『閑居友』 (三) : 岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び 全注釈補遺
著者 原田 行造, 藤島 秀隆
雑誌名 金沢大学教育学部紀要.人文科学・社会科学・教育
科学編
巻 24
ページ 274‑259
発行年 1975‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/2297/47716
金沢大学教育学部紀要
『
閑
居
友﹄
(ヨ
−山石瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺1
藤原
田 行 造島 秀 隆※
︵※金沢工業大学教授︶
︵を︶ ︵お︶
︵1︶ ︵2︶ 二十︑あやしのおとこ野はらにてかはねをみて心を・こす事 侍ける︒なにとか侍けん︑うとくしきさまにのみそなりゆきけ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ 中比の事にや︒山城国に男ありけり︒あひ思ひたりける女なん
る︒この女うちくと︵れ︑かくのみなりゆけ断世中もうきたちて ︵8︶ ︵9︶
お ︵18︶ ︵19︶ ︵20︶ 響㍍なゆ︶なんも・ひとつのな毒なるへし・といひ捻・こ ほゆるに︑たれも︑としのいたういふかひなくならぬ時︑おの
(15
× ︵17︶ ︵え︶を一︵16×お︶
の ︵21︶ ︵22︶おとこをとろきて︑ゑさらすおもふ事︑むかしにつゆちりもた か ︵29︶ ⑳ ︵31︶ ︵32︶ ︵33︶ しに︑死たる人のかしらの骨のありしを︑つくくとみしほとに︑ ︵27︶ ︵28︶ ︵26︶ ある︒すきにしころ︑ものへゆくとて︑のはらのありしにやすみ ︵24︶ ︵25︶ ︵田︶はす︒たsし一の事ありて︑うとくしきやうにおほゆる事そ そかし︒この人も︑いかなる人にかかしつきあふかれけん︒たs ︵34︶世中あちきなくはかなくて︑たれもしなんのちはかやうに侍へき
︵37︶ ︵38︶ ︵39︶いまはいとけうとく︑いふせきとく樋にて侍めり︒樋より我めの か ほ の
面︶・養さくりあはする甲さら也・なとてか唖︶ことなら煙そ やうをさくりて︑このさまにおなしきかとみんよとおもひ
︵45︶ ︵46︶ ︵47︶
れよりなにとなく心もそらにおほえて︑かくおほしとかむるまて
なりにけるにご︵セあな煙・といひ匝兜・
〔校異︺︵1︶ありけり←有けり︵宮・神︶︵2︶思ひたりける女←おもひたりけ
る女︵為︶思ひたりけるめ︵謂・版︶﹁類﹂に﹁思ひたける女﹂とあ
り︑﹁け﹂の右傍に﹁めカ﹂と傍書︵3︶侍ける←侍けるか︵神︶︵4︶
なに←何︵神︶︵5︶うとくしき←うとく敷︵神︶︵6︶この女うち くとき←此女打くとき︵神︶この女打くとき︵類・版︶︵7︶なりゆけ は←成行は︵神︶︵8︶おほゆるに←おほゆる︵課・神・類・版︶︵9︶
た れもとしの←誰も年の︵神︶︵10︶おのか←をのか︵謂・神・類・版︶
⑪よsに←よくに︵類︶︵12︶なり←成︵神︶︵13︶なさけ←情︵神︶
(14︶いひけり←云けり︵神︶︵15︶この←此︵神︶︵16︶おとこ←男︵宮・
神︶︵17︶をとろきて←おとろきて︵宮・謹・神・類・版︶︵18︶ゑさら す←えさらす︵讃・神・類・版︶︵19︶おもふ←思ふ︵謂︶︵20︶つゆ←露
(神︶︵21︶た﹂し一の事ありて←但ひとつの事有て︵神︶︵22︶しき←敷 ︵神︶︵23︶すきにしころ←過にし比︵神︶︵24︶のはら←野原︵神︶の ぽら︵版︶︵25︶あり←有︵神︶︵26︶人←ひと︵神︶︵27︶骨のありしを←ほ ね の有しを︵章ニコロ︶骨ありしを︵神︶ほねのありしを︵類・版︶︵28︶み
し←見し︵宮︶︵29︶あちきなく←あちきなくて︵︐謹︶⑳はかなくて←か
なしくて︵讃・神・類・版︶︵31︶たれ←誰︵神︶︵32︶しなん←しなむ
(類・版︶︵33︶のち←後︵神︶︵34︶人にかかしつき←人にかしつき︵類︶
⑮とくろ←とぐろ︵類︶︵36︶今←いま︵為・宮・神︶︵37︶かほ←顔︵神︶
(38︶この←此︵神︶︵39︶おなし←同し︵神︶︵40︶おもひて←思ひて ︵謂・神・類・版︶︵41︶返て←かへりて︵類・版︶⑫返てさくりあは するに←帰り来て見侍りけれは︵神︶︵43︶なとてかは←なとかは ︵神・類・版︶︵44︶ことならん←異ならん︵神︶︵45︶なに←何︵宮・
神︶︵46︶そら←空︵神︶︵47︶かくおほし←﹁かく﹂欠文︵神︶︵48︶こ
そ←社︵神︶︵49︶あなれ←欠文︵神︶︵50︶いひけり←云けり︵神︶ ︵2︶ ︵−︶
④ ︵5︶ ⑥かくて︑月ころすきてめにいふやう︑出家の功徳によりて︑仏
(の︶︵3︶
ノ国にむまれは︑かならす返きて︑ともをいさなはむとき︑心さ ︵8︶ ︵7︶しのほとはみえまうさんするそ︑とて︑かきけつやうにうせぬと ︵10︶ ︵9︶なん︒ありかたく侍ける心にこそありけれ︒たれもみなさやうの ︵12︶ ︵13︶ ︵11︶事はみるそかし︒さすかいはきならねは︑みるときはかきくらさる童も在兜・いかにいはむやまのあたりみロズのふかきなさ
︵お︶ ︵20︶ ︵19︶ け︑むつましきすかた︑さもとおほゆるふるまひなとの︑た﹂う (17︶ ︵18︶
︹事欺︺ ︵21︶ たNねの夢にてやみぬるは︑ことに心もをこりぬへきそかし︒し か こゑたつるまてこそなけれとも︑ゑわらひなとも侍へきにこそ︒ ⑳ ︵25︶ ⑳ ︵22︶ ︵23︶ はあれと︑うかりける心のならひにて︑時うつり時さりぬれは︑
一七
一八
原田・藤島:r閑居友」(⇒一岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺一 273
︵27×を︶ ︵頒︶ ︵29︶ ︵30︶
か入る︵こ113︶.あ︵鱗鍵︑のふかく思窯て︑わす等侍けん事︑かね て は か の ︵35︶ ︵訂︶ ︵38︶ ︵36︶天竺ノ比丘のことく︑昔のよに不浄観なとをこらしける しけるにやともおほゆ︒ ︵39︶人の︑このたひおもはぬえんにあひて︑うきよをいつるたねとな
〔校異︺︵1︶月ころすきて←月比過て︵神︶︵2︶いふやう←云様︵神︶︵3︶仏ノ ←仏の︵宮・謂・神・類・版︶④返きて←帰りきて︵神︶かへりきて ︵類・版︶︵5︶とも←友︵神︶⑥いさなはむとき←いさなはんとき
(為・宮・謂︶いさなひあハれむ︵神︶︵7︶みえ←みゑ︵為︶見え︵宮︶
(8︶まうさん←申さん︵神︶︵9︶あり←有︵神︶︵10︶たれもみな←誰 も皆︵神︶︵U︶みる←見る︵宮︶︵12︶いはき←いは木︵宮・謹・類・
版︶岩木︵神︶︵13︶みる←見る︵謂︶︵14︶あり←有︵神︶︵15︶いはむ や←いはんや︵宮・謹・神・類・版︶︵16︶みし←見し︵讃︶︵17︶なさけ←情
(神︶︵18︶すかた←姿︵神︶︵19︶ことに←殊に︵神︶︵20︶をこりぬ←おこ
りぬ︵謹゜神゜類゜版︶︵田︶賢りぬれは←事さりぬれは︵宮・謂・
神・類・版︶︵22︶こゑ←声︵神︶︵23︶こそ←社︵神︶⑳とも←共︵神︶
とて︵章言口︶︵25︶ゑわらひ←えハらひ︵宮︶﹁ゑ﹂欠文︵謂・神・類・
版︶⑳侍へきにこそ←侍へきことこそ︵諏︶侍へきことにこそ︵神.
類・版︶︵27︶この←これ︵謂︶此︵神︶︵28︶おとこ←男︵神︶︵29︶思
い れ て←思ひいれて︵謹・類・版︶思ひ入て︵神︶︵30︶わすれ←忘れ
(章号一口︶︵31︶かの←彼︵神︶︵32︶天竺ノ←天竺の︵宮.謂.神.類.版︶
(33︶昔の←むかしの︵謂・類・版︶むかし︵神﹁の﹂が欠字︶︵34︶不 浄観←ふ浄観︵謹︶︵35︶この←此︵神︶︵36︶あひて←逢て︵神︶︵37︶
うきよ←憂世︵神︶︵38︶たね←種︵神︶︵39︶おほゆ←覚ゆ︵神︶おほ ︵1︶ ︵導︶ ︵2︶ ゆる︵宮︶
む かし︑いかな︵りける3︶ ︵4︶かはねの︑せめてもこ⑤の詮謹かんと
て︑あたしのムつゆきえもはてなて︑のこりけるや覧と︑
お ほ つ
︵7︶
かなくあ曙謬︒譲躁︑丘日の︵Pしりのかはね提か︶ともお
つ か の
麺をみたまひ︵で道心題こし百ガかくうき垣をい百︶はて給匙・ ほとりにて人ノ骨のしろもひやり侍︒羅什三蔵ノ御母の︑
思 ひ い
り︑道心おこりぬへき事やは侍︒されは︑弘法大師は︑°しろきむ ︵2︶喧)られてあ霧寧けにも・心あらむ人︑こ乖︶をみむはか
︵は︶ ︵92︶ ⑳ ︵31︶ ︵28︶
恒
あ旛︶の中にむくめき・あをきはへ・︒のう域︶にとふ・むか︵図一たひはかなしみ一たひはsつへ
より︑つい叉のほねをひろひてけふりとなす請の縛をと詩 まて︵39︶ ︵40︶ ︵37︶ ︵ひ=舗︶ ︵38︶ 逗・とそかきたまへ麺・止観のな頑︶に・人のしに百ガのみたるs のよしみをたつねんとするに︑
侍るは︑見るめもかなしう侍そかし︒かやうのふみにもくらきお
疲へと一 異しこ竺 × °の
縫2竪守了唇蓮占題難9彗iヱζ難告 ;
① 二十一︑からはしかはらの女.のかはねの事
い
ま鑑冴にいとけ警侍しほとの肇弐誌らは匙螺に︑
身まか吻る頭をすてたる事侍き︒︵こ7︶の蝕は︑をのかしうの議百
ありや︑よの人の心のさかなさは︑ゆきあつまりてみるもの︑稲 ︵24︶ タゥ ︵23︶ ︵22︶ けり・しぬ夢は・と玲九にそな︵兜侍り塁・さらぬ事たにも すことはもおよはぬ事ともして︑しのひにひきすてさせたるなり ︵17︶ ︵15︶ ︵16︶ 漂ほ減︶にあるま甲さま〜鴨のはかり範をか秦守いひしら ものにしのひにゆきあふとて ︑しうの女いみしくそねみて おと
豊に︑ふつに人のすか替はあらて︑嘉きなる木のき普や
蹄
竹蚤鋤︶ことくそ侍し︒ふるさ操︶のちかく侍しかは︑まかりてみ うにてそ︑あし︑てもなくて侍し︒きたなくけからはしき事たと金沢大学教育学部紀要 272
︵32︶
へ て い は ん か
楚範きよむる事かたかるへし・た主題に見廓︶たにもしのひか たなし︒たとひ︑大海のみつをかたふけてあらふと
︵37︶ ︵38︶ ⌒39︶ ︵41︶ ︵42︶ ︵へ︶ ︵40︶
たくたゑかたし︒
このとき︑
た れ か
鬼墨毒をおなしかるへじはたへし︵パ︶謬を︵姫っ︶毒﹀す らふる事あらん︒たかきとくたれるとこそかはれと⑭︑その身の ふすまをかさね︑まくらをな
ちほねをまつひて︑心にくきやうにみゆるうゑに︑楚山のまゆす ︵50︶ ︵51︶ ︵52︶
◎ ︵54︶み色あさやかにかき︑蜀江のころもにほひなつかしうたきなし
た れ
はこそ︑むつましくもおほえ侍らめ︒風吹︑日さらし︑かは
み
た掴︑す硫︶とけて︑きよ欝葉をけか㎏・おほそらをさへくさ
くなすと題は︑た緬︶かかたをく麺︑ことはをかはさむ寧 ︵マ・︶
か 〔校異︺①からはしと河原に←からはしと河原に︵為︶からはしを川原に︵謂︶
はら れ 唐橋近き川原に︵神︶からはしちかき川原に︵類︶からはしちかき川
原に︵版︶︵2︶まかりる←まかれる︵諸本︶︵3︶すてたる←捨たる︵神︶ さ ヲツト
おつと(4︶この女←此女︵謂・神・類・版︶︵5︶しうの夫←主の夫︵神︶し
うの夫︵版︶︵6︶しのひ←忍ひ︵神︶︵7︶しう←主︵神︶︵8︶女←め
︵類︶︵9︶おとこ←男︵宮・神︶︵10︶ほか←外︵神︶⑪あるまに←あ
る間に︵神︶あひまに︵類︶⑫さまく←さうく︵謂︶︵13︶事←こ
と︵草一言口︶︵14︶かまゑて←かまへて︵宮・謂・類・版︶構て︵神︶︵15︶
︵てカ︶およはぬ←をよはぬ︵讃・神・類・版︶︵16︶とも←共︵神︶︵17︶しの ひ に ひきすて←しのひにひき捨︵神︶しのひにひすて︵類︶︵18︶しぬる ←死ぬる︵神︶︵19︶とし←年︵謂・神・版︶﹁類﹂は﹁とし﹂が欠文 タウ マ ヰ (20︶なり←成︵神︶︵21︶侍りける←侍ける︵為・宮︶︵22︶心の←﹁神﹂
は欠文︵23︶ゆき←往︵神︶︵24︶みる←見る︵神︶︵25︶稲麻竹葦←字音
なし︵謂.類︶字音﹁タウマチクイ﹂︵神・版︶︵26︶ふるさと←ふる
郷︵神︶︵27︶み侍し←見侍し︵神︶︵28︶すかた←姿︵神︶︵29︶きれ←切
︵神︶⑳きたなく←きななく︵類︶︵31︶事←こと︵謂・類・版︶︵32︶
み つ←水︵神︶︵33︶とも←共︵神︶︵34︶猶←尚︵謂︶なを︵神︶︵35︶
よそに←欠文︵讃.神・類.版︶︵36︶見る←みる︵諸本︶︵37︶たゑか
たし←たへかたしへ謂・類・版︶たえかたし︵宮︶堪かたし︵神︶︵
38︶このとき←此時︵神︶︵39︶たれ←誰︵神︶︵40︶ふすまを←﹁類﹂
は
「を﹂が欠字︵41︶かさね←重ね︵神︶︵42︶まくら←枕︵神︶⑬たか きとくたれるとこそかはれとも←高きいやしきと社かハれとも︵神︶
(44︶なり←成︵神︶︵45︶行さまは←﹁は﹂は底本・宮・謂とも﹁乞﹂
も ソサン ︵変体仮名︶である︒︵46︶つ﹂み←まつxみ︵為︶︵47︶すちほねを←筋 骨︵神﹁を﹂は欠字︶︵48︶うゑ←うへ︵譜・神・類・版︶︵49︶楚山←楚山 ︵為・神・版︶︵50︶蜀江←字音﹁シュクカウ﹂︵神︶﹁ショクコゥ﹂
ば ︵版︶︵51︶ころも←衣︵神︶︵52︶にほひ←匂ひ︵神︶⑬侍らめ←侍ら
ん
(神︶︵54︶日さらし←日にさらし︵神︶⑮かはみたれ←かハみたれ
(章ニコロ︶かハねみたれ︵神︶︵56︶すち←筋︵神︶︵57︶きよき←清き︵神︶
⑬けかし←ふかし︵謂︶︵59︶とき←時︵神︶︵60︶たれ←誰︵神︶⑪か たをくみ←かたをつみ︵諌・神・類・版︶︵62︶かはさむや←かはさん や
(譜・神・類・版︶
されは︑龍樹欝︑愛のあたのいつはヴ︶をさとりぬ・と︵菱織・
天台大璽︑し巳こポ︶をみ恒︶は籠五欲︵ハ︶桓ずへて弘︑と︵題
︒また︑これまてはなをいふせなからも︑むかしのなこし給へり
夢み石︶かたも薮魏へし︒つ︵脚︶にしろき木のえたのや︵麺にて・野
酔 島
︵16︶ ︵17︶ ︵て︶︵18︶ ︒︒ ︵19︶
はらのちりとくちはてふ︑たsよもきかもとにしらつゆをとNめ︑
あさちかは麺に秋風幾こし︵⑫︶︑いき︵加︶のなご頒︶もなくなり侍 ︵25︶
︵26︶ ︵27︶ ⑳ ぬるは︑いますこし夢まほろしのやうにそ侍へき︒さてもうきよ
のならひなりけれは︑
身のはてをしるへにて︑ ︵30︶ ︵31︶ らみをかさねて︑あかしくらす人もあるらむ︒かやうにあたなる ︵29︶かsる身のありさまをしらて︑うらみにう ︵ほ︶ ︵32︶ ︵33︶ あるにもあらぬ身のゆゑに︑いたつらに ⑮ ⑯ ・37︶ ︵誕︶ つもりける罪こそくやしけれ︑なとおもひつxけて心をなをさは︑
かきあつむる心さしたちぬとすへし︒
さてもこの河原のかはねの
て︑いさxか見侍し人を︑たかきあやしきをゑらはす︑その名を ︵45︶ ︵46︶ ︵え︶ 麺侍けめ・さ㍑よもよき所にむまれはへら⑭︶かし・とあは垣に ぬし︑いたうむさう摩一す垣にかなし︵⑳・うらめしき心にてこ かきあつめ評しの︵48︶ひにかた言︵52︶︵53︶はらに璽⑭琴こしうか︵麺ぬへき
嘉と︵鑓ふ鉋︒密こんともおろーよみ侍中にぼ︶いきたりしす
か た をこそみねとも︑
からはしかはらのしにかはね︑としるし入
(60︶︑
とひ侍そかし︒
ロ て
校 異 × ひ残して7(とい、L 三:王Σ嵌琶藷召閨
一九
原田・藤島:『閑居友」⇔一岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺一 271
バク ロ
白露
野.バラ︵版︶︵17︶ちり←塵︵神︶︵18︶はて﹂←果て︵神︶︵19︶しらつ バクロ
を ゆ←白露︵譜・神・版︶白露︵宮・類︶︵20︶あさちかはら←浅茅か原
(神︶︵21︶秋風の←秋風を︵宮・語・神・類・版︶︵22︶のこして←残
して︵神︶︵23︶いさ﹂か←いささか︵類︶︵24︶なこり←名残り︵神︶
(25︶まほろし←幻︵神︶︵26︶さてもうきよのならひ←扱憂世の習ひ き←書︵神︶⑮たちぬとすへし←たりぬとすへし︵為.宮︶たちぬと 神・類・版︶︵32︶つもり←積り︵神︶︵33︶くやし←悔し︵神︶︵34︶か 神︶︵30︶しるへにて←﹁しるへに﹂︵神︶欠損︵31︶ゆゑ←ゆへ︵謂. (神︶︵27︶あり←有︵神︶⑳しらて←しみて︵為︶︵29︶らむ←らん︵謂・
すくし︵謂・神・類・版︶⑯さても←とても︵謂・神・類.版︶︵37︶
この←此︵神︶︵38︶也←なり︵神︶⑲一すち←一すし︵神︶︵40︶かなしく←悲しく︵神︶︵41︶こそ←社︵神︶⑫さらに←更に︵神︶さうに
(類︶︵43︶むまれはへらし←生れ侍らし︵神︶︵44︶あはれ←哀︵神︶
(45︶見侍し←み侍し︵為・課・類・版︶︵46︶ゑらはす←えらはす
(謂・神・類・版︶︵47︶かきあつめて←書集めて︵神︶︵48︶しのひ←忍 ひ
ピ (神︶︵49︶をきて←置て︵神︶おきて︵宮︶︵50︶うかみ←うか還派︵謂︶
も←共︵神︶︵54︶侍←侍︵神︶⑮いきたりしすかた←いきたる姿︵神︶ レ 密こん︵類・版︶﹁為﹂は底本と同じで﹁言﹂の書き入れあり︵53︶と (51︶思給ふる←思ひ給ふる︵宮・神︶︵52︶密こん←密言︵宮・謂・神︶
いきたるすかた︵類・版︶いきたりすかた︵謂︶︵56︶すかたをこそ←す か たこそ︵宮︶︵57︶こそ←社︵神︶︵58︶みね←見ね︵課︶︵59︶しにか は ね←死かハね︵神︶︵60︶入て←いれて︵神︶
︵1︶ ︵お×2︶
③ さても︑このかきをくたひに袖のしほるsもしほ草の中に︑そ
の か ︵9︶ ︵10︶ て︑ところせきまてにおほゆるもあり︒またほのかにもみし人な ︵8> ︵7︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ほなとのきはやかにて︑たsいまその人にむかへる心ちのし 侍誌︑三錬のひし卵︶をみ捻は︑みなつみをのぞきさとり禁 とは︑かすみたるやうにおほゆるも侍へし︒抑︑ この事を思より
らきs︒また︑むかしの高僧をみし人は︑みなほとにしたかへる
益
あ竃いまこの雫と薯講等しかは︑み叉4宇
る人々︑すこしのやくもあるへきお︑いひつくしかたくあさまし
く・わつかに比丘の名をぬすみ口返璽二宝をあさむくつ︵麺をま ︵27︶ ︵28︶ ⑳
ねくへき鋸れは︑揚やくかけても霧詰きかなしさにお延︶
ろきて︑見し人のむかしかたりになりゆくかすをしるして︑なさけ
をはこ︵ぷ︶侍摩もしこ︵37の︶なさけ・甘露顯とな恒翫雰繭どな
二〇
︵41︶戸お︶⑫
(
は︶
(43︶
りて︑をのくありかをとふらはs︑それをあやしの身にえんをむ ︵46︶ ︵の≒45︶ ⑭すへる一ノ益に︑かつくつかうまつらんとおもひたちにけるな
るへし・新羅臥嘉暁の疏︵〃︶葬とよ・他侮島薦︶ことはりなし エンキナンシ︵50︶ ︵51︶といへと⑳︑しかも縁起難思のちからあり︑といへる︑たのもし
くこそ侍れ︒
〔校異︺︵1︶この←此︵神︶︵2︶かきをく←かきおく︵神︶③心ち←心地︵宮︶心持
(神︶︵4︶ところ←所︵神︶︵5︶まてに←まて︵類︶︵6︶おほゆ←覚ゆ︵神︶
(7︶また←又︵神︶︵8︶ほのかにも←ほのかに︵諌・神・類・版︶︵9︶
お ほ ゆる←覚る︵神︶︵10︶思←思ひ︵神・類・版︶︵11︶ひしり←聖 り︵神︶︵12︶みし人←見し人︵謂・神・類・版︶︵13︶みなつみをのぞ きさとりを←皆罪を除き悟りを︵神︶⑭ひらきs←ひらきし︵謂・
神・類・版︶︵15︶また←又︵神︶︵16︶ありき←有き︵神︶︵17︶とく←徳
(神︶㌔く︵版︶︵題︶もし±︵神︶︵D︶みヤ見も︵神︶⑳みえす︸見 えす︵為・宮・謂︶みえも︵神︶見えも︵類.版︶︵21︶人々←底本 ﹁人く﹂人亡︵神︶人々︵類︶︵22︶やく←益︵神︶︵23︶へきお←へ かへり きを︵宮・讃・神・類・版︶⑳ぬすみて←ぬすみみて︵類︶︵25︶返て ←返りて︵神︶返て︵版︶︵26︶つみ←罪︵神︶︵27︶みなれは←身 なれは︵為・宮・神︶︵28︶やく←益︵神︶㊧あるましきかなしさ←有 間藪事かなしさ︵神︶あるましき事かなしさ︵類θ版︶あるましき事 か す なしさ︵草ニコロ︶︵30︶見し←みし︵神・版・類︶︵31︶むかし←昔︵神︶︵32︶
こ や なりゆく←成行︵神︶︵33︶かす←さま︵為︶数︵神︶︵34︶なさけ←情 ︵神︶︵35︶はこひ←ぽこひ︵類︶︵36︶侍也←侍る也︵神︶︵37︶もしこ の←若此︵神︶︵38︶甘露ノ←甘露の︵宮.讃.神.類・版︶︵39︶なり
ー成︵神︶︵如︶嵐碑ー清涼の︵宮謹・神・琶.藏の︵版︶︵虹︶な
りて←成て︵課∨⑫をのく←ほのく︵類︶︵43︶えん←縁︵神︶え
む︵類・版︶⑭むすへる←結ひぬる︵神︶︵45︶一ノ←一の︵宮.謂.
類・版︶ひとつの︵神︶︵46︶おもひ←思ひ︵謂・神・類.版︶︵47︶新
タ サシ シユ 羅国ノ←新羅国の︵宮・謂︶新羅国︵神・類・版︶︵48︶疏ノ文←疏の
文︵宮・謂︶疏文︵神・類・版︶︵49︶他作自受←字音なし︵宮.謂.
神・類︶︵50︶縁趣鰹ぽ←字音なし︵宮・譜・神・類︶︵51︶あり←有
(神︶⑫侍れ←侍りけれ︵神︶
※補記本文︵諸本︶中の変体仮名﹁二﹂﹁ハ﹂は︑すべて平仮名に改めて記した︒
金沢大学教育学部紀要 270
付・
『閑居友﹄全注釈補遺
(金沢古典文学研究会編﹃説話・物語論集﹄第一
所 収分︶
・二・三号
ω宗叡僧正と・もなひ︵上巻第一話︶
この時︑親王は宗叡の他に賢真・恵尊・忠全・安展・禅念・恵
池・善寂・原麓・猷継の他に船頭高丘真峯らや控えの者十五人︑
また張友信・金文習・任仲元︵三人唐人︶︑更に建部福成.大島智
丸 や水夫など僧俗六十人で出発した︵﹃頭陀親王入唐略記﹄︶︒とくに
宗叡と連れ立っていく表現は︑﹁貞観四年二真如親王入唐ノ時アヒ
トモナヒテ﹂︵﹃真言伝﹄巻三︶﹁貞観四年︑真如親王ともろともに
入唐したりける仁なり︒﹂︵妙法院本﹃山王絵詞﹄︶など随所に見ら
れる︒﹁ともなふ﹂は自動詞であり︑従う・連れ立つの意︒従うと
いう場合には助詞﹁に﹂を︑連れ立つ意味の時には﹁と﹂を上に
とる︒○賢助僧正にともなひて加持香水を見侍りしに︵﹃徒然草﹄
二 百 三 十
八段︶︒○西山の西住上人とともなひて︑難波のわたりを
過侍りしに︵﹃撰集抄﹄第四11︶︒
② 法 味
和尚といふ人におほせつけられて学問ありけれど︑心にも
かなはざりければ︑ ︵上巻第一話︶
法味和尚の伝未詳︒﹃本朝高僧伝﹄に﹁特命二法味和尚一授二経論一︒而
如不レ為レ憾レ意︒﹂とあるが典拠不明︒この部分﹃頭陀親王入唐略記﹄
には﹁仰請二来阿閣梨一令レ決二難疑一︒経一一六箇月一︒問二難閣梨一︒不〆能/撃レ
蒙︒﹂とあり﹃元亨釈書﹄にも﹁遍詞二名徳一不〆充二如意一︒﹂と報じて
いる︒この阿閣梨が青龍寺の法全であったことは︑﹃弘法大師弟子
伝﹄巻上の﹁乃到二長安一謁二青龍寺之法全阿闇梨一︒受二両部灌頂一︒改
号日二遍明一︒﹂などの記事により略々確実であるが︑法味和尚のこ ユとは︑諸書に触れられていない︒
③わたりたまひける道のよういに大かんじを三もちたまひたりけ
るを︑ ︵上巻第一話︶
大 柑 集抄﹄巻三ー7︵嗜西上人がけしかる女に小袖を二枚まで与え 子をめぐって︑化人が菩薩の行に言及する類似説話が︑﹃撰
たが︑三度目には﹁さのみは身の力なし﹂と断わると︑女は﹁汝
はきはまりてこsろ小さかりけり︒こsろ小さき人の施をば︑わ
れうけず︒﹂といって︑二枚の小袖を投げかえして姿を消した所伝︶
に見られることは︑既に先学が指摘する所である︒また︑同じく
巻六ー1玄弊之事でも︑真如親王が︑唐土の帝のもとより天竺に
赴く状況を﹁渡天の心ざしをあはれみて︑さまぐの宝をあたへ
給へるに︑それ由なしとて︑みなみなかへし参らせて︑道の用意
とて大柑子を三とぶめ給へりけるぞ︒聞くも悲しく侍るめる︒﹂と
あるが︑大柑子やりとりの部分を欠いている︒﹃撰集抄﹄のこの説話がその素材源を﹃閑居友﹄の真如親王伝に仰いでいることは確
か
であるが︑では何ゆえ化人出現の個所を省いたのであろうか︒
推測ではあるが︑先の謄西伝と類似発想であるため︑重複を避け
るため︑カットしたのではないかと思われる︒ところで︑慶政は
この発想をどこから入手したのであろうか︒醍醐寺三宝院門主満
済は︑永享三年︵一四三一︶四月四日︑定助僧正に向かって慶酢大阿
闇梨伝について﹁為レ拝龍智ズ打二渡天一処︒於二迦毘羅山一有二一老翁乞
者一︒向二大阿閣梨一乞レ食︒︒大阿闇梨所レ持柑子ヲ一与レ之︒又乞レ之︒然而
五マテ与レ之︒今一柑子ヲハ為二旅根惜テ不レ与レ之︒其時翁云︒我ハ
是 龍智也︒憐二汝志一ヲ是マテ来也︒但汝樫食ナリトテ上レ空西ヲ指テ 飛行︒干γ時大阿闇梨一ノ柑子ヲ空二投テ泣悲テ自γ其帰朝云々︒﹂と
いう故事が伝記にあるや否やを聞いている︒第七十一代醍醐寺座
主
定助はそれに対して︑﹁そのことは伝記に見えていません︒また
慶酢阿閣梨の渡唐のことは承っておりません︒﹂︵﹃満済准后日記﹄︶ と答えている︒﹃閑居友﹄成立後約二百年余りたってからのことであ
るが︑同一発想といえるこの伝承が︑醍醐山第七十四代座主満済の
二一
二 二
原田・藤島:『閑居友」⇔一岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺一 269
念頭にあったことは注目に値する︒だが︑これと関連して﹃野沢
血脈集﹄第一に﹃醍聞抄﹄の記述を紹介しているが︑これこそ真
如親王大柑子説話として﹃閑居友﹄の異伝と思われるものである︒
即ち︑﹁平城天皇嵯峨帝失給ヶリ︒真如失給ヘキニテアリシヲ︒大師
御弟子乞請申サセ有二御出家一︒難レ然平城天王御事無念思食サレテ︒
日本御スマイ本意ナク御事座アリケン︒御入唐御志大師御暇乞給︒
大師頻錐二留申蕪二承引一御入唐︒剰渡天︒柑子三道御糧物御所持アリ
ケリ︒流沙鬼神出乞二奉彼柑子︒二与レ之今一渡天タメトテ被レ残︒鬼
神其程小機渡天不レ可レ叶忽残害シタリト云々﹂と︒﹃醍聞抄﹄は︑別
名﹃醍醐八十条醍醐山弘鍵口授﹄ともいい︑その筆録者は三輪流
の良英である︒ここで親王は︑三つ所持せる柑子のうち二つを与
えたが︑いま一つを渡天のために惜しんだ︒そこで︑鬼神は﹁その
心が小さい︒そのようでは渡天は叶うまい﹂といって︑忽に殺害し
たというのである︒即ち︑彼の所行と客死との間に︑必然的な因
果関係があるかの如き筋書となっている︒良英にこの所伝を口授
した弘鍵については後述するが︑貞治元年︵=二六二︶から応永
三 十 三 年
一(
四
二六︶に亘って生存した人で︑至徳二年十二月十
三日には醍醐山光台院弘済の下で︑伝法職位を受けた碩徳の僧で
ある︒したがって︑﹃醍聞抄﹄の成立は︑十四世紀末から十五世紀
初頭と考えて差支えあるまい︒即ち︑﹃閑居友﹄よりも︑ほぼ二世
紀時代が降る成立である︒しかし︑その話型は︑﹃閑居友﹄と同源
の素材より伝流したものではなかろうか︒もし︑両者が親子関係
であれば︑大柑子のみならず虎害のことにも筆が及ぶ筈で︑心の
狭小なるために鬼神に害されたとする筋書は生じ得ないからであ醇︒ただ︑﹃醍聞抄﹄と﹃閑居友﹄では親王が大柑子を与える個数
が
異なっていることからすれぽ︑前者の方が後世的産物といえよ
うが︑このことが直ちに両者の親子関係を意味するものではない︒
先に述べた晦西上人の小袖説話を通しても理解されるように︑菩
薩行と対置される条件は︑段々と後世になるにつれて︑一層厳し くなってゆく︒三つの大柑子のうち一つ与えて問答が始まる話が︑
二
つ与えることになり︑はては満済の脳裏にあった慶昨の大柑子
讃 では︑六つのうち五つも与える所までいってから菩薩行云々
の
対決が描かれている︒ところで︑興味深いことに︑如上の真如
親
王大柑子所伝を口授した弘鍵と︑慶酢大阿闇梨の大柑子説話を
念頭においていた満済とは︑醍醐寺で同時代に活躍していたので
ある︒即ち弘鍵は座主定忠より光助所伝の聖教法論を付嘱されて
忠隠密被ピ進レ之︒然其時座主満済此事聞︒実勝聖教等召出上醍醐普 シテ 忠無学義満将軍時背二御意一醍醐退出︒其剋聖教等光明心院弘鍵方定 ニシテ ノへ いる︒﹃野沢血脈集﹄巻二第二十三成賢の付法二十人の頭註に﹁定
門院安置給也︒﹂とあるのは︑それに関わる記事である︒したがっ
て︑大柑子説話は足利義満の時代に︑醍醐寺にてかなり伝播して
い
詳である︒ただ︑前述した如く︑虎害説話と結合していない真如 たと思われるが︑その発想の根源はどこまで遡及できるかは未
親 王
大柑子説話のあることは︑それが﹃閑居友﹄のそれと同根の
素材源に依拠していた可能性がないとはいえぬ︒ちなみに︑真如親
王 が る龍智菩薩に逢うため渡天を志したという伝承がある︒即ち︑
『三
宝
院流意教方血脈紗﹄上巻に親王が︑﹁遂二渡天ノ御心ヲ覚シ
食テ云フ︒其ノ故ハ︑大師ハ唐土ノ恵果二真言ヲ御相承アリ︒彼
ノ西天ノ龍智ハ︑未ダ御在生也ト︑此ノ由ヲ聞キ︑直チニ往キテ
龍智二相承セント慢心ヲ起シタマフ︒﹂と︒彼の師弘法大師は唐土
及し得る︒満済は︑この所伝と慶酢大阿闇梨の僧伝とを︑混同し の恵果に教を仰いだが︑それは︑恵果ー不空−金剛智ー龍智と遡
て い た の で
はなかろうか︒定助僧正が答えた如く︑慶酢に渡海の
事実はない︒さて︑満済はまた家系の上から見ても︑慶政と甚だ
深い関係にある︒ゆえに︑こうした面︵系図の位置を考察する︶
金沢大学教育学部紀要 268
からも大柑子説話の素材源を追跡する道が考えられるが︑やはり
彼が門主を歴任した醍醐寺三宝院の周辺に求めるべきと思う︒三
海・元海・実運・勝賢・成賢と法脈が続き︑成賢の時に碩徳の僧 宝院は︑勝覚によって永久三年︵一=五︶に建立され︑以後定
輩出した︒即ち︑憲深・頼賢・道教・深賢などに分流する︒満済
は︑そのうち憲深︵報恩院流︶の法系を汲み︑三宝院第二十五世
の
地位にあると同時に︑醍醐寺座主をも兼ねている︒ところで︑
法系図︵﹃野沢血脈集﹄をもとに構成︶を丹念に辿り検討すると︑
勝覚ー兀海ー勝賢賢俊済嬢
弘顕−弘済−弘鍵
光助から受けた宝陵を︑光明院弘鍵に付嘱して座主職をも満済に
譲って下山した定忠は︑満済と極めて近いところにいた︒また︑
良英に醍醐寺の秘事・故実・所伝を口授した弘鋤は︑道教と深賢
の
血脈のもとにあるわけだ︒また︑既述の﹃三宝院意教方血脈紗﹄
巻上の所伝も︑頼賢︵意教上人︶の法流を書き留めたものである
から︑この法系で伝承されていた説話ということになる︒以上の 流の法統に流伝されていたかの弘鍵口授の真如鬼神の説話がそれ する満済の慶肺龍智説話︑意教流に伝わる真如龍智説話︑地蔵院 図的な視野のうちに収めることができた︒即ち︑報恩院流に位置 展望により︑三宝院にて語られていた真如親王大柑子説話を鳥轍
である︒このような諸伝承に分化する祖話は︑古くから三宝院に
存していたのではあるまいか︒諸流にて語られている大柑子説話
は︑この発想が三宝院の奥深い所で︑早くから伝流していたこと
を想定させる︒慶政は︑恐らく醍醐寺三宝院から︑親王の大柑子
説話を入手したのではあるまいか︒思うに彼の見聞した資料は︑
親王が法全阿閣梨などによって蒙をひらかんとしたが︑期待通り
でなかったため︑陸路大柑子を持って天竺に旅立つも︑途中鬼神
によって問答の結果︑害されたという内容のものであったろう︒
慶政が︑﹃閑居友﹄に用いる説話素材の収集に没頭していた頃︑九条家には東寺・延暦寺・三井寺の長者・座主・長吏に就任してい
る人々がいた︒また︑醍醐寺では︑叔父良海が遍智院にいたし︑
ずっと時代は降るが︑道家の子賢倣が金剛王院にいた︒同家と醍
醐寺との関係も︑密接であったといえよう︒彼は︑大柑子に関わ
る真如親王伝を寺院関係者を通して入手し得たため︑通説の海路
説を放撚して陸路説に即した話を求めてゆく姿勢を打ち出したの
で
はなかろうか︒そうした一段階を経てから後に︑はじめて虎害
の発想がスムーズに結合し得たのであろう︒﹃閑居友﹄の真如親王
伝の大柑子と虎害の発想は︑それぞれ異なった状況下に付与され
て い っ
た の である︒
働つひに虎にゆきあひてむなしくいのちをはりぬとなん︒
︵上巻第一話︶
本書の虎害説話が︑﹃撰集抄﹄や﹃和漢春秋暦﹄所収の真如親王
伝に影響を与えていることは︑杉本直治郎氏の﹃真如親王伝研究﹄
に詳しい︒そこで︑慶政はこの虎害説話をどこで入手したのかが
二 三
二 四
原田・藤島:『閑居友』(⇒一岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺一 267
重
要な課題となる︒この問題は大別して二つの視点が考えられる︒
一 つは︑彼が渡宋した際に︑かの地でヒントになる話を聞いたか 或
は思いついたというのである︒他の一つは︑共に渡唐した宗叡
が︑帰国後親王の最期を脚色して︑東寺周辺に伝えた情報が語り
継がれて来たものを︑慶政が入手したという考えである︒さて︑
後者の場合の可能性に連なる一資料として︑﹃野沢血脈集﹄巻一真
如に﹁愛二同四年宗叡ト共二入唐︒遇二青龍寺ノ法全阿閣梨一︒受二両部ノ モ灌頂↓改テ号二遍明↓︒捜レ奥ヲ心未け尽キ︒又欲γ渡ント流沙↓到二・︒維越国一
遷化文或記二師子二被レ噸云々﹂とあるを挙げたい︒﹃野沢血脈集﹄
の著者は不明であるが︑﹃真言宗全書﹄︹解題︺によれば︑徳川末
期寛政八年︵一七九六︶頃の成立である︒しかし︑引用文献には
相当古いものがある︒右の﹁文或記二師子二被レ轍︒云々﹂の記述の
もとになった﹁或記﹂は︑﹃撰集抄﹄などの真如親王伝の流れを汲むものと解したい︒われわれは︑ここで親王が噸われたのは虎
伝では︑親王が虎害にあった場所が記されていない︒それが﹃撰 でなく獅子であると記している点に着目したい︒﹃閑居友﹄の親王
集抄﹄のそれでは︑師子州ということになっている︒恐らくその
出所は︑﹃閑居友﹄が親王虎害のことを述べた後に﹁大唐の義朗律
師の天竺にゆくとて身を滅ぼしたる﹂事をいう個所に︑﹁師子州にも
すでにみえず︒中印度にもまたきこえず︒﹂と記述している筋に
ひ
かされて︑親王遷化の地に師子州を持って来たということにな
ろう︒勿論その際人を襲う猛獣として︑虎と獅子との概念の類似
性も関与していたであろう︒このように考えて来ると︑親王が羅
越国にて遷化したという宮廷正史などの所伝の他に引用した﹁或
記﹂は︑師子州にて莞去とする﹃撰集抄﹄系の説話の流れを汲む
もので︑地名に影響されて虎がいつのまにか獅子となってしまっ
た伝承を記載したものといえるわけで︑﹃閑居友﹄より後世的なも
のと考えざるを得ない︒次に観点をかえて︑宗叡が帰国後親王虎
害説話を密かに東密の系譜に伝えたことはあり得るだろうか︒も し流伝していたとすれば︑慶政はそれを入手する経路を有してい
たと思う︒即ち︑広沢流第二十三︵御室第七代︶道深親王は後高
倉院第三皇子であり︑慶政が渡宋した年︑建保四年十二月十六日
に十一歳で仁和寺北院にて道助親王によって受戒し出家してい
る︒したがって︑帰国後持明院に出入し︑後高倉院と親交のあった
証月房慶政が︑道深親王から虎害の話を聞く可能性はあったと思
う︒しかし︑これは宗叡が親王虎害謂を語り伝えたならぽという
条件づきなのである︒そこで︑彼がそうした話を語る必然性があっ
た
かどうかを検討してみなければならない︒﹃頭陀親王入唐略記﹄
によれば︑親王が広州から船便によって天竺に向けて出航したの
は︑貞観七年正月廿七日のことであった︒途中︑羅越国に下船し︑
逆旅に身を寄せたのは︑杉本氏の推定されるように親王が急病に
なったためではないか︒当時︑広州から羅越国までは︑約二十日
程を要していたというから︑親王は恐らく同二月中旬頃には示寂
したとも考えられる︒一方︑宗叡たちは︑同年六月に李延孝の仕
立
て た 船 で 福州を発ち︑五日四夜を要して値嘉島に到着している︒
大切なことは︑親王が天竺に向かった時に︑安展.円覚の二僧と仕丁秋丸を従者としてつれて行ったが︑彼らの行方は親王遷化後
も杳として知れない点だ︒進発に際して︑親王はまた唐人任仲元
に
託して侍者興房に次のような御教書を発している︒即ち﹁広州
で今お前を待っているが︑船便の時期もあるから遠からず船出す
る︒いつまでも当地に留まるわけにはいかぬゆえ︑お前は福州か
ら李延孝の仕立てる船に乗って︑早く日本に帰れ︒﹂という内容
であった︒そこで︑六月に至り宗叡と興房らは︑日本に向かった
の
である︒したがって︑一見するに︑二月中頃に遷化した親王の
ことを︑虎害によると伝えることは︑六月まで在唐したのだから
不自然ではないとも考えられる︒だが︑親王が伴なった従者たち
とは連絡がとれなかったこと︑ゆえに六月までその安否が判明せ
ず︑気遺われるままに故国への船上の人となった状況を考えれぽ︑
金沢大学教育学部紀要 266
宗叡一行は︑帰国後に虎害のことなど口にすることは出来なかっ
たと思われる︒そして︑現実には︑元慶五年︵八八一︶までその
生 死 が わ
界されたことを在唐僧中瑳の申状によって公にした事情を考えれ からず︑十月十三日に至りはじめて羅越国の逆旅にて他
ば︑その間に︑たとい非公式にではあっても︑共に渡唐した宗叡
としては︑その死を口にすることはなかったのではあるまいか︒
そして︑彼はその翌々年の元慶十九年三月廿六日に入寂している
が︑その間にも︑親王が海路をとって羅越国に上陸して逆旅で亡く
なったとする政府の公式見解がある以上︑そう軽々に陸路説に則
した虎害謂を伝えたことはあるまいと考えられる︒以上の諸要件
を総合して判断すると︑虎害の発想は︑慶政が東密の法流から入
手したというよりか︑やはり唐土の地に渡り︑そこで祇園精舎
は虎のふしどという既成概念とか︑薩睡王子の捨身飼虎謂など
の
影響のもとに︑虎害の発想を拡大して︑真如親王伝に結びつけ
て い
っ
た の で
はなかろうか︒ただし︑渡宋前に︑真如親王伝にま
つ
わる虎害の異伝を︑彼が東密の法流から入手した可能性が全く
ないわけではない︒﹃万代和歌集﹄巻十五雑の
思
ひきや虎ふすのべと聞きおきし
唐国寒き旅ねせんとは
という歌は︑そのように解されるふしもある︒だが︑﹃野沢血脈集﹄
巻一所収の﹁或記﹂の内容は﹃閑居友﹄よりも後世的産物である
と推定される現状では︑まだその可能性を前面に強く押し出すわ
けにはゆかぬ︒渡宋を目前にして︑かの地は恐ろしい虎の棲息す
る所だと聞かされていた慶政は︑実地に異郷の地に踏み込んでみ
ると︑かねて醍醐寺三宝院周辺にて見聞していた陸路から天竺へ
の
コースを念頭に置いた大柑子説話をもっともだと思わせるべ
く︑彼の内面で虎と真如親王とが必然的なものとして結びついて
い っ
た の で
はなかろうか︒﹃閑居友﹄冒頭に配列されたこの親王虎
害譜は︑作者が法友明恵や大叔父慈円さえもが果たし得なかった 注6輝かしい渡宋体験を記念し︑﹃発心集﹄や﹃三外往生記﹄の編者の話材観とは対蹟的な立場を強調した︑最も特徴的な説話であった 注7といえよう︒
⑤ 世 の 人 のさやうにはおもはで︑︵上巻第一話︶
世
の人とは︑具体的には九条家の慶政周辺の貴紳を指す︒例え
ぽ︑慈円などが︑鴨長明に対して深い関心を示していたことは︑
① 世
の中は河瀬に見ゆるうたかたの
消みきえずみ過るはかなさ
②あともなく漕ゆく舟のみゆるかな
すぎぬる事はこれにたとへん
③朝顔をはかなきものといひをきて
それに先だつ人や何なる
の
『拾
玉集﹄所収歌からもほの窺われる︒①は﹃方丈記﹄冒頭の
「ゆく河の流れは絶えずして︑しかももとの水にあらず︒よどみ
に浮ぶうたかたは︑かつ消え︑かつ結びて久しくとどまりたる例
なし︒﹂を︑②は同﹁若しあとの白波にこの身を寄する朝には︑岡
の 屋 に
ゆきかふ船をながめて︑満沙弥が風情を盗み︑⁝⁝﹂を③
は同﹁その主と栖と︑無常を争ふさま︑いはば朝顔の露に異なら
ず︒或は露落ちて花残れり︒残るといへども︑朝日に枯れぬ︒或
は花しぼみて︑露なほ消えず︒消えずといへども︑夕を待つ事な
し︒﹂を念頭に置いた詠歌ではなかろうか︒とくに︑③では︑慈円
が
長明の死に対して無常の念と哀惜の気持を深く抱いているよう
だ︒ただし︑彼の編纂した﹃発心集﹄に対しては︑九条家の人々
は
好感を示してはいなかったのではなかろうか︒なぜならば︑﹃発
心集﹄が︑源顕兼撰﹃古事談﹄の僧行の部に負う所大きく︑玄賓
伝を直接書承して冒頭部を構成しているからだ︒﹃古事談﹄と﹃発
心集﹄との成立上の先後関係は︑これまで種々論議されて来たが︑
益田勝実氏も主張されているように︑巻三﹁伊予入道往生事﹂の
二 五
二 六
『閑居友」⇔一岩瀬文庫本翻刻と諸本対校及び全注釈補遺一 265
原田・藤島
説話に示された受容法などから︑﹃古事談﹄が先行することは明ら
か
であ詩︒さすれば︑﹃発心集﹄が﹃古事談﹄所収説話を直接書承
して冒頭部に持って来たことに問題があったのである︒即ち︑﹃古
事談﹄を編纂した源顕兼なる人物は︑村上源氏の一員で︑かの源
通親と親密なる関係にあった︒通親は︑建仁二年︵一二〇二︶十
月廿日に急逝するまで︑高階栄子などと結托して︑九条家を向う
後宮に入れて為仁親王を儲け︑建久九年には土御門天皇として擁 にまわして権勢を揮るった︒彼は︑巧みに養女在子を後鳥羽院の
立し︑源博陸と呼ばれて権力を掌握した︒彼らは︑大姫の入内を
利用して鎌倉の頼朝をも籠絡して近づき︑建久六年東大寺開眼供
養の上洛を契機に結びつき︑ついに建久七年の政変を惹起せしめ
た︒時に慶政は八歳であったが︑その幼い瞳に映じた九条家の凋
落は悲惨であった︒祖父兼実は関白を停止︑大叔父慈円は天台座
主
から追放され︑叔母任子も宮中から下った︒その沈論は︑通親
の 死
により終止符をうち︑父良経が摂政の座につき一時的に愁眉
を開くことができた︒だが︑それも長つづきせず四年後の建永元
年三月良経変死という思いがけぬ運命が慶政や道家を襲った︒慶
政は︑不具のため仏門入りを志していたし弟道家未だ年若く近衛
家の家実に摂政職は移った︒彼らを助け︑九条家を背負ったのは︑慈円や良輔であった︒したがって︑慶政が真如親王伝を書いた承
久二年頃は︑彼の視線は草庵から政界に注がれていたと思う︒こ
うした時に︑かつて兼実を失脚させ九条家を逼塞せしめた通親と
近親関係にあった顕兼の編纂した﹃古事談﹄を尊重した﹃発心集﹄
が 世
に出た︒そこには︑﹃古事談﹄から引用した玄賓伝が巻頭部を
飾っていた︒それを見た九条家の貴紳たちは︑到底無関心であり 得なかった︒彼らには︑長明の人々に仏縁を結ばせる意図など理
解する心のゆとりなどなく︑話材の重複性を批判する態度に出る 注10他はなかったのである︒ ⑥この人のこと往生伝に侍めれど︑このことは侍ざめれば︑しる
し侍なるぺし︒ ︵上巻第二話︶
ここにいう往生伝とは︑﹃三外往生記﹄であることは明らかであ
る︒慶政は︑後高倉院から御本を賜り︑﹃三外往生記﹄を承久二年
秋に西山の草庵で書写している︒ゆえに︑その頃建保四年秋の渡
宋以来四年間も放置しておいた﹃閑居友﹄書き継に着手したので
はあるまいか︒既に渡宋を目前にして︑﹃発心集﹄の編者の説話書
承態度に疑問を抱いていた彼は︑強い個性を発散させた説話集を
編むために︑帰国後その基礎的展望の作業として︑各種往生伝を
書写していった︒ところが︑慶江善三家の手になる往生伝以外の
往生人を収録した旨を掲げた蓮禅撰﹃三外往生記﹄を手がけた時︑
意外にも尋寂法師・講仙沙門・平願持経者・永観律師.南京無名
女 の
五人は︑為康撰﹃拾遺往生伝﹄と全く同内容の記事であるこ
とを強く指摘している︒﹃発心集﹄を媒介として芽生えた著述論は︑
『三外往生記﹄に触れることにより︑慶政の心の中で益々拡大化
していったに相違ない︒かつて︑建保四年秋に︑﹃発心集﹄に対す
る批判意識を︑同一人物をとりあげ︑新資料に基づく玄賓僧都伝を構成することで披露したように︑今度も伝中の如幻を対象とし
て
選定し︑博捜の末に入手し得た素材を駆使して︑独創的な如幻
説 うち出している︒ えロ 話を書きあげて︑﹃三外往生記﹄の編纂の方針を批判する態度を
⑦ か
のはりまのたかをだに・︑ゑにかける御すがたのおはするは︑
きのしたに︑いしをしきものにて︑ひがさと経ぷくろとばかり
を︑きたまひたるすがたとそきき侍し︒ ︵上巻第二話︶
性海寺に所蔵されていたと伝えられる如幻像を︑慶政は直接に
見ているわけではない︒この伝聞の入手経路については︑次の二
つが考慮される︒一つは︑良覚のもとで︑如幻とともに華厳宗を
学 ん で い
た岡の法橋景雅に師事していた明恵上人から彼は聞いた
金沢大学教育学部紀要
の で
した華厳宗研究僧団を通じて如幻の事蹟が口伝されたことは︑充 はないかという推定である︒即ち︑東大寺の尊勝院を中心と
分あり得ることである︒もう一つは︑慶政が師能舜から聞いたと
する臆測である︒能舜が彼の師であったことは︑﹃三井続燈記﹄巻
一に﹁師二事能舜↓学二経論↓晩居二西山法花山寺↓頻修二密供﹂と記
されているので確実といえる︒﹃血脈類集記﹄巻八によれぽ︑能舜阿
闇梨は法印権大僧都良遍の手で︑嘉禄二年︵一二二六︶に理智院
に
て灌頂を受けている︒理智院とは︑真言宗仁和寺の末寺にて︑
大阪府旧泉南郡多奈川村谷川にある︒時に彼は三十九歳で︑播磨
国に関係していたようだ︒また︑彼は寛喜元年十一月二日にも︑
良遍から灌頂を受けた範遍律師の色衆として︑神供の役目を果た
している︒慶政は︑一歳年上の能舜に師事し密教の修行に努めて
いた︒とくに︑播磨国関係の伝承は︑この経路から流入して来た
とも考えられよう︒
⑧さまぐのもちものかへしそ三て︵上巻第三話︶
この﹁かへしそなへて﹂の﹁そ﹂は︑諸本とも﹁そ﹂とも﹁ろ﹂
とも読み得る字体であり︑中でも宮内庁書陵部本・島原公民館松
平
文庫本・神宮文庫本は﹁ろ﹂に近く︑板本は﹁そ﹂に近い︒し
た が
って︑この部分は現存諸本の対校にて問題は解決しがたい︒
この個所の校訂のためには︑前後の文意を検討することにより︑妥当な見解を見出さなければならない︒善珠は︑宝亀十一年︵七
八〇︶に秋篠寺を建立して興福寺から移住しているが︑かつて興
福寺にいた際その居房︵馬道北口より第一坊大房︶の壁に︑唾を
吐きかけたというのである︒このような状況を考えれば︑移住の
時興福寺の自房から運び出した仏具類を︑もう一度秋篠寺からか
つ て
の部屋に戻して仏前を飾りたて︑名香を煎じた湯で壁を洗っ
たと考えられる︒即ち︑﹁様々の持物︑返し供へて﹂の文体として
解釈することが可能である︒ところが︑﹃東国高僧伝﹄所収玄賓伝
では︑この個所が﹁尋醤二衣蓋一買二名香ごとなっている︒つまり︑
衣裳や食器類を売って名香を買ったというのである︒これと照応
させて考えれば︑﹃閑居友﹄のこの部分はどのように解すべきか︒
一案として﹁さま人\のもちもの︑かべしろなべて﹂と考えられ
ないか︒つまり︑さまざまの持物や壁代を並べて売り払い︑それ な
で名香を買ったというわけだ︒﹁なべて﹂は﹁並ぶ﹂に接続助詞﹁て﹂
の つ い
たものと解する︒ところが︑この場合︑並べての下に﹁売
り﹂の意味を補なうことに若干の無理がある︒そこで︑﹁様々の特
物や壁代などをしかるべき位置に並べて﹂の意味にも考えられる
ことに気づく︒持物は仏前を荘厳に飾り用い︑壁代は汚壁を洗う
のを人目から隠蔽するために掛けたと思われる︒壁代はもと宮殿
などで用いられたが︑寺院にも普及︑流派によって帖数・紋様・
紐・釣り方を異にし︑小野流はカベシロ︑広沢方はヘキタイと称
する︒また︑次に考えられるのは︑﹁さまぐのもちものかへ︑し
ろなべて︑いみじき名香どもかひて﹂という解釈である︒つまり︑
いろいろな持物を代金に替え︑そのお金全部で素晴らしい名香を
買っての意味にとるのである︒しかし︑この場合も︑﹁かへ﹂を金
に替えると解するにはちょっと強引であるし︑﹁しろなべて﹂をそ
の代金全部でと通解するのも︑若干文体上問題がある︒結局は︑
兜率天から返された善珠が︑もとの興福寺の自房に持物すべてを
戻して︑かつての部屋の様子をそっくり再現させ︑仏前を厳飾し
たと解するのが︑最も自然と思う︒ただ単に︑汚壁を名香を煎じ
た湯で清めただけでは駄目で︑罪を贈うにはそれ相当の道具立て
による演出が必要とされたのである︒つまり︑秋篠寺の僧正とい
う立場からではなく︑唾を吐いた当時の状況を再現し︑心もその頃に立ち帰って罪を仏前に悔いることが必要という観点からこの
大袈裟なセレモニーが描かれたのであろう︒
二 七