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日本のゼミナール教育の発展過程と構造に関する研究

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日本のゼミナール教育の発展過程と構造に関する研究

<博士論文>

同志社大学大学院 社会学研究科 教育文化学専攻 博士後期課程

西 野 毅 朗

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2

目次

序章 本研究の背景・目的・構成 ... 4

第1節 本研究の背景 ... 4

第2節 本研究の目的と構成 ... 7

第1章 戦前期のゼミナール教育 ... 12

第1節 世界におけるゼミナールの興りと展開 ... 12

第2節 日本におけるゼミナール教育の誕生と変遷―官立大学の場合 ... 16

第3節 日本におけるゼミナール教育の誕生と変遷―私学の場合 ... 25

第4節 小括 ―戦前期ゼミナールとは何であったか ... 30

第2章 戦後期のゼミナール教育 ... 32

第1節 低学年次におけるゼミナール教育 ... 32

第2節 教養ゼミナールの変容 ... 37

第3節 大学設置基準の大綱化の影響 -旧帝大における変容過程 ... 40

第4節 教養ゼミナールの具体的変容過程―香川大学を事例として ... 47

第5節 専門ゼミナールの再考 ... 49

第6節 小括-戦後期ゼミナール教育とは何であったか ... 51

第3章 ゼミナール教育の実証研究にむけて ... 54

第1節 研究枠組み ... 54

第2節 研究方法 ... 58

第3節 研究対象 ... 60

第4章 専門ゼミナールへの導入過程 ―演習Ⅰ ... 64

第1節 選考過程に見る両側面性 ... 64

第2節 演習Ⅰのデザインと実際のスケジュールに見る両側面性 ... 69

第3節 演習Ⅰにおける学習目標の修得過程 ... 72

第4節 演習Ⅰにおける共同体側面の導入過程 ... 76

第5節 小括 ... 79

第5章 困難な課題への挑戦-演習Ⅱ,Ⅲ... 81

第1節 演習Ⅱ、Ⅲのデザインと実態 ... 81

第2節 演習Ⅱ,Ⅲにおける学習目標の修得過程 ... 84

第3節 リーダーシップの開発と埋没 ―グループチェンジのインパクト ... 89

第4節 社会との出会いが学びに与えるインパクト ... 91

第5節 教員と学生の関係性 ... 95

第6節 小括 ... 96

第6章 最終学年としてのゼミと社会への接続-卒業研究演習Ⅰ,Ⅱ ... 100

第1節 就職活動とゼミの関係 ... 100

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第2節 卒業研究過程 ... 103

第3節 共同体における関係性の再構築 ... 106

第4節 安岡ゼミでの学びと社会人生活のつながり ... 109

第5節 小括 ... 111

終章 大学教育におけるゼミナール教育の価値 ... 113

第1節 本研究の総括 ... 113

第2節 本研究の示唆と残された課題と展望 ... 117

参考文献………125

資料………132

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序章 本研究の背景・目的・構成

第1節 本研究の背景

(1)大学教育の現代的課題

20世紀の大学教育は量的拡大の時代であったのに対し、21世紀は質的転換の時代と表現 される。少子高齢化、グローバル化、情報化の進展等と言われるような社会の変化はもと より、政治、経済、文化、その他、多方面において大きな構造変化が進んでおり、予測困 難な時代を乗り越える人材の育成が求められている。特にグローバル化の観点では産業界 の国際競争力強化に資する人材の育成や、大学教育の質保証を推進し国際通用性を高めて いく高等教育そのもののグローバル化が重要視されている。また大学進学率が50%を超え るユニバーサル段階に突入したことを踏まえ、多様な学力、多様な学習意欲、それに伴う 多様な学習ニーズに応えうる大学教育の在り方が模索されている。このような社会背景の 下、現代の学士課程教育は質的転換を求められている(中央教育審議会,2012)が、その 内容を2つに分けて捉えたい。

第 1 に「目標の転換」である。大学設置基準の大綱化までは大学教育の問題意識は高等 教育の大衆化を背景としたマスプロ教育の弊害の是正や、一般教育と専門教育の遊離への 対策に目が向けられており(中央教育審議会,1974)、教育目標そのものが課題とされるこ とはほとんどなかった。しかし大学設置基準の大綱化以降、大学教育審議会(1997)は各 大学に理念や目標の明確化を求め、中央教育審議会(2005)ではディプロマ・ポリシー1を はじめとする教学方針明確化の必要性が示唆された。合わせて課題探究能力やリーダーシ ップ、情報及び科学リテラシーの向上など能力の育成を重要視した。ここには大学教育の レリバンスの問題、すなわち大学教育とその後の職業や社会生活との接続性に関する問題 も含まれる。これまで大学教育を重視していないと批判してきた産業界も、「多様な人々と ともに仕事を行っていく上で必要な基礎的な力」として社会人基礎力2を 2006 年から提唱 し、大学において社会人基礎力を育成するカリキュラムの実施を推奨、支援している(小 方,2013)。中央教育審議会(2008)でも、「何を教えるか」ではなく「何ができるように なるか」という「学習成果」が重視されている国際的な流れを背景として、専門的知識や 教養、汎用的技能、そして人格的成長まで包含する形で学士力3という参考指針が提示され ている。さらに中央教育審議会(2012)は学修時間に着目し、その増加と確保を求め、特 に授業前後の主体的な学修の重要性を訴えている。これは単位制度の実質化、指標として の共通性の確保のしやすさ、諸外国との比較指標としての信頼性を鑑みた上で、質の保証 という観点からも重要視されている。

第 2 の視点は「方法の転換」である。上述した各大学の教育理念や目標を実現、達成す ること、社会的レリバンスを確保すること、主体的な学修時間を増加させるために特に注 目を集めるのがアクティブラーニングである。教育方法の転換や様々な工夫は1990年代か ら求められていた。具体的には、実験、実習、フィールドワーク、ディベート等(大学教

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育審議会,1997)ボランティア、インターンシップ等学外体験活動、討論、口頭による意 見発表や報告、プレゼンテーション等の訓練(大学教育審議会,1998)を推奨し、その後 も継続して講義のみに頼らない教育方法の充実が求められている。それらを包括する概念 としてアクティブラーニングが登場する。アクティブラーニングについて、あらゆる専門 に通用する自明の定義は未だ存在しないが(溝上,2015)、政策的見地からは「教員による 一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教 授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能 力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験 学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、

グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」(中央教育審議会,

2012)と説明されている4。文部科学省では国として進めるべき大学教育改革の柱の1つと

してアクティブラーニングの推進を掲げ、2014年度から始まった大学教育再生加速プログ ラム(Acceleration Program for University Education Rebuilding : AP)のテーマにも据 えている。また、実際にアクティブラーニングに関する研究も2000年代から高等教育の分 野で進んでおり(溝上,2014a)、北海道大学では、教員の 58.6%がアクティブラーニング 型授業を取り入れていると回答しており(徳井・宮本,2015)実践の場にも広がりをみせ ていることが伺える。一方向伝達型の講義と比べて、双方向対話型のアクティブラーニン グは、汎用的技能・態度等の能力の育成にもつながりやすく、多様化する学習目標への対 応策としても導入されているのである(溝上,2014a)。

このように日本の大学教育の現代的課題は、いかにして質的転換を実現していくか、す なわち多様な教育目標の達成のために、教育方法を転換させていく点にあると言えよう。

また日本に限らず世界においても教育目標の転換とその方法は課題となっている。特にキ ーコンピテンシーや基礎スキル、汎用的技能と呼ばれる大学教育と職業を結び付ける能力 の育成は1990年代から欧米で影響力を持っている(金子,2013)。米国の大規模な研究大 学でさえ、その学部教育改革の方向性として第 1 学年から高学年にかけて探究中心型の授 業にすること、継続的に助言指導行うこと、授業を通じたコミュニケーションスキルの育 成、創造的な情報技術の活用、共同体意識の育成等が求められているのである(江原,2006)。

(2)大学教育の3つの潮流と日本的特質

大学教育の現代的課題を乗り越えるためにも、あらためて大学教育が何を目指し、どの ようにしてその実現を目指したのかを歴史的に整理することは重要であろう。金子(2007,

2013)は近代における大学教育の潮流を整理し、基本となる教授―学習モデルを3つにま

とめた。その上で、日本的特質について整理し、日本型の教授―学習モデルを提示してい る。さらに小方(2013)はそれぞれのモデルに関し職業準備教育としての意義の相違を示 している。簡単に要約すると以下の通りである。

第一に高度専門職教育を主眼に置いた「修得モデル(専門職モデル)」である。大学の起

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源である中世ヨーロッパの大学は、法学、神学、医学の高度専門職につく人の養成を目的 としていた。大学の原型とされるパリ大学の神学教育や、ボローニャ大学の法学教育は知 られている。専門職に連なる理論や体系化された知識を前提とし、体系化された講義と試 験を通じてその修得を目指すものである。また、職業との結びつきが直接的な動機づけに つながる。専門職の仕事で求められるすべての知識や能力を修得できるわけではないもの の、体系的理論を修得した者、すなわち真理の根源に触れた者にこそ専門的で重大な仕事 を任せられると考えられてきた。

第二に上述した高度専門職養成課程の準備段階として考えられた「自由七科(リベラル アーツ)」教育を主眼に置いた「過程統制モデル(教養モデル)」である。特にオックスフ ォードやケンブリッジ大学で発展し、後にアメリカ植民地の大学に受け継がれ、そのモデ ルを形成するに至る。大学における知識の習得を職業人の育成のためではなく、知識習得 そのものを自己目的化し、精神や人格の形成を行うことを目指したものである。そのため に設計されたカリュキュラムの下、単元化された教育内容を単元ごとの試験によって修得 し、単位の取得を目指すものである。本来職業への有用性に根差したものではないが、そ の教育プロセスによって培われる判断力等が結果としてあらゆる職業に繋がると考えられ ている。

第三に、学問的知識や真理の探究を通じた教育を主眼におく「探究モデル」である。19 世紀ドイツで生まれた「フンボルト理念」を背景に、高度に専門化された知識をさらに深 く掘り下げて新たな知識の獲得を目指す過程そのものが、深い知識の習得と人格的な発展 を促すと考えるモデルである。高度化した知識の講義を通じて学生の知的興味を触発する ことに加え、学生自身を知識の受け手としてだけでなく、知識の創造者として研究の集団 に加える。その中で探究の姿勢と方法を学ばせ、成果を論文によって評価する。修得モデ ルや過程統制モデルが既存の知識の修得を重視したのに対し、探究モデルは自ら知識を探 究する態度や方法そのものをより重視しており、知識創造や真理への触れ方を修得するこ とが職業へとつながると考えられている。

以上3つのモデルを基本モデルとして捉えた場合に日本はそのいずれをも様々な組み合 わせで用い、またそのいずれでもない日本独自のモデルを実践しているとされる。日本は 高等教育機関を創るにあたり、世界各国での大学教育の実情を踏まえ、また各国から大学 教師を集め徐々に大学教育を形作ってきた。そのモデルは大学の成り立ちによっても異な る。例えば東京帝国大学法科大学では官吏養成を目指した修得モデルを、京都帝国大学法 科大学ではドイツで学んだ教員を中心に探究モデルを取り入れている。戦後新制大学へ移 行した際にはアメリカより教養モデルの移植が図られた5。日本独自のモデルは1893年(明 治26年)から帝国大学において導入された教育研究の基礎単位としての講座制と探究モデ ルが結びついて形成されたとされる。その特徴の1点目は教授・学習の基本単位が研究室、

ゼミナールという場であり、人間的交流を通じた人材育成が目指されることである。2点目 は体系化されたカリキュラムは存在するものの授業そのものは担当教員の専門とする研究

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テーマによって強く規定されることである。3点目に、教育課程の最終段階として卒業論文、

卒業研究、実験研究が設定され、学生が課題を掲げて自主的に学修し、自らの力で探究を 行い、その結果をまとめ、認められることが求められるのである。

(3)日本の現代的課題を乗り越える視点としてのゼミナール教育

このように日本の大学教育における現代的課題を乗り越えるという観点と、世界の大学 教育の中での日本的特質を合わせて考えると、ゼミナール教育の視点という 1 つの重要な 視点が排除されていることに気づく6

ゼミナール教育は学生の主体的な調査・報告・討議で構成され、まさにアクティブラー ニングの姿そのものである。であるにも関わらず、大学教育における改善方略の一手とは 考えられていない。実際、さきに挙げたAP事業においてもゼミ・卒業論文の指導は助成対 象から外されている(文部科学省,2014)。その要因はいくつか考えられる。1つは我が国 の主要な授業形態の8割が講義形式と言われており(大学経営・政策研究センター,2008)、 その講義科目に問題意識が集まるからである。もう 1 つの理由は、ゼミナール教育そのも のがブラックボックス化されており、その内実が明らかにされていないことである。ゼミ ナールに関する実証的な研究は少なく、その教育・学習実態は必ずしも明らかにされてい ない。ゼミナール教育の実態と学びの成果を明らかにすることは、大学教育が抱える現代 的課題の解決の一助となるであろう。

また、金子らも大学教育における教授―学習モデルの特質性を明らかにする上で、その 実態にまで踏み込んだ検討は行っていない。真に日本的特質として示していくためには、

日本におけるゼミナール教育がどのように導入され、発展してきたのか、より踏み込んだ 歴史的展開を読み解く必要があるであろう。また現代におけるゼミナール教育においても 帰属組織とその中における人間関係がどのように形成され、いかなる指導と学びが繰り広 げられているのか、いかなる職業準備教育としての意義があるのか等検証すべき事柄が多 く残されている。

以上を踏まえ、本研究では日本におけるゼミナール教育に関する課題を設定し明らかに していく。

第2節 本研究の目的と構成

(1)本研究の目的

本稿は「日本のゼミナール教育の発展過程と構造に関する研究」を主題として、大きく2 つの研究目的を持つ。

1つ目の目的は、日本のゼミナール教育の発展過程を明らかにすることである。日本の高 等教育の端緒は明治時代までさかのぼる。1877 年(明治 10 年)に東京大学が設立され、

翌年から学士号の授与が始まる。1896 年(明治 19 年)には帝国大学令が公布され東京大

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学は東京帝国大学へと改称、のちの学部となる分科大学と大学院が設置されるようになり、

翌1897年(明治20年)には京都帝国大学が設立された。この京都帝国大学における特色 ある教育として注目を集めたのがゼミナール教育である(潮木,1984)。ゼミナール教育は ドイツで生まれた研究と教育を融合して高等教育に取り入れようとした画期的な考え方で あり、アメリカの大学そのもの、あるいは大学院設立のインパクトを与えたものである(潮

木,2004)。その画期的な考え方は肯定的な評価と否定的な評価の両面を併せ持つものであ

ったが、日本においては国公私立の別に関わらず21世紀になった現代にも脈々と受け継が れ、金子(2013)が示したように、今日においても重要な位置を占めている。

このゼミナール教育の歴史的展開に関する研究については潮木の功績が大きい。氏はド イツ及び他国におけるゼミナール教育の19世紀における実態を明らかにし、また東京帝国 大学と京都帝国大学のそれを比較し、日本におけるゼミナール教育の実態について明らか にしている。しかし、氏の研究にもいくつかの課題が残されている。第 1 に、東京帝国大 学と京都帝国大学の比較手段としてゼミナール教育を用いているが、どのようにゼミナー ル教育が両帝国大学において展開されたかについては整理されていない。第 2 に両帝国大 学以外の高等教育機関においてゼミナール教育が取り入れられていたかどうかについて明 らかにされていない。1903年(明治36年)の専門学校令や1918年(大正7年)の大学令 を通じて帝国大学以外の高等教育機関が整備されていった。特に私学では法律制定以前か ら高等教育機関たることを目指し7、大学令公布以前より「大学」と呼称するところもあっ た8。そのような高等教育機関においてゼミナール教育が行われていたのか否か、またその 内容はいかなるものであったかを明らかにすることは、日本全体の高等教育においてゼミ ナール教育がどのように位置づけられていたかを示す上で重要である。第 3 の課題は、明 治期に絞られた研究であった点であり、大正、昭和におけるゼミナール教育の姿について は明らかになっていない点である。特に戦後、新制大学への移行後、日本の高等教育は一 般教育の導入、進学率の上昇や社会環境の変化に伴う教育制度改革が進められてきた。そ の過程で教養ゼミナールやプロゼミナールといった、それまでの「ゼミナール」とは異な る目的、あるいは形態でのゼミナール教育が姿を現す。これらも研究対象として扱うこと により、日本の高等教育におけるゼミナール教育の姿をより包括的に描き出すことができ るであろう。第 4 の課題はゼミナール教育の定義が明らかにされていないことである。演 習とゼミナール教育の違いや、戦後多様化するゼミナール教育の在り方を歴史的な展開に 基づいて整理した上で、あらためてゼミナール教育とは何かを明らかにする必要がある。

以上 4 点の課題についてはこれまで十分な研究がなされてこなかった。それは大学の教育 そのものに注目した研究の興隆が近年のものであるからと言えよう。1973年に日本で初め て大学・高等教育を研究するための専門機関である広島大学高等教育研究開発センターが 設置され、日本の高等教育に関する初めての学会として一般教育学会が1979年に設立され ている。その後、日本高等教育学会が1997年に、初年次教育学会が2007年に設立された 他、大学設置基準の大綱化以降、多くの大学に高等教育に関するセンターが次々と設立さ

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れた。初期の研究の多くは高等教育政策や制度論、あるいは大学論といったマクロなもの が多い。大学の授業研究も 1970 年代末から始まり、90 年代から多くの授業研究が登場す ることになるが(山内,2004)、マスプロ教育の弊害や、一方通行の講義による受動的な学 習への問題意識から自ずと講義科目をいかに改革するかという視点での研究が中心となっ ている。元来双方向型の教育形態であったゼミナール教育そのものについて正面から向き 合う研究はあまりなされず、時の問題意識から生まれた一時的な研究、あるいは事例の紹 介に止まっている。以上を踏まえ、本研究では明治期から現代にいたるまでゼミナール教 育がどのように導入され展開されていったのかを明らかにすることにより、日本の高等教 育におけるゼミナール教育の意義と位置づけを示すことを第1の研究目的とする。

2つ目の目的は、現代のゼミナールにおける学びの姿を明らかにすることである。すなわ ちゼミナール教育がいかに実践され、学生がそのなかでどのように学び、またその学びが 社会とどのようにつながっているのかを明らかにすることである。小方(2012)は日本の 大学教員が研究室・ゼミ単位の少人数授業が汎用的能力の獲得や態度・志向性の修得に最 も有効であると回答したことを踏まえ、学士課程教育全体の中で研究室・ゼミを基盤とし た教育を再評価する必要性を訴えた。また伏木田(2013)は、量的研究を通じて学部にお けるゼミナール教育が専門教育の方法としてだけでなく 1 つの共同体として教員が認識し ていることや、教員の指導の手厚さと学生の共同体意識、そして汎用的技能の成長実感と の関係性について明らかにした。しかし実際、教員の指導が共同体の形成や学生の汎用的 技能の成長実感につながる過程や、共同体の形成が学生の汎用的技能の獲得と結びつくプ ロセスについては明らかにされていない。余田(1979)、田中・山田(2015)、洞口(2008)

は教員の立場から自身のゼミナール教育実践について語り、学生の声や卒業論文の内容な どを紹介しているが、詳細な指導、それに対する学生の反応、全体としての共同体形成過 程、学生の成長について緻密な論証がなされているとは言い難い。また、これらの研究は 学生の就職活動や卒業後の社会生活とのつながりまでは明らかにしておらず、現在大学教 育の問題の 1 つとされる職業レリバンスとの関係についての検討が一切なされていない。

以上を踏まえ、本研究では現代のゼミナール教育において、共同体がいかに形成され、学 生がどのように学び、その学びがどのように社会とつながっていくのかという複雑な構造 を明らかにすることを第2の研究目的とする。

本研究は大学教育が直面している課題に対してゼミナール教育という視点から新しい示 唆を与えると同時に、金子が提唱する日本型の教授・学習モデルに 1 つの実態を与え、職 業準備教育としての意義も明らかにするであろう。また杉原(2006)が提唱する理論モデ ルとしての大学教育における学習共同体論にも1つの可能性を示すことができると考える。

(2)本研究の構成

以上の研究目的の下、第 1 章では戦前期に焦点をあて、ゼミナール教育の導入過程とそ の実態を明らかにする。まず、端緒となったドイツやそれに倣って展開された世界におけ

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るゼミナール教育の姿から整理しなければならない。その上で日本初の大学である東京大 学(後の東京帝国大学)と京都帝国大学を中心に国立の高等教育機関におけるゼミナール 教育の導入過程を明らかにする。さらには日本の高等教育機関を支えてきた私学における ゼミナール教育の導入過程も踏まえる必要がある。特に世界各国におけるゼミナール教育 や帝国大学におけるそれについての研究は先述の潮木に依ることになるが、帝国大学以外 の国立の高等教育機関や私学についてはその実態が必ずしも明らかにされておらず、新し い知見となるであろう。またこのような複数の日本の高等教育機関のゼミナール教育の導 入過程や実態を明らかにすることにより、日本の高等教育全体におけるゼミナール教育の 構図を示すと共に、戦前期における日本のゼミナール教育の定義を見出すことを目指す。

第 2 章では戦後期に焦点をあて、戦前期とは異なるゼミナール教育の姿を描き出す。戦 後の日本の高等教育は一般教育課程の導入、マスプロ教育の弊害、大学紛争の発生、大学 設置基準の大綱化といった様々な改革と課題に直面してきた。それらを乗り越えていくた めに各大学は戦前のゼミナール教育を低学年時の教育に応用し、教養ゼミナール、プロゼ ミナールといった取り組みを拡大させていった。その一連の過程を明らかにすることによ り戦後の日本の大学教育においてゼミナール教育とは一体何であったのかを改めて見直し、

再定義することを試みる。

第 3 章では現代における専門ゼミナール教育の先行研究を整理した上で、研究対象と研 究方法を示す。現代における高学年次を対象としたゼミナールの実証的な研究は数が限ら れているが、伏木田の量的研究と杉原の学習共同体に関する理論的考察を背景とし、特定 のゼミナールを対象とした2年半にわたる参与観察に基づいた質的研究の方法を示す。第4

~6章はその研究成果としてのエスノグラフィーである。

第 4 章ではゼミナールという学習共同体への導入過程を明らかにする。教員や先輩学生 がどのようにゼミナールの姿を発信し、また志望する学生がいかなる理由で当該ゼミナー ルを選ぶのかといった学習共同体形成の前提を押さえた上で、ゼミナールにおける最初の 半年間の学びと共同体への参加過程を学生と教員の両者の目線から捉える。

第5章では3年次1年間を通じた本格的な学習課題に学生が挑戦していく中で、何をど のようにして学んでいくかを明らかにする。特にグループワークが与える学びへのインパ クトと、社会との出会いが学生の学びに与える影響について考察する。また困難な課題に 挑戦する学生とそれを指導する教員の関係性がどのように変化していくのかも明らかにす る。

第 6章では 4年次から卒業後までの学びと共同体形成の姿、そして社会との接続という 観点で描き出す。卒業論文制作の過程、共同体内での関係性の再構築の実態、就職活動や 職業人生活とゼミナール教育のつながりについて明らかにする。

終章では、それまでの章の研究を踏まえた上で、改めて日本におけるゼミナール教育と はいかなるものであるか、ゼミナール教育研究への新たな知見を示す。そして日本型の教 授―学習モデルとしての「帰属組織モデル」に具体的な実態を与え、「学習共同体」という

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理論モデルに対して実証的な示唆を与えることを目指す。また本研究に残された課題を今 後の展望と共に示すことで、今後のさらなる研究に道筋をつけていきたい。以上が本研究 の構成である。

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第 1 章 戦前期のゼミナール教育

ゼミナールそのものの端緒は18世紀ドイツまでさかのぼり、広く欧米にインパクトを与 えた。その影響は当時高等教育を整備し始めた日本にも及んでいる。本テーマについては 潮木による厚い研究蓄積がある(潮木,1973・1982・1984・1986・1993・2004・2006・

2008)。ただし、これらはゼミナールを様々な研究視座から切り取った断片的なものとなっ

ている9。また時代を追うごとに新しい資料と仮説が提示され、世界におけるゼミナールの 捉え方も変化している。そこで、本章では先行研究を整理し直し、かつ新たな資料を付け 加えることで、ゼミナールの導入過程を明らかにすることを目的とする。

第 1節では世界におけるゼミナールの興りと展開について整理する。第2節は日本にお けるゼミナールの導入過程を明らかにするために、まず帝国大学をはじめとする官立大学 に焦点を当てる。特に資料が多く残る東京帝国大学及び京都帝国大学を中心に記述するが、

他の官立大学の状況も合わせて論述する。第 3 節は、翻って私学におけるゼミナールの導 入過程に焦点を当てる。先述の通り、法令が整う以前より私学も日本の高等教育機関たら んとその教育を充実させてきた。旧制の高等教育の体制が残っていた1948年の時点で大学

数の55%、大学生数の46%が私立大学であった(寺﨑,1999)ことを考えても、私学への

言及は欠かせない。私学におけるゼミナールの導入過程に関する先行研究は筆者の管見の 限りでは見られず、新しい知見となり得るであろう。以上を踏まえ、第 4 節では世界で興 隆したゼミナール教育を日本の高等教育機関がどのように受け止め導入していったかを小 括し、戦前期の日本におけるゼミナール教育の定義を行うことで本章のまとめとする。

第1節 世界におけるゼミナールの興りと展開

(1)ゼミナールの誕生 ―高度専門職養成のためのエリート教育として

中世までのヨーロッパの大学教育は、学問的探求と後継者の育成を目的として、厳密に 決められた内容と方法によってエリートを教育してきた。しかし近世へと移行するにつれ 学問的研究が大学の外で行われるようになり、大学教育は強い衰退現象を起こしていった

(ハンス,1988)。その根本的改革に向けて動き出したのがドイツである。その目的には、

国家目的に資する人材の育成、実用的・実際的学問の育成が掲げられた(荒井,1999)。そ の中で初めて大学教育の一環としてゼミナールを開講したのはゲッティンゲン大学であっ た。ゲッティンゲン大学は、ハノーファー選帝侯領の大臣であったG・A・フォン・ミュ ンヒハウゼンの計画に基づいて1737年に設立された大学である。ミュンヒハウゼンは「大 学は国家や君主に奉仕するものである」という考えから4つの革新的試みをなした。その1 つがスコラ学的な講読授業や討論にとって変わる「ゼミナール」10の導入であり、これは教 育学的革新の眼目とされた(クリストフ・ジャック,2009)。実際、大学設立同年、ゲッテ ィンゲン大学のゲスナーによる「文献学ゼミナール」が設置されている(金子,2009)。そ の後、1787年にプロイセンの宗務大臣ウェドリッツの提案により高等学務委員会11が設置

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され、有能な中等学校(ギムナジウム)教員が不足している事態を改善するためにゼミナ ールの設置が提案され、同年ハレ大学のヴォルフが「古典語学ゼミナール」を開講してい る(寺澤,2000)。ヴォルフはゼミナールによる文献学の教育・研究を通じて、独立した職 業層としての中等学校教師を養成しようとした12(吉岡,1993)。さらにハイデルベルク大 学ではギムナジウム教員の養成・訓練を目的として、1807年に「言語学・教育ゼミナール」

を新設し、これが分離する形で1818年に「言語学ゼミナール」と「神学ゼミナール」が設 置されている13。言語学ゼミナールは他にもベルリン(1812年)ブレスラウ(1812年)ボ ン(1819年)グライスヴァルト(1822年)ケーニヒスベルク(1822年)で設置されてお り(潮木,1973)ドイツ国内で広く実施されていたことが分かる14

潮木(1973)は、中でも1810年に創設されたベルリン大学に着目している。ベルリン大 学の目的規定には「この大学の目的は、他の大学と同じである。つまり青少年に対して、

講義・演習などの方法を通じて、一般的、あるいは特別な学問的な教育を与え、さまざま な分野の上級な国家での職務、協会での職務などに、容易に就くことができるように教育 することである」15とある。その中で1812年から実施された言語学ゼミナールは「大学に 結びつけられた公共の研究施設であり、その目的は、古典学研究の準備を行っている者に 対して、学問の神髄に至るための多面的な訓練をほどこすことにあり16」とされた。その教 育活動は「演習」と「報告検討会」の二種類になっており、前者はラテン、ギリシャの作 家の作品についての批判的解釈を加えるもの、後者は学生が作成した論文の発表とそれに 関わる討議であった。当時ラテン語やギリシャ語の古典を読むことはただ単に知識を広げ るだけでなく、人格を磨くためにも重要と考えられていた(潮木,2004)。またこの論文発 表及び討議はすべてラテン語で行われることとされており、ラテン語の筆記能力並びに会 話能力の集中的訓練になっていた。ラテン語は当時の中等学校の主要科目であったことも 踏まえ、潮木(1984)は「ゼミナール制度の本来の目的をきわめて実用的な目標、つまり 職業訓練上の必要から生まれたもの」と結論づけており、研究を通じた教育によって高度 専門職養成を目指したことが伺える。

さらに当時のゼミナール教育は高度専門職養成という目的の他、エリート教育という特 徴も持ち合わせていた。潮木(1984)によれば、1819年当時ベルリン大学哲学部の学生総 数180名に対し、哲学部に置かれた言語学ゼミナールの定員は8名(後に10名)となって いる。同様に神学部の学生総数153名に対し神学ゼミナール17の定員は32名であった。ま た、ゼミナールに関する規定の第4条から厳格な選考試験を実施することでゼミナール構 成員を決定していたことが明らかになっている。他大学においても一部の学生にのみ参加 権が与えられ、およそ5%から20%程度の学生しか参加することが許されなかったことが わかる。また彼らには奨学金が与えられた。この奨学金も学生にとって魅力的なものであ り、ゼミナールへの参加ニーズを高めていたことを示している。1840年代にはプロイセン の文部大臣であったアイヒホルンが、すべての科目に演習形式の授業を実施するよう大学 に求めた。しかし少数精鋭主義のゼミナール体制を貫こうとする教授陣によって拒否され

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ており、エリート教育としての位置づけが色濃く現れている。なお、自然科学分野におい ては「ゼミナール」ではなく「実験室教育」ないしは「インスティチュート」が発展して いく(潮木,1973)。即ちゼミナールとは人文社会科学を中心として生まれた概念であると 言えよう。

(2)ゼミナールの変容-研究志向の台頭と一般学生への開放

このように18世紀に誕生したゼミナールであるが19世紀ないし19世紀後半以降、2つ の大きな変化が現れる。1つは研究志向の台頭である。1808年に書かれたシュライマッヘ ルの「ドイツ的意味における大学についての随想」では、学校・大学・アカデミー18の関係 という論点から、大学を学校のカリキュラムには出てこないような高度な知識を学ぶ補習 学校であり且つアカデミー予備校と捉え、大学からアカデミーに移っていく橋渡しをする 役割をゼミナールが担っていると考えている(梅根,1961)。実際のゼミナールの現場に注 目すれば、1872年にハイデルベルク大学の言語学ゼミナールではその目的規定を巡って、

教員養成に必要な教育指導を中心にすべきと考える教員と、高度な言語学研究の場と捉え る教員との対立が起こっている。その中で「このゼミナールの目的は、実際的な演習を通 じて、古典文学、古典学の領域で優れた研究を独立して実行できるよう、準備訓練を与え ることであり、さらにそれを通じてギムナジウム、中等学校の有能な教員を養成すること にある。(中略)だがしかしこのゼミナールは有能なギムナジウム教員の養成と並んで、も う1つの役割をもっていることを忘れてはならない。つまり学問としての言語学を発展さ せ、将来この分野での大学教員になる者を育成する場だということである」という折衷案 が提言されている(潮木,1984)。また、1875年にはベルリン大学で法学ゼミナールが設 立されている。その目的規定によれば「法律専攻の学生に、法解釈、歴史、教義に関する 演習を与え、専門研究への導入をほどこし、それを通じて独立した学問研究が実行できる ような準備教育を与える」(潮木,1984)とあるように、研究者育成志向が前面に現れたゼ ミナールになっていることがわかる。一方で、19世紀後半は各学科がゼミナール付属の図 書室を作り上げ、膨大な資料集積場の中で各々が研究し、また議論をするという体制が整 えられていった。潮木(2006)はベルリン大学規則集を元に検討し、ゼミナールの規程に ついて初期(19世紀前半)は教育方式を定めているのに対し、後期(19世紀後半)になれ ばなるほどむしろ施設管理についての条文が多くなっていることを明らかにした。ベルリ ン大学だけでなく他の大学でも同様であったことも示している。以上より、ゼミナールの 目的が、教師や聖職者といった高度専門職育成から研究者育成へと移行していったことが 汲み取れる。

19世紀後半のゼミナールのもう1つの大きな変化が、一般学生への開放である。先述の 通り、元々のゼミナールは少数の学生に対し奨学金を提供しながら実施するエリート教育 の位置づけであった。しかし少数の学生に対象を絞り込んでいた定員制が19世紀後半にな ると崩れ出し、それとともに、ゼミナールの奨学金制度も次第に姿を消していった19(潮木,

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1984)。ドイツでは1870年代から大学生数が各大学とも急激に増加しはじめ、1870年代ま

でのゼミナール規程には構成員の人数制限が明記されていたが、それ以降の規程では見ら れなくなっている(潮木,1973)。実際のゼミナールの学生数の増加について、例えばベル リン大学の「国家学・統計学ゼミナール」では1887年頃に学生数37名であったところが、

1893年には125名へと増加し、1901年には200名にまで達している。奨学金の廃止につ いてはチュービンゲン大学の事例がある。チュービンゲン大学では1870年以降、ゼミナー ルを増設していった20が、奨学金予算がついているゼミナールとついていないゼミナールが 存在するようになった。そうなると奨学金がもらえないゼミナールは不人気となり、奨学 金がもらえるゼミナールでは出席していない学生にも奨学金だけが配分されているという 批判が起こった。結果的に1910年にこのゼミナール奨学金制度は廃止されている(潮木,

2008)。このようにドイツにおいて学生数の増加にともなってゼミナール数が増加、あるい

はその定員数が増加され、奨学金の廃止を経て、エリート教育から一般学生を対象とした 教育へと変化していったと考えられる。

ドイツでのゼミナールは国内だけでなく海外にまで影響を与えた。特に大きな影響を受 けたのがアメリカである。それまでのアメリカでの大学教育はカレッジを中心としたもの であり、明確に制度化された大学院教育は存在せず、カレッジの延長線上でごく限られた 学生が研究を続けるという実態があった。カレッジは1870年時点で563校あり、様々な年 齢の青年に教養を身に付けさせることを目的としていた(潮木,2004)。その教育方法は教 科書を暗記させ、暗唱させるものであり、知的で創造的な活動とは無縁で、学問的な関心 を満足させるものではなかった(潮木,1993)。このような状況下において学問的関心があ る青年はヨーロッパ、特にドイツに留学した。彼らが初めて体験するゼミナール教育や実 験室教育はそれまでのカレッジ教育との差異もあり、大きなインパクトとなった。これが アメリカにおける大学院の設立へとつながるのである。

アメリカで最初の大学院は1876年にジョンズ・ホプキンス大学として誕生したとされる

21(潮木,1993)。創設構想段階ではカレッジとの差別化も意図して大学院のみの大学にす る予定だったものが、地元の反対などもあり、カレッジと大学院を併せ持つ大学として始 まったものである22。この大学の特徴の1つは初代教授たちのほとんどがドイツ留学を経験 していることであり、彼らが研究中心の大学を作り上げていった。例えば歴史学のハーバ ート・バクスター・アダムス教授は、ドイツのハイデルベルク大学でゼミナール教育を受 けている。アダムスは「トレーニングの過程で新しい真理を発見すること」を自身のゼミ ナールの目的とし、歴史資料を収集し、ゼミナール室、図書室、資料室が組み合わされた 研究環境を整えた(潮木,2004)。学生には膨大な資料読解を課し、特定テーマについて論 文にまとめてゼミナールメンバーの前で報告させ、批判を仰ぐという教育方法がとられた

(潮木,1984)。

1887年にはジョンズ・ホプキンスに継ぐ研究型大学院としてクラーク大学が、1892年に は大学院教育に力を入れることを意図したシカゴ大学が創設されている(潮木,1993)。全

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国の院生数は1870年時点で44名23しかいなかったものが、30年たった1900年には約5800 名、1920年には約1万5600名、1930年には4万7300名と急増しており(潮木,2004)、 19世紀後半から20世紀前半にかけて大学院教育が急拡大していることがわかる。

ここまでドイツでのゼミナール教育の興りと変容、そしてアメリカへの移植としての大 学院教育の誕生までの過程を整理することで世界におけるゼミナール教育の展開をまとめ た。ゼミナール教育そのものが、すでに確定した知識内容そのもの一方的に教授する中世 までの大学教育の在り方ではなく、既存の知識に疑問や批判を投げかけ、未知の知識を探 究し、教師と学生が双方向で学ぶという新しい大学教育の在り方として提案され、実行さ れ、波及したことは疑いのない事実である。その目的は高度専門職育成から、研究者を育 成すること、あるいは研究そのものに主眼が置かれるようになったこと、またエリート教 育から広く一般学生が享受する教育へと変貌を遂げたことは重要な知見といえるであろう。

また、ゼミナールそのものが人文社会科学分野で取り入れられていたことを踏まえ、第2 節以降日本のゼミナール教育については人文社会科学領域に焦点を絞り、その展開を整理 したい。

第2節 日本におけるゼミナール教育の誕生と変遷―官立大学の場合

18世紀から19世紀にかけて欧米の大学教育にゼミナール教育が取り入れられていくさ なか、日本は江戸時代から明治時代へと移行し、高等教育を本格的に整備し始める。その 過程は、欧米の大学の在り様を学び、外国人教師を雇い、また日本人留学生を教員として 採用することで、西洋列強に負けない日本の高等教育の在り方を模索するものであった。

金子(2013)が示した通り、現代の日本の大学教員はゼミナール教育を重視しているが、

そもそも日本においてゼミナール教育はいつからどのようにして導入され、広がっていっ たのであろうか。潮木(1984)は東京帝国大学と京都帝国大学の比較のための一軸として ゼミナール教育を用い、その様子を詳細に描き出し、重要な示唆を与えている。しかしな がら潮木の論考には3つの課題がある。第1に対象としている時代が明治期に限定されて いることである。日本の高等教育は大正8年に大学令が発令され、帝国大学に学部が設置 されるなど、大正に入ってからも変化し続けている。日本におけるゼミナールの導入過程 をより正確に捉えるためには、明治期以降の資料にも着目するべきであろう。第2に対象 としている学問領域に偏りがあることである。潮木は法科大学に限定して議論を進めてお り、その後独立する法学部、経済学部、そして元々存在していた文科大学(文学部)のゼ ミナール教育の実態について明らかにしていない。全体としてのゼミナール教育の導入過 程を明らかにするためには、専門領域の差異にも目を配る必要があるであろう。第3に対 象としている大学が東京帝国大学と京都帝国大学に限られている点である。確かに帝国大 学令によって正式に明治期に大学として認められたのは両帝国大学のみである。しかしな がら私学も日本の高等教育たらんと大学令発布以前よりその仕組みを整え、実際に高等教 育を開始している。現代においても私立大学が重要な役割を果たしていることを考えれば、

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私学におけるゼミナールの導入過程も明らかにする必要がある。同時に両帝国大学以外の 官立大学においてもゼミナール教育が導入されていたか確認する必要がある。以上を踏ま え、本節では官立大学におけるゼミナール教育の導入過程を、東京帝国大学、京都帝国大 学、その他の官立大学に分けて検討する。さらに次節では私学におけるゼミナール教育の 導入過程を明らかにする。

(1)東京帝国大学におけるゼミナール教育

明治10年(1877年)4月に日本最初の大学として「東京大学」が設立された。当時は法 理文医の4学部(のちに工芸学部が新設され5学部)であった。この時点で法学部、文学 部、理学部には卒業論文制度が存在していた(潮木,1984)。明治12年改正学科課程によ れば、「哲學政治學及理財學科」は第4学年において卒業論文を作成させることを卒業の一 要件とし、文学部時代を通じてこの方法を継続していた。第4学年の講義は第2学期まで とし、第3学期 には主として論文作成の指導をすることが多かったことが、当時の教職員 の申報24中に現れている(東京帝国大学,1942)。

本格的なゼミナールを教育方法として初めて採用したのは、ドイツ人教師カール・ラー トゲンである(玉野井,1971)。ラートゲンは大学当局へ科目開講を提案し、明治15年度

(1882年)9月「イギリス憲法史」の演習を開講している。しかしこの試みは失敗に終わ ったとラートゲンは申報に記している。そこには多くの時間と労力をかけたにも関わらず、

その成果が微々たるものであったことが記されている(瀧井,2001)。ゼミナールとして英 語でのディスカッションを試みたが、学生が積極的に議論しなかったことがその失敗の内 容であった(玉野井,1971)。ラートゲン自身はさらに方法を工夫し改良していこうという 意志を申報に記しているが、その後、開講した形跡はみられない(瀧井,2001)。

東京大学は、明治19年(1886年)3月の帝国大学令制定により、5分科大学(学部の後 身)および大学院を持つ全国唯一の「帝国大学」に改編された。教育方法については法科 大学も文科大学も講義中心の授業形態をとっており、実地演習としての訴訟法実地演習、

民法・刑法実地演習などがみられる程度である。また、東京大学時代に存在した卒業論文 制度も改編と同時に廃止されている。その後専門科目の充実が進み、明治20年(1887年)

改正の授業科目に「理財学演習」(随意科目)が新設されている 。ただし、その開設は「教 授会ノ決議ニ依ル」ものとされ、開かれた例も少なく、そのほとんどが外国文献の輪読を 出ないのが実情であった25

明治26年(1893年)9月、講座制の施行と法科大学制度の大改正があり、学年制にかえ て「科目制」が導入された。そして「各学科講義ノ外別ニ演習科ヲ置キ受持教員ノ見込ヲ 以テ談話問答質疑応答論文等ニ依リ学生ニ訓導ス」ることが定められており、「演習科」の 特徴が、討論や論文を活用した教育方法であったことが分かる。なお、この年10月に3年 生有志により法理研究会第1回会合が穂積陳重教授邸で開催されている(東京大学,1986)。 ここでは「法理の研究」を、独逸「セミナリー」の方法で行おうとされたものであり、広

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く、法科大学生、大学院生、篤志家、教授が集まったとされており、我が国における自主 ゼミナールの端緒ではないかと推察される26。さらに明治35年には「法理学演習科」がこ の穂積教授の下、開講されるに至っている(潮木,1984)。その後、大正8年(1919年)

に法科大学より法学部が独立し、大正12年(1923年)に政治学演習、政治史演習が、大 正13年(1924年)には民法演習、刑事訴訟法演習が、大正14年(1925年)に政治学演 習が随意科目として開講されており、後述する経済学部に比べればその重要度は低いもの のゼミナール教育が徐々に実施されていったことが伺われる。

次に同じ法科大学の経済学教育について整理する。東京大学(1986)によれば、明治33 年(1900年)「エンゲル文庫」と名付けられた文献・資料概数1万4千冊を購入し、これ がきっかけとなって、「経済統計研究室」の開設が実現し「経済統計研究会」が組織された。

この研究会は「松崎博士主任となり、学士学生凡そ50名くらいの会員にて各自問題を選み て研究し、其結果を報告し批評し合い、適当なるものは経済統計研究室の論文として世に 公にする27」 というものであり、ゼミナールが実施されてことがわかる。さらに明治43年

(1910年)10月に、ヴェンティヒ教師が「経済学教授法改良意見」を提出し、これが演習 制度と研究室の拡充に拍車をかける。ヴェンティヒは「教授セラレタルコトヲ単ニ記憶ス ルヲ以テ甘セスシテ深ク自ラ之ヲ研究シ自己ノ判断力ヲ養成スヘキ」と考え「演習ヲ設ケ 以テ学生ヲシテ学問研究法ノ応用及ヒ系統的研究実行ノ練習ヲ為スノ機会ヲ与フルコト」

を重視した。そして「演習ニ於テハ大著書又ハ多数ノ離散シタル専門的書籍ヲ基礎トシテ 自著ノ論文草案意見書ヲ作成スルノ技術ヲ学習セシム」るものであるから、そのための「特 別ノ教室」(「演習室」)「研究室」「専門的図書室」を設け、これに主任および助手を配置す ることが必要なことを、次のように強調した(東京大学,1986)。

「演習ノ為メ一人又ハ数人ノ日本人ノ主任ヲ置クヘシ、又演習ハ外国ノ材料ヲ日本ノ為メ ニ利用スルヲ重ンスルモノナルヲ以テ、別ニ一人宛ノ若キ助手ヲ附スヘシ、此ノ如キ演習 室ニ於ケル練習ノ外尚ホ之ニ関聯シテ学問的研究旅行ヲ行ヒ以テ学生ヲシテ現今全然欠如 スル所ノ・・・近世ノ経済生活及ヒ其実際ノ要求ヲ自ラ目撃スルノ機会ヲ与フヘシ」

研究室における文献研究だけでなく、学外に足を運び、フィールドワークを通じて学ぶ ことの重要性も語っている点は注視したい。実際ヴェンティヒの提言に促されて以降、組 織的に研究室を強化する動きが生まれ、演習を開く教官の数が増加し、大正期に入ってか らは新任教員もゼミナールを行っていった。大正3年(1914年)には演習が正規の選択科 目とされた。しかし「実際には之を随意科目28として取り扱っていた 」という見解があり、

演習の成績を評価し、卒業資格の認定に加えるようになったのは、経済学部独立以後のこ とであったと考えられている 。大正8年3月制定経済学部学科課程には、第3学期から第 6学期にかけて選択科目に演習が存在し、2学年と、3学年が履修できる体制だったことが わかる 。実際大正8年(1919年)の経済学部新設を以て、教授及び助教授全部が演習を

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開く義務を負うことが申し合わされている。学生は複数の演習に参加できたが、演習を選 択する者は必ずしも多くなく、例えば大正14年度(1925年度)には100名足らずとある 。 演習の数は年を追って増加し、ことに法文経二号館が完成(昭和13年・1938年)して演 習用教室が整備されて後は、演習はますます活発となり、やがて特別の事情がない限り、

全教官が演習を行うようになったとされていることから、申し合わせが実際に具現化され たのは昭和にはいってからと推察される。しかし、この間も卒業論文の規程は存在してい ない。

次に文科大学についても検討する。東京大学(1986)によれば文科大学においてゼミナ ール教育を導入したのは、ドイツ留学から戻った社会学講座の建部遯吾である。建部は当 時文科大学に存在しなかった研究室を開設した。研究室は学生を出入りさせて研究を指導 する常置機関とし、続いて演習という形での教授法を導入している。この演習は「論文演 習」とされ、以下のように規程されていた。

論文演習ニ於イテハ 学生ハ 其研究ノ現状ヲ報告シ 質疑ヲ提出シ 教授及ビ学友ハ 之ヲ批判シ之ヲ輔道シテ 以テ切磋ノ効益ヲ挙クルモノトス29

まさにゼミナールそのものである。なお、文科大学から独立した文学部では、昭和4年 度から、少なくとも2年度にわたり専攻学科に属する演習を履修すべき旨定められ、その 後戦後までその伝統が続いている。

以上より、東京大学(東京帝国大学) でのゼミナール教育は明治期に誕生し、大正期に 整備されていったことが明らかになった。明治前半期は外国人教師を中心に個人的実験的 に試みられた。後期になると日本人教師も実践するようになり、さらに研究室が設置され る。大正期には演習が正式の科目として成績評価の対象となり、昭和にかけて徐々に多く の教員がゼミナールを開講するようになったのである。但し、法学、経済学、文学など学 問領域によって演習を重視する度合いや卒業論文の有無などに差異があることは留意した い。

(2)京都帝国大学におけるゼミナール教育

明治32年(1899年)9月に京都帝国大学法科大学が開設された。当時の規程は東京の法 科大学のそれとほぼ同じ内容であり「演習科」は重要視されていないが 、同年12月には この規程が大幅改正され、「演習科」について詳細な規程が登場し、その重要性を大きく増 したことが分かる(潮木,1984) 。卒業論文の提出が卒業要件の1つとされ、学生は必ず 1年以上いずれかの「演習科」に参加することが義務づけられたのである。同時に教授も毎 週1時間以上演習科を開設しなければならないとされ、国法演習科、刑法演習科、私法演 習科、民事訴訟法演習科、国際法演習科、経済学演習科の存在が明記されている。その目 的について演習科は、講義の完全な理解、学生の研究心とその実地応用の能力とを啓発す

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ることとされ、同様に卒業論文については学生の独創力を涵養することとされた(京都帝 國大学,1943)同年代の東京帝国大学法科大学では卒業論文はなく、演習も一部の教員が 自主的に行っていたことを考えれば、演習科を組織的制度的に取り入れていたことが分か る。しかしながら、文官任用試験用にひたすら筆記記憶させた東京帝国大学法科大学の一 斉授業に比べて京都大学のゼミナール方式は試験合格率が圧倒的に低かったことは批判さ れるところであった(潮木,1984)。加えてゼミナールの最終成果である卒業論文の質も全 てが優れているわけではなく、公刊することはおろか、論文誌(京都法学会雑誌)に載せ られるものも教授審査を経たものに限定された(京都法学会,1907)。最終的には明治40 年(1907年)の法科大学規程改正によって卒業論文は廃止される。その理由として①論文 制度は大学院学生に応用すべきであり、分科大学生には不適当であること②論文作成に多 大な労力を払っているにもかかわらず、不完全な作品が多いこと③多少読書力を増し、特 別な知識を得ることがあったとしても、法律・政治全般の知識の習得という点では欠落部 分が出てしまうことが挙げられている 。なお、同資料中には、演習科への参加については 妨げないとし、卒業論文の執筆と演習科自体は必ずしも結びついていないことがわかる。

明治39年入学生は、この改正によって文官試験の成績は良くなった半面、図書館の利用者 が減少してしまったことは慨嘆すべきことであると回想している(京都帝国大学以文會,

1909)。明治40年以降も演習は熱心に実施されていたが、学年試験と関係がないため、参

加者数は減少していったとされる30。大正8年(1919年)に法学部に改組され、演習も毎 年の教授会で実施が決定されるが、昭和5~6年頃にいたっては参加者が少ないため事実上 全く行われなくなっていた31

このように法学領域では文官試験との兼ね合いもありゼミナール教育は停滞していくこ とになる一方で、経済学領域ではむしろ盛んに行われるようになっていく。まず明治40年 に第1回経済学演習科が開催されている。この演習科の開講は、学生一同「渇望セルノ致 ス所」であった(京都法学会,1907)。当時の演習内容について、明治40年度京都帝国大 学経済演習科は毎月第2第4水曜の午後に開かれており、経済学の田島と財政学の神戸が 担当する協同指導方式が取られている。また工場、港湾施設等現地調査や現地研究に参加 させ、その事前の留意点の説明だけでなく、その報告と討論も演習科の中で実施していた。

大正8年(1919年)に経済学部が独立した際には、論文試験も復活し、演習科目が置かれ 、 論文試験を受ける第三学年生のみが演習受講の機会を得られるという制度になっている 。 ただし大正11年(1922年)には、経済学部においても論文試験が廃止されてしまう 。ま た、大正15年(1926年)には増え続ける学生に対応するために演習制度を拡充して第一 学年から実施しており 、低学年次から段階的に指導していたことが伺える。新制大学にな った昭和24年(1949年)の経済学部規程には、経済学演習が卒業単位として必修となっ ており、ゼミナール教育を重要視していたことがわかる。

ここで京都帝国大学文科大学についても検討する。京都大学(1997)によれば、明治39 年8月16日制定の文科大学規程において、正科目は普通講義、特殊講義、演習の3種とな

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っている。1科目を選んで専攻科目とし、その特殊講義と演習を必修とするものであった。

演習は主として卒業論文の作成に当たる3回生32を対象に、専攻学生に任意の問題を研究さ せ、あるいは教官が出題して報告を提出させ、これを教官が指導批判して実地に研究方法 を会得させるものであり、ゼミナール教育そのものであった。試問は科目試問と論文試問 の両方が課せられていた。

以上のことから、京都帝国大学においては設立当初よりゼミナール教育を積極的に導入 したが、その後、学問間の差によりその導入過程が異なっていたことが明らかとなった。

文官任用試験との関係を背景に、卒業論文が廃止され、また演習についても実行力を次第 に失っていった法学におけるゼミナール教育、卒業論文については紆余曲折を経ながらも 徐々に演習科目を充実させていった経済学におけるゼミナール教育、演習と卒業論文を必 修化していた文学におけるゼミナール教育である。

(3)他の官立大学におけるゼミナール教育

東京帝国大学、京都帝国大学に次いで設立されたのが東北帝国大学である。東北大学

(2003)によれば、人文社会科学の学部は大正11年(1922年)に法文学部が設置されて いる。当時の法文学部規程によれば、卒業試験(卒業試験または論文試験)が課せられて いるが、演習については第18条に「演習及実験ハ之ヲ必要トスル科目ニ就キ授業担当者之 ヲ定ム」とあるのみである。また昭和8年(1933年)に法科、文科、経済科という3学科 に分かれることになるが、文科においては卒業論文が必修、経済科においては、6単位の科 目試験に代替できる卒業論文を提出することが出来たとあり、法科については卒業論文を 課してはいなかった。その後昭和24 年(1949 年)に新制大学として再出発する際、法文 学部は法学部、文学部、経済学部へと発展的に解消されている。文学部、法学部ではゼミ ナールと思しき演習科目は確認できないが、経済学部については、経済学演習が存在し、

経済学科時代と同様、論文試験を単位として認定できる規定も存続されている。

明治44年(1911年)に開学した九州帝国大学では、大正14年(1925年)に法文学部 が設置されているが、演習や卒業論文については確認することができない(九州大学,

1989a)。九州大学(1989b)によれば、新制大学発足の際には法学部で法律演習と政治演 習が存在し、演習は必修となっているが、卒業論文については確認できない。文学部では 演習が存在しないが、卒業論文が必須となっており、提出にあたっての細かい規程も存在 する。経済学部では経済学演習があるが、論文試験の規程はない。以上のように、大学に よって、あるいは学部によって演習の実施の有無、卒業論文実施の有無はバラバラであり、

一概に結論付けることは難しい。東京帝国大学及び京都帝国大学ほどに資料を発見するこ ともできず、科目としての演習がゼミナールと同様のものであったかどうか具体的に確認 することはできなかった。

帝国大学以外にも様々な官立の高等教育機関は設置されたが、中でも注目したいのが東 京商科大学である。東京商科大学は明治8年(1875年)に森有礼が開設した私塾「商法講

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習所」を元とし、遍歴を重ねて、明治35年(1902年)「東京高等商業学校」となり、大正 9年(1920年)に大学令を受けて「東京商科大学」となったものである。この東京商科大 学の前進である東京高等商業学校で初めてゼミナールを導入したのが福田徳三である。福 田は先のヴィンディヒ教授による「東大経済学教授法改良意見」に対し賛意を示すと共に、

演習室の整備の難しさや卒業論文の強制の必要性に言及している。また明治 36 年(1903 年)、東京高等商業学校教授であった福田が校長に提案し、自らドイツの大学の研究室を真 似たものを設置していると記している(福田,1911)。さらに一橋大学(1995)によれば東 京商科大学が設立された当初は研究指導(ゼミナール)を必修としている。大正11年(1922 年)の学則改正では、学生が自由に学ぶことができる環境を整えるために必修科目の削減 が目指され、その一環として研究指導(ゼミナール)の必修制度は廃止、研究指導の予習

(1 年)と演習(2・3 年)への二分化が決定されていが、実際にゼミナールを取らない学 生はごく少数であったとされており、この体制を戦後まで継続させている。

当時の個々のゼミナールについて学生の視点から詳しく知ることが出来る資料として一 橋新聞の「ゼミナール評判記」がある33。ここから読み取れることは2点ある。第一に、1 年目から3年目へと発展的なカリキュラムが構築されている点である。1年目は通称プロゼ ミナール(科目上は「予習」と表記)と呼ばれ、教員が指定した文献を講読するものであ る。2年目は自身が選んだ、或は教員が指定したテーマに対する発表と質疑応答討論にあて られ、3年目は各自の論文執筆となっている。第二に、ゼミナールが研究目的ではなく人格 の陶冶を目的としている点である。例えば下野直太郎氏と内藤章氏のゼミナールの評判は 以下の通りである。(下線部は筆者)

「下野直太郎氏―自發的研究中心(計理学)―(中略)二時間でも三時間でも先生の話題 は罄きることがない。長い春の日でさへ室内の暗くなったのに驚いて分かれることが度々 であった。「ゼミナールは人格を作る所だ」と云ふのが先生の御考へであるらしい。(中略)

先生は好んで正直と見識とを説いて居られた。けれど先生は學究を全々無視されたのでは ない。「大學の本領」に従って学生の自發的研究に一任せられたのだ。質問すればいつも詳 しく説明してくださるのに学生が勝手に質問しないだけである。」

「内藤章氏―學問と信仰の結晶(貨幣、銀行金融)―(中略)先生はこの研究そのものを 貴ばれて研究の結果如何を餘り重要視されない。人格の修養をも努めよと先生は屡云はれ る、先生に接して人格上の感化を受けることが實に大きいので吾等は人格の指導も受けて ゐるといはれる。談話會を開いて打ち興ずるとき、師弟は親子のように打ち解けて話し合 い、実に面白い。趣味の廣くて然も愉快な先生の話しを聞いてゐると、研究指導の時と愈 異なった先生の一面がわかる。大學生活を學問的にも修養的にも又娯楽の側からも皆揃っ て意義あらしめつつあるのはこのゼミナールだ」

参照

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