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(特集 冷戦変容期の南アジア世界)

著者 渡辺 昭一

雑誌名 ヨーロッパ文化史研究

号 22

ページ 3‑37

発行年 2021‑03‑30

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024404/

(2)

南アジアの「遅れた冷戦」とケネディ・ネルー会談 3

2021 3 31

特集 冷戦変容期の南アジア世界

南アジアの「遅れた冷戦」と ケネディ・ネルー会談

渡 辺 昭 一

1. はじめに

2. ネルー訪米前の米印外交

 (1) トルーマン・アイゼンハワー政権期におけるネルーのアメリカ公式訪問  (2) ケネディ・ネルーの書簡の応答

3. ケネディ・ネルー会談に向けた資料の準備  (1) 国務省による会談に向けた案件の検討  (2) ケネディに対する会談資料

4. ケネディ・ネルー会談  (1) 国際問題への対応  (2) ラオス問題  (3) 核実験問題  (4) カシミール問題

5. 会談後のアメリカの南アジア政策構想 6. おわりに

1. はじめに

本論の目的は,

1961

11

6

9

日にワシントン・ホワイトハウスで行われたケネディ・

ネルー会談に至る背景と会談内容を検討することにある(1)。ケネディ政権は,この会談に 何を期待し,どのような議論を展開したのか,総じて,当該政権の南アジア政策構想にい かなる効果をもったのかを検討する。

これまでの冷戦研究は,ヨーロッパ中心に著しく蓄積されてきている一方で,アジアに ついては相対的に少ない状況のなか,マクマンや菅英揮などの研究は,東アジア,東南ア ジアの冷戦,さらには熱戦の背景を実証的に検討し,アジア冷戦の解明の重要性を示唆し た先駆的研究として注目される(2)。最近ではウスタッドのように,ヨーロッパやアジアと

(1) 本論では,以下断りがない限り,ジョンF.ケネディ(JoŠ F. Kennedy)をケネディ,ジャワハラル・

ネルー(Jawaharlal Nehru)をネルーと表記する。

(2)Robert J. McMahon 1994 The Cold War on the Periphery : The United States, India, and Pakistan, Colum-

bia University Press ; 菅英輝[2016]『冷戦と「アメリカの世紀」:アジアにおける「非公式帝国」の

(3)

いうように地域ごとに限定することなくグローバルな枠組みにおいて冷戦を見直そうとす る研究も表われ,新たな視座が示されている3。南アジアに目を転じると,これまでの研 究は,南アジアの地域研究にとどまるか,あるいは

1980

年代以降に関する現状分析に集 中する傾向を示しているが(4),冷戦体制との関連で南アジアを歴史対象とした冷戦史研究 がようやく出始めている。マクガールは,イギリス,アメリカ,南アジアとの関係の変遷 について,第二次世界大戦後から

1965

年の第二次印パ戦争までの英米関係から見た南ア ジアの冷戦成立過程を検討している(5)。これまでのアメリカの南アジア政策に関する研究 を見ると,パキスタンへの軍事的支援問題(6),カシミール紛争問題(7),開発援助問題(8),さ らには文化社会的問題(9)

など,南アジア内の地域史的脈絡での研究が数多く存在するも

のの,冷戦史や国際関係史の脈絡でとらえる研究は非常に限られてきた(10)

冷戦史研究として南アジア,特にインドが対象となりにくかった要因としていくつか考 えられるが,まずイギリス帝国史の脈絡で英印支配・従属関係に集中されてきたことがあ る。インドはイギリス帝国の要として組み込まれ,戦後もコモンウェルス体制に残存し,

イギリスとの関係において,戦後南アジアの秩序形成に重要な役割を果たしてきた。その ため,政治的に独立したとはいえ,経済的軍事的にイギリスに大きく依存していた。よっ て,南アジア世界はイギリスの勢力圏として存続し,他国の介入は大きく制限されざるを 秩序形成』岩波書店。他にパワーゲームの視点から冷戦を扱ったものとして,赤木完爾・今野茂充 [2013]『戦略史としてのアジア冷戦』慶應義塾大学出版会などを参照。

(3) O.A.ウェスタッド(益田実・山本健・小川浩之訳)[2020]『冷戦: ワールド・ヒストリー』上・下,

岩波書店。また,米ソ中心に冷戦の変遷過程をたどったウォルター・ラフィーバー(平田雅己,伊 藤裕子監訳)[2012]『アメリカVSロシア:冷戦時代とその遺産』芦書房や,イデオロギー史から とらえたJ.L.ギャデス(赤木完爾・齋藤祐介訳)[2004]『歴史としての冷戦』慶應義塾大学出版会 なども参考になる。

(4) 近藤則夫[1997]『現代南アジアの国際関係』アジア経済研究所; 近藤治[1998]『現代南アジア 史研究: インド・パキスタン関係の原形と展開』世界思想社; 堀本武功編[2017]『現代日印関係 入門』東京大学出版会などを参照。

(5) McGarr M. Paul [2013] The Cold War in South Asia, Cambridge University Press ; Michael R. Beschloss

[1991] Kennedy v. Khrushchev:The Crisis Years 1960-63, Faber and Faber.

(6) Tewari S.C. [1977] Indo-US Relations, 1947-1976, Radiant Publishers ; Asopa, Sheel K. [1971] Military Alliance and Regional Cooporation in West Asia, Pakistan ; Alam, Aftabe [2001] US Military Aid to Pakistan

&India’s Security, India.

(7)Howard B. Schaffer 2009 The Limits of Influence : America’s role in Kashmir, Brookings Institution Press ; Harold A. Gould and Sumit Ganguly 1992 The Hope and the Reality, Westview Press ; B. M. Jain

[1987] India and the United States, 1961-63, Radian Publishers ; Paroathi Vasudevan [1996] Non-Alignment as a Factor in Indo-American Relations : The Nehru Era, Kalinga Publications ; Ranju Bezbaruah [1999]

America and India in Global and South Asian Settings, Punthi Pustak.

(8) Dennis Merrill [1990] Bread and the Ballot, the University of North Carolina Press ; 渡辺昭一編[2017]

『冷戦変容期の国際開発援助とアジア: 1960年代を問う』ミネルヴァ書房:秋田茂[2017]『帝国か ら開発援助: 戦後アジア国際秩序と工業化』名古屋大学出版会。

(9) Andrew J. Rotter [2001] COMRADES AT ODDS : The United States and India,1947-1964, Cornell Univer- sity Press.

(10) 国際史関係の脈絡でとらえようとした先駆的研究として秋田茂・水島司編「2003」『現代南アジア: 世界システムとネットワーク』東京大学出版会がある。

(4)

得ないという事情があった(11)。もう一つの要因として,インドの非同盟政策が挙げられる。

ネルーは,1954年に平和五原則を発表し,1955年バンドン会議では平和十原則を掲げて,

非同盟政策の盟主として米ソ両国に距離を置く外交政策を展開した。脱植民地化を推進し つつ,大国の覇権闘争に翻弄されることなくアジア・アフリカの独立を維持しようとした のである。こうした事情から,インドは,政治外交関係において,アメリカ,ソ連との関 係にも一定の距離をおいていた(12)

しかし,アメリカは,南アジアに全く関与しなかったわけではない。

1954

年アフガニ スタンとの関係からパキスタンへの軍事援助を強めていた。米パ軍事援助協定のもとで,

中東条約機構(METO),中央アジア条約機構(CENTO),東南アジア条約機構(SEATO)

に加盟をうながすことによって,西側の集団的安全保障体制に寄与することを求めていた。

他方,インドに対しては,軍事的関与が困難であったため,公法

480

号(通称

PL480)に

よる食糧援助のほか,技術援助など経済的分野で積極的な支援を行っていた。特にイギリ スとの経済・金融的紐帯の支柱であったコロンボ・プランのスターリング・バランスが激 減し,インドが国際収支危機に陥った時,1958年以降アメリカの経済的金融的介入を本 格化させた(13)。アメリカは,それまでイギリスの支配圏への介入を控えていた。

ところで,ケネディ政権が誕生した

1961

年という年について言及しておきたい。1961 年

1

20

日,ケネディが第

35

代アメリカ大統領に就任して直ぐに,副大統領リンドン・ジョ ンソン(

Lyndon B. JoŠson

),国務長官ディーン・ラスク(

Dean Rusk

),国家安全保障特別 補佐官マクジョージ・バンディ(McGeorge Bundy)らとともに対ソ問題の検討に入って いる。この時の会議は,フルシチョフと直接会談を行うかどうかの検討であったが,両国 間の懸案事項を協議するというよりも初顔合わせの機会を設定するという位置づけであっ た。しかし,ドイツでは西ベルリンへの人口流入が加速するなど東西ベルリン間で緊張が 高まり,キューバでは

4

月にアメリカによる偵察・侵攻が失敗し(ピックス湾事件),ま

(11) Banerji, Aran K. [1977] India and Britain, 1947-68, India ; 渡辺昭一[2012]「イギリスのコモンウェ ルス体制の再編とインド」『ヨーロッパ文化史研究』13;渡辺昭一[2018]「冷戦期南アジアにお けるイギリスの軍事援助の展開」『国際武器移転史』第5;渡辺昭一[2019]「アトリー政権期の コモンウェルス防衛と南アジア」竹内真人編『ブリティッシュ・ワールド』日本経済評論社;小川 浩之[2012]『英連邦』中央公論新社; 山本正・細川道久編[2014]『コモンウェルスとは何か: スト帝国自裁のソフトパワー』ミネルヴァ書房。

(12) Vasudeva, Parvathi [1966] Non-Alignment as a Factor in Indo-American Relations : The Nehru Era, Delhi ; 吉田修[1988]「『非同盟』と『アジア』:ネルー外交とその遺産」『法政論集』(名古屋大学)121 を参照。インドが経済的のみならず軍事的にも自立化を図っていく過程については,横井勝彦[2006]

「南アジアにおける武器移転の構造」渡辺昭一編『帝国の終焉とアメリカ』山川出版社;横井勝彦

[2018「インドの兵器国産化政策と国際援助」『国際武器移転史』第5号を参照。

(13) 例えば次の文献を参照。Veena Narain 1988 U.S. Financial Aid and India’s Economic Growth, India ; Bezbaruah, Ranju 1999 America and India in Global and South Asia Settings, Calcutta ; Jain, B.M. 1987 India and the United States, 1961-63, New Delhi.

(5)

たラオスでは右派,左派,中立派の三つ巴の内紛が続き,ジュネーブ協定にもとづく中立 を維持することが困難になっていたのみならず,ラオス経由でベトコンの南ヴェトナムへ の侵攻は激化して,米ソが介入する要件がグローバルに拡大していた。そこで,6月初旬 にウィーンでの米ソ首脳会談が設定され,核実験・軍縮問題,ベルリン問題,キューバ問 題,ラオス問題など多岐にわたって話し合われたが,共同コミュニケではラオスの中立維 持が了承されたにすぎず,成果の乏しい会談に終わった(14)

会談後の

8

月,ソ連が核実験再開を宣言し,東ドイツの第一書記ウォルター・ウルブリ ヒト(Walter Ernst Paul Ulbricht)が,西ベルリンの非軍事化・中立化の提案を無視して,

東西ベルリンの境界線にバリケード (ベルリンの壁)

を設置するという事態が発生した。

この一方的措置に対して,アメリカは西ベルリンに戦闘部隊を派遣したため,一気に緊張 が高まった。さらに

9

1〜6

日にはベオグラードで第

1

回非同盟諸国首脳会議が開催さ れると,アメリカの外交政策にどのような反応を示すのか,ケネディは注目していた。

以上のような国際情勢の緊迫化の中で,アジア重視の政策を表明していたケネディは,

7

月にパキスタン大領領ムハンマド・アユーブ・ハーン(Muhammad Ayūb Khān)と,11 月にはネルーと,それぞれトップ会談を実現した。

6

月のフルシチョフとの会談であまり 成果がなかったことを踏まえて,南アジアでの新たな協力体制が構築できるかどうかを模 索したのである。アメリカにとり,西アジア,東南アジアとの関係においてカシミール問 題で紛争を抱えているインドとパキスタンとの関係維持が重要であった。本稿では,南ア ジア,特にインドとの新たな関係をどのように模索しようとしたのか,ネルーとのトップ 会談を取り上げて検討する。その内容分析からアメリカの狙いを探り,アメリカがインド に積極的に介入していく要因を検討することで,「遅れた冷戦」構造に照射したい。

2. ネルー訪米前の米印外交

1) トルーマン・アイゼンハワー政権期におけるネルーのアメリカ公式訪問

インドは,上述のごとく,第二次世界大戦後の分離独立後もイギリスを中心としたコモ ンウェルス体制に留まりイギリスとの密接な関係を継続したが,米ソの超大国と距離を置 く方針を取っていたため,アメリカは,独立を果たしたインドに対して意のままに外交交

(14) フレデリック・ケンプ [2014]『ベルリン危機1961 : ケネディとフルシチョフの冷戦』上・下,

白水社; 服部一成 [2002-2007]「ケネディ政権とベルリン危機」(1)〜(5)『東海大学紀要・政治経 済学部』3438 ;倉科一希1998「ケネディ政権の対西独政権と冷戦」『一橋論叢』119-166日,

ホワイトハウスから国民に向けての報告は,会談の有意義性のみ強調し,互いに妥協はないことが 伝えられた。

(6)

渉を行うことができなかった(15)

ネルーとトルーマン(Harry S. Truman)の初めての会談は,第一次印パ戦争の解決に向 けて,1949年

10

11〜15

日にアメリカを公式訪問した時であった。ネルーは,トルー マンおよび同席した国務長官ディーン・アチソン(

Dean G. Acheson

)との会談に臨み,植 民地主義の廃止,工業開発の支援,

100

万トンの食糧支援,カシミール紛争の平和的解決(平 和の維持,和解という点で合意),中共の誕生に対する対応などを話し合った。アメリカ の主な関心は,ヨーロッパ再建にあったため,ネルーの要求通りに南アジアに積極的に関 与することはなかった(16)

2

回目のアメリカ公式訪問は,アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権期の

1956

12

16

20

日であった。東欧ではハンガリー動乱,中東ではスエズ危機がおこり,ア ジアではバンドン会議により非同盟主義路線が拡大しようとしていた時期であった。まさ に米ソを中心とした冷戦の確立を反映して,会談内容も,ハンガリー難民問題,西ドイツ 問題,スエズ問題,ゴア問題,カシミール問題など国際外交問題が中心であった。対ソ関 係では,西ドイツのアデナウアー政権の支援,東欧諸国(ポーランド,チェコ,ルーマニ ア,ブリガリア,ハンガリー)の中立性選択の尊重など,共産主義膨張阻止のテーマが話 し合われた。南アジア外交については,パキスタンに対するアメリカの軍事支援に伴うイ ンドの不安を払しょくするために,アメリカの武器供与が対インド防衛のためのパキスタ ンの軍事力強化ではでないことを伝えるにとどまっている(17)

2

回の米印首脳会談を見る限り,いずれも儀礼的要素が強く,アメリカが抱えていた国 際問題についてインド側の追従を要請するレベルにとどまっているように見える。もちろ ん米印間の軍事・国際外交以外の経済分野では,

1957

年以降アメリカの関与が強まって いたが,この問題は会談にはまだ明確にあらわれていない。しかし,1958-

59

年,1959-

60

年の国際収支危機に直面したインドを救済するために,世界銀行の呼びかけによって設置 されたインド援助コンソーシアムにおいて,アメリカの援助が圧倒的な役割を果たすこと になる(18)

(15) 渡辺昭一編[2006]『帝国の終焉とアメリカ』山川出版社を参照。

(16) Memorandum of a Conversation by the Secretary of State, The Foreign Relations of the United States: FRUS),1949 the Near East, South Asia, and Africa, vi.

(17) No. 164 ‘Memorandum of a Conversation between President Eisenhower and Prime Minister Nehru, the White House, FRUS, 1955-57, South Asia, viii.

(18) 渡辺昭一編[2017]『冷戦変容期の国際開発援助とアジア: 1960年代を問う』ミネルヴァ書房を 参照。

(7)

(2) ケネディ・ネルーの書簡の応答

さて,ケネディは,公式訪問前にネルーとどのような問題をやり取りしていたのか,紙 面の関係上,国連問題,ラオス問題,経済援助問題に限定して検討する。

まず,国連問題についてであるが,

1961

2

18

日付のネルー宛書簡で,ケネディは 国連におけるアメリカの対アフリカ政策を支援するよう要請している19。それは,国連を 通じてコンゴ問題に関してソ連に肩入れをしないことと,国連軍へのインド軍派遣に関す る要請であった。これに対して,ネルーは,

2

22

日付の書簡で,脱植民地化支援の観 点からアフリカの真の独立をめざして外部からの干渉を排除することに同意し,国連軍へ の派遣にも協力することを約束した(20)。その後,

3

30

日にはケネディの指示により,国 務長官ディーン・ラスクが,バンコクで開催された

SEATO

の閣僚会議の帰りに,コンゴ 問題とラオス問題を協議するためにインドに立ち寄り(21),国連軍の活動への支援に対する 謝意を表したのに続いて,4月

20

日付のケネディ書簡で,インド軍派遣は国連決議に従っ た行動であることを重ねて強調した22。駐印アメリカ大使ジョン・ガルブレイス(JoŠ K.

Galbraith)は,国務次官補(極東・南アジア問題担当)フィリップ・タルボット(Phillips

Talbot

)を通じてケネディに対して国連とインドとの良好な関係について報告をしてい

23。また,ケネディは,国連における核実験(nuclear testing)と軍縮(disarmament)問 題 では,核実験問題について米ソを区別してアメリカ批判の不本意さを示し,軍縮につ いては,ソ連側に傾斜することなく中立の立場をとる非同盟諸国の対応を高く評価すると 伝えていた。また,植民地主義・南北問題では,インドが世界の植民地支配から解放する ためのリーダーシップを発揮することを促し,国連の実践活動については,米ソの直接対 決のない地域での米印の協力体制を要請している(24)

つぎに,ラオス問題であるが,ケネディは,3月

23

日付書簡でアジア極東経済委員会 の会議出席のためニューデリーに滞在しているウィリアム・ハリマン(William A. Harri-

(19)No. NIACT2238, From D. Rusk to New Delhi Embassy Feb. 18, 1961 in Embtel, No. 1770 Feb. 20, 1961, Reel. 13-0852, J.F. Kennedy National Security Files, 1961-63, Asia and the Pacific, First Supplement, edited by ProQuest History Vault Series, from the Microfilmed Holdings of the JoŠ F. Kennedy Library, Boston, Massachu- setts. (以下,J.F.N.C Files, 1961-63, Supplementと表記)

(20) EmbTel, no. 1775 (Feb. 20, 1961) re. EmbTel, no. 1770. Reel. 13-0852, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(21) No. 54, Memorandum of Conversation between Nehru and Rusk, FRUS, 1961-63, XIX.

(22) Memorandum for R.A. Duncan (White House) by L.D. Battle (April 20, 1961) Reel. 13-0852, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(23) James Goodman ed. [1998] Letters to Kennedy : John Kenneth Galbraith, Harvard University Press, pp.

62-70.

(24)India : Security, Briefing Book Nehru visit, November 1961, JFK POF-118a-011, Papers of JoŠ F. Kennedy, President’s Office Files.

(8)

man)と会談することを勧めている

(25)。ラオス共産主義の影響力が大きくなり,タイ,カ ンボジア,ヴェトナムにも共産主義拡大の危機が迫るなか,ラオスの中立と東南アジアの 安全保障維持のためにインドの協力を期待したのである。3月

22

日と

24

日のウィリアム・

ハリマンとの会談で,ネルーは,共産主義勢力パテート・ラーオ(

Pathet Lao

)との協力 が不可欠であるという認識を示し,活動を停止しているラオス国際監視委員会(Interna-

tional Control Commission for Laos : ICC)の再開は,共同議長を務めているソ連とイギリ

スの判断にかかっていると消極的対応をした(26)。そのため,ケネディは,

4

26

日付けの 書簡で,ソ連の軍事的支援と中国軍の侵攻が継続している現状を鑑み,停戦の兆しが見ら れない場合には,国連安全保障理事会へ提訴する意向であることを訴えたが(27),5月

8

日 付では

ICC

の再編をインドが決断したことへの感謝を伝えるに至った(28)。この一連のアメ リカ側のインドへの要請が強まったのは,東南アジアにおける共産主義拡大への危機感の 表れであった。

最後に経済援助政策についてみると,アメリカの南アジア政策は,軍事的に弾圧する政 策ではなく,外交による解決の傾向が示されている。アメリカからの経済援助が極めて重 要な切り札となっていた。グラフ

1

から明らかなように,

1956

年頃から援助額の急増は,

PL480

による食糧支援と開発借款基金(DLF)による資金援助に起因していた29。インドは,

1957

年以降深刻な国際収支危機に陥った時,アメリカの支援なくしてはどん底から脱却 することは不可能であった。第

2

次インド五カ年計画の

4

年目と

5

年目のみならず,次の 第

3

次インド五カ年計画も当初から対外援助の支援を前提として,その大半をアメリカの 経済援助を見込んでいた。1961年

2

8

日,ワシントンにおいて国務次官(経済問題担当)

ジョージ・ボール(

George W. Ball

)らは,インド経済問題担当(のちに駐米インド大使)

B.K.

ネ ルー(Braj Kumar Nehru)と対インド援助を協議した(30)。B.K.ネルーは,① 原則として援 助枠の一定水準までアメリカが第

3

次五カ年計画を支援すること,② ノン・プロジェク ト援助への支援を拡大すること,③ ひも付き借款でないこと,④ アメリカ総援助額の約

1/3

以上をインドが占めることなど,露骨なアメリカ依存を交渉している。これは,イン

(25) N.2613NIACT, From D. Rusk to New Delhi (March 23, 1961), Reel. 13-0852, J.F.N.C Files, 1961-63, Supple- ment.

(26) No. 12, Telegram from Embassy in India to Department of State (March 24, 1961), FRUS, 1961-63, South Asia, XIX.

(27) NIACT3040, From D. Rusk to New Delhi (April 26, 1961), Reel. 13-0888, J.F.N.C Files, 1961-63, Supple- ment.

(28) Telegraph from J.F. Kennedy to J. Nehru (May 8, 1961), Reel. 13-0888, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(29) アメリカ援助体系と趨勢については,渡辺昭一[2017]「冷戦体制下における国際開発援助体制

とアジア: 1950-60年代の趨勢」『ヨーロッパ文化史研究』(東北学院大学)第18号を参照。

(30) No. 3, Memorandum of Conversation, Feb. 8, 1961, FRUS, 1961-63, South Asia, XIX.

(9)

ドがインドの経済発展支援国としてイギリスからアメリカへ完全にシフトしたことの表わ れであった。これに対して,ジョージ・ボールは,アメリカの対外援助が議会決議に基づ く単年度決算であるため,長期的関与に関して確約はできないとしながらも,対外援助戦 略との関連で可能な限り支援することを約束した。表

1

のように,4月

25〜27

日のイン ド援助コンソーシアムにおいて,次の

2

年間約

10

億ドルを拠出する意向を表明したが,

他のドナー国からの支援額が目標額に達しなかったことをケネディに報告している(31)。こ の状況を伝えられたネルーは,第

3

次五カ年計画の最初の

2

年間に

10

億ドルの経済援助

PL480

による小麦とコメの支援が約束されたこと,およびインドの為替危機を克服する

ためのノン・プロジェクト援助が認められたことに深く謝意を表している(32)。ケネディは,

5

18

日,アメリカの経済援助の条件を伝えるために,ジョンソン副大統領をインドに

(31)No. 14, Memorandum from G.W. Ball to Kennedy April 19, 1961, FRUS, 1961-63, South Asia, XIX ; No.

18, Memorandum from G.W. Ball to Kennedy May, 1961, FRUS, 1961-63, XIX.

(32) No. 19, Letter from Nehru to J.F. Kennedy (May 13, 1961), FRUS, 1961-63, South Asia, XIX.

0 100 200 300 400 500 600 700 800 900

1950 1952 1954 1956 1958 1960 1962

アメリカの対インド援助総額の趨勢 (単位:$100万) グラフ1

典拠: App.1 Aid to India, Reel.14-710, J.F.N.C Files,1961-63, Supplementより作成    R14-710-PDF105

(10)

派遣し,軍事支援では共産主義の膨張を防げないことと,アメリカ議会が経済援助額を決 定する権限を持っていることの事情を説明させたが,その後の書簡でインドが西側の一員 としての覚悟を示したことを評価し,アメリカ議会に対する対インド援助の承認要請と他 の援助国への支援交渉を行っていると,ネルーに伝えている(33)

3. ケネディ・ネルー会談に向けた資料の準備

(1) 国務省による会談に向けた案件の検討

ケネディが,ネルー訪米に関する資料の提供を国務省に求めた時,国務次官補(近東・

南アジア問題担当局)フィリップ・タルボットは,以下のような内容をまとめている(34)。 今回の訪米は,アメリカ側からの要請であるため,ネルーは世界の指導者としてのアメリ カに期待をするという対応にとどめるであろうと推測された35。アメリカ側から協議を要

(33) No. 3415, Telegraph from Department of State to New Delhi (May 25, 1961).

(34) India : Security, Briefing Book Nehru Visit, November 1961, Kenedy Library (Identifier : JFK POF- 118a-011). また,J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement 内の Reel. 14-0710 : Subject, Nehru Briefing Book,

November 6-9, 1961(以下引用する際には,R14-0710と略記)も参照のこと。両資料は,互いに補

完関係にあり,後者の史料群は豊富な内容を含んでいる。

(35) このようなネルーの対応について,ガルブレイスからタルボットに報告されていた。ネルーの関 1

 1961年開催のインド援助コンソーシアムにおける拠出分担金  (単位: $100万)

インド パキスタン

1961年度 1962年度 1961年度

カナダ 28 28 56 18

フランス 15 15 30 10

西ドイツ 225 139 364 25

日本 50 30 80 20

イギリス 182 68 250 19.6

アメリカ 545 500 1,045 150

世界銀行・IDA 250 150 400 77.4

総計 1,295 930 2,225 320

パキスタンについては,次のコンソーシアム会議で,1961/62,1962/63をま とめて協議予定。ドイツのインド援助については,1963〜1966年度に$61m.

の追加予定。

アメリカの援助額は,その他の援助国の申請額に応じて変更された。

典拠: JFK POF-123-009, Papers of JoŠ F. Kennedy, President's Office Filesより作成。

(11)

求するテーマは,ベルリン問題,ラオス問題,核実験問題,国連における米印協力関係,

自由主世界の防衛のためのアメリカへの支援要請,印パ関係などになり,アメリカがイン ドの長期的発展にとって必須の強力な国家であり,平和に向かうインドを支援するという アメリカの意向を強調することになろう。ネルーの性格を考慮すれば,会談の入り方を慎 重に対応することが望ましく,コンゴへのインド軍派遣に対する謝意を述べるなど,米印 共通のテーマから会談に入り,次にベルリン問題に関するソ連の対応を尋ねることが望ま しいであろうと助言している。特にインドの協力を必要とする東南アジア問題については,

中国の南下がインドの国境まで到達すると,インドの安全保障を脅かすことになり,東南 アジアにおける安全保障の確保がいかに大事であるかを訴えることが必要であると示唆す べきである。もしインドが指導的役割を果たすのであれば,かつてのイギリスのごとくア メリカが後ろ盾となることを強調すべきであろうと助言している。ただ他のテーマとして 核実験問題を取り上げるべきであるが,カシミール問題は深入りすべきでないことを補足 している。この報告は,駐印大使館,中央情報局(CIA)などからの情報をもとにまとめ られており,国務省およびホワイトハウスの資料作成の大きな情報源となっていた。

以上の米印関係の現状や国務次官補の情報を踏まえて,国務省は,ケネディの情報とし て以下のように取りまとめた36。まず,既に確認した内容のように,会談に臨む姿勢に言 及している。アメリカにとって会談の目的は,国際問題においてネルーがアメリカに追従 し積極的な役割を果たすよう促すことであるが,インドにとっては,国際社会に対するケ ネディのリーダーシップとしての資質や覚悟を確認するためであろうと推測される。なぜ なら,アメリカに何ら要望が示されないであろうから,会談の成功如何はケネディの対応 次第ということになる。そこで,ベルリン問題,軍縮・核実験問題,国連問題,非同盟問 題など共通の外交話題から始めることが望ましく,その後インド外交問題に移り,① ア メリカとの関係,② 印パ関係,③ 印中関係,④ 印ソ関係,⑤ 印ポルトガル関係,⑥ ラオス・ヴェトナム問題に言及することが望ましいと述べている37

まずベルリン問題について,アメリカの現状維持方針は,ネルーが東西冷戦の緊張への 懸念からベルリンやドイツに関心を持ち,現在の二つのドイツという状況を認めているた め,理解を得られやすい。軍縮・核実験問題については,インドは,いかなる核実験にも 心は,ケネディが米ソ冷戦体制においてソ連の対外膨張の意図,軍縮の戦略的目的,開発途上国の 社会的発展の優先を視野に入れているかどうか,また,共産主義諸国に対する国務省や国防総省の 伝統的考え方を引き継ぐなか,今後世界のリーダーとしてどの程度活躍できるかを見極めることに ある点を強調した。Minute from Harry A. Rositzke to Galbraith, JFK POF-118a-011.

(36)O-A scope paper : 1. US objectives 2. Indian objective, JFK POF-118a-011.

(37) O-A scope paper : 3. Indian Foreign Policy, Reel. 14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(12)

反対は言うに及ばず,一時的核実験停止(unverified moratorium)と軍縮による核コントロー ルの必要性を提唱しているが,軍縮と核実験禁止のための明確な方法を明示しておらず,

国連では英米が提案する核実験禁止協定よりも一次的実験停止を優先する提案をしてい る。先週のソ連の核実験再開に鑑みて,実験のモラトリアムは意味をなさないという考え に納得していないから,核実験禁止に向けた有効かつ実践的方法を認識させる必要がある。

また,国連問題については,インドは国連を新興弱小国が自らの意見を述べることを可能 とする最も重要な機関として認識し,国連活動を支援している。よって,アメリカは,非 同盟について米ソの直接対決を避けるための国連軍の活動であることを踏まえたインド軍

5000

人のコンゴ派遣については謝意を伝えつつ,米ソの対立による戦争回避や国連の活 動を維持するために非同盟の中立的立場の有効性を示唆すべきであると助言している。

さて,インドの外交問題についてみると,まず米印関係について,米パ地域防衛協定な ど冷戦構造に起因する立場の違いがあるものの,ここ数年間著しく改善しており,とりた てての懸案事項はないため,インドは,アメリカの役割を一定程度評価していると考えら れる。アメリカもまたアジア・アフリカ諸国の中立主義的態度に理解を示してきた。相互 に自由主義国家の自由の防衛,国民の日常生活改善という共通認識がある。アメリカは,

3

次インド五カ年計画に

1962

年度と

1963

年度に合わせて

10

4500

万ドルの援助を行 う予定でいることから,ネルーに対してアメリカの米印関係重視を認識させるべきである と。

隣接するパキスタンとの関係については,インドは,アメリカの対パキスタン軍事援助 に一定の理解を示しているが,パキスタンの軍事的拡大に脅威を感じている。背景にある カシミール問題については,アメリカとしては,両国の経済発展と自立維持のために支援 していることを認識させ,カシミールに対するネルーの考えを引き出すべきである。同じ く地域紛争をはらんでいる中国との関係について,中国共産党(中共)のチベット動乱に 対する無意味な弾圧,ダライ・ラマ(

Dalai Lama

)の逃亡,中国軍によるインド国境越え が生じており,これまでの平穏な中印関係はターニングポイントを迎えている。インドが ますます北部国境防衛へ関心を高めるであろうから,アメリカは,中国のアジアでの侵攻 を防ぐために,インドの軍備拡大を支援する必要があろう。ポルトガルとの関係では,イ ンド内ポルトガル領ゴア,ダーマン(Daman),デゥ(Diu)について,インドは,植民地 支配から解放しインドに併合する動きを見せているため,その対応を迫られようと。

共産主義陣営ソ連との関係について,インドは非同盟政策の展開中にソ連との友好関係 を築こうとしている。それは,潜在的な相性というよりも計算づくの自己権益に基づくも

(13)

のと思われる。インドは,ソ連からの経済援助を受け入れ,対中国境問題でソ連が中立の 立場をとることを歓迎している。アメリカとインドの立場の相違をはっきりさせたうえで,

核実験停止などの特別な問題検討のための前哨戦として対ソ外交についての意見交換をす るのが望ましいと助言している。

最後に東南アジア問題について,アメリカのラオスおよび東南アジア政策(特にラオス の中立的立場を支援)を共有し,ICC議長職にあるインドの立場を強化することをネルー に要請すべきである。タイラー報告書(

Taylor Mission

(38)及びアメリカ国務省の見解(ヴェ トナムにおいては熱戦が展開されたという)に照らして,ヴェトナム情勢を協議すべきで あろうとまとめている。

2) ケネディに対する会談資料(39)

ホワイトハウスは,以上のような国務省の情報をもとに,ケネディが会談で取り上げる 可能性があるテーマを整理して最終的な資料を準備した。この資料は,当時の米印を取り 巻く国際情勢についてケネディ政権側が懸念していた内容や思惑が示されているため,興 味深い情報を示している。以下,会談への臨み方を確認し,次にケネディが会談での協議 を希望する案件および留意すべき案件,さらにネルーが取り上げる可能性のある案件を確 認し,最後にその他について検討する。

A. ネルーへの対応について

ホワイトハウスもまた,国務省と同じように,ネルーとの会談に入る方法について慎重 を期している。ネルーにとって今回の訪米は,特別の結果を求めることなく,ケネディの 考えを知ることに重きを置いているため,聞き役に徹するはずであるから,世界情勢に関 するアメリカの対応について述べることから始めるのが望ましい。アメリカがいかに対応 に苦慮しているかを示せば,ネルーの考えを引き出せるであろう。大統領が世界の指導者 としての役割を見極めるはずである。なぜならネルーの思いは世界戦争の恐怖とその回避 の仕方にあるから,大統領から聞き出したいことは,軍縮,核実験,ベルリンに対するア メリカの対応についてであろうと推測される。他方,アメリカは,ソ連及び共産主義体制 へのネルーの考え方,さらには,ラオス及びヴェトナム,植民地主義(特にポルトガル領

(38) 19615月,ジョンソン副大統領は,南ヴェトナムを訪問してディエム大統領と協議し,彼より アメリカの戦闘部隊の投入を要請された。ケネディの特命により,10月にはテイラー将軍(Maxwell

Taylor)(国防総省の顧問)とW.W.ロストウ(国家安全保障担当顧問)による査察のために,ディ

エム大統領と会談した。1111日にアメリカの積極的な軍事支援を促す報告書が提出された。

General Maxwell Taylor’s Mission to Vietnam by Peter Kross, Kennedy Library.

(39) NIN D-13, President’s Talking Paper, JFK POF-118a-011.

(14)

に関連)への姿勢を確認することになる。カシミール問題についてはあえて触れないだろ うが,希望すれば話題にしてよいテーマとなろう。他に,アメリカとして問題にしたいテー マは,国連における米印協力関係のありかた,および国連における中国の代表権問題,ネ パール,米印関係となろうと示唆している。このような方針は,ほぼ国務省の指示に従っ たものになっていることがわかる。

ネルーの考えを見極める最初の一歩は,国際情勢をにらんだ新たなアメリカ外交を期待 しているはずであるから,就任演説で宣言した対ソ関係の改善に向けた交渉方針に準じる ことである。そこで,ベルリン解放の努力を続けてきたがいまだソ連と決着がつかないの はソ連側の対応にあるとの立場を示し,ソ連が歩み寄りを見せない理由についてネルーの 考えを引き出すべきであろう。核実験について,アメリカは,ソ連に対して核実験禁止協 定の締結と有効な管理下での完全な軍縮計画の交渉を進める用意があることを伝えてきた が,過日ソ連が核実験を再開したという事実を踏まえて,一時的核実験停止(モラトリア ム)では今後の実験を制御できない懸念からインドの考えを受け入れない立場を説明すべ きである。

次にアジア外交では,対中国境紛争について,中国との緊張緩和が望ましいものの,中 国の干渉が強まったネパールに対するインドの特別の関心に理解を示し,ネパールがより 強力な軍事力を必要としている体制にネルーが同意するかどうかについての意見交換を続 けるべきである。また,ラオスについては,東南アジアにおける中国共産主義の拡大危機 に直面しているなか,中立を保っているラオスが焦点となるため,ICCの活動を問題にす べきである。北ヴェトナムの攻撃に晒されている南ヴェトナムに関しては,ジョンソン副 大統領の訪問およびテイラー・ミッションの結果について協議すべきであることを強調し ている。

米印関係については,開発途上国アジア地域におけるネルーのリーダーシップの重要性 をネルーも自覚しているし,アメリカもそれを承知している。ゆえに,アメリカは,イン ドの経済発展に対する支援を行ってきていることを強調すべきである。パキスタンとアメ リカの関係とそれに対するネルーの反応などを考えると,印パ関係やカシミール問題につ いても話題に上る準備をしておく必要があると示唆している。

B. ケネディの協議希望の案件

アメリカ側から協議を持ちかけたいものとしてホワイトハウスがまとめたテーマは,国 際情勢,国連(中国代表権とインドの役割),軍縮・核実験,東南アジア(ヴェトナム,

ラオス),米印関係であった。

(15)

まず国際情勢についてみると(40),ネルーがアメリカ訪問に続いてメキシコを公式訪問

(14日〜17日)する予定でいるため,事前にアメリカの対ラテンアメリカ政策の基本方針 を説明しておくことが望ましいとしている。メキシコは,西側の一員としての立場を表明 し,主要産業を国有化した混合経済の形態をとり,ラテンアメリカにおいて最も高い経済 成長率を示している国であること,アメリカは「進歩のための同盟(Alliance for Prog-

ress)」を結び,ラテンアメリカ諸国の自立に向けての経済援助を実施する方針であること

を示すべきである。ソ連の影響力の強いキューバについては,もしネルーがキューバに言 及すれば,ソ連体制の下でのカストロ政権は,経済的困難からテロリズムの拡大を引き起 こしており,アメリカは

1

週間当たり

100

人の難民を受け入れている窮状を伝えるべきで あろう。

アフリカについては,脱植民地化が問題となる。ネルーがポルトガル領植民地に強い関 心を示していることから,アンゴラとの関係で議論してくる可能性がある。アメリカはこ こ

8

ヶ月ほど国連安全保障理事会やアメリカ国連大使スチィーブンソン(Stevenson)を通 じて,植民地の独立を段階的に支援することをポルトガル政府に求めてきたが,国連での 表面的勝利よりも実質的解決を見出すことが重要と考えていると示すべきである。コンゴ については,アメリカが国連決議に従い,英,ベルギーの軍事介入とカタンガの分離に反 対し,国連の軍事力の強化を支援してきたいきさつを説明することが望ましい。インド軍 の派遣により問題の解決に向けての一層の米印協力関係を推進すべきであると。

国連関係では(41),国連における代表権を中共 (中華人民共和国)と台湾(中華民国)の いずれかにするかに関して,アメリカは,インドがこれまで中共に強く反対してきたアメ リカの意向を十分認識していると理解している。朝鮮戦争時に国連軍によって多くのアメ リカ兵が殺害されたことを忘れてはいない。現在中国軍がチベットに侵攻しているし,台 湾海峡域においても軍の撤退の兆しがない状況で,中国の国連代表権の要求には応じられ ないとの立場を示すべきである。中共による国連代表権確保によって,中国の膨張主義を 世界が認めていると認識されかねないためである。よって,国連におけるインドの影響力 を駆使して中共代表を支持しないことを要請すべきである。また,国連でのインドの役割 について42,今後

10

年間の国際平和と安全保障の維持に向けた国連の活動は,アメリカ にとってもインドにとっても重要である。米ソの対立した案件にインドがアメリカの提案 にたびたび拒否したことはあったが,国連をめぐるアメリカとインドの対立は米印関係を

(40)B. Review of the International Situation, R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(41)F. Communist Chinese Representative in UN. R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(42) O. India’s Role in UN, R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(16)

悪化させ大きな損失となるため,アメリカは米印対立を望んでいない。協調関係こそが国 連の意義を確認できると示唆すべきである。他方,インドは,非同盟政策の実施を前提に 国連決議の際開発諸国の総意に従う方針をとり,集団的安全保障の強化には反対の立場を とっている反面,レバノンやコンゴ活動については国連を支援している。ここ

3

年の国連 総会における決議に関するインドの対応を見ると,第

13

回年次総会では,(米支持─5,

ソ連支持─47,棄権

27),第 14

回年次総会では(米支持─9,ソ連支持

56,棄権 12),第 15

回年次総会では(米─

2

支持,ソ連─

37

支持,棄権─

15

)であった(第

15

回について は表

2

参照)。これは,ソ連寄りの政策を重視するインドの国連代表メノン(K. Menon)

の影響が大きいと推測していた。

インドの立場をもう少し詳しく言及して,インドが非同盟政策をアジア・アフリカ諸国

2 1960年度第15回国連総会における投票結果(一部)

議案 アメリカ インド ソ連

1 Chinese Representaion-US Moratorium Resolution, Oct. 8, 1960 yes no no 2 Cuban Item on US Aggression Proposal Allocate to Plenary, Nov. 1, 1960 no yes yes 3 Ghana Motion Adjourn Debate on Congo Credentials, Nov. 18, 1960 no yes yes

4 Report Endorsing Kasavubu Credentials, Nov. 22, 1960 yes no no

5 Iraq Proposal, re Mauritania, Nov .26, 1960 no yes yes

6 Cyprus Amendment to Resolution on Algeria Calling for Referendum under UN Auspieces, Dec. 19, 1960 no yes yes

7 US/UK Resolution on Congo Supporting SYG, Dec. 20, 1960 yes no no

8 Ghana, India, Yugoslavia Resolution on Congo,Critical of SYG, Dec. 20, 1960 no yes yes 9 Resolution on Congo (Belgian Withdrawal) Operative Paragraph Threat-

ing Sanctions Against Belgium, April 15, 1961 no yes yes

10 Soviet Draft Resolution on Congo : re Covene Congo Parliament within 21days, April 15, 1961 no yes yes 11 Arab Resolution Palestine Refugeees : Paragraph Recognizingn Need of Safegurading Property Rightes, April 21, 1961 no yes yes 12 Mexican Draft Resoluion on Cuban Charges Us Aggresion : Implicit Criticism US, April 22, 1961 no yes yes 13 7-Power Latein American Resolution on Cuba : Operative Paragraph

OAS Responsibility, April 22, 1961 yes no no

14 Afro-Asian Resolution on Congo : Operative Paragraph Requesting SYG

Take Action re Arms Control, April 15, 1961 yes yes no

15 Pakistan & Tunisian Resolution on Congo Financing : Apportioning Cost Among All UN Members, April 22, 1961 yes yes no 典拠 : O. India’s Role in UN, Reel.14-0710, J.F.N.C Files,1961-63, Supplementより作成

(17)

と共有することによってアメリカとしばしば対立したが,特に経済,科学,社会分野にお ける国連の立場に対して十分に評価していると考えている。また,米ソの直接対決が見ら れない分野においては,国連の行政活動を支援している。非同盟政策に固持したが,非介 入政策をとったわけではなく,コンゴ問題に関して,国際連合コンゴ活動(

United Nations Operation in the Congo)に反対し財政的支援に同意していた。国連活動をめぐる米ソの対

立関係の中で,中立的対応により国連機能を支えている。コンゴ動乱初期には国連活動を 激しく非難していたが,悪化した状況に米ソ両国の対立を避けるために,これまでの態度 を変更してインド軍

5000

人程度を国連軍に派遣し,軍事活動を支援するために

180

万ド ルをも拠出していることを評価してもよいであろうと(43)

次に軍縮,核実験について(44),アメリカは,

9

25

日の国連総会で,戦争危機を防止す るために,国連の国際的平和維持によって,国防費の激減をもたらす効率的で完全なる軍 縮プログラムを提案している。これは,ソ連が査察を受け入れないなら何ら効果を発揮し ないし,モラトリアムは秘密裡に破ろうとしている国に有利な時間を与えてしまうだけで あることから,インドのモラトリアム提案には反対し,計画的な核実験禁止条約の締結を 求めている。他方,インドは,世界にとって重要なテーマとして軍縮問題に着目するが,

その解決は超大国米ソ両国の責任であるとの考えから,明確な案を提示しているわけでは ないため,これについても協議の不要を示唆している。

東南アジア問題では,ヴェトナムとラオスを取り上げている。南ヴェトナムでは,特に

1961

年以降ベトコンがラオスを経由した揺さぶりを強化しているため,インドシナが中 共によって共産主義化すれば,東南アジアの国際秩序が不安定になるという事実を共有す べきである。アメリカは,南ヴェトナムの独立を支持し,北ヴェトナムの南下を阻止すべ きであり,そのためにラオス同様にヴェトナムに関しても

ICC

の設立が必要であると強 調すべきである。しかし,ネルーは,南ヴェトナム大統領ディエムをアメリカが支援する 独裁者として認識しているため,アメリカに協力するというよりは,自国の中立的立場を 堅持する方針を示すかもしれないことに留意すべきである(45)。また,ラオス問題は,ケネ ディが最も関心を示しているテーマの一つである(46)。アメリカは,ジュネーブ協定に関し

(43) Attachment III, B. India’s Support of UN as an Institution R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(44) G. Disarmament and Nuclear Testing, 14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(45) H. Vietnam. 14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(46) L. Laos, JFK POF-118a-011. アイゼンハワー政権は,中国と北ヴェトナムの共産主義膨張に対する 防波堤としてラオスを認識していた。当時のラオスは,政治的に3つの派閥が存在していた。アメ リカが支援するポーミ・ノサヴァン将軍(反共),中立主義をとりイギリス,フランスの支援を受 けるプーマ・スーバンナ(前ラオス政権,前首相,王族),共産主義をとるソーファノーヴァロン グ(Souphanouverong)である。アメリカ軍の軍事介入がソ連の反発を招くため,ケネディ政権は,

(18)

て見解の相違があるものの,基本的には共産主義陣営からラオスを防衛し平和の実現をめ ざすという点で,米印間で共通認識を持っていると認識しているが,ネルーは,当事者間 の合意に至った背景や協定に従ってラオス国民が解決を見出すこととするジュネーブ協定 に到達したいきさつを認識していない可能性がある。

ICC

活動の効果について,ネルーは,

インドの影響力というよりも共産主義国と西側諸国の協力如何にかかわっているという一 般的見解を示すにとどまる可能性があると推測している(47)

そこで,ジュネーブ協定によって中立,主権,独立をラオスに保証するためには,

ICC

の十分な権力行使が必要であると主張すべきである。東南アジア諸国での

ICC

活動は,ポー ランド委員の故意の欠席などで協力体制が取れなかったため,ICCの最重要な機能である 査察がこれまで何度も妨害されて十分に活動ができなかった。ラオスの平和解決に向けて

ICC

に対するインドの強固な対応があれば,新

ICC

は十分な役割を果たせると説得すべ きであると,インド側の積極性を引き出すことを促している。

さて,今回の会談で最も重要なテーマである米印関係についてみると48

1947

年以降の 米印関係の概略について,以下のようにまとめている。1947年初頭,アメリカが反植民 地を擁護したわけではなかったが,ヨーロッパ側にたって共産主義に対する弾圧姿勢を示 したことでインドを失望させていると考えられる。また,インド国内においては,戦前戦 中の独立運動を通じて,共産主義を一定程度インド社会に適用可能な社会的正義や経済発 展に必要な哲学としてみなし,容認する傾向があった。反米の緊張が高まったのは,

1954

年の米パ軍事協定によってであり,アメリカの対パキスタン軍事援助が,パキスタンから 共産主義を排除するのではなくインドに対する軍事的優位をもたらしたため,米印関係を 最悪の状態へ導いたと示唆している。

しかし,このように軍事関係が悪化しても,経済分野では協力関係が進展し,アメリカ 軍事的介入の継続ではなく,停戦とラオスの中立による秩序回復を求め,中立派のプーマ(Pathet

Lao)と交渉し,停戦を実現した。しかし,中立派のクーデタにより3派の内乱が勃発した。1961

516日。ハリマンは,ジュネーブ会議(14か国の参加─ソ連,ラオス,中国,北ヴェトナム,

南ヴェトナム,ポーランド,アメリカ,フランス,イギリス,インド,ビルマ,カンボジア,カナダ,

タイ)で主導的役割を果たした。なお,最終的停戦が実現したのは,3派による連立政府の樹立,

ICC(ラオス国際監督管理委員会 (International Control Commission Laos)─インド,ポーランド,カ ナダの代表から構成)の管理下での外国軍の撤退を定めた,196264日のジュネーブ協定によっ てである。

(47) ICCの設置は,1954年ジュネーブ会議によって決められた。しかし,19587月,ラオ政権の 要請により活動の停止し,19614月,イギリスとソ連がラオスの停戦を確認するためにICCの再 開を要求した。ICCはインド,ポーランド,カナダの代表から構成され,議長はインドから選出さ れることになっていた。初代議長にセン(Samar Sen),すぐにシン(Avtar Singh)へ交代したが,

いずれも中立主義を唱える外交官で,西側を支援した。CIA Memorandum : The International Control Commission in Laos 14 Aug. 1961

(48) J. US-Indian Relations, R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(19)

はインドの経済開発のためにこれまで

33

億ドルを支援しており,インドの対外援助額の 約

53%

を占めていた。インドはますますアメリカへの依存関係を強め,インド工業化の 進展に伴ってアメリカから多くの研究者や技術者を受け入れている。よって,会談では,

米印関係の共通点を強調し,相違点は交渉によって解決していく方針を確認すべきであろ うと示唆している。

この米印関係を強化するための協力可能な分野として,対印援助,米印文化交流,平和 部隊について資料が添付されている。対印援助についてみると(49)

1961

年から始まる第

3

次インド五カ年計画の目標は,1976年までの

25

年間に

1

人あたりの実質所得を

2

倍と見 積もっている。これまで五カ年計画に対して支援した額は

33

億ドルにも上り,インドへ の対外援助比率において,アメリカが

53%

と半分以上を占めている。インド援助コンソー シアムにおいて,次の第

3

次インド五カ年計画の最初の

2

年間に対するアメリカの経済援 助額は

10

4500

万ドルで,西側としての援助総額の約

50%

を占め,さらに

PL480

によ り

13

億ドルの余剰農産物の援助を行う予定になっていることを承知しておく必要がある。

次に,米印文化交流(50)

であるが,アメリカは,第一次世界大戦後以来インド研究者を

受け入れ始め,現在アメリカの教育機関に

5400

人ほどが滞在している。受け入れ支援方 法は,政府プログラム,フルブライト,文化交流,特別プロジェクト の

4

つの方法がある。

政府プログラムは,国務省がインドの教育システムの強化と両国の相互理解を深めるため,

アメリカの教育機関で学ぶ学生への奨学金,インドへ派遣する専門家への補助などを行う ものである。フルブライトは,PL480の収益金を利用して,毎年

100

万ドルの予算が組ま れている。アメリカ合衆国広報文化交流局は,バンガロール,ボンベイ,カルカッタ,ハ イデラバード,ラクナウ,マドラス,ニューデリーなどに開設され,おもにコンサート,

映画,展示などを行っている。さらに,特別プロジェクトとして,インド問題研究アメリ カ研究所(American Institute of Indian Studies)〔15の大学等加盟〕が 米印両国の専門家の 交流を促し,インド社会の研究を発展させるインド言語・文化に関するアメリカ研究者の 養成,1961年緊急食糧援助法(Emergency Food Act)による返済利子

500

万ドルをインド の大学教育とインド研究機関を強化する目に流用する小麦借款プログラムの実施,国務省 が米印両国の農民の交流を目的とした民間プログラムがある。このほか,フォード財団や ロックフェラー財団などが約

30

の民間機関に対して支援している。また,インドにおけ る平和部隊について,

1961

5

月平和部隊の議長サージェント・シュライヴァ(

Sargent

(49)App. 1. App1 Aid to India, R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

(50) APP. 2. Cultural Exchange between USA and India, R14-0710, J.F.N.C Files, 1961-63, Supplement.

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