地割替に付随して行われた山割制度はかえって極めて少ないといわざるを得ない。以⊥のことは外        ならぬ⊥田氏御自身が研究された江戸時代における近江の事例についてみても明らかである。しかしながらこの問題につ いては山割が耕地割替を伴わず、単独で実施された事例をあげるだけでは事足るものではなく、両者が並行して施行され た場合について、果して山群が耕地割替に付随して行われたかどうかが明らかにされねばならない。綿内村は山割と耕地 顕著とが共に行われており、それぞれの発生と変遷の事情に関する史料が比較的豊富であって、この点を明らかにするた めの恰好な事例である。そこで小稿では当村の霜割制度が江戸時代に創設された当初の事情について若干の考察を試みる ことにしたい。  さて信州高井郡綿内村︵現在の長野県上高井郡若緑町大字綿内︶は信州北部、千曲川右岸に位置し、近世初頭以来廃藩置県       の       ゆ       て に至るまで須坂藩に属し、同藩一万石のうち常時三千石以⊥を占め、戸数約=†戸を擁する大村であった。淫書の山割は      信州綿内利における山割制度の創始事情      二五

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     信州綿内村における山割制度の創始事情       二六 後に述べるように幕末天保二年︵一八、三︶にはじめて実施されたものであるが、この地方では特に隣接する松代藩領に        ゆ おいて、既に早くからこの制度に基づく心持山林の利用が行われていた。文政三年︵↓八二〇︶の松代藩﹁地押検地掟﹂の 一箇条に、 コ、境内続・祉地続を離れ、村中又ハ百姓入別持山之内江入交後来改之節も、寺社二二之姿茂不相見相分り         ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 証拠も無之上階、古来百姓山留等之節、割余り之場所村中二輪寺社江附置候儀二相聞、御法度千筋二可相世事、付、村並 之通言年貢山二相片付可申事しとあるところをみると、松代藩領内の農村においては古来﹁百姓山雨﹂なることが、さほ ど珍らしくはなかったと推測される。  同じ松代藩領ではあるが、綿内村と同じ高井郡の赤野田村︵現在の若衆町大字赤野田︶は慶安元年︵=ハ四八︶牛嶋村︵現在 の岩髭町大字牛島︶の出入利右衛門・武右衛門及び新左衛門という三人が保科村地内の堀切山と奇妙山が作る谷に引越し開        ゆ 発したのにはじまるという。この村では宝暦十四年︵一七六四︶と天保四年食八三三︶の両度にわたり、近隣数箇村との         入会山の一部が、入会心々の同意と、藩の認可によって赤野田村に分与され、 ↓村限りの内山︵村持山︶となった。これ らの内山がどのような形で管理されたかについては、天保十四年十月保科村より松代藩郡奉行宛﹁返答書﹂︵若穂町赤野田       ︵慶安元年︶ 区有︶に、 ﹁赤野田新田盛儀ハ、先年牛嶋村汐山札三枚分室仕罷越報償申伝、 三唱三枚之親電弍斗六合余言言上納仕、        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 当時五拾軒余論者共勝手二山入締鯖在砿得は、何日而茂差支有之間婦選、奉願左通内山銘々持と相成道ハ・、難渋之者共 、 ・ 、 ・ 、 ・  、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、  ︵歴︶      、 、 ・ 、 、 ・ ・ 、        右目宝暦之度頂戴仕砿内山拓も最初ハ軒別割二而 は為時凌譲渡、手廻り御座畝者共曇声已片寄砿は贈爵之儀二御座砿、 ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 所持仕罷在砿由之所、当時当村を始他村二百譲受置高儀、村内二而も所持不仕老勝二御座畝、右様二砿得は、難渋之者共   ︵獅脱力︶ 言論極渋二及砿は必定事事と奉存砿、既ご天保四巳制御割渡二相裏戸開発場連も難渋之者共は持堪兼、 手廻り有之砿者 方江譲渡認証間々御座砿﹂とある。これによると赤野田村の入会山は当初牛島村から移住した三人分の自由な入山権が宝 暦当時の赤野田村住民五十軒余に対して与えられていたのであるが、宝暦度内山となった分は、これを五十軒余の住民

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      ゆ      ヨ       ロ      げ に対し軒別平等に割当て、 ﹁銘々持﹂としたことがわかる。これらの事情は天保度の場合もほぼ同様であったと思われる         が、ただこの場合は前掲天保十四年﹁返答書﹂に見られる如く、 ﹁開発場﹂であって、開墾を目的とする割山であった。 前掲保科村返答書の文面中、特に注目しておきたいことは山割実施の結果、山林の所持関係に集中と分解が生ずるという ことである。前掲天保十四年の保科村より松代藩郡奉行所宛﹁返答書﹂によると、すなわち内山を軒別割にして村民の銘 々持とすれば、最初はすべての人々が持っているが、一旦難渋した場合、比較的裕福な者に対し、有償で譲渡するため、 益々貧富の懸隔が甚だしくなり、はては他村の住民にまで割地権が移転するに至り、村内にも割山を持たない入が多くな ってしまったという。赤野田村における宝暦度の内山はこうして天保頃早くも殆んど私有地化したわけである。以上は主 として赤野田村の等割について略述したが、文政十年十↓月十四日付馬内村割山芋組惣代より須坂藩取締方言の山割に関       ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ するロ上書︵者穂町禁内上町区有︶に﹁惣郷中一統建山二相出勤ハ、世間之入会草山同様二相成云々﹂と述べられているか ら、この地方では幕末になると入会草山が山畑に付せられることが少なくなかったものとみえる。

二原因と構想

 綿内村の入会草山に山割を実施することについては、既に早く文化五年︵一八○八︶頃から村内にその議が生じていたよ      うであるが、現存する関係文書のうち、最も年代の古いものは文政十年︵﹁八二七︶九月の山斗議定書︵国内上町区有︶で あり、また﹁文政十年♂﹂と表記された名主森彦兵衛による﹁豊山一件諸事書留﹂︵若穂町役場所蔵︶のうち、文政十一年 の項に﹁割山願方願書去亥︵文政十年⋮⋮筆者︶ 一月中御勘定之節、御支配河野弥兵衛様江御蔵二而願書上ヶ砿﹂とあるか         ら、文政十年初頭以降一段と具体化したものと思われる。この山割願は容易に藩当局の許容するところとならなかったも のの如く、文政十年十月以降藩当局に対し、聖画の許可を反復申請した文書の控が残されているが、文政年間には未だ実      信州綿内村における山倒制度の創始事情   、      二七

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     信州綿内村における出制制度の創始事情      二八 施の運びには至らなかった。これらの文書により、綿内村の山割願人達がいかなる理由と構想とを以て山割を願出たかに ついて観察してみよう。  まず山割実施を願出た理由については、文政十年十月二十一日付﹁割山婦人﹂から須坂藩取締方薬口演書︵綿内上町区有︶ に、 ﹁右側遠方心組之者共、又は老弱病身蝋型井後家寡等二謹撰黒黒御田地養二剃用立茸雲砿、勿論一向二引敷薪等苅取 かせき仕解義決二相成回申、且又御存被曝有鉱通り、当村儀は往古より隣村等汐茂格別如何之儀二御座砿哉、家数多分二 有之、其⊥自分持地作り高所持之者共すくなかち畑田、又砿田畑押取単二付、金子二而も多分砿故鰍、 一年度斜角不仕合       ︵精︶         ︵代︶ 二而身上衰微仕砿上目、所詮何様之媚情仕砿共、田畑身体あり付梶儀、曽厚相出来不申似、凡断絶頽転仕砿母型多く只今        ︵節力︶ 歴然二御座砿、右躰故当郎私共義かなり二すきわい居蟹江得々、自然子息を恵あわせ何共甚酌量敷賦存畝、依之向後何 角不仕合二而病患災害等不慮之変難件機翼共、早晩断絶頽転二陥り不申砿様仕度、差当り砿而は、極貧小前之者共井私共 迎も末々迄頽組戸仕砿様、依之小前之者共江は、今日かなりこすきわひ居り砿者より、山割平均二相適合、且頼母敷御百 ︵姓︶ 性永続仕度蘇﹂ とあり、文政十年十一月十四日付割懇願組興野口上書に、 ﹁初催入穿込之処ハ郷中↓同相談納得之上二        ︵姓︶、 、 て割山二相屋宇ハ・、窮民井ケ弱キもの・後家・寡等其事外山遠回御百性平均二相成ほハ・、大小壱同相続之基こも相成 砿業二存込、乍恐御上をも不恐此華客申出砿﹂と述べられている。また年代不詳であるが、内容からみて文政末年のもの と推定される山型願書︵綿内上町区有︶に、 ﹁綿内村入会草山之儀、是迄年々五月中之節汐十日已前二山之口明、草苅敷二       ︵精︶ 致、夫汐後は年中勝手次第二煽情仕苅取来り砿、然ル処近年御田地養二仕楓種粕・酒粕・愚挙外野早追年高直二影響砿故、 右山江遠方拝撃々井老弱病身者・後家・重継類は一向二苅敷・薪等鞘取之儀相成兼、御田地養二当惑仕、只今迄之形二而 は右様之者共追々迷惑難渋も野相成型奉苫葺、今般私共始組畳叩前之者共江内笹塚砿処、右是迄入会昔者已来割山二仕度 皇位仕様之趣意左二奉申⊥候、︵申略︶軒割仕ほ得は、御百姓永続之儀口付、代金二而譲渡シ等決三豊不重藤に仕置“ハ・、

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若不仕合二而退転可致程之戸出来二而も、右持分小作無料を以積立にハ・、相続之基二可相秘画鍵層︵申略︶]同承知納 得仕和談之上、割山眉仕砿様被為仰付重々置旧ハ・、第一窮民井山遠望者共御璽ト一同算出仕合三子楓しと記されてい る。これらによると山割を願出た理由の第一は入会草山利用の公平化を期するということであった。元来山窟制度実施以         前における綿内村の入会草山では毎年五月置山の口明けを行い、以後は年中村民が自由に採草できた。しかしこのような 入会関係による限り、綿内村の中でも入会山から遠く離れている組︵村を構成する小単位︶の者や老弱・病身・後家・寡等 で十分な家族労働力を有しない貧農は肥料の為の採草も、燃料のための新木の採取も殆んど不可能であった。裏返してい えば入会山に近く部落がある組の者は便利であり、また富裕な農民は雇傭労働によって自由に採取し得るが故に、従来の 入会草山はこれらの人々にとってのみ極めて有利なものであった。これに対し割山になれば、貧弱なる農家にも一戸分の 採草地が確保されるから、入会草山が公平に利用されることとなる。従って山割を願出ている組すなわち山割東組の中に は後に述べるように比較的山から離れた位置にある組が多かった。  第二には貧窮民の零落防止があげられる。前掲口演書によると、当面は各戸の所持乃至耕作反別が零細で、 一たび何ら かの﹁不仕合﹂例えば病患・災害等不慮の変難により田畑を手放し、 ﹁身上衰微﹂するといかに努力しても再び﹁田畑  ︵代︶ 身体﹂を回復することは不可能であり、そのまま家は断絶し、退転する者が多かった。このようなことを防止するために は里山を平均に与える事が望ましく、そうすればこれが基本財産となって村民の零落が防止され、永久相続が可能になる というわけである。  第三には年代不詳︵文政末年ヵ︶山割願書に﹁右様取極軒割二相成、銘々所持仕盗品は、単二井草木之障二相成砿品は追  ︵掘︶       、 、 、 、 々堀絶し、又ハはけ絹平詰草毛筆生所ヘハ土地相応之木品植附砿ハ・、自然と村方用水等も相増、 一般之助益二も可相成       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 哉奉辛辛︵中略︶右之通有為仰付被告志気ハ・、為御冥加年々籾押字二つ二も上納仕、追々手入いたし草木毛附宜敷相成      信州綿内村における宙割制度の創姶事情      二九

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     信州綿内村における出罰制度の鶴始事憶      三σ にハ・、其節冥加籾相増面様可仕奉存砿しとあり、草木の保護育成が金山の一つの目標になっていた。すなわち村落共同 の利用形態である所の従来の入会関係の下においては草木の保護育成ができなくなり、この頃には石入持にしてはじめて それが可能であると考えられるようになったことに、割山発生の根本的原因の一つがひそんでいたと思われる。  山割を願出るに当り、実施さるべき山畑の仕組について、出願者達がいかなる構想をもっていたであろうか。まず山割 の対象となる場所であるが、綿内村の入会草山は東山から春山にわたって当村東南部を馬蹄形に取囲んでいる妙徳山及び 太郎山を主峰とする山林の内側斜面であった。この地域のうち、どの部分を愛山とするかについては、文政十年十一月十 四日付口上書に﹁郷中惣入会草山三分無明下方二而見付、野相定軒割仕、︵中略︶残り古墨而三分弍之所綿内村惣入会山之 由、御趣意此度御曖雪下﹂とあるから、部落より遠く離れた峯の方三分の一を割山とし、山裾三分の二を従前通り入会草 山となす案があったらしい。この案に対し、同文書は更に﹁何卒可相成三二御座砿ハ・、三分式ハ割山、峯三分一掴入会 山仕、其上年々五月中之節♂十日之内、秋田ニ百十日前後之内、山之[[明蝋様、世間並二仕度、且々↓統奉願砿︵中略︶        ︵姓︶ 前山無毛之処三分一之場所斗を細細山之段ハ御免被下灘様奉願砿、其謂ハ山遠国御百泰斗弥以御田畑養二差支、国憲三無 之困窮迷惑仕砿、且又拾壱ヶ組と下之山添昇等ニハ壁土格別之助益品々有之砿、 ︵中略︶此段垂目御賢察最下態様二奉願 砿﹂と述べでいる。すなわち峯三分の︸を割愛にするのでは、山から遠く隔った組の者は益々採草に不自由となるが、こ れはさきに明らかにした山割願出の趣旨の一つである入会草山利用の公平化の意図に反するわけで、山岨願事達はこの案 に反対し、むしろ峯三分の一を入会山とし、山裾三分の二を割山にしたいとの希望を述べている。  次に割当ての方法であるが、文政十年十一月十二日付綿内上町組より山斗願入能代宛議定︸札︵綿内上町区有︶には、       ︵雑︶ ﹁此度割山御願立仕砿二付、御上様6被仰付盗節、山割之儀致混察盈哉之御尋地付、能々相糺砿処、右割合之儀献身一同        ヘ  へ 明名前題すへて二割にいたし度、再割等身画聖而御願立雌馬敷砿﹂とあり、また年代不詳︵文政末年刀︶山霧願書の第四項

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       ヘ  ヘ  ヘ  へ  ぶ  ヨ  ヘ        ヘ  へ には、 ﹁入会山御高之儀は、大小御百姓平均軒別二相成砿故、御高も軒割二可仕盗﹂と見えているから、当村では最初よ り持高に応じた山林の割当て、すなわち高割の方式は全く老えられていなかったとい5よりもむしろ否定されており、専        ら空株の百姓分も含めた﹁惣町﹂すなわち軒別平均割を実施しようとしたのである。耕地割愛の場合は当付万年島組の場       ゆ 合や隣村牛島村︵松代藩︶の如く、軒別平等割に高取が盛期される場合もあったが、綿内村の山鯨の場合、欝欝方式が当 初から否定されたのは、前述の如く当村の割山が入会草山に関する住民の公平な利益の享受が目ざされたものであったこ とからして当然のことといえよう。従って文政十三年七月綿内村十三ケ組惣代より奉行所宛願書︵若穂町役場所蔵︶に﹁山 高御上納之儀、古来♂高地二而上納仕﹂とあり、また後にその全文を掲げる年代不詳のコ躰意書L︵若穂町役場所蔵︶の第 一項に、 ﹁綿内村入会草山之儀ハ、往古♂高割二而御⊥納仕﹂とあって、従来は山年貢を高に応じて賦課していたが、割 山の場合は前掲年代不詳年割願書第四項に見える如く、百姓軒別平均割となれば当然山年貢も平等に割賦しようとした。  割替に関しては当初その規約はなく、 ﹁予土一件諸事書留﹂文政十二年三月十三日の項に、 ﹁此度之儀雪盲而割山二始 終相成砿与申事ニ田無之、十ヶ年も鯉山二致し相ためし見、其上割山二而ハ不為之極二十ハ・、早速元形二可致、讐年限        ︵試︶ 中二而も不苦儀四韻︵中略︶十ヶ年二而も七ヶ年二黒も心見二致振事二砿﹂とあり、また年代不詳山割願書には﹁組割仕砿    ︵尚力︶ 上、銘々當又軒割二仕嵐共、落々二野二仕砿共、組々勝手宜敷方二仕置、何れこも七ヶ年か十ヶ年も相ためし砿上、自然 御田地養差支二相年玉ハ・、先規之通苅払元形二可仕砿﹂と記されているから、 ↓応七年乃至十年を限って一先ず試みて みようということであった。その上でもしも採草等に不都合が生ずれば、直ちにもとの入会草山に還元する筈であった。  山割は入会草山を各戸に分割して利用するものではあるが、本来入会草山を全く郵駅の私有地化するものではない。こ こに基山の重要な限界性があるわけであるが、この点については文政十年九月の区割議定書の第一項に、 ﹁嵐山被仰付砿 上者、如何様難渋幽趣引詰、譲引決而怪聞山ほ、讐内々二而も書入等致楓得は、早速惣組地引⊥可申砿、其節違義申問錬      信州綿内村における自割制度の創始事情      ]三

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     蟹      信州綿内村における出割制度の創始事情      三二 に、しという厳重な申合せがある。すなわち車山の譲渡・書入等を事情の如何にかかわらず禁止し、しかも違反の場合は 総山を没収することとした。この場合の譲渡とは、年代不詳︵文政末年ヵ︶面割願書に﹁軒割仕砿得は、御百姓永続之儀ニ   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 付、代金二而譲渡シ等決而致不漁極に仕置砿﹂とあるから、売買行為を含んでいることは明らかである。従って地盤はも とよりのこと、割山の用益権をもその譲渡・書入を禁止しているものと見なければならない。ことに議定書に取りきめら れているように没収規定が厳存し、実際に適用される限り、割山は入会地から私有地への過渡的壌階というよりはむしろ        入会地利用の一形式たるにとどまるといわなければならない。

三争論と実施

 以上の如き構想を具して、須坂藩当局に願出たわげであるが、その際綿内村の全部落が全く歩調を一にしたのではなか った。文政十年十一月十四日付口上書に﹁此度者格別之趣意振合を厚朴人御座楓口付、拾六ヶ十一同割山添之趣一同納得 連印仕組、其時拾壱ヶ組之中二下家故障之儀申立砿﹂とあり、黒山に賛成する十六ヶ組と反対する十一ヶ組とに分れたこ とが知られる。年代不詳︵文政末年ヵ︶山導願書に﹁併大郷立錐二而、六兵衛組・小兵衛組・長助組・春山組・菱田組・根         守組・中陣組・清水組・越知山国・山新田組・温湯組、半割山不承知之趣申之﹂とあって、これらの比較中山に近い所の 十一ヶ組が三山に反対していたことがわかる。十六ヶ組の名称は判然と古文書中に列挙されておらず、部落の分合には変 遷があるため確実なことは明らかにし難いが、およそ推定される組の名を現在の部落名と対照して表示すれば第一表の如        くである。また上町組や町田・大橋両組の如く、部落内部にも賛否両論の対立が存した場合もあったが、反対派はこれら         のうち町田・大橋両組もあわせて﹁十三ケ組﹂と称した場合もある。  これら反対派の組目の言分に関しては﹁割山]件諸事書留﹂のうち、文政十二年三月十三日須坂藩評定所において、願

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︹第一表︺ 山割賛成の十六ケ組 ︵○印︶  と反対の十一ケ組 ︵△印︶ の月 別否 の江  戸  時 組代

q在 家

  

皇芦・町

現在の部落 在  家 芦ノ町

皇町旦

町  田

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△ △

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森 温  湯 清  水 山新田 中  組 越知山 根  守 菱  田 大  橋 島 森 温  湯 清  水 山新田 大  柳 菱  田 の賛 別陰 癬戸嵩置現在・部落 ○一岩 崎  岩  崎

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○﹁万年童 万年島

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上  町 町 長野市  へ編入 ﹁      躰   意   書 (一

j

 一、綿内村入會草山幽思ハ、往古6高割二而御上納仕、     信州綿内村における山割制度の創始事情 組惣代並びに故障村惣代の夫々に対する尋問が行われた際の記録に、 ﹁故障村方惣代温湯組治右衛門︵外四名略Y組頭惣代中組善助︵外四名 略︶外村役人先量器丸山舎人様被出精辞職、年代之者追山二相成砿而        ︵文政や年︶       、 、 、 、 、 、 、 ハ難渋迷惑趣、去々年中締之者共内々申付三品節もケ三二認差出砿、   ︵文政†一年︶ 其後去年中も同様印書差出鵬聞、故障之世相皇居砿得共、今日一通相       ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へ 明旦間、可申立被仰砿二十、五人之者共申立盈ハ、割山二相成砿而ハ ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へ 田畑養ひ草相懸シ、自然与耕作不作二相成難渋仕砿、別而山根村方二 而ハ格別之刈入不信に而ハ、薄地之場所日御座盗ヘハ難渋仕に、且又 綿内村難儀ハ、何事二不依、皆上通竪子砿儀二而、保科下札之儀も年 貢籾高黒棚仕来、 一向保科山へ不参山新田者も年貢差出申砿、又郷中 入会二楓得共、最寄二寄西方二一保科江多分参硅へ共、草山年貢青同割 二而、多分刈取属者も不苅者同様二年貢仕来盈、是等之処士勘弁被成 下、幾重二も割山之儀ニハ御免被成下、先規之通被仰付被下砿様御願 申至仁﹂とある。左に掲げる﹁躰意書﹂︵若穂町役場所蔵︶は年代の記 載がないが、恐らくこの中に言われている﹁ケ条二認差出﹂したもの の案文に相違ない。        ︵精︶ 小高之含量脚之御上納二而凛烈次第草苅取御田畑養育仕、        三三 小前御助之儀往古β

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      信州綿内村における山割制度の創始事情       三四     御慈悲之御仕法と難有奉存砿   ︵二︶   一、後家寡かよわき者ハ入會二砿得ハ、其場所見斗ひ手近キ三二而草苅取計に、篭耳二相岩蟹而ハ何地を早取盗哉場所二寄迷惑可仕盗   ︵三︶   一、割山軒別割二仕盈而は、家内人数多少作高多少御座当年ハ、足不足可有之早撃空事   ︵四︶       ︵底︶   一、割山二相成砿而ハ銘々存意二寄木立網干山二相成、草山之名目斗二選草井田二相成、御田地塁ひ草不足仕、自然と地位下り砿ハ・     御上様御不益二も相成、御百姓難渋可仕御儀と奉存砿   ︵五︶   一、山新田畑井山岸御本畑ハ霞草不足仕砿而片耳而耕作行届兼難曲奉存砿、其上山新田畑ハ川原新田と相違仕、御高免二而別而難渋可     仕奉存に   ︵六︶   一、草山軒別割仕、當時差當り宜敷盗而も、追立口引二柑成砿ハ・、後年山住持二相成砿者ハ後悔可仕事   ︵ ︶   ﹁、草山軒別割二相成砿得ハ、是君別家之者山不持二相成差支可申事   ︵八︶   一、先年も割山之儀願人有之度々願出定膝下、不為聖餐申之、郷中一致不仕、御上様二而も右等本塁厚顔勘考を謝々利解被成下置願書     御下ケニ相成申砿事   ︵九︶   一、隣村牛嶋村6も往古6草山入會草刈二罷越申盈、割山二柑成砿旧訓差支申事   ︵ナ︶   一、綿内村之儀ハ御他領入作入も有之、是迄草山御年貢毎年上納仕居見得ハ、是等之儀も心配仕嵐   ︵1一︶   一、追年小作人共軒別割田而草排底二相成、養ひ無之故薄地二相成、不熟仕砿杯勘定之節勝手而巳可申出奉存砿         ﹂ この内容は明らかに主として山割に反対する理由、換言すれば、山割が実施された場合に生じ得る弊害を列挙したもので ある。これらを要するに、まず山結願人達が出願理由の一つとした入会草山利用公平化の件であるが、山・部落間の距離 の大小による利用度の差違については何等異議を挾んではいない。反対する人々は﹁三遠の百姓﹂対﹁山近の百姓﹂の利 害関係の代りに、 ﹁高持百姓﹂対﹁小前百姓﹂の利害関係を説き、小前百姓にとっては山年貢を平等に分担する山草制度 よりもかえって山年貢を高に応じて割賦する従来の方式が有利であって、貧農保護の立場からいって従来通りの入会慣行 が良策なりとする︵江山一件諸事書留並びに喫驚書第一項︶。後家・富里の家族労働力の貧弱な農家にとって従来の入会方式で

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は殆んど採草が不可能であるというのが山砦願入落の主張であったが、これに対してはむしろ割山にすれば、彼らがどん な遠隔の地に割当てを受けないとも限らないから、そのような場合にはかえって彼らにとって不便になるという︵躰意書 第二項︶。入会山の公平な利用の点に関連して、更に家族の人数や耕作反別の多少を考慮に入れない軒別平均割は悪平等 であるとする︵躰意書第三項︶。  次に山羊実施によって草山が薪山に変化する傾向があることについては後にも述べるが、そのため草山の実がなくなり、 肥料のための採草が十分にできなくなることを訴えている。山附近の耕地はやせ地であるため殊更であるが、爪草が不足 しては、沃度が低下し、十分な耕作は望み難いという︵割山一件諸事書留及び躰意書第四・五・十↓項︶。この言分は従来の入 会関係において山近の言々が写声の面々よりも多くの利益を得ていたことを認めたことになるが、またそのことについて の弁明であるとも理解される。  以上の外、山割実施に当っては、他領からの入作関係の調整が困難であること︵躰意書第十項︶、山割を実施すればそ こで生ずる弊害としては、当面はよいようでも、遂には山が一部の門々の手に集中して、その反面全く山を失ってしまっ た人々が生ずること︵画意書第六項︶、封鎖的となって将来分家には何ら山の権利が与えられないこと︵専意書第七項︶、等を 挙げ、結局これら割山に関しては郷中の意見一致をみていないこと︵躰意書第八項︶、更には入会草山が依然として割山に なっていない隣村牛島村︵松代藩士︶の例にまで言及して山割に反対の趣意を表明している︵翻意書第九項︶。  名主森彦兵衛による﹁割山一件諸事書留﹂は文政十年山田を願出て以来、この両者の争論がいかに激烈であったかを伝 えている。この対立が解け諄かった為に、藩当局の決定が遷延したわけであるが、これに業を煮やした洋弓願出組の人々 は遂に文政十二年十月に至って越訴の挙に出た。右記録文政十二年の項に、 ﹁十月四日、願人惣右衛門・彦太夫・谷右衛 門三人置駒沢勇左衛門様御宅江岬山之儀幾重二も高望付偏理、手越欠込御願墨磨処、御取上無之馬道渡楓処、押土御願申      信州綿内村における田割制度の創姶事情      三五

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信州綿内村における山割制度の創始事情 三六 に二付御月番江御引渡二相成、浦宿伝吉方へ御預被朗詠しとある。この暴挙は同月十四日に至って、掛り墨入丸山舎人よ り﹁甚轟轟坪至極、如何之心得二品村役人を相頼、夫汐支配へ申出、夫ず此方へ可申立自信、二重も三重手越致、御詠衆 へ直訴致砿儀不急至極﹂と激しい叱責を受け、爾後町立預りとなった三入の者の釈放をめぐって紛糾することとなった。 この事件のその後の詳細な経過は右記録が途中で終っているため判然としないが、かねて山影に反対していた十一ヶ組を 主体とし、それに町田・大橋の二組を加えた十三ヶ組山割願人常代より奉行所宛の左の如き願書︵若穂町役場所蔵︶はその 結末を語っている。 「 一、      乍恐以書付御慈悲奉願上砿 當村草山組々入會之儀、往古β田畑養ハ勿論、草苅取下便り砿上、組重迄銘々苅來、御百姓永績罷在砿処、四ヶ年以前汐割山一条 御願申上甑朗々有之、私共組々之儀ハ古来博通仕置度奉願上繭処、再慮御吟味之上双方願書御下ケ戻シニ相成、出山不残御引上、 御上納御免被仰渡、當節必至与差支、組々極難二およひ砿二付、今般難渋御願申上、左二奉願上畳 是迄往古6入會之庭、御引上二相成、小前一同難渋之付下申上砿、此節田畑養ハ不及申上、馬持等喰草二差支、薪等こも難渋仕、        ︵木端︶ 此節妙徳山御岳之こつは等日々買請取士幌在砿、手薄雨湿百姓ハ始終ハ他所無二而茂罷出口含も御座砿由申之、何共困窮之基二奉 存砿、村役人中6も惣郷中和知之上、村方江御下ケ被成下置度度願上砿様、先願方下々江組中聞懸魚共一和不仕、無量此度奉出訴 紘は、山高御上納之儀、古来6高割二流上納仕、山手青々二而里方β年方余慶四二渡世仕砿様子二茂御座砿趣、此上ハ是迄例年五 月中汐十日以前山之口開、夫6年方手透之節山稼仕砿得共、已来ハ五月山之口5十日限リ又千差留、一統手透二相成砿節山之口開、 冬方迄入事仕砿得ハ、惣郷中甲乙茂無御座与奉存砿、右之段格別之以御霊辮、外組々江御理解被成下、御山之儀村方一同江御預ケ 被思置、草山手入相成二様奉願上砿、將又右之趣御取用二難相出御儀二御座砿ハ・、下鞘御山二離垢面ハ一日茂立行難相成義二砿 間、以前之御高御上納仕、其上縦江増高被仰付砿而茂、右御山一統江御預ケ襟下湿度奉願上山、脚下當時作聞手透二相成盈間、養 草之儀ハ不及申上、薪等茂苅取最中数日御芝葺書成下置砿得ハ、一統渡世二行付愚者多分御座葦間、此儘御等閑二も被算置嵐得ハ、 退韓御百姓茂出来可致与乍恐奉存砿、前文之通所願上砿趣、御慈悲を以先願云々江御理解被仰下置、郷中和合之上越之通御聞済被 成下置砿様奉願上陽、自然一和不仕砿ハ・、奉恐入海春蚕必至与難澁仕菰一儀二御座孤ヘハ、私共拾三ヶ組江草山御預ケ被成下置

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    孤而レ是認之御高望如何様腰高被仰付に廻転加邸山御預ケ被成下置度盛願上砿、不行屠愚昧之者共二御座に古い此上之御慈悲御差    圏被成下置、幾重二茂御山御預ケ被覆置、御百姓相績仕度奉願上灘、右願之上被仰付被下置砿ハ・、重々難有仕合二奉存砿、以上        綿内村十三ケ組      文政十三寅年七月      ・       願人上代       要 右 衛 門 印        ︵以下二十一名略︶       御 奉 行 所      し これによると藩において吟味の結果、文政十三年に至って、遂に藩当局は山割願出及び反対の双方の願書ともに差戻した ばかりでなく、入会草山は全部綿内村の手から引⊥げるという、山内村民にとっては、恐らく両派ともに予想もしなかっ た決定がなされた。この事態に狼狽した面割反対の十三ケ組は、入山期聞を制限することによって、従来の入会山利用の 不公平を除去したり、また上納高の増加、肥草や薪の採坂制限等を条件としてでも、従来通りの入会利用を許可されたい と願出たわけである。同年九月、山割を希望する十六ヶ組聖代から奉行所宛の願書︵月内上町区有︶に、   ︵一︶  ﹁一、綿内村入会草山御林此度是迄之通り御田畑やしなひ二塁取之儀被仰付、拙者共組合本山遠膝組或は船川を隔砿切々茂有之、右二付     血相立言儀二御座砿ハ・、御上様御慈悲を削字何れ之原成共、照々軒別無慮二細鱗付被下置砿ハ・、老弱二不限平均二苅取、且御     冥加金奉御上納砿   ︵二︶   一、是迄之通り細鱗こかり取当節、若年識者とも自然口論又ハ悪言等申募り怪我等仕砿而ハ、乍恐御上様御苦脳をも奉恐入砿   ︵三︶   一、草苅取日限御定メ被成下置砿當節、右山御林蜀江分見御役人様方江自然石ころ杯落シかけ砿節ハ何共迷惑仕砿   ︵四︶       ︵種︶   一、ありふれ慰しニハ御座砿身共、何れ之組目者二御座至愚、取々様々之噂口も有之盗得は、誠二闘論ハ歴然之御事御座盗︵下略︶﹂ とある。これによると前述十三ヶ組の願出が聞届けられたのか、 一旦引引げられた入会草山を従来通り利用することが許 されたらしい。これに対し十六ヶ組の方は、もはや﹁割出﹂または﹁山割﹂という名称こそ差控えているが、 ﹁軒別相応﹂       信州綿内村における田割制度の創始事情       三七

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     信州綿内村における山割制度の創始事情       三八 の利用方式を執拗に主張して、従来通りの入会制度の下で生ずる弊害を種々列挙している。この十六ヶ組の運動が功を奏 したか否かは、若干時間の隔たりがあり、而もその間の史料を欠くので詳細は明らかでないが、翌天保二年︵]八三一︶ に至って、漸く当村の入会草山に二割が実施される運びとなった。慶応元年︵↓八六五︶五月の綿内村﹁割山規定取極一 札﹂︵若穂町役場所蔵︶に﹁綿内村入会草山之内半分、天保二卯年拾ヶ年御試として割山門被成下、御高風仰付︵下略︶﹂と あり、明治三年︵一八七〇︶の入会山に関する歎願書︵船穂町綿内小坂家所蔵︶に﹁綿内村入会草山之内半分、天保二卯年拾 ヶ年賦として出山二被成下、御高被仰付勢﹂とある。従って前述の如く群山に付するのは入会草山の三分の一か三分の二 かという問題があったが、結局これは半分と決定し、また割山の試行期間は七年かまたは十年という案があったが、これ は十年と決定したものとみえる。  実施に際しては、天保三年八月﹁割山組分ヶ入別井岡引帳﹂︵綿車上町区有︶によると、まず入会草山のうち、山割に付 する部分を三箇所に分け、春山・讃岐平・堂ノ入の三地点を夫々割はじめとして各十五割宛に割り、一割ずつ三箇所を組 合せて、 ﹁い﹂印一番より﹁よ﹂印十五番までの十五個の割当口をつくり、それぞれをやはり﹁いろは﹂の後半の文字を 冠する五十六入一組の割軸組に対し岡をもって割当てた。この五十六人はいくつかの組︵単に組という場合は村を構成する小 単位︶の者がそれぞれ数名宛組合されており、 一つの組が一箇所にまとめて割当てを受けるわけではなかった。上町につ いてみると、天保二年九月の割受人﹁名前御書上覚﹂によれば﹁名前斗﹂のもの五名を含めて三十九名のうち、 ﹁ら﹂組 に命名、 ﹁む・お・や・て﹂の各割苗場に八名ずつにわかれて、他の部落の者と組合され、⊥に述べた十五の割当口のう ちの何れか一口を割当てられることになった。この割当口と各組の組合せの関係を士町の関係する右の五組について表示 すれば第二表の如くになる。この表に見るような各五十六入紐の組合せが十五あったわけであろうから、このような形で 割山を与えられた綿内村の全住民は大凡八百戸余であったと推定される。

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︹第二表︺ 割山と割受人の組合せ 一割山番号⋮割由[三箇所の組合せ 一     一 ︵士町関係分︶ ㎜割受入[ 一組合せ一 一の名称⋮

組別継受人数

ろ 印 番 は印 三番

か1 わ 

雲印{喜印111印

 春山右第 讃岐平ゑ第 堂ノ入冶第 春 山冶第 讃岐平右第 二ノ入右第 二番割 六番割[ 八番割 三番割一 四番割 七番割 お 組 て 組 割受.人 吉 計 上町︵八︶町田︵六︶六兵衛︵八︶ 根守︵六︶中万年︵七︶倉町︵七︶ 五 六 長助︵七︶山新田︵七︶ [牛池︵七︶土霧霜︵六︶山新田築 皿︵八︶上町︵八︶万年島︵七︶六兵        外二皮屋   ﹁衛︵八︶芦町︵七︶   ︵五︶ 春 山右第 四番割 讃岐平.右第一二番割 堂ノ入β第一二番一 円 山右第二二番割 讃岐平右第 五番割 堂ノ入β第一〇番割  春劉第西番割、 讃岐平冶第 一番割. 堂ノ入右第 九番割 ら 組 上町︵七︶四中︵八︶山新田︵八︶ 春日︵七︶茂右衛門︵五︶岩崎︵六︶ 土屋坊本組︵八︶長助︵七︶    一    .中万年︵七︶芦町︵七︶小兵衛︵七︶ や 組⋮山新田︵四︶万年島︵七︶大橋︵八︶    一    一中組︵八︶上町︵八︶ ︵八︶田中︵八︶六兵衛︵五︶ ︵七︶茂右衛門︵八︶岩崎︵六︶ ︵七︶清水︵七︶ 五 六 五 潤 む 組 長下上 助山町 五 六  ここで一つ問題なのは、前にも引用した年        .     、 、         ︵尚力︶ 代不詳山割願書に、 ﹁組割仕砿上、銘々當又 へ   ヘ      ヘ   へ 軒割二仕砿共、組々惣持二仕盗共、組々勝手 宜敷三二仕置︵下略︶﹂とあった。この願書の 文面に表われた﹁組割﹂が、果して右に述べ たような各組から数名宛組合せた計五十六人 の割三組に対する割当ての謂であるか、もし くはこのように複雑な実施方法が案出される 前に、単に村を構成する小単位である組に対 して山を割当てることを考えていたものか、 明らかではない。何れにしても組割をした上 で、更に各戸に割るか否かは各組の自由に任 せるという考え方があったようである。しか しここで天保六年︵一八三五︶の左の如き証 文︵綿内上町区有︶に注目しなければならない。 「      割山質流謹文之事 一、名所前山田は発て組三番割之内壱割御高壱升、代金壱両也槌二請取、質流山二仕捨所実正二御座砿、然ル上は来申春中山相改貴殿  御支配可混成砿、其節毛頭里馬古儀切間敷藁、尤御高之儀は御相談之上、我等方二御預り置申絹張は、年々十二月十五日限御年貢  我等方江御勘定可被成嵐、為後念質流謹文冊如件    信州綿内村における山割制度の創姶事情       三九

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信州綿内村における山割制度の創姶事情 天保六年頃十二月

綿内村出新田

   吉 郎右

衛門 殿 同所上町   山主 同所同断   受人 四〇 平 小 蔵 助 」 上述の如く割山の譲渡は本来一切できない筈のものであるが、この証文によれば、山番実施後僅かしかたたない時期にお いて、すでに割当てられた帰山の質入が事実⊥行われたわけである。但しこの証文は、質山の白熱を明記しているわけで

  .野島

六毒蛇、

  

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ャ寒て

却メヴ

・姦鉱

毒毒㌃

    ム 善人 ㌧矛 はないから、あるいは持分権についての質入に関するものであって、必ずしもこ れだけで直ちに天保二年の半割に際して、現実に山を分割したものであること を立証できないかもしれない。しかしこれによって少なくともL工町の場合は各 戸の持分権が独立して、質物たり得る程度に明確化していたことがわかる。加う るに山割願組から藩へ差出した願書においては、かねて軒別平均割を主張して いたことであるから、少なくとも山割願組においては組割された割田が更に各 組内で軒別に割当されたものと思われる。但し﹁は﹂印三番の割当口に組合さ れた三箇所のうち﹁春山ず第三番割﹂について上図の如き絵図︵綿内上町区有︶ が残っているから、軒別割が行われた場合でも、一個の割当口を構成する三箇 所の山が、それぞれ一旦数名ずつ︵第二表参照︶の各組別に分けられ、その上        ゆ で更に軒別に割当てられたものと考えられ、従って軒別に三箇所宛︵計三反︶

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割山を持つことになったと推測されるゆ  最後に山割の実施を契機として、入会山の用益内容に変化のきざしが見えることを指摘しておきたいσ文政十三年七月       ヘ  ヘ  ヘ       ヘ  ヘ  へ 綿内村十三ヶ組より奉行所宛願書に、 ﹁当村草山堂々入会之儀、往古汐田畑三諦勿論、草苅取仕来上上、薪等迄銘々苅        ヘ   ヘ   へ 来、御百姓永続罷工空処、︵キ略︶是迄往古6入会之処、御引上二相成、小前一同難渋之儀奉申士砿、此節田畑養子不及申      ヘ  ヘ       へ 上、馬持呼出草二差支、薪等二も難渋仕︵下略︶﹂とある。これによると山持施行以前の入会山は田畑の肥料や、家畜の飼 料等のための採草ばかりでなく、燃料としての薪の採取にも利用されていたことがわかる。前掲年代不詳︵文政末年ヵ︶山 割願書︵二八頁参照︶によると当村では、少なくとも山から離れた地域では、種粕・酒粕等購入肥料の使用がかなり高度 に普及していたようである。そしてこの購入肥料の価格騰貴が公平な採草の必要を増大せしめ、これが山競願出の理由と されているから、肥料・飼料・燃料のうちでも、当時の入会草山は肥料の供給源としての役割に比重があったことが推測        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ できる。森彦兵衛の﹁割山]件諸事書留﹂文政十二年三月十三日の項に、 ﹁綿内村ハ草山之儀二砿得ハ、薪山相対を以御 へ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 他領江山年貢差出し苅取星羅余程之事二砿哉と御尋被成砿処、万五郎︵割山願書牛池惣代⋮⋮筆者︶申上にニハ其儀ハ碇与 ハ不書分に得共、大方御他領へ差出砿年貢之儀も一子二仕砿ハ・、凡四百俵程も差出可申与申上砿処、夫ハ多分之事二砿、 先何れ此上故障村方も得与利解説聞砿⊥之事二砿間、三一田下レ二三仰付願人即下り嵐﹂とあるのは右の推測を裏づけて いる。ところが、年代不詳山割願書に﹁はけ山、二箒草毛不生所ヘハ土地相応之木品植附にハ・、自然と村方用水等も相 老、一般之助益二も塩煮成哉奉存慮﹂とあり、さきにその全文を掲げた﹁上意書﹂の第四項には、山割が実施されると草 山とは名ばかりで、各自の自由意志によって木を植立て、為に草が払底し、田地の肥料が不足を来すことを歎いている。 これらによると、勿論採草地としての役割が全く消滅するわけではないが、山家実施を契機として草山が唐山に変化する 方向を辿ることがうかがわれる。さきに述べた購入肥料の普及は採草を不必要ならしめ、むしろこの傾向を助長するもの      信州綿内村における山割制度の創始事情      四一

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であり、  信州綿内村における山割制度の創姶事情      四二 ひいて当村のように薪山を欲している人々が多い場合には、山割施行の基礎的な前提ともなると老えられる。 四 結 口  以⊥綿内村の入会草山において、文政十年︵﹂八二七︶以来山割制度を施行しようという運動が生じた原因及びその構 想、並びにこの問題をめぐって生じた村内の争論、その結果漸く天保二年︵一八三一︶になってはじめて実施されるに至 った過程について述べた。その後今日に至るまでにはなお幾多の変遷があり、その間における山月制度の変質過程にも重 要な問題が存在するが、許された紙幅の関係上、これについて明らかにすることは別の機会に譲りたい。  そもそも綿内村を含むこの地方は既に早く耕地割替制度が発達した地方の↓つとして知られ、特に千曲川と犀川との合 流点附近の耕地差替制度については、 これまでにもかなり研究が進められてきた。 まず本庄栄治郎氏は上高井郡川田村 ︵現在は若穂町︶の大字町川田及び牛島、並びに同郡小布施村︵現在は小布施町︶の大字小布施における地割の慣行について     み       ゆ 報告された︵大正十五年︶。ついで奥田或氏は主に綿内村について研究され︵昭和五年︶、 更にその調査範囲を拡大し、上高 井・⊥水内・埴科・更級・東筑摩・南佐久の諸郡にわたる十三箇村の耕地早替制度について、その分布・名称・発生・割 替地・割替地の受配者と分配の基準・割替年限と引替時季・割替役員・割替・配当地の用益・廃滅・利弊等詳細に論究さ    れた︵昭和九年︶。これら地割慣行地諸村のうちで、綿内村は地割及び山割双方に関する史料が最も豊富な村であるが、奥 田氏の地割に関する所説の中でも山割については全くふれていないし、また山勘の原因や制度には本稿で述べた如く耕地 割替とは直接の関係は何ら存しなかった。また山割は綿内村全体の問題であったのに対し、耕地割替はその村を構成する 小単位たる組の問題であり、割替の対象たる千曲川の川原新田に接近した上町ほか数組のみに行われたにすぎない。而も         明治維新前から実施されたものは僅かに土町・万年半・⊥万年・中万年・下万年・町の六組だけであっ允。また奥細氏の

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      ゆ 研究によると、耕地割替の創始年代は⊥町が文化十二年二八一五︶、万年島が文化十五年︵=八一八︶ となっている。こ れに対し上述の如く綿内村の山導は実施時期こそ天保二年︵一八三一︶であったが、その議は既に早く文化五年︵]八○八︶ に生じていた。しかし地割も右実施年代以前からその議は発生していたかもしれない。もしそうだとすれば、例えば入会 山に軒別割当の方法を適用するについて示唆を与えられたというような、多少の影響があったかもしれないことを全く否 定することはできないが、しかし牛割の原因・構想・争論・実施の.過程に関する史料には何ら地割に言及しているものが なく、まして山斗が耕地琴平に付随して行われた形跡は全く見当らない。少なくとも当村に関する限り、山風は耕地の割 替には関係なく独自の事情によって発生したと考えざるを得ない。  かくて北陸のような特に地割制度が発達した地方についてだけいえば、あるいは上田氏の説かれる如く、山割の多くは 耕地割接に付随して行われた、と言えるかもしれないが、↓般.的に江戸時代の手淫制度の多くが耕地割替に付随して行わ れたとすることには疑問を持たざるを得ない。このことは山里制度の歴史的意義が決して耕地遷替に付随的なものである にはとどまらないという重要な問題につらなるのであるが、この点については、他日稿を改めて綜括的に論ずることにし たい。  ① (8 e cD @ (4) @@ 山割制度の一般的概念の詳細については拙稿﹁近江五個荘における山割制度﹂ ︵彦根論叢第四三号︶三八頁参照。 奥田蠣氏﹁日本林野割替制度の研究﹂ ︵高岡能⋮雄先生在職滑五年紀念論文集﹃農政と経済﹄昭和七年刊︶=四・一二二頁。 同右一二五−六頁。 上田藤十郎氏は奥田氏の調査に基づいておられるが、集計方法の相違により、両者の数字には若干の差が生じている。 上田氏﹁地割制度研.究の発達﹂下︵松山商大論集第一〇巻第四号︶三九i四〇頁。 中田薫氏﹁越後国割地制度﹂︵国家学会雑誌明治三十七年差↓八巻第五・六号︶。 石井清吉氏著﹃新潟県に於ける割地制度﹄︵昭和四年刊︶。 上田氏﹁近江国石部町に於ける山割制度﹂︵経済史研究第二七巻第三号︶。    信州綿内村における出割制度の創始事情       四三

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⑭ ⑯ @@ 信州綿内村における由割制度の創始事情 匹四 慶長十五年︵一六一〇︶堀淡路守直重が信濃国盲打井郡のうちにおいて六千石加増されて綿応村を預せし時以来明治四年︵一八七一︶廃藩貴県に至る まで、当村は堀氏の所領または管轄地として須坂藩に属した。 元禄三年︵=ハ九〇︶﹁午之免相古写﹂︵須坂市野辺町区有︶によると、綿内村の村高は﹁三千九百五拾壱石八斗七升六合六勺﹂となっており、天明 八年︵一七八八︶綿内村明細心得覚書︵若穂町綿内小坂家所蔵︶には﹁三千四拾四石七斗六合六勺﹂、文久三年︵一八六三︶﹁亥之免相帳﹂︵野辺町区 有︶には﹁三千四百八拾八石六斗五合四勺﹂と記されている。 ﹃日本林制史資料﹄松代藩篇八九頁。 天保十四年﹁赤野田新田村内山願二付、保科村難渋申立砕一件書類写﹂︵若穂出藍野田区有︶。 宝暦十三年十月割山願往復文書、宝暦十四年三月赤野田村山風裏書︵何れも赤野田区有︶。        ︵房︶ 天保十四年十月保科村より松代藩郡奉行所宛﹁返答書﹂に﹁宝暦十四高年ぼう・田之入、赤野田新田江内山二御渡云々﹂とあり、また﹁宝永︵宝暦 の誤⋮⋮筆者︶度ぼう・田之入試ヶ所産而、凡拾五六万坪之所内国二郎渡遼遠成、天保四巳年残り八ヶ所二而、凡七万三千坪余御渡二相成匹﹂と記 されている。然し実際に山割の対象となったのはこれより少なく、宝暦十四年六月﹁赤之田村割山間数帳﹂によると、同じ松代藩領更級郡今里村の        ︵房︶ 常右衛門及び吟右衛門が﹁立合、割合﹂を決定したのはコ房峯日方・ほを久保田筆入・田之入日方しの三箇所、合計﹁六万八千七百九拾三歩壱分五 厘﹂となっている。また末尾に、 ﹁今般入会山民地引直シ請願二恩、確証トシテ宝暦磐田混入・房内山割帳井弘化度町ノ入・仏師浦内山割帳長野県 ︵ママ︶ 注掛り江差出シ度︵中略︶田ノ入・房之帳簿ハ差出シ、新山之割帳之義ハ甚タ不都合之廉有之、今般新二此帳簿製険嶺差出シ候也﹂という後筆があ る嘉永三年十二月﹁赤野田新田村内山割合人別帳﹂は恐らく天保四年中内山となった地域の一部が弘化年代に割山とされ、その部分に関するものと 思われるが、これには仏師裏・町ノ入・袖章・芦窪合計五万七千三百九十九坪が五十四戸に割当てられている︵何れも赤野田区有︶。 宝暦十四年六月﹁赤之田村割山間数量﹂においては、上述三箇所の山がそれぞれ五十三口に区分され、刮目概ね均等に割られている。宝暦十四年三 月﹁赤野田新田山籾人別覚帳﹂によると、房・田之等等の山籾︵山年貢︶を五十三戸で平均に負担していたから、宝暦度の内山は住民五十三戸に対 し、各箇所を組合せて平等の原則を以て割あてたものである︵何れも赤野田区有︶。 嘉永三年﹁赤野田新田村内山割合人別帳﹂︵赤野田区有︶によると、仏師裏が五十四口、町ノ入と袖窪と合せて五十四口、各口論んど四・五百坪の 均等な間数︵山号も各口一三二三七勺で全部同じ︶に区分され、赤野田の住民五十四戸に対し、二口宛与えられており、その外に芦窪は十一人持五 箇飯即ち五十五人分に分たれているから、恐らくここにも一口宛、合計三口宛各戸平等に与えられたものであろうσ 宝暦度の内山はその後私有林となっているが、天保度のものは現在殆んど開発されて私有の畑地となっているQ 文政十年十一月十四日附綿内村割山内組惣代より須坂藩取締方宛の碧山に関する口上書︵綿内上町区有︶に﹁此段︵入会草山軒別割のこと⋮⋮筆者︶   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 一躰試拾ヶ年以前二も数度催シ人之者有之い様子二略是迄三型齢﹂とある。

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⑳ @@ ⑳ 文政十三年七月の綿内村十三ヶ豊山割願人惣代より奉行所宛の入会山に関する願書︵若穂町役場所蔵︶には﹁当村草山只々入会之儀、往古冶田畑養        ヘ  エ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ ハ勿論、草刈販仕来りい上、薪等迄銘々苅来、御百姓永続罷在に処、四グ年以前右割山一条御願申上製組腐有之﹂とある。 昔は山開きの日、早朝より山に入り、その年採草したい区域の萱の穂先を切って帰った。するとその区域がその年中その人の排他的な採草地として 認められたという︵本藤義松氏談︶。 文政十年十]月十二日付議定一札には﹁明名前迄すへて惣割﹂とあるが、これについては上町の住民による文政十年九月の山割議定書︵綿内上町区 有︶第二項に、 ﹁一山之義は美男二いたし、入用之儀は当時名前長者にて出金致置協、名前斗にて有之協者分引、追々山出精いたし砕節小作付いた し、右代金組頭元二而請取世話致、右入用差引致、相舅目積金二致置協、且明名前江名跡致怖ハ・、入用為差出、其上山支配為致可申齢﹂とあるか ら、百姓の名株だけあって、現実は絶家・退転等により住民が存しない戸の分も平均に割当てておき、組頭がこれを管理して小作に付する。その小 作料を以て愛山に関する分担費用にあて、空株が相続される時にはその費用を支払わせて、その総山を与えることにしたものである。 奥田残・神馬仁太郎両氏﹁長野県上高井郡綿内村の地割制度﹂ ︵熱帯農学会誌第二巻第二号︶一九四一八頁。 本庄栄治郎氏﹁長野県下に於ける地割の慣行﹂ ︵経済論叢第二二巻第六号︶一四八−五〇頁。 但し史料の文面上では、 ﹁割山﹂と﹁入会山﹂とを区別する場合がある︵若穂町役場所蔵文書のうち、慶応元年五月豊山規定取極一札︶。       ヘ  ヘ  ヘ  へ 文政十年十一月十四日付口上書には﹁拾壱ケ組と申内山添組﹂とある。 交政十年九月の上町における﹁岩山願立い名前書﹂には、喜惣治外二十四名、 ﹁割山願立不仕署名前書﹂には市左衛門外書名が列記されている︵何 れも綿内上町区有︶。        ヘ  ヘ     へ 名主森彦兵衛による﹁割山一件諸事書留﹂文政十一年の項に、山型願書提出に関連して﹁右之通相認上ル、尤町田・大橋組頭ハ組方之内二願人と故 へ  へ 障人有之に二塁、奥印之相相伺い処、御着図二私儀日割山不承知二御座協へ共、組下之者共御願申砕間、組頭之儀二付、無拠奥印仕怖と相記差上申 砕﹂とあり、また交響十三年七月の﹁端山故障彰々名寄高之覚﹂にも十]ヶ組に大鑑組の名が加わり、而も当組についてのみ、    ︵高︶      、 、 、 、 、 、  二、同六拾八石武斗五升九合 大橋組 但し十九人不承知ノ分し と但書がある︵何れも若穂町役場所蔵︶。 文政十三年七月の綿内村十三ヶ組山割願人惣代より奉行所宛願書。 昭和三十一年﹁綿内村有山林旧割貸地目録﹂ ︵綿内上町区有︶は藩政期以来の白山に関するものであるが、天保度の分割方法と全く符合している。 これと天保三年﹁高山組分ヶ人別井圓引帳﹂ ︵欄内上町区有︶とを対照すると一個の割当口を構成する三箇所の山が、夫々平均五十六反より成って いたと推測できるから、一軒当り一箇所で一反、従って三箇所合せて三反を原則としたことが知られる。 本庄栄治郎氏﹁長野県下に於ける地割の慣行﹂︵経済論叢第二二巻第六号︶、伺﹁信州小布施の地倒制度﹂︵同上第二一二巻第五号︶。 信州綿内村における山割制度の創始事盾 四五

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   信州組内村における山罰制既の創始事営 奥田蟻・神馬仁太郎両氏﹁長野県上高井郡綿内村の地割制度﹂︵熱帯農学会誌第二巻第二号︶。 奥田義氏﹁長野県に於ける耕地割替制度﹂︵社会経済史書目三巻第一〇・一一号︶。 奥田。神馬両氏前掲論文。 同右一九八頁。 四六 ︹後記︺ 本稿を作成するに当り、長野県上高井郡母型町長石田治太郎氏はじめ町当局及び同町教育委員会・公民館並びに多数の町民 各位の絶大なる御理解と御援助とを悉うした。特に調査期間中、綿内上町の本藤義松氏には終始御厚情と御配慮とを頂いた。ここに 明記して、以上の各位に対し、深く感謝の意を表する次第である。

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