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コ ス タ ・ リ カ 共 和 国 の 軍 備 放 棄 を め ぐ る 国 際 環 境

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(1)説. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶. 竹. 村. 一四三. 月一日政府評議会冒富脅Oo画①簿o声明を以って軍備放棄を宣言して︑ 翌四九年一一月七日に制定された現行憲. 論. ︵一九四七〜一九四九年︶. 米国の態度. 結びー℃四図○○ω富ユ8轟への道. 卓. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境. はじめに. 国際環境. コスタ・リカの情況. はじめに. 五四. 中米地峡パナマ・ニカラグア両共和国に隣接するコスタ・リカ共和国 ︵以下コスタ・リカ︶は︑一九四八年二一. 一. 三 二 一.

(2) 早法七四巻三号︵一九九九︶. 一四四. 法によってその旨を成文化した︒すなわち︑同憲法第一二条には﹁恒久的な制度としての軍隊は禁止される︒治安 ︵1︶ 維持のため必要な警察隊を設置する︒大陸協定によるか国家の防衛のためにのみ︵再︶組織される︒﹂と規定され ている︒. 事実︑コスタ・リカにおいては治安警察隊O轟&冨Ω昌が設けられる一方で隣国のニカラグアなどとの紛争は︑ ︵2︶ 主として米州機構OASなど国際機構に解決を委ねてきた︵後述︶︒また︑同国は国際的な地域的集団安全保障機. 構前記OAS加盟国であり︑集団的な自衛権を謳った米州相互援助︵通称リオ︶条約の締結国でもある︒そのため. ︵4V. ︵5︶. 国際貢献義務からも緊急国家防衛上の必要からも憲法上再軍備の余地は残されてはいる︒ ︵3︶ しかしながら︑コスタ・リカは一九四八年リオ条約加入の際一方的に海外派兵拒否を宣言して今日まで軍再編を. していない︒また︑一九八三年一一月一七日大統領声明を以って同国は︑﹁積極的・永世・非武装中立﹂を宣言し︑ ︵6︶. ︵7︶. 八七年には当時のアリアス大統領が示した中米和平実現へのイニシアティヴに対してノーベル平和賞が授与されて. ︵9︶. いる︒さらに基本的人権の国際的保障にも同国は貢献してきている︒ラテン・アメリカ︑特に中米・カリブ地域に ︵8︶ 関する研究においては﹁コスタ・リカを除いて﹂という表現が一般的に見られ︑﹁中米の奇跡﹂とも同国は評され ているのである︒. それではどのようにして︑その﹁奇跡﹂が現実のものとして可能になったのであろうか9 本稿はコスタ・リカ ︵10︶ が描いてきた奇跡実現への道程の端緒に位置する軍備放棄当時の国際環境を解明しようとするものである︒ 本稿の構成は以下の通りである︒. 第二章においては︑さまざまなレベルから国際環境を概観し︑続く第三章においてコスタ・リカの情況︑特に一.

(3) 九四八年の内戦が持っていた国際的な性格を示した上で︑さらに第四章において大きな位置を占める超大国アメリ. 概略については︑拙稿﹁軍拡指向からの脱却を目指してーコスタ・リカ共和国の非武装中立を中心として﹂﹃憲法理論研究. 〇 きぢ緻P置 OO霧簿8a昌号σ菊Φ冨巨一8号08$田8お︒︒一〇. カ合衆国︵以下米国︶の対応・態度に検討を加え︑最後に第五章において総括を試みる︒ ︵1︶. ﹂﹃国際機構研究会会報﹄第七号︑一九八八年一二月国際機構研究会所収. 三ー四頁︒. 一九九〇年一一月早稲田大学出版部所収︑八四−九一頁︒また﹁OAS成立期一九四八年ー一九五〇年の紛争処理に関す. 会ニューズ﹄一九八六年九月号︑一四ー一五頁︒﹁非武装中立の再検討ーコスタ・リカの事例を中心としてー﹂﹃平和研究﹄第. より拙訳︒カッコ内筆者︑以下同︒. ︵2︶ 一五号 る考察−米国の 政 策 と の 関 連 に お い て. ℃欝>ヨΦ旨きd巳○鶯︾署一凶8叶一8ωo︷国旨R−>B9︒弩ギ$蔓○暁勾①a蜜08一︾ωω一磐きoの一︒①吟評⇒>ヨ鼠8pd旨8.. 例﹄一九六七年. ラテン・アメリカ協会五九−七三頁︑九九ー一一七頁︒. 棄器﹃営讐8POもP鴇ふ㎝し雪−譜︒︒︸げR8賄叶R>箸浮毘○参︵ラテン・アメリカ協会編訳﹃全米相互援助条約1その適用事. ○Opω戯εo一ひP8・o一fやま︒ ︒︒. ︵3︶ 山本満﹁﹃中級国家﹄日本の自己認識﹂﹃中央公論﹄一九七九年七月号所収一四四頁. ︵4︶. 青木書店. 六. 小澤卓也﹁コスタリカの中立宣言をめぐる国際関係と国民意識ーモンヘ大統領の政策を中心にー﹂﹃ラテンアメリカ研究. 年報﹄一九九七年︑日本ラテンアメリカ学会所収二九ー五三頁︑沢野義一著﹃非武装中立と平和保障﹄一九九七年. ︵5︶. 前掲拙稿︵一九九〇年︶八八頁︑竹井博友著﹃平和をわが手に﹄一九八八年︑竹井出版︑二五−二二四頁︒. 九頁−八八頁︒. ︵6︶. 例えば国際人権規約B規約・米州人権条約に対する批准書寄託第一号︑首都サン・ホセ市に米州人権裁判所︑同市郊外への国. 所収. コスタ・リカ﹄一九八四年. 東洋書店. 一四五. 一九九六年一月上智大学国際関係研究所所収︑一〇一頁︑二一−一一五頁.. 五五ー五八頁︑五九頁第一表︑六〇頁第二表︒竹内史子﹁世界システム論からみ. 今井圭子﹁国連開発計画の﹃人間開発﹄についてーラテン・アメリカ諸国を対象に﹂﹃ラテン・アメリカ論集﹄第三〇号︑. 際連合平和大学設置など︒. ︵7︶. ︵8︶. ラテン・アメリカ政経学会 寿里順平著﹃中米の奇跡. た中米の政治変 動 ﹂ ﹃ 国 際 学 論 集 ﹄ 第 三 七 号. 一九九六年 ︵9︶. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(4) 早法七四巻三号︵一九九九︶. 大畑篤四郎著﹃国際環境と日本外交﹄. 国際 環 境. 世界−米ソ対立の進展. 二. ︵10︶. 1. 一九六六年. 東書店. 一四六. 第二次世界大戦後の国際環境を大きく左右して来たとされる︑アメリカ合衆国︵以下米国︶と旧ソヴィエト社会 ︵11︶. 主義共和国連邦︵以下ソ連邦︶との間の対立状況︑いわゆる冷戦OO匡名巽に関してはその起源開始時期に関して. すら﹁研究者間に必ずしも一致を見ない﹂のが現状である︒しかしながら米ソ両国間あるいは両国を軸とする東西. 陣営間の対立が本稿の対象とするこの時期︵一九四七年から一九四九年︶に進展を見せていたことは確かであった︒. その中で一方の当事者であった米国側のとった政策態度を検討するにあたり︑表面上の修辞と実際に採用された方. 策とを区別する必要がある︒なぜならば︑米ソ対立の初期一九四七年に公表された米国側の政策を示す基本的な文. 書であるトルーマン・ドタトリン︑マーシャル・プラン︑そして﹃フオーレン・アフェアーズ﹄誌七月号に掲載さ. れた匿名のいわゆるX論文三者の間に相違が認められるからである︒この三つの文書にズレが存在することはX氏 ︵12︶ こと米国国務省政策企画室室長︵当時︑以下同じ︶ジョージ・F・ケナン自身が証言するところでもある︒事実︑. トルーマン・ドクトリン︵大統領特別教書演説︶には﹁世界史の現時点において︑ほとんどすべての国が︑二つの. 生活様式のいずれか一方を選ぶよう迫られてお﹂り﹁しかもその選択は自由でないことがあまりにも多い﹂ため. ﹁武装した少数者または外部の圧力による征服の企てに抵抗している自由な諸国民を支援することが︵アメリカ︶.

(5) ︵13︶. 合衆国の政策でなければならない﹂という調子の文言が使用されていた一方︑X論文は﹁考慮されるべきものは︑ ︵14︶. ロシアが西側全体と対比すればまだ遥かに弱い相手であること︑ソヴィエトの社会がやがて自分の潜在力全体を弱. めてしまうような欠陥をその内にふくんでいるように見える﹂が故に﹁アメリカの対ソ政策の主たる要素は︑ソ連 ︵15︶. 邦の膨張傾向にたいする長期の︑辛抱強い︑しかも確固として注意深い封じ込めでなければならないことは明瞭で ある︒﹂としていたのである︒ ︵16︶. 大統領と国務省政策企画室室長という当局者間にすら見られた見解と認識の相違は米国の政策態度における﹁密 ︵17︶. 教﹂と﹁顕教﹂との間の相違とも表現されるものであり︑しかも後者の代表例と見なされてきたトルーマン・ドク. トリンついてすら評価は定まっていないのである︒換言すれば米国の対外政策がこの時期︑反共・対ソ対決色一色. 地域的集団安全保障の樹立. に染められいわゆる冷戦の論理で貰かれていたとは俄かには断定しがたいのである︒. 2 周辺地域. 一九四五年二月から三月にかけてメキシコ市郊外において開催された﹁戦争と平和の問題に関する米州諸国会. 議﹂はチャプルテペック議定書冨>o$号O闘巷巳旨8①P跨Φ︾oけ90び8巳9冨oとして知られる決議を採択し. た︒同議定書は第二次世界大戦中から戦後にかけて﹁米州のいずれか一国の領土保全もしくは領土の不可侵︑主権. または独立に反してとられるいかなる国による攻撃も本議定書第三部に従って議定書に署名国すべてに対する攻撃 ︵18︶ とみなす︒﹂と規定して地域的集団安全保障の観念を聞明したものであった︒. 議定書を受ける形で一九四七年九月二日前記リオ条約が署名調印され︑翌四八年四月三〇日にOAS︵ボゴタ︶. 一四七. 憲章を第九回米州会議が採択した︒さらに同一二月三日コスタ・リカの批准によってリオ条約の発効を見たのであ コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(6) る︒. 早法七四巻三号︵一九九九︶. 一四八. 一九世紀以来の歴史の上に樹立された米州諸国による地域的安全保障体制はしかしながら︑強制措置を実行する. ︵19︶. ための軍事機構を欠いていた︒それは米国の干渉を恐れたメキシコなどがボゴタ会議の際反対したためためであ. った︒米州︵西半球︶地域においては当時︑不介入29山耳Rく9江自が国家間の外交原則であったのである︒ま. ︵20︶. た︑米国とそれ以外の米州︑ラテン・アメリカ諸国との間には経済的利害をめぐる対立も顕著な問題として存在 した︒. 1︶. 3 周辺地域 中米・カリブ地域 ママ コスタ・リカ近辺の中米・カリブ地域は﹁ニカラグワとドミニカの独裁体制と彼らの武装亡命者たちとの間の陰 ︵2 謀反陰謀はカリブ海を騒然たらしめていた︒﹂状況にあった︒すなわち︑ドミニカ共和国にはトルヒーヨ将軍の独. 裁政権が存在し︑ニカラグアにおいては一九四七年二月選挙により成立したばかりのアルグェージョ政権をアナス. タシオ・ソモサ一族が︑五月二六・二七両日にわたる軍事クーデターによって転覆して自ら一族の俺偲政権を樹立. していた︒このような動向に対し︑グアテマラのアレバロ政権などから支援された各国の亡命者たちは武装集団︑. カリブ軍団冨讐含︵α90巽旨ρO餌同ぎ幕きぱ讐9を結成して闘争していた︒一九四七年カリブ軍団は︑ドミニ カ侵攻に失敗し︵O昌oO2律奮事件︶︑根拠地をキューバからグアテマラ領内に移した︒. 右のような状況下一九四二年から二年問国外追放処分を受けたコスタ・リカ反政府運動リーダーの一人︑ホセ・ ︵22︶. フィゲーレス・フェレ!ル︵冒路霊讐Φ霞①ω寄巨包とカリブ軍団メンバーとの問に一九四七年一二月カリブ協定. Φ一評908一〇巽一訂が締結された︒この協定はコスタ・リカ︑ニカラグア︑ドミニカ各国の亡命者という私人間に.

(7) ︵21︶. 結ばれた非公式なものではあったが︑しかしながら前文・本文一二条・後文から構成される本格的文書であり︑以 下に見るような大きな特色をもっていた︒. ︽前文︾本協定の締結者はドミニカ共和国︑ニカラグアそしてコスタ・リカの各国における﹁自由とデモクラシ i︵ご口σΦ詳匿Kご浮ヨo臼8芭﹂を目指して同盟する︒. ︽第二条︾最高革命委員会を組織する︒. ︽第三条︾最高委員会は各国における闘に関して協調を図る︒. ︽第四条︾本協定を実施するため完全に自立した政府評議会冒⇒釘号OO玄①毎○を各国別に組織する︒. ︽第八条︾最高革命委員会と解放後の各国は共に︑カリブ海沿岸諸国︑エル・サルバドル並びにエクアドルにお ける民主的な反乱者の間に同盟を締結することを約定する︒. ︽第九条︾デモクラシーと紛争解決のための国際機構である﹁カリブ民主同盟﹂﹇餌>一一磐鐘U①日oR緯凶8留一 〇巽ま①を将来設立する︒. ︽第二条︾本協定の解釈と適用とにおいて齪齪が生じた際には︑グアテマラ・アレバロ大統領にその決定を一 任する︒. 右第二条はグアテマラのアレバロ政権が当時︑中米・カリブ地域における反独裁政権運動のネットワークにと って一大スポンサーであった事実を証明するものである︒. カリブ協定に基いて︑ニカラグアなどと比較して言論・表現の自由が広く認められて上に軍事的伝統を欠き政府. ︸四九. 軍の規模も小さく︵兵員約一千名︶装備も貧弱なコスタ・リカが︑独裁政権とは呼べないものの武力闘争の標的と コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(8) ︵23︶. 早法七四巻三号︵一九九九︶. されたのであった︒ ︵11︶ 永井陽之助著﹃冷戦の起源−戦後アジアの国際環境﹄一九七八年︑中央公論社︑八頁︒ 二九七−三四六頁︒. 一五〇. 木下尚一・有賀貞・志邨晃佑・平野孝共編﹃史料が語るアメリカ メイフラワーから包括通商法まで1一五八. ︵12︶ ジョージ・F・ケナン著 清水俊雄訳﹃ジョージ・F・ケナン回顧録ー対ソ外交に生きて﹄上巻︑一九七三年読売新聞社︑. 島田真杉訳. 四▼一九八八﹄ 一 九 八 九 年 ︑ 有 斐 閣 ︑ 一 九 九 頁 ︒. ︵13︶. 一九−一一一頁︒. 一七八頁︒. 同右︑. ︵14︶ ケナン著員近藤晋一・飯田藤次・有賀貞共訳﹃アメリカ外交五〇年﹄一九九一年︑岩波書店︑一八七ー一八八頁︒ ︵15︶. 永井︑前掲書︑. 有賀貞著﹃アメリカ政治史﹄一九八五年︑福村出版︑二五六−二五七頁︒油井大三郎著﹃戦後世界秩序の形成・アメリカ資本. ︵16︶. 主義と東地中海地域一九四四ー一九四七﹄一九八五年︑東京大学出版会︑三三三ー三三八頁︑など︒. ︵17︶. ︵18︶り①¢巳叶9ω鼻Φω∪8畳ヨの旨9ω醇ρ菊89け・P冨qΦ一一ひq呂︒馨・爵ΦH巨段−>日R︒きO・亀Φおづ︒巴・同ヨ聾9き89. ペック議定書に関しては拙稿﹁戦時と戦後の狭間にーチャプルテペッタ議定書の成立をめぐる史的考察﹂﹃大畑篤四郎教授古稀. 00算営Φ旨巴∪88きαωΦ8ユ蔓︸差○号冒器罵○おミ巴qω︒U①葛誹ヨ①旨亀誓讐Φ﹂O畠︒≦霧匡轟8p口OP旨一︒チャプルテ. 加茂雄三﹁西半球における集団安全保障体制−米州相互援助条約を中心に﹂﹃国際政治﹄第六三号一九七九年一〇月有斐閣. 記念論文集﹄一九九九年成文堂︵近刊︶︑所収︒. 所収二三−一二六頁︑高野雄一﹁地域的安全保障と集団的自衛﹂﹃国際法外交雑誌﹄第五五巻第二号・第三号・第四号合併号有. ︵19︶. 斐閣所収一九五六年九月︑一八九−一九四頁︒. ライヤー著H入江通雅訳﹃米州機構と西半球の危機﹄一九六五年時事通信社︑七六−七九頁︒ωΦRの鼠鼠鋤留勾①訂巳88国答同き−. ︵20︶080の一−ωヨ一葺 ○○鼠〇三↓冨囲旨R−>日Φ鼠S5ω冨富B一30︒○鉱○乱d三くRω一蔓℃おωω・づP一?一9嵩O−一㎝一︒ジョン・C・ド. Ω蔓もPωお−ω︒︒9加茂︑前掲論文︑一二六頁︒. ︒OO寓R口oαΦ寓ひ圏8冨Φ風8 ﹂ROωαΦ一〇ω雰蜜亀oωd巳飢oω血Φ竃簿一8旧冒ひ圏8窪一餌OO嘗R①目一巴葺Φ量目Φ噌一8轟一漣︒︒﹂濾・.

(9) ︵21︶. ディーン・アチソン著汁吉沢清次郎訳﹃アチソン回顧録﹄第一巻︑. 一九七九年︑恒文社︑三九九頁︒. ︒円訂d鼻Φαω$8ω・眺>ヨΦ同一8U8貰旦①旨. 餌且9Φ⊂乱8仙ω貫けΦω︵一漣︒−一︒お︶もFu・島ωω8旨効賦OpOOぎヨ獣鋤¢三<Φ邑蔓一︒︒︒ω︒ZΦ名磁○詩やN︒ ︒①伽︾ヨRぎ閃gOざユ①ωU引. ︵22︶ωo巨津Φお冒8げ○引9喧冨・︷↓訂Oo箆≦.曽言○窪賃巴︾ヨ98一>ωε身o︷U琶oヨ毘o勾Φ一善9ωげΦ牙Φ象Ooω$田8. ︒Pω$酵・巳営ω葺呂9零Φωω巴ω鼠臨・巳もp・︒︒i︒ ︒ UΦB・R餌昌ヨ○・の$盈︒鋤﹂︒︒. 望ω■Oo話旨ヨΦ旨汐一艮一鑛○墜8≦器げぎ讐8ウ08︒c︒鰹−o︒①ρo︒胡−o o 9︾αq亀一巽︸○の8罰08鼠困8蜜ω泰 ︒蕊蕊お−・︒︒. ○眺o o 叶簿9U旦OB呂︒評もRω邑簿a8跨の閃○邑閃⇒寄醇一〇冨o噛甚Φd乱8αωけ讐Φωおミ<○一議目げR8津段男勾Oω. 類Φ90ω勺○一一賦8のα巴虐︒ ︒一榎○巨のき呂8血Φ琶餌α①8量ω轟Φα■国鼠8同一巴OOω鼠空8一箸・︒︒ωき一〇ωひ薯.ω︒命ω︒ρG︒︒刈−ω一PωΦ一一. 一〇お. はその構成人数に関しても約二五〇名から二〇〇〇名まで資料によって異なる︑それ自体が謎に包まれた存在である︒. ぢ﹃Pコ9巨ω営Ooω$菊8空↓箒幻磐○冨賦99一︒蕊﹂零ドC巳<R巴蔓9↓霞器ギ89︾誘ユF薯﹂9山︒伊またカリブ軍団. コス タ ・ リ カ の 情 況. ︒ごOP︒一け●もω︒︒●閃菊dωoP9︐も・$O︒ ︵23︶>ひq邑9. 三 1 内戦とその国際性. 一九四八年三月一〇日から五月二日にかけ六週間に渡ったコスタ・リカの内戦は﹁外部の世界からは︑紛争を起. ︵24︶. こしたものが何であったのか分からなかった︒﹂と評される様に﹁多様な要素が互いに相分かれて闘ったためにこ ︵25︶. の動き︵内戦︶を革命的なものと呼ぶ研究者は︑︵同じ内戦︶を反動的なものと呼ぶ研究者から挑戦を受け﹂る︑. ﹁それを語る人の立場によってはまったく違う﹃歴史物語﹄になってしまう︒﹂性質のものである︒例えば内戦冨. 一五一. O器霞蝉Ω<一一という用語の使用に関してさえ立場の相違が反映されるため︑本稿においては事実を最小限示すに留 コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(10) 早法七四巻三号︵一九九九︶. め詳細は別に譲ることとする︒. 一五二. 一九四八年二月コスタ・リカ大統領選挙において︑与党国民共和党℃胃江3勾Φ忌霞8Z碧一〇p巴PRNと人民. 前衛党︵共産党︶勺胃鉱3く磐閃轟巳壁℃8巳巽PVPとが共に推す前大統領カルデロン勾織器一︾漏Φ一〇巴8a昌. O惹巳貯が︑野党国民連合党評岳30巳9Z碧一9巴PUNと民主党・社会民主党連合℃震江3UΦB9鍔$蜜. 勺巽鉱3ωOq巴UΦBひo鍔$PD/PSDどが推すウラテ○岳09簿o候補を破り当選した︑とされた︒しかしなが. らその経緯は不明瞭なものであった︒すなわち︑二月八日の投票結果は︑ウラテ候補優位であったのに反し︑カル. デロン支持派が多数を占める立法議会︵国会︶︾錦ヨ亘窪U畠巨卑瓜轟が選挙無効を決議するなど混乱が生じた︒警. ︵27︶. 官隊の発砲が流血の事態を招く中︑フィゲーレスなど反政府諸派が三月一〇日になって武装蜂起を宣言したので ある︒. コスタ・リカの内戦は大統領選挙という内政問題を契機とするものでありながら同時に国際性をもつものでもあ ︵28︶. った︒フィゲ!レスが代表する一方の当事者はいわばコスタ・リカ土着の勢力であると同時に︑武器の供給・兵員. の訓練・実戦の面においてカリブ軍団などから国際的な支援を受けていた︒他方︑カルデロン候補とPRN政府の ︵29︶. 側は隣国ニカラグアの独裁者ソモサとも友好関係にあり︑また国際共産主義運動の一翼を担うと標榜するPVPの 支持をも受けていたのである︒. 反政府側有利に戦局が進む中四月一七日︑ニカラグア国家警備隊O轟&冨Z8一9巴︵ニカラグア国軍︑事実上ソ ︵30︶. モサ一族の私兵︶がコスタ・リカの北部三箇所に進駐した︒この軍事介入はコスタ・リカ国民と同時に米国政府か. ら強い反発を招かずにはいられなかった︒カルデロン陣営は国内外からの圧力をいわば腹背に受けて窮地に追い込.

(11) ︵31︶. まれてしまったのである︒. コスタ・リカのピカード↓838琴雷83政権は四月一二日既にサン・ホセ駐在の各国外交団に対し︑内戦. を停止しかつ政治問題全般を解決するため︑反政府側との交渉仲介努力を要請していた︒要請を受けた外交団によ ︵32︶. り五名の外交官が選任され︑特に米国・ヴァチカン市国︵ローマ教皇庁︶両大使が精力的に政府側・反政府側双方. 間の文字通り仲介の労をとったのであった︒その結果一九日に︑サン・ホセ市内のメキシコ大使館において当事者. ︵33︶. 間に停戦その他に関する合意協定が調印された︒四月二一日︑合意に基き︑ピカード大統領・カルデロン候補など. ﹂蚤富統治. が国外に退去し︑代わってフィゲ⁝レス達反政府勢力が二四日首都サン・ホセに入ったのである︒ 2. ︵4 3︶. 五月八日政府評議会冒p鼠留○○臣Φ旨○が成立し︑以後一八ヵ月に渡ってコスタ・リカは注筥鋤の統治下に置か れた︒. 米国政府は冒筥鋤政権承認に好意を示す一方でヨスタ・リカが︑近隣諸国への不介入を伝統的な政策として ︵35︶. いることを賞賛する︒と同時に︑その伝統的不介入政策を将来に渡って維持することを期待している︒﹂と表明し. て︑同国が革命運動の輸出基地と化すことを防止しようとした︒前ピカード政権時からの米国製武器の購入交渉も ︵36︶. 継続され︑サン・ホセに駐在する米国軍事使節団が推薦した購入リストを冒p$が米国側に提出した.しかし武 ︵37︶. 甘耳鋤はコスタ・リカの軍備放棄を宣言し︑同八日憲法制定議会選挙が平穏裡に実施さ. 器売却は結局行われなかった︒. ︵38︶. 一九四八年一二月一日. 一五三. れた︒しかしながら一二月一〇日︑ニカラグア軍支援の下︑武装したカルデロン支持勢力がコスタ・リカ領内へ侵 コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(12) ︵38︶. 早法七四巻三号︵一九九九︶. ︵39︶. 一五四. 攻を開始した︒︸毒蜜政権は米国政府とも協議の上事態をOASに訴え︑OASの手にその解決が委ねられたので あった︒. 3 一九四九年憲法体制 ︵40︶. コスタ・リカ︑ニカラグア両国は一九四九年二月二一日友好規約に調印し︑紛争は一応の解決を見た︒紛争時力 ︵41︶. リブ軍団を使用しなかった冒昌鼠は同年一一月七日軍備放棄条項を含む現行憲法成立の後ウラテ大統領に権限を ︵42︶. 委譲した︒一方カリブ軍団はその活動を継続し︑コスタ・リカから退去後の同六月︑ドミニカ侵攻の企てに再び失 敗して歴史の彼方へと消滅していったのであった︒. 一九四九年憲法体制の成立を見たコスタ・リカは対外紛争の処理を主としてOASを通じて行う一方︑国内治安. い○&8署巳占−爵.尾尻︑前掲論文︑一一頁−二五. 尾尻希和著﹃コスタリカの政治発展ー﹁民主体制崩壊モデル﹂による一九四八年内戦の分析1﹄一九九六年一一月︑上智. ︾ヨR一渥Φお8・鼠ごPωP. を維持するために装備を小火器に限定した治安警察隊を設置したのであった︒ ︵24︶. ︵25︶. 大学イベロアメリカ研究所︵﹃ラテンアメリカ研究﹄20﹂①︶四〇頁︒ ︵26︶ ω一巳博零8震身08㌶困〇四巨鴛ヨa号ヨOR四q這︒︒轄ωげ8冨a℃お霧. の浸透防止を理由にカルデロンを支持した︒コスタ・リカにおいては一九四〇年から八年間をカルデロンの八年い霧○魯○>ぎω. 頁︒PVPはカルデロン・ピカード両政権下の社会立法進展を評価してカルデロン候補を支持︒またカトリッタ教会は︑共産主義 称している︒. Hσ一α引 署 ﹂ ω N 山 ω ω ● 閃 勾 d o o︾oP9ご℃P︒︒認−○︒刈合︒︒ミー︒︒刈o︒﹄. ︵29︶ω①拝8 ︒ ︒ 霊 も P に ︒ 山 ㎝ ︒ ︑. ︵28︶. ︵27︶ ωΦFOP蝕叶引薯■一し︒①山ωO匿. と.

(13) ︵30︶ニカラグアの行動の背景には︑カリブ軍団への恐怖心があった.憲負冨当. 1︶コスタ・リカの世論は本来﹁ソモサ嫌い﹂であり︑ニカラグア軍介入の以前既にPVP書記長モラ竃磐器一ζ︒声は︑﹁もし. ニカラグアが軍事介入を行えば︑戦闘を停止して内戦中の相手フィゲーレス軍と共同してニカラグア軍と戦ラ︒﹂と公言していた︒. ︵3. 一巨α引薯ひO刈i竃Hふ譜−目ω■>閃鼠σぴ8■9け■引もPω○︒下ωOO.ωΦ一㌍oPo一ご℃●一縄︒匪﹃ρ8︒9け も■ま︐. 米国の対応は本稿第四章参照.男dω一謹G ︒<・=×β鼻もひ蜀 ︵2 3︶. ︵33︶ >ひq巳σおOP9引もPωO①−ω零・岡菊dgoP9£℃P㎝N恥−目伊. ・ 9後述のニカラグアとの紛争発生時︑冒旨餌の武器購入希望に対して米国 ・︒命︒. H獣身P認O﹄撃冒p$側も不介入政策を維持していくことを表明した︒. H庄身℃P器N−器合器︒−器8田﹃90P︒一εE. ︵34︶. 政府は好意的な回答を与えている︒. ︵ 3︶ 5. ︵36︶軍備放棄宣言の理由として︑①内戦に対する反省②経済的疲弊と行財政改革③クーデターの予防④米国製武器購入中止⑤地域. 前掲訳書︑五九−七三頁︑九九−一一七頁︒. 的集団安全保障体制の樹立︵本稿第二章第二節参照︶⑥PSDとフィゲーレスの意向⑦コスタ・リカにおける軍事的な伝統の欠. 9けもP一9−一〇⑦. 如︑などが考えられよう︒前掲拙稿︵一九八六年︶一四頁︑︵一九九〇年︶九〇頁︒ ︵37︶ ωヰ98. 前掲拙稿二九八八年︶︑三−四頁︒>℃忌8江8ρ8﹄答旧召■鴇ふ㎝﹂零−器o︒. ︵38︶ H玄α●甲℃﹂OS閃力d90Po一什■ OP器Oふ占. ︵39︶. 解決されたがその際︑米国アイゼンハワー政権は自国の対外政策を批判していたコスタ・リカのフィゲーレス政権を﹁渋々ながら. 紛争解決はコ応﹂であって一九五四年四月から翌五五年にかけて四八年と同じ構図の下紛争が再発した.事態はOASによって. ℃■ミ︒. も﹂支援したのであった.>ヨ豊轟98●︒登PG︒ωあ蜂B冒8目史↓冨○︐︾ω聾且島Φd嘗aω鼻霧3邑閃p聞呂9這象 男園dρ8●o欝や㎝認巴. 〇三〇¢巳<R臨蔓牢①ωω︒OOごBぴ5. ︵41︶ ω畔ρ8.巳什︒も﹂譲●. ︵40︶. ■. 一五五. 浮葺RΦα瓢8Φ↓箒OSけ①湧巴き菊Φ<・ξ江9きα ︵42︶︾ヨ9鑛Φぴop魯も︒︒︒N ω蜂9・や︒一け■もP刈︒︒−︒ ・ ω︒9①二Φω①ω㌔属9. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶. 夢①d巳叶aωけ讐Φρ一〇魔−一︒㎝ ﹂8一■牢嘗88昌d蔦くΦ邑蔓牢①ωω.零冒oΦ8⇒もP認ω−器.

(14) 1. 米国 の 態 度. 早法七四巻一二号︵一九九九︶. 四 対応. ︵43︶. 一五六. 一九四七年四月サン・ホセ駐在の米国ドネリi大使はウラテ候補陣営幹部の訪問を受けた︒その際大使はコス. タ・リカの国内情勢に対し米国大使館が局外中立の立場を以って臨む旨表明した︒同年一〇月九日付国務長官宛秘. 密電報の中で同大使は﹁情勢は紛れもなく緊張しており何が起きても不思議ではない﹂と分析し︑カルデロン・ウ ︵44︶. ︵45︶. ラテ両人のうち﹁誰がコスタ・リカの次期大統領となっても︑当地における米国の立場は多分好ましい状態を保つ であろう︒﹂としていた︒. 一九四七年二月後任としてラテン・アメリカヘの駐在経験がないデ!ビスがサン・ホセに到着した︒翌四八年 ︵46︶. 三月同大使は︑カトリック教会サン・ホセ地区サナブリア大司教が行っていたカルデロン・ウラテ両陣営間の和解. 工作に対してモラル・サポートを与える旨表明した︒同二一日米国マーシャル国務長官は︑国務省が流血といった. ︵47︶. 事態にコスタ・リカの政治情況が発展しないよう︑大きな関心を抱いており﹁コスタ・リカが誇るに値する憲法上 ︵48︶. の手続きに期待している﹂事実をピカード大統領に伝達するよう現地大使館に訓令を発した︒しかしながら一三日. には内戦勃発の報が︑ワシントンにもたらされたのであった︒その直後に国務省は︑グアテマラ・ニカラグア両国 ︵49︶ 駐在大使館に両国政府の指導者に対してコスタ・リカの内戦に介入しないよう非公式に申し入れるよう指示した︒ ︵50︶. 特にニカラグアの独裁者ソモサには開催中のボゴタ会議における同国政府非承認を示して警告したのであった︒そ.

(15) れにも関わらずニカラグア軍がコスタ・リカヘの進駐を強行したため︑米国政府はソモサに対して以下の旨申し入. ニカラグアがコスタ・リカにおいてとった行為に対し米国が支持を与える可能性は全くない︒. ︵51︶ れを行った︒すなわち︑. i. ニカラグアの行為が必要なものであるとも適切なものであるとも米国政府は認めない.. ことを米国政府は宣告する︒. ニカラグアの行為は一方的なものでありその行為は米州体制の中で充分に確立されて来た︵不介入の︶原則. ・1ー. 血 に抵触する﹁介入﹂そのものである. ︵52︶. 短 米国政府はニカラグアの行為が︵コスタ・リカにおける︶戦火を拡大することに危惧を表明する.. 米国の申し入れの後︑ニカラグア軍の活動は停止したのであった︒. 一九四八年一二月コスタ・リカ︑ニカラグア間に生じた紛争の際米国政府はコスタ・リカ側との間に協議の場を. 認識. 4︶. 持った︒︵先述︶また同政府は同月一二△四両日︑OASにおける機関の決定とコスタ・リカの行った主張双方 ︵53︶ を直ちに米州諸国にある全ての自国在外公館に対して伝達した︒さらにニカラグアのソモサに圧力を加えて︑ニカ ︵5 ラグアとコスタ・リカ両国関係改善のための米国への仲介要請をソモサの側から行わざるを得なくしたのである︒ 2. コスタ・リカの情勢への米国の対応は︑当時二つの特色を持つ認識に基いたものであった︒その特色とは︑一つ. には﹁反共︵産主義︶﹂の意識であり︑今一つにはコスタ・リカにおけるデモクラシーへの﹁信頼感﹂であった︒. 前記二つの考え方は︑一九四七年一月サン・ホセ大使館発公電の中に看取される︒すなわち同公電は︑翌四八年. 一五七. に実施予定であったコスタ・リカ︑ニカラグア両国大統領選挙の情勢分析を行い︑コスタ・リカ政府に対する外部 コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(16) 早法七四巻三 号 ︵ 一 九 九 九 ︶. 一五八. からの攻撃が万一部分的にさえ成功したならばPVPの反発は必至であり︑混迷の中から独裁者登場が促されかね ︵55V. ず︑そういった事態になれば中米地域における﹁デモクラシーの広告塔﹂コスタ・リカが危うくなる惧れがあると 警告していたのである︒. また一九四七年九月一七日付大使館発公電はPVPが公然とは反米運動を行わないものの米国に対し非友好的で. あると断定していた︒しかしながら同公電は︑PVPが大統領選挙ではなく国会議員選挙にその全精力を傾けてい. るとの分析に加え︑同党が支持するカルデロン候補の︵自分は︶﹁かつて一度も共産主義者であったことはなく︑. ︵56︶. 現在も共産主義者ではなく︑また将来もそうはならない﹂という主張をそのままコメントを付さずに報告もして. いた︒さらにピカード大統領が︑自らの政権は非共産主義的であり︑コスタ・リカはイデオロギi的に米国やいわ ︵57︶ ゆる西側諸国と一致するものであると述べた事実にも触れていたのである︒. 公表された文書を検討する限りにおいては︑PVPの支持を受けていたコスタ・リカのピカード政権とカルデロ ︵58︶. ン候補に対する米国政府の不快感の表明は直裁なものではなかった︒米国大使館はコスタ・リカの民衆の目に自国 ︵59﹀. の行為がどう映るかを考慮に入れて慎重な行動をとっていたと考えられるのである︒ウラテ陣営との接触の他ピカ. ード政権が内戦中試みた武器購入に対する妨害など米国政府の態度は総じて間接的に表現されていた印象が強い︒. 従って一部の研究者が主張するように反共をメルクマールとして︑米国側がコスタ・リカの情況に対応していたと ︵60︶ は一概には断定できないのである︒. 1︶. 何故ならば当時米国国務省当局者が抱いていた反共意識には同じ反共でも︑社会的・経済的改革への動向を全て ︵6 国際共産主義運動の一環であると見なしてしまうようないわゆる﹁反共十字軍﹂的発想とは異なるものが存在した.

(17) からである︒例えば一九四七年四月二四日付駐サン・ホセ大使館発公電は︑﹁ラテン・アメリカのほとんどの国で. は︑富の大部分が現在少数の者の手に握られたままであり︑そのことがラテン・アメリカにおいて共産主義が浸透. する根本的な理由である︒﹂との﹃ニユーヨーク・タイムズ﹄紙の記事に対する見解表明の中において︑コスタ・. リカの状況も同様であり︑富の偏在こそが﹁将来に起こりうるであろう共産主義勢力の浸透の根本的な理由である. ことは明白である︒﹂と指摘の上︑共産主義に限らず広く全体主義一般の台頭を予防するために︑特に第二次世界. ︵2 6︶. 大戦後経済の疲弊が著しかったコスタ・リカに対して自国︑米国が援助をなすべきであると意見具申を行って. いた︒また反共と同時に経済・社会改革を目指す西欧的な社会民主主義をも標榜していたコスタ・リカのフィゲi ︵63︶ レスに対する米国側の敵意も認められなかった︒. 4︶. 今一つ無視できないものは︑米国当局者が表明していたコスタ・リカのデモクラシーへの信頼である︒すなわ ︵6 ち︑﹁コスタ・リカは中米において最もデモクラシーが進んだ国と考え﹂られるのであり︑﹁この国は本当に民主的. な国であって︑人々は︵現在︶自由である上に︵将来︶なおも自由であり続けたいと欲している︒﹂そのため︑経 ︵65︶. 済・社会・宗教・言論・そして政治の面において﹁コスタ・リカほど自由を享受している国は世界の中でも稀であ. る︒﹂と評価している︒同様の表現は一九四八年三月一二日付前記マーシャル国務長官名の訓令電報にも見受けら れる︒. ︵66︶. 一五九. 以上に示された米国の国務省当局者の見解はニカラグアの独裁者ソモサに対してとった行動と比較すると極めて. 評価. 対照的なものであったといわざるをえないのである︒. 3. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶.

(18) 早法七四巻三号︵一九九九︶. 一六〇. 反共の修辞を用いる一方で︑米国国務省当局者の間には︑コスタ・リカの軍備放棄前後︑ラテン・アメリカ地域 ︵67︶. は米ソ対決の枠の外にあるという意識もまだ強く残っていた︒アチソン国務長官︵一九四九年九月︶・ケナン政策企. 画室室長︵五〇年二月︶もまたそのような意識を共有していたのである︒そのことが国務省内部において対ラテ ︵68︶ ン・アメリカ政策が比較的自律性をもって遂行されていたという評価を受ける理由ともなっている︒. またコスタ・リカの事態が示しているように反共・ソ連邦との対決といった﹁冷戦の論理﹂はラテン・アメリカ においては貰徹していたとは断言出来ないのである︒. ε置引℃・$一・. 男勾d9一虐ヌOP9ご℃P㎝OoOI㎝oo一︒. ωoヨ津ΦおOP9け.旧P謡α陰. 一獣α引唱P㎝ooO−田一■. 0H 問力Oρ一〇囑︒OPo一ごOP田oo60. H玄α■もひ紹ソモサ側は自分達に加えるのと同じ程度の圧力をコスタ・リカにかけるよう米国に懇願した︒. 一げ一身℃や 9 ? 望 一 ー. 一画α引や竃一︒. Hげこ引唱 マ 釦 曾 認 O. ぎ置引PおO. 一ぴ置引℃Pお命斜竃■. Hσ置引唱PおQoIお轟︒. 冒こ引℃Pお甲おQo5. 閃園d9一虐Oo︒OPo一ごPおO. 44. 43 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56.

(19) 57 58 59 60. G S 冒こ引唱℃●㎝GoO−㎝o. 男殉¢9一濃oo︒oPo凶ご℃℃ひqOω1㎝O伊. 一σ置引PおF. そのような発想を端的に示したものが中央情報局CIAによる一九五四年グアテマラのアルベンス冒8び○>署①語︵アレバ. ω9590P︒ヨ薯.ま㌣ω認但し﹁冷戦﹂の定義が曖味な上根拠が薄弱である︒. 問力dω. 置伊. 一罐﹃■oPaご℃P$ ℃P一鼠. −$㎝●. 一九四七年一月九日付大使名公電︒問因¢9おミ︸8乙βや鴇︒. ω①一ど○℃■o一辞・. ︒.. 同年一〇月九日付公電︒Hぴ罫もひ3. 一二二頁︑一三二頁︒. 米国のコスタ・リカとニカラグアに対する対照的な行動は一九五四年から五五年にかけて生じた両国間の紛争の際に再現され. 結び. 勺震OOω鉦鼠8尽への道. コスタ・リカ共和国の軍備放棄をめぐる国際環境︵竹村︶. 一六一. の軍備放棄自体が︑中米和平を果たすためにイニシアティヴを発揮し︑また一九九八年にインド㌔バキスタン両国. ︵69︶. コスタ・リカの軍備放棄は︑本稿の中において明らかにされて来た国際環境の下で実現可能となった︒そしてそ. 五. 橋論叢﹄ 第一一六巻第一号︑一九九六年七月一橋大学所収︑七六頁︒油井︑前掲書︑二七一頁︒. 上村直樹﹁アメリカ外交と一九五二年ボリビア革命ートルーマン政権とボリビア革命政権との﹃和解﹄への過程ー﹂﹃一. アチソン︑前掲訳書︑三九九頁︒ケナン︑前掲訳書︵一九七三年︶︑四四六頁︒. 松本八重子﹁中米における介入のパター∠﹃国際政治﹄第八六号︑一九八七年一〇月. 65 68. 67. 66. 64. 63. 62. ア革命とグアテマラ革命の比較1﹂﹃アメリカ研究﹄第一三号︑一九九二年アメリカ学会︑所収︑一〇一ー一〇四頁︒. ロの後継︶ 政権転覆工作であった︒○一9①器ωるP9£8﹄G ︒午器9上村直樹﹁米国の冷戦外交とラテンアメリカの革命ーボリビ. 61. __た_____.

(20) 早法七四巻三号︵一九九九︶. ︵71︶. ︵70︶. 一六二. が実施した地下核爆発実験に対する国際連合安全保障理事会決議の採択に関する尽力など︑コスタ・リカによる平. 和の探求勺畏Oo︒D$ユ8壼への道を開くものであった︒奇跡を現実に可能にするもの︑それは可能性を求める︑. 人の意志と営為とであるかも知れない︒. 自由は奇跡を起こし ︵72︶. 自由な人間にとって 可能である︒. ﹃朝日新聞﹄﹃毎日新聞﹄一九九八年六月一日付朝刊︑同六月八日付朝刊︒. 前掲拙稿︵一九九〇年︶︑八七−入九頁︒. 全ては. ︵70︶. D帥βぢω仙も■①二九八七年一二月一〇日ノーベル平和賞受賞演説︒ >臥霧︶○ω8﹃ω引℃$8=器Zo霊巳ω匡轟ご8﹂︒︒︒So. 評図Ooω富鼠8轟という表現の中に平和﹁探求﹂の意味を込めて筆者は使用している︒. ︵69︶. ︵7 2︶. ︵71︶.

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