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Vol.66 , No.2(2018)044福田 洋一「初期チベット論理学におけるmtshan nyidのmtshan nyidを巡る議論」

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Academic year: 2021

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全文

(1)

初期チベット論理学における

mtshan nyid

mtshan nyid

を巡る議論

福 田 洋 一

はじめに

初期カダム派における長大なmtshan mtshon gzhi gsumについての議論は,

mtshan mtshon gzhiの各々のmtshan nyidを確定するところから始まる.その最初

に,mtshan nyidにmtshan nyid1)は必要か,そしてmtshan nyidmtshan nyidは何

か,という問題が論じられる.本稿ではそれらの議論の骨子を説明し,論師たち の記述の相違を通して,mtshan nyidについての理解の形成過程を推測したい2) 本稿では,サキャ・パンディタ(1182–1251)以前のカダム派の論師4人3)のテ キスト,すなわち,チャパの『心闇の払拭』,『量決択 』,ツァンナクパの『量 決択 』,ツルトゥンの『般若灯論』,これに加えて著者および成立時期が不明で あるが,科段構成や内容がチャパのものに近い『量・真実綱要』を取り上げる.

1.

mtshan nyid

mtshan nyid

は必要か

この問題の起源は,mtshan nyidというものが,何かによって定義される仮有

(btags yod)ではなく,仮有である名称・概念(tha snyad)を定義するための根拠に なる実有(rdzas yod)であるという理解にある.それを元に敵者は,mtshan nyid

は何かを定義する実有であり,それ自体は定義されることはないと主張する. 後代のドゥラ文献などにおけるmtshan nyidの議論にはこのような問題は取り 上げられない.なぜならば,mtshan nyidのmtshan nyidという場合の最初の

mtshan nyidはmtshan nyidではなくmtshon byaに他ならず,mtshon byaであるも のには必ずmtshan nyidが存在するので,「(mtshon byaであるところの)mtshan nyid

の定義」という意味に解され,他のmtshon byaであるものと同様に処理されるか らである.仮にドゥラの表現方法で言えば,

(2)

となるであろう.初期カダム派の論師たちも,最初のmtshan nyidがmtshon bya

であるという理解は持っていたものと思われる.ただし,彼らの議論の仕方は, 今から見るともどかしい印象を受ける.これは後の定説となる理解が確立されて いく過程にあったからだと考えることもできる.

敵者の主張は,たとえば次のようなものである4)

ある人が,「mtshan nyidにさらにmtshan nyidを探し求めるべきではない.なぜならば,そ れ(=mtshan nyid)は実有だからである.もし,〔mtshan nyidのmtshan nyidが〕必要なら ば,その〔mtshan nyidのmtshan nyid〕にもさらに第三のmtshan nyidが必要になるので,際

限のないものとなってしまうであろう」と言うならば,(NNG, 7b1)

敵者が「mtshan nyidにmtshan nyidは必要ない」と主張する根拠は二つある.

一つはmtshan nyidは実有だから,それを定義する別のmtshan nyidは必要ない,

という理由,もう一つは,もしmtshan nyidにmtshan nyidが必要ならば,二番目

のmtshan nyidにも第三のmtshan nyidが必要になり,無限 及の誤 に陥るので

必要ない,という理由である.

このうち,最初の批判に対しては,mtshan nyidを実物(don)と名称・概念(tha snyad)の二つに分けて,前者にはmtshan nyidが必要ないが,後者には必要であ る,と反論する.たとえば,『真実綱要』では,

mtshan nyidである垂肉と瘤という実有にはmtshan nyidが必要ないのは正しいけれど,垂 肉と瘤をmtshan gzhiに設定した上で,〔それは〕mtshan nyidと呼ぶことができる(tha snyad du byar rung)という場合には,それのmtshan nyidが〔必要〕である.(DKD, p. 75)

垂肉と瘤は,「牛である」と述定するための根拠としてのmtshan nyidである. 言い換えればmtshan nyidであると述定される主語(mtshan gzhi)である.後代の ドゥラでは,このmtshan nyidとmtshan nyidであるものは厳密に,かつ当然のこ ととして区別されるが,初期カダム派の時代には,それはわざわざ断らなければ ならないことだったらしい.内容的には,第一のmtshan nyidはmtshon byaであ るので,それのmtshan nyidが存在しなければならない,というのと同じである.

mtshan nyidの連鎖が無限に続くという批判に対する反論については,各論師

の議論が区々で,現在のところそれらを比較して検討するまでに至っていない. 多くの場合,論証因のmtshan nyidを類似の例にして議論が進められる.たとえ

(3)

限に続くことはないという主張,あるいは単にmtshan nyidだけを所証とする場 合には,論証因は同じになるので無限に続くことはないが,特定のmtshan nyid

であることを所証とする場合には,その特定の根拠が必要になるので無限に続く という譲歩的な主張などが見られる.

2.

 ゴク・ロツァワに帰せられる

mtshan nyid

の定義

mtshan nyidのmtshan nyidの自説の提示に先立ち,ゴク・ロツァワに帰せられ

る(ただし人名に言及するのは『真実綱要』のみ)誤った見解が批判されている.

mtshan nyidを別の誤った仕方で考えるのを否定する.翻訳師(lo tsa ba)は「ある法を確定

する知によって確定するとき,その〔確定される法である〕mtshon byaを異類のもの(rigs

mi mthun)から区別する根拠である対象の属性(don chos)がmtshan nyidのmtshan nyidで ある」と書いたものについて,その要義(don bsdus pa)では「mtshon byaをmtshon paする 根拠(rgyu mtshan)である」と言っている.(DKD, p. 76)

「翻訳師」はゴク大翻訳師を指すと思われる5).ここでは複雑な表現と簡略な

表現の二つが挙げられているが,他の論師たちが言及する異説は後者のみであ り,その批判もそれを前提としたものとなっている6).これを批判する議論は,

論証因のmtshan nyidが「所証を論証する根拠(bsgrub bya bsgrub pa i rgyu mtshan)」で あると言ったとしたらどうするのか,という反問から始まる.論証因のmtshan nyidは(因の)三相(tshul gsum)であり,自説におけるmtshan nyidのmtshan nyid

は,後に見るように三法(chos gsum)である.この三相と三法は全くパラレルの 関係にあるわけではないが,mtshan nyidのmtshan nyidが確立されていく過程で, 因の三相の理解が参照されたことは疑いない.批判の要点と思われる見解は次の 通りである.

この〔mtshan nyidのmtshan nyidの場合〕も,〔mtshon byaを〕mtshon paする根拠というの

が,あるものがあるならば〔mtshon byaを〕mtshon paできるところのものを意味するなら

ば,後に説明する三法があるならばmtshon paすることができるので,その〔三法〕こそが

〔mtshan nyidの〕mtshan nyidになり,「mtshon paする根拠」という名称(tha snyad)を意味 しているならば,mshan nyidという名称と同義語になってしまうであろう.(YMS, 17a3–4)

要するに「(mtshon byaをmtshon paする)根拠」というのは概念あるいは言語表現

(tha snyad)と言うべきであって,何らかのもの(mtshan gzhi)をそう言えるための 根拠が別に必要であり,それこそがmtshan nyidであると言えるための根拠とし ての「三法」に他ならない.ここにmtshan nyidであるための要件の一端が示さ

(4)

れている.ある属性が対象に存在することによって,その対象について特定の述 定が可能となり,その属性が存在しない場合には,その述定が不可能であるよう な属性こそがmtshan nyidである.因の三相も,「三法」も,その各々の要素が成 り立たないことによって,誤った論証因や誤ったmtshan nyidを排除できるよう な属性となっているので,それぞれ論証因およびmtshan nyidのmtshan nyidだと 言える.しかるに「∼の根拠」という概念は,そのような誤 を排除する働きを 持たない.したがってmtshan nyidとしては不適当ということになる.

3.

mtshan nyid

mtshan nyid

としての三法

後代のドゥラ文献におけるmtshan nyidのmtshan nyidは,rdzas yod chos gsum

tshang ba である.三法(chos gsum)が何であるかは定義の中では明示されず,テ

キスト全体の中でもほとんど言及されないが,たとえばbse bsdus grwaおよび

yongs dzin bsdus grwaでは三法の内容が列挙されている.

(a)限定なしに(spyir)mtshan nyidである〔と言える〕こと,(b)自らのmtshan gzhiにお

いて成立していること,(c)自らのmtshon byaであるところのもの以外の他のいかなるも

ののmtshan nyidでもないこと.(YDG, 34b3)

この三法の内容に関する議論も見られないので,これらがドゥラの問答の中で どのように機能するかは分からない.しかし,この三法は,以下に見るように チャパの三法と類似しており,さらに「三法を有するもの」という表現は,それ 以降の論師たちに共通してみられる.まずは,チャパが挙げる三法を列挙してみ よう(YMS, 17a4; SRO, 10b1–2).

(1)rdzas yod yin pa「実有であること」

(2)tha snyad gzhan gyi rnam jog gi rgyu ma yin pa (= mtshon bya las don ldog gzhan du mi gnas pa)「他の名称の設定根拠ではないこと(=〔当の〕mtshon byaとは別のdon ldogとして存 在していないこと)」

(3)mtshan gzhi la ldan (= rten) pa「mtshan gzhiに存していること」

これらの三法は,因の三相と類似している.そもそもmtshan nyidは,mtshan

mtshon gzhiによる論証式であるmtshon sbyorにおいて,一般の論証式における論

証因の役割を果たすものであり,論証因の定義である因の三相との類似性は自然 な発想である.まず(3)の「mtshan gzhiに存していること」は,因の三相の主 題所属性(pakṣadharmatva)に対応し,全ての論師が共通にmtshan nyidの定義の一

(5)

つとして挙げている.また後代のドゥラ文献における三法の(b)にも踏襲され ている.(2)は当のmtshon bya以外のmtshon byaには妥当しないことを意味し, 否定的随伴関係(vyatireka)と類似した規定である.これは後代のドゥラ文献にお ける三法のうちの(c)に相当するであろう.

一方(1)は因の三相の肯定的随伴関係(anvaya)とは対応しない.このチャパ の規定は,mtshon byaが仮有であるのに対してmtshan nyidは実有であるべきこ とを規定しており,遍充とは関係がなく,mtshan nyidそれ自体のあり方を示し ている.これは,後代のドゥラの定義では,chos gsum tshang baの被修飾語であ

る最初のrdzas yodの部分に対応する.したがって(a)「限定されないmtshan

nyidであること」は,チャパの三法には言及されていないことになる.さて,実 有であることの意味については,チャパは次のように断っている.

〔当のmtshon bya以外の〕他の法(mtshon bya)を設定する因(=そのmtshon byaのmtshan

nyid)とされるものを参照した上で確定されるものが仮有であり,他の法を設定する因と

されるものを参照することなく確定されるものが実有である.(SRO, 10b3)

やや分かりづらいが,要するに他の名称の定義を前提にして確定されるものが 仮有であり,他の名称の定義を前提とせずに,それ自体で,あるいは他の定義か らは独立に確定されるものが実有である7).この「他のmtshon byamtshan nyid

からは独立に確定されるもの」という規定は,mtshan nyid自体の重要な特質であ り,ここから,mtshan nyidが実有であるが故にそれのmtshan nyidは必要ない, すなわち他のmtshan nyidに依拠することがないという敵者の主張が導き出され るのである. しかし,チャパ以降の論師たちの定義は,このチャパのものほど明確に三法に 言及してはいない. まず,チャパの著作に近い関係にある『真実綱要』は,このmtshan nyidの定 義についても,チャパの言葉として三項目に言及している(DND, p. 77).表現は 一致しないが,内容的にはチャパの三法と同じであると解釈できる. 一方,ツァンナクパは,三法ではなく二相しか挙げていない8).すなわち,(1 と(2)が一つに統合され,それに主題所属性にあたる(3)の二相とする. ツルトゥンは「三法を有するもの(chos gsum tshan ba)あるいはmtshon byaのdon ldogが(mtshan)gzhiにおいて成立していること」として二つの規定を挙げてい るが(SRG, 8a6),後半はツァンナクパのものと酷似している.しかし,前半では

(6)

「三法を有するもの」という,後代のドゥラ文献の表現を先取りするものになっ ている.その「三法」が具体的に何を指すかが明示されていない点もドゥラ文献 と似ている.言わば常套句として受け取られるようになっていたのかもしれな い. ここで検討する余裕はないが,各テキストでは,この後に,この定義によって 排除される誤ったmtshan nyidの分類が詳細に論じられる.その中で,ツァンナ クパおよびツルトゥンが挙げる分類は,上記の三法を正確に反転したものとなっ ている.すなわち,(ア)rang ldog rdzas su ma grub pa,(イ)don ldog gzhan du gyur pa,(ウ)mtshan gzhi la mi gnas pa(NGG, 8b1; SRG, 8a9)である.過失が大きく 三つにまとめられたのはツァンナクパからであり,チャパおよびそれを踏襲した 『真実綱要』のmtshan nyidの過失の分類は未整理のままである9).ツァンナクパ

はmtshan nyidのmtshan nyidとして,三法ではなく,二相を挙げていることから

すると,一貫性に欠けるが,それだけチャパによって確立された三法の規定が確 固としたものであったと言うこともできるであろう.

おわりに

本稿では初期カダム派文献におけるmtshan mtshon gzhiの長大な議論の最初の 部分について,サパン以前のカダム派の4人の論師の議論を比較しつつ,mtshan

nyidのmtshan nyidについての理解が確立していく過程を考えた.これらの議論

はサパンによって詳細に,かつ論理的に再検討される.それを参照することに よって,これら初期カダム派のmtshan nyidの理解もより明瞭になることと思わ れる.

1)mtshan nyidは単純に「定義」とは訳せないが,本稿の範囲内では,mtshan nyidの mtshan nyidを「mtshan nyidの定義」と訳し,また動詞として「定義する」という表現を 用いた方が理解しやすいことがあり,適宜「定義」の訳を用いている.

2)初期カダム派のmtshan mtshon gzhiの議論に見られる文構造について福田(2003)およ

び福田(2011)参照.本稿ではその成果を前提としている.

3)最初期のゴク翻訳師の『量決択 』にはmtshan mtshon gzhi gsumの議論は含まれない.

4)ここで詳しいことを述べる余裕はないが,この議論の記述の仕方には,チャパの二書

と,ツァンナクパおよびツルトゥンとの間に若干の相違がある.チャパの記述は2箇所

に分かれ,整理されていない印象を与える.また『真実綱要』はチャパとツァンナクパ を折衷したような形である.

5)ここに挙げられる長短二つの記述の典拠は現在見つかっていない.

(7)

る自説の定義と近似しており,その先駆的な見解である.

7)細かく見れば,『心闇の払拭』と『量決択 』とでは表現が若干異なり,後者の方が説

明が詳しくなっている.

8)gang du mtshon bya de i don ldog yin pa ste / tha snyad sgra blo i zhen yul lam tha snyad du rung ba i yul yin pa dang / gang mtshon par bya ba i gzhi la ji ltar dgod par bya ba ltar gnas pa ste / sgrub bya go byed kyi mshan nyid gang du bsgrub bya i khyab bya yin pa dang gang bsgrub bya i gzhi la grub pa i tshul gnyis yin pa bzhin no //(NGG, 8a3–4).

9)ただしmtshan nyidのmtshan nyidの自説を述べた次の科段「〔mtshan nyidの〕mtshan

nyidを特定する(nye bar bzung ba)必要性」において,三法のそれぞれによって,どの

ような過失が排除されるかが列挙される. 〈略号表〉

DKDAuthor unknown. tshad ma i de kho na nyid bsdus pa. 成都: 四川民族出版社,2000.

NNG gtsang nag pa brtson grus seng+ge (12C). tshad ma rnam nges kyi grel pa. Otani Zogai no. 13971.

SRO phywa pa chos kyi seng+ge (1109–1169). tshad ma rnam par nges pa i grel bshad yi ge dang

rigs pa i gnad la jug pa i shes rab kyi od zer. bka gdams gsung bum 8: 35–427.

SRG mtshur ston gzhon nu seng ge (1150–1210頃). tshad ma shes rab sgron ma. Ed. Pascale Hugon. Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhismuskunde 60. Wien: Arbeitskreis für Tibet-ische und BuddhistTibet-ische Studien, Universität Wien, 2004.

YDG phur bu lcog blo bzang byams pa rgya mtsho (1825–1901). tshad ma i gzhung don byed pa i

bsdus grwa i rnam bzhag rigs lam phrul gyi lde mig. TBRC no. W1KG22610. https://www.tbrc.

org./#rid=WIKG22610(最終閲覧日2017年9月4日).

YMS phywa pa chos kyi seng+ge (1109–1169). tshad ma yid kyi mun sel. bka gdams gsung bum 8: 434–627.

〈参考文献〉

福田洋一 2003「初期チベット論理学におけるmtshan mtshon gzhi gsumをめぐる議論につい て」『日本西蔵学会々報』49: 13–25.

福田洋一 2011「mtshan mtshon gzhi gsumの実例の解読」『インド論理学研究』3: 133–148.

(平成29年度科学研究費補助金基盤研究(C)(一般)17K02221による研究成果の一部)

〈キーワード〉 初期チベット論理学,mtshan nyid,チャパ・チューキセンゲ

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