はじめに
伊藤正義先生ご逝去の後、二編の未完草稿が遺された。これは、古典芸能研究センター紀要に掲載予定だった論考のために準備されていたものであった。翻刻のみが遺された一編は、大谷節子氏「『文化十四年幸橋勧進能仕様留帳』解題と翻刻」として4号に掲載された。本号では、もう一編の遺稿を紹介する。
草稿は、A4版の洋紙に鉛筆で書かれた文章と、書き入れのあるコピー類二十枚ほどからなる。これがクリップでとめられて、関連史料や図版のコピーなどと一緒に封筒に入れられていた。草稿とともに入っていたのは、後掲する図版類各種の他に、近世初期の建築書『愚子見記』「四、諸寺社」「五、屋舎城郭」の「五 舞台の事」のコピー、現在の京都御所に関する新聞記事の切り抜き、先生のご指示によって大山が作成した年表などである。封筒の表には、本論の題名「注釈の行衛 ―永禄二年禁裏御能をめぐって―」が鉛筆で記されている。そもそもの題名は、副題の「永禄二年の禁裏御能をめぐって」のほうであった。後述するように、本論でとりあげられている未紹介史料について「永禄二年卯月内裡御能拝見記」と題する文章の断片も遺されている(
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伊藤正義先生遺稿「注釈の行衛―永禄二年禁裏御能をめぐって―」
大山
範子
頁下段・注
思う。 れた先生ならではの、「注釈」に対する思いのこもった題名だと 生はとても嬉しそうに仰っていた。注釈に関わる業績を多数残さ りになった年の晩秋、病床で思いつかれたもので、そのことを先 37参照)。本題となった「注釈の行衛」は、お亡くな
本論の内容は、永禄二年四月十二日に催された禁裏能についての考察である。草稿では、当日の禁裏能の見聞記を含む短い未紹介の史料を翻刻・紹介し、すでに知られている『御湯殿上日記』と『言継卿記』の同日条の記事と比較するが、具体的考察に入る前で途切れている。
禁裏能は内裏のどこで演じられていたのか、また、どのように演じられていたのか――こうしたことは、とりわけ江戸期に至るまでについては、充分に論じられているとは言い難い。しかしながら一方では、周知のごとく、一九八〇年代後半以降、中世末の京都のありようについての歴史研究はめざましい進展をみせている。そうした研究成果をもふまえ、また、この未紹介史料がきっかけともなって、あらためて当時の禁裏能の検討をとお考えになったのであろうか。
振り返ってみると、本センター紀要2号に掲載された先生のご論考「宝暦期の四座御役者」は、御用役者のいわば家格を記したもので、役者の実態の一面を示す資料であった。そして、未完のまま遺された二本は、勧進能の舞台造りの仕様書に関する考察と、禁裏御能の見聞記各種の総合的検討であった。こうして並べてみると、どれも、演能の「場」をめぐる状況を立体化すべく準備されたものではなかったかと推測されるのである。
なお、この未紹介史料について、伊藤先生は「琴堂文庫本らしい」としておられるが、調査の結果、同文庫では該当書を確認できなかった。そのため、現在のところ所在不明のままである。(調査の経緯その他については、注(
37)をご覧いただきたい)。
〔附記〕図版の掲載をご許可くださいました、鹿島出版会、米沢市上杉博物館、および資料調査に御協力を賜りました彦根城博物館、彦根市立図書館に心より御礼申し上げます。 【凡例】・掲載にあたっては、伊藤先生の草稿を上段に、大山による註を下段に掲げた。・草稿をそのまま活字化しているが、明らかな誤脱は訂正し、書名は二重括弧に入れるなど、書式はできるだけ統一した。・草稿中、
必要と思われるものは末尾に掲載した。 ・草稿中に配置された図版二枚のほか、添えられた図版のうち、 大山が補ったものである。 66頁以降の引用記事のうち冒頭に○を付したものは、
・図1…伊藤要太郎校訂『匠明』(鹿島出版会、一九七一年)所収、『殿屋集』「禁中御殿当代之図」のトレースで、翻印用の図。遺された指示に従い、できるだけ忠実に作成し直した。・図2…図1の原図。東京大学蔵『匠明』五巻のうち『殿屋集』「禁中御殿当代之図」(前掲書より転載)・図3…「応永内裏指図」『福照院関白記』応永九年十一月十八日条(『大日本史料』第七編之五所収)・図4…「康正内裏指図」『京都御所東山御文庫記録』丙九(『大日本史料』第九編之八所収)・図5…米沢市上杉博物館蔵「洛中洛外図屏風」右隻第五・六扇中央部分・図6…「内裏図(新院様)」( 『京雀』巻第一「大内裏の事」挿絵)
〈遺稿〉注釈の行衛 ―永禄二年禁裏御能をめぐって―
一、
能勢朝次著『能楽源流考』の第十章は「宮廷猿楽考」で、時期を分って基本資料の記事を掲げ、その特徴を論じられている。即ち、
(イ)後奈良天皇御在位中の宮廷猿楽については、一年に一回
若しくは二回位で、行われない年も相当に多い(1)。参上の猿楽も、渋谷・近江小猿楽、上京小猿楽等で、其他に素人猿楽があるばかり、特に寵をうけた猿楽もないようだとされる。
次いで(ロ)正親町天皇御在位中、永禄年間より天正八年頃までの二十余年間は、従来に比して猿楽の催される事の最も僅少な時代で、廿余年間に僅に九回に過ぎず、しかも宮中に於ける謡の会の回数は毎年十回乃至二十回づつに上っていて、それは猿楽の代りに充てられたもの、天正九年以後再び盛に行われるに到るのは、織田氏の皇室尊崇により、禁裏御料の増加を見た結果だろうと論じられ、永禄年間の催しは、永禄二年四月十二日(『御湯殿上日記』)、永禄六年三月十三日(『言継卿記』)、永禄七年十月廿二日(『御湯殿上日記』)、永禄十年四月十四日(『言継卿記』)の四回の記事が示されている。
『能楽源流考』はそれが行われたことの確認を示せ
ば足るのであるが、それに到る実際の経過については、場合によっては何日にもわたる詳しい記事が見られることもある。永禄二年の催しについて記す『御湯殿上日記』には次のように見える(本文仮名書。私意により適宜漢字を宛てた(2))。 【注】(
( 掲載の天文四年条『言継卿記』の記事は、天文六年当日)。 四年間は猿楽の催しは行われていない(『能楽源流考』 二十七日に行われ、その後、天文六年二月十九日までの 1) 後奈良天皇の御代始の猿楽は即位四年目の享禄三年正月
( 適宜漢字を宛てている。 補遺三」『お湯殿の上の日記』による。注の引用も同様に、 2) 以下の引用本文は、続群書類従完成会刊「続群書類従本・ てくることを拒み、認めなかった。(結局は翌三年八月 に対して禁裏側は、幕府御大工が禁裏大工職に進出し 五月二十日、朝廷に書状で綸旨の発給を迫ったが、これ さらに中務職の兼帯も要求していた。幕府はこれを認め、 修理始めにて、釿始あり、御大工右衛門惣官」とある)、 工惣官職を得ており(同年五月十九日条にも「内侍所御 門尉定宗が、天文九年以後は幕府の権力を背景に禁裏大 することも多かった。しかしこの時は、幕府御大工右衛 中では最も有力で、彼らを総括する禁裏大工惣官を兼任 あった木子宗久。紫宸殿大工であった木子は禁裏大工の 「六郎太郎」とは、天文九年まで禁裏大工惣官の地位に らるゝ」)、この記事は惣官職の争奪に関わることらしい。 いる。御大く六郎太郞ゆつりしやう柳原より御目にかけ が(「廿七日ことなる事なし。なかはしより御ふたま に「御大工六郎太郞」の名が見えることが記されている 草稿の欄外には、『御湯殿上日記』同年三月廿七日条 (『言継卿記』天文二十二年七月二十日条ほか)であった。 代々、主として清涼殿の作事を担当する「清涼殿大工」 中務)のうちの一人である伴左衛門の意か。伴左衛門は、 3) 「大工半左衛門」で、禁裏御大工四職(惣官・伴左衛門・木子・
七日。 九日の舞台張りまいらする。御大工は左衛門(3)。(以下略)八日。 明日御能御入候とて御所くなり候。入江殿より五合五荷。前大夫より扇の台二荷まいる。伯より笠一折。九日。 雨ふる。今日の申沙汰座の者揃い候はぬとて。延ひ候事にて候。(略)十二日。九日雨降りて。今日御能あり。御盃九献まいる。御陪膳三條大納言。さねすみ。御手長頭弁頼房朝臣。御相伴竹内殿。前内府。菊亭左大将。はれすゑ。こかの右大将みちおき。なり。御能十二番。三好筑前十荷十合進上申候。御庭にて一くださるゝ。かたじけなきとて。御馬。御太刀進上申。入江殿はじめて御まいりにてつねの御所(4)にて三献まいる。(5)
十三日。後朝の御盃御所くなりてまいりて。左衛門督新宰相にうたはせらるゝ。大夫長橋まて御礼にまいる。(略)廿四日。三好より十二日御能時の御馬の代三百疋まいる。
二、
この時の禁裏御能に関わる記録として、既に山科言継の日記 十六日にやむなく受け入れたため、この時に始まった内侍所修理はその後は急速に進み、無事に正親町天皇の即位式が執り行われた。)ちなみに、禁裏側は、永禄八年に将軍義輝横死後の後任の義栄を認めず、その間に惣官職を奪回。翌九年十月四日、木子六郎太郎宗久をあらためて惣官に任じている。 禁裏大工四職については、永井規男氏、当時の禁裏大工のありようについては、横田冬彦氏に論考がある。【参考文献1・2】。(
( の造営以後は別殿となる)。詳細は後述。 4) この時期は「常御所」は清涼殿に設けられていた(秀吉 註3)。代々、禁裏大工を総括する立場にあった木子家は、 台取り置く」)。「木子」は禁裏御大工四職の一つ(前掲 俄に御能あり」)、十六日に舞台が撤去されたらしい(「舞 り候はず候」)、十四日にあらためて行われ(「雨晴れて 参り候はんずるとのことにて候へば、俄に雨降りて御入 であった能は雨で中止(「今日は烏丸申沙汰にて御能御 なり。」とある。この時は、四月十三日に催される予定 相、番にて仰せ付けらるゝ。御大工は木子(原本「に」) しては同年四月十一日条に「舞台を敷かせらるゝ。藤宰 舞台返り参る」との記事が見えるほか、具体的な記述と 永禄二年以後は、永禄十年三月二十七日条「近衛より せらるる」と見えるが、ほかに詳しい記事はない。 年十一月十一日条に翌日の謡のために「明日の舞台敷か 日「あすの猿楽の舞台せらる」とあるのが初出、永禄元 のことが記されるのは、管見の限りでは延徳二年三月十 「舞台張り」が特に注目される。『御湯殿上日記』に舞台 5) この催しに関する『御湯殿上日記』の記事では、七日の
『言継卿記』が知られている。『御湯殿上日記』が禁裏御所側の立場からの史料であるのに対し、公家にして御所側の事務責任者でもあった言継の記録は、御湯殿上の立場とはやや角度を異にした記述となっている。まず左に禁裏御能に関わるところを掲出しておきたいが、必要に応じて私に改行した箇所がある
(6)。
(永禄二年四月)
五日 天晴
(略)一、来九日申沙汰為献料長橋局へ十疋進之、
(略)七日 天晴一、従禁裏舞台披敷之間可祗候之由有之、巳刻参内、大工共祗候、舞台・楽屋以下沙汰之、前内府入道・予・新宰相・下姿永相朝臣・早出源為仲等祗候、明後日内外申沙汰可有猿楽、仍清涼殿御座敷等用意也、
(略) 当番之間其間々祗候、相番予・新宰相源為
仲代、・経元等也、八日 天晴一、今朝尚清涼殿調之、番衆三人也、辰下刻退出了、一、土器物二鯛コサシ、ノリ、長橋局迄進上了、明日申沙汰之儀也、 (略)一、自伯卿暮々使有之、明日申沙汰延引云々、猿楽之脇無之云々 年頭一月五日の行事「釿始(ちょうなはじめ)」の儀式を行い、紫宸殿や陣座など重要な建物の作事を担当していた。続く天正期には、『御湯殿上日記』に舞台の準備に関する詳しい記述がしばしば見られるようになる。いくつか例をあげる。天正八年閏三月二十五日 能舞台、よく木子す。これは翌日の催し(「大夫笹屋の十二郎、十一番あり」)のためで、二十八日には木子が舞台を撤去している(「今日、舞台、木子取り置く」)。天正九年九月三十日二日の長橋への舞台今日敷く。奉行、林越前、左馬監なり。天正九年十月一日 今日舞台敷く。奉行同じ。この時は、翌二日に長橋局で能が演じられ(「今日、長橋へなし参られ候て…、堀池孫、深見といふ者の子新吉といふ者、十三番の分あり」)、四日にやはり木子が撤去している(「今日舞台取り置く。御大工、木子豊前守。奉行、左衛門尉、越前」)。その直後に、また清涼殿で能が予定され(十月六日条「十二の能のことに、源三位召して清涼殿の様、談合あり」)、再び舞台が設置された。天正九年十月十日今日十三日の舞台敷く。大工新九郎、鎗屋新四郎なり。両奉行の者つれてさす。天正九年十月十一日今日も御大工鑓屋新四郎、新九郎、二人参る。奉行同じ。
(略)九日 自丑刻小雨、終日雨降、自酉刻晴、四月中 (略)十二日 天晴、申刻小雨降
一、今日内裏内外衆申沙汰猿楽有之、大夫淀之者(7)廿才計也。座衆、三好内衆・伊勢守内衆・上下京衆・澤路隼人佑・
高倉内 窪新右衛門尉以下四十余人有之、浪花・実盛・野宮・道成寺・三井寺・鉢木・杜若・羽衣・東岸居士・鞍馬天狗・船弁慶・海士・錦木・藤戸・呉服等也、次第不同、(8)
御相伴衆、若宮御方、曼殊院宮・入道前内大臣以下五人、岡殿・安禅寺殿・初而御参、入江殿等無御相伴、七献以後御相伴也、御倍〔陪〕膳公陸朝臣、御手長頭弁頼房朝臣 但申所存不懃之、・経元、若宮御方之御前輔房、曼殊院宮以下者公遠朝臣・雅敦両人也、後御比丘尼御三人御出之時永相朝臣・言経朝臣勲之、御酌五献公陸朝臣、六献左大将、七ヽ天酌、八献入江殿、九献右大将等也、先於長橋局岡殿・安禅寺殿・入江殿御三人二献参、予・永相朝臣・言経朝臣等召出有之、次若宮御方御三人一献有之、勧修寺一位・万里小路前大納言・予・永相朝臣等参、召出有之、次於黒戸御庭勧修寺一位・三条大納言・予・源為仲酌、等出、駿州之葛山左衛門佐ニ一盞被勧之、折 「鑓屋」は前掲註3の中務職(実態は未詳)で、高級木工調度品を得意としていたとされ、小御所の作事も担当していたらしい。この時は十月十三日に「御能清涼殿にてあり」、「皆々申沙汰の男衆へお返しに、堀池弥二郎に能さす」催しが行われた。翌日は恒例で大夫が礼に参り(謡を披露する)、この時は翌十四日の様子が「堀池弥二郎、昨日の礼に参りて、また清涼殿にて今日も謡あり」と詳しく書かれており、舞台が催事後すぐに片付けられなかった理由がよくわかる(この時は十七日条に「今日、清涼殿の舞台取り置く」と記す)。
なお、この頃からは、「二条親王方に能あり」(天文八年三月十七日条)「細川所に能有」(同年閏三月三日条)、「今日より勧進能。上﨟、座敷にて能ご覧じ候」(同年閏三月十五日条)、「上﨟、賀茂の能(*引用者註、勧進
能)を見物に御入り候」(同年六月三十日条)など、他所での演能・観能の記事もしばしば見られるようになる。(
( 6) 以下の本文は、続群書類従完成会刊『言継卿記』による。
( 継卿記』)」とする。 条烏丸で勧進能を興行している「淀之物」であろう(『言 大夫」について天野氏は「翌天文二十二年二月に京の二 夫法楽之時日記』【参考文献3】にも名前が見える。「淀 7) 「淀大夫」については天野文雄氏紹介の法隆寺蔵『金剛太 三好に対する禁裏側の態度の変化の現れでもある。 三好長慶(筑前守)を初めて召して酒餞を賜った催しで、 8) 永禄二年四月十二日の禁裏能は、正親町天皇が有力者の この日の大夫は「淀之者」で、その座衆は「三好内衆・伊勢守内衆・上下京衆・沢路隼人佑・高倉内窪新右衛門