本稿で論じていくのは、連続性と差異について、あるいは不 変でありつつも同時に変わりゆくものについてである。攻撃的 な女の出現と再出現について、そしてそういった攻撃的な女が どのような歴史的変容を遂げたのかについてである。このよう な連続性と差異が存続していること │ │ とりわけ過去二百 年 間に亘って ││ は容易に説明される。連続性はフェルナン ・ ブ ローデルならば ﹁ 長期波動 ﹂ と呼ぶであろう認識論のレベル で 持続し続け 、 差異は歴史的観点から見ると ﹁ 出来事 ﹂ の レ ベ ル で見出される。 これから私が論じていく攻撃的な女とは、初期アメリカ映画 が 描 きだしたファム ・ ファタールのことである 1 。 ファム ・ フ ァ タールはこれまでずっと続いてきた女の類型の一つであり、同 時にフェミニスト批評家や文化研究者の多大なる興味の的でも あ っ た 。 メ ア リ ・ ア ン ・ ド ー ンは 、 仮装について論じながら 、 フ ァ ム ・ ファタールがなぜ人々にとって扱いにくいイメージで あるのか述べている。ドーンは仮装の概念を定義する際、以下 のことを強調する。すなわち、男の注意を引かずにはいられな いほどに魅力的な女は 、 意図的に ︵ 女らしく ︶ 振る舞う こ と で 脅威を生み出す 、 つまり 、 女 を ﹁ 仮装する ﹂ 女の脅 威を生み出 す 。 ドーン曰く 、 ﹁ この種の仮装 は ⋮ ⋮ 男たちから は必ず悪の 化 身と見なされる 。 ﹃ 命令や法から逃れるために女が自分の性 を演じるとき、いつも人々を混乱させ怒らせるのは、この邪悪 さである﹄ ﹂ 2 。 確かに、本来適切だと思われている関係性を変えてしまうこ とが 、 ファム ・ ファタールのイメージでは問題とな る 。 女 は 対 象としての自分自身の価値を認めるだけでなく、交換の体系へ
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変遷
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物語的価値
ジャネット・スタイガー
山口菜穂子
訳と参入し、自ら商品になることを故意に選ぶのである。男たち が所有体系のなかで独占的に振舞うのではなく、今や女が交渉 し、それどころかもっと著しくビジネスの場へと女が積極的に 関与する。 しかしながら、このようなジ ェンダー ︵ そしてセクシュアリ ティ︶ に対する動機付けとメタ商 品化は歴史的な現象である 。 ファム ・ ファタールは大昔からの形象である一方で 、 私がこ こ で述べている力学は、普遍的なものでも歴史と無関係のもので エ イ ジ ェ ン シ ー もない。 この力学は、 資本主義と近代における人間の代理行為体 の表象が結びついたものだ。 またファム ・ ファタールは、 女の行 為に反応する男の物語も創りだす。何が男のふるまいを適切で ふさわしいものとするのか? ファム ・ ファタールの価値は、 女 エ イ ジ ェ ン シ ー の代理行為体と 同等に男性性をもめぐって展開するのである 3 。 映画史家は 、 初期映画におけるファム ・ ファタールの一 つ で ある ﹃ 愚者ありき ﹄ のヴァンパイアが 、 映画の一般的な ス テ レ オ タイプにならなかったことに注目する 4 。 スミコ ・ ヒガシは 、 ﹁ 二 〇年代にヴァンパイアがヴァンプへと変容したことは 、 彼 女の強さや不死身さが弱体化し ていったことを意味した ﹂ と 適 切に指摘す る 5 。 ヒガシはこのような事態が起こった理由を以 下 のように説明している 。 ﹁ 映画産業が徐々に洗練されていく につれ、ヴァンプは女として描き出されるようになる。これは 彼女が人間化されていく過程であり、その過程でヴァンパイア は、もはや死を招く危険な女ではなくなってしまった﹂ ︵ 72 ︶ 。 ヴァンプの ﹁ 人間化 ﹂ をヒガシが強調したため に 、 私はヴァ ンパイアに何がおこっているのか論じてみる気になった。私が ここで目指そうとしているのは、この現象をさらに詳しく描写 し、分析することである。アメリカ映画を振り返ってみると、 ﹁ 洗練さが増していった ﹂ ためにそ のような変化が起きたこと は理解できる。しかし、この説明では、全般的に女がいかに表 象されるべきかが、より大きな文化的コンテクストの中で変わ り つ つ あったことを考察できないだろう 6 。 加えて 、 ヒガシの 議論は、ヴァンプのイメージが恒久的で直線的な道程上にある と示唆している。これに対して私が考えるのは、より大きな文 化的コンテクストの中で、表象に関する重大な変動がおきてい るということだ。そこでは、ヴァンパイアのイメージは増殖し 様々な女性像となる │ │ それらの女たちはすべて 、 オ リ ジ ナ ルのヴァンパイアほど攻撃的ではない。しかし、ヴァンパイア が本来持つ輝かしく力強い意志や恐るべき脅威は、あるいくつ かのテクストにおいて、それらの女たちの中に再び見出すこと ができる。 これは ﹁ イメージ ﹂ 研究ではない 。 私は物語と語り が女の形 象と相互に影響し合っているということを強調するつもりだ。 また、物語の解決でイメージが封じ込められるなどと論じるつ もりもない。というのも、現在の批評理論によれば、イデオロ ギー的に逸脱する方向に強く働く可能性は、物語の中間部分に あるからである。一方、私は見世物性に関して十分に取り組む つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
ことは出来ないが、これもテクストがもつ特徴であり、テクス トの中心的な言説を混乱させる可能性をもつ 7 。 交差性理論とジャンルのどちらもが、何がおきているのかを 考えるために重要である。近年のフェミニズム理論が指摘して いるように、ひとつのアイデンティティのカテゴリーを分析の 土台として十分だとみなし、突出させてしまうと、他のアイデ ンティティのカテゴリーが持つ構造的不均衡を消し去ってしま う。すべての女が同じ人生をおくっているわけではない。有色 人種の女が構造的に従属させられているように、複数の従属関 係が相互的 に組み合わさっているのだ 8 。 これから私が考察す る映画は、アメリカ映画には典型的な主に白人の女の話である。 一方で 、 アメリカ映画は有色人種の女にしばしばファム ・ フ ァ タールの役を割当ててきた。しかしながら、私はいずれの物語 でも、階級アイデンティティが問題なのだということを主張す るつもりだ。同様にジャンルが問題であるということも指摘す る 。 このように 、 ファム ・ ファタールをひとつのテーマ で 論 じ ても、現代のフェミニズム理論や批評的な文化研究のさまざま な関心事を十分に取り扱うことはできないだろう。 これらの議論を推し進めていくために、まず手短に、アメリ カの映画産業が台頭した時期の表象体系を取り巻く文脈と、重 要なヴァンパイア映画である ﹃ 愚者ありき ﹄ の例を考察 す る 。 それから、一九二〇年代の終わりから三〇年代初頭の、ヴァン プ 、 情 婦 、 ゴールド ・ ディガースの表象を再考 してみたい 。 一 九 二 七年から一九三三年にかけてのファム ・ ファタールを広範 囲に見ていくことで、この攻撃的な女性像が、映画内で極めて 複数かつ複雑に形づくられ表象されているということを論じた い。 つ れなき美女 : そ の背景と せめぎ合 い 一九七〇年代まで西洋の女性表象において、性的でありなが ら結婚していない女や、女の姦 通者はいつもつねに ﹁ 堕落した ︵ 落 ちた ︶ ﹂ と定義されてきた 。 アマンダ ・ アンダーソンは ﹁ 堕 落 し た ︵ も の ︶ ﹂ と い う言葉が 、 たんに上品さが失われてしま うだけでなく、自制を失っている状態を意味していると論じて いる 9 。彼女の 論点は以下のように敷衍できるかもしれない 。 エ イ ジ ェ ン シ ー 堕落した女は弱体化した代理行為体を持つかもしれないが、そ れでも彼女たちは畏 怖 さ せ る た ぐ い の 力 ︵ ag en cy︶ を 持 っ て い る か も し れ な い の だ 。つまり、彼女たちは、自らの意志で、女 や女のセクシュアリティに関わる社会的な規範に反目する条件 を選択するのかもしれない、ということだ。伝統的に堕落した 女は過剰なほどに意志薄弱だが 、 堕落した女を反転 さ せ た ﹁ ファム ・ ファタール ﹂ は 極 め て 強 力 だ 。 確 か に フ ァ ム ・ フ ァ タールは堕落しているかもしれないが、犠牲者になるよりもむ しろ他人を犠牲にする 。 ファム ・ ファタールの堕落した特性 が
この手の表象を普及させたが、その表象がもたらすのは、憐れ みよりも恐怖の感情である。攻撃タイプの堕落した女は、家父 長制社会の中では恐るべき存在となる。というのも、家父長制 社会は堕落した女の反乱や、規範的な男性優位が転倒されるこ とを恐れるからだ。加えて、西洋の表象体系は性役割と経済的 条件の間に相応関係を生み出してきたので 、 ファム ・ ファタ ー ルが、性的にも、さらに重要な点だが、経済的にも、男を滅ぼ すものとしてしばしば表象されてきた。 一八〇〇年代の文学、詩、戯曲、扇情的な新聞記事などは、 堕落した女に満ちている。これらの物語の中で堕落した女を生 み出す原因は、時には貧困であり、時には性的欲望である。堕 落した女が救われない場合、物語は死で終わるが、それは自殺 か仲間に殺されるかのどちらかだ。しかしながら、中には反撃 するものもいる。男が女を誘惑した場合、物語は彼女たちの反 撃を個人的 な復讐として描き出すことが多い 1。0 男の行為のせ いでファム ・ ファタールが生まれる場合がある一方で 、 も っ と 謎めいた出自のファム ・ ファタールもいる 。 その場 合 に は 、 オ カルトや悪魔的な説明まで含まれていた 。 サンドラ ・ ギルバ ー トとスーザン ・ グーバーは、十八世紀後半のファム ・ ファタール を以下のものと関連づけている 。 ﹁ エジプトへの関心 。 さ ら に 一般的に言えば、植民地の国々と帝国の没落への耽溺。降霊術 に対する魅惑 。 そして 、 いわゆる ﹁ 新 女 性 ﹂ だけでなく 、 驚 く べき形で何 度も変化して立ち現れる女性の力に対する強迫観 念。 ﹂ 1ギルバートとグーバーが分析するフィクシ1 ョンと現実の ﹁ 他 者 性 ﹂ │ │ 人 種 / 民 族 、 国 家 、 形而上学 、 ジェンダー化さ れたふるまい ││ の類似は、パトリック ・ ベイドの以下の見解 と一致する 。 すなわち 、 ファム ・ ファタールの イメージは 、 社 会階層における女の位置に対する ︵ 現実あるいは想像上 の ︶ 恐 怖が引き起こした結果なのだ。 少なくとも芸術家たちにとって 、 フ ァ ム ・ ファタールのイ メージは一九〇〇年までに徐々に使い古されたものになったと ベイドは信じている。実際、十九世紀から二十世紀という変わ り目の時期に 、 ファム ・ ファタールとそれに纏わる物語の力 学 を作り変え た重大なことが起っている 1。2 初期アメリカ映画で は、堕落した女は、文学作品や劇曲の趨勢に追従して表象され ていた。というのも、これらの文学作品や戯曲はしばしば映画 の題材となっていたからだ。一九〇九年、全米映画検閲会議設 立による自己規制が開始され、映画製作会社は、当時演劇や小 説、短編小説の表現に採用されていた表象規範に大まかに従っ た。堕落した女を描いた作品を上映することは可能であり、観 客が正しい道徳 的 教 訓 │ │ 一夫一婦制の 、 結婚という法的に 認 められた異性愛の性を奨励し 、 社会規範を強めるような教 訓││ を得られるならば、推奨されることすらあった。 しかしながら、観客が道徳的教訓を学ぶためには、選択権や エ イ ジ ェ ン シ ー 行為能力を備えた登場人物が表象されなければならない。登場 人物が運命や宿命に翻弄されるか、あるいは既に定められた世 つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
界にいると、観客は道徳的教訓を学ぶことができない。中産階 級の文化はすでに因果律を自然発生的なものとして表象してき たので、映画による教育は中産階級のイデオロギーにうまく溶 け込んだ。また、もっともすぐれた道徳的教訓を提示する物語 では、登場人物の選択がきっかけとなって登場人物の過ちの始 ま り となる ︵そもそも最初に登 場人物が誤った時点が 、 避けら れるべき地点となる、そうすれば、その間違った選択が引き起 こ す数々の困難を未然に防ぐことができるというわけだ ︶ 。 い ずれにせよ、登場人物の選択はどうしても物語の解決に関わる 必要があった。偶然は道徳的効果を台無しにしてしまうからで ある。そのようなルールがイデオロギーとして機能していたこ とは明白だ。当時の社会科学理論と多大なる信仰心が、個人の エイジェンシー ふるまいの中に道徳的な行為体を作り上げたのである。救われ るにせよ非難されるにせよ、個人の意志次第であった。登場人 物の強情さは、己のしでかしたことや破滅の原因とされねばな らなかった。 エイジェンシー 皮肉なことに、この行為体によって展開する物語は、新たに 興隆したメロドラマの美学においてうまく機能する。運命付け られた世界像を提示する筋金入りのリアリズムや自然主義では うまく機能しない。個々の登場人物の深層心理がより深く掘り 下げられている点や、より悲観的な世界観を有するという点で、 新興メロドラマは従来のメロドラマとは違っていた。その一方 で、リアリズムや自然主義は強大な構造上の障害を登場人物に 課していた 。 つまり 、 もっとも意志の強い ︵ 善 良 な ︶ 登場人物 ですら、経済的あるいは社会的な環境のために目標達成が叶わ ないというわけだ。十九世紀のメロドラマと、リアリズムおよ び自然主義による異議申し立てを折衷させたものが、社会派メ ロドラマである 。 ジョン ・ コーウォルティは 、 伝統的な メ ロ ド ラマと ﹁社会的にまたは歴史的 に重要な事象の 、 詳細で深い現 実主義の分析﹂ が結びついたも の を、 社会派メロドラマと定義 してい る 1。3 この定式は 、 逸脱した登場人物を道徳的に更生さ せたし 、 同時に ﹁ 新女性 ﹂ をうみだす社会的状況にはう っ て つ けだった 。 女主人公は性的に純潔なままでありさえすれ ば 、 エイジェンシー ︵彼女の意志の強さを示す 作 用として ︶ 多少羽目を外すことが 許されたのである。 アメリカの映画製作者は、初期の物語描写から一九一〇年代 の映画へと移行する際、こうした大まかな美的認識と語りの定 式を取り入れている。このような物語がイデオロギー的に機能 エイジェンシー していることを強調するのは大切だ。人間の行為性とその行動 が物語の帰結を説明するのである 。 というのも 、 ﹁ 道徳性 と は 、 非道徳的な世界に直 面 し た と き に 取られる ︵ 社会的に受け入れ ら れ る ︶ ふ るまいのことであるからだ 。 したがって ﹁ 悪 ﹂ は 正 しい選択を認識しながら、正しくふるまうことに失敗すること だと再定義 さ れ る ⋮ ⋮ ︵ このように 、 ︶ すさまじい重圧が登場 人物の心理状態や成長に課せられる 。 それは 、 ︵ 十九世紀 メ ロ ドラマでは、誇張され た 演 技、演 出、 音楽という ︶ 外的な表現
方法で現れるか、あるいは ︵リアリ ズムの美学のように会話や ナレーションによる注解という︶ 内的 な表現に現れる 。 ﹂ 14 一九 一〇年代初頭、フィクションの世界で売春婦はこれらの新しい 性格的特徴を持ち始めた 1。5 人間の行動に関する十九世紀の言説は現在まで継続している ものの、それらはあまり事実めいていないジャンルのうちに、 例えばホラー映画の中に生き残っている。しかしながら、ドラ マの中で登場人物に動機や選択を迫ることは、すぐれた小説や シナリオを書く ことに等しい 。 これこそが登場人物の ﹁ 人 間 化﹂ と呼ぶべきものだ。しかし それはまさに 、 人間のふるまい を特定のイデオロギーのもとで解釈することである。あらゆる エイジェンシー 悪党 ││ 女も男も ││ にはさらに詳細な動機と行為性が付与 されている 。 攻撃的なファム ・ ファタールに対する 恐 怖 は 、 こ の言説上の変化の中でも続いてはいるものの、いまや彼女の行 動の動機は近代的な性格づけがなされているのだ 1。6 ヴ ァ ン パイ ア : 愚者と堕落 し た男 一九一四年の映画 ﹃ 愚者ありき ﹄ に見られるヴァンパイ ア は 、 ファム ・ ファタール の長い系譜の中でも 、 とりわけ ﹁ つれなき 美 女 ﹂ を引き継いでいる 1。7 ﹁ 愚者ありき ﹂ というフレーズで始 まる一八九七年のルドヤード ・ キプリングの詩 ﹁ヴァンパイア﹂ が示すように、ヴァンパイアは自分自身の行動を理解すること ができない。この詩にもとづいて、ポーター ・ エマソン ・ ブラウ ンは小説 ﹃ 愚者ありき ﹄ ︵ 一九〇九 ︶ を発表した 1。8 この小 説 は 十九世紀的な登場人物の性格づけと近代的なもの両方の痕跡を 印している。物語はフランス貴族の男が出産で死に瀕している 未婚の母を訪ねるところから始まる。父親らしき男は、赤ん坊 にリエン ︵フランス語で ﹁無﹂ の意︶ と名付ける。次に子供が出 てくるとき、彼女は若い女に成長しており、彼女は父親を追い つめて 、 崖から彼を落とす 。 それから彼女はアメリ カ人ジョ ン ・ ス カイラーが政府の任務でヨーロッパに向かう船に乗る 。 ﹁ デッキを降りると 、 そこに女がいた 。 暗い美しさを た た え 、 背が高く柔らかでしなやかな女だった。死を思わせるような黒 く豊かな髪が頭に巻きつけられていた。頬は白く、唇は真っ赤 に染まっていた 。 ﹂ 彼女は ほとんど ﹁ うっとりさせるように魅 力 的 で ﹂ 、 ジョンの友人にキプリングのヴァンパイアを思い起 こさせている。やがて ︵もちろん!︶ 、ジョンが愚者となる。 十九世紀のヴァンパイアが別 れた恋人 ︵ あるいはその代理と して他の男︶ に対して復讐するよう 動機づけられていたのに対 し、幼い頃父に拒絶されたことが原因で成人した女が行動を起 こし、そして実際に父親を殺してしまうという点はかなり近代 的である。ブラウンはリエンの動機づけにそれほど関心がない。 彼がヴァンパイアに対 して関心を持つのは 、 ︵ ﹃ 愚者ありき ﹄ で は︶ 失敗に終わるものの、不当な扱 いを受けた妻と家族をジョ つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
ンの悪行から守ることで、愚者が救い出される可能性を提示す る触媒としての役割においてである 1。9 フォックスが映画化した ﹃ 愚者ありき ﹄ は 、 ヴァン パイアの 行動に近代的な動機づけを与えていることで、ブラウンの小説 の さ ら に 先 を い く 。 映 画 冒 頭のシーンで 、 セ ダ ・ バラ演じる ﹁ ヴァンパイア ﹂ はヨット遊びに興 じるジョンと彼の家族のま わりをぶらついている。ヴァンパイアの視線はただちにジョン へと向けられるわけではない。むしろ、彼女はジョンの妻と娘 に歩み寄り、会話に引き入れようと試みる。しかし妻は子ども をヴァンパイアから引き離し、去っていく。そのときヴァンパ イアは ﹁ あなたはいつの日か後悔することになるわよ ﹂ と 警 告 する。 ヴァンパイアの注意がジョンへと向けられる動機が与えられ るのは、この後だ。ジョンが急いでヨーロッパに旅立つことを 知ったヴァンパイアは、同じ船で旅行する手配をし、ついに彼 を誘惑する。しかし、ここにおいて、ヴァンパイアの復讐は自 分を苦しめた男に向かってはいない。社会的な侮辱を与えた妻 に報復しようとしているのだ。後に続くヴァンパイアとジョン の関係において描写されるヴァンパイア不満のほとんどは、彼 女がそこでの成功を目論む上流社会からの拒絶に対する彼女の 怒りによるものである。 映画公開後しばらくのあいだ 、 女優セダ ・ バ ラ は 、 女優とし ての彼女自身と演じた役柄が同じものであると宣伝されていた が、数ヶ月のうちに、バラは実は善良な娘であるという売り文 句に変更さ れ た 2。0 役柄と俳優本人を分けることが重要なのは 、 分けることで、バラとヴァンパイアのどちらもが人間化するか らだ。ある報道記者が伝えるには、フォックスのスタジオで働 く人々は ﹁ 親 し みをこめて ﹁ ヴァンプ ! ﹂ の愛称でバラを呼ん でおり﹂ 、バラと結び付けられた ﹁ヴァンピング ︵男を誘惑して 食 い物にする ︶ ﹂ という動詞は一九一六年に登場している 2。1 ここで 、 本来の ﹁ 吸血女 ﹂ という意味が縮小されている 点 は 示 唆に富む。初期ヴァンパイア映画において複雑かつ共感を呼び 起こすスター ・ イメージを付与したことと 、 ヴァンパイアの 行 エイジェンシー 動やその意志に満ちた行為性をテクスト上で心理学的に動機づ けたことは 、 ﹁ 人間化され た ﹂ ヴァンパイア表象の趨勢に拍車 をかけた 。 したがって 、 ヴァンパ イ ア が 描 か れ た 最 初 の メ ジャーな映画作品の中 で、 われわれはすでに ︵ 二 〇 │ 三〇年代 に使われるようになった意味で の︶ ヴァンプに遭遇しているの である 。 もしも ﹃ 愚者ありき ﹄ が愚者とその家族に ではなく 、 ヴァンパイアにもっと重きを置いていたのであ れ ば 、 こ の ︵ ヴァンパイアからヴァンプへ の ︶ 変化はより明白であったこ とだろう。それでも、たとえヴァンパイアが近代的に動機づけ られているとしても 、 彼女はまだファム ・ ファタールの延長 上 にある。彼女は階級上昇を目論み、自分の望みを手に入れるた めに、自分勝手に愚かな男を利用するのだ。
宿命無き女 : ヴ ァ ンプと ゴ ー ル ド・ デ ィガ ー ス︵金品目当 て で男を た ら し こむ女︶ バラが演じたヴァンパイアはブルネットだったが、一九二〇 年代終わりから一九三〇年代初めにかけて 2の2 ヴ ァンプとゴー ル ド ・ ディガースは通常ブロンドである 2。3 十九世紀のヴァン パイアのイメージが多く使われ過ぎたので 、 現代のフ ァ ム ・ ファタールは新しい風貌をしていなければならなかったのだろ う 。 しかし 、 新しいファム ・ ファタールの行動はさらに 念 入 り に心理学的に動機づけされ、社会的・道徳的に受け入れられる ふるまいはさらに詳しく分析された。そのように動機づけを強 調することで 、 ファム ・ ファタールは私たちが理解する意味 で 人間化されたと言えるかもしれないが 、 ファム ・ ファタール を 人間化することで、必ずしも彼女の脅威がそがれたわけではな い 。 ヴァンプや情婦やゴールド ・ ディガースは 、 それほ ど 有 害 には思われないかもしれない。しかし、だからと言って、すべ ての映画作品がそれらの女の行動を望ましいものとして肯定し ているわけではない │ │ 中にはそういった女たちへの恐怖 は 誤解によるものとするか、女の危険さよりもそのような女に惚 れる男のまぬけさを描いているものもあるにせよ。 映 画に出てくるファム ・ ファタールの多くは堕落した女であ る。二十世紀初頭の映画で女が転落するきっかけは、十九世紀 と同じく、誘惑、貧困、家族、意志などで説明される。これら のうち、最初の三つの理由の場合、転落してしまった女は犠牲 者のままでいるか、なんらかの方法で対応する。しかしながら、 四つめの 理 由 │ │ あからさまな意志 │ │ の場合 、 女は経済 的・社会的利益を得るために、自分の性的な魅力や能力を積極 的に行使す ることを選ぶ 。 偶然にせよ故意にせよ 、 ﹁ 転落 ﹂ が 始まると、女は性的な手ほどきを受け、そしてそこで犠牲者と して定義されるか、あるいは行為者として自分自身を定義する 事が可能になる 。 もしも女が行為者になる ︵ または な ろ う ︶ と すれば、男に対して女がとる態度次第で、逆転して男が女の犠 牲者になるかもしれない。 これらの堕落した女の種類を表わす図式には、事を複雑にす る二つの要素があげられる。 女が最初に属している階級的位 置 ︵ 白人でなければ民族や人 種によってさらに複雑になる ︶ 、 および 物語のジャンル的な様式 │ │ まじめな劇なの か 喜 劇 なのか 2。4 あ まりにも画一的であるか 、 あらゆる例に適用して しまうと図式化は危険だが、時に一定の傾向を見出すには有用 だ。 図1 は、女の堕落の原因と、転落した女が自分の置かれた 状況にどう反応する かに基づいて 、 ﹃ 堕落した女 ﹄ の全般的な 類型を提示している。 図2 ではさらに進んで、これらの類型に あてはまる一九二七年から一九三三年の間に作られた映画を列 挙し、ジャンル分けを施すことで、これらの類型を発展させて いる 2。5 つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
図1 墜落した女 犠牲者となる女 他人を犠牲にする女 ファム・ファタール 誘惑され捨てられる女 つれなき美女 労働者階級の売春婦 ヴァンパイア 白人奴隷 1800年代――宗教的な、あるいはオカルト的な解釈:道徳世界での罪 ───────────────────────────────── 1900年代――世俗的な解釈:道徳とは無関係の世界でのふるまい(「人間化」) 筋書きA――労働者階級の女 筋書きB――労働者階級または中産階級の女 A. 労働者階級の売春婦 A. 金銭や社会的上昇を欲望する女* ヴァンプ ゴールド・ディガー 情婦 B. 自分を犠牲にする母 B. 欲望する主体としての女* (母ものメロドラマ) (既婚または未婚) (母性をテーマにした女性映画) * 喜劇作品においては、たとえ女が実際には処女のままであるとしても、そのような女は堕落していると思われ るので、これらの範疇に含まれる。女が本当に堕落したのかどうかが物語の展開にとって重要である。 図2 「堕落した女」映画の作品例 犠牲者となる女 他人を犠牲にする女 ドラマ ドラマ 喜劇 A. 売春婦 A. 金銭や社会的上昇を欲望する女 1- 2- 3- 『十戒』(23) 『なぶられ者』 (24) 『港の女』 (28) 『有閑夫人』(30) 『尖端娘商売』(30) DuBarry, Woman... (30) 『スザン・レノックス』(31) Just a Gigolo (31) 『蜃気楼の女』(31) The Easiest Way (31)
『雨』(32) Red-Headed Woman (32) Blondie of the Follies (32)
The Crash (32) 『口唇に罪あり』(33) 『わたしは別よ』(33) Bed of Roses (33) 『ゴールド・ディガース』(33) B.犠牲的な母 B. 欲望する主体としての女 4- 5- 6- 『カミーユ』 (21) 『肉体と悪魔』 (27) 『イット』 (27) 『アンナ・カレーニナ』(27) 『ロマンス』 (30) 『結婚双紙』 (30) 『マデロンの悲劇』(31) 『笑う罪人』 (31) 『ブロンド・ヴィーナス』*(32) 『ブロンド・ヴィーナス』* (32) 『極楽特急』(32) Rockabye (32) 『たそがれの女』 (32)
『裏町』(32) New Morals for Old (32)
Street of Women (32)
Ann Vickers (33) Lilly Turner (33) 『生活の設計』 (33)
* 『ブロンド・ヴィーナス』は、観客が主人公の動機をどのように解釈するかによって、いずれかの範疇に含まれる。 山口菜穂子訳
この図式を見ると、堕落した女が危険なものとして表象され るのは、彼女の意志が善良な男に危害を加える類のものである ときだけ、という点が明らかになる。言い換えると、女は、責 任のある賢明な男に当然委託された権力を強奪しない限り、積 極的に攻撃的になることができる 。 愚かな男 がファム ・ フ ァ タールの手にかかって破滅するのは仕方がないし、愚かでない 男は自分の名誉を回復するか、そもそも最初から女に屈するこ となどない。このように、この手の映画の多くが、攻撃的な女 と同じくらい 堕落した男を取り扱っていることを考えれば 2、6 攻撃的な女は、本来備わっている正義の尺度によってではなく、 むしろ男の過失に相関して罰される。ここで肝に銘じておく必 要があるのは、これらの映画作品は攻撃的な女に関するもので あるようにしばしば見えて 、 実際は 、 文化的な問題 の中心と なっているのは男である、ということだ。攻撃的な、堕落した 女の物語的価値は、男に自制し続けるよう警告を発する点にあ る。 図 1 の上半分は 、 宗教やオカルト的理由付け が圧倒的に多 かった十九世紀において、堕落した女性表象の例として挙げら れるものである。これらの女性像は二十世紀に持ち越されたも のもあるが、そのほとんどは、心理学、精神分析、社会学のよ うな非宗教的な理由付けによって、イメージが複雑化されてい る。それに加えて、階級やジャンルが与えている影響に注目し ながら、上述の定式をいくつかの種類に分類することを試みた。 図2は、堕落した女を主人公とする物語を六つの選択肢に分け て提示している。そのうちの四つは、堕落した女が性役割を取 り替えることで ︵ ﹁ 犠牲にする ﹂ 女 ︶ 、 行為者の役目を 積極的に 果たす話である。これらの話は第一に、男への警告として成立 するかに見える。しかし実際には、物語の複雑さや見世物性が、 男女どちらに対しても、それ以外のイデオロギー的な効果を生 み出すこともある。 第一のタイプは、堕落した女が ﹁売春婦 w o rking g irl ﹂ として の自分の立場を受け入れ、犠牲者として労働者階級に留まるタ イプである。この タイプの例として 、 ﹃ 雨 ﹄ ︵ 一九三二 ︶ のセイ ディ ・ トンプソンが 挙げられるだろう 。 セイディは ︵ 一般的な 表現で言うと ︶ 身持ちが悪く 2、7 親 切 に 自分の相手をしてくれ る 男達の間で適当にやり過ごしているように見える 。 彼女は ヴァンプやゴールド ・ ディガースではないが 、 そ れ は 、 彼 女 に 男をだましたり、苦しめたりするほどの性的魅力がないからだ。 実際、物語のポイントは、彼女の誠実さや正直さにある。伝道 師 アルフレッド ・ デヴィッドソンが彼女の前に立ちはだかり 、 改宗させることで彼女を ﹁ 向上させ ﹂ ようとする以 前 は 、 彼 女 は淡々と自分の人生を生きることしか望んでいない。伝道師が セイディを最終的にレイプしてしまうことで、話に二つめの転 換期が訪れる。しかし、セイディが反撃することはない。彼女 は自分に起きたことを受け入れ、伝道師が自殺したと聞くと、 つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
﹁ じ ゃあ彼を許してあげられるわ 。 馬鹿を見たのは私一人だと 思っていたわ 。 ﹂ ﹁ 世界中のすべての人に申し訳な い わ 。 ﹂ と 述 べる。このように改革者をドラマティックに考察するやり方は、 ﹃ 雨 ﹄ を堕落した男の物語 にしている 。 問題の核心はセイディ の救出にあるように見えるものの、この映画作品で提起されて いる究極の道徳的問題は、伝道師が彼女に対して抱く自分自身 の性欲 ││ 彼女は誘惑さえしていない ││ に負けたことなの だ。 第一のタイプと対立するのは 、 労働者階級の堕落した女 を 扱っている二つめと三つめのタイプである。これらのタイプで は、女の行動を動機づけるのが、経済的安定や社会的地位上昇 への欲望で あ る 。 彼 女 は 、 ︵ 見たところ ︶ 経済的状況の犠牲に さ せられている自分の立場を受け入れることを拒み 、 ︵ 自分と 性的な関係を望んでいる男の関 心を利用することで ︶ 自分の置 かれている 状況をコントロールし 2、8 他人を利用してうまく事 を運んだら 、 男を犠牲にする 。 当時のヴ ァンプやゴールド ・ ディガースや情婦の多くがこれにあてはまる。 二つめのタイプの物語は、まじめなドラマ形式で展開する。 ﹃蜃気楼の女﹄ ︵一九三一︶ は このタイプの良い例である 。 こ の 映画の主人公マリアンは、幼い頃の貧しい境遇から抜け出すべ く、ニューヨークに出て来て男を誘惑する女となる。しかしこ の彼女の動機は、誘惑される男の一人と恋に落ちることで変化 する。堕落した女でも、男と恋に落ちるか、さらにもっと望ま しいのは、自分が求めているなにかをその男のために犠牲にす れ ば 、 社会的にも道徳的にも救い出される 2。9 このように 、 堕 エイジェンシー 落した女が自分の望みを諦めることでその行為体としての脅威 はそがれ 、 女の力は ︵ 個人の力というよりもむしろ ︶ 社 会 発 展 につながる力へと変容する。 第二のタイプに属する映画作品は、女は経済的な自立を望み、 男が性的にだまされやすいことを利用して成功するものだ、と いうことをドラマの前提としている。男は物腰の柔らかいタイ プで、何が起きているのかわかっているか、あるいはバカでま ぬけである。潜在的に堕落する可能性のある男を、皮肉っぽく あるいは喜劇的に描写するやり方は、第三のタイプで見られ、 い く つ かの心理的 ・ イデオロギー的な利点をもたらす 30。喜 劇 は個人に警告を発することができるからだ。また、愚かな男を ﹁ 他 者 ﹂ として描き出すこ と で 、 すべての男が暗に感じている 脅威を遠ざけることができるからだ。つまり、ものすごくまぬ けな男がいれば、そのまぬけな男を利用している女と一緒に賢 い男は笑っていられるのだ。 喜劇的に問題を取り扱うと 、 犠牲者とな る べ き 男 と し て ﹁ ちっとも ﹂ 男らしく ﹁ な い ﹂ 男がしばし ば 作 り 出 さ れ る 3。1 ﹃ゴールド ・ ディガース﹄ におい て は、 女が金蔓となる男を探す のは、強欲な意志によってではなく、男の行動に対する仕返し によってである 。 三人のショー ・ ガールは 、 隣人のブラ ッ ド が 新しいショーのために資金を調達できることを知って大喜びす
る。ブラッドはポリーを愛していて、女たちは知らないものの、 彼は大金持である。ブラッドの兄ジェイとその友人ピーボディ が 、 ブラッドとポリーを別れさせんと街にやっ て く る │ │ 彼 らはポリーが男をたぶらかして金を巻き上げるたぐいの女だと 思っていたのだ。この彼らの思い込みに激怒したキャロルは、 ポリーのふりをする。ピーボディはこの種の喜劇では古典的な ﹁バカ男﹂ である。彼いわく、シ ョ ー ・ ガールなんてみんな詐欺 師で、寄生虫で、ゴールド ・ ディガースなのだ。 ﹁俺はよく覚え ているよ⋮⋮レクターの店に行ったときこの女に会ったことを。 そのときの彼女の名前はユーニスだったし、おれだってフラッ フィーだったさ ︵ つ ま り 、 二人とも嘘をついていたというこ と︶ ﹂ 。結局、ジェイとピーボディはそれぞれキャロルとトリク シーに夢中になり、キャロルの正体もわかり、ジェイはブラッ ドとポリーの結婚を祝福する 。 この喜劇では 、 女はゴー ル ド ・ ディガースであるという幻想が重要な役割を果たしており、話 の要は、ステレオタイプ的に女を決めつけるまぬけな男を笑い 者にすることである。 四・五・六つめの堕落した女の定式は、労働者階級にも中産 階級にもあてはまるタイプのものだ。これらの定式では、女を 転落させるのは貧困や意志的な選択ではない。誘惑、あるいは 行為者としての女、あるいは欲望する主体としての女にその原 因がある。経済的困窮はこの誘惑/欲望の図式をより複雑にす るものの、女の最初の転落は、結婚の神聖さを保てずに自制を 失ってしまうこと、つまり、結婚を伴わない性交渉をするか、 夫以外の男と関係を持つ ︵ 姦通する ︶ ことと結び付けられて い る 。 まじめなド ラマの場合 ︵ 四つめと五つめの例 ︶ 、 女の行為 は良い結果をもたらさない。誘惑にのってしまうか、なにかを 選択した直後、悪いことが起きる。幼い子どもがいることが発 覚 したり 、 情事が見つかったり 、 ﹁ 裏通りの / 陰 の ﹂ 女のまま でいなければならなかったりする。そして、事の成り行きに対 して、女がどういう行動に出るかが、物語の展開にとって最も 重要な点である。この状況に対する保守的な筋書きでは、物語 は、女が最初にしでかした逸脱行為の結果をいっそう悪化させ るか、それともその結果から教訓を得るのかどうかに注意を払 う 3。2 こ こ では 、 逸脱行為になんらかの報復を加える社会が 、 それを補償するための道徳的正義をつくりだしている。 フェミニズム研究者にとって一九三〇年代初期の映画が重要 なのは、四つめと五つめに含まれるいくつかのテクストや、特 に喜劇というジャンルの六つめのテクストが、最 初 の 出 来 事 / 選 択 は 間 違 い で は な い と主張しているからであり、これらの物 語は 、 ︵ この段階で ︶ 転落が起 きてしまったとほのめかすこと 自体を拒むからである。そのような物語は、欲望する主体とし ての女がとるべき正しい行動に関する十九世紀的な解釈に批判 を投げかけ、本来善良である女に問題を押しつけてしまう社会 に関心の中心を向ける。しかしながら、これら四・五・六のタ イプの映画作品でも、古臭い道徳的見解を提示する映画も確か つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
に存在する。 第四のタイプは、大まかに言って、犠牲的な母のグループと 分類される。このタイプは、欲望する主体としての堕落した女 という、より広いカテゴリーに見られる多義性を表わすのに良 い例となっ て い る 。 こ こ で 、 ﹁ 母 ﹂ という言葉は文字通りかつ 比喩的な意味で使われている。というのも、これらのタイプの 物語は、転落後の女に何らかの犠牲を強いる出来事を用意する が 、 その犠牲が 、 女が持つ ︵ とされている ︶ 母とし ての性質と 関連づけられているからである 。 著しく典型的な例 は 、 ﹃ マ デ ロンの悲劇 ﹄ ︵ 一 九 三 一 ︶ で あ る 。 マデロンはアメリカ人の芸 術家と恋に落ちるものの、彼はマデロンと結婚せず、しかも彼 女が妊娠したことに気づかないまま、アメリカの家族のもとへ 帰ってしまう。マデロンは生まれた子供を養子に出そうとする が、母としての愛が勝って踏みとどまる。マデロンは子どもを 育てるため、ある男の情婦になる。しかし、その男は大泥棒で 逮捕されてしまう。彼女は男の犯罪について何も知らなかった にもかかわらず、十年も刑務所に入れられ、子どもも公立の学 校へと送られる。出所した彼女は息子を取り戻そうと考えるが、 自分があきらめれば、彼が医者になることができると知って断 念する。マデロンは息子の授業料のために売春婦になり、つい に、すんでのところで老人向けの救貧感化院へと永久に入れら れそうになる。彼女は息子の援助者によって助けられ、パリ郊 外の小さな家に落ち着く。 ﹃ マデロンの悲劇 ﹄ は 、 堕 落した女が事実上物語を通して犠 エイジェンシー 牲者であり続ける状況を提示している。女は主体性を持ってい るものの、その主体性は入り組んだやり方で、社会的により広 く役立つよう用いられてい る ︵ 女を犠牲にして 、 息子を社会的 に生産性のあるメンバーに育て上げるように ︶ 。 実際 、 情 婦 で あること、売春婦であること、ケチな盗人であることは正当化 され賞賛されている。しかし一方では、これらの行為を、女が 生き残るための選択肢の一つと位置づけているシステムそのも のが批判されることはない。 エイジェンシー 五つめのタイプでは、欲望する主体としての女の行為性が欲 望を超えてしまう、 つまり、 女が欲望している当の男にとって賢 エイジェンシー 明 な こ とですら 、 犠牲にしてしまうほどの行 為 性を女が持つ 3。3 六つめのタイプも 、 欲望する情婦 、 ヴァン プ 、 ゴルード ・ デ ィ カースを描き出すが 、 それは喜劇的な方法によってであ る 。 ﹃ 生活の設計 ﹄ ︵ 一九三三 ︶ は 、 もしも深刻なドラマ か 、 メ イ ・ ウエスト調の俗悪な喜劇だったならば、おそらく配給されるこ とはなかっただろう。この点が明らかになるのは、作品中繰り 広げられる、ギルダ、ジョージ、トムの三人の諍いが幾分肉体 的なものになる瞬間だ。そこでなされる会話が示すように、も しもドタバタ喜劇ならば、その場面はバーレスクと呼ばれただ ろう。また、もしも深刻だったならば、メロドラマになるとこ ろだ。しかし実際には、その場面は気品にあふれ、従って一流 の喜劇だと言えるのだ。二人の男の間で迷う女の物語はすばら
しく機知に富み、女がどちらの男とも共に暮らし、結局のとこ ろ性交渉を持つことで 、 一連の成り行きが進んでい く 。 ﹃ 生 活 の設計﹄ は喜劇であるため、ギルダ の欲望と男達のギルダへの 欲望は、道徳上の問題にはならず、物語が解決に向かうための 付 随 的 な事情として扱われる 3。4 ところが 、 物語に決着はつか ない。映画のラストシーンでは、三人組は再び三角関係へと戻 り、また、最初の間違いを犯そうとしているかのようだ││自 分達が性的な関係に陥らないですむと考えるのである! このような女の欲望の増殖は、女と女のセクシュアリティに ついて探究するという時代全体の関心に符合している。ときに、 女たちは欲望に従って行動し、またそうでないこともある。そ ういう女の行動を描く物語は、ときにまじめな視点から、とき に喜劇的な視点を用意する。ときに、堕落した女は悪だとテク ストが描き、いや、悪ではないと描くこともある。場合によっ エイジェンシー ては 、 行 為 性を持つ堕落し た女を脅威的なものとして表象し 、 そしてまた逆もある。 私がこれまで列挙してきた六つの分類を強調するのは、テク ストを表象分析すること自体が、複雑な批評的・歴史的な問題 であるからだ。結論として、以下の四つの重要な点を強調した い。第一に、攻撃的になり男を犠牲にすることで潜在的な脅威 を引き起こす 、 堕落した女のステレオタイプ ︵ フ ァ ム ・ フ ァ タール︶ について私は論じ 始めたものの 、 同時に 、 以下の点を 示そうとした。すなわち、こうした基本的な条件を前提とする と、テクストの語りが持つ力によってだけでなく、堕落した女 エイジェンシー のふるまいや行為性に多くの選択的な特徴があるために、テク ストは極めて複雑なものとなるということ。その結果、テクス トが持つ理論的・イデオロギー的意味づけも複雑なものになる 可能性をもつということだ。批評の実践において重要なのは、 女を分類して満足することではなく、さらに考察を進めること だ。たとえば、 女が主人公なのか脇役なのか。 女の反応は、 エイジェンシー 行 為 性 の 結果なのか 、 単なる反発なのか 。 その後に続く女 の行動を動機づけているものは何か。 語りの声と物語の解決 は彼女のふるまいに対してどのような言説的意味を与えるか。 テクストのどの点が逸脱的な流れを作り出しているのか。 第二に強調したい点は、階級、人種、民族、性的指向が表象 に影響を与えるということ、交差的な分析を行う場合は、疑い なくこれらに注意を払う必要があるということだ。同様に、私 が重要だと考えているのは 、 ジャンルがファム ・ ファタール の イメージを作り変えてしまうということだ。それがまじめなド ラマなのか喜劇なのかによって、犠牲を強いるものとしての堕 落した女に潜む恐るべき性質や、言説が生み出す重要な点が変 わってくる。第三に、私は本論で、実際の観客によるこれらの イメージや物語の受容の重要性について、言及することさえし ていない。文化研究が強調しているように、影響や作用に関す る経験的な明白さに抗って、理想的な読みというものは検証さ れる必要がある。特に、表象が生み出す社会的帰結について疑 つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
問を投げかける場合には。 最後に、我々は以上のことを分析する際に、あらゆるテクス トが封じ込めの機能を潜在的に持つという点を除いて、つれな き美女が作りかえられ、そのイメージが人間化される過程で、 攻撃的な女が封じ込められていると決めつけないようにすべき だ。また、攻撃的な女が持つ危険な側面が緩和されたと、歴史 的に結論づけられるというわけでもない。冒頭で述べたように、 他人を犠牲にする攻撃的な女の例としてはそれほど露骨ではな いにもかかわらず、ヴァンパイアが持つ脅威的な面が、もっと あからさまになっている例はその後何度も再登場している。一 九 四 〇年代末から一九五〇年代初期にかけてのフィルム ・ ノ ワールのファム ・ ファタールだけが 、 映画で描かれる堕落し た 女の例ではない 。 たとえば 、 ゴールド ・ ディガースもロ ー レ ラ イ ・ リー ︵ マリリン ・ モ ン ロ ー ︶ とドロシー ︵ ジェーン ・ ラッセ ル ︶ のように 、 ﹃ 紳士は金髪がお好き ﹄ ︵ 一九 五 三 ︶ で蘇ってい る。どのような歴史の瞬間においても、支配的な表象が何であ るか見極めたいと思うのは、研究者としての常ではあるものの、 付随的で変わらない選択肢 options は 常 に 存在し 、 新たなシナ リオに生まれ変わる素材を提供するということを見ていくこと も重要なのだ。そうであるならば、攻撃的な女の表象の存在と 継続の原因となるのは何かについて、概論的な判断を性急に下 すことより、何が変わっているのか変わっていないのかについ て、見極めることができるようになるべきであろう。 しかしながら、これらの映画に継続して見られるのは、攻撃 的な女が男に与える影響に文化的に焦点を当てている点だと思 われる。これらの女たちは、男を試すために、言説的な役割を 果たしてい るようだ 。 女 は 、 ﹁ 本物の ﹂ 男を脅かさない限りに おいて 、 強く自己主張することができる 。 ファム ・ フ ァ タ ー ル は男の自制心を試し、関係を本当に支配するのは誰なのかとい う問いを不安定にするような、脅しを発するのだ。男が女の意 志に立ち向かうことができるか否かを試す物語は、男としての 真性さを規定する 。 このように 、 ファム ・ ファタールの 物 語 的 価値は、 二十世紀資本主義における男性性を決定している ││ それは過去数世紀まったく変わっていない 、 ファム ・ ファタ ー ルのイデオロギー上の役割なのである。 注 1 私は、人を誘惑することがで きる危険な女の範疇を示すた めに ﹁ ファム ・ ファタール ﹂ という語を使用してい る 。 フ ァ ム ・ ファタールにはよ り具体的な変形があ る │ │ つれなき美 女 、 ヴァンパイア 、 ヴァンプ 、 ゴールド ・ ディガ ー 、 フ ィ ル ム ・ ノワールのファ ム ・ ファタールである 。 実際には 、 本論で は主に、一九二〇年代後半から 一九三〇年代初頭にかけての ヴァンプとゴールド ・ デ ィ ガーの表象について論じる 。 余 談 ではあるが 、 ﹁ ゴールド ・ ディガース ﹂ がヴァンプを 意味する
ために使用され 始めたのは 、 少なくともエイブリ ・ ホップ ウッド原作 、 デイビッド ・ ベ ラ スコによる一九一九年のコメ ディ ﹁ ゴールド ・ ディガース ﹂ ︵ ニューヨーク 、 一九一九 年 ︶ においてである。 2 Ma ry Ann D oa n, “Film an d the Ma sque ra de : T h eo ris in g th e F em ale Sp ectato r,” S cr een 23, no. 3 − 4 (Se pte m be r− Oc tobe r 1982): 82 が以 下を引用している。 M ic he le M on tre la y, “I nquiry into Fe mininity ,” m/f 1 (1978): 93. 3 私の研究範囲はアメリカ 映画である 。 他国の映画において 、 これがどの程度見出される のか私にはわからない 。 したがっ て、私はこの力学を歴史化 しているだけでなく 、 アメリカの 主要な映画のみに限定して 論じるつもりである 。 初期のアメ リカのエクスプロイテーション 映画とポルノグラフィの研究 を参照すれば、とりわけ喜 劇において 、 かなり逸脱的ものが 散見されることがわかる。 4 本論に出てくるすべて の映画は 、 封切り年を記していく 。 私が観た特定のバージョンや発 表で論じられている映画につ いて詳しく知りたければ映画目録を参照のこと。 5 Sumik o H igashi, V irg in s, V a m p s and Flappe rs : T he Ame ric an Sile nt Mo vie H er o in e (St. Alba ns, V T : Ede n Pre ss W ome n ’s Public ations, 1978), pp. 71 − 72. 6 あるいは少なくとも、それが もっともらしいと見せかけら れているような女のイメー ジ。 この問題についての類型的考 察については、以下を参照。 7 これは受容研究でもない。 8 交 差 性 理 論 に つ い て は 以 下 を 参 照 。 Norma A la rc on, “T he T h eo retical Su b jects o f This Bridg e Called M y B ac k an d A nglo − American Feminism ,” in M ak in g F a ce ,M ak ing Soul, H ac ie ndo Car a s: Cr eative and Critical P er spectives by W o men o f C olor , ed. Gloria Anz aldua (Sa n Fra n cisc o: Aunt Lute , 1990), pp. 356 − 69; Kimberle W illiams Crensha w , “Be yond R ac ism an d M isogyn y: Bla ck Fe minism an d2L iv e C re w ,” in W or ds that W ound: Critical Race Theory , A ssaulti ve Spe ec h, and The F ir st Ame ndme n t, ed . M ari J. M atsu da , C h arles R. La wrence III, Richard D elgado, and K imberle W illiams Crensha w (Boulde r, Colora do: W estvie w Pre ss, 1993), pp. 111 − 32; P atricia Hill Collins, B la ck F em in is t T h ou ght: K nowle dg e, Consc iousne ss, and the P olitics o f E mpowerment ,2 nd ed . (Ne w Y ork: Routle dge , 2000), p. 18 ff.; Leslie McCall, “The Comple xity of Intersectionality ,” Sign s 30, no. 3 (Spring 2005): 1771 − 1800. 9 Ama nda Ande rson, Ta inte d Souls and P ainte d F ac es : T he R he to ric of F allenness in V ictorian C ultur e (Ith aca, NY : C or ne ll Un iv ersity Pre ss, 1993), p. 15. 10 T imothy G ilfo y le, City of Er os: N ew Yo rk City , P ro stitution, and the C omme rc ialization o f Se x, 1790 − 1920 (Ne w Y o rk: W .W . N or to n an d C o., 1992), pp. 146 − 75. 攻撃的なファム ・ ファタールのイ メージは古代から 存在する 。 聖書からはイブ 、 イゼベル 、 デ リラ、ユディ ト、サ ロ メ、 リリスなど 。 神 話 、 フォークロア 、 歴史からはトロイ のヘレネ 、 キルケ 、 メデューサ 、 メディア 、 つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
メッサリナ、ク レオパトラ 、 ヴィーナス 、 モルガン =ル =フェ イ、そしてつれなき美女 が挙げられる 。 以下を参照のこと 。 P atrick B ade, F emme F atale: Ima ge s o f E vil and F ascinating W om en (London: Ash and Gra n t L td., 1979), p . 7 . 11 サンドラ ・ ギルバート とスーザン ・ グーバーは 、 つれなき美 女には様々な呼び名があり、近 づきがたい場所に住んでおり 、 奇妙かつ命を奪うような力を 持つとされると指摘している 。 “Heart of D arkness: The A gon of the F emme F atale, ” in No Man’ s Land: The P lac e of the W oman Write r in the Tw en tie th C en tu ry ,vo l. 2 (Ne w Ha ve n, CT :Y ale U ni ve rsity Pre ss, 1989), p. 26. 12 これらの変化や、堕落した男 の定式に関する広範な議論に ついては、 以下を参 照のこと。 Janet S taiger ,Bad W ome n: R egulating Se xuality in Early A merican C inema (Minne apolis: U ni ve rsity of Minne sota Pre ss, 1995); Ja ne t Sta ige r, “F ilm N o ir as M ale M elo d ra m a: T he P olitics o f F ilm Genre L abeling, ” in Ge ne ric C anons: G en re , H istory and M em or y, ed . L in co ln G era gh y an d M ark Jan co v ich (fo rth co min g ). 13 John G. Ca welti , A dv en tu re , M ys te ry , and Romanc e: Fo rmula S to rie s As Art and P opular Cultur e (C hi ca g o, IL: U ni ve rsity of Chicago P ress , 1976), p .261. 14 Staiger ,Bad W ome n , p. 83. 15 La ura H ap ke ,Girls W ho W ent Wr ong: Pr ostitutes in A merican F iction , 1885 − 1917 (Bo w ling G reen, OH: Bo wling G reen State U ni ve rsity Popula r Pre ss, 1989), pp. 135 − 38; Gilfo y le, City of Er os, pp. 276 − 83 . 16 紙面に余裕がないので、ここ ではこの利点について消費文 化と資本 主義の点からは詳しく論じない 。 スタイガーの Bad Wo m en を参照のこと。 17 ﹃愚者ありき﹄ はヴァンパイア物語の最初の映画化とい う わ けではないが、初期の長編 の一つであり 、 他の初期ヴァンパ イア映画の中でもっとも広く知 られていたことは確かである 。 ﹃愚者ありき﹄ 以前のヴァンパイア映画の歴史につい て は、ス タイガーの Bad W ome n , pp. 151 − 52 を見よ。 18 Po rter E m erso n B ro wn e, A F ool The re W as (Ne w Y o rk: G rosset an d D unla p, 1909). 19 ﹃愚者ありき﹄ の小説版では、妹の忠告によって離婚が す す められている。同様の点が 映画版にも見出せる 。 スタイガー の Bad W ome n ,pp. 147 − 62 を参照のこと。 20 Ja n et S ta ig er, “F ashioning a P ersonality: T heda Bara and the Designs of He r S ta r Ima ge ,” pre se n te d for “W ome n an d the Sile nt Sc re en Co n feren ce” (Mo n treal, C an ad a, 2 − 6 June 2004). 21 W alla ce Fra nklin, “Pur g atory’ s Iv o ry Ange l,” Photoplay 8, no. 4 (Se pte mbe r 1915): 72; Ro wla n d T homa s, “’V am ping’ in Mo vie s Suf fices; T his S tar P refers Normality in Real Life, ” Cle ve land Plain De ale r, 20 Fe brua ry 1916 [n.p.: NYPL clipping file ]. 22 私 は ︵ 一 九 一 五年から ︶ 一九二〇年代後半 ∼ 一九三〇年代 初期の時代へと飛び越えて 論じているが 、 それはいくつかの 理由による。その時代まで に近代化の戦略によって 、 映画と 文化において円熟した 表象がもたらされたこと 。 その上 、 一 九二〇年代後半から一九三〇 年代初期の間においては 、 メ
ジャーの映画製作会社が大 変寛容に非 │ 伝統的な物語を描き 出していたこと。それは道徳的 要件の観点に基づいてはいた ものの、そのような道徳的 要 件 が、 その頃のアメリカ文化に 流通していた多様な意見を 潜在的に示していたこと 。 私は一 九三三年がその終焉である と考える 。 というのもその年に慎 み深さを推奨する議論が高 ま り、 堕落した女の表象に対して 批判が巻き起こったためで あ る。 複雑化した堕落した女像が 再 び 現 れるのは 、 第二次大戦が終わり 、 プロダクション ・ コードの威力が陰り始めてからである。 23 人種主義も関係している とは思うものの 、 どのように関係 しているか私にはわからな い。 ブロンドの髪の女はブルネッ トの女よりも肌の色がより 白 く、 したがってより美しく魅惑 的だと考えられるかも しれない 。 しかし 、 ブルネットの女の 顔色はその黒色の髪と比 べ て、 青白く見えるかもしれない 。 一九二〇年代初期から中 期にかけて 、 ファム ・ ファタールの中 には有色人種の 女がいた ︵ たとえばアナ ・ メ イ ・ ウォン ︶ 。 しか しながら、私が分析した映画群 の中に有色人種の女はいない 。 24 分析を難しくする三つめ の要素は 、 取り扱っている時代そ のものにある。 25 これらの映画リストは、私が この発表のために鑑賞したも のに限られており、実 際はもっとたくさんある 。 その上 、 私 はこれらの映画の持つある一定 の傾向を示すために中心的な 特徴を抽出している。それ らの映画はすべて 、 テクスト的に はもっと複雑である。もう 少し紙面があれば 、 私はより広範 囲なテクスト分析を提示で きるだろう 。 しかしながらこの図 式は、攻撃的な女を他の傾 向にあてはめて考察する際 、 よ り 示唆に富む 。 そ う することで 、 リ ー ・ ジェイコブズがこれら の女のイメージを定義する際に 示した価値ある出発点とは別 に、いくつかの有用な点を 私は提示したいのである 。 ジェイ コブズの The W ag es o f Sin: C en sor ship and the F alle n W oman F ilm, 1928 − 1942 (Ma d ison: Uni ve rsity of W isc onsin Pre ss, 1991) を参 照のこと。私はもともと一 九九四年に本論を書き 、 今こうし て発表するまでの間に一部 を口頭発表した 。 その間にジェイ コブズは、深刻にあるいは喜劇 的に女を取り扱う際に生じる 違いについて論文を発表し た が、 彼女はこれらの変形された 女のイメージについて解 説していない 。 以下を参照のこと 。 Lee Jacobs, “The S eduction P lot: Comic an d D ra m ati c V ar ia nts ,” F ilm History 13, no.4 (2001): 424 − 42. 26 Staiger , “The Politics o f F ilm Genre L abeling. ” 27 アンダーソンが指摘する よ う に、 この語は制御不可能性の イメージを強めている。 28 シ ョ ー ・ ビ ジ ネスという職業は 、 女たちにとって 、 見世物 としての自分の才能を安全にか つ適切に発揮できる境界的な 環境である 。 これらの女た ちとショー ・ ビジネスという職業 の強い結びつきについては、まだ十分に論じられていない。 29 少なくともそれはこの時 代の映画の中で見られる 。 一九三 四年以降はそうではない。 Higashi, V irg ins, Va mps, p. 79, 169; Ja co bs , W age s o f Si n , p. 41. つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース
30 ジェイコブズは T h e W age s of Si n において、類型 ︵ジャン ル ︶ の違いの重 要性を指摘してはいるものの ︵ 66 − 68 ︶ 、 イ デ オロギー的な点、精神分析 的 な 点、 あるいは物語が暗示する ものについて 考察を推し進めてはおらず、 彼女の “T he Se duc tion Plot” でも論じられていない。 31 明らかに、これは文化的に構 築されている男らしさの一種 で あ る 。 し た が っ て 、 引 用 符 は ︵ ﹁ 男 ら し い ﹂ で は な く ︶ ﹁ちっとも⋮ない﹂ につく。 32 ロスによれば、一九一〇年代 終わりと二〇年代に見られる 、 堕落した女としてのフラッ パ ー は、 悲劇的な運命に見舞われ るか、もしくは喜劇的な図 式へと押し込められていた 。 そ の 図式の中でフラッパーは 、 近代的なやり方を拒み ﹁ 家 族 へ と つれもどされる﹂ 。Sara Ross, “’Good Little Bad G irl s’: C on tro ve rs y an d the Fla ppe r C ome d ie nne ” (F ilm History 13, no. 4 (2001) ︶四〇 九ページを参照のこと。 33 私がここ で 言 う ﹁ 賢明なこと ﹂ と は 、 家父長制と資本主義 に照らし合わせて、という意味である。 34 確かに、ジャンルをドラマと 喜劇に分けているのはこの区 別である。喜劇では出来事に決 着をつけることが求められる が、喜劇的な語りの声の前 で は、 道徳的あるいは社会的な含 みは取るに足りないものである。 ● コメント
冨田美香
本コメントでは、スタイガー氏の考察対象と同時期にあたる、 一九三〇年代までの日本映画に描き出された 堕落した 女 の 系譜を比較対象として概観し、ディスカッションへの足がかり と し た い。尚、 ここでいう 堕落した 女 は 、 スタイガー氏が 指摘された ﹁ 男性性を決定 ﹂ する物語的機能を有したヴァン プ やファム ・ ファタールを主な対象としている。 二十世紀初頭の日本映画における 堕落し た 女 は 、 スタイ ガー氏の指摘と同様に、性的純潔から堕落した女が共通項とし てあり、その堕落のきっかけは、誘惑、貧困、家族、意志が大 半といってよい。彼女らのうち、男性性を脅かす女性は、日本 映画においてファム ・ ファタール ︵運命の女︶ という言葉よりも、 他者に対する攻撃性が強いヴァンプ ︵ 妖 婦 、 毒 婦 ︶ と称 さ れ る ことが多く 、 ヴァンプ女 優 と称された鈴木澄子や原駒子ら の存在は、その端的な事例であり、かつ日本映画にヴァンプの 存在が深く根付いていた証といえる。この一九三〇年代までの 日本映画における 堕落した女 の系譜は 、 映画史的に 三 期 に分けることができる。第一期は、一九二〇年頃までの女形が演 じたいわゆる歌舞伎ものの毒婦であり、第二期は一九二〇年以 降の女優による 破滅させる女 の表象 、 第三期は一九 二 五 年 以後の意志性の強いヴァンプ、である。 [第一期] 毒婦 ︵∼一九二〇年︶ 日本映画にまず登場した 堕落した女 は 、 映 画 以 前に歌舞 伎や講談 、 実話等のメディアで伝承された強固 な 毒婦 像で あり、これは日本の初期映画から戦後の時代劇映画まで再現さ れ続けた日本版ヴァンプのプロトタイプとなっている。 あ く ば この 毒婦 像は 、 歌舞伎の悪 婆ものや 毒婦ものという 、 性 的な魅力を利用して強請や人殺しをした悪女の物語を原型とし ており、彼女らの多くは、茶屋女や芸者、妾など、岡場所と呼 ばれる遊蕩地の出身で あ る。 代表的な毒婦に 、 江戸期の ﹁ 三 日 だ っ き ひゃく 月おせん﹂ 、 ﹁ 切 られお富 ﹂ 、 ﹁ 妲 妃のお百 ﹂ や 、 明治期の実話か ら派生した ﹁ 高橋お伝 ﹂ や ﹁ 花井お 梅 ﹂ ︵ ﹁ 仮名屋小梅 ﹂ 、 ﹁ 明 治 一代女﹂ で知られる︶ などがある。また、毒婦ものとは異なるが、 変化ものとして お家騒動に怪猫を絡めた ﹁ 鍋島の猫 ﹂ や ﹁ 岡 崎 の猫﹂ なども、父権社会の規範を脅 かす異形のものと女性性へ の畏怖を同一視した物語といえる。 歌舞伎の舞台で女形が演じたこれら毒婦のイメージは、役者 絵を介して図像化され、舞台上の約束ごとであった格子縞の衣 装や、黒掛襟、鋭利な横櫛、煙管、出刃や匕首などが、毒婦の 記号となっていった。また、立ち役を脅かす存在の彼女らは、 立ち役とは対極的な姿態に描かれることが多く、立ち役の睨ん だ型の 眼力 に対する射るような流し目や 、 立ち姿に 対 し て 上体を大きく傾けた横座り、刀を振りかぶった姿などが典型的 なポーズである 。 これらの 毒婦もの を描いた役者絵 の 図 像 が、固有名詞を離れた 毒婦像へと普遍化され ていったことは、後に ヴ ァ ン プ 女 優 の 異 名をとる鈴木澄子のス チルとの図像的な連続 性からも明らかである ︵ 図 参照︶ 。毒婦ものは 日本映画に描かれた最 初のヴァンプ物語であ るだけでなく、日本の ヴァンプのプロトタイ プ を 図 像 的 に も ス ク リーンに根付かせる役 割を果たしたといえる。 『砂絵呪縛』スチル(立命館大学アート・リサーチセンター提供) つれなき美女、ファム・ファタール、ヴァンプ、ゴールド・ディガース