森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
矢 内 賢 二
森鷗外作の戯曲『日蓮聖人辻説法』は、雑誌『歌舞伎』第四七号(明治三七年〈一九〇四〉三月)に発表され、同年四月一日より歌舞伎座で初演された(図版一)。鷗外自らが執筆した戯曲としては、三五年(一九〇二)一二月に発表、翌年一月に市村座で初演された『玉 たまくしげふたりうらしま篋兩浦嶼』に続く第二作である。
本作が掲載された『歌舞伎』第四七号は「臨時刊行日蓮聖人辻説法鷗外森博士新作歌舞伎座興行」と題し、本作に付して久保田米僊述「日蓮聖人辻説法故実」を収め、さらに口絵として鷗外、久保田米僊
・ 米斎父子、出演俳優 の肖像写真(図版二)を載せる臨時刊行号である。米僊
・ 米斎はともに日本画家で、
初演時に米僊は扮装の考証を、米斎は舞台美術をそれぞれ担当した。『歌舞伎』を主宰するのは鷗外の実弟三木竹二であり、かねてより鷗外は『歌舞伎』を強力に後援する立場にあったが、特に本作のために単独の臨時刊行号が仕立てられたところには、歌舞伎を中心とする演劇専門誌として本作の発表を特に重視する態度とともに、初演の成功を支援しようとする意図がうかがえる。
初演時の主な配役は、日蓮に七代目市川八百蔵(後の七代目中車)、進士太郎善春に一五代目市村羽左衛門、娘妙に六代目尾上梅幸、比企大学三郎能本に三代目片岡市蔵ほか。併演は、村井弦斎の人気小説を福地桜痴が脚色した 森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
図版一 初演時の舞台背景と扮装写真(『歌舞伎』第四九号)
図版二 鷗外、久保田父子、出演者の肖像写真(『歌舞伎』第四七号)
『桜の御所』と、直前の二月に開戦した日露戦争を当て込んだ福地桜痴作『艦隊誉夜襲』の二作で、本作はその中幕として上演された。一時の演劇改良熱はすでに下火になっていたとはいえ、桜痴が改良の夢を託した歌舞伎座において、桜痴自身の手に成る新作二作とともに上演されたことは、本作が演劇改良の延長線上に位置する先駆的
・ 実
験的作品という位置づけであったことを示している。この上演について岡本綺堂は次のように記す。
三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鷗外博士の「日蓮辻説法」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二君の斡旋に因るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
(「素人脚本の歴史」、『新演芸』大正七年〈一九一八〉一一月)
狂言作者ではない劇界外の文学者の手に成る歌舞伎の新作が上演されるようになったのは松居松葉『悪源太』(明治三二年〈一八九九〉九月明治座)が嚆矢とされるが、「遂に旧劇の本城たる頑迷なる歌舞伎座すら学者の新作を迎へることゝなつたのは大いに祝すべきことである。」(正宗白鳥「歌舞伎座評 上 (1)」)ともあるように、鷗外の執筆による戯曲が歌舞伎座において上演されることは当時の斯界に十分な話題性をもっていた。
本作に対し、『演劇百科大事典』同名項目(大山功執筆)は「いかにも簡素な古典的手法を用いて構成されており、せりふも高雅で、一種の気品をそなえている。」「今日からみると作品それ自体はすぐれたものとはいえないが、発表当時の歌舞伎劇壇をかえりみるとき、その歴史的意義と価値とがうなずかれる。」と記す。
また秋庭太郎『日本新劇史〔下巻〕』(理想社、昭和三一年〈一九五六〉)は「歌舞伎の白劇化を試みた清新な実演
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
用史劇として注意すべき作であつた。その簡素な手法は後進の新歌舞伎の作者綺堂あたりに多く影響を与へたのではなかつたか。」「鷗外の戯曲として最も知られてゐるものであるが、芸術的にはそれほど高い作品ではない。この作の意義は新しい一幕物の史劇の型を示したところにある。」としている。
さらに楠山政雄「鷗外の戯曲 (2)」は、より断定的に「(筆者注
あるが、彼のこの作に於ける功績もまたこの辺りに帰すると思われる。」と述べている。 (3) その後、岡本綺堂等歌舞伎劇作者達に直接受け継がれて行き、もはやそうあるのが常識の様になってしまったので 秘めた儘プロットの大きな曲折もなく一直線に結果へと持込んでゆく短篇小説の方法を採り入れたこの描き方は、 つて来てゐて、これが直接の綺堂一派の新歌舞伎に発展した」とし、同様に大島田人は「問題の提起と解決を裡に 玉篋兩浦嶼』に比して)ずつと舞台脚本らしくな ・ 『 このように、本作については、簡素な手法による一幕物という形で鷗外が自ら戯曲の新機軸を示した作品として位置づけるとともに、綺堂をはじめとする後の新歌舞伎の作品に相当の影響を与えたとする評価が行われてきた。
近年、近代演劇史から見た鷗外の事績の研究、具体的には西洋戯曲の翻訳や演劇理論の紹介を通じて近代演劇に与えた影響についての検討が行われつつあるが、本作を含めて鷗外自身による劇作については未考の点が多く、まずは一つ一つの作品について、歴史的文脈に即したより詳細な分析を積み重ねていく必要があると思われる。本稿は従来言及される機会の少なかった『日蓮上人辻説法』を取り上げ、ひとまず初演時の興行及び受容の状況等を整理し、検討すべき問題点を抽出することにより、後考に資することを企図するものである。
まず本作のあらすじを紹介する。
時は建長七年(一二五五)正月、舞台は鎌倉小町の大路。日蓮を尊崇する比企能本の娘妙は進士善春と恋仲だが、善春は他宗を攻撃してやまない日蓮を敵視するので、能本は二人の仲を許さない。辻説法を行う日蓮に善春が問答
を挑むが、日蓮は堂々と自らの信念を述べ、近く蒙古の侵犯による「他国侵逼難」のあることを説く。日蓮に説き伏せられた善春はついに日蓮に帰依し、これを見た能本は妙との仲を許す。
建長六年(一二五四)に鎌倉に入った日蓮が草庵をむすび、小町大路等で辻説法を行ったという逸話を基にし、ともに日蓮に帰依したことで知られる比企能本、進士善春を主要な登場人物として配する。ただし蒙古による国難のくだりは、鷗外自身が「『日蓮上人辻説法』を書く時なぞは、ずつと後の立正安国論を、前の鎌倉の辻説法に畳み込んだ」(「歴史其儘と歴史離れ (4)」)と記すように、後の文応元年(一二六〇)に成立する『立正安国論』の内容を組み込んで創作している。
今日、日蓮の伝記を題材とする演目が芸能の興行において上演される機会は、わずかに浄瑠璃『日蓮聖人御法海』(宝暦元年〈一七五一〉一〇月豊竹座初演)の一部を除き極めて少ないが、近世以降の芸能においては、いわゆる日蓮記物が重要な演目群として継続的に創作
・ 上演された
(5)。明治期の歌舞伎で本作に先行するものに限っても、河竹黙阿弥作『花栬 もみじ高祖御伝記』(二年〈一八六九〉十月市村座)、勝俵蔵作『日蓮大士真実伝』(一四年〈一八八一〉一一月大阪中座、一九年〈一八八六〉一〇月中村座。三六年〈一九〇三〉五月市村座にも同名作の上演あり)、福地桜痴作『日蓮記』(二七年〈一八九四〉五月歌舞伎座。三四年〈一九〇一〉五月春木座にも同名作の上演あり)などの新作上演が挙げられ、ことに『日蓮大士真実伝』の日蓮は二代目中村梅玉(天保一二年〈一八四一〉~大正一〇年〈一九二一〉)の畢生の当たり役として知られている。また新派劇にも後に言及する大須賀豊作『辻説法』(明治三四年〈一九〇一〉一〇月真砂座)がある。
したがって日蓮記物という演劇的系譜は当然鷗外と観客の念頭にあったはずで、日蓮記の劇化という企画自体は当時としては殊更に新機軸といえるものではなく、『日蓮聖人辻説法』もこうした日蓮記物の流れを意識した上に書
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
かれた作品であるといえよう。
なお本作上演以後も日蓮記物の初演
七〉一〇月宮戸座)、『日蓮聖人之実伝』(四一年〈一九〇八〉九月宮戸座)、坪内逍遥作 演はさかんに行われている。例えば『日蓮大士真実伝』(四〇年〈一九〇 ・ 再
視点も用意しておかなくてはならない。 作の検討にあたっては、少なくとも大正期末まで継続する近代の日蓮記物の文脈に置かれるべき作品であるという 帝国劇場)等がその例として挙げられ、本作はまさに日蓮記物の系譜上の一点として位置づけることができる。本 劇『折伏の日蓮』(一三年〈一九二四〉一月浅草天幕劇場)、本山荻舟原作『日蓮上人』(一四年〈一九二五〉一〇月 〈一九二〇〉二月明治座、新文芸協会第一回公演)、田中智学作『佐渡』(一〇年〈一九二一〉三月歌舞伎座)、新国 出『法難』(大正九年 ・ 演
一方、本作成立の経緯については、『歌舞伎』の編集実務に中心的な役割を果たし、自らも記事を執筆した鈴木春浦(本名本次郎)による次の記述が見られる。
これは伊井が曩 さきに自ら作つて真砂座で演られた本を私が先生に見せて、新たに作られたもので、私は伊井に演つて貰ふ積りであつたのでしたが、何かの都合で止めたので、歌舞伎座の田村成義氏が懇望されて八百蔵、片市、梅幸、羽左衛門、松助、菊五郎、吉右衛門、英太郎等で演ぜられ (鈴木春浦「『萬年艸』時代以後」、『三田文学』第一三巻第八号、大正一一年〈一九二二〉八月)
これは私が伊井蓉峰子が以前真砂座にて演じた脚本を見せて、新しい筆法で書直して貰つて、蓉峰子の為めにしようと計つたのであつたが、何かの都合で蓉峰子が演じなかつたので、歌舞伎座の田村成義氏の請ひに拠つ
て、同座で八百蔵今の中車が聖人を勤めて (鈴木本次郎「森博士と劇界」、『演芸画報』第九年第八号、同年同月)
春浦のいう「伊井蓉峰子が以前真砂座にて演じた脚本」とは、明治三四年(一九〇一)一〇月に真砂座で上演され、伊井蓉峰が日蓮を勤めた、大須賀豊作『辻説法』を指すと思われる。大須賀豊は本名犬塚福太郎。新派劇団「成美団」の座付作家であり、脚本家
・ 映画監督の犬塚稔の父としても知られる。
「『万年艸』時代以後」に「伊井が曩に自ら作つて」とあるのは、伊井が原案を提供したものを大須賀が脚本化したということでもあろうか。
一方で、『歌舞伎』第四九号(三七年〈一九〇四〉五月)に「無名氏」の名で鷗外が書いた「諸新聞の日蓮評」は、「伊井の同名脚本(上人となりし丈相違すれど)との関係は、只同名といふのみにて、一句も同じき処なき由なり」とその相違を強調する (6)。春浦によれば、鷗外の作品は伊井の演じた『辻説法』を「新しい筆法で書直して」成立したことになるが、先行作品としての『辻説法』が鷗外の意識の内にあったのは確かにせよ、その関係は改作といえるほどのものではなかったのではないかと推測される。ただし現時点では『辻説法』の詳細が不明であり後考を俟ちたい。
次に、『歌舞伎』第四九号に掲載された劇評について整理しておく。
先述のとおり『歌舞伎』は鷗外と密接な関係にある雑誌であり、そこに載る劇評は自ずと鷗外寄りの立場を取ることになるが、ここでは本作の特長として「崇高」「荘重」といった美意識が繰り返しアピールされている。
例えば三木竹二
い辻説法」とし、「一種崇高の美」を本作の最も特徴的な価値として示している。 如女史「『日蓮聖人辻説法』合評」は「兎に角美学上には一種崇高の美を出すより外に道のな ・ 真
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
また上田敏も、「荘重の詞華」「一種厳粛の感」という価値を提示しつつ本作を評価する。
此作家の曲は情熱に乏しいといふ人があるさうだ。(略)此曲の文字殊に日蓮の独白を聴けば荘重の詞華口を衝いて出で来り、一種厳粛の感に打たれるではないか。これは恐らく作家の精確な、造形術もどきの名文句よりも、粗笨、曖昧な生硬文字を好む人々の不満足より生じた説であらう。又今日劇界革新のために耳の芝居を起せといふ吾々の見地からいへば、此曲に所謂動作の変化少ないのは勿論始より期する所、目的とする所である。
(「『辻説法』を観て」) 一方坪内逍遥は、歌舞伎を「西洋に云ふロマンチツク劇の爛熟若くは固結したものに似て」いるとみなした上で、その一新に資するものとして本作の内にある「格式」を見出している。
我が国に取つては此の作の如きはどうやら新機運の導火となりはせぬかと思はれる気味があります、それといふのは畢竟我が歌舞伎劇は西洋に云ふロマンチツク劇の爛熟若くは固結したものに似てをりますので、或は之れを一新するは西洋のロマンチシズムの形式を追ふよりは寧ろ彼 あちら方では古いほうの趣味、格式を注込んで見るのが却つて好方便だといふやうな訳合があるのではありますまいか。(「日蓮聖人辻説法を観て」) この「ロマンチツク」という語は、正宗白鳥も前掲の「歌舞伎座評上」で「クラシツク」と対比させて用いているものである。
西洋古来の劇にクラシツクドラマとロマンチツクドラマとの二種ありとか聞いてゐたが、この辻説法は其の前者であつて、引きのばせば幾幕の劇をなすべきをこの短編に緊縮した手際はすばらしいものだ。日本在来の芝居は西洋のにも勝るロマンチツクドラマであるゆゑ、今の芝居好きはこの劇のやうに上品なムダのない、刺激的挑発的の科白のないものではアツケなく思ふであらうが、演劇をして識者の観覧に供し又教訓の具とするには兩 ふたり浦 うら島 しまやこの辻説法のやうにしなくてはなるまい。
これに対し、鷗外は「クラツシツクとロマンチツクとの別から、クラツシツクとせられたるは、作者赤面なるべし。ここはニーチエのアポロとヂオニソスとの別などが適当にや。」(「諸新聞の日蓮評」)と述べ、「ロマンチツク」「クラツシツク」の図式に代えて、「アポロ」「ヂオニソス」の対比を提示する。
さらにこれを受けて、前掲の「『日蓮聖人辻説法』合評」は次のように記す。
辻説法が手に汗を握らせる作でないことは作者は作らぬ前から知つて居たのだし、又感動を使つて泣かせるものでないのも解り切つて居る。つまり崇高の外に狙ふところはないものに向つて、手に汗が握れぬの、感動せぬのといふのは、無理な注文だ。無名氏がニイチエの「アポロオニツシユ」と「ヂオニイジツジユ」の別を挙げたのは、能く作者の意を得たもので、此作の様なのは「アポロオニツシユ」即ち荘重式ともいふべきもので、他の「ヂオニジツシユ」即ち情熱式のものとは全く異て居るのだ。
陶酔や激情を旨とする「ヂオニイジツジユ」(ディオニュソス的)に対し、調和と均整の美への志向が「アポロオ
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
ニツシユ」(アポロ的)であるとすれば、歌舞伎を中心とする旧来の劇を「ヂオニイジツジユ」であると仮定した上で、これに対する新しい試みとしての本作の特長は「アポロオニツシユ」であるとして特徴付けようする意図が強く示されている。
といった動的 いる表現によれば「動作の変化」「刺激的挑発的の科白」「手に汗を握らせる」「感動を使つて泣かせる」「情熱式」 みるといふ風の非難が多いのには作者も驚いたらう。」とあるが、『歌舞伎』誌上の劇評は、その文中に用いられて 上には一種崇高の美を出すより外に道のない辻説法に向つててんでに勝手な定木を持つて来て、適るか適らぬか試 「『日蓮聖人辻説法』合評」の冒頭には、「この辻説法に対しては、種々な評が新聞紙上に出た様だが、兎に角美学
九〇四〉四月一〇日)等が挙げられる。 るを以て満足せざるべからざるなり。」と述べる花房柳外「『辻説法』と日蓮の人物」(『読売新聞』別刷、三七年〈一 外氏が作物を通じて受くべき非難ならん、(略)要するに『辻説法』や『両浦島』やは彫琢刻苦の美文として世に残 通の姿勢を有している。前者の批判的立場からの新聞劇評としては、例えば「情熱なし、想像なしといふことは鷗 「格式」「上品なムダのない」「荘重式」という、いわば静的価値を対置することにより、本作を擁護しようとする共 的展開を殊更に期待する批判的立場に対して、「一種崇高の美」「荘重の詞華」「一種厳粛の感」 ・ 劇
そしてこの状況を最も簡潔に言い表しているのが、中島孤島「『日蓮聖人辻説法』を読む」(同四月一七日)の次の一文である。
揚ぐる者は其雅醇比なきを讃へ、貶する者は其の人心に触るゝものなきを咎む。一は只管其の上品にして贅 むだなく、一字一句苟くもせざるの用意に服し、一はその情なく熱なく、索然として更に温かき血の通ふものなきに
驚く。是れ慥かに此の詩の両面の価値を示す。
そして鷗外の趣味が「総じてクラシツクの傾向を帯ぶる」とした上で、「クラシツクの求むる所は、典雅なり、精醇なり、森厳なり、整齊なり、熱烈は其の希ふ所にあらず。」とし、本作に対する批判の有効性を否定するとともに、本作の眼目を謡曲と同様の「抽象の美」に見出している。
すなわち本作は、当時の新聞劇評に見られたような従来からの鑑賞態度(『勝手な定木』)では十分に捕捉しきれない意図をもった戯曲であり、そこには作り手と受け手との間に「対立」というよりもある種の「噛み合わなさ」があったことがうかがえる。それは取りも直さず本作が、旧来の歌舞伎の受容態度を墨守する観客に対しては、物足りなさや肩透かしの印象を抱かせざるを得ないような新しさを確かに示した作品であったことを意味しており、その新しさこそが『歌舞伎』の評者たちの言によれば「荘重」や「厳粛」という「アポロオニツシユ」な価値なのであった。
劇的な起伏の激しさよりも、調和の取れた美意識の視聴覚的表現としての演劇を志向する態度は、自ずと作品の小品化を促すことになるであろう。市川八百蔵「日蓮聖人に就て」(『歌舞伎』第四九号)によれば、本作の上演時間は「三十何分といふ間」という非常に短いものである。
正宗白鳥が「吾人は或る瞬間をのみ描ける名画を観て其前後を連想して楽むが如く、この劇にても善春対妙、能本対善春などの間に生じたらん出来事即はち洋劇も知らず審美学も知らぬ作者ならばこれを材料として二幕にも三幕にもしたであらう事件を連想すべきである。」(前掲「歌舞伎座評上」)と述べる通り、舞踊でない歌舞伎の演目としては異例といえる程の短く簡素な構成に一場のドラマと興趣とをまとめ上げたことは、鷗外の周到な作劇によ 森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
る成果であったといえる。
この小品
・ 短編志向を鷗外の戦略として的確に評価したのが坪内逍遥であった。彼はまず「此の演芸の過渡期に
於ては、初手から俗おどしの形の大きな作を求めるよりも、私共は、形は小さうても真に美術品と称し得られるものゝ追々に現はれるのを望みます」(前掲「日蓮聖人辻説法を観て」)と述べ、さらにより現実的な事情をも指摘する。
兎も角も『両浦島』といひ、此の作といひ、専ら一幕物に手を着けられまする当作者に何等か深慮あることゝ存じます、世事多端となるにつれて観劇時間の短縮されるのは勿論の事、丸本物と違つて支離滅裂でないだけに百足式に切離して仕活す訳にもゆくまじき将来の新脚本は、よしや一度は中るとも其の後は甚だ心元ないことです、私は人人が競つて一幕乃至三幕限り位のものに新作を試みられんことを切望いたします。(同)
すなわち「演芸の過渡期」における新たな戯曲試作の形態としては、いたずらに大作主義を採るのではなく、まず小品において完成度の高さを目指すべきであること、また興行上の現実的な問題として、観劇時間短縮の必要があること、さらに義太夫狂言で行われているように一部の場面のみを前後の場面から切り離して上演することが不可能であることからも、一幕から三幕程度の規模の戯曲が望ましいとしている。
一方上田敏も「あつさりと一つの挿話風のものを捉へて瀟洒たる趣味を見せるのも好い。」「これより後も種々の作家がまづ斯の如き一幕物に手を付けて、一方には自己の主張を曲げずに真面目な芸術品を作り、他方には未だ発達して居ない看客を倦ましめる事のないやうに、従来の劇中比較的高尚な劇を演ずる間に、新作を挟んで漸々社会
の趣味を指導せん事を望むのである。」(前掲「『辻説法』を観て」)として、一幕物の新作を試みることから演劇変革を図るべきであるという、逍遥とほぼ同方向の見解を示している。専ら小品として端正な構成を追求する点においては、本作は近世以来の歌舞伎の長大な構成法と異なることはもちろん、逍遥自身が執筆し、まさに本作の前月に初演された全六幕の『桐一葉』とも大きく異なる方向を模索するものであり、後の新歌舞伎における一幕物を中心とする戯曲構成に強い影響を与えたといえよう。
さらに鷗外が本作に込めた意図を探るにあたっては、かつて彼の示した「情劇」「純劇」の論に配慮する必要がある。左記はいずれも彼の演劇論の基幹をなすと目される論考の一部であり、ここでは(一)「劇」は「詩」「表情術」「飾画」の三要素から成ること、(二)「劇」と「楽」とが互いに未分であるものを「情劇」といい、日本の演劇は「情劇」の段階にとどまっていること、(三)「劇」と「楽」とが分明であるような、「情劇」の進化した「劇」が「純劇」であること、という主旨が示されている。
西洋の芝居の三要素は正本になるべき詩、(散文と韻文とを問はず)言葉と挙動との表情術、及び飾画なり。これに器を用ゐる楽と肉声の浄瑠璃(唱歌)との二つを加へて、我国の芝居とはなるなり。
(「思軒居士が耳の芝居目の芝居 (7)」)
芸術草昧の世、劇と楽と未だ明に分れず。而してその劇は勢情劇たらざることを得ず。古希臘劇の歌 コロス舞の群をして場に登らしめたるは、その情劇なるがためなり。古来の国劇のちよぼあり、出語あるも亦然り。芸術漸く進化し、劇と楽と明に分るゝときは、劇は純劇をなし、楽は「オペラ」をなす。今の西洋の純劇と「オペラ」
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
と並び行はるゝが如き是なり。是に由りて観れば、古来の国劇の情劇たるは、劇猶音楽の羈絆を脱せざるがためのみ、劇未だ純劇に進化せず、楽未だ「オペラ」に進化せざるがためのみ。
(「答評劇者某論夢幻劇書」) (8)
こうした論を踏まえ、『日蓮聖人辻説法』はほかならぬ「純劇」の可能性を模索する作品であったとする見解がすでに提出されている。前掲の楠山正雄「鷗外の戯曲」は「歌舞伎からオペラを斥けて、ドラマだけをのこしたものであつた」とし、西村博子「試論 鷗外のドラマトゥルギー (9)」は左記のように記す。
当然鷗外の脳裏には、「情劇」の域にある歌舞伎から、「器を用ゐる楽と肉声の浄瑠璃」の二要素をできるだけすみやかに除去して、「正本」と「言葉と挙動との表情術」と「飾画」の三要素だけからなる「純劇」へと進化させていこうとするプログラムが存在していたにちがいない。(略)ちょぼも出語りも排した「日蓮」は、あきらかに「情劇」=歌舞伎を「純劇」へと、さらに歩を進めさせる試みであったろう。
また大島田人も「彼はこの脚本によって、歌舞が科白を主とする『正劇』へと、その体質を改変できるものかどうかを試みようとしたことは明らかであり )(1
(」と述べる。今日の視点からは、鷗外の想定した「情劇」と「純劇」との二項対立はいささか図式的に過ぎるといえるかもしれないが、鷗外の示した論に即して本作を評価する際にはこれらの見解は十分に首肯できるものであろう。
「楽」に依存しない「純劇」において特に重要な要素が、
言葉、すなわち役者の発するせりふであったとするならば、同時代の演劇をせりふの劇として純化していこうとする試みの中で、特に一つの実験的方法として採用された
のが、日蓮と進士善春との間で行われる「問答」という形式ではなかっただろうか。つまり、せりふを主眼とする劇としての格調を保ちつつ、せりふの応酬によって劇的展開を構築していくための有効な方法として、さらには当時の歌舞伎が開発し有していたせりふ術を導入
・ 試用することを目論んで、この問答の場面は用意されたのではな
いだろうか。
善春。さらば御身の法とするは。日蓮。わが法こそは大覚世尊が、霊 りやう山 ざん八年に説かせ給ひし、正直捨 しや権 ごんの実乗なれ。
此妙法蓮華経に比ぶれば、爾前四十余年の権宗は、慈父の稺 をさな子 ごに与へたる竹馬草鶏に殊ならず。
に始まるこの問答は即座に『勧進帳』の山伏問答を想起させるが、それは当時においては、家の芸として『勧進帳』の上演を独占し、前年九月に死去したばかりの九代目市川団十郎の演技のイメージへと直結するものであった。現に前掲「『日蓮聖人辻説法』合評」では、特に問答の場面について「『何の疑候べき』は故団十郎の弁慶の口扮を学んで、重々しく時代に言つて居た。」とし、また「最初の出から此処まで呼 い吸 きを抜かずに科の手順を付けて穴の開かぬ様に場を持つて居る技量は天晴なもので、これは全く日蓮ならぬ故団十郎の呼吸を能く会得したからだと思つた。」と八百蔵の日蓮を評しており、団十郎の「口扮」や演技の「呼吸」が重要な規範と目されている。
春浦の語る本作の成立事情によれば、必ずしも鷗外が歌舞伎役者による上演を前提に本作を執筆したとはいえないが、少なくともこの問答を、善春が日蓮に帰依することとなる重要な劇的契機として布置していることの背景には、『勧進帳』の弁慶を勤める団十郎の「口扮」や「呼吸」に対するイメージが潜在していたのではないだろうか。
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
鷗外は純劇という概念を具現化した理念的結晶としてのみ本作を創造しようとしたのではなく、団十郎、ひいては団十郎を筆頭とする明治二〇~三〇年代の歌舞伎が保持していた演技術や身体性に対しても相当の意識をもって本作の執筆に臨んだのであり、問答の場面はその具体的な表れではないかと考えられる。
なお『勧進帳』の山伏問答とは異なり、「日蓮様と善春との問答の件は、これも米僊先生のお説の通り、調子変りの三メリに琵琶やうな合方を用ゐ、これに尺拍子を白の邪魔にならないやうにやつて居り升。」(杵屋勘五郎「辻説法の合方に就て」、『歌舞伎』第四九号)とあるとおり、この場面の問答には合方と鳴物が用いられている。また明治四一年(一九〇八)九月宮戸座『日蓮聖人之実伝』の劇評に「辻説法の場で四條金吾との問答は鷗外先生の『辻説法』の進士太郎との白を応用したやうに聞かれた」(鈴木春浦「宮戸座の昼夜」、『歌舞伎』第九九号、同年十月)との記述があること、さらにこの問答が大正五年(一九一六)刊の『新旧こわいろ集』(高橋友太郎編、湯浅春江堂)に他のいわゆる「名ぜりふ」と並んで抜粋掲載されていることは、この問答の場面が特に印象深いものとして認識されていたことを示す事例であることも付け加えておく。
続いて、執筆
・ 初演当時の時局との関連、また鷗外個人の状況との関連についての議論を整理しておく。
まず、本作で善春が日蓮に信を置く重要なきっかけとなっている「他国侵逼難」という発想は、先述のように年代の異なる『立正安国論』を意図的に挿入したものであり、それが勃発直後の日露戦争を意識した創作であることは疑いをいれないであろう。西村博子が『玉篋兩浦嶼』と本作とを合わせて「戦意昂揚が、この両作を通じて鷗外の『理想』であったということは身に引きうけねばなるまい」(前掲「試論鷗外のドラマトゥルギー」)とまで断じることについては議論の余地があろうが、「『牧師』(明治三六)と『日蓮聖人辻説法』(明治三七)とが、『事業』や元寇のことを織り込んだ戯曲である点が注目され、外に向かっての鷗外の積極的精神を窺わせる。」(清田文武『鷗
外文芸の研究 中年期篇』有精堂出版、平成三年〈一九九一〉)といえる程度には、開戦直後という時局を鷗外の創作意識が明確に捕捉し表現したものであることは確かであろう。しかし歴史的挿話の範囲を越えて戦意高揚を企てたとみなすに足るほどの直接的文言は本作中には見当たらず、鷗外自身に戦意高揚や国威発揚の強い意図があったというよりも、むしろ本作の上演は鷗外の意図を超えて人々の戦時感情を刺激せざるを得ない時勢の文脈に組み入れられた形で享受されざるを得なかったというべきではないだろうか。岡本綺堂の左記の回顧は、本作の上演が必ずしも明確な形で戦意を煽る意図をもったものとはみなされず、しかも決して時局と無縁ではあり得なかった当時の雰囲気をよく伝えている。
そのあいだにおいて別種の注意をひいたのは、かの東京座の三月興行に坪内逍遥博士の「桐一葉」を上演した事と、歌舞伎座の四月興行に森鷗外博士の「日蓮上人辻説法」を上演したことであった。前者は開戦前から上演の計画があったらしく、またその戯曲の内容から考えても、もちろん時局に関係のないのは判っている。後者は蒙古襲来が一首の背景をなしていて、日蓮が他国侵逼難を説くあたりは、やや時局を匂わしている感がないでもなく、劇場当事者もその意味から採用したらしいようであったが、いずれにしても戦争熱が熾烈の最中に、在来の狂言作者とは全然立場を異にした文学者の作物を思い切って上場したのは、世間の注意をひくに値したものである。(「日露戦争前後」、『明治劇談ランプの下にて』岩波文庫、平成五年〈一九九三〉) また前掲の花房柳外「『辻説法』と日蓮の人物」が「日露の関係を当て込みたるが如き科白あるも陋といハヾいふべし」とその臭いを嗅ぎ取っている一方で、比企能本を演じた片岡市蔵は、「『高麗の王微力なれば』云々といふ白
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
が今日の時節抦に当つて居て、誠に結構な文句でありますから、一々その白に力を入れてやつて居るのでござい升。」(「比企能本に就て」、『歌舞伎』第四九号)との言を残しており、役者の感受性からしてもやはり戦時感情を刺激されざるを得ない作品であったことを示している。
鷗外が日蓮記を劇作の題材として取り上げた契機としては、左記に示すように当時の鷗外の個人的境涯と関連づけて、日蓮という人間像への共感を読み取る立場も存する。
しかし、鷗外は単なる戦意高揚のためだけに「玉篋兩浦嶼」「日蓮聖人辻説法」を書いた訳ではない。時代の空気、傾向というものを鋭敏に察知し作品に投影し続けてきた鷗外特有の演出があるのは否めないが、この時期に日蓮という、時代におもねらなかった人物に鷗外が注目したことに意味があると思うのである。(渡辺聰「傍観者の戯曲と遺書―森鷗外「玉篋兩浦嶼」「日蓮聖人辻説法」―」、『論輯二二』駒澤大学大学院国文学会、平成六年〈一九九四〉五月)
重ねて渡辺は「周囲に敵を増やすことを承知しながら、善悪兼ねた人間の本来性を尊重する日蓮の抵抗に鷗外が打たれたことは予想に難くない。」「『日蓮聖人辻説法』の中には描かれていない日蓮の無念に、自己の心情を重ねているのだ。つまり人々の中傷に耐え、権力に認められた宗教に屈することなく一人辻道に立つ日蓮に、あるべき自己の姿を投影した鷗外であったのである。」「高い理想を持ちながら時代の要請によって戦争に加担しなければならなかった日蓮を通して、鷗外は陸軍軍医監という地位に上り詰めながらも更なる上官の命令によって出征させられることへの怒りと空しさを語っているのである。」と論を進める。
本作が『歌舞伎』誌上に発表された際、鷗外は第二軍軍医部長として広島に駐屯しており、上演月の四月二一日には宇品港から出征する。従軍中に執筆された『うた日記』(春陽堂、明治四〇年〈一九〇七〉)には、「三百年来跋扈せしろしやを討たん時は来ぬ」と歌って事実上鷗外属軍の軍歌とされた「第二軍」(三月二七日付)のような作品もあり、鷗外の日露戦争に対する態度に「上官の命令によって出征させられることへの怒りと空しさ」を読み取るべきかどうかについては疑問が残る。
一方で、明治三〇年(一八九七)以降の鷗外の著作には「鷗外」の署名が現れずに無署名または「森林太郎」の署名がなされており、この『日蓮聖人辻説法』で再び「鷗外」の署名が用いられるようになるという )((
(。鷗外の「鷗外漁史とは誰ぞ )(1
(」には「この鷗外漁史と云ふ称は、予の久しく自ら署したことのないところのものである。これを聞けば、殆ど別人の名を聞くが如く、しかもその別人は同世のひとのやうではなくて、却つて隔世の人のやうである。」とあり、小説家としての鷗外の名ゆえに医学
・ 官職の世界においては軽んじられ、
「人の我真面目を認めてくれないのを見るごとに、独り自ら悲しむことを禁ずることをえなかつたのである。それ故に予は次第に名を避くるといふことを勉めるやうになつた」とある。
ならば実に七年ぶりに鷗外の名を用いて執筆された本作は、軍医
・ 高官としての立場から一旦距離を置き、芸術
作品の創造者としての立場を明瞭に意識し表明したものであったとみなすことができるのではないだろうか。
時機まさに開戦直後、そして鷗外の従軍
・ 出征と重なるため、本作の大きな背景として日露戦争を無視すること
はできないであろうが、本作の動機は、直接的な戦意高揚や国威発揚と見るよりは、鷗外の個人的境涯の問題へと帰趨させようとする見解の方が穏当のように思われる。ただし必ずしも鷗外自身の戦争観と本作とを密接に関連づける必要はなく、渡辺が「一人辻道に立つ日蓮に、あるべき自己の姿を投影した」というように、日蓮という強靭 森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
な意志をもつ人間像への鷗外自身の共感や、あるいは日蓮記の逸話が長い劇化の伝統を有していたこと、そしてそれらの逸話が演劇的構成に適していたという現実的
・ 技術的な問題に本作の動機を帰する方が適切であろう。
最後に、本作の再演の状況について概観しておきたい。
まず、プロの演者による興行ではないが、明治三八年(一九〇五)五月一一日の歌舞伎座において、新聞劇評家から成る「若葉会」の文士劇として上演されている。若葉会は在京の新聞社の劇評担当記者により結成された団体で、岡鬼太郎、岡村柿紅、杉贋阿弥、右田寅彦、栗島狭衣、伊坂梅雪らが所属していたほか、岡本綺堂が作者として参加していた。本作の上演はその第一回公演においてであり、岡本綺堂作『天目山』、『仮名手本忠臣蔵』三段目、『保名』との併演であった。当時の劇評担当記者をほぼ網羅した若葉会において、発足時の上演演目として選択されたことは、上演時間の短い一幕物であることという現実的な理由も大きいであろうが、本作に対して再演に値するとみなされるだけの評価がなされていたことの証左でもあろう。
次いで大正八年(一九一九)八月には帝国劇場の女優劇で再演されている。主な配役は、日蓮に一三代目守田勘弥、進士善春に三代目市村亀蔵、娘妙に森律子、比企能本に四代目尾上松助ほか。松助は初演時に日蓮を難じる禅僧を演じた経験がある。この際の舞台写真が勘弥の当たり役を集めた『舞台かがみ 守田勘弥』(安部豊編、好文社、大正一五年〈一九二六〉)に収載されており、勘弥の演じた役としては一定の評価を得ていたことがうかがえる。
以上、本稿においては森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐる基本的な情報と論点とを整理するにとどまったが、冒頭に述べたように、鷗外の事績、特に鷗外の劇作について近代演劇史の視点から考察
・ 評価していくにあたって
は、まず基礎的な作品分析を積み重ねていかねばならない段階にあると思われる。前掲の秋庭太郎『日本新劇史〔下巻〕』は、鷗外の劇作について「之を要するにいろ〳〵な新風の戯曲の見本を後進の新劇作家に示して、多くの示唆
を与へたといふ啓蒙先駆の意義はあつても、劇作家としては一流の人ではなかつた。」「明治から大正にかけての劇作家、就中わが伝統演劇に反逆的な戯曲を書いた人々に鷗外が崇められたのは、鷗外が戯曲の創作に翻訳に各種各様の新しい戯曲の見本を示したからであつた。」と総括するが、鷗外が歌舞伎
派劇 ・ 新
を重ねて指摘しておきたい。 なかった日蓮記をはじめとする演劇的伝統との関連、また同時代の歌舞伎の状況との関連に着目することの重要性 代演劇史の重要な空隙を埋める作業となるであろう。その検討にあたっては、従来必ずしも触れられる機会の多く 同時代の演劇の状況を視認しつつ、具体的にどのような「見本」を提示してみせたかを詳細に検討することは、近 訳劇等の混然と並立する ・ 翻
注(1)『正宗白鳥全集第二十四巻』福武書店、昭和六一年(一九八六)。初出は『読売新聞』明治三七年(一九〇四)四月七日。(2)『筑摩全集類聚森鷗外全集別巻』筑摩書房、昭和四六年(一九七一)(3)「鴎外の翻訳文学(六)―翻訳脚本を饒って―」『明治大学教養論集』三三号、昭和四一年(一九六六)一月(4)『鷗外全集』第二六巻、岩波書店、昭和四八年(一九七三)(5)『演劇百科大事典』「日蓮記物」の項、飯塚友一郎『歌舞伎細見』(第一書房、大正一五年〈一九二六〉)「日蓮記」の項等参照。(6)真砂座の『辻説法』について、早稲田大学演劇博物館所蔵の番付は外題を「一天四海/皆帰妙法(筆者注
月。 (7)『鷗外全集』第二三巻、岩波書店、昭和四八年(一九七三)。初出は『柵草紙』第二九号、明治二五年(一八九二)二 辻説法」とし、松葉ヶ谷庵室の場、小町ノ里説法の場の二場を掲げる。「上人となりし丈相違すれど」の意は不詳。 上角書) ・ 以
森鷗外作『日蓮聖人辻説法』をめぐって
(8)『鷗外全集』同右。初出は『柵草紙』第五七号、明治二七年(一八九四)六月。(9)『演劇学』第一四号、早稲田大学文学部演劇研究室、昭和四八年(一九七三)三月(
( 10)注3に同じ 11)神木まなみ「森鴎外と森林太郎―『ヰタ
・ セクスアリス』を中心に」
、『論樹』第二一号、論樹の会、平成二〇年(二〇〇八)一二月(
12)『鷗外全集』第二五巻、岩波書店、昭和四八年(一九七三)。初出は『福岡日日新聞』明治三三年(一九〇〇)一月。
(二〇一三年十二月九日受理、二〇一三年十二月十八日採択)