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『宗教研究』特輯号(*42号)

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(1)

――目次―― 1,宗教研究特別号の発刊,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-6. 2,宗教哲学即今の中心問題,久松真一,Shinichi HISAMATSU,pp.7-24. 3,神話学の新展開,松村武雄,Takeo MURAMATSU,pp.25-72. 4,梵文仏教典概観,泉芳璟,Hōkei IZUMI,pp.73-108. 5,宗教の民族学的研究,宇野円空,Enkū UNO,pp.109-144. 6,巴利仏教思想研究について,手島文倉,Humikura TEJIMA,pp.145-174. 7,近東の古代宗教研究上の主問題,赤松智城,Chizyō AKAMATSU,pp.175-186. 8,支那仏教の一般傾向,佐藤泰舜,Taishun SATŌ,pp.187-208. 9,新社会学派の宗教研究,赤松秀景,Shūkei AKAMATSU,pp.209-222. 10,西域仏教の研究,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.223-280. 11,五逆罪の成立について,長井真琴,Makoto NAGAI,pp.281-292. 12,大乗無量寿宗要経について,矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.293-306. 13,仏教の円頓戒を論ず,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.307-358.

14,Religions universelles et Religion particulieres,Sylvain LÉVI,pp.359-374(1-16).

(2)

雑誌﹁宗教研究﹂は、最初の登刑以凍既に十一、二年、その間に研究は諸種の方面に亘♭、又研究

の方法や目的についての討議も時々行はれた。今新巻第五の中に特輯耽を出して、研究の諸方面に

於ける問題や展望を一應再検し線描して見るに至ったのは、研究の費達に於ける自然の勢であゎ、

又必要の企である。

思へば、約有年前には、東洋の宗教に射する興味、否殆ど新啓示が、それまで西洋でのキリスト教

研究礪占の中和を授乳した戚があつた。宗教の研究が言語上の比較に始まり、それから数理内容や

歴史発達の比較に移ら、研究が所謂る﹁比較宗教﹂として、行はれたのも、はや三日二普前の事になつ

た。その間には、キリスト教の葦典に関する﹁批判的﹂研究も輿わ、諸宗教の原典に対して、それに

似通った研究法を適用する事も行はれた。他方人類学的材料を用ひての宗敦研究や、或は民族心琴

或は個人心理の見地からする研究も盛に出たと共に、近くは精紳分析の考を宗教現象に通用する事

宗教研究特輯波の蓉刊

宗教研究特輯鍍の螢刊

宗教研究の意味

城 崎 正 治

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宗教研究特輯誠の費刊 二 も感になつて凍た。その外、宗教史は政令華や人種畢或は土俗撃と共に文化史の見地と材料とぉ應 用して、面目を一新した戚がある。即ち、宗教を一つの文化事賓として見、或は文化の指導原動力 として、或は文化の諸現象との交渉や、勢力の相互泊長に関する研究も段々に現れて凍た。大きく 区分して東洋と西洋との文化の特色を宗教に併せて考究する歴史的問題は、同時に人心の趨向、思 想信仰の運動に騙する問題にも聯絡し、終には人類文化の盛衰運命に関係する思想や研究に開聯し て、宗教研究は、曹に過去歴史の問題たるのみならす、現代に対する批評や、清水に対する濠想乃 至揖導と密接に聯絡するに至った。﹁文化問題﹂、此が最近の思想界に於ける一中心鮎であつて、結局 は、人生に於ける宗教の位置天職如何といふ事を、思耕瞑想でなく、寄算研究の上から照明しやう といふに騒音するに至ると思はれる。 此等諸方面の宗教研究問題を、只外面的の事で、点数の内容に観れないと非難する向もある。そ れは一應尤もな鮎もあるが、此等の批評も賓は、今までの研究をその外面から見た皮想の見に過ぎ ない。何となれば、宗教の生命は信仰にあり、而して信仰には、内心の経験として他に侍へられす、 又言ひ表はし得ない鮎もあるに違ひないが、此のま観的方面とても人間心理の産物に相違ない。慣 令ひそれが紳彿の吹込に依る霊威から凍たとしても、その宿る心はやは♭人間の精神である以上、 やはら弘義での心理的研究の対象となるべきもので、今の宗教研究はその精神生活の賓相を輔へや

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ぅとする鮎に於て一層仰を見特別な個人燭得の経駿として見ると共に又汎く人間精神金髄に亘る問

題として扱はうとする。但し仝健に亘るからとて個人的特色を没却するといふ倉嘗なく、中等の

中に差別を見、差別の中に中等を馨見しやうとする。此の如き研究を只外面の事だとする批評は、

畢克自家耽溺のみを信仰の内容と見る偏見で、同じ精神の動きが萬人に通じ、古今に亘るといふ大

生命を見過したもの、信仰の革質を猶♭よがりの染みと見る見解に外ならぬ。

歴史的又は社食的研究に対して.此も外面的に過ぎないといふ様に見るのは、古生物畢の研究を

見石塊死物の研究の如く考へる俗見、歴史を単に過去の記藤だと見る偏見と同じである。古生物挙

が取扱ふ岩塊は死物でなく、その中に生物の生命躍動の跡あるを見たからこそ、ダーヰンはその研

究からして生物進化の活きた澄を馨見したのである。現代の宗教研究家が,古人の経験、過去の記 藤、又は兵政令の宗教を問題とするのは、それ等の中に各々活き′1した宗教の生命を螢見し、そ

の中に人類の生活を通じ、古今東西に亘る大生命に接簡し、その舜特盛衰、その慶種差別、又そ、の共

通性を明にしやうとする焉である。大偉人の信仰に対して尊敬を表する心は、蟹人の宗教心に対し

てその衷情を没収る心と、絶縁すべーきものでなく、過去に於ける政令的慶蓮と信仰の動揺とを観察

する見地は、現在の我々、乃至は済死人類の運命に関する考察と、関聯するものがあ∵り 歴史的社

食的見地の材料になる事賞の中に、脈々光る信仰の生命が流動してゐる生の躍動を見れはこそ、材

宗教研究職韓蚊の弊制 1声 ‘こ ▲

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粁を汎く人類仝憬の生活に求めるのである。

此の如くにして宗教研究は、近痍数十年の問に、大切な探求を諸方面に進めて凍た。その方面が

接がり、勅料が多くなち、方法が複雑になるに従って、専門分業が行はれ、為に、或種の研究は除り

に専門的に、場合によつては断片的に見える様な場合もある。近代畢術の螢蓮は、絶ての方面で分

業を促して凍た焉に、専門が盛す専門になら.焉に一畢科の中でも除トに分業に過ぎて、仝健を見 宜し待ないといふ囁が加はらつ∼ある。宗教研究に於ても、一方その精緻と共に、他方専門割按に

なる息があり、その弊も既に見え、人生宇宙全般に亘っての信念を封象とすべき宗教研究が、除り

に局部的にな♭、研究者の頭脳が割披的になれば、本務の意義を没却することにならう。研究は飽

くまで精細に、方法は専門的でなくてはならぬが、研究者が常に、それは仝健あつての一部であ♭、

中等の中の一差別粕たる事に注意して、仝健の塵命の流を汲取る感度あるを要する。此鮎は、宗教

研究の範囲内だけの事でなく、宗教そのものが人生の一面である︵仮令ひ非常に重要な一面にして も︶ことを考へて、人生仝髄との関係を見失はない様に注意するのも亦、宗教研究者の忘れてなら

ぬ事と考へる。

終らに宗教を研究する目的如何といふ問題が残る。それを一言で亜せば宗教といふ人生事賓を仝

優に亘ってその貸相を周明するにある︵勿論局部毎の仔細の観察を除外してでなぐ︶。﹁賓粕Lといつ 宗教研究特捧披の欝刊 吋

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ても、随分種々の見地解渾が加はら得ることで、その差違からして.方法にも結果にも、種々違っ た方面が生することは、勿論の次第である。然し、賓相を明にするといふのは、結着、物事について 各々その位置を認識するといふにあ♭、位置といふのは、事情、国軍関係をたどつて、その事柄の内 容意義を明にするにある。意義があるといふのは、必しもその事を是認するとか、信仰するとかい ふ意でなく、醜を醜とし、非を非として判断しても、その依って起る所以を認識すれば、そこに賓和 がある。畢問の研究が賓粕の開明にある限♭、その賞粕の認識に基いて信仰の取捨を決するといふ 如きは、信念賞際の問題であつて、それが研究の結果から出るにしても、研究そのものではない。 然し学問といつても畢に知識慾を充たすといふだけに限る理由はなく、賞相の認識が又活きた人 生の事案に影響し感化を及ばすといふことは、畢問の目的に背く繹でない。只或種の畢問又は畢者 の憩度に於ける如く、始から利用應用を目的とし.賓利を収めるに急に過ぎる場合には、拳闘の第 ﹂義たる賓粕の認識が混掴し、為に應用も危くなるっ應用は結果ではあるが、直接の目的でなく、 且つ賓粕の認識を確保して後に自然に出て凍る結果であるべく、焦慮して軽率に振り向けるペ.く日 あてでほない。 諸の宗教的現象の賓相如何、それ等事賓の人間宗数に於ける位置如何、それから進むでは宗教そ のものゝ人生に於ける意義如何。此等を畢術的方法で研究するのが、近代の宗教研究であつて、土 宗教研究聴鯖♯の蜃剰 五

(7)

宗教研究特輯城の費刊 犬 に記した最後の題目には、所謂る宗教背草の根本問題が合去れ、又所謂る﹁宗教の眞理内容﹂とい ふ問題もその一面に外ならぬ。その﹁眞理内容﹂といふことを直に自心信念の問題に結び付けうと すれば、親心修養の賓行を畢設や理論に求めようとする牽強に陥る。但し研究から得た達観透見が 執心修業に無線で没交渉だといふのではない。具、注意すべき鮎は、信念観心の事は、それ自身特 別の修養として、必しも畢智の結果に出るものでないといふ一事にあり、而して研究はその材料に なるにしてもその原動力でない。翻って、執心修業の熱情異心が研究を刺激し、賓初の透見を助け る事は、重要であると考へる。

(8)

久 松 眞 ︼

− 宗教哲挙が宗教に関する畢問の一つである以上、それは普然、宗教そのものではなくして、何等 かの意味に於て、宗教を概念的反省的に理解しょうとするものでなければならぬ。併し−それがも しも、経験的の意味に於て、概念的反省的に宗教を理解しょうとするものでぁるならば、宗教史や 宗教心理畢等の経験的宗教撃と異名同質のものとなつて、もはや特異の一撃科として存立する意味 を持たぬことになつてしまふであらう。然らば、宗教暫畢はいかなる意味に於て、概念的反省的に 票数を理解すべきであらうか。カントの批列ま義を源泉とする近世哲畢のま洗に於ては、票数をば 合理的に演繹することによつて理解しょうとする。宗教を合理的七演繹するとは、すでに理性の承 認したるl定の普遍よ■ら、それに婁督するものとして宗教を導き出すことでぁる。 カント自身が宗教をば﹁凡ての義務を紳の命令として認識すること﹂であると理解する時に、彼 はそれを、脛駿的宗教畢のやうに、徒凍宗教といふ名によつて習慣的に呼ばれて居る諸種の現象か 宗教哲草餅今¢中心何砿

宗教哲学即今の中心問題

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宗教哲筆触冬め中心同産 入 ら、経験的に締約したのではなくして、彼によつて理論的普遍よらも高次な普遍として承認される 道徳から、それに妥督するものとして導き出したのである。又、フィヒタが道徳的萩序に外ならぬ 醐を信することとして、フォルベルグが道徳的世界統治を賓践的に信することとして宗教を理解す る場合に、彼等はそれを、臨納的にではなくして、彼等がカントよりもー屠徹底的普遍的なもの透 して承認した道徳から演繹的に導き出したのである。ヘーゲルは、演揮の原理を造後に置かすして 論理に置く鮎に於てはカントやフィヒテと異って居るが、宗教をば彼に取って既知なる普遍より演 繹した鮎に於ては彼等と異るところはない。彼に取っては、道徳よりも論理がより普遍的なもので あるから、彼はこの論理といふ普遍から宗致を演緯し、それを表象の形に於ける絶対概念として理 解したのである。シュライエルマヅヘルは、﹁宗致講演﹂などに於ては、宗教を心理畢的に理解しよ ぅとして居るにも拘はらす、﹁群青諭﹂などに於ては、認識と賓践との必然の要求でぁる雨着の合一 として演繹することによつて宗教を理解しょうとして居る。現代に於ても、最近まで哲畢界を毒断 して居った新カント派の宗教哲轟は何れも、演緯的に宗致を理解しょうとするものである。メーデ ソ撃沈のダイソデルバンドは、償低生活一般に於ける規範的と反規範的との必然なる背反守り規範 的なるものゝ超越性一好演揮し、それと個々の慣伍生活との関係の上に宗教を理解しょうとした。彼 の後総着であるリブケ〝トが、優位のカを信することを宗教として理解したのは、償低生活の究尭

(10)

理想は償臆の賓現であらねばならぬに拘はらす、債伍が畢なる普焉に過ぎすして何等カを持たぬな

らば、その賓現は不可能に凝るから.たとひ僧侶がカを持つといふことは認識されないにしても.

倍せられるといふことは論理的な義務として雷魚承認されねばならぬ、とい・ふ諭披からである。こ

れ正に宗教を、疑ふことのできぬ僧侶生活の必然性よら演揮しょうとするものであらうー。一切の所

輿性を排して、認識の内容をも論理の必然の要求から課しょうとする鮎で、演繹の最も徹底せるマ

ールブルヒ畢派のコーエソは、﹁宗教の特種性は哲畢の憶系の内にのみ基礎づけられ得るものであつ

て意識の心理畢に於て基礎づけられ得るものではない﹂と考へ、宗教の所輿性を全然承認するこ

となく、哲層の憶系構成の必然的過程の上に宗教を濱緯しょうとした。彼は﹁哲畢の憶系に於ける

宗教の概念﹂に於ては、﹁宗敦と道徳﹂に於けるとは異ト、道徳的に罪ある個人の救済に輿かるもの

として

解腹して再び道徳的になることがで㌢る点のものに外ならぬから、道徳の紳の如く人間性の究裏目

的ではなくして、只それの必然なる補足に過ぎない。併し、個人が道徳的に不完全であることが承

認されねばならぬ限り、それから解脱して、更に道徳的に還って行く為には、その解脱に奥かる紳

と罪ある個人との関係としての宗教が必然的に承認されねばなら埠であらう。か∼る意味で、コー

エソは人間性の本質である彼の所謂道徳の紳に進む必然の補足として宗教を演緯したのである。か

宗教哲草餅今¢中心問題 九

(11)

〓 以上に述べたところから知らる∼やうに、演繹的に理解された宗教は、演揮の原理となる普遍、 例へば、カントでは道徳的生活、ゲインデルバンドでは鷹義の道徳的生活、即ち償低生活一般、が 承認される限り、思惟必然なるものといはねばならぬであらう。ダイソデルバンドが反償億的なる ものに対して、僧位的なるものゝ超越性を認め、そのものに形而上畢的の嘗在性を附輿し、カント が道徳的生活の究量目的である徳と華南との一致の焉に、その一致を粛らすカを要請し、それに超 越性を附興したといふことは、それぞれの立場に於て思惟必然なることではぁらう。併し、彼等は いかなる理由を以て、か1る超越性を負はされたる賓在をば、直ちに宗教の紳と同一視することが できるであらうか。倍伍とか規範とかいふものが、慣伍生活に於て超越性を持って居るといふこと は、誰しも承認するところであるであらうが、いかに超越性は持って居っても、いかにしてそれを 宗教の紳と同一でぁるとすかことができるであらうか。もしもそれが宗教の紳と同一のものである といふことを圭荻しょうと寸るならば、まづ宗教の紳とほいかなるものであるかを明かにし、その 一〇 宗教哲学帥今の中心問題 くの如く、カントに基づく近世哲畢は演揮的に宗教を理解しょうとするのであるが、宗教のか1る 理解の仕方は、宗教の理解として果して反対なきを得るであらうか。

(12)

ものがこれと同一であることを示さねばならぬであらう。然らざれば、合理的に演揮された超越的

なるものを・何故に宗教の紳とするかゞ理解されないであらう。無論、演揮の目的は経験の枚抵を

理解しょうとするにあるから、演緯の立場からは、演揮されたる超越的なるもの;そ経陰的なる宗

教の紳の本質であつて、経廟的なる宗教の紳を紳たらしむる規範でもあるであらう。又それでこそ、

経験的なる材料から鯨納的に一般概念を構成する事を目的とする経験科挙の基礎として、膏畢が特

殊の領域を保持し凍ったのであるともいへるでめらう。併しながら、それが単に超越的なるものゝ

演繹ではなくして、宗教の紳の演繹でなければならぬ限ト、その演繹されたる超越的なるものは宗

教の紳と同一のものでなければならぬ。然らざれば.々の喝越的なるものを宗教の紳と耕すること

ほ、単に任意的なる針名に過ぎぬことになって、その演繹されたる超越的なるものを宗教の紳とす

る必然なる理由はなくなつてしまふであらう。然らば、その演繹はもはや宗教とは何の牌係もない

ものになるのである。それであるから、宗教の紳の演揮の場合には∵諌め何等かの仕方で、宗教の

紳は吾々に知られて居らねばならぬ筈でぁる。もとよりそれは経験から採納されたる宗教の紳につ

いての一般概念であつてはならぬには相違ないが、それとは臭った意簸で何とかして知られて居ら

ねばならぬ。事賓上、カントが徳と幸頑とを一致させる超人間的なものをば、宗教の紳として演緯

した時に、彼は必ず宗教の紳は超人間的のものでぁるとか、全能なものであるとかいふやうな知識

宗教哲畢即今の中心問題

(13)

︼二 宗教菅拳即今の中心同属 を複軌持って居ったに相違ない。ゴーエソが紳の本質をば人間道徳の本質として演繹した場合にも、 彼は恐らく滑太致の紳を宗教の紳として居ったであらう。カソ一にしてもコーエソにしても、彼等 が演繹に先だってすでに知って居るその宗教の紳に細管したものを、彼等が論理的に必然とするそ れぞれの普遍から演繹して、その紳の思惟必然なるこどを立澄したものであらう。そこでこそ演緯 による宗教の紳の理解であるといひ得るのである。そこに叉、カントま義の哲学が宅琵tiOj弓訂の 畢であるといはる∼所以があるのである。随って、カントま義に於ては、宗教暫畢は宗教の権利の 畢問、即ち宗教はいかにして可能捏アりやといふ問題を扱ふ畢問である。これによつて宗教の樺利が 明かになれば、自ら宗教が幻覚でなくして眞理であるこ 意暁に於て、宗教の演緯的理解といふことは、宗教の基礎つけといふことと同義でぁるともいひ得 るのである。何とならば、宗教の基礎つけといふことは、宗教の普遍妥曹性を確立すること.普遍 妥曹性を確立すると車ふことは、宗教が思惟必然なることを論語すること、思惟必然なることを論 許するといふことは、何か既知の普遍より宗教を導出すことに外ならぬからである。 宗教の演経といふことが、何か演緯されたるもの∼任意的命名ではなくして.異に宗教の演繹で あるためには﹂演繹の以前にすでに何等かの方法で宗教が知られて居らねばならぬし∵又賓際知も れて居るといふことは、宗教を演繹しょうとする動機を見ても理解せられるであらう。弼何の裔

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に宗教をば何等かの普遍から演繹しょうとするのであるか。もしも宗教が何等疑はれる除地のない 眞理であるならば.それはもはやそれ自身普遍であるから、わざぐ他の嘗遠から演緯される必要 はないであらう。ところが、宗教には自然科挙や道徳の立場から見ると、それ等と矛盾したこと、 少くとも理解し難いことがかなり澤山にある。例へば、クリストの復活昇天だとか、不死不滅だと か、時客を超越した紳だとか、善悪の彼岸だとか、天国だとか、西方十萬億土の極欒だとか、大罪 人の救済とか、何とかいふやうぢ宗教の諸観念は、自然科畢や道徳からは容易に理解さるることが できぬのみならす、矛盾でふ∵り、虚偽であ♭、迷信であ♭、幻覚であるとさへ思はれ㌃であらう。 この場合に、もしもそれ等の諸観念が迷信でも、虚偽でもないといふ事を明かにしようと思ふなら ば、何等か誰も承認しなければならぬ普遍から.必然なるものとしてそれ等を論澄しなければなら ぬであらう。カントが宗教の諸観念をむしろ自然科畢的普遍の上位王ぁる道徳的普遍から輯繹しょ ,︸とし.シュライエルマッヘルが道徳的普遍よりも更に上位にかる垂術的普遍から演繹しょうとし たのもこれが管外誉ぬであらう。これを以て観るに、宗教の演繹、もし喪霊の場含は、 横棒され、論語されるものが何等かの仕方で強め輿へられて居ることは明かなことである。いかに 徹底した演繹でもかヽる輿料なくしては、到底宗致の演繹とはいひ難いでぁらう。それであるから、 宗教の演繹の場合には、構繹されたるものが宗教の輿料、しかも正しい輿料と同一のものでなけれ 宗教菅畢即今の中心問題

(15)

宗教菅拳即今の中心問庄 一四 ばならぬといふことが前提されねばならぬ。然らば、宗敦の演繹的理解に残 それ自身によつては 理解されない仮定が食まれて居るといはねばならぬ。宗教の演緯的理解が、宗教の無仮定な根本的 理解としてはなほ不十分なものであるといふ所以はこ∼にあるのである。吾々が、徒凍の宗教哲畢 に射して嫌焉たるのは、それがその必然な促定であることの宗教の輿料を無税し.或は軽成するに 困ろのである。清輝の過程が論理的にか行アリ厳密であるに拘らす、演緯の結果が宗教の演繹として は、甚だしく不備足のものであると吾々に戚じられるのは.その清緯の仮定である宗教の正しき兵 科を快くが焉である。暫畢着が宗教の正しい輿料を持たすして、只、論理的の立場よら超越的なる ものを演繹して、それを直ちに宗教の癖となし、それに基いて宗致を理解せんとする如きは、宗教 暫撃としては最も戒められねばならぬことである。然るに、在家の暫畢者が演緯的に宗教を理解し ょぅとする場合に、往々この重戒を彼るが焉に、票数の理解とは只名のみに終って、革質上は何等 宗教の理解ではなくなつてしまつて居るやうなことが決して少くないといふことは、苛くも多少宗 教の輿料を扱って居る程の人ならば、容易に看破し得ることである。 三 かくの如く、宗教の演揮的理解.即ち在凍の宗教膏挙が、異に宗教の哲畢である虜には、宗教の

(16)

輿料を仮定する。随って、この輿料は演繹的理解とは異った方法で理解されねばならぬ。弦に於て、 問題は宗教の権利といふことから、宗教の事賓といふことに推移するのである。靡徒凍は、宗教の寄 算は、通常は㍉経験的宗教学としての宗教史や宗教心埋草によ0て取扱はれて居ったのであるが、 これ等の経験的宗教単によつて取扱はれた事賓は、なほ一盾根本的な憲政に於ての事賓を預想する ものである。経験的宗教畢は宗致の経験科車である以上、宗教的な経験的事貰を封象としなければ ならぬが、それはある経験的事貰が宗教的であるといふことをいかにして定め得るであらうか∵これ を巌憂な意暁に於て定める焉には、﹁宗教的﹂といふ意味をまづ明かにしなければならぬであらう。 ところが、宗教史にしても宗教心理畢にしても、宗教的な事貫から出費するものであるから、それ 等には既に何等かの意味に於て、﹁宗教的﹂といふ意味が定められて居らねばならぬ。もしも﹁宗教 的﹂といふことが、単に研究の便宜上、任意的にのみきめられたものであるならば、さういふ概念 の下に組立てられたる宗教史や宗教心理学は、最盛な意味での宗教の草間とはいひ難いであらう。 それ等が厳密な意味での経験的宗教畢であり得る虜には、﹁宗教的﹂といふ概念は蕨密にきめられな ければならぬ。或は、経験的宗教畢では、最盛なる意味での﹁宗数的﹂といふやうなことは、鯨納 的研究の結果始めて明かになる牒のであつて、研究の出費鮎に於てきめらるべき筈のものでないと いふであらう。併し.経験的宗教畢の謂ふ所の殿密な意味での﹁宗教的﹂は、研究の出費に先だつ 宗教哲撃即今の中心問廠

(17)

宗教菅畢印今の中心問戎

〓ハ

てきめられた﹁宗教的﹂の下に蒐集せられたる材料から鯨納された共通性に外ならぬから、さうい

ふ意味での﹁宗教的﹂が最密な患息味で成立する焉には、既に、それを健件とし、それに先行する

﹁宗数的Lが厳密にきめられてぁらねばならぬであらう。これ、吾々が経験的宗教畢の取扱ふ事賓よ

りも、更に根本的なる革質があるといふ所以である。この事賞は最も根本的なる意簸での﹁宗教的﹂

でぁるから、宗教に関する凡ての畢問の出費鮎であつて、経験的宗教草の根本仮定であるのみなら

す、前に述べた輯繹的宗教哲畢の奥の輿料でもある。この﹁宗教的﹂は、この意味に於て、清繹的

に鯨納的に理解されるものでほなくして、何か特殊の方法によつて理解されねばならぬものである。

鼓に、今迄意識的にはあまり課せられたことのない、新しい.しかも、重要な問題が在るのである。

これこそ、昔々が宗教暫畢即今の中心問題といはうと欲するとこみのものである。

最近の宗教哲畢に於ける諸種の新しい問題は、多くこゝに源を馨し、且こゝに朝宗するとも見られ

る。徒凍の宗教哲畢の所謂規範や、経験的宗教畢の所謂事賓とは臭った意味でごの頃本質︵Wesen︶ と耕せられて居るもの∼問題はごの問題に外ならぬ。宗教理解の最も新しい方法として壷界の戒 線を集めて居るクオブバーミンの宗教心理畢的循環方法︵茅旨dedesre︼客層唱ehO−Og賢昌Nirke︼00︶ や、シュラー一派の宗教現象畢的方法︵re−igi。戻p−−冨me・・。−。gi邑1e茅th。de︶は、この本質問題を解

く焉に、考へ出された方法でぁる。而して、この問題や方法が単にこれまでの宗教背華や経唸的宗

(18)

敦畢のそれ等と異つ七居るといふだけではなくして、それ等の根本暇定でさへあると考へられて居 ることは、クオブバー享ソが、徒凍の宗教哲畢が最も根本的な問題と考へて居った宗教の権利の問 題、即ち、眞理問題を、本質問題に照して扱はうとし、︵とdie宇p唱Ⅰ−琶Fder宅aぎ訂itderReligiOn im巳cFtd巧W霧星野品①訂Fp乱dt㌧、せ監宅莞nder Religi声S・づlHl●︶、又、宗教の本廣、即ち、﹁特 に宗教的なるもの﹂︵、−d監虐茶監s註Re−i乳ぎ、、︶は、宗致心理畢的循環法によつてきめらるぺきもの であつて、到底、経験的心理畢の及ぶところでないと考へ︵p・P〇・弾¢︶シュラーが、宗教の現象 畢的作用諭︵こAkt−eFe、、︶と、所謂宗教心埋草とを裁然と区別し、宗教的作用は、宗教の心理的過 程とは全然異ったもので、むしろ後者は前者を仮定するものであることをま疲し︵くOm甲鼠genim 害en邑・en、S・∽宗、∞ご︶、更に、宗教の暫畢的本質認識は、宗教に関するあらゆる哲畢的科挙的研究 の究極の膏畢的基礎である、と考へて居る︵P P 〇・S・彗eのを見ても明かなことである。ムソド レも、その﹁宗教的髄唸L︵−−Diere−igiぎn苧lebni鷲Jに於て、革質研究︵−、T乳莞訂︼詳記註⋮ng、Jと 本質研究︵て尋esens旨s。−⋮長、、︶とを区別し、後者が初めて前者に対して確賓なる方法的基線を安附 するといひ︵a・2〇・S・¢︶、ダイソクラーも、その﹁現象撃と宗教﹂︵字旨Om2nd嵐e und謬ligiOエ に於て、事質的存在の根砥に本質的存在があるのであつて本質的存在の根枯に奉賛的存在がある のではないから、本質的存在は事質的存在から蹄納法によつて抽象されることはできぬ、といふこ 宗教哲畢即今の中心問産

(19)

︼八 宗教哲撃帥今の中心間塩 とを説き、本質に向ふ現象畢的宗教心埋草は、非経験的な心理畢であるといつて居る︵PP一〇・S・ −舟卜望︶。その他、ヨセフ・ガイザーの﹁マックス・シュラーの票数現象畢L︵試買驚he︼e記苫賢Om2n・ 。−。gieder匿igi旦二這・︶や、エー可′ヒ・ブルチプアラの﹁宗教の基礎イヤへR。−igi。琵訂gr監巨粥、 ︼琵00︶等、宗教の本質に隣する研究は次第に多くなり、現今の宗教背畢に於ける興味の中心となつ て凍た。 この新興の本質畢と、徒凍の宗教暫撃と、果して執れが宗教背撃として本務のものであるかは、 旦らく措くとしても、この本質畢が、徒水の宗教哲畢や宗教心理畢などの想到しなかつ克領域を開 拓して、事箕上、宗教理解に済に大なる貢献を斎らさうとしつ∼あることは、何人も認ぬねばなら ぬであらう。而して、その本質的貢献は、宗教のあ♭のまゝの認識を提供するにある。ありのまゝ とは、意識に輿へられたま1といふことである。意識に輿べられたま1とは、合理化されたゎ∵賓 在化されたりせられない以前の根本典料︵qrg2ge訂n旦即ち、意識の直接兵科でぁる。 徒凍の宗教哲学は、宗敦を合理化して、この根本輿料とは非常に異ったものにしてしまつた。例 へば、カントの如きは自分の認識論から見ては、前の存在といふやうなことや、不滅といふやうな ことは不合理であをから、それ等を合理的に理解できるやうに、道徳の要請にしてしまつた。併し、 合理的には、たとひ、醐が存在すると思ふことや、不滅であると思ふことが理解されなくても、そ

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れ等が意識に直明なことであるならば、それはそのま1、宗教的真理として承認さるべきである。 もしも、紳が存在すると思ふことが、認識論から見て、合理的でないが故に誤であるといふならば.

それは、宗教を理解するのではなくして、むしろ∵宗教を合理化し、撥無するものでみる。又、ゴー

エソなどの宗教膏単に見るやうに、道徳の自律性に反するが故に、、他律的なる紳の恩寵を否定し、

自律性にかなふやうにそれを強ひて説明するが如きは、宗教の基礎づけといふよりは、寧ろ宗教に

射する暴虐である。徒凍の宗教哲畢は、随庭にこの合理化の暴虐を造トうして居る。ブオッバーミ

ンが、宗教の合理化は、宗敦としての宗教を措無するものであるとして強く排斥し︵せ誌Wesend・ 詳−igiOn−S・会ぢムソドレが、信仰の合理化は信仰を分解Lてしまふ、といふ︵崇ere−igiぎn苧−? bnis冷−S・−00︶のは、この意痍に於て、尤なことゝいはねばならぬ。たとひ、理論、一道徳又は垂術の

理性から見て、凡て、不合理であるにしても、意識に直接に輿へられたるものを尊重するといふこ

とは、宗教をあ♭のま1に理解するには、最も大切なことである。いかに道徳の白樺性に反すると

も、宗教的意識に直接なる紳の他律的恩寵の思想は、どこまでも尊重せられねばならぬ。それである

から、シュラーは、他の思惟の持ち得ない対象を持つ宗教的思惟d琵re−i乳紆eDenke員ぎm出wigen im試e舅訂ロ、S・∽票︶、といふやうなものを認めて、宗教的優駿に含まれて居る思想と、論理的の思

想とを囁別し、ダオッバーミソは・∵宗教の合理化を憬れて、宗教の眞理問題をさへ、宗教的意識に本

宗教曹畢即今の中心岡垣

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ニ0

宗教菅撃帥今の中心問塩

質的に虜する眞理関心に基づいて立論し−宗教的信仰に於ける超越世界の存在といふやう打てことは、 宗教的信仰の健件であるからーこれを諭澄しょうとするやうなことは誤った企である1と考へて居 る︵DasWesender家督n︶弾∽ぶ。彼が、宗致の本質の問題は、眞理問題を顧みることなしに政

はうとするにかゝはらす、宗教の眞理の問題は、本質問題に照して扱はうとするものは、宗教的意

識の根本輿料を尊重するに竣るものなることは、推知するに難くはない。

かくの如く、従凍の宗教背畢は、批判ま義的といはれて居るにもかゝはらず、なほ、合理化1こよ

って宗整息識の直接輿料を虐げてしまつたが、徒水の宗教心埋畢は、又、宗敦を賓在化する為に、

純粋性に於てそれを把捉することができない。宗教心理畢は、宗教を心理的過程として見るが、宗

教意識の直接輿料は、心理的過程のやうに貰在的︵sub乳邑ie−−e、re已︶なものではなくして純粋に

意識的なものである。例へば、新藤して居る時の意識の直接兵科は純粋に意識的であつて、決して

心理的過程ではない。心理附過程といふやうなものは、宗教的優駿が、賓在的なる人間精神に及ば

した影響の過程に過ぎぬのであつて、宗教的優駿そのもの∼意識内容、即ち、直接輿料ではない。

それであるから、心理的過程を対象とする宗教心埋草は、岳敦の意識内琴ぎ取扱ふことができない

のみならす、宗教を心理的過程と見ることによつて、更に、宗教を謹ふるものである。シラフーが、

宗教心理撃とは臭った畢科として、特に、宗教的作用諭︵r身iぎAkt−e訂。d・religi軒宅象k︶を

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樹立したのは、宗教の賓在化を排し、宗教をありのま∼に把捉せんがためである。宗教的作用諭で

は、所謂宗教心理畢のやうに、宗教的作用の本質を戚情だとか、意志だとか、下意識だとかいふや

ぅな心理的なものと見ることによつて、宗教を単なる心理的魂象の群にしてしまうやうなことはな

い。宗教的憶駿に於て、心理畢的にどんなことが生起するかといふやう字Jとは、宗教的作用論に

取っては、無関心なことである。宗教的作用は、純粋な宗教的意識に於ける﹁能﹂の方面である。

元凍、意識は何かの意識、即ち、現象畢の所謂志向的︵i−1ぎ︷iO邑︶であるから、意識の﹁能﹂の方

面、即ち、作用の方南と、意識の﹁所﹂の方面、即ち、対象の方面とを、その構造に本質的なもの

として含んで居る。宗教的意識も、意識である限♭、宗教的封象に志向する宗教的作用を本質的に

含んで居る。併し、この宗教的作用は、全く志向的であるから、心理的作用のやうに暗室上に生起

する賓在的なものではない。それでめるから、宗教的作用諭とはいつても、それは、票数の心理作

用を取扱ふ宗教心理畢とは全く異った単科である。

この意暁に於て、宗教的作用諭は.宗教的作用の本質を戚備と見るシュライエルマッヘルや、一 層深い意味の戚情と見るナトルブや、下意識と見るジェームスなどの宗教心埋畢に射しても.それ

等の及ばざる猶特な領域を占むるものである。ブオッバーミンが、宗教の本質を理解する場合に、

徒凍の票数哲畢の陥った宗教の合理化を極力排斥し、トレルチの所謂宗教的アブリオリ、即ち、宗

宗教哲撃即今の中心問題

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二二 宗教曹畢即今の中心問題 数の本質もなほ合理化の危険を寂して居ることを看破し、宗教をあらゐ皇1の純粋性に於て把捉し ょうとする鮎に於ては、宗教的作用諭と計的及び方向を同じうするが、彼がなほ、シュライエルマ ッヘルやジェームスの心理畢的方法を怒容し、心理的構造の上に宗教の本質を求めて行く鮎に於て は、たとひ彼の方法が、単なる﹁心理畢的﹂ではなくして、﹁宗教心埋草的﹂であるにしても∵矢求 り心理畢的たるを免れない。無論、彼の方法は、自分の宗教的憶駿を歴史的現象の中に移情︵もin苧 E2nJするといふ鮎で、宗教的であり且、先験的でふγり得るでもあらうが、それによつて得らる1 宗教の本質、即ち,彼の所謂﹁特に宗教的なもの﹂は、その諭理的構造の問題、即ち、眞理問題に 関してさへも合理化の危険は脱して居るが、なほ賓在化の危険を戎して居る。宗教の本質を理解す る時に、グオッバーミソのやうに自分の宗教的髄駿から出費するといふことが、ダイソクラーのいふ 如く︵PF賢OmenO−鼠e呂dRe−igiOn−S・琵︶果して避くべからざることであるか、或は、ブェソニヒ スドルフの如く︵謬−igiOnSpS誓邑OgieロndAp㌢囁ti打−弾︰〓︶畢問の妥曹性の為に遅くべきことであ るか、といふ問題は旦らく措き、兎に角彼が、宗教を外から説明︵erk−腎en︶して恋わ徒凍の方法を 排して、内から理解︵扁rS邑1en︶する為に、彼燭時の方法を樹立したことは、方法論上注目すべき斬 らしい試みであるに相違ない。然しながら、なほ彼の方法が、その名の示す如く、心理畢的であつ たことは、彼の所謂宗教意識の心理畢的構造︵勺唱e訂l鼠sc訂Strukt弓︶なるものが、純粋に意識的

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でないことを以てしても明かである。彼の方法が理解的︵扁諾訂Fend︶である虐に往々現象畢的と同

一成せられるが、それは、現象畢やうに理解的に現象畢的構造を明かにしようとするものではなく

して、理解的に心理畢的構造を明かにしようとするものである。彼が自己の宗教的儀唸の移備によ

って﹁特に宗教的なるもの﹂を定めやうとする鮎は徒衆の宗教心理畢と臭って居るが、その﹁特に

宗教的なるもの﹂が心理畢的であるといふ鮎に於ては、なほ徒凍の心理畢の如く賓在化の除澤を存

するといはねばならぬ。それであるから、ブオッバーミンの宗教心理畢的方法も、宗教意識の直接

輿料を把捉する為には更に一歩深められねばならぬであらう。宗教的作用諭こそ正にこの深められ

たものそのものである。これによつて始めて、合理化からも賞在化からも解放一されて、宗教のあゎ

のま1が把捉され得るのである。この意昧に於て、現象畢的の宗教的作用諭は賓に割勘的なものと

いはねばならぬ。

書々が宗教哲畢即今の中心問題と謂はうとする宗教本質の問題は,かくの如き意義を有し.かく の如き開展を示して居るが.こは、従妹の宗教膏単に於ける合理化の暴虐と、経験的宗教単に於け

る賓在化の姪枯とから脱して、宗教のふ∵りのまゝの自然に還らんとする解放運動であつて、即今に

最もふさはしい、而も嘗然なる運動といふペきであらう。無論、この新興の畢科によつて宗敦のあ

ちのまゝが樅へ把捉され得るにしても、それによつては解き得ない、而も宗教に本質的なる問題が

宗教曹畢即今の中心問題

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蕃軟膏峯即今の中心問崖 二日 幾多残されて居るでもあらう。これは普に次に凍るべき周庖であつて,或は新しい意味に於て徒務 め宗教暫畢の復活空不便イるもⅥであるかも知れないが、それ上進む以前に、なほ漸層の畢科その ものに裁て検討すべき潮目の多ぺがあり、且又、その方法によつて把捉すべき諸般の新知識が透る。 昔 宗教哲単に於ける曹面の催事は串賓鼓にあみ、又あるべきではなからうか。

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∴ 十九世紀の後年に、﹁言語畢茨﹂及び﹃自然象徴派﹂の単記を力強く駁草して、自己の新畢設を樹 立 最近に至っては∵この畢派の畢詭の光芭だけがひとり燦たろ准きを悉にするわけに行かなくなつた。 テクノロジイ 紳詩畢の補助科挙としての心理学、敢合筆言語畢、史畢、工轟畢等の進展及びそれ等による神話の 綜合的研究は、神話畢の研究者にさまざまの新しい知識と示唆七を奥へ、その結果として、多くの畢 的部門から多くの新畢詭が生れて凍た。その或るものは、人類畢源の畢故に対する扱逆者として、 これに駁撃の兄を向け、その或るものはこれを無税するかのやうな態度で、全く未恕の虔女地を開 拓するに忙しい。かくの如くして現代の紳話畢界には前世紀に見ることを待なかった新しい視野と 生面とが、あとからあとからと展開してゐる。請来は知らず、過去にあつては、現今ほせ多様な神 話畢詭の並存時代を出現したことは嘗て無かつた。しかし新しい神話奉祝のま要なものー押詰畢界 所帯挙り新展開

所語学の 新展開

松 村 武 雄

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二大 紳語草の新展開 の主流となるペきもの、及び主流とは云ひ得ないまでも、太だ重要な示酸に富む傍系的なものは、 これを数個に絶約することが出乗る。吾人は一々それ等の畢詮を討検することによつて、現代醐話 畢の展開趨向を明かにしたいと思ふ。 〓 先づ第一に吾人の目をひくものは、社食畢派の活躍である。ゴブレット・グルダイエラ氏 ︵GOblet d.A−まe−−p︶が、F宗教畢史﹂︵串旨irede−Pm粁ien藷d窪Re−乾○昆︶の論考に述べ花やうに、人類畢派の 宗教及び締高に射する取扱方に大きな不満を持ち.その映鮎として、 Ⅲもろもろの事質を、その同似に従って泉結させるに熱意して、その差別を討検し整魂すること を怠ってゐること。 拘単なる類同の関係を基礎として、もろもろの事賓を系統的に連結すること。 印譜革質をそれ等の構造に於てのみ研究して、それ等の機能に於て研究せざること。 ︵一︶ 用事賓をその政令的環境から引き離して、単に法則的に尤もらしい説明を作り上げること。 を指摘する社食畢況の聞から、醐話の本質について、人類畢次のそれと太だ異った畢詭が生れ出で、 現代の醐話畢に新しい一展開奇兵へたのは、箕に自然の勢でなくてはならぬ。

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政令畢波は、従妹の史畢喝自然象徴涯及び人類畢派によつて唱導せられたF神話とは何ぞや﹂

の畢詭とは全く、若くは殆んど重く異った考方を、紳苗の本原的性質及び職能の上に向けるやうにな

うてゐる。而して這般の新設の提唱者の代表的なものとして、吾人はツルボンヌ大挙教授レディ・ブ

,ユール博士︵巳首ふぎ已︶及び倫敦大挙講師ブ:三ラク・マリノクスキ博士︵苧On詳毒害−in。表ki︶

を奉げなくてはならぬ。

レディ●ブリュール氏は、一千九盲十年に先つ﹁下暦政令の心理的機能﹂︵訂00増昌象○宏men邑e辺d罠 −金野i監仇in昏ie彗且を公にして、自然民族の心理の絶楷的研究として、彼等の垂心意に関してあ らゆる範時の一般的特質を決定する試みを企て、次いで一千丸首二十二年にF原始心意性﹂︵訂呂? n邑itか買miti且を出して、自然民族に於ける因果梓の性質作用を考察し、更に昨年に至♭r原始 塞魂﹄︵L、Ame苫miti焉︶を著して、生命丁重魂、人格に対する自然民族の概念を考察し、進んで

それ等の概念を通して、自然民族は自己の個人性を如何七表象してゐるかの問題を究明することを

試みてゐる。

云ふまでもなく、レブィ・ブリュール氏の研究は、自然民族の原始心意を対象としてゐるのであつて、

特に醐話を封象としてゐるのではない。しかし神話が自然民族の心的産奥の一つである以上、曹然

それは氏の考察範囲に包嚢せられざるを得なかった。

紳話墜め新展開

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御託畢の新展開 二八 氏に従へば、自然民族の心意を強く支配してゐるものは集囲的表象︵R童鼠掩n夏iO∈合ヒe註毒︶ でぁる。而してこの表象は、 伸一﹂定の政令集囲の全ての成員に共通してゐること。 伸一世代から他の世代へと連摺的に侍はること。 明白己凄個人心に推しっけ.また対象に対する戚傭を聯閑的に個人心に呼び起すこと。 をその特質としてゐる。而しで自然民族の心意即ち原始心意にあつては、 糾それ等の表象の聯結が、論理的法則に徒はす、周果律を超越してゐる。即ち前説理的︵浮か厨i▲ 宅e︶である。 拘をれ等の表象の内容が、舶互の問に神秘的な戚應を持ってゐる。そしてこの油粕的関係の存在 は、集囲約表象t於て結びつけられるあらゆる事象の間七共享分輿︵P邑ieip註。n︶が行はるるこ とを意味す。レゲィ・ブリュール氏はこれをF共享の法則﹄︵lOide句arti阜atiOn︶と名づけた。 レゲィ・ブリエール氏は、原始心意の特質をかく観じ、而してこの見方を基礎として醐話に射した。 氏の紳話畢詮の新兵性、濁創性はそこから凍る。 徒凍の醐話挙が研究の封象とするところは、物語としての紳話の形式、内容であつた。その理解 し説明せんと努むることろは、.叙述の進程、事件の結構、物語の筋である。かくて神話の分類は−

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たとへばラング氏のそれのやう㌫語の形式内容を基礎とする多くの範噂に神話姦配することに

なる。レブィ●ブリュール氏はかうした見方を排拒して、

﹁これは、前論理的、神秘的な心意性が、我々の心意性とは臭った方位を取ることを怠るるもの

︵三︶

である。﹂

となした。氏に徒へば、原始的心意と錐も神話の中に述べられた事件.胃除、樽欒に無頓着ではな

い。∴れ等が自然民族の興味と喜悦とを典へるのは事賓である。しかし自然民族の心にアッピール

するま要なものは、這般の事件・舜化−−−レザ1・ブリュール氏のいはゆる紳話の﹁正面的内容琶? −−訂nup乳tl−︶ではあり得ない。彼等に強くアッピールしてその注意を惹起し、その情緒を湧立禿せ

るものは、物語の正面的内容を囲接する紳秘的要素そのものである。この要素のみが醐苗に・その存

在慣偲と政令的重要性とを輿へる。原始心意に於ては、F共享の法則Lが優越的な地歩を占めてゐる

が故に、紳話は神秘的賓在との共同といふ甚だ強烈な戚備に随伴せられてゐる。胃険、功業、文化

的紳雄の死と復活等が,紳話の中に述べ立てられる嘩特に聴衆にアッピールするものは、這般の行 ヒーp−

点者が火をつくち若くは玉萄黍を栽培する観念等を部族に輿へたといふ如き事賓ではい。自分蓮が

現在形成してゐる赴骨集圃とそれ等の行男者を合む過去の政令集囲との共享分奥の戚じ、現存の赴

骨集圏が、神話の語ってゐる時代に賓際生きてゐるといふ戚じ、F今在るところのもの﹂とFそれを 紳語草の新展開

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紳語草の新展陶 三〇 産み優したものL 現れる人物が、政令集囲と無関係な存在ではなくて.﹁いつも金健としてのそれの始源であり保持者 であるやうに、また最も豊宮な神秘カの源泉でぁり、更に赴骨集囲そのものの力強い象徴であるや ぅに特色つけられでゐるといふ革質は、紳話が這般の感じを本質的な生命としてゐることを澄示す ︵田︶ るものでなくてはならぬ。レディ・ブタユール氏はかくて▼ ﹁原始心意にとつては、神話は一方では政令集囲の諸々の時期に於ける自己との連帯であら、他 方では自己を続る諸存存の集囲との連帯である。かくの如くして醐話は†この連帯戚を保持し ︵玉︶ 蟻興せしめる手段である。﹂ とま張する。 この主張は、普然従妹の言語畢喝自然象徴波及び人類畢涯の見解に基く挿話の重要性の順序を 特例せしめることを預想させた。言語畢茨及び自然象徴況の畢設によれば▼醐話は自然物素及び自 ︵六︶ 然現象の説明的物語であることを本質とした。人類畢況の畢説にあつては、﹁和語↑即﹁自然説明﹂の 一掃的見解から脱却してはゐるが、然も滑F自然﹂に射する民族の印象経瞼を基調とする醐話を第 一義的なものとなし、﹁人事﹂に関するそれ等は寧ろ之を第二義的なものとする傾向が強いことを否 定し待ない。然るにレディ・ブタユール氏は醐話の本質職能に節する如上の新しい見方に基いて、這般

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の傾向に僧伍特例を輿へた。 氏に徒へば、原始心意に於て重きをなすものは、諸観念に内存する軸私的要素であつて、客観的 な事象跡形相ではない。&毘i昌は知力の問題であるといふ意痍に於て、文化人には大切であるが、 自然民族にとつては注意の瑠外に落つる。原始心意が最も関心するところは、赴倉皇囲と其の租先 君くは文化促進者との連帯戚である。勒植喝 日月、星辰、風雨、雷塞の如きも、この連帯戚の洗 適宜早くることによつて、始めて意識せられ、√そして意味を持って凍る。切言すれば、これ等の自 然物素及び自然現象は、知力的対象として説明せられることによつてよらもI.寧ろそれ等が社食集 囲と共享分奥の調布的交渉を轟つと戚得せられることによつて、始めて自然民族の注意圏内に入る。 かくて彼等にとつては、第l義の神話は社食集園を中心とするものである。社食集園の人間的若く は宇和的剋先や、赴骨集囲の生活の保護若くはその文化室向める存在がま役を潰するものである。 そこに自然現象や自然物素が顔を出すとしても、圭位に立っものは依然として敢曾集囲であか、﹁自 然﹂はこれと連帯することによつて、これに何等かの寄奥をなす徒位のものと考へられる。 紳話のま要な意義及び政令集囲に於けるそれの特質的職能に関する這簡の新しい見方は、また若 干の重要な締結を産み出してゐる。そしてそれ等の蹄結がまた従妹の軸詩畢訣と著しく異ってゐる ことは嘗然でなくてはなら屯。 絆革畢の新展鏑

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神話拳の新展開 三︷一 第一に、レディ・ブリュール氏は、人類畢況のぞp旨釘⋮旦i邑iくe∽の成立の可能性に疑を投げか けた。人類畢涙は、 M自然民族と文化民族とは、その心理的、論理的活動の性質を同じうしてゐるJ。 拘ただ前者のそれが後者のそれに比して幼稚でふγり非反省的であるだけである。 といふ見解の下に、神話の奥義の説明を試みる。従って人類畢派の畢徒−殊にアンドリュー・ラング 氏︵Andre司訂ng︶によれば、神話は不合理的要素を内存させてゐる。そして醐話の解繹は畢発する に不合理的要素砂合理化である。然るに自然民族と文化民族とは、その心理的、論理的活動の性質 を同じうして、ただその程度を異にしてゐるだけであ少、而してその程度の差が、神話を産み出し セ自然民族にとつては合理的なものを、文化人にとつては不合理なものに威せしめるに過ぎない故、 若し文化人にして現存の自然民族の心的活動を仔細に考究し、心的程度のピントをあはすれば、紳 ︵七︶ 苗の解澤詭明は容易になるとま亜する。レブィ・ブリュール氏はこの見賂を排拒して、神話を生む心意 は、文化人のそれとは全く臭ったOrient註。nノを有し、その集圏的表象は、F共享の法則﹂をそのま要 わか なものとする、それ白煙の諸法則主従ふものでぁるが故に、神話の文化人に対する﹁陸す易さ﹂そ れ自身が一の新しい問題となるとま亜す恕 第二に耕苗の流動垂彼の問題についても、レディ・ブタユール氏は、人類畢涙のそれと封破約な考方

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一ヾ、ノ∴ ・ ト→′′/ 1 I ㌢ / ′ を呈示してゐる。神話は時代の推移、文化の進展と共に、次第に復姓化し次第に建碑する。而して ﹁人心作用の同似﹂をま張する人類華族は、さうした神話の襲樽複雑化を承認はするが、それにも 拘らや醐話の意晩の把握は.依然として可能であるとなす。何故なら時代の推移、文化の進展がい かに深大であるとしても、各時代、各文化に於ける民衆の心理的活動の差はやはりF質﹂の上の差で なくて、﹁程度Jの上の差であるからである。然るにレディ・ブタユール氏に徒へば、時代の推移、文化 の進展ほ、つぎつぎに相異る一定の政令類型を産み出す。そして一定の政令類型は、各々おのれに 特有な心意性を有する。このことは普然、異なれる社曾類型は異なれる心意性類型に應じて成立し てゐることを意味する。而して文化民族は今日に至るまでに、多くの異った融合類型の階層一ぜ経て ゐるが故に、比較的原蘭的な敢骨類型の中で螢生した神話は、文化人の耳目に観れるに至るまでに. 多くの臭った心意性のために大きな慶化を蒙ってゐる筈である。然るに吾人は、つぎつぎの統合類 型に特有な心意性−それは吾人の心意牲と質的に異ってゐるーの抱起的作用に正確に追随し理解す ることが殆んど不可能であるが故に、かうした舜化を受けた醐諸に射して、その舜特進展の跡を辿 り、既に失はれセ成案を見出し、徐々に附著した誤れる概念を正すことは、殆んど可能以上のもの ︵九︶ でなくてはならぬと云ふ。 かくの如くして、レブィ・ブタユール氏は、従妹の紳話挙が認識しへ甘かった紳話の政令文化的職能を 鱒語草の新展開

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三田 神話畢の新展開 新たに馨見し、而してその蹄趨として神話の本質、重要性の関係、意義解秤の難易等の諸問題に関 して、多くの猫創的生面を展開させた。これ賓に神話畢に対する大きな貢献でなくてはならぬ。 tかし一面から見ると、氏の研究法や、それによつて到達した断集に射しては、可なり異論が多 い。†−セル・モース氏︵試買Ce−試S且が既に指斥してゐるやうに、レブィ・ブタユール氏は、自然民 族の心意に於ける各範噂の考究から始めないで、いきなり垂心意に亘ってあらゆる範時の一般的職 質を論決しょうとした。斯て氏の断定は、精々危ふき概括観に唆し、精々濃厚な形而上畢的臭味を ホワット ハウ 帯びざるを待往かった。氏の研究法に、F原始人がいかに反應するかといふことと.何に反應するか といふこととの混同﹄を見たバートレット氏︵句・C・出ぎユlett︶の批難、氏の原始的心意性の解繹に於 て一特徴をなす前論理説︵勺r空風sme︶の成立を疑ったルロワ氏︵○︼i≦.erIJer。ユやアリエー氏︵R・ 琶已A−1ier︶の反対論は、かうしたところから起ってゐる。そして氏の新しい神話畢詭は、氏が観じ た原始的心意性の特徴を基礎としてゐる推断であることが多くて、事賓からの締約であることが甚 だ少ぢいから、氏自身の言葉を用ふるなら、 ﹃もし自然界に於ける多くの存在や事物の知魔が、原始政令の心意性にとつて全然調和的である ︵︼0︶ とするならば、神話に於ける同一の存在や事物の詮表も亦同じく神秘的であるではなからうか﹂ といふ推測を前提としてゐるから、もし原始的心意性の一般的特質に関する氏の断塞が多少とも不

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確賓でみれば、氏の神話畢読も或る程度よで動揺せざるを得ないのである。且っまた氏の学説の功 績は、多くは滑極的であつて、積極的ではない。徒死の神話畢が隋つた、若くは陥り易い若干の組 織的な迷誤を避けしめる鮎1即ち徒凍の神話の分類が、また紳話の解粋が成立し難い所以を指摘し た鮎では功績がぁるとしても、氏自身が告白してゐるやうに、積極的に従凍の方法に代って、紳話 を粥enerPにmp軋esに分類する原理を輿へてゐない。また紳話の意義を解辞する正酪な方法を呈示 プラス 二こ することもなく、更にまた神話と宗教的儀式との関係にも正的な光明を投することがない。そ∵に 吾人の氏の学説に対する少なからぬ不満が存する。 紳話とこれを産み出した政令集囲との問の有機的共享的関係車高調し.神話を目して賓生活の固 蒲な遂行と無関係な﹃慰みもの﹄となした見方を打破し、神話の職能に新しい意義を見出さうとす る傾向は、現代神話畢の特徴の一つである。這般の傾向の代表者としてレディ・ブリエール氏を奉げた 自分は、更にブロエステク・マリノクスキ氏に限を向けなくてはならぬ。両氏の畢読には、顕著な同 似性が含まれてゐると同時に、傲妙な差別牲が潜んでゐる。両者を仔細に比較討検することは、やが ヽヽ ヽヽ て両者をよりよく埋骨することと肯でり、従ってまた神話の現代的趨向をよら明確に摘むこととなる。 †リノクスキ氏の新しい神話学説は、一千九百二十六年に発表せられた﹃原始心理に於ける神話﹂ ︵−二︶ ︵己y臣in㌘imi賢1e対頂0ざ○−○喝︶に集積せられてゐる。 牌桔畢の新展開

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三六

神話畢の新展開

レディ・ブリュール氏が、自然象徴喝人類学派の畢詭に抗零したやうに、マリノクスキ氏も、エー

レンライヒ︵Ehrenre㌢︶、ジーケ︵Si男ke︶、ウインクラー︵ヨロ詮er︶、フロペニクス︵セ⊇beniu仇︶等 ︵一三︶ によつて支持せられてゐる自然象徴説及び人類畢派の諸畢詭中の或る部分を否定して、彼等が見な

かつた新兵な或るカを紳諸に見出さうと努めてゐる。

†リノクスキ氏の観るところでば、自然象徴派は紳話を目して、自然現象のユーぢ乳i:endering となし、人類畢況は神話を解して、自然現象の説明−脱胎科畢の一種となす。氏は這般の畢説を駁

屈して、

Fこれ等の心的患度は何れも原始文化に於て目立った役を演じてゐない。両者は何れも原始的 ︵一四︶

な紳話の形相、それ等の社食的関係若くは文化的職能を説明することが出水ぬ。﹄

となす。氏に徒へば、原始人は甚だ局限せられた程度に於てのみ自然に対して純然たる轟術的若く

は科畢的興味を持つ。かくて彼等の観念及び神話には召然﹂の轟術的象徴ま義若くは科挙的許明

ヤ ま義を容るる除地が殆んどない。我々が神話に見出すところの人物及び存在は、物語の表面に現れ

てゐるが倭の人物及び存在であつて、隠れたる諸賓在の象徴でもなく、また物語の説明的職分をま

︵一五︶ 求しょうとしてもゐない。

それならば紳話の本質は何であるか。マリノクスキ氏はこの問題に関して一新創見を呈示してゐ

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る。日イ、野蟹な集囲社食に於ては、即ち神話が原始的な、生きた姿で存してゐる限りでは、それ は、単なる物語ではなくて、生きた賓在である。太初に嘗て生起して、その後絶績的に世界と人類 との運命に作用してゐると信せられる生きた賓在である。自然民族には、自己の現存の賓在敢骨の ヽヽ ヽヽ 源頭として、より大きな、より剖切な太初的賓在の世界が考へられてゐる。そして 印その太初的賞在世界は現在の生活運命諸活動を供給し モーチブ 印その世界を知ることが、現在の赴骨に於ける祭儀的、道徳的、政令的行動の契機を輿へ、・また これ等の行動をいかに行ふかの指固を輿へる。 と信じてゐる。紳話とはかぅいふ意奴に於ける太初的賓在任の記述である。かくて現存の祭儀、慣 習、道徳的法則、赦骨組織は、神話に記述された太初的世界の諸々の出水事のそれぞれの後代的屋 ︵一六︶ 果であ♭、﹁神話はこれ等の文化的諸現象を生起せしめた奥の原因である﹄と信せられた。 それならば、†リノクスキ氏は紳話を目して一種の歴史であるとなしてゐるであらうか。吾人は 之に対して育と答へなくてはならぬ。それは氏がリグァス氏︵Riくer∽︶等によつて代表せられてゐる 醐話畢上の歴史畢説を否定して、 ﹁自然的環境と同じく、歴史があらゆる文化的産物−従ってまた神話に深大な印象を残したこ ︵一七︶ とは拒み得ない。しかしあらゆる醐話憶系を単なる年代記となすことは、正しい考方ではない。﹂ 紳語草¢新展由 ●

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三八

紳話撃¢新展瀾

となしてゐることから容易に推知せられる。尤も氏が意味するところの−太初的貰在世界の記述と して押詰は.歴史とどう違ってゐるかにつきては▼ 氏は明確な説明を輿へてゐない。しかし氏の諭

旨から推して行けば、神話の内容は、史学派の解するやうな客観的史的事賓ではなくて、自然民族

のま救助な考方に基く史的事賓である。だから自然民族にとつては史的事賓と思はれても.文化人 の目かち見れば、.Fかくめるべし﹄といふ理想的な事柄と、﹃かくかくであらう﹄といふ想像的な事柄

とが、若干の客観的史賓と混融してゐるわけである。そしてマリノクスキ氏は、その意味で史畢派

の見方に於ける歴史ではないと考へたのでぁらう。

†リノクスキ氏は、紳話の本質につきて上述のやうな見解を抱き、而してこれを賓澄するために、

ミーギアナの北東に括るトロブリアンド諸島︵曽。briandI㌢邑彷︶の民間信仰を奉げてゐる。氏の 言ふところに徒へば∵島民はその有する説話に三つの異なる稀呼を輿へてゐる。ククワネブ入内u甘・ 吾nebu︶、リブウォダウォ︵libw品ヨ︶、及びリリク︵≡iエがこれである。第一は茫古∴㌘︼袋で、一日の うち若くは季節の折々の画欒の興味を添へるために語られるもの、即ち一種の邑。﹃薫iabi−ityで あり.第二は侍詭に普り、民衆にユって経験せられ、若くは経験せられたと信せられる異常な現賓 の記述である。之に対して軸諸に普る.ところの夢二は、政令的律法、泡徳的規定.祭儀等が、その 正常さの是認を要求するとき.それ等のものの舌さと神聖さと賓在性とを保記するために語られる

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のが常である。即ちト・ロブリアソド島民の間にぁつては、民讃が娯楽のためのものであり、侍説が 驚i已ambitiOn.を満足せしめるものであるに対して、神話は、曹に眞賓なものとしてばかりでなく、 ︵一人︶ 醐重なものとして、高度に重要な文化的役割を演じてゐるのである。 マリノクスキ氏はこの事貫から推して、神話に対して今までの畢徒が知らなかった薪職能を見出 ー した。即ち氏に徒へば、紳諮は、敢骨集囲に於けるあらゆる文化事象の保澄でありeh邑erである。 それは盛徳梓を擁護し強健にし、政令制度.風習、儀式の合宜性を裏書し、集圏生活を指導する賓際 的法則である。かくて紳話は知力的説明でもなく、垂術的なimager当でもない。単なる閑散的輿奴 の造兵や作焉的な叙述では滑吏無い。それは人類文化のさ已i長redientであゎ、賓用的賓践的性質 に飽満した、.重要な文化カで通る。神話が集囲生活文化の保澄であ,り先行であ♭㌢rterであるニ とは、.何か瀕しい事象が生起して、神話のj邑i許註〇・・の基礎が侵害せられるやうになった場合、神 話の構成内容が荘ちにそれ等の満車象に対して順應を試み、その再調整によつて、保澄券でぁる役 ︵九二︶ 目の行使を拝績すろに不都合なからしめようとする現象から見て明白である。 かくの如くしてマリノクスキ氏の紳話畢詭は、レディ・ブリュール氏のそれと微妙な同似と差異jを 含んでゐる。即ち、 印南着とも、紳話を赦曾生清文化から遊離させて考へ易い従来の傾向を排拒して これに映く可 紳話畢の紳展開

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紳帯革の新展開 四q らざる活力と考へた。しかしレディ・ブリエール氏が、過去の生活文化と現在のそれとの連帯威及 び外的自然とそれに園続せらるる政令生活との連帯戚を保持し焼興せしめるといふことに、神 話の活力を認めたのに対して、マリノクスキ氏は、太初的賓在の正常割切な出水事として、現在 の政令生活文化の各宜性に対する是認カ、保澄カをなすといふところに、神話の活力を認める。 関南氏ともに、細藷の存在と作用とが、単に物語を話すといふ行男を超越して、現賓生活の動き を支配することをま萌する。しかしレディ・ブリュール氏は、その支配を主として神秘的心意を通 しての支配となすに射し、マリノクスキ氏は.これを賓用的若くは賓践的な戚情意欲を通して の支配となす。 関南者とも探求好奇の如き知力の自然現象に対する活動を醐謡に於ける第二義的なものと見る。 しかしF自然﹂が神話に誘導せられるやうになる機縁に関しては、雨着の考方が異ってゐる。 レディ・ブリュトル氏は、原始人が過去の政令集囲と同じく自然も亦現在の政令集囲と神秘的に共 享分輿してゐると成待するところに、自然が神話に入り凍る横線が存するとなす。之に反して マリークスキ氏によれば、自然が神話と結びつくためには、⊥一個の連鎖が要求せられる。 車外的世界の或る形相が人間生活に或る利啓開係を持つといふことの戚待q ︵ −︵二〇︶ ロ或る自然現象の合理的及び経験的支配を呪術によつて補足しょうとする要求。 ︵

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