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幕 末 ・明 治 初 期 の ス コ ッ トラ ン ドと 日本 ア バ デ ィ ー ソ 人 ・ コ ネ ク シ ョ ソ ー 一

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幕 末 ・明 治 初 期 の ス コ ッ トラ ン ドと 日本

ア バ デ ィ ー ソ 人 ・ コ ネ ク シ ョ ソ ー 一

RelationshipofScotlandandJapaninBAKUMATSUandearlyMEIJIperiod

RoleofAberdonians'connection

MasamiKita

1.は じめ に

2.ア バ デ ィ ー ソ 人 外 交 官

3.ア バ デ ィ ー ン 生 れ の 実 業 家 4.む す び

1.は じ め に

ス コ ッ トラ ン ドは,1707年 合 併 」 後, 先 進 地 域 イ ソ グ ラ ソ ドの 社 会 ・経 済 を 急 追 す べ く 「後 進 国 の 工 業 化 」 の 典 型 を 示 し た1}.

そ して 綿 工 業 ・鉱 工 業 を 中 心 に 急 速 な 工 業 化 を 達 成 し2),ク ラ イ ド河 流 域 を 中 心 とす る 西 部 ス コ ッ トラ ン ドは 「大 英 帝 国 」 の工 場 と し て,君 臨 す る に 至 っ た3).そ れ を 象 徴 す る か の 如 く,産 業 都 市 グ ラ ス ゴ ウ は 「第 二 の 都 」 (Secondcity)と 呼 ぼ れ,ヴ ィ ク ト リ ア 盛 期 の 大 英 帝 国 の 中 枢 都 市 と な っ た4)。

1)合 併 の経 緯 に っ い て は,拙 稿 「18世紀 ス コ ッ トラ ソ ドの経 済 発 展 に 関 す る一 考 察 」(r創 大 開 学 記 念 論 文 集 』 所 収)参 照.

2)綿 工 業 に っ い て は,拙 稿 「ス コ ヅ トラ ソ ド綿 工 業 史 」(r創 価 経 済 論 集 』9巻1号 所 収).鉄 工 業 に っ い て は,同 産 業 革 命 期 ス コ ッ トラ ソ

ド製 鉄 業 と企 業 家 」(r大 阪大 学 経 済 学 』19巻4 号 所 収),同 「19世紀 に お け る ス コ ッ トラ ソ ド の 鉄 工 業 一 グ ラ ス ゴ ウ銑 鉄 輸 出市 場 を 中 心 に

」(r創 価 経 済 論 集 』2巻1号 所 収)参 照.

3)拙 評 「大 英 帝 国 の 工 場 」(Worhshopげthe BritishEmpire,r創 価 経 済 論 集 』8巻4号 収)参 照.

4)グ ラス ゴ ウ市 に っ い て は,拙 稿 「ス コ ッ トラ

こ の ス コ ッ ト ラ ン ドの 急 速 な 工 業 化 過 程 の 中 で,殊 に 世 界 市 場 開 拓 の 点 で,ア バ デ ィ ー ン 商 人 の 果 し た 役 割 は 大 き い.「 花 剛 岩 」 (granite)都 市 と 呼 ば れ た ス コ ッ トラ ン ド北 部 の 古 都 ア バ デh一 ソ は,中 世 以 来 ヨ ー ロ ッ パ 大 陸 か ら の 文 化 的 影 響 を 受 け,ま た 北 海 沿 岸 と の 通 商 で 栄 え て き た5).そ し て ま た ア バ デ ィ ー ソ は,ア メ リ カ,オ ー ス ト ラ リ ア,二 ユ ー ジ ー ラ ソ ド,イ ン ド,ア フ リ カ 各 地 へ の 移 民 に お い て も主 導 的 役 割 を 果 し た6>.事 実, アパ デ ィー ン は,教 養 ・文 化 人,政 治 家 や ロ ン ドン社 交 会 で 活 躍 した 商 人 ・企 業 家 を 数 多

ン ドの 経 済 発 展 と商 人 活 動 一 グ ラ ス ゴ ウ の 形 成 ・発 展 一 」(r近 代 経 済 の 歴 史 的 基 盤 』 ミネ ル ヴ ァ書 房 所 収)の 他,拙 「ユ ー パ ス 樹 」 (TheUpasTree,Glasgow,1875‑1975r創 経 済 論 集 』7巻2号 所 収)参 照.

5)JamesRettie,Aberdeen150Years,EP Publishingrepublished1972,pp.24‑35.

6)ス コ ッ トラ ソ ド移 民 に っ い て は,拙 「海 を 渡 っ た ス コ ッ トラ ン ド人 」(TheScottsOverseas r創 価 経 済 論 集 』2巻2号),同 「ス コ ッ ト ラ ン

ド と オ ー ス ト ラ リ ア 」(ScotlandandAustralia r同 上 』2巻3号),同 「ス コ ヅ ト ラ ソ ド と ア メ

リ カ」(ScotlandandAmerica,『 同 上 』8巻 2号)参 照.特 に ア バ デ ィ ー ソ は,英 国 国 教 会 の 海 外 布 教 や 商 業 活 動 に イ ニ シ ァ テ ィ ブ を と っ た こ と で 有 名 で あ る.

(2)

季 刊 く輩 出 し た7}.

そ し て ま た19世 紀 中 葉,こ の ス コ ッ トラ ン ドの ア バ デ ィ ー ン か ら の 人 々 が 極 東 の 日 本 へ も 到 来 し,幕 末 ・維 新 期 の 我 国 の 開 国 ・近 代 化 ・工 業 化 に 多 大 な 貢 献 を 果 し た.そ こ で 本 稿 で は,ア バ デ ィ ー ソ 入(Aberdonian)で 国 で も よ く 知 ら れ て い る 人 物 を 中 心 に,ス

ヅ トラ ソ ド人 の 我 国 と の 関 連 を 「ア バ デ ィ ー ン 人 ・コ ネ ク シ ョ ン 」(AberdonianCOnneG‑

tion)を 通 じて 浮 ぎ 彫 りに し た い.

2.ア バ デ ィー ン 人 外 交 官

A)エ ル ギ ン 卿(LordElgin)

先 ず イ ギ リス で は,1852年 に ア バ デ ィ ー ン 爵(LordAberdeen)の ゴ ウ ドン(George HamiltonGordon)が 首 相 と な っ た.彼 は, 1787年 に ア バ デ ィ ー ソ に 生 れ,1801年 に 第4 代 ア バ デ ィ ー ン 公 と な り,外 務 大 臣 を2度 (1828‑30年,1841‑46年)経 験 し て い た1>.

そ し て ゴ ウ ドン は,自 身 の 「身 内 」 「友 人 」 達 をi数 多 く登 用 し,殊 に イ ソ ド以 東 の ア ジ ア

・極 東 の 官 職 」 に つ け た の で あ る.

イ ギ リス の 時 の 外 務 大 臣 ク ラ レ ソ ド ン(G.

Clarendon)は,極 東 市 場 に 注 目 し て い た.

そ し て1854年 の 日 米 修 好 条 約 の 啄 を 聞 く と, イ ギ リ ス の 日 本 へ の 関 心 は 急 増 し た.特 に ヨ ー ロ ッパ で は ク リ ミア 戦 争 に よ っ て ロ シ ア と 戦 っ て お り,イ ギ リ ス ・フ ラ ソ ス は,極 東 の カ ム チ ャ ッ カ 半 島 の べ テRパ ブ ロ フ ス ク(Pe‑

tropavlovsk)を 砲 撃 し た こ と も あ り,日 本 へ

7)拙 稿 「日 蘇 比 較 経 済 史 明 治 維 新 と ス コ ッ

ト ラ ソ ド人 」(r創 大10周 年 記 念 論 文 集 』185

‑6頁 参 照.

1)C.Algernon,BritishForeignSecretaries 1807‑1916,G.Bell&Sons,London1927.

pp.89‑180.

集Vol・XIINo・2

の 「接 近 」 は,戦 略 上 ・商 業 上 の 理 由 を も っ て い た.そ れ 故,ク ラ レ ン ド ン は,「 ア ロ ー 号 事 件 」 の 交 渉 の た め に 中 国 に 派 遣 し て い た 全 権 委 任 大 使 エ ル キ ソ 卿(LordElgin)の ル ー ス(JamesBruce)を 日本 に 向 か わ し め, 1858年8月26日(和 暦7月18日),日 英 修 好 通 商 条 約 を 締 結 さ せ た.こ の ジ ェ イ ム ス の 兄 フ レ デ ィ リ ッ ク(Frederick)は,英 国 か ら 中 国 へ 派 遣 さ れ た 初 代 英 国 大 使 で あ っ た2).

ジ ェ イ ム ス 自 身,ス コ ッ ト ラ ン ドの フ ァ イ ブ の 地 主 で あ り,中 国 へ の 全 権 委 任 大 使 を 二 度

(1857‑59年,1860‑61年)つ と め た 他,英 国 郵 便 長 官(1859‑60年),グ ラ ス ゴ ウ 大 学 名 誉 学 長(1859‑60年),イ ン ド総 督(1862‑63 年,死 去)を つ と め た3).

B)オ リ フ ァ ソ ト (SirLaurenceOliphant)

エ ル ギ ソ使 節 団 に 同 行 し,SirElgin'sMis‑

siontoChinaandJapan,1857‑59を 編 集 し た 一 等 書 記 官 オ リ フ ァ ソ ト も,ス コ ヅ トラ ソ ド人 外 交 官 で あ っ た.彼 は,ニ ル ギ ソ卿 と の 「交 友 」 か ら随 行 を 依 頼 さ れ,極 東 へ の ロ マ ソ を 賭 け て 参 加 し た が4>,来 日直 後 の1858

2)MauriceCollis,Wayfoong,TheHongkong andShanghaiBankingCorporation,AStudy ofEastAsia'sTransformation,Political, FinancialandEconomic,duringthelast hundredyears,Faber&FaberLid.,Lon‑

don1965.P.16.な お エ ル ギ ン 卿 に つ い て は, 我 国 で は,岡 田 幸 雄 訳rエ ル ギ ソ 卿 遣 日 使 節 録 』

(新 異 国 叢 書9,雄 松 堂)昭 和43年,沼 田 次 郎

訳rエ ル ギ ソ 卿 遣 日 使 節 録 』(新 異 国 叢 書7,雄

松 堂)昭 和38年 が あ る.

3)TheHon,V.Gibbs&H.A.Doubleday, TheCompletePeerageofEngland,Scotland andIreland.,GreatBritainandtheUnited Kingdom,vol.V.LondonSt.Catherine Press.192G.pp.44‑45.

4}M.O.W.Oliphant,Memoirofthe‑Life ofLaurenceOliphantandofAlice,hiswife, WilliamBlackwood&Sons,vol.1p.16.

(3)

September1982北

年5月28日 オ ー ル コ ヅ ク(Alcock)公 使 に 随 行 し て 長 崎 か ら 江 戸 に 上 る 途 中,芝 の 東 禅 寺 に 滞 在 中 に 水 戸 浪 士 の 襲 撃 を 受 け て 「負 傷 」 し た.し か し 帰 国 後,英 国 に お い て 対 日 政 策 の 転 換 に 貢 献 し た 他,日 本 人 留 学 生 の 面 倒 を み た こ と で 有 名 で あ る.

オ リ フ ァ ソ トは,帰 国 後 ス コ ッ ト ラ ン ド各 地 で 講 演 し た 記 録 が 残 っ て い る が,特 に ア バ デ ィ ー ン で 開 か れ た 英 国 科 学 促 進 会 議 で 「日 本 地 理 」 に つ い て 講 演 し た の は,当 時 の イ ギ リス 人 学 者 ・技 術 者 に 「極 東 の 異 文 化 の 国, 日 本 」 の 紹 介 に 大 ぎ く貢 献 し た5>.'ま た オ リ フ ァ ン トは,グ ラ ス ゴ ウ と エ デ ィ ン バ ラ と 三 角 点 を 形 成 す る 古 都 ス タ ー リ ン グ(Stirling) 選 出 の 国 会 議 員(1865‑67年)と な っ た.そ の 間 に 我 国 の 「明 治 維 新 」 が 達 成 さ れ た こ と か ら,彼 は 英 国 の 各 種 の 新 聞 ・雑 誌 に 「Pマ

ン 」 を 託 し て 匿 名 で 投 稿 し た こ と が 知 ら れ る6).著 名 な ブ ラ ッ ク ウ ッ ド ・マ ガ ジ ソ に

「日 本 で の 革 命 ロ マ ン ス 」("Romanceofthe JapaneseRevolution")を 載 ぜ て い る7).

オ リ フ ァ ン トは,米 人 ハ リス(LakeHarris) の 宗 教 運 動 に 傾 注 し,そ の 後 ア メ リ カ へ 渡 っ た が,そ の 際,慶 応 元 年(1865年)に 長 崎 商 人 グ ラ バ ー を 介 し て 密 出 国 ・英 国 留 学 し て い た 薩 摩 藩 留 学 生 の う ち,畠 山 義 成(丈 之 助), 磯 永 彦 助,吉 田 清 成(巳 次),市 来 和 彦(勘 十

郎),森 有 礼(金 之 丞),鮫 島 尚 信(誠 蔵)を 連 れ て ゆ き,彼 等 の 帰 国 後 の 人 生 に 大 き な 影

政 巳:幕 末 ・明 治 初 期 の ス コ ッ ト ラ ン ド と 日 本

5)Reportofthe29thmeetingoftheBritish AssociationfortheAdvanceynentofScience, Aberdeen,Septemberin1859London,1860.

PP・194‑5.

6)M.0.W.Oliphant,op.cit.,vol.1pp.

..

7)Blackwood'sMagazine,vo1.115.Janu。

June,1874.pp.696‑712.

43

響 を 与 え た8).

こ の 様 な か た ち で エ ル ギ ソ卿 や オ リ フ ァ ソ トの 活 躍 に よ る 「外 交 関 係 」 に 活 路 が 開 か れ た こ と は,ス コ ヅ ト ラ ン ド商 人 達 に 「極 東 の 新 市 場 」,日 本 へ の 進 出 を 刺 激 し た.19世 紀 の 後 半 に は,ス コ ヅ ト ラ ン ドの 工 業 化 が ク ラ イ ド地 域 を 中 心 に 完 成 さ れ る に つ れ て,グ ラ ス ゴ ウ 商 人 ・技 術 家 の 「黄 金 時 代 」 を 迎 え る こ と に な る が,そ れ 以 前 の 同 世 紀 の 中 葉 ま で は ア バ デ ィー ソ 出 身 の 外 交 官 の 「友 人 」 達 の ア バ デ ィ ー ン 商 人,さ ら に ス コ ヅ ト ラ ン ド東 部 海 岸 出 身 者 の 活 躍 し た 時 代 で も あ っ た9).

事 実,我 国 の 幕 末 ・明 治 維 新 期 に 活 躍 し た イ ギ リ ス 人 商 人 達 も,ス コ ッ ト ラ ソ ド,殊 ア バ デ ィ ー ン 出 身 者 で 占 め ら れ て い た こ と に 注 目 さ れ る.

3.ア バ デ ィ ー ン 生 れ の 実 業 家

A)サ ザ ラ ン ド(ThomasSutheland)

サ ザ ラ ン ドは,1834年8月 ア パ デ ィ ー ン に 生 れ,ア バ デ ィ ー ソ 文 法 学 校 を 卒 業.1848年 ア バ デ ィ ー ソ 大 学 マ ー シ ャル ・ コ レ ッジ に 入 学 し た が,1年 で 退 学 し て 実 業 界 へ 入 っ た1).

8)大 塚 孝 明r薩 摩 藩 英 国 留 学 生 』(中 公 新 書, 375,X975年)126‑138頁,芳 即 正 『薩i摩 人 と ヨ ー ロ ヅパ 』(著 作 社,1982年)163‑186頁.

9)例 え ば,1881年 グ ラ ス ゴ ウ で 「東 洋 美 術 展 」 が 開 か れ,500点 近 く の 陶 磁 器 が 出 品 さ れ た が, そ の 賛 助 者 リ ス ト65名 中,フ ァ イ ブ,ス ソ ト ・ ア ソ ド リ ュ ー,ダ ソ デ ィ ー 等 の 住 所 の 人 々 が 多 数 で あ った こ と も,そ れ を 例 証 し て い る.Ori‑

entalArtLoanExhibition,ComprisingPrin‑

cipallytheDecorativeArtsofJapanand Persia,CorporationGallaries,Glasgow,Dec

..May1882に 詳 しい . 1)AberdeenUniversityReview,vol.IX,1921

‑22,pp.186‑7.な お サ ザ ラ ソ ド氏 に 関 す る 資 料 に つ い て は,ア バ デ ィ ー ン 大 図 書 館 ・市 図 書 館 の 他,ロ ン ドン のP&0会 社 資 料 室 の お 世 話 に な っ た.

(4)

44 季刊 創 価 経 済 論 集

そ し て1852年,P&0社(Peninsularand

OrientalNavigationCo..)の ロ ン ドン 事 務 所 に,18歳 で 入 社 し た.記 録 で は 「同 事 務 所 で 最 低 の 俸 給 」 で あ っ た2),

こ のP&0汽 船 会 社 は,ス コ ッ ト ラ ン ドの シ ェ ト ラ ン ド出 身 の ア ン ダ ー ソ ン(W.An‑

derson)が ア イ ル ラ ン ド 船 主 と 提 携 し て 創 立,政 府 補 助 金 に も と つ い て1837年 以 降 イ ベ リ ア 半 島 諸 港 間 に 定 期 郵 便 船 を 運 航 し て い た が,1840年 に 新 た に 郵 便 事 業 契 約 を も つP&

0汽 船 株 式 会 社 を 設 立,ロ ン ド ン の 株 式 市 場 の 資 金 を 得 て 在 イ ソ ド商 船 の 東 西 汽 船 航 路 計 画 を 吸 収 し て,積 極 的 に ア ジ ア に 進 出 し よ う

と し て い た3>.

サ ザ ラ ン ドは,ア ン ダ ー ソ ソ氏 に 見 込 ま れ て1854年 に は イ ン ド ・中 国 へ 出 張 し た.同 は,そ の 頃,イ タ リア,ギ リ シ ア,黒 海,セ イRン,マ ド ラ ス,カ ル カ ッ タ,さ ら に オ ー ス トラ リ ア に 航 路 を 開 き つ つ あ り,真 に イ ギ

リス 資 本 主 義 の 「動 脈 」 と し て,世 界 市 場),Yy1...

「資 財 」 と 「商 人 」 を 送 り 出 す 「先 兵 」 を つ と め て い た.

サ ザ ラ ソ ドは,1854年 以 降 の12年 間,中 を 中 心 に 極 東 で のP&0社 の 企 業 活 動 の 指 揮 を と っ た.そ の 間,ス コ ッ ト ラ ソ ド 銀 行 業 を モ デ ル と し て 香 港 ・上 海 銀 行 を 創 立 し た

Vol.XIINo.2

2)BoydCable,AHundredYearHistoryof theP&O,PeninsularandOrientalSteam NavigationCompany,1837‑1937.IVORNI‑

CHOLSON&WATSON,London,1973,p.

169.

3)Sir.T.Sutherland,Notesonjapan,P&

OArchivesp.1.ま たP&0社 に っ い て は, 我 国 で の 研 究 と し て は 中 川 敬 一 郎 「P&0汽 船 会 社 の 成 立 一 イ ギ リス 東 洋 海 運 史 の 一 齢 一 (土 屋 喬 雄 教 授 還 暦 記 念 論 文 集r資 本 主i義 の 成 立 と 発 展 』 〔r経済 学 論 集 』 第2巻6号)が 参 考

と な る.

他4),香 港 ・黄 浦(HongkongandWham・

poa)ド ッ ク ヤ ー ドを 創 業 し,香 港 に 商 業 ・ 海 運 上 の 基 地 を 築 い た.

ス コ ヅ トラ ン ド人 外 交 官 エ ル ギ ン卿 の 日英 通 商 協 定 締 結 の 噂 を 聞 くや,ア ヘ ン 帆 船(o・

piumclipper)で 荒 海 の 東 シ ナ 海 を 渡 り,長 崎 に 到 来 し た5).彼 は 「変 装 」 し て 長 崎 に 上 陸,オ ラ ン ダ 人 長 崎 総 督 の 紹 介 で 日本 人 商 人 と 会 い,1週 間 滞 在 し た 後,香 港 に 戻 り,本 社 宛 に 「上 海 と 日本 間 に 試 験 的 航 路 を 開 くべ き で あ る 」 と 通 信 し た6).

こ の 提 案 は,理 事 会 で 是 認 さ れ,P&0社 蒸 気 船 「ア ゾ フ 号 」(AZOF,700ト ン)は1859 年8月31日 香 港 を 出 立,9月3日 の 夕 方 に 長 崎 に 入 港 し た.そ の 後 同 船 に よ る 上 海 か ら 長 崎,横 浜 へ の 航 路 が 開 か れ た 。 サ ザ ラ ン ドの 回 想 録 に よ る と 「日本 は 外 界 に 対 し て は,オ

ラ ン ダ 貿 易 を 例 外 と し て は,二 世 紀 以 上 も の 間,閉 さ れ て き た.そ の オ ラ ソ ダ も年 に 二 船 舶 を 越 え る 取 引 を 認 め ら れ ず,そ の 唯 一 の 寄 港 先 の 長 崎 で も 今 日 の 大 型 船 ほ ど の 小 島 に 停 泊 を 許 さ れ た の み で あ っ た 」.そ し て 初 め て 見 た 「日 本 」 に つ い て,「 そ の 国 の 豊 か な 緑 の 美 し さ は,長 い 間 中 国 の 岩 の 多 い ゴ ツ ゴ ツ し た 海 岸 線 と 広 大 な 沖 積 平 野 に 慣 れ て い た 人

4)同 銀 行 に っ い て は,目 下,香 港 大 学 の キ ソ グ (A.King)教 授 下 の プ ロ ジ ェ ク トで 「社 史 」 編 纂 が 進 め ら れ て い る.同 銀 行 が 我 国 の 工 業 化 初 期 に 果 し た 金 融 的 役 割 に は 注 目 さ れ る.

5)そ の 船 は,香 港 で 活 躍 す る ス コ ヅ トラ ソ ド商 人 のDent&Co.,所 有 で あ っ た.彼 の 述 壊 で 「船 上 に は 三 人 の 乗 客 が い た.う ち 二 人 は ア バ デ ィ ー ソ 人 で,私 と学 校 時 代 の 同 級 生 で イ ソ ド軍 の 若 き 医 者 ベ ス ト(SandyBest)で あ っ た.も う一 人 は,フ ラ ソ ス 人 で,以 前 に も 同 航 海 を した こ と が あ る よ うに み え,武 器 販 売 の 商 業 機 会 を 求 め て い る 様 子 で あ っ た 」 と あ る.

SirThomasSutherland,Anextractfrom

"ALMAMATER ,"8thJaunary1930.

6)B.Cable,op.cit.,p.173.

(5)

September1982北

々 に は,意 外 な 発 見 で あ っ た 」 と の べ る7).

ま た 日本 人 に つ い て 「住 民 は,何 世 紀 も の 間,祖 先 か ら の 原 始 ・素 朴 的 な 生 活 を 送 っ て い る が,小 家 屋 な が ら優 雅 で 清 潔 感 あ ふ れ る 生 活 で あ る.何 人 も 足 覆 を 脱 い で 後 に 上 る こ

と が 許 さ れ る.家 具 は 若 干 種 の 塗 物(lacquer ware),食 器 に は 薄 手 焼 の 磁i器(egg‑shell

表119世 紀 のP&O社 の 日本 へ の サ ー ヴ ィ ス 郵 便 ・乗 客 サ ー ビ ス

1859年 上 海 一長 崎 間 、サ ー ヴ ィス 開 始.

大 体 月1回 の割 合 AZOF,ADEN,CADIZ, CHUSANで 航 行.

1860年1月 長 崎一 横 浜 まで拡 張.

1861手5月}不

ユ863年7月 上 海 一 横 浜s2週 間 毎 に な る.

1867年

1874年

...年

1892年

1896年

1897年

1898年

ユ899年

政 巳:幕 末 ・明 治初 期 の ス コ ッ トラ ソ ド と 日本

郵 便 コ ン トラ ク ト,上 海 一 横 浜 一 上 海2週 間.

郵 便 コ ン ト,ラク ト,香 港 一一横 浜 一 香 港

荷 物 サ ー ヴ ィ ス

コ ロ ン ボー 横 浜3航 pン ドンー 日 本 一 ロ ン ド ン

4航 海

ロ ン ドンー 日本 一 ロ ン ドン 30航 海

ボ ン ベ イー 香 港 一 ボ ン ベ イ 15航 海;そ の う ち6つ は 神 戸 ま で 拡 張.

ロ ン ド ンー 日 本 一 ロ ン ド ン 27航 海

ロ ン ドンー 日本 一 ロ ン ド ン 26航 海

ボ ン ベ イー 神 戸 一 ボ ン ベ イ 13航 海,ロ ン ドンー 日本 一 ロ ン ド

ン26航 Sir.T.Sutherland,NoesonJapan.(P&0ロ

ン ド ン 本 店 資 料 室 蔵)か ら 作 成.

7)そ の 時 の 記 録 で は 「距 離 は 僅 か500マ イ ル で あ るが,悪 天 候 の た め,航 海 に は一 週 間 を 要 し た 」 とあ る.

45

porcelain)を 用 い る.入 浴 は プ ラ イ バ シ イ の な い 万 人 の 慣 習(universalhabit)で あ る.

男 性 は 上 気 嫌(goodhumour)で 礼 儀 正 し く, 女 性 は 優 美(graceful),そ の 言 葉 は 音 楽 調 (musicaltone)で あ る.そ れ ら 全 て か ら, 日 本 は 魅 惑 的 な 国(1andofenchantment)

.で あ る 」8)と 述 懐 し て い る.

1863年 に は 上 海=長 崎,横 浜 間 に2週 間 毎 の 定 期 便 が 走 る こ と に な り,新 規 に 「コ リ ア 号 」(Corea)が 購 入 さ れ た9).

彼 が 二 度 目 に 訪 日 し た 時,彼 の 記 憶 に よ れ ぽ 「丁 度,ク ー パ 提 督(AdmiralCuper)が

下 関 を 砲 撃 し た 直 後 で あ っ た.そ の 時,私 横 浜 へ の 郵 船 事 業 開 始 の 準 備 中 で あ っ た 」 と あ る.面 白 い こ と に,「 日本 に あ っ て,こ 訪 問 時 に 初 め て 地 震(earthquake)を 経 験 し た.或 朝 寝 室 の ベ ラ ン ダ で 身 仕 度 を 整 え,髪 に ブ ラ シ を か け て い る と,ま る で 何 ら か の 重 力 が 働 き 背 後 の 部 屋 に こ ろ が さ れ(asifsome heavyweightwasbeingtrundledthrough

thehallhehindme),そ の 時 の 揺 れ か ら 頭 上 の た る き(rafter)が 曲 が り,ひ び 割 れ す る の を 見 た 」10)ので あ る.

1861年 ま で に,ア ゾ フ 号 に 続 い て,「 ア デ ン 号 」(ADEN),「 カ デ ィ ス 号 」(CADIS), 続 い て 「チ ユ サ ン 号 」(CHUSAN)が,上

と長 崎 間 を16〜18日 間 で 航 海 し た11>.そ し て g}ALMAMATERS.Janu.1903.

9)同 船 は610ト ソ,価 格 £26,000で 購 入 さ れ た.

P&O.Directors'Minute.3.June.1864.

10)そ の 後 も 数 回 地 震 を 経 験 し た が,「 横 浜 は, 或 る 種 の 沼 地(morass)帯 の 上 に あ り,細 い 木 材 を 用 い た 家 屋 に は,僅 か な き し み(shaking) は 決 し て 危 険 な も の で は な い 」 と 分 っ た と あ

る.

11)そ し て 「チ ュ サ ン 号 」 は,不 幸 に も1910年4 月8日,神 戸 で 爆 発 ・焼 失 し た.し か し1954年, 約 百 年 祭 を 祝 うか の 如 く,P&0社 の 最 新 客 船

「チxサ ソ 号 」(24,200ト ソ)が 横 浜 ・神 戸 へ 入

(6)

46季 通 商 以 外 に も 「娯 楽 と 観 光 を 求 め て の 西 欧 人 が 日 本 へ 到 来 し た 」.巨 額 な 為 替 取 引 を 生 み, そ の 結 果,徳 川 幕 府 は 「資 源 の 枯 渇 を 恐 れ て,外 国 通 貨 の 為 替 制 限 を 強 化 し て 」 対 応 し た の で あ る.

1860年 に 最 初 のP&0社 船 が 横 浜 に 到 着 し て 以 来,将 軍 か ら み と め ら れ た 「居 留 地 」を 中 心 に 発 展 し,横 浜 は 新 時 代 の 通 商 の 中 心 地 と

な っ た.そ こ に は 財 務 局(TreasuryHouse), 関 税 局(CustomHouse)が 設 立 さ れ た.そ し てP&0社 は,1866年7月11日,横 浜 中 区 山 下 町14(の ち15に 移 る)番 地 に 支 店 を 開 い た.サ ザ ラ ン ド 自 身 の 邸 宅 か ら 約100ヤ ー ド に あ っ た と 記 録 に あ る12).

爾 来,P&0社 と そ の 横 浜 支 店 は,大 変 有 名 と な っ た 、 初 期 の 語 葉 集 の エ ピ ソ ー ドに,

「私 は こ れ ら の 品 物 をP&0蒸 気 船 で 船 積 み し た い 」(Iwanttoshipthesethingson

theP&Osteamer)の 邦 訳 に,「 私 は こ れ ら の 品 物 をNo.15の 船 で 船 積 み し た い 」(Iwant 専oshipthesethingsonNo.15)と し た 程 で あ る.

ま たP&0社 の 「チ ュ サ ソ 号 」 は,1861年 に 同 社 か ら 売 却 さ れ て 松 山 藩,さ ら に 長 州 藩 へ と渡 り,戦 「加 洋L」(KayoMaru)と

再 命 名 さ れ た.即 ち 日 本 人 に 所 有 さ れ た 最 初 の 西 洋 船 と な っ た.ま た 大 阪 停 泊 中,明 治 元 年4月 に 明 治 天 皇 が 閲 見 し た 最 初 の 西 洋 船 で

も あ っ た,

港 し た.そ し て1959年4月 「ヒ マ ラ ヤ 号 」(HI‑

MALAYA)が 横 浜 へ 入 港 し,百 年 祭 を 祝 賀 し

た.Sir.WilliamCurrie,Chairman'sMessage forCenetarySupplementstoappearinJapa‑

nesepress,P&OArchivesp.9.

12)現 在 は,長 年 同 社 の 代 理 店 を つ と め て い

Mackinnon,Mackenzie&Co.,の 事 務 所 が あ る.

集VoLXIINo.2

1867年 に は,上 海 と 横 浜 間 に 長 崎 経 由 で2 週 間 毎 の 郵 便 業 務 が 始 ら れ た.日 本 と西 洋 と

の 貿 易 が 拡 大 す る に つ れ,P&0社 の 取 引 量 は 増 大 し た,1889年 に は,横 浜 と イ ソ ドの ボ ソ ベ イ 間 の 直 接 航 路,1892年 は 胃 ン ド ソ ・日 本 間 の 直 接 貨 物 航 路 が 開 か れ た.そ の 間 のr旅 行 者 用 ハ ン ド ・ブ ヅ ク 』 は,「 日 本 へ の 旅 」と

し て 「サ ザ ン プ ト ン を 出 立 し,P&0社 船Aden, Madras,Calcutta,Penang,Shingapore,

Batavia,Hongkong,Shanghaiそ し て 横 浜 へ の 旅 行 者 は,約5日 後 ジ ブ ラ ル タ ル へ 着 く, 6時 間 停 泊 後,マ ル タ へ 向 う.そ こ で 約12時 間 停 泊,次 い で ア レ ク サ ン ド リ ア へ 向 う.こ

こ ま で 約13日 間 で あ る 」,「 旅 客 は,エ ジ プ ト を 通 っ て 陸 路 で 運 ば れ る 」,「 ス エ ズ で は,旅 客 ほ 待 ち 構 え て い るP&0社 船 で,Pointde Galle(Ceylon)へ 向 う.そ こ か ら香 港 へ 向 い,さ ら に 彼 地 か ら 横 浜 へ 向 っ た.即 ち サ ザ ソ プ トン か ら横 浜 へ の 旅 は,2ヵ 月 間 で4回 の 船 を 乗 り継 ぐ 旅 で あ る 」 と あ る13).

そ の 間,不 幸 な 事 件 も あ っ た.日 本 向 け の 便 に 購 入 さ れ て い た 「コ リ ア 号 」 が1865年 夏,香 港 近 く の 海 で 台 風 の た め 沈 没 し た.

「103名 の 人 命 が 失 な わ れ,会 社 の 歴 史 上 最 も 悲 惨 な 海 難 事 故 と な っ た.そ の 犠 牲 者 の 中 に は,日 本 へ のrア ゾ フ 号 』 処 女 航 海 時 の 一 等 航 海 士 を つ と め た バ ー ド大 尉(CaptainJ.W.

D.Bird)で,そ の 時 のrコ リ ア 号 』 の 船 長 で あ っ た 」 の で あ る.

サ ザ ラ ン ドは,1866年 にP&0社 の ロ ン ド ン 事 務 所 へ 戻 り,本 社 で 活 躍,社 長 ア ン ダ ー

ソ ン に 見 込 ま れ,1868年 に は,ア シ ス タ ン ト

・マ ネ ジ ァ ー に 任 ぜ ら れ た.彼 は, .P&0社

13)Sir.W.Currie,op.cit.,pp.6‑7.

(7)

September1982北

を 代 表 し て,ス エ ズ 運 河 開 通 の 問 題 に 対 処 し た14).そ し て1872年 に は,P&0社 の 専 務 取 締 役(managingdirector)と な っ た.1880 年 に マ ク ノ オ(JohnMacnaught)の 末 娘 ア

リ ス(Alice,1920年 死)と 結 婚 さ ら に 1881年 に は 同 社 会 長(chairman)と な り, 1915年 ま で 努 め た.そ の 間,会 社 業 務 の 改 革

と 拡 張 を 進 め,熾 烈 な 海 運 会 社 間 の 競 争 の 中 で,P&0社 の 安 定 し た 地 位 を 保 っ た.ま 1883年 の ス エ ズ 運 河 会 社 と英 国 船 主 間 の 「協 定 」 に も,彼 が 重 要 な 役 割 を 果 し た.

サ ザ ラ ソ ドは,1891年 にK,C.M.G.(Knight CommanderofSt.MichaelandSt,George)

に 任 ぜ ら れ,1897年 に は,G.0.M.G。(Knight GrandCrossofSt.MichaelandSt.Geor‑

ge)YT昇 任 さ れ た.ま た1884年 に 自 由 党 で グ ラ ス ゴ ウ近 隣 の 造 船 業 地 帯 の グ リ ー ノ ッ ク (Greenock)か ら 国 会 議 員 と な っ た15).の 自 由 ・連 合 主 義 者(LiberalUnionist)と っ た が,1900年 ま で 議 員 を 努 め た.1892年 は,ア パ デ ィー ン 大 学 か ら 名 誉 学 位 を 贈 ら れ て い る,

サ ザ ラ ソ ドは,P&0社 の 会 長 職 の 他,ス エ ズ 運 河 会 社 委 員 長(自 身,同 社 副 社 長 で も あ っ た),ロ ソ ド ソ 市 ・ミ ド ラ ソ ズ 銀 行(Lodon CityandMidlandBank)理 事,海 上 ・一一般

政 巳:幕 末 ・明 治 初 期 の ス コ ッ ト ラ ソ ド と 日 本

14)1869年,ロ ン ド ン と カ ル カ ヅ タ 間 の 船 賃 は, 10〜12ポ ン ドで あ っ た が,1887年 頃 に は そ れ が 20〜30シ リ ソ グ と な っ た.ま た 同 様 に 香 港,オ

ー ス トラ リア か ら の 料 金 も,各 自25,30ポ ソ ド か ら25,50シ リ ン グへ と 下 落 した.上 海,日 か ら も28〜30ポ ソ ドが30〜40シ リ ソ グ へ と下 落 した.ま た 正 貨(specie)率 も 価 格2。5%0か 0.5%0へ と 下 落 し た,B.Cable,op.CZt.,p.

182.

15)グ リー ノ ッ ク は,グ ラ ス ゴ ウ市 の 要 港 で 造 船 業 の 中 心 地,こ れ か ら も サ ザ ラ ン ド と ス コ ヅ ト

ラ ソ ド造 船 ・海 運 業 と の 関 連 が 推 さ れ る.

47

保 険 会 社(MarineandGeneralAssurance

Society)委 員 長,テ ィ ム ズ 船 員 訓 練 短 大 (ThamesNauticalTrainingCollege)の 員 長 を 努 め た.

P&0社 は,1916年 に ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド海 運 会 社(NewZealandShippingCo..)と

連 合 蒸 気 航 海 会 社(FederalSteamNaviga・

tionCo.,)を 合 併 し,さ ら に 翌 年 に は 貨 物 海 運 社 の ヘ イ ン(Hain)社,ノ ウ ル ソ(Nourso) 社,太 平 洋,オ ー ス ト ラ リ ア,ニ ュ ー ジ ー

ラ ン ドに 勢 力 の あ っ た 南 海 合 同 海 運(Union S.S,Co.,)も 吸 収 合 併 し た.1919年 に は オ リ エ ン タ ル 航 路(OrientalLine),翌 年 に は 一 般 蒸 気 航 行 会 社(GeneralSteamNavigation

Co.,)の 経 営 権 に も 参 画 し,そ の 制 御 を 可 能 と し,大 英 帝 国 の7つ の 海 を 連 結 す る 「幹 線 網 」 を 形 成 し た.そ の 昔1840年,シ ェ トラ ソ ド出 身 の ア ソ ダ ー ソ ン が 同 社 を 法 人 化 し た 時 11隻 で5.132総 ト ソ の 艦 隊 で あ っ た が,後 者 ア バ デ ィ ー ン 人,サ ザ ラ ソ ドの 手 に よ っ て, 1920年 に は367隻230万9千 総 ト ン を 誇 る 大 艦 隊 と な っ た16}.

ま た 我 国 の 日 本 郵 船,そ の 他 の 海 運 会 社 も,P&0社 に 学 ぶ こ と に よ り成 長,い ず れ 競 争 相 手 と な っ て ゆ く こ と に な る17>.そ の 後 サ ザ ラ ソ ドは,P&0社 の 第 一 線 の 企 業 活 動 か ら 引 退 す る と,北 ス コ ッ トラ ン ド の ロ ス シ ア(Ross‑shire)に 隠 居 し た.彼 地 に て,極 東 の 小 国 の 日 本 が 著 し い 工 業 化 を 達 成 し,

「東 洋 の イ ギ リス 」(BritainoftheEast)と

し て,本 家 の イ ギ リス 海 運 業 の 「競 争 者 」 と

16)Sir.WilliamCurrie,op.cit.,p.7.

17)Golden,jubileeHistory(ゾ1>=.YK...

1935.(P&0資 料 室 蔵)、pp.1‑2.特 に ボ ソ ベ イ 航 路 を め ぐ る 両 社 の 「争 い 」 を 伝 え る.

(8)

4$ 季刊 創 価 経 済 論 集

な りつ つ あ る 姿 に 接 し,「 果 し て 自 分 の 為 し た 未 開 の 国 日 本 の 開 国 と 通 商 が 良 か っ た の で あ ろ うか 」 と 述 べ 置 い て い る18).そ れ は と も か く と し て,彼 自 身 の 「立 身 出 世 」 は,典 的 な ス コ ッ トラ ン ド人 の 成 功 談 で あ り,「 倹 約 」 で 有 名 な ス コ ッ トラ ン ド人 の 中 で も 特 に

「ヶ チ 」(mean)と 云 わ れ た ア バ デ ィ ー ソ 人 (Aberdonian)の 美 談 の 典 型 」 と い え る の で は な か ろ うか.

B)シ ャ ン ド(AlexanderAllen Shand)

シ ャ ン ド は,1844年 に ア バ デ ィ ー ン に 生 れ,ス コ ッ ト ラ ン ドの 銀 行 で 働 い た 後,幕 の1866年 頃 に は チ ャ ー タ ー ド ・マ ー ヵ ン タ ィ ル 銀 行(CharteredMercantileBankofIn‑

dia,LondonandChina)の 行 員 と し て 横 浜 に 到 来 し た.所 在 は 横 浜78番 地 に あ り,「 鉄 柱 バ ン ク 」 と し て 親 し ま れ て い た.ま た 同 銀 行 は,1858年 の 創 立 で,1851年 創 立 の 「オ リ ェ ン タ ル 銀 行 」(OrientalBank)と 共 に,我 国 に 早 く か ら 進 出 し て い た1),

彼 の 姓 シ ャ ソ ドは 北 ス コ ッ ト ラ ソ ドに 縁 す る 名 前 で あ る.彼 の 実 家 は,ア バ デ ィ ー ン の 造 船 所 ホ ー ル(AlexanderHall)の 船 舶 を 商 取 引 し て い た と 推 さ れ る2).ま た ウ ィ リ ア

18)Ross‑shireJournal,1.Sept.1880.

1)オ リエ ソ タ ル 銀 行 は,1884年 に 倒 産 し,新 リエ ン タ ル 銀 行 と な る.さ ら に1892年 に 支 払 停 止,1893年 に 再 倒 産 し た.そ の 記 録 はPublic RecordOfficeJ/90/1770‑1774に あ る.そ り 他

オ リエ ン タ ル 商 業 銀 行(OrientalCommercial

Bank)も あ っ た が,ユ878年 に 倒 産 し た.そ 記 録 は,William&Glyn'sBankの 資 料 室 に

あ る.残 念 な が らCharteredBankofIndia,

Australia&Chinaに っ い て は,詳 し い 記 録 が 残 っ て い な い.そ れ ら に っ い て,ま た シ ャ ソ

ドの イ ギ リス で の 記 録 に っ い て は,英 国 ミ ドラ ソ ズ 銀 行 の 資 料 保 管 人 グ リ ソ(E.Green)氏 お 世 話 に な っ た.

2)ア パ デ ィ ー ソ 資 料 室 に,WilliamShand&

Vol.XIINo.2 ム ・シ ャ ソ ドは,イ ソ ドの ボ ソ ベ イ を 中 心 に 商 活 動 し て い た 自 分 の 一 族 に 中 古 船 舶 を 販 売 し て い た.ま た 彼 の 一 族 と推 さ れ る シ ャ ソ ド (J.S.Shand)が1865年 頃 か ら 横 浜 を 中 心 に 商 業 活 動 を し て い た3).

シ ャ ン ドは,青 年 時 代 か ら 自 由 ・民 主 主 義 の 熱 心 な 信 奉 者 で ス コ ッ トラ ソ ド出 身 で リバ

プ ー ル 選 出 の グ ラ ッ ドス トー ソ(williamE.

Gladstone1809‑95)の 崇 拝 者 で あ っ た.ま た 彼 の 弟 ハ ソ ス(Hans,George.Leslie.

Shand)は,1892‑94年 の 間 グ ラ ッ ドス トー ン 氏 の 私 設 秘 書 で あ っ た4}.

シ ャ ン ドは,マ コ ウ レ イ(T.B.Macaulay の 『英 国 史 』を ほ と ん ど 暗 諦 す る ほ ど 熟 読 し, ま た ジ ェ ボ ン ス(W.S.Jevons),マ ク ロ ウ ド(H.D,Macleod),ス コ ヅ ト ラ ン ド人 経 済 学 者 ミル(JohnStuartMill)等 を 愛 好 し 日本 に も 紹 介 し た.特 に ミル は,中 村 正 直 r自 由 論 』翻 訳 を は じ め,明 治 初 期 に 数 多 く邦 訳 さ れ て い た 。 彼 の 父(JohnStuart)は イ ソ ド会 社 に 関 連 し て い た 時 代 に,同 じ く ス コ ヅ ト ラ ン ド人 で ロ ン ド ン 大 学 化 学 教 授 ウ ィ リ ア ム ソ ン(A.Williamson)の 父 と 友 人 で あ っ た.こ の ウ ィ リ ア ム ソ ン は エ ル ギ ン領 で 生 ま れ,大 陸 と グ ラ ス ゴ ウ で 教 育 を 受 け て,

ロ ン ドン 大 学 学 長 キ イ(T.W,Key)博 を 義 父 に も っ て い た.こ の ウ ィ リ ア ム ソ ソ

Co.,Book‑keeperofA.HallShipyard1833

‑37が あ る .そ れ は,ホ ー ル 造 船 所 の 中 古 船 舶 を 取 引 し た 記 録 で あ る.

3)横 浜 で 創 刊 さ れ たTransactionoftheAsi‑

anticSociuetyofJapan,vol.1,0ct.1872,

p.VII.の 定 期 購 読 者 にW・J・S・Shandの が 載 っ て い る.

4)英 国 で の グ ラ ッ ドス ト ー ソ 研 究 家 の ジ ョ ソ ス ト ソ 氏 は,「 何 故 グ ラ ッ ドス ト ー ソ の 秘 書 と な っ た か は 分 ら な い が,オ ク ス ・ ブ リ ッ ジ の 卒 業 生 で は な か っ た 」 と 返 事 が あ っ た.

(9)

September1982北 政 巳:幕 末 ・明 治 初 期 の ス コ ッ ト ラ ソ ド と 日 本

が,友 人 の マ セ ソ ソ(H.Matheson)か ら 依

頼 され,幕 末 期 の長 州 ・薩 摩 藩 の 日 本 人 学 生 を 面 倒 み た.こ こ で は 省 略 し た が,マ

ソ ソ は,ジ ヤ ー デ ィ ソ ・マ セ ソ ン(Jardine Matheson)社 の ロ ン ド ソ 支 店 長 で,日 本 へ

も ケ ズ ウ ィ ッ ク(WilliamKeswick)を 香 港

か ら送 り込 み,横 浜 英 一 番 館 を 中 心 に 活 発 な 商 活 動 を 展 開 し て い た5).こ の ウ ィ リ ア ム ソ ン と ミル は,隣 近 所 に 住 ん で お り,こ の 関 連 か ら 「ウ ィ リ ア ム ソ ンが 日 本 人 学 生 に ミル を 紹 介,そ の 書 物 を 読 む こ と を 薦 め た 」 と 推 さ れ る6).

シ ャ ソ ドは,明 治2年(1869年)頃 に は, チ ャ ー タ ー ド ・マ ー カ ソ タ ィ ル 銀 行 横 浜 支 店 の 支 店 長 代 理(actingmanager)と な っ て い た.そ し て 「シ ャ ソ ド と い さ さ か の 因 縁 を

も っ て,幕 末 に ヨ ー ロ ッ パ へ 渡 り,慶 応3年 (1867年)か ら4年(明 治 元 年)に ヨ ー ロ ッ パ 先 進 諸 国 の産 業 ・経 済 事 情 や 政 治 情 勢 を 見

49

聞 し て きた 」7)渋沢 英 一 の立 案 に よ る 国 立 銀 行 制 度 実 施 の た め,明 治5年(1872年)シ ン ドは 招 聰 され,7月8日 紙 幣 寮 に 雇 入 れ ら れ 銀 行 業 務 に従 事 す る こ とに な っ た.そ の前 年 彼 の 妻 エ メ リ ー ・ク リ ス マ ス は,男 女 の 双 生 児 を 生 ん で い た8).

シ ャ ン ドは,明 治5年10月1日 大 蔵 大 輔 井 上 馨 と雇 入 れ 条 件 書 を 交 換 した9>.こ の井 上 は,幕 末 の 長 州藩 英 国 留 学 生 の 一 人 で ア バヅ

ィー ン人 グ ラバ ーの 援 助 で 伊 藤,山 尾 等 と出 国,ロ ン ドン 大 の ウ ィ リ ア ム ソ ン 教 授 の 庇 護 を 受 け,滞 在 中 に ウ ィ リ ア ム ソ ン の 前 任 者 で ス コ ッ ト ラ ソ ド人 英 国 造 幣 局 長 グ レ ア ム(T.

Graham)の 世 話 で,造 幣 局 の 「徒 弟 」 修 行 を し て 帰 国,新 政 府 に 登 用 さ れ て い た10).

シ ャ ン ドの 雇 用 条 件 は,紙 幣 寮 付 属 書 記 官,期 間3年(1872年10年1日 付),月 給 初 年 度450円 で あ っ た11).シ ャ ソ ド の 仕 事 は,

一 方 で は 銀 行 簿 記 法 の教 科 書 作 成 の た め ,

5)ジ ャ ー デ ィ ソ ・マ セ ソ ン社 の 横 浜 で の 活 動 に っ い てJardine'sCB?ZtZLYyinJapan,Publi‑

shedbyJ.Matheson&Co.,Tokyo,1959

が 大 変 参 考 に な る.ま た 我 国 で は,ジ ャ ー デ ィ ン ・マ セ ソ ソ 社 の 研 究 に,内 田 直 作rJMCの 展 史 一 ス コ ッ ト ラ ン ド 系 商 社 の 典 型 」

(1)〜(N)」(r亜 細 亜 大 学 経 済 学 紀 要 』6巻1 号 〜7巻2号)の 他,最 近 の 研 究 と とて,石 寛 治 「ジ ャ ー デ ィ ン ・マ セ ソ ン商 会 の 対 日 活 動 1870,80年 代 を 中 心 に 一 一 」(1),(2)(r東 経 済 学 論 集 』 第48巻 第1・2号)が あ る.

6)J.S.ミ ル 研 究 の 権 威,杉 原 四 郎 教 授 は 「当 時 ミル は,イ ギ リ ス の 思 想 界 で は 有 名 で,1865

‑68年 に は 国 会 議 員 と し て 活 躍 し て お り ま し た が,彼 は 大 学 の 教 授 で も 官 吏 で も な く,在 野 の 人 間 で し た の で,日 本 人 が 直 接 彼 に 近 づ く 機 会 は と ぼ し か っ た わ け で す 」(rJ.S・ ミル と現 代 』 岩 波 新 書118,163頁,1980年)と い わ れ る.私 の 調 査(U・C.L.資 料 室)で は,ウ ィ リ ア ム

ソ ン の 父 と ミ ル の 父 は 東 イ ソ ド会 社 の 同 僚 で あ り,彼 等 は 住 居 で も 隣 人 関 係 に あ っ た.且.Hale Bellet,UniversityCollgeLondon,1826‑‑192G , LondonUnivPress1929の ウ ィ リ ア ム ソ ソ 教 授 の 項 〔同 書 は ペ ー ジ 数 な し〕 参 照.

7)土 屋 喬 雄rお 雇 い 外 国 人 金 融 ・財 政 一 一 』 (鹿 島 研 究 出 版 会,昭 和44年)39頁.我 国 滞 在 中 の シ ャ ン ドに つ い て は,同 書 の 他,西 川 孝 治 郎r日 本 簿 記 史 談 』 同 文 館,昭 和55年)に 詳 し い.

8)西 川 孝 治 郎,前 掲 書118‑119頁,な お ロ ソ ド ン のPublicRecordOfficeに,シ ャ ソ ドが 日 本 か らChurchofEnglandに 結 婚 の 「承 認 」 を 求 め た 書 簡 が あ る.

9)土 屋 喬 雄 教 授 の 研 究 で は,シ ャ ソ ドは 「箱 根 で 木 戸 孝 充(当 時 参 議)と 相 知 り,彼 の 推 薦 で 大 蔵 省 へ 入 っ た 」(r万 朝 報 』 紙,大 正8年7月 24日)と の べ,渋 沢 英 一 は 「大 蔵 大 輔 で あ っ た 井 上 馨 の 推 薦 」(r龍 門 雑 誌 』 昭 和2年7月 号)

と あ る.い つ れ に し て も 井 上 と 木 戸 は 同 じ 松 下 村 塾 の 「同 志 」 で あ り,ま た シ ャ ン ドは グ ラ バ ー やJ・ マ セ ソ ン 社 の ケ ズ ウ ィ ッ ク と 「同 郷 ス コ ッ トラ ソ ド出 身 」 で あ り,結 び っ き は 歴 史 的 関 連 で あ っ た と い え よ う.

10)拙 稿 「工 部 大 学 校 と グ ラ ス ゴ ウ 大 学 日..,f.

(ス コ ッ ト ラ ソ ド)関 係 史 の 一 視 点 一 」(r社 会 経 済 史 学 』46巻5号)7頁.

11)翌 年 以 降 は500円,な お お 雇 い 外 国 人 の 中 で はBク ラ ス の 給 与.し か し学 歴 か ら い け ば 高 給

とい わ れ る.土 屋 喬 雄,前 掲 書,59頁.

(10)

5。 季 刊

『銀 行 簿 記 精 法 』(i/Accountancy,明 6年8月13日 翻 訳 完 成)と し て 出 版,他 方 で は 大 蔵 省 官 吏,第 一 国 立 銀 行 員 を 中 心 に 実 務 講 習 を 実 施 し た.

そ の 年 の 夏,シ ャ ン ドは 箱 根 で 愛 息 を 急 病 で 亡 く し,ま た 自 身 も 病 気 と な り一 時 帰 国 し た が,明 治7年(1874年)10月 末 に 再 来 日, 紙 幣 寮 外 国 書 記 官 兼 顧 問 長 と し て 雇 入 ら れ た.そ の 間 に 数 多 く の 銀 行 ・通 貨 に 関 す る 著 述,銀 行 局 で の 「人 材 養 成 」 に 従 事 し た12).

シ ャ ン ドは,明 治9年(1876年)10月 に,

「国 立 銀 行 条 例 改 正 意 見 書 」 を 提 出,ヨ ー ロ ッパ 流 の 中 央 銀 行 制 度 を 主 張 し た13>.実 際 に は,ス コ ッ トラ ン ドの 銀 行 制 度 が 彼 の 心 中 に あ っ た と 思 わ れ,イ ン グ ラ ン ド銀 行 前 頭 取 ク ラ ン プ(ArthurCrump)の 『銀 行 実 験 論 』 {A.PracticalTreatiseonBanking,Cur‑

yencyandtheExchange,明 治9年9月 刊) の 翻 訳,r銀 行 大 意 』(明 治10年5月 刊),r日 本 国 立 銀 行 事 務 取 扱 方 』(明 治10‑11年r銀 雑 誌 』 に 連 載)を 出 版 し た.我 国 で は 知 ら れ て い な い が,ス コ ッ ト ラ ソ ド銀 行 史 は,イ グ ラ ン ドの そ れ と は 異 な る 歴 史 と伝 統 を も ち イ ン グ ラ ン ド銀 行 や 全 イ ギ リス 銀 行 業 に 影 響 を 与}て き た14).現 在 も 独 自 な 「銀 行 券 」 を ス コ ヅ ト ラ ソ ド銀 行,王 国 ス コ ッ ト ラ ソ ド銀 行,ク ラ イ ズ デ イ ル 銀 行 の 各 行 で 発 券 し て い

る.ま た ス コ ッ ト ラ ン ド銀 行 者 協 会 は,1873

集Vo'LXIINo.2

年 に 創 立 され,そ の 種 の 世 界 最 初 の 団 体 で あ る15).ま た キ ャ メ ロ ソ(R.Cameron)が 界 の 銀 行 制 度 を 分 析 し,「 世 界 の 銀 行 で 最 も 典 型 に 銀 行 業 が 成 功 し た の が 日 本 と ス コ ヅ ト

ラ ソ ドで あ る 」 と 結 論 づ け た の も16),や は り A・ シ ャ ソ ドの 我 国 で の 功 績 を 輝 や か し て い

る の で は な い だ ろ う か と思 え る,ま た 彼 は r東 京 経 済 雑 誌 』 の 発 刊 に も 助 力 し,ビ ジ ネ ス 界 の 興 隆 に 尽 力 し た.

大 蔵 省 で は 明 治9年11月 か ら1さ ら に1ヵ 年 の 雇 用 延 長 を 決 め て い た が,「 西 南 戦 役 」

が 勃 発 し,そ れ に 対 応 し て の 経 費 節 約 断 行 の た め,他 の 多 く の お 雇 い 外 国 人 と と も に,シ ャ ソ ドも 明 治10年(1877年)3月 解 職 さ れ る こ と に な っ た17).ま た 明 治9年 に 国 立 銀 行 条 例 が 改 正 さ れ た が,こ れ は 紙 幣 頭 得 能 良 介 達 の 立 案 に よ る 米 国 銀 行 制 度 に 習 っ た も の で, ヨ ー ロ ッ パ 銀 行 制 度 を 支 援 す る 最 高 顧 問 た る シ ャ ン ドに は 何 ら の 相 談 な く決 定 さ れ,8月

1日 実 施 さ れ て い た,こ の こ と か ら,「 シ ャ ソ ドが 怒 りに も}て 日 本 を 立 ち,船 が 大 洋 に 出 て か ら 荷 物(そ の 原 案)を 海 に 投 げ 棄 て た 」 と の エ ピ ソ ー ドも あ る18).

明 治5年 の 国 立 銀 行 条 例 は 国 立 銀 行 の 党 換 券 を も っ て 巨 額 の 不 換 紙 幣 の 整 理 を 試 み た が う ま くゆ か ず,明 治9年 条 例 を 改 正 し て,国 立 銀 行 券 の 免 換 を 止 め た.こ の 不 換 紙 幣 の 弊 害 は,シ ャ ン ドが 去 っ て 間 も な く表 面 化 し,

12)彼 が 教 授 ・指 導 した 銀 行 員数 は,約340人 の ぼ る とい わ れ る.梅 渓 昇r日 本 政 府 事 業 に お け る外 国 人 』1965年)120頁.

13)土 屋 喬 雄,前 掲 書,110頁.

14)ス コ ヅ トラ ソ ドの 銀 行 業 に っ い て は,拙 稿

「ス コ ッ トラ ソ ド初 期 銀 行 史 」(r経 営 史 学 』6 巻2号),同 「19世紀 ス コ ッ トラ ソ ドの 銀 行 業 」 (r大 阪 大 学 経 済 学 』21巻3号),同 産 業 革 命 期 ス コ ッ トラ ソ ド諸 銀 行 に み る企 業 者 活 動 」 (r創 価 経 済 論 集 』4巻3号)を 参 照 され た い.

15)そ れ を 記 念 す る 百 年 祭 刊 行 の 労 作,S.G.

Checkland,ScottishBanking'.AHistory:

1695‑1973.(拙 評r創 価 経 済 論 集 』5巻2号) が あ る.

16)R・ キ ャ メ ロ ソ,H・ バ ト リ ヅ クi著,正 田 健 一 郎 他 訳r産 業 革 命 と 銀 行 業 』(日 本 評 論 社, 昭 和48年)87頁.

17)褒 賞 七 百 円 が 贈 ら れ た.西 川 孝 治 郎 著,前 書,143頁.

18)同,145頁.

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