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修士論文・博士論文一覧|九州大学 大学院人間環境学府

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投谷八幡宮の石体に関する一視点

−八幡信仰における石体と廃仏毀釈の実情に関して−

中村 健一

序 -1. 研究の背景と目的

 鹿児島神社 ( 正八幡宮本宮 ) の末社の一つに投谷八幡 宮がある。鹿児島神社の末社の中でも本宮神領の四至 の一角を押さえる重要な神社であり、その傍には二基 の石体が祀られている。八幡神において依代である石 体は、天承二年の石体出現事件 ( 後述 ) の顛末からも知 られる通り、その本家神の地位を保証する、とりわけ 重要な聖体である。八幡信仰において石体を祀ったも のとしては、鹿児島神社末社で本宮跡とされる石體神 社や宇佐八幡宮御許山の三巨石が有名である。しかし 投谷八幡宮にも二基の石体が存在していることは、研 究者の間ではほとんど知られていない。しかも大変興 味深いことに、投谷八幡宮の二基の石体の一つには廃 仏毀釈を推察させる矢穴痕が残されており、隣にはも う一基の抜き取り跡と思われる大穴が残る。

 八幡神研究史では文献史料からの論究は多数あるが、 物質史料から行われたものは少ない。また廃仏毀釈の 破却の実態とその内実を語る良質の物質史料もほとん ど残っていない。そのような中で投谷八幡宮の石体は、 特に鹿児島神社石体事件及び廃仏毀釈の内実を探る上 で、示唆に富む貴重な物質史料になると考える。  そこで本稿は、投谷八幡宮の石体を実測し、文献史 料を勘案しつつ分析して、石体事件や廃仏毀釈につい て新たな知見を提示することを目的とする。

 論旨を明確にするため、先に本稿の構成を述べてお く。まず序 2~5 では石体事件と廃仏毀釈の情報を論旨 に必要な範囲で概述しておく。2章では投谷八幡宮の 石体の文献史料と実測結果を提示する。それを受けて 3章では石体事件、4章では廃仏毀釈の問題について 考察し、新たな知見を提示する。最後に2つの視点か ら投谷八幡宮の石体の物質史料としての重要性を示す。 序 -2. 投谷八幡宮と石体

 投谷八幡宮は鹿児島県曽於郡大隅町に位置し、北の 栗野八幡 ( 正若宮八幡宮 )、南の鹿児島神社 ( 下宮神社 )、 西の荒田八幡と並んで神領の四至を成していた鹿児島 神宮の別宮である。和銅元年の創建と伝えられ*1、正

面三間側面二間の向拝柱のない流造の現本殿は、その 細部意匠から延享五年、摂社の四所宮・地主社は棟札

より万治三年の建立と推定されている。元より肝付氏、 島津氏の崇敬篤く、慶長七年の島津義久・家久の和歌、 文化二年の斉宣の短歌等が残る。石体は投谷八幡宮の 末社として谷底の社殿から南南西の斜面に鎮座する。 江戸期を通じ信仰を集め、近代以後も村社として本殿、 末社ともに行き届いた管理がなされてきた。

序 -3. 鹿児島神社の石體神社と石体事件

 鹿児島神社にも石体を神体とした石體神社が存在す る。ここは主祭神の日子穂穂出尊が初めに都した旧高 千穂宮跡であり、欽明天皇五年に八幡神が垂迹した*2

地とされる。この石体は同社が八幡神の本家の地位を 獲得するにあたり極めて重要な役割を果たした。具体 的にいうと、天承二年、同社に八幡の文字を付した二 基の石体が出現したことを神官が大隈国司を通して朝 廷に上申し、これを朝廷が事実と認知した*3。そして

本家の証として鹿児島神社に正八幡の称号を与えた。 この事件の背景について日隅正守 (2010) は「石体事 件を起こして八幡正宮の神威を向上させる必要があっ た理由は大隅国司・八幡正宮は、大隅国内における藤 原摂関家領荘園島津荘域拡大を阻止するために、かつ 藤原摂関家の支配下にある八幡宇佐宮や藤原摂関家と 関係を有していたと考えられる八幡石清水に対抗して いくために、八幡正宮は八幡宮発祥の神社である事を 主張したと考えられる」と整理する。端的に言うと、 大隈国司と鹿児島神社の共謀を推察する。しかしなが ら朝廷側の判断は当時内覧に復権していた藤原忠実 や、朝廷と結びつきの強い岩清水八幡宮や宇佐八幡宮

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との軋轢が予測されることから、裁定の理由は定かで はなく、石体事件は未だ不明な部分を多分に残す。  なお鹿児島神社の石体が二基であるとする点は、神 宮皇后の三韓征伐伝説との関係性も視野に含め置く必 要がある。八幡信仰には、神功皇后の三韓征伐の際、 任務の最中で産気づき、二枚* 4の石を御裳に差し入

れて鎮めたという伝承があり、その鎮懐石として唐津 の本宮八幡宮では二石を祀る。

序 -5. 廃仏毀釈

 明治元年、神道国教化を目指した神仏分離令に端を 発した、廃仏毀釈と呼ばれる仏教排斥の動きが全国を 包んだ。特に鹿児島は平田篤胤らの国学神道の強い影 響を受けた地であった。例えば安政五年には島津斉彬 が寺院の梵鐘を徴収して兵器鋳造を計画*5、慶応元年

には具体的な廃寺案が島津忠義に提出される等、神仏 分離令以前より仏教排撃の気運があった。故に明治の 廃仏毀釈は苛烈を極めた*6。戊辰戦争終結後の明治二

年三月、忠義夫人の葬儀を神式で行い島津氏が仏教か ら離脱したのを皮切りに、同年十一月、知政所の令達 で明確に廃寺の徹底が命じられ、廃寺 1066 ヶ寺、還 俗僧 2964 名に及んだ。更には島津氏菩提寺の福昌寺 さえ破却された。この強烈な印象から、廃仏毀釈は仏 教排斥の側面から語られることが多い。しかしながら 修験道の消滅*7からも分かるように、廃仏毀釈の影

響は仏教のみではない。安丸良夫 (1979) の『神々の 明治維新』は、民俗信仰の抑圧について触れ、廃仏毀 釈による地域の信仰形態の破壊が民衆の精神生活を変 容させたことを指摘する。神仏分離令が様々な信仰に 影響を及ぼした事に鑑みれば、この令は仏教抑制と国 家神道の成立というよりも、不明確・奇怪なものを整 理して宗教大系を再編する点に真の狙いが窺える。

Ⅱ -1. 投谷八幡宮の石体に関する文献記述

 投谷八幡宮の石体に関しては、薩藩名勝志・三国名 勝図会・薩隅日地理纂考に僅かな記載があるのみで、 その由来は不明である。投谷八幡宮には二基の石体が 現存するが、文化三年 (1806) 編纂の薩藩名勝志の記 述には「社頭申方二十余の岸壁に大なる石三あり是を 石体といふ」とあり、天保十四年 (1843) 編纂の三国 名勝図会にも「當社より申の方、二十間餘の巌壁に、 大ひなる石三つあり、其を石躰といふ」とある。明治 四年 (1871) 編纂の薩隅日地理纂考にも同様の記載が あり、石体は本来、三基であったことが窺える。  ところで、上述の三冊の地誌の文言には類似性が見 られる。編纂年代を踏まえて比較すると、薩藩名勝志 は各地を巡見して書かれたのであるのに対し、三国名

図 2. 投谷八幡宮敷地図

図 4. 東側石体正面図

図 5. 西側石体正面図 図 3. 石体神社等高線図

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勝図会は編纂者が改めて現地を調査をすることなく、 薩藩名勝史を底本に纏められたと考えられる。薩隅日 地理纂考は三国名勝図会を底本に、薩藩名勝史を参照 したものと考えられる。三国名勝図会には末社名など 薩藩名勝史にはない記述があるため、村人へ聴取を行 い石体の数を改めて確認した可能性はあるが、少なく とも薩藩名勝史が編纂された江戸末期、薩隅日地理纂 考の記載通りであれば廃仏毀釈渦中の明治初期まで石 体は三基存在していたことになる。

Ⅱ -2. 投谷八幡宮の石体と矢穴

 石体は溶結凝灰岩であり、表出部の形状は円盤状で ある。現存の二基の石体の寸法は、矢穴がある西側の 石体が、幅 12 尺6寸、奥行き 8 尺 2 寸、高さ 6 尺3寸。 東側の石体が幅 8 尺8寸、奥行き 7 尺、高さ 6 尺3寸 である。東側の石体は高さ 4 尺9寸より上部が欠落す るが、頂部に僅かに残る石片から、西側の石体と高さ が揃うことが確認できる。つまり同大の二石が並ぶ。

 二石と一直線に綺麗に並ぶ形で深さ 1.2m、径 4m 程の窪地がある図 5。これは上記の文献史料にある3

つ目の石体の抜き取り痕と考えられる。

 石体が据わる斜面の腐葉土層の 下にはシラス層が確認できる図 7

ことから、石体は地山の削り出し ではなく、別の地から持ち込まれ たことが明らかである。

 西側の石体に残る矢穴口は、長 辺 19~31mm、 短 辺 9~17mm で、 矢穴の深さは 10 ~34mm である図 6。図 8 は矢穴を深く差すために石

の表面を削った痕である

 矢穴の形状や幅から矢穴の年代 を断定するのは難しいが、おおよ その年代観は推定できる。森岡藤人・藤川祐作 (2008) によると、時代を降るにつれ矢穴の幅が狭くなると される*8。投谷八幡宮の石体の矢穴幅 19~31mm は、

豊前および筑前国の石垣や石造物の矢穴を調査・分類 した中村修身 (2017) に従えば、1750~1870 年の間 に多く見られる型式である。感触で言えば、長辺が 30mm 前後の最小サイズといえるものは、幕末から 明治期の可能性が高いと思われる。

Ⅱ -3. 小結 

 上記の文献記録と実測結果をつき合わせると次の2 点が推察できる。①石体は外部から持ち込まれたもの であり、同形同大で整然とした配置をとる。②矢穴が 穿たれた時期は江戸末期から明治初期の可能性が極め

て高い。近代以後の管理状態に鑑みると、廃仏毀釈よ り後に境内で神体の破壊をできる環境は考えづらい。 つまり投谷八幡宮の石体は廃仏毀釈によって矢穴が穿 たれ、一基は持ち去られたと考えるのが妥当である。  この推察の下に以下、投谷八幡宮石体を通じて石体 事件と廃仏毀釈について、新たな知見を示す。

Ⅲ -1. 宇佐八幡宮御許山の三柱の巨石

 鹿児島神社と本家の地位を争った宇佐八幡宮の神体 山である御許山山頂には、投谷八幡宮と同数の三柱の 石体があり図 9、石体権現と呼ばれる。これについては

八幡宇佐宮御託宣集に「(前略 ) 大石有り。立ちて三 本なり。(中略 ) 其よりして八幡大菩薩顕れ給ふ。末 世の人の思願を満さんが為に、示顕したまふ故に、崇 め奉る所なり」とある。この三石に宿る聖体につい ては、御許山に降臨したとされる宗像三女神*9(多岐

津姫・市杵嶋姫・多紀理姫)、あるいは八幡三神(応 神天皇・神功皇后・比売大神)、更には神仏習合の下 での三尊(薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来)等の解 釈が考えられる。御許山には元来太古の磐座信仰とし ての山上巨石への原始的信仰があり、この上に八幡神 の複雑な成立の経緯が重なっているものと考えられる。 何れにせよ、宇佐八幡宮にとって三つの石体は宇佐八 幡の由来・神威を示す原点となる別格的な神体である。 Ⅲ -2. 考察

 鹿児島神社と宇佐八幡宮では、主祭神に違いはある が、両者にとって石体はその八幡神創始の由緒の正当 性を語る上で別格的な聖体である。それ故、鹿児島宮 神領の四至を押さえる投谷八幡宮が石体を所持したの は、その特別な地位により鹿児島神社の形式に倣った 可能性が考えられる。但し、鹿児島神社の石体が二基 である点は気になる。そしてこれは、豊玉姫命の出産 伝説と結びつき、安産の神とされている。また、二基 という数は、先述の神功皇后の出産伝説の鎮懐石二基 と重なる可能性も考えられる。つまり、石体事件で出 現し正八幡の由来となった二基の石体が鎮懐石二基に 象徴されるような、神功皇后の出産伝説(懐に2つの 石を抱えたとする)と結びついて、豊玉姫命の出産伝

図 7. 東側石体頂部とシラス

図 8. 西側石体矢穴群と削り痕

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説を生んだ可能性も考えられる。何れにせよ鹿児島神 社にとって八幡神創始と出産の神としての豊玉姫命 の由緒に強く結びつく石体は二基である。すると、投 谷八幡宮の石体の数三基とは綺麗には整合しないとい う見方もできる。その場合、投谷八幡宮の三基という 数はむしろ、宇佐八幡宮の石体権現の三基と相関する という見方も可能となる。この解釈の下に推察を重ね、 御許山三石と投谷八幡宮石体の違い、すなわち前者が 地山の岩盤石、後者が他所からの持ち込みである点に 注目すれば、宇佐八幡宮の三石の由緒伝説への対抗と 見ることもできる。あるいは、宇佐八幡宮の勢力下に 編入されていたと捉えることも出来る。

 以上、曖昧な推察を列挙した。しかしながら、極限 られた文献史料の下で八幡成立史を議論せざるを得な い逼塞の現況に鑑みれば、物質史料による視点の提示 から、新たな議論を喚起できるのではないかと考える。 Ⅳ -1. 投谷八幡宮の廃仏毀釈

 投谷八幡宮に廃仏毀釈の手が及んだ正確な日時は不 明である。鹿児島における廃仏毀釈では、投谷八幡宮 の別当寺吉祥院の本寺大乗院が初めに廃され、大隅国 二宮の蛭子神社を除く全ての神社は神仏混淆していた ため、仏具・仏像は取り除かれた*10。投谷八幡宮では、

絵図図1に見える本殿南脇の本地堂は現存していない

が、本殿や末社はその姿を現在まで良好な状態で残す。 Ⅳ -2. 廃仏毀釈の実情に関する考察

 八幡神の創始に関して特別な意味を持つと考えられ る石体が破却を受けた事実は、投谷八幡宮の石体が廃 仏毀釈時には神体としての住民の強い信仰と理解を失っ ていた様を窺わせる。当時の住民がこの石体を仏教由来 のものと捉えたとは考えづらい。よって石体は、神仏分離 令で多く処理された猥雑な民俗信仰の崇拝物になってい たと推察される。これは住民だけでなく神官側でさえ同様 の理解であったと考えられる。だからこそ境内の本殿・末 社が従前と変わらず厚い庇護を受ける直ぐ傍で、本地堂 と共に石体の破却を許したと理解できるのではないか。

 また投谷八幡宮では、石体が破却された一方で、小 石を神体とする末社は現代まで良好に維持されてい る。この事から、住民の信仰にとって重要だったもの は、神体・聖体そのものではなく、社殿のような高級 建築物の中に祀られている事だったと考えられる。本 来、社殿を必要としなかった神マツリが仏教と習合し、仏 像のように高級建築物の中に祀られたものに霊験・利益 を感じるようになり、江戸末期にもなると、建築というハ コモノの中に収まっていないものを相対的に軽視し、信仰 における価値感から外れかけていたのではないかと考え

られる。それは品物の価値の捉え方が、包装の有無によっ て大きく変わるという現代にも共通する感覚である。投谷 八幡宮の石体は、神マツリにおいて、建築という包装が 神体そのものよりも重要視されるようになっていたという 信仰の内実を物語る大変興味深い事例と考える。 Ⅴ . 結

 以上、本稿では、投谷八幡宮の石体が本来、三基で あったこと、廃仏毀釈によって破却を受けた可能性が 極めて高いことを指摘した。この二つの前提の下、次 の二つの視点を提示した。①正八幡系の神社にとって、 八幡神本家の地位を保証した神体であるはずの石体が 廃仏毀釈によって毀損された背景には、神マツリにお いて住民・神官ともに、神体そのものよりも、それを 包み隠す建築への関心が相対的に強くなり、社殿を伴 わない神体の価値が相対的に低下していたことが考え られる。②投谷八幡宮の石体がかつて三基であったこ とからは、石体事件を含めた正八幡宮本宮鹿児島神社 と宇佐八幡宮との間の八幡神本家の地位を巡る微妙な 関係を考察する上で、示唆に富むものと思われる。よっ て、投谷八幡宮の石体は、石体事件及び廃仏毀釈の内 実を探る上で、大変興味深い物質史料になると考える。

[ 註 ]

* 1. 参考文献 1, 233-234. 三国名勝図会に記述はあるものの定かではない。 * 2. 宇佐八幡宮に八幡神が顕現したとされる欽明天皇三十二年よりも早いことになる が、八幡神は宇佐から始まったとする説が有力である。

* 3. 参考文献 2, 90-98. 当時の鹿児島神宮から丑寅の方三町ばかりの宮坂の麓の二基 の石体に、八幡の名が出現したことを神人多治則元が発見し、公文所に報告した。宮 主源暹・源芳が確認させたところ、八幡の二文字明瞭であるとして寸法等を記録し、 正宮が大隈国司に牒を奉った。国司はその出現を太宰府に報告し、太宰府が朝廷に報 告したことで朝廷においてその意味が調査され、皇子誕生の吉兆であるとされた。 * 4. 古事記に枚数の記述はなく、萬葉集や住吉大社神代記から石二枚とされている。 * 5. 参考文献 4,943-649. 斉彬は寺院の梵鐘を徴発して兵器鋳造に当てようとしたが、 安政五年の斉彬の死により実行には至らなかった。

* 6. 参考文献 7 續篇上巻 ,507-555. 鹿児島藩の神仏分離政策は明治二年以前は寺院整 理が主であり、仏教排斥ではなかった。

* 7. 修験は天台宗や真言宗の僧侶や神官、または還俗して農民となった。 * 8. 一般に矢穴幅は時代を降るにつれ小さくなると言われるが、朝鮮出兵期の矢穴は 例外的に小さい。

* 9. 参考文献 14,57. 天照大神と素戔鳴尊の誓により生まれた宗像三女神が、宇佐嶋 に降臨した。比売大神は宗像三女神であるとされるが、他に玉依姫等とする説もある。 * 10. 参考文献 7 續篇上巻 , 453. 蛭子神社の神体は古い鏡であり、唯一神仏混淆でな い神社であった。

[ 参考文献 ]

1. 『三国名勝図会』中巻 五代秀堯、橋口兼柄編 南日本出版文化協会 1966. 2. 『大日本古文書 家わけ四之五』 東京帝国大学文科大学史料編 東京帝国大学 1913. 3. 日隈正守「大隈国における建久図田帳体制の成立過程」『鹿児島大学教育学部研究 紀要 . 人文・社会科学編』 60(2009), 75-97.

4. 『鹿児島縣史』 鹿児島縣編 1967.

5. 安丸良夫『神々の明治維新−神仏分離と廃仏毀釈−』 岩波書店 1979. 6. 名越護『鹿児島藩の廃仏毀釈』 南方新社 2011.

7. 『明治維新神佛分離史料』中巻・續篇上巻 村上専精編 東方書院 1926-29. 8. 『薩藩名勝志』巻之十二 吉元正幸、塩満郁夫編 鹿児島県史料集 44(2003), 69-71. 9. 『薩隅日地理纂考』 鹿児島県私立教育会編 1898, 19-20.

10. 森岡秀人、坂田典彦「矢穴の型式学」『古代学研究』180(2008), 405-418. 11. 中村修身「城郭石垣の改築と修理について−矢穴の編年基礎作業−」『中世城郭研 究』31(2017), 76-100

12. 三ツ石友三郎『鹿児島神宮史』 鹿児島神宮社務所 1989. 13. 『八幡神社−歴史と伝説−』 神社と神道研究会編 勉誠出版 2003. 14 田中頼庸 校『古事記 : 校訂 . 中』 神宮教院 1887, 57.

15. 『萬葉集』巻五 慶長年間 , 12.

16.『住吉大社神代記』 田中卓編 住吉大社神代記刊行会 1951.

17.『日本書紀 : 訓読』上巻 黒坂勝美編 岩波書店 1928.

参照

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