本章では戦後、新制大学へ移行されてから現代までのゼミナール教育の発展過程を明ら かにする。戦前は専門教育の一環として主として高学年次に導入されてきたゼミナール(専 門ゼミナール)が、戦後は低学年次を対象とした教育方法として応用されていく。第1節 では戦後から1970年代の大学教育に焦点に絞り、一般教育の導入によって教養ゼミナール が誕生し拡大していった経緯と、専門基礎教育としてプロゼミナールが普及していった過 程を明らかにする。第2節では1980年代に教養ゼミナールの目的が変質し始めたことに着 目し、初年次教育との関係性を明らかにする。第3節で1991年に実施された大学設置基準 の大綱化が教養ゼミナールにどのようなインパクトを与えたかを旧7帝大に焦点を当てて 明らかにする。第4節では大学設置基準大綱化前後における教養ゼミナールの具体的な変 容過程を豊富な資料が残る香川大学を事例に検討する。第5節では大学教育のマス化に伴 って再び注目を集めた専門ゼミナール教育が当時どのように考えられていたのかについて 再考する。以上を踏まえ第6節では改めてゼミナール教育の発展過程と全体像をおさえる と共に、日本におけるゼミナール教育を再定義する。
第1節 低学年次におけるゼミナール教育
(1)新制大学への移行と一般教育の導入
戦後の教育改革により、日本の高等教育制度は大きく変革された。大崎(1988)はその 変革を一言で「選ばれたものの最高学府としての大学像から、多くの人々に開かれた高等 教育機関としての大学像への転換」とした上で、5つの具体的な改革点を整理している。中 でも大学教育そのものの在り方に大きなインパクトを与えたものが、一般教育と専門教育 の両方を4年間で行う(但し医学部・歯学部は6年間)としたことである。戦前の大学は、
旧制高等学校または大学予科の卒業生を受け入れ、3年間の専門教育を行っていた。しかし 戦後の改革の中で旧制高等学校並びに大学予科が廃止され、高等教育機関が大学に一元化 されたことにより、元々大学入学前段階で学んでいた一般教育を大学教育の一環に含めた のである。この改革は大学基準に明文化されることになる。昭和22年に採定された最初の 大学基準には以下のように記されている34。
1 大学は左に掲げる一般教養科目中各系列に亘って夫々三科目以上、全体として文科系 の大学又は学部では十五科目、理科系の大学又は学部では十二科目の授業を必ず用意し なければならない。
人文科学関係 哲学(倫理学を含む)、心理学、教育学、歴史学、人文地理学、文学、
外国語
社会科学関係 法学、政治学、経済学、社会学、統計学、家政学 自然科学関係 数学、物理学、化学、地学、生理学、人類学、天文学
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必要の場合には前掲以外の科目を一般教養科目に加えることができる。
同基準では学士号に対する最低要求として、一般教育科目35に対する最低単位取得基準を 設定している。また文部省(1948)は新制大学の学科科目配分の例を示し、低学年時に一 般教育科目を厚く配置し、高学年次には専門科目に重点を置く組み合わせを用いてカリキ ュラムの組み方を解説している36。実際、同年文部省は新制国立大学実施要綱を発表し、各 都道府県の少なくとも1つの大学には「教養に関する学部若しくは部」を置くことを定め ている。このように、戦後の新制大学は、一般教育を含めた4年制の高等教育機関として 再出発し、制度、カリキュラム、組織を整えていったのである。
(2)教養ゼミナールの誕生
このような改革の中で、最初から具体的な教育方法の工夫にまで踏み込んだのが東京大 学であった。東京大学は旧制大学と合体した旧制高等学校の移行により教養学部を設置し た。初代教養学部長となった矢内原は、教養学部の理念37を具体化するために、昭和26年 度(1951年度)より演習を導入している38。これは戦前の一橋大学のゼミナール教育に倣 ったものであり、教養学部という新しい教育構想の中心に据えようとしたものである(山
下,1975)。当初矢内原は、駒場のすべての教官が必ずゼミナールを1つ担当し、学生も必
ずどれか1つのゼミに所属し、ゼミという単位が教育の中核となる構想を描いていた。つ まり演習を必修科目として取り入れようとしたが、教員と学生数の比率や施設の問題で困 難と判断され、次善の策として自由選択制とされた。学生は事前に受講希望を出すが、定 員を超過する場合は第二希望の演習になることも規定に記されている。演習は、第2、第3 学期、すなわち1年次の後期から2年次の前期にかけて開講されており39、通年で受講しな ければ単位が与えられなかった。科目は人文科学、社会科学、自然科学の区分で満遍なく 用意され、その科目数は80に及んだ。内容は各教員によって異なっているが「大半が原典 をテキストとしたもので、1年生を対象にした演習としては相当に高度な内容である」40と 理解されるようなものであった。
その後、大学紛争41を経て一般教育の充実が課題と認識され、一般教育における演習は一 般教育ゼミ(全学ゼミ42)として全学の教官を総動員する43ものへと強化される。数にして
毎年150~200のゼミが開講され(山下,1974)、必修ではなかったものの3000人の大学
生の大部分がどこかのゼミに参加する状態であったとされる44(大内,1983)。一般教育ゼ ミ強化の背景にはマスプロ教育の結果、教師と学生との親近感や意思疎通を欠き、新入生 が入学後勉強する習慣や学問への関心を失っているのではないかという問題意識があり、
東京大学が当初一般教育に演習を組み込んだ意図とは異なるものであった。大内自身も当 時範を示すために「社会科学の論文の書き方について」という教養ゼミを開催している。
これは大内自身が学生のレポート能力の低さに問題意識を持ち、作文の書き方、論文の批 評や要約の作成、英語の翻訳といったスタディスキルを鍛えるために開講したものであり、
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1950年代にはみられなかった演習テーマであった45。
(3)教養ゼミナールの拡大
新制大学への移行当初から一般教育に演習(教養ゼミ)を取り入れた大学は東京大学を はじめごくわずかであり、実際に教養ゼミナールが全国的に取り入れられるようになった のは1960年代後半以降である。新制大学発足以降、日本の進学率は図2-1の通り右肩上 がりで上昇した。マーチン・トロウ(2000)が示す大学進学率15%以上になったのが昭和 38年(1963年)46であり、マスプロ教育の弊害が問題視され始めたのである。学生紛争も 相まって東京大学以外の各大学も教育改革に臨んだが、その 1 つの手段が一般教育への少 人数教育の導入、すなわち教養ゼミナールの導入であった。
国立大学一般教育担当部局協議会(1977)は「一般教育における少人数の演習科目(一 般教育セミナー)」について量的調査を行っている。これによれば、昭和 47 年(1972 年)
調査(以下 72 年調査と記述)で回答した国立大学の 24.2%(16 大学)が、次いで昭和 50 年(1975年)調査(以下75年調査と記述)では41%(28大学)が実施していることから も、その広がりがわかる。
図2-1 大学(学部)・短期大学(本科)への進学率(過年度高卒者等を含む)
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表2-1 国立大学における教養ゼミナールの導入年
年度 数 大学(部局)名
昭和 32(1957) 42(1967) 43(1968) 44(1969) 45(1970) 46(1971) 47(1972) 48(1973) 49(1974) 50(1975) 51(1976) 52(1977) 53(1978) 54(1979) 55(1980) 56(1981) 57(1982)
1 1 3 2 5 5 3 2 0 1 1 0 2 4 1 0 4
東京工大 岐阜大
小樽商大,埼玉大,熊本大 宮城教育大,千葉大
群馬大,東京医科歯科大,一橋大,京都大,香川大 横浜国大,滋賀大(教),滋賀大(経),大阪大,山口大 新潟大,金沢大,長崎大
鳥取大,鹿児島大
福島大(経・昼)
福島大(教)
福島大(経・夜),神戸商船大
北海道大、北見工大,富山大,神戸大 愛媛大
島根医大,徳島大,九州大、大分大(経)
(出典)国立大学一般教育担当部局協議会(1983)47
また同調査報告書は、教養ゼミが①講義一辺倒のマスプロ教育の弊害を是正するため、
②学問へのオリエンテーションのためという大きく 2 つの目的で導入されていることを示 した48。また「学生の学習意欲の低下」「読書量の低下」「討議能力の低下」といった学生に 対する問題意識が、演習科目開設の最も有力なインパクトとなっていることを報告してい る(国立大学一般教育担当部局協議会,1977)。同協議会が83 年に行った調査結果(以下 83年調査と記述)においても同様の結果となっており、教養ゼミナール開設の主たる目的 は「マンモス講義の弊害の緩和(44%)」「基礎教育の充実(39%)」「その他(17%)」と量 的にも明らかにされた(国立大学一般教育担当部局協議会,1983)。開設の具体的理由の記 述からは、既存の一般教育の授業方法・授業形態に関する反省から、少人数による対話と 討論の場を作り、教官と学生の個人的接触を促すことや、大学における学習の在り方の指 導、読書指導、自主的学習の活性化、論理的思考力、発表力の涵養など、学習姿勢や能力 の育成にほとんどの大学49が言及している(高橋,1983)。
82 年調査はさらに具体的に教養ゼミナールの実施実態を明らかにしている。まず実施期