中 関 白 家 周 辺 論 二 題
関 口
力
は じ め に 筆者
は先 に︑ いわ ゆる 中関 白家 に属 する 人々 につ いて 述べ る機 会が あ っ た⑴
︒ い うま で も なく
︑中 関 白 流と は 藤 原 摂 関家 道隆 流を 指し
︑そ の栄 華は 道隆 の娘
・定 子に 仕え た清 少納 言の
﹃枕 草子
﹄の 随所 に記 され る章 段か らも 容易 に 推 察さ れる とこ ろで ある
⑵
︒た だし
︑そ の栄 光も 長徳 の変
︵九 九六
︶と 呼ば れ る 伊 周・ 隆家 兄 弟 によ る 恋 愛関 係 の 誤 解 に基 づく 花山 院と の闘 乱事 件に 端を 発す る処 分に より
︑一 挙に 凋落 の道 をた どる こと とな った
︒ 小稿 にお いて は︑ 先著 にお いて 触れ るこ との 出来 なか った 中関 白家 の人 々に つい て︑ いわ ば落 穂拾 い的 な作 業を 試 み てみ たい
︒ ま ず第 一 に 藤原 隆 家︒ 一 夜 に し て 古 び た る 家 と な り 果 て
︑﹁ 恰 も 彗 星 の 如 く に 光 り 輝 き
︑そ し て 消 え 失 せ て 行 っ た
﹂⑶
一家 では ある が︑ その なか にあ って
︑ひ とき わ光 彩を 放つ 人物 とい える
︒﹃ 大鏡
﹄第 四巻 には
︑ 元
の中 納言 にな りや
︑ま た兵 部卿 など こそ はき こえ させ しか
︑そ れも
︑い みじ う魂 おは すと ぞ︑ 世人 に思 はれ た
― 325 ―
ま へり し︑
︵ 中略
︶こ の殿 御う しろ みも した まは ば︑ 天下 のま つり ごと はし たた まり なん
︑ と
︑当 時の 世評 につ いて の記 載が ある 如く であ り︑ 道長 の時 代に あっ て︑ それ に対 抗す べき 人物 とし て名 前が 挙が っ て いる
⑷
︒ 第二 に︑ 中関 白家 の隆 盛の 基を 築い た藤 原定 子︒ 彼女 は周 知の よう に︑ 一条 天皇 の後 宮を 独占 し︑ 当時 の有 力貴 族 子 弟の オア シス とな るサ ロン を形 成し た人 物で ある
⑸
︒し かし
︑長 徳の 変に よ り そ の光 彩 は 一挙 に 薄 れ︑ 二十 五 歳 の 若 さで この 世を 去る こと にな る︒ 小稿 にお いて は︑ 前者 につ いて は道 長女 中宮 妍子 との 関係 につ いて
︑ま た後 者で はそ の遺 詠か ら見 た彼 女の 為人 に つ いて 見て おき たい
Ⅰ ︒ 藤 原 隆家 と 中 宮妍 子 一
藤原 隆家 は︑ 長和 三年
︿一
〇一 四﹀ 十一 月の 除目 にお いて
︑大 宰 帥 に 任ぜ ら れ⑹
︑ 翌 年四 月
︑従 二 位に 叙 さ れ︑ 任 地 に赴 任す るこ とに なる
⑺
が︑ そも そも この 職は 隆家 自身 が望 んだ もの で あ っ た︒ その 理 由 とし て
︑当 時 患っ て い た 眼 病の 平癒 と共 に︑ 当時 の中 央宮 廷社 会か らの 逃避 があ った と考 えら れる
⑻
︒ さて
︑隆 家が 大宰 府赴 任の ため 筑紫 に旅 立つ 前日
︑都 では 恒例 の賀 茂祭 が行 われ たが
︑そ の模 様に つい て﹃ 栄花 物 語
﹄巻 第十 二︵ たま のむ らぎ く︶ には
︑
中関白家周辺論二題 ― 326 ―
か くて 帥中 納言
︑祭 のま たの 日下 りた まふ べけ れば
︑さ るべ き所 どこ ろよ り︑ 御馬 のは なむ けの 御装 束ど もあ る な かに
︑中 宮も とよ り御 心寄 せ思 ひき こえ させ たま へり けれ ば︑ さべ き御 装束 せさ せた まひ て︑ 御扇 に︑ 涼 しさ は 生き の松 原 まさ ると も 添ふ る扇 の 風な 忘れ そ か くて われ はか ちよ り︑ 北の 方を ば船 より 下し たま ふ︑ と
の記 述が あり
︑中 宮妍 子が 隆家 に餞 別と して 扇を 送っ たこ とを 伝え てい る︒ 三条 天皇 中宮 の妍 子︿ 九九 四〜 一
〇二 七
﹀は 道 長の 女 で︑ 一 方藤 原 隆 家︿ 九 七九
〜一
〇 四 四﹀ は道 隆 の 男 であ る
︒ い うま でも なく
︑道 長も 道隆 も兼 家の 子で あり
︑両 者の 母は 藤原 時姫 であ るこ とか ら︑ 妍子 と隆 家は 十五 歳の 年の 開 き のあ る従 兄妹 同士 の関 係に あっ た︒ さ て︑ 扇は
﹁ま た 逢 ふ﹂ に通 じ
︑旅 行 の餞 別 と し てよ く 送 られ た も の と思 わ れ る⑼
が
︑妍 子 と隆 家 の 間 柄 に 加 え
︑ 餞 別 の 扇が 当 時 の一 般 的 な 慣習 儀 礼 によ っ た もの で あ る とす る な ら︑
﹁も と よ り御 心 寄 せ 思ひ き こ えさ せ た ま へ り
﹂ の 説明 はつ かな いよ うに 思え る︒ そこ で︑ 両者 の接 点を 記録 に求 める なら
︑長 和元 年︿ 一〇 一二
﹀閏 十月 二十 七日 に挙 行さ れた 三条 天皇 の大 嘗会 御 禊 に求 める こと がで きよ う︒ 当日
︑女 御代 には 十四 歳の 道長 女・ 威子 が務 める こと とな り︑ その 車が 二十 両続 いた がこ の中
︑皇 太后
︵故 一条 天 皇 中宮
・彰 子︑ 道長 長女
︶と 中宮 妍子 がそ れぞ れ三 両ず つ出 車し
︑女 房た ちを 盛装 して 乗り 込ま せた
︒そ の模 様に つ い て﹃ 栄花 物語
﹄巻 第十
︵ひ かげ のか づら
︶に は︑
― 327 ― 中関白家周辺論二題
そ の車 の有 様い へば おろ かな り︑ ある は家 形を 造り て︑ 檜皮 を葺 き︑ ある は唐 土の 船の 形を 造り て︑ 乗り 人の 袖 な りよ りは じめ て︑ それ にや がて 合せ たり
︒︵ 中 略︶ この 世界 のこ とと も見 えず
︑照 り満 ちて わた るほ どの 有様
︑ 推 しは かる べし
︑︵ 中 略︶ 過ぎ にし 方は いは じ︑ 今行 く末 もい かで かか るこ とは と見 えた り︑ と
︑そ の華 やか な風 流ぶ りで あっ たこ とが 記さ れて おり
︑三 条天 皇の 大嘗 会御 禊で あり なが ら︑ さな がら 道長 一家 の 示 威行 動で あっ た観 があ る︒ ただ し︑ さら に注 意を ひか れる のは
︑﹃ 大 鏡﹄ 第四 巻に 述べ られ る次 の記 述で ある
︒ 三
条 院 の大 嘗 会 御禊 に き ら めか せ 給 へり し さ まな ど こ そ︑ つ ねよ り も こと な り しか
︑人 の こ の き は は︑ さ り と も
︑く づを れた まひ なん とお もひ たり しと ころ をた がへ んと
︑お ぼし たり しな めり
︑さ やう なる とこ ろの おは し ま しし なり
︑ こ
こで は隆 家が きら びや かな 衣装 を身 に着 けて 参加 した こと が記 され てい る︒ その 理由 とし て︑ 彼が 気落 ちし てい る だ ろう と思 って いる 当時 の宮 廷社 会の 雰囲 気に 対し て︑ その 予想 を覆 そう とし た負 けず 嫌い の性 格を 述べ てい る︒ な お
︑隆 家が 気落 ちし てい ただ ろう と思 われ てい た背 景に つい ては 後述 する こと とし たい
︒ さて
︑道 長自 身も この 行事 には 相応 の援 助は して いる が︑ それ でも
︑﹃ 御 堂関 白記
﹄に は︑ 檳
榔毛 金作 三車
︑一 車春 宮大 夫︿ 斉信
﹀︑ 一 車太 皇太 后宮 大夫
︿公 任﹀
︑一 車皇 太后 宮大 夫︿ 俊賢
﹀︑
︵ 中略
︶唐 車 三 両
︑是 皇 太后 宮 女 房乗 之
︑奉 車 人 々 大 夫
︿道 綱
﹀︑ 左 衛 門 督
︿頼 通
﹀︑ 権 大 夫︿ 教 通 ヵ
﹀︑ 三 車 中 宮 女 房 乗 之
︑
中関白家周辺論二題 ― 328 ―
皇 后宮 大夫
︿隆 家﹀
︑ 左右 宰 相 中将
︿兼 隆
・経 房﹀ 等 也︑ 件六 車 其 様 雖似 例 車︑ 甚 以奇 怪
︑風 流 非以 詞 可 云︑ 所 未 見也
︑目 耀心 迷︑ 非可 書記
︑ と
不快 な驚 きを 書き 遺し てい る︒ また
︑妍 子の 出車 には 隆家 が預 かっ てい たこ とも 知ら れる ので ある
︒ こう した 晴の 行事 に皇 太后
︑中 宮の 女房 たち がそ の華 やか さを 競い
︑色 めき 立っ たこ とは 特異 なこ とで はな いに し て も︑ こう した 風潮 に中 宮が 迎合 し︑ それ に隆 家が 付き 合っ たと いう だけ でな いこ とは
︑先 の﹃ 大鏡
﹄の 指摘 から も 推 考さ れる ので ある
︒
﹃ 二 大鏡
﹄が
︑隆 家は 気落 ちし てい ると の宮 廷社 会の 雰囲 気 が あっ た と 述べ る 背 景 には
︑妹 定 子 が生 み 遺 した 一 条 天 皇 の第 一皇 子敦 康親 王の 存在 があ るに もか かわ らず
︑一 条天 皇は 三条 天皇 への 譲位 の際
︑道 長の 思惑 を惧 れ︑ 道長 女
・ 彰子 腹の 第二 皇子 敦成 を東 宮に 指名 した
⑽
こと によ り︑ 凋落 した 中関 白家 の再 興 が 絶 たれ た こ とを 示 し てい る と 考 え られ るが
︑彼 が落 ち込 む理 由は それ だけ では なか った と考 えら れる ので ある
︒ 妍子 が三 条天 皇の 後宮 に入 った のは
︑天 皇が まだ 東宮 時代 の寛 弘七 年︿ 一〇 一〇
﹀二 月の こと であ った が︑ 当時 居 貞 親王 には 妍子 より 早く
︑自 ら求 めて 妃と した もう 一人 の女 性の 存在 があ った
︒故 大納 言藤 原済 時女 䑗子
︿九 七二
〜 一
〇 二 五﹀ であ る
︒䑗 子 と妍 子 は 三 条天 皇 即 位後 の 寛 弘八 年 八 月 二十 三 日︑ 同 時に 女 御 とな る が︑ 翌 長 和 元 年 年 二 月
︑妍 子は 中宮 とな り︑ 天皇 は䑗 子を 皇后 に 立て よ う とす る が︑ 道 長は 冷 淡 で あっ た
︒﹃ 御 堂関 白 記﹄ 同 年三 月 七 日 条 に
― 329 ― 中関白家周辺論二題
従 内右 大弁 来︑ 今日 以宣 耀殿 女御
︑可 立皇 后宣 旨下 如何 者︑ 令奏 云︑ 先日 承仰 事︑ 可随 左右 仰云
︑宣 旨下 云々 と
記さ れる 如く であ った
︒ 結 局︑ 四月 に 䑗 子は 立 后 する こ と に なり
︑立 后 の 儀は 二 十 七 日に 行 わ れた が
︑同 日 道長 は
︑殊 更 中 宮 妍 子 を し て 麓 々し く吉 田祭 を奉 仕せ しめ
︑上 達部 を召 集し た︒ 吉田 祭は
﹃江 家次 第﹄ 巻第 六に
︑ 后
宮被 設饗
︵后 宮可 被設
︑若 有障 者︑ 氏大 臣設 之︑ 共有 障︑ 兼日 仰諸 司令 設︶
︵
︶内 は割 注 と
ある よう に︑ 中宮 妍子 が設 饗す るこ とは 筋が 通っ てい る︒ ただ
︑立 后の 日を 吉田 祭に ぶつ けた のは 道長 の意 向で あ っ た ろ うし
︑道 長 の 妨遏 と も い える 行 為 によ り
︑立 后 の儀 式 は 惨 澹た る 一 幕と し て 了っ た
︒儀 式 の 次 第 に つ い て は
﹃小 右記
﹄に 詳述 され てい るが
︑た だ︑ 吉田 祭に 関し ては
﹃御 堂関 白記
﹄に は︑ 被
指 不 参人 右 大 将︵ 実資
︶候 内
︑依 召 云 々︑ 隆 家 中 納 言 今 大 夫︑ 右 衛 門 督︵ 懐 平︶
︑ 年 来 相 親 人 也︑ 今 日 不 来
︑ 奇 思不 少︑ 有所 思歟
︑ と
記さ れ︑ また 立后 儀式 につ いて は︑
中関白家周辺論二題 ― 330 ―
参 入上 達部 実資
・隆 家・ 懐平
・通 任等 四人 云々
︑不 候侍 従︑ 不参 殿上 人一 人云 々︑ と
記さ れる よう に︑ それ ぞれ の儀 式の 参加 者に つい てこ だわ った 見解 を述 べて いる
︒こ れに よる と︑ 実資 自身 道長 か ら 吉田 祭奉 仕の 誘い を受 けて おり
︑敢 えて 立后 に奉 仕し た理 由に つい て︑ 内
竪来 云︑ 先式 部仰 云︑ 大臣 三人 有障 不参
︑未 剋以 前可 参入 者︑ 不知 何事
︑所 推量 者若 今日 立后 事歟
︑憚 左相 府 所 被参 歟︑ 天無 二日
︑地 無二 主︑ 仍不 懼巨 害耳
︑ と
述べ
︑ま た翌 日に は 思
昨日 事︑ 弥知 王道 弱臣 威強
︑ と
の感 慨を 書き 遺し
︑い かに も実 資ら しい 大義 名分 論を 展開 して いる
︒ それ はと もか くと して
︑天 皇の 懇請 を受 けて 敢え て参 内し たの は実 資た だ一 人で あり
︑実 資の 兄の 懐平 と懐 平の 男 で ある 資平
︑そ して
︑隆 家が 実資 に従 った ので ある
︒ 懐平 は実 資の 兄で ある が︑ 一生 変わ るこ とな く実 資に 随順 し︑ 資平 もま た忠 実な 彼の 手足 であ った
︒隆 家は
︑か っ て 兄伊 周の 愛人 関係 の誤 解に 基づ く花 山院 襲撃 とい う愚 行に 加担 し︑ 流罪 に処 され た際
︑配 流地 の減 刑を 実資 に請 う て 斡旋 され て以 来実 資を 師父 と仰 ぎ︑ 心従 して る人 物で ある
⑾
︒そ して
︑隆 家 は 䑗 子の 立 后 に際 し
︑皇 后 宮大 夫 に 任
― 331 ― 中関白家周辺論二題
ぜ られ てい るの であ る︒ 三
さて
︑長 く贅 言を 費や した が︑ 隆家 は︑ いわ ば妍 子の ラ イバ ル で ある 䑗 子 の後 見 を す る立 場 に あっ た こ と にな る
︒ そ の彼 に妍 子の 出車 への 奉仕 を命 じた のは
︑道 長の 悪意 と考 えざ るを 得な い︒ 䑗子 立后 のあ と︑ 道長 は日 頃兄 事す る実 資に 対し ては こだ わり を露 に し なか っ た⑿
が
︑隆 家 は 身近 な 甥 であ る だ け に 不快 の念 を隠 さな かっ たと 思わ れる
︒立 后の あっ た翌 月の 五月 十一 日の
﹃小 右記
﹄の 記事 には
︑ 左
大臣 参入
︑定 申仁 王経 不 断御 読 経 僧名
︑︵ 中 略︶ 皇 后宮 大 夫 隆 家︵ 早出
︑似 有 事 故︑ 依皇 后 宮 大夫 事
︑左 府 気 色 不宜 歟︑ 隆家 卿無 怖畏 気︶
︑ と
あり
︑隆 家は 参内 した が︑ 公事 が終 る前 に退 出し てし まう
︒そ の背 景に は︑ 先の 大嘗 祭御 禊の 際の 出車 の指 示と 共 通 した 道長 の嫌 がら せが あっ たも のと 感じ られ る︒ また 同様 のこ とが 八月 にも あっ た︒ 同じ く﹃ 小右 記﹄ 八月 二十 一 日 条に は︑ 皇
后宮 大夫 隆家
︑従 内示 送云
︑今 日可 被任 尚侍
︑可 行其 事者
︑頗 有鬱 々気
︑左 中弁 云︑ 左宰 相中 将参 入︑ 執筆 料 歟
︑若 左府 女可 任歟
︑
中関白家周辺論二題 ― 332 ―
と あり
︑道 長の 三女 威子 を尚 侍に 任ず るに あた り︑ そ の儀 式 の 行事 を 道 長か ら 指 名 され た こ とを 隆 家 は︑
﹁頗 る 鬱 々 た る気
﹂と なっ てい るこ とを 実資 に告 げて いる ので ある
︒ 妍子 は威 子の 姉で ある が︑ 彼女 も道 長に 対し て不 満を 持つ 理由 があ った
︒三 条天 皇は 即位 した とき
︑三 十六 歳の 壮 年 であ り︑ 即位 当初 から 道長 と対 立し てい た⒀
︒ 一条 天皇 の隠 忍を 傍ら から 見て い て 歯 がゆ く 思 って い た こと も あ ろ う
︒妍 子と すれ ば︑ 夫で ある 三条 天皇 の態 度も さる こと なが ら︑ 父道 長の 専横 も快 いは ずは なか った だろ う︒ この よ う な父 に対 する 鬱屈 は︑ 隆家 の心 情に 直接 共感 する もの であ り︑ 妍子 の心 を隆 家に 向け させ た要 因と いえ ない であ ろ う か︒ 隆家 は妍 子に とっ ては
︑先 に記 した よう にラ イバ ルと すべ き䑗 子皇 后の 大夫 であ るが
︑誰 もが 為政 者道 長の 覚 え をか たじ けな くす るた め︑ 妍子 のも とに 伺候 した そ の日 に
︑敢 え て実 資 に 従い 䑗 子 の 立后 に 奉 仕し た 彼 の 態度 は
︑ か えっ て頼 もし く女 性と して の妍 子の 心を 強く 惹く もの であ った ろう
︒ 夫三 条天 皇の 一世 一代 の大 嘗祭 のハ イラ イト であ る女 御代 行列 を盛 り上 げよ うと する 妍子 の情 熱は
︑隆 家に とっ て も また 共感 すべ き道 長に 対す る意 地に も似 た感 情に 基づ くも ので ある だけ に︑ 隆家 にと って も妍 子後 宮に おけ る女 御 代 行列 への 奉仕 は︑ 家系 のこ とに 捉わ れず 熱 が入 っ た もの と 考 えら れ る
︒﹃ 大 鏡﹄ が﹁ きら め か せ給 へ り しさ ま な ど こ そ︑ つね より もこ とな りし か﹂ と述 べた 所以 と思 われ るの であ る︒ 四
さて
︑隆 家が 大宰 府に 赴任 する 際に 妍子 が詠 んだ とい う 涼
しさ は 生き の松 原ま さる とも
添 ふる 扇の
風 なわ すれ そ
― 333 ― 中関白家周辺論二題
の
﹁ま さる
﹂は
︑云 まで もな く︑ 筑紫 の景 勝地 であ る生 松原 と京 都に 比し ての こと であ ろう
︒そ して
︑扇 に添 えて 差 し 上げ る涼 しい 風を お忘 れに なり ませ んよ うに と述 べる のは
︑京 都に 残る 妍子 が隆 家に 送る 切実 且つ 真摯 な心 情の 吐 露 で あ った ろ う︒ こ の和 歌 か ら 妍子 の 隆 家に 対 す る真 摯 な 同 情と 共 に 彼女 の 深 い弧 寥 を 感 ぜず に は おれ な い の で あ る
︒ 隆 家は 御 禊 行事 の あ と︑ 年末 に 突 目⒁
で 目 を 傷つ け た︒
﹃ 御堂 関 白 記﹄ 長 和二 年 正 月十 日 条 には
︑東 宮 敦 成 親 王 の 朝 覲行 啓の 模様 につ いて の記 述が ある が︑ その 中で
︑ 只
皇后 宮大 夫一 人不 候︑ 是去 年依 突目
︑日 来籠 居也
︑ と
あ る︒ こ のあ と
︑二 月 には 皇 后 宮 大夫 を 辞 し⒂
︑ 閑居 を 続 けて
︑絶 え て 朝 廷に は 出 仕し な い︒ 彼 は 元 来︑
﹁ や ま と ご ころ かし こく おは する 人﹂⒃
と の評 価が あり
︑道 長の 嫌が らせ に 対 し︑
﹁ 怖畏
﹂す る こ とは 無 か った
︒し か し
︑䑗 子 立 后へ の奉 仕以 後︑ 道長 やそ の与 党で ある 廷臣 たち との 感情 的疎 隔の 煩わ しさ には 耐え られ なか った に違 いな い︒ 突 目 を機 会に 皇后 宮大 夫の 職を 投げ 出し たの もそ の一 つの 表れ であ った であ ろう が︑ やは り敗 北の 感は 蔽え なか った で あ ろう
︒ 妍子 自身 も︑ 長和 二年
︑皇 女禎 子内 親王 を 生む が
︑父 道 長は 孫 の 誕生 を 喜 ぼ うと は し ない
︒﹃ 小 右 記﹄ 七月 七 日 条 に は︑ 暁
更人 々云
︑中 宮御 産平 安 遂給 云 々︑
︵ 中略
︶資 平 帰 来云
︑相 府 已 不 見給 卿 相・ 宮 殿人 等
︑不 悦 気色 甚 露
︑依 令
中関白家周辺論二題 ― 334 ―
産 女給 歟︑ 天之 所為 人事 何為
︑ と
︑実 資が 批判 して いる ごと く︑ 外祖 父藤 原道 長は 皇女 であ った こと に対 し︑ 露骨 な不 快感 を見 せて いる
︒ また
︑三 条天 皇と 道長 の関 係は
︑天 皇の 健康 状態 が悪 化し
︑道 長も また しば しば 病ん でい るこ とか ら︑ 泥沼 化す る 一 方で あり
︑道 長は 天皇 に対 し︑
﹁ 一切 不承 従﹂⒄
との 態度 で臨 み︑ つい には 天皇 に 譲 位 を迫 っ て やま ね と いう 事 態 に 陥 った
︒ 隆 家が 大 宰 府権 帥 の 職を 志 望 し たの は
︑唐 医 によ る 眼 病 の治 療 を 受け る こ とが 表 面 的 な一 因 で あ っ た が︑ 根 本 に は
︑厭 離宮 廷︑ 厭離 京都 にあ った ろう
︒ 隆家 の心 情を 察し
︑彼 の筑 紫行 を彼 のた めに 喜び とし たに 違い ない
︒そ して
︑隆 家は 筑紫 に赴 けば
︑深 呼吸 をす る こ とも 出来 よう
︒ ただ し︑ 隆家 が京 都を 去ろ うと して いる のは
︑妍 子が 右に 述べ た様 な状 態に ある 最中 であ った
︒妍 子は 息づ まる 京 都 を捨 てて どこ へ赴 くこ とも 出来 ない ので ある
︒ こう した 環境 で詠 まれ たの が﹁ 涼し さは
﹂の 和歌 であ り︑ 妍子 が隆 家に 託し た心 情を 端的 に表 現さ れた もの と思 わ れ るの であ る︒
Ⅱ 皇 后 定子 の 遺 詠 中関
白藤 原道 隆︿ 九五 三〜 九九 五﹀ の一 女 定 子︿ 九七 六
〜一
〇
〇〇
﹀は
︑永 祚 元 年︿ 九八 九
﹀十 月︑ 着 裳 の儀
⒅
を
― 335 ― 中関白家周辺論二題
終 え︑ 翌正 暦元 年正 月に 一条 天皇
︿九 八〇
〜一
〇一 一﹀ が十 一歳 で元 服す ると 共に 入内 し女 御・ 従四 位下
︑同 年十 月 に は中 宮と なる が︑ 当時 後宮 には 太皇 太后 昌子 内親 王︑ 皇太 后藤 原詮 子︑ 皇后 藤原 遵子 がお り︑ 藤原 実資 は﹁ 皇后 四 人 例︑ 往古 不聞 事也
﹂と 批判 して いる
⒆
︒ さて
︑﹃ 枕 草子
﹄二 九七 段に は︑ 定子 入内 後の ある 日の スケ ッチ が描 かれ てい る︒ そこ には
︑ 大
納言 参り 給ひ て︑ 文の こと など 奏し 給ふ に︑ 例の
︑夜 いた く更 ける ぬれ ば︑ 御前 なる 人々
︑一 人二 人づ つ失 せ て
︑御 屏風
︑御 几帳 の後 ろな どに みな 隠れ 臥し ぬれ ば︑ ただ 一人
︑ね ぶた きを 念じ てさ ぶら ふに
︑丑 四つ と奏 す な り︑
︵ 中略
︶大 納言 殿︑ 今さ らに な御 殿籠 おは しま しそ とて
︑寝 るべ きも のと もお ぼい たら ぬを
︑︵ 中略
︶上 の 御 前の
︑柱 に寄 りか から せ給 ひて
︑少 しね ぶら せ給 ふを
︑か れ見 る奉 るら せ給 へ︑ 今は 明け ぬる に︑ かう 御殿 籠 る べき かは と申 すせ ば︑ げに など
︑宮 の御 前に も笑 うひ 聞え させ 給ふ も知 らせ 給は ぬ︑ と
記さ れる
︒こ れは 正暦 五年 五月 頃の 描写 とさ れ⒇
︑ 一条 天皇 十五 歳︑ 定子 十九 歳︑ 伊周 二十 一歳 の年 であ った
︒ ただ し︑ この よう な牧 歌的 な幸 福も 平和
!
も︑ 翌長 徳元 年︑ 関白 道隆 が酒 毒の た め 四 十三 歳 で 早世 し て しま う こ と に より
︑脆 くも 崩れ 去る ので ある
︒ 道隆 は死 期を 悟り
︑一 男伊 周を 関白 後継 者た らし めよ うと する が︑ 伊周 はそ の若 年と 政治 的未 熟さ によ り︑ 周囲 の 老 獪 な 官人 群 の 衆望 を 得 る こと が 出 来ず
︑関 白 職 は道 隆 の 次 弟道 兼 に 横滑 り し てし ま う
︒し か し︑ 道 兼 も 文 字 通 り
﹁七 日関 白﹂ とし て世 を去 るや
︑政 権は 道兼 の弟 道長 に渡 って しま う︒ のみ なら ず︑ 翌長 徳二 年正 月十 六日
︑宮 中で は女 踏歌 の節 会の 浮か れ気 分の 夜︑ 伊周 が自 己の 情人 に密 通し てい る
中関白家周辺論二題 ― 336 ―
と の誤 解か ら花 山法 皇を 弟隆 家と 謀っ て襲 撃す ると いう 愚行 を犯 し︑ 兄弟 それ ぞれ 太宰 権帥
・出 雲権 守に 配流
︑左 遷 の 憂目 に遭 うこ とが 生じ
︑中 関白 一族 はま った く宮 廷社 会か ら失 脚し てし まう
︒ 兄弟 のス キャ ンダ ル発 覚後
︑定 子は 里第 であ る二 条第 に退 出す る︒ そし て︑ 一条 天皇 の後 宮は
︑定 子独 占体 制が 崩 れ
︑内 大臣 藤原 公季 女義 子︑ 右大 臣藤 原顕 光女 元子
︑故 関白 藤原 道兼 女尊 子が 次々 と送 り込 まれ
︑長 保元 年十 一月 に は
︑道 長も その 一女 彰子 が十 二歳 にな るの を待 ちか ねた よう に入 内さ せる こと とな る︒ ただ し︑ 一条 天皇 の定 子に 対す る愛 は変 わる こと が無 かっ た︒ 里第 に退 出し た時
︑定 子は すで に妊 娠し てお り︑ 長 徳 二年 年末 には 第一 皇女 脩子 内親 王を 出産 して いる
!
︒長 徳三 年四 月に は︑ 一条 天 皇 の 母で あ る 東三 条 院 詮子 が 病 ん だ こと によ る大 赦に 浴し
︑伊 周・ 隆家 兄弟 の帰 郷が 許さ れた
"
のを 機に
︑天 皇は 脩 子 内 親王 と の 対面 を 理 由に 定 子 を 入 内せ しめ
︑そ のま ま後 宮に 留め る措 置を とる
︒定 子は その 後再 び懐 妊︑ 長保 元年 八月 に里 第に 退出 し︑ 十一 月に は 第 一皇 子敦 康親 王を 出産
︒こ のと きも 産後 の休 養も そこ そこ に親 王対 面の 召し を受 け︑ 翌長 保二 年二 月に 再び 入内 す る
︒そ し て また も や 懐妊 し
︑同 年 十 二月 十 五 日に 平 生 昌第 に お い て䆿 子 内 親王 を 出 産す る が
︑そ こ で 力 が 尽 き た 如 く
︑二 十五 歳の 若さ で崩 御し てし まう
︒ 定子 の葬 送の 宵は 大雪 であ った らし い︒
﹃ 栄花 物語
﹄巻 第七
︵と りべ 野︶ には
︑ 今
宵し も雪 いみ じう 降り て︑ おは しま す べき 屋 も みな 降 り 埋み た り
︑︵ 中 略︶ 内に は
︑今 宵 ぞか し と 思し め し や り て︑ よも すが ら御 殿籠 らず 思ほ し明 かせ たま ひて
︑御 袖の 氷も とこ ろせ く思 しめ され て︑ 世の 常の 御有 様な ら ば
︑︑ 霞ま ん野 辺も なが めさ せた まふ べき をい かん せん との み思 しめ され て︑ 野 辺ま でに
心 ばか りは
通 へど も わが 行幸 とも
知 らず やあ るら ん
― 337 ― 中関白家周辺論二題
な ど思 しめ し明 かし ける
︑ と
ある
︒﹁ 行 幸﹂ は勿 論﹁ 深雪
﹂に 通わ せて いる ので あ ろ うが
︑二 十 一 歳の 青 年 一 条天 皇 の︑ 降 り積 も る 雪を 見 つ め つ つ︑ いや 深ま る哀 傷と 弧寥 とが
︑レ トリ ック を超 え︑ 実に 自然 に表 現さ れて いる とい えよ う︒ 定子 の死 後︑ 里第 の帳 台の 帷に 結び 付け ら れて い た 彼女 の 三 首の 遺 詠 が 見出 さ れ た︒
﹃栄 花 物 語﹄ 巻第 七
︵と り べ 野
︶に は 宮
は御 手習 をせ させ たま ひて
︑御 帳の 紐に 結び つけ させ たま へり ける を︑ 今ぞ 帥殿
︑御 方々 など 取り て見 たま ひ て
︑こ のた びは 限り のた びぞ
︑そ の後 すべ きや うな ど書 かせ たま へり
︑い みじ うあ はれ なる 御手 習ど もの
︑内 裏 わ たり の御 覧じ きこ しめ すや うな どや と思 しけ るに やと ぞ見 ゆる よ もす がら
契 りし こと を 忘れ ずは
恋 ひん 涙の
色 ぞゆ かし き ま た︑ 知 る人 も なき 別れ 路に
今 はと て 心細 くも
急 ぎた つか な ま た︑ 煙 とも
雲 とも なら ぬ 身な りと も 草葉 の露 を それ とな がめ よ な ど︑ あは れな る事 ども 多く 書か せた まへ り︑ と
載せ る!
︒ この 三首 の遺 詠︑ 特に 第一 首の 和歌 と︑ 次に 引用 する
﹃枕 草 子
﹄の 記 述を 思 い 合わ せ る と︑ 定子 に は ナ
中関白家周辺論二題 ― 338 ―
ル シシ ズム の気 があ った ので はな いか と推 測さ れる ので ある
︒﹃ 枕 草子
﹄一 七九 段に は︑ 宮
には じめ て参 りた るこ ろ︑ もの の恥 か しき こ と の数 知 ら ず︑
︵中 略
︶も の な ど仰 せ ら れて
︑我 を ば 思ふ や と 問 は せ給 ふ御 答に
︑い かが はと 啓す るに あは せて
︑台 盤所 の方 に︑ はな をい と高 うひ たれ ば︑ あな 心憂
︑虚 言を い ふ なり けり
︑よ しよ しと て︑ 奥へ 入 らせ 給 ひ ぬ︑ いか で か 虚言 に は あ らん
︑︵ 中 略︶ あ さま し う︑ は なこ そ 虚 言 は しけ れ︑ と思 ふ︑
︵ 傍線 筆者
︶ と
あり
︑清 少納 言が 宮仕 えを 始め て間 もな い頃
︑定 子に
﹁私 が好 きか
﹂と 問わ れた 際︑ 自分 の﹁ 好き でな いは ずが あ り ませ ん﹂ との 返答 が︑ 誰か のく しゃ みに より
︑虚 言と 受け 取ら れて しま っ た!
こ と に 対す る 悔 しさ を 述 べた も の で あ るが
︑こ こで 記さ れる 定子 の言 葉に は自 己愛 の片 鱗が うか がわ れよ う︒ また
︑同 様の 発言 があ った こと は︑ 二六 三 段 には
︑ 関
白 殿︑ 二 月二 十 一 日に
︑法 興 院 の 積善 寺 と いふ 御 堂 にて
︑一 切 経 供 養 せ さ せ 給 ふ に
︑︵ 中 略︶ 紅 の 御 衣 ど も
︑ よ ろし から んや は︑ なか に唐 綾の 柳の 御衣
︑葡 萄染 の五 重襲 の織 物に
︑赤 色の 唐の 御衣
︑地 摺の 唐の 薄物 に︑ 象 眼 重ね たる 御裳 など たて まつ りて
︑物 の色 など はさ らに なべ ての に似 るべ きや うも なし
︑我 をば いか が見 ると 仰 せ らる
︑い みじ うな んさ ぶら ひつ るな ども
︑言 に出 でて は︑ 世の 常に のみ こそ
︑ と
載せ る︒ これ は︑ 父道 隆が 積善 寺で 一切 経の 供養 を行 った 折︑ 定子 が正 装の 感想 を清 少納 言に 問う てい るだ けで は
― 339 ― 中関白家周辺論二題
な いよ うに 感じ られ るの であ る︒ 先の 遺詠 に 詠ま れ た﹁ 恋 ひん 涙 の 色ぞ ゆ か し き﹂ とい う 第 一首 の 句 に は﹃ 枕草 子
﹄ に 語ら れる 定子 の言 動と 同じ 調子 がこ めら れて いる と思 える ので ある
︒つ まり
︑自 己へ の陶 酔と 執着 とい った 感情 を 読 み取 るこ とが でき
︑そ うし た感 覚で 読め ば︑ 第三 首の
﹁草 葉の 露を それ と眺 めよ
﹂に も同 じ響 きが 感じ られ るの で あ る︒ 定子 のナ ルシ シズ ムの 傾向 は︑ 栄光 時も 没落 後も 色褪 せて 変わ るこ とは 無か った
︒そ の背 景に は︑ 一条 天皇 の変 わ ら ぬ愛 情が あっ たと 考え られ るの であ る︒ お
わ り に 以上
︑中 関白 家の 二人 の人 物に 焦点 を当 てて みて きた
︒一 夜に して 栄光 から 凋落 とい う悲 惨な 道を たど った 一家 で は ある が︑ 遺さ れた 人々 には いず れも 凋落 の影 が投 影さ れて いる よう に感 じら れる
︒し かし なが ら︑ なぜ か悲 惨︑ 凄 惨
︑陰 惨と いっ た暗 いイ メー ジは 湧い て来 ない
︒む しろ 陽気 な悲 劇と いっ た感 慨に すら 捉わ れる ので ある
︒ これ は︑ 隆家 と定 子だ けに 限ら れた こと では なく
︑道 隆の 嫡男 伊周
︑嫡 孫 道 雅 につ い て もい え る こと で あ り!
︑ 栄 光 のと きの 自負 を抱 き続 けた 一家 であ った との 印象 が強 い︒ そし て︑ この こと が中 関白 流の 人々 のせ めて もの 救い に な るよ うに 思わ れる ので ある
︒ ただ
︑こ うし た事 象の 大筋 につ いて は︑ すで に前 著に おい て触 れた とこ ろで もあ り︑ 屋上 に屋 を架 ける だけ の結 果 し かも たら さな かっ たと いえ るか もし れな い︒ この こと が︑ 長年 にわ たっ て御 厚誼 をか たじ けな くし た竹 井明 男先 生 の 退職 記念 論集 の光 彩を 損ね る結 果と なっ てし まう こと を懼 れる のみ であ る︒
中関白家周辺論二題 ― 340 ―
註
⑴ 拙 稿
﹁ 藤 原 隆 家
﹂﹁ 藤 原 道 雅
﹂﹁ 中 関 白 家 と 熊 野
﹂︵ 共 に
﹃ 摂 関 時 代 文 化 史 研 究
﹄ 所 収
︑ 平 成 十 九 年
︑ 思 文 閣 出 版
︶
⑵ 二 十
・ 九 十
・ 百
・ 一 二 五
・ 一 七 九
・ 二 六 三 段 等
︵﹃ 枕 草 子
﹄ の 段 数 は
︑ 増 田 繁 夫 氏 校 注 本
︿ 和 泉 古 典 叢 書
﹀ に よ る
︶︒
⑶ 土 田 直 鎮 氏
﹁ 中 関 白 家 の 栄 光 と 没 落
﹂︵
﹃ 奈 良 平 安 時 代 史 研 究
﹄ 所 収
︑ 平 成 四 年
︑ 吉 川 弘 文 館
︶
⑷ 隆 家 の 生 涯 に つ い て は
︑ 註
⑴
﹁ 藤 原 隆 家
﹂ に お い て 素 描 を 試 み た こ と が あ る
︒
⑸ 定 子 の 崩 御 後
︑ 左 大 臣 道 長 の 猶 子 源 成 信
︑ 右 大 臣 藤 原 顕 光 男 重 家
︑ 中 納 言 藤 原 義 懐 男 成 房 が 相 次 い で 出 家 を 遂 げ て い る
︒ こ れ ら の 有 力 名 門 子 弟 の 出 家 の 原 因 は
︑ 彼 ら の 拠 り 所 で あ っ た 定 子 サ ロ ン の 崩 壊 に あ っ た と 考 え ら れ る
︒ こ の こ と に つ い て は
︑ す で に 拙 稿
﹁ 藤 原 成 房
・ 源 成 信
﹂︵
﹃ 摂 関 時 代 文 化 史 研 究
﹄ 所 収
︑ 平 成 十 九 年
︑ 思 文 閣 出 版
︶ に お い て 述 べ た と こ ろ で あ る
︒
⑹
﹃ 公 卿 補 任
﹄ 長 和 三 年 条
︒
⑺
﹃ 小 右 記
﹄ 長 和 四 年 四 月 二 十 一
・ 二 十 二 日 条
︒
⑻ 隆 家 の 大 宰 府 赴 任 希 望 の 背 景 に 関 し て は
︑ 注
⑴ に 引 く
﹁ 中 関 白 家 と 熊 野
﹂ 参 照
︒ ま た
︑ 赴 任 中 の 隆 家 の 事 績 に 関 し て は
︑ 野 口 実 氏
﹁ 藤 原 隆 家
│ 刀 伊 賊 撃 退 の 立 役 者
│
﹂︵ 元 木 泰 雄 氏 編
﹃ 王 朝 の 変 容 と 武 者
﹄︿
﹃ 古 代 の 人 物
﹄
⑥
﹀ 所 収
︑ 平 成 十 七 年
︑ 清 文 堂
︶ に 詳 し い
︒
⑼ 扇 が 餞 別 と し て 贈 ら れ た 例 と し て
︑ た と え ば
︑﹃ 中 務 集
﹄ 一
〇 三 番 歌 に 豊 後 守 に て く だ り た る 人 の
︑ ま た 筑 後 に て く だ り け る に や る 身 に か か る あ ふ ぎ の か ぜ を そ ふ る か な ふ な ぢ を ゆ か む き み が た め と て と の 和 歌 に よ っ て も 容 易 に 知 ら れ よ う
︒ ま た
︑﹁ あ ふ ぎ の か ぜ を そ ふ る
︵ 扇 の 風 を 添 う る
︶﹂ は
︑ 海 路 の 順 風 を 祈 る 意 味 も 込 め ら れ て い た か と も 察 せ ら れ る
︒
⑽ 一 条 天 皇 が 譲 位 を 決 意 し た 際
︑ 東 宮 問 題 に つ い て た び た び 行 成 に 諮 問 し て い る
︒ そ れ に つ い て
︑﹃ 権 記
﹄ 寛 弘 八 年
︵ 一
〇 一 一
︶ 五 月 二 十 七 日 条 に は 候 御 前
︑ 仰 云
︑ 可 譲 位 之 由 一 定 已 成
︑ 一 親 王 事 可 如 何 哉
︑ 即 奏 云
︑ 此 皇 子 事 所 思 食 歎 尤 可 然
︑ 抑 忠 仁 公 寛 大 長 者 也
︑ 昔 水 尾 天 皇 者 文 徳 天 皇 第 四 子 也
︑ 天 皇 愛 姫 紀 氏 所 産 第 一 皇 子
︑ 依 其 母 愛 亦 被 優 寵
︑ 帝 有 以 正 嫡 令 嗣 皇 統 之 志
︑ 然 而 第 四 皇 子 以 外 祖 父 忠 仁 公 朝 家 重 臣 之 故
︑ 遂 得 為 儲 弐
︑ 今 左 大 臣 者 亦 当 今 重 臣 外 戚 其 人 也
︑ 以 外 孫 第 二 皇 子 定 応 欲 為 儲 宮
︑ 尤 可
― 341 ― 中関白家周辺論二題
然 也
︑ 今 聖 上 雖 欲 以 嫡 為 儲
︑ 丞 相 未 必 早 承 引
︑ 当 有 御 悩
︑ 時 代 怱 変 事 若 嗷 々
︑ 如 不 得 弓 矢 之 者
︑ 於 議 無 益
︑ 徒 不 可 令 労 神 襟
︑ 仁 和 先 帝 依 有 皇 運
︑ 雖 及 老 年 遂 登 帝 位
︑ 恒 貞 親 王 始 備 儲 弐
︑ 終 被 棄 置
︑ 前 代 得 失 略 如 此
︑ 如 此 大 事 只 任 宗 廟 社 稷 之 神
︑ 非 敢 人 力 之 所 及 者 也
︑ 但 故 皇 后 宮 外 戚 高 氏 之 先
︑ 依 斎 宮 事 為 其 後 胤 之 者
︑ 皆 以 不 和 也
︑ 今 為 皇 子 非 無 所 怖
︑ 能 祈 謝 太 神 宮 也
︑ 猶 有 哀 愛 憐 之 御 意
︑︵ 中 略
︶ 是 亦 自 去 春 一 両 年 来 毎 有 雍 容
︑ 所 被 仰
︑ 亦 所 上 奏 之 旨 耳
︑
︵ 傍 線 筆 者
︶ と 記 さ れ
︑ 寛 弘 七 年 正 月 二 十 九 日 に 伊 周 が 薨 去 す る ま で は そ の 立 太 子 に 何 ら 迷 い が な か っ た こ と を 示 し て い る
︒ し か し
︑ 度 重 な る 行 成 の 説 得 に よ り
︑ 敦 成 立 太 子 の 決 意 が 固 ま っ た と 見 ら れ
︑ 隆 家 が 気 落 ち し て い る と の 雰 囲 気 が 宮 廷 内 で 取 り ざ た さ れ た の は
︑ こ う し た 背 景 が あ っ た も の と 思 わ れ る
︒ な お
︑ 一 条 天 皇 は 度 々 行 成 に 対 し
︑ こ う し た 後 継 者 問 題 や 後 宮 問 題 に つ い て 諮 問 を 行 っ て い る が
︑ そ れ ら に 関 し て は
︑ 拙 稿
﹁ 藤 原 行 成
﹂︵ 前 掲
﹃ 摂 関 時 代 文 化 史 研 究
﹄ 所 収
︶ を 参 照 さ れ た い
︒
⑾ 実 資 と 隆 家 の 関 係 に つ い て は
︑ 拙 稿
﹁ 藤 原 隆 家
﹂︵ 前 掲
﹃ 摂 関 時 代 文 化 史 研 究
﹄ 所 収
︶ に お い て 触 れ た
︒
⑿ 実 資 が 立 后 に 奉 仕 し た 翌 日 の
﹃ 小 右 記
﹄ に は
︑ 皇 太 后 宮
︿ 藤 原 彰 子
﹀ 日 来 悩 給 寸 白
︑ 只 今 痛 悩 給 之 由 一 両 度 有 御 消 息
︑ 左 府 云
︑ 三 ヶ 日 不 可 罷 出
︑ 而 有 此 告
︑ 為 之 如 何
︑ 予 答 云
︑ 不 可 必 籠 坐 歟
︑ 相 府 云
︑ 可 然 事 也
︑ と の 記 述 が あ り
︑ 道 長 は 実 資 に 娘 彰 子 の 見 舞 い に つ い て の 質 問 を し て い る こ と か ら も
︑ 特 に 実 資 に 対 し て は
︑ こ だ わ り を 見 せ て い な い こ と が 知 ら れ る
︒
⒀ 道 長 と 三 条 天 皇 の 対 立 に つ い て は
︑ 元 木 泰 雄 氏
﹁ 三 条 朝 の 藤 原 道 長
﹂︵
﹃ 院 政 期 政 治 史 研 究
﹄ 所 収
︑ 平 成 八 年
︑ 思 文 閣 出 版
︶︑ 中 込 律 子 氏
﹁ 三 条 天 皇
│ 藤 原 道 長 と の 対 立
│
﹂︵ 元 木 泰 雄 氏 編
﹃ 王 朝 の 変 容 と 武 者
﹄︿
﹃ 古 代 の 人 物
﹄
⑥
﹀ 所 収
︑ 平 成 十 七 年
︑ 清 文 堂
︶ 等 参 照
︒
⒁ 突 目 に つ い て は 詳 ら か に し な い が
︑ 服 部 敏 良 氏
﹃ 王 朝 貴 族 の 病 状 診 断
﹄︵ 昭 和 五 十 年
︑ 吉 川 弘 文 館
︶ に よ れ ば
︑ 読 ん で 字 の 如 く 目 の 外 傷 と さ れ る
︒
⒂
﹃ 公 卿 補 任
﹄ 長 和 二 年 条 参 照
︒
⒃
﹃ 大 鏡
﹄ 巻 第 四 参 照
︒
⒄
﹃ 小 右 記
﹄ 長 和 二 年 八 月 十 八 日 条 参 照
︒
⒅
﹃ 小 右 記
﹄ 永 祚 元 年 十 月 二 十 六 日 条 参 照
︒
⒆
﹃ 小 右 記
﹄ 正 暦 元 年 九 月 三 十 日 条 参 照
︒
中関白家周辺論二題 ― 342 ―
⒇ 田 中 重 太 郎 氏
﹃ 枕 草 子 全 注 釈
﹄ 五
︵ 平 成 七 年
︑ 角 川 書 店
︶ 参 照
︒
! 註
⑵ 参 照
︒
"
﹃ 日 本 紀 略
﹄ 長 徳 二 年 十 二 月 十 六 日 条 参 照
︒
#
﹃ 小 右 記
﹄ 長 徳 三 年 四 月 五 日 条 参 照
︒
$ こ の 三 首 の う ち 二 首 は
︑﹃ 後 拾 遺 和 歌 集
﹄ 第 十
︵ 哀 傷
︶ の 五 三 六
︑ 五 三 七 番 歌 に
︑ 一 条 院 の 御 時
︑ 皇 后 宮 か く れ た ま ひ て の ち
︑ 帳 の 帷 の 紐 に 結 び 付 け ら れ た る 文 を 見 付 け た り け れ ば
︑ 内 に も ご 覧 ぜ さ せ よ と お ぼ し 顔 に
︑ 歌 三 つ 書 き 付 け ら れ た り け る 中 に
︑ と の 詞 書 を つ け て 採 用 さ れ て い る
︒
% く し ゃ み に 対 す る 見 解 と し て
︑ 田 中 重 太 郎 氏 は
﹁ 上 代 で は 人 に 恋 さ れ る 前 兆 と さ れ て い た が
︑ 中 古 で は 良 く な い こ と の 発 生 の 前 兆 と さ れ た ら し い
﹂︵
﹃ 枕 草 子 全 注 釈
﹄ 三
︶ と さ れ
︑ 定 子 は 清 少 納 言 の 返 答 を 虚 言 と 受 け 取 っ た の で あ ろ う
︒
&
伊 周
・ 道 雅 に 関 し て は
︑ 拙 稿
﹁ 藤 原 道 雅
﹂︵
﹃ 摂 関 時 代 文 化 史 研 究
﹄ 所 収
︑ 平 成 十 九 年
︑ 思 文 閣 出 版
︶ 参 照
︒
― 343 ― 中関白家周辺論二題