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伊藤正義先生遺稿「注釈の行衛

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Academic year: 2021

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全文

(1)

はじめに

  伊藤正義先生ご逝去の後、二編の未完草稿が遺された。これは、古典芸能研究センター紀要に掲載予定だった論考のために準備されていたものであった。翻刻のみが遺された一編は、大谷節子氏「『文化十四年幸橋勧進能仕様留帳』解題と翻刻」として号に掲載された。本号では、もう一編の遺稿を紹介する。

  草稿は、A4版の洋紙に鉛筆で書かれた文章と、書き入れのある。て、関連史料や図版のコピーなどと一緒に封筒に入れられていた。草稿とともに入っていたのは、後掲する図版類各種の他に、近世初期の建築書『愚子見記』「四、諸寺社」「五、屋舎城郭」の「五 舞台の事」のコピー、現在の京都御所に関する新聞記事の切り抜き、先生のご指示によって大山が作成した年表などである。は、名「  をめぐって―」が鉛筆で記されている。そもそもの題名は、副題の「永禄二年の禁裏御能をめぐって」のほうであった。後述するように、本論でとりあげられている未紹介史料について「永禄二年卯月内裡御能拝見記」と題する文章の断片も遺されている(

71

伊藤正義先生遺稿「注釈の行衛―永禄二年禁裏御能をめぐって―

大山

  範子

段・

思う。 の、 生はとても嬉しそうに仰っていた。注釈に関わる業績を多数残さ りになった年の晩秋、病床で思いつかれたもので、そのことを先 37)。た「は、

  稿未紹介の史料を翻刻紹介し、すでに知られている『殿が、に入る前で途切れている。

  禁裏能は内裏のどこで演じられていたのか、また、どのように演じられていたのか――こうしたことは、とりわけ江戸期に至るまでについては、充分に論じられているとは言い難い。しかしながら一方では、周知のごとく、一九八〇年代後半以降、中世末の京都のありようについての歴史研究はめざましい進展をみせている。そうした研究成果をもふまえ、また、この未紹介史料がきっかけともなって、あらためて当時の禁裏能の検討をとお考えになったのであろうか。

(2)

  ご論考「宝暦期の四座御役者」は、御用役者のいわ家格を記したもので、役者の実態の一面を示す資料であった。そして、未完のまま遺された二本は、勧進能の舞台造りの仕様書に関する考察と、禁裏御能の見聞記各種の総合的検討であった。こうして並べてみると、どれも、演能の「場」をめぐる状況を立体化すべく準備されたものではなかったかと推測されるのである。

  なお、この未紹介史料について、伊藤先生は「琴堂文庫本らしい」としておられるが、調査の結果、同文庫では該当書を確認できなかった。そのため、現在のところ所在不明のままである。(調査の経緯その他については、注(

37)をご覧いただきたい)

 〔附記〕鹿調 【凡例】は、稿に、下段に掲げた。稿が、し、名は二重括弧に入れるなど、書式はできるだけ統一した。稿中、

必要と思われるものは末尾に掲載した。 稿か、ち、 大山が補ったものである。 66は、

…伊藤要太郎校訂『匠明』(鹿島出版会、一九七一年)所収、殿』「殿で、図。遺された指示に従い、できるだけ忠実に作成し直した。図2の原図。東京大学蔵『匠明』五巻のうち『殿屋集』「禁中御殿当代之図」(前掲書より転載)…「」『十八日条(『大日本史料』第七編之五所収)「康正内裏指図」『京都御所東山御文庫記録』丙九(『大日本史料』第九編之八所収)蔵「扇中央部分「内裏図(新院様)( 『京雀』巻第一「大内裏の事」挿絵)

(3)

〈遺稿〉注釈の行衛  ―永禄二年禁裏御能をめぐって―

一、

  著『は「で、期を分って基本資料の記事を掲げ、その特徴を論じられている。即ち、

  (イ)後奈良天皇御在位中の宮廷猿楽については、一年に一回

で、も、谷・楽、で、かり、特に寵をうけた猿楽もないようだとされる。

  で(中、は、で、廿ず、て、の、は、り、れ、は、十二日(『御湯殿上日記』)、永禄六年三月十三日(『言継卿記』)、永禄七年十月廿二日(『御湯殿上日記』)、永禄十年四月十四日(『言継卿記』)の四回の記事が示されている。

  『能楽源流考』はそれが行われたことの確認を示せ

足るのでが、は、る。す『殿る(仮名書。私意により適宜漢字を宛てた)。 【注】

掲載の天文四年条『言継卿記』の記事は、天文六年当日) い( れ、後、 1) 

適宜漢字を宛てている。 補遺三」『お湯殿の上の日記』による。注の引用も同様に、 2) 以下の引用本文は、続群書類従完成会刊「続群書類従本 み、た。 は、 日、が、 さらに中務職の兼帯も要求していた。幕府はこれを認め、 て、り、)、 り(も「 が、 た。は、 で、 久。殿 は、 らるゝ」)、この記事は惣官職の争奪に関わることらしい。 る。   が(廿し。 に「 稿は、殿廿 (『言継卿記』天文二十二年七月二十日条ほか)であった。 々、殿る「殿 中務)のうちの一人である伴左衛門の意か。伴左衛門は、 3) 「大工半左衛門」で、禁裏御大工四職(惣官伴左衛門木子

(4)

七日。  九日の舞台張りまいらする。御大工は左衛門(以下略)日。  候。殿荷。る。笠一折。日。  る。て。ひ候事にて候。(略)日。て。り。る。言。み。臣。御相伴竹内殿。前内府。菊亭左大将。はれすゑ。き。り。番。候。ゝ。て。馬。申。殿いる。

日。て。ゝ。る。(略)廿四日。三好より十二日御能時の御馬の代三百疋まいる。

     二、

  て、 め、み、た。に、は、ず、回。日、めて惣官に任じている。  は、氏、工のありようについては、横田冬彦氏に論考がある。【参考文献】。

の造営以後は別殿となる)。詳細は後述。 4) は「殿た( )。代々、禁裏大工を総括する立場にあった木子家は、 」)。「つ( 俄に御能あり」)、十六日に舞台が撤去されたらしい(「舞 」)れ( 止( り。る。は、 相、ゝ。子(本「」) に「ゝ。 か、 は、条「 せらるる」と見えるが、ほかに詳しい記事はない。 に「 日「出、 は、 る。殿 5) る『殿は、

(5)

る。殿し、は、殿る。が、

  (永禄二年四月)

五日  天晴

  (略)一、来九日申沙汰為献料長橋局へ十疋進之、

    (略)七日  天晴一、之、内、大工共祗候、舞台楽屋以下沙汰之、前内府入道相・姿臣・候、楽、殿也、

    候、予・

仲代、・経元等也、八日  天晴一、今朝尚清涼殿調之、番衆三人也、辰下刻退出了、一、土器物二鯛コサシ、ノリ、長橋局迄進上了、明日申沙汰之儀也、   (略)一、使之、々、無之云々   事「い、殿た。は、殿る。か例をあげる。天正八年閏三月二十五日  能舞台、よく木子す。し(郎、」)のためで、二十八日には木子が舞台を撤去している(「今日、舞台、木子取り置く」)。天正九年九月三十日く。行、前、馬監なり。天正九年十月一日  今日舞台敷く。奉行同じ。は、れ(日、…、孫、者、」)る(く。工、守。」)殿れ(条「に、殿」)天正九年十月十日く。郎、なり。両奉行の者つれてさす。天正九年十月十一日郎、郎、る。行同じ。

(6)

  (略)九日  自丑刻小雨、終日雨降、自酉刻晴、四月中     (略)十二日  天晴、申刻小雨降

     一、今日内裏内外衆申沙汰猿楽有之、大夫淀之者廿才計也。座衆、三好内衆伊勢守内衆上下京衆澤路隼人佑

高倉内  窪新右衛門尉以下四十余人有之、花・盛・宮・寺・寺・木・若・衣・士・狗・慶・士・木・藤戸・呉服等也、次第不同、

衆、方、宮・人、殿・殿・参、殿伴、也、臣、  之、元、房、臣・也、臣・経朝臣勲之、御酌五献公陸朝臣、六献左大将、七ヽ天酌、八献入江殿、九献右大将等也、殿・殿・殿参、予・永相朝臣・言経朝臣等召出有之、之、位・路前大納言・予・永相朝臣等参、召出有之、位・言・予・出、駿之、 職(で、調れ、い。に「殿」、)、殿殿)。

  、「」()「」()、「、座」()、

」(

6) 以下の本文は、続群書類従完成会刊『言継卿記』による。

継卿記』)」とする。 条烏丸で勧進能を興行している「淀之物」であろう(『言 は「 』【る。 7) 蔵『 三好に対する禁裏側の態度の変化の現れでもある。 三好長慶(筑前守)を初めて召して酒餞を賜った催しで、 8) は、   この日の大夫は「淀之者」で、その座衆は「三好内衆衆・衆・佑・

参照

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