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石 川

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トマス・リードの心の哲学 (3)

—意志について一

石 川 徹

Abstract 

In this  paper,  we examine Thomas Reid's concept of "will".  His concept of "will" is  very important  because it  plays a crucial role both in his theory of causation and in his theory of morals. 

In  the  prolonged controversy about free  will,  Reid shows some sympathy with Locke's position.  It  may be awkward because Locke denies free will and the liberty of indifference.  We think,  however,  that this means he thinks it  is  important to examine many aspects about the faculty of will as they are,  it  shows neither his inconsistency nor misunderstanding. 

Then we will follow the points Reid observed,  and find he thinks the faculty of will is  the faculty of  choice and for this reason he avoids a difficulty in the concept of free will. 

Finally we will discuss about some modes of the volition and observe Reid's treatment of them contri‑ butes to extend the concept of voluntary action and it  may influence his theory of morals. 

前論文では、 トマス・リードの哲学体系が、

ヒュームの哲学をその最終帰結とする哲学的理 論に対する根本的な批判と、それに代わる別の 選択肢を用意することを目的として作られたも のであること、にもかかわらず、認識論の範囲 内に限れば、リードの哲学は必ずしもヒューム の哲学に対する適切な批判になりえておらず、

両者の主張の違いは、その見かけほどには明確 なものになっていないこと、両者の違いをより 際立たせるのは、その因果性についての考え方

にあること等々を確認した上で、リードの因果 性についての考えを検討した!。様々な留保は 付くものの、ヒュームの因果論が、対象となる 現象の継起の規則性に因果性を婦着させようと する試みであるとすれば、リードの着想は、こ のような必然性に解消されえないものこそ、真 の力、真の原因の名にふさわしいものであると

いうものである。その意味では、リードはいわ ゆる「主体者因果 (agentcausation)」の主張者 ということになるが、この説の主張者は、大方 の場合、自然学的物理的因果性の実在を認めた 上で、それとは異なる別種の因果性が世界に存 在することを主張する。リードは、これとは異 なり、主体者因果こそが真の因果性であり、現 象間の規則的継起は、派生的にのみ因呆的と呼 ばれるのだという主張をする。このような主張 は、もし全面的に展開されたならば、バークリ の形而上学に極めてよく似たものになる可能性 が あ な し か し 、 リ ー ド は そ の よ う な 宇 宙 全 体 の形而上学的解明の方向には向かわずに、人間 の行為の場面での力の概念の分析に話を終始さ せ な お そ ら く 、 そ れ は リ ー ド の 関 心 が 道 徳 的 主体としての人間にあり、因果規則性論者の主 張が、道徳に不可欠であると思われる人間の主

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石 川

体性自発性を解消するという方向に向かうこと に対する批判を主たる目的としているというこ とから来るものである。そして、因果性の分析 を人間の行為という場面でおこなうときに、最 も問題となるのが意志 (will) という人間の能 力ということになる。

そこで、本論文の課題は、この意志という人 間の能力についてリードがどのような主張をし ているかを、 トマス・リードの最後の主著「人 間の能動的諸能力について」 (Essayson the  Ac‑

tive Powers of Man)の第二論文「意志について (of will)」の議論を詳しく取り上げることで 検討することにある。前論文でも述べたことで あるが、全体としてのリードの哲学は、様々な 個別的なテーマについての検討によって展開さ れており、必ずしも体系的に論述がされている わけではない。したがって、この考察も本論文 のみで完結するわけではなく、今後の考察にお いても、繰り返し検討されることになるであろ う。しかし、まず「意志」というものをリード がどう捉えているのか。この点を正確に把握す ることがまず第一歩とならなければならない。

リードが「力」あるいは「因果関係」につい て、徹底した行為者因果説を採るのは、何より も、人間が単なる自然の事物とは異なって、道 徳的主体であるためには、どうしても「自由」

という概念を前提としなければならないという ことが動機となってのことであろう。「自由」

と「自然必然性」という概念をめぐっては、古 来から多くの論争があるが、単純な整理をすれ ば、「道徳的主体の自由」という概念と「自然 必然性」という概念が、人間の行動に対して共 に成り立つことは不可能であると考える非両立 論 (Incompatibilism)と、両者は一見したところ 矛盾しているが、何らかの形で両立可能であるこ とを主張する両立論 (Compatibilism)がある20

両立論者が、「自由」という概念の成立基盤を、

自然必然性の貫徹する自然現象とは異なるレベ ルに帰属させ、存在論的には「必然性」の優位 を認めるという方向性を持っているのに対し、

非両立論の主張者たちが、多くは自然現象の因 果性の存在論的レベルと同等なレベルにおいて、

―自由」の存在論的基盤が見いだされねばなら ないと考える。行為者因果説の主張者は、この 点において、非両立論と同じ基盤に立つ。すな わち自然必然性の支配が人間の行為に関しては 貫徹し得ないということを主張するために、意 志を最初の基点とする因果系列を考えるという のが、行為者因果を主張するものの基本的戦略 である。両者にはそれぞれの長所と短所、より 適切には強みと弱みを持っている。人間の行動

に関しての自然科学的解明が進めば進むほど、

「自由」に対する存在論的基盤を自然のうちに 求めることは難しくなり、非両立論者は旗色が 悪くなる。しかし、人間の行為の内在的な理解 という観点に立てば、むしろ行為の担い手とし ての「行為主体」という概念は自然なものに見 える。この場合にはむしろ両立論者の側が、人 間の主体性、とりわけ意志作用というものを、

因果関係の枠内で説明することが求められるこ ととなる。したがって、人間の行為の場面では、

両者の論争は人間の「意志」がどのようなもの であり、どのような役目を果たしているかが、

一つの問題の焦点となる。前論文でも触れたが、

たとえば、リードの批判の対象であるヒューム においては、「意志」とは一つの精神の機能で はなく、われわれが自分で自分のしていること を意識しているときに感じる反省的印象である に過ぎない3。実際に人間の行為を引き起こす のは様々な欲求の系列であり、これは因果性に よって理解されるものである。言い換えれば、

ヒュームが人間の行為を説明する最も公式的な 立場においては、動機や欲求は登場しても、意 志は登場する必要がないことになるのである。

あるいは、意志とは実際の行為に結びついた動 機や欲求の別名であるか、あるいは別のもので あるとしても、せいぜいそれらの随伴現象に過 ぎないというように解されることになるであろ

これに対して、リードの立場では何よりもま ず、意志を人間における一つの自立した能力と して捉えることが必要になる。このような試み

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トマス・りードの心の哲学 (3)

は、当然ここまでのところで瞥見した、背景と なる論争や、それが要求する様々な説明といっ たことからして、様々な問題点、あるいは少な くとも、不明瞭な点を生み出すことが予想され る。こうした疑問点を論ずることはリードの哲 学的体系の妥当性を論議するには欠かせないこ

とではあるが、本研究では、まずリードの全体 像を示すことを第一の仕事とし、体系の意義の 研究はその仕事がある程度済んでから行う。し たがって、背景の説明はあくまでリードの体系 の理解に必要な限りでの説明ということに留め ておき、リードが何をどのように明らかにして いこうとしているのかについて、彼の言に耳を 傾けることを第一としたい。

リードは、意志の能力の実在をまずわれわれ の意識の事実、すなわち、われわれが自分自身 のあり方や行為の少なくともある部分を自分で 決定していると意識しているという事実に依拠 させる (530‑531)4。確かに一般的に見れば、

われわれの行為は様々な要因によって成り立っ ている。情念や欲求はその代表的なものである。

したがって、行為に影響を与えるような精神内 の諸要素、行為に対して存在する様々な動機や 誘因も、まさに行為に影響を与えているという 点において、意志という名の下に包摂されるこ とが普通である。このことは、必ずしも精神を 因果必然性の関係に帰着させようという論者の 立場だけのものではない。日常生活において、

他者の行為を理解しようとすれば、それは他者 の行為を、行為者の他の言動や、外的状況の認 識との連関も含めて、一定の合理性の枠内に置 いて、その行為を見なければならない。このよ うな合理性の枠組みが強固なものになればなる ほど、人間の行為において意志の果たす役割は、

何ものにも制約されないといういわゆる無差別 の自由ではなく、不合理な心理的要因を押さえ、

理性的であると思われる意志決定を遂行する推 進役という色合いが濃くなる。いわゆる理性と 感情の慈藤や、あるいは克己心、意志の弱さと いうような事柄が語られるときに、意志は独立

した一つの機能、力能というよりは、理性と行 為を結びつけるもの、あるいは理性自身の発露 というように理解される。リード自身も意志の 独立性を主張する理論的な要請とは別に、この ような立場に親近感を持っており、それゆえに 以下のようなロックの意志についての考えを好 意的に引用するのである。

ロックは意志作用を「精神が人間の任意の部 分に対して、精神が持つ支配を特定の行為にお いてそれを使用するかあるいは差し控えること によって、意識しておこなう精神の一作用」と して、定義する (531)5。リードは、これは要 するに、われわれが自分の能力内のことである

と考えていることをするあるいはしないという ことを精神が決定するということであるとする。

この様にロックを引用することは、一見すると ころ意外なように思われる。なぜなら、ロック は、意志の自由をめぐる論争では、リードがそ の 論 敵 と し て 思 い 定 め て い る 、 ホ ッ ブ ズ 、

ヒュームの系列に属する自然主義者の一人とし て、一般にみなされているからである。彼らは 意志作用は様々な欲求が最終的に人間の行為と して結実するときに、その行為にいたる最終段 階の欲求であると考え、したがって、意志作用 も精神内部の因呆系列の一項である。それ故に 人間の意志は因果的必然性の支配下にある。意 志作用は、それ自身が先行する因果系列によっ て完全に決定されているのではないという意味 でのいわゆる自由意志を考えることに意味はな く、自由の意味とはこのような意志作用が、実 際に行動にいたることが可能であるということ である。言い換えれば、われわれがあることを する、あるいはしないという意志決定が、実際 にあることをする、しないということに因果的 に結びつくなら、われわれは自由であるという、

いわゆる行為の自由のみが有意味に語りうると いうことである。これは、行為主体としてのわ れわれが、われわれ自身の外部から発する因果 系列によって、意志決定から行為に至るプロセ スの中で、行為の実現を阻害されるとか、ある いは自ら決定していない行為を強制されるとか、

そういうことがないとき、われわれは自由であ

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石 川

るという、自由に関するわれわれの一つの直観 によく馴染むものではある。だが、もちろん、

欲求から行為にいたる因果系列の絡み合いはい つもこう単純にモデル化できるわけではないの で、行為論はきわめて複雑な様相を呈するのが 常であり、自由もその場合場合で様々な意味合 いを帯びてくるということになる6。ただ要す るに、因果的決定論者の立場は、われわれの行 為をめぐる様々な一見非因果的な概念もすべて 原理的には因果的に分析できる(場合によって は、複数の因果系列が錯綜して絡み合う簡単に は明晰化できないような事例もあるが)という ものになるはずである。ロックの引用もこのよ うな立場からのものと考えて、必ずしも矛盾を 生 じ る わ け で は な い 。 そ う す る と 、 リ ー ド は ロックを全く誤解して、自分と同様の主体者因 果説を採るものと考えていたのだろうか。

ロックは、理性が欲求から行為に移る前に、

いったん欲求を保留することができるという、

一見したところ因果的決定論と矛盾したことも 認めている 7。このことに関しては、ロックの 中に存在する不整合として多くの論者が論じる ところだが、あるいはこちらの方をリードは ロックの本音として採用したのだろうか。もち ろん、その可能性はある。リードは確かに、自 分の哲学体系をホッブズやヒュームの体系とは 根本的に異なるものになるということを意識し ていたからである。しかし、リードは体系の構 築という観点から議論を始めているわけではな い。彼は、精神において観察可能な具体的な事 象を見つめることから出発する。その点で、一 見不整合な事柄が並べ立てられているように思 われるロックの叙述法こそが、出発点としてと るのに優れていたとして評価したのではないだ ろうか。もちろん、このようなロックの叙述の 中に自分に有利なあるいは好意的に読める部分 を見出しているからという理由も当然あるだろ う。しかし、リードがこの引用の後にすぐさま 意志という現象を理解するための個別の観察を 列挙し検討していくのは、このような探究の姿 勢に由来するものであろうと思われるのである。

以下にリードの観察している事柄を検討して みよう。第一の観察は「すべての意志の働きは ある対象を持つ」 (531)ということである。意 志が具体的に働くときには、それは具体的な行 為に結びつく。そしてその行為が意志的な行為 であるといわれるためには、その対象について の判明な観念を持たなければならない。それ故、

意志とはある程度の知性を前提にしていると リードは言う。そして、この意識によって真の 意味での行為、すなわち自発的に成された行為 と、本能や習慣によってなされた行為との区別 がなされる。確かに、生まれたばかりの新生児 の行動や、われわれに生得的に備わっている反 射行動などは、意志的行為とは呼びにくいであ ろう。しかし、はっきりとした意図的な行為と、

はっきりした生得的な行動との間には、一種の 連続的な推移が存在するように思われる。たと えば、われわれが自分の行為を意識する場合に も、行為のすべての局面を意識し、意志決定し ているようには思われない。きわめて複雑な行 為を円滑におこなうためには、意識の存在や意 志の関与は邪魔になることが多々ある。それゆ え、意識の存在が意志的な行為とそうでない行 動の決定的なメルクマールとなるとは考えにく い。しかし、このような中間領域にあるものも 含めて、それが人間の身体や精神に由来すると いうだけですべて意志的活動と呼ぶことにも無 理がある。やはりこのような意識を伴った意志 の作用となんらかの関係を持つことによっての み、人間の行為は自発的な意志的行為であると 考えることができるというように、いくらか弱 めた形でリードの主張は認めることができるよ

うに思われる。

第二の観察は、「意志の直接の対象は自分自 身の何らかの行為である」 (531)というもので ある。リードはこの点によって意志と欲求、意 志と命令の区別ができるという。この観察の念 頭にあるのは意志を精神内の因果系列の行為に いたる最終項であるとみなす、ホッブズ以来の 自然的主義の立場であろう。欲求は自然必然性 の因果的連鎖を構成する一項であることを認め

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トマス・りードの心の哲学 (3)

たとすると、意志を力と認めるからには、意志 由自身が幻想であるという馴染みの反論がなさ は欲求と区別されなければならない。そうでな れるであろうから、最終的な決着を見ることは ければ、自然必然性を構成する要素と真の因果 難しいであろうが、それにしても、なぜ欲求の 性が区別し得ないことになってしまうからであ ー形態である意志作用のみがこのような幻想を

る。 生むのかという点までは説明の難しいことであ

意志と欲求の区別は、欲求がある意味でどの り、意志と欲求の区別という点に限れば、リー ような対象でも欲求しうるのに対して、意志が ドの側に分があるのではないかと思われる。

直接的には自分の行動を、しかも具体的な形を リードはまた、意志という語が命令という呼 持った行動のみを対象とするということにあるc ぶ方が適切な事例に対して使われている事にも

もちろん間接的に様々なことを意志するという 言業の用法も存在するが、その場合にも必ず、

直接的にはその目的を引き起こすための具体的 な自分の行為が意識されている。さらには、わ れわれは自分の欲求していないことを意志する こともあれば、嫌悪していることを意志すると いうこともあるとリードは言う。さらには欲求 しないということを意志するということもでき るのだとリードは言う。このあたりの論述は合 理論者としては当然の内容とも言えそうだが、

しかし、自然主義論者に対しての説得性は薄い といわざるを得ない。彼らによれば、これは単 に精神内に複数の相対立する欲求が存在し、強 い方の欲求が行為へと結実したというだけのこ とになるからである。また、精神の事実から いっても、欲求しないということを意志できる、

といえるかどうかは疑わしい。というのは、

リードによれば、意志できることはわれわれの 能力の範囲内にあることでなければならないが、

欲求が行為に結びつくことを抑えることはでき ても、欲求自体の発生を抑えることがわれわれ の能力の範囲内にあることかどうかは疑わしい からである。しかも、もしこの条件を認めない とすれば、たとえば自分がいわゆる超能力を 持っているという誇大妄想狂的な人物の意志も、

幻想ではなくまさに意志であると認めなければ ならないということになりかねない。よって、

リードの主張は意志と欲求では具体的な行為と の結びつき方が異なるということ、そして、意 志においてはそれを意志することも意志しない こともできたという、いわば、意志の自由が主 張しうるということが重要な論点であるように 思われる。もちろんこれに対しては、意志の自

言及している。たとえば「敵を熾滅することは 国王の意志である」というような言葉を将軍が 兵士たちに向かって語るというような例であろ うと思われる。このこと自身は、リードの哲学 的主張には直接は関係してこない事柄であるよ

うに思われるが、例えば、欲求している内容と は異なることを命令することもありうるという ような典味深い観察や、命令が社会的な行為で あることへの言及などリードの思考の広がりを 示していて興味深い。

第三の観察は「われわれの意志作用の直接の 目的はわれわれの力の範囲内にあるとわれわれ が信じる何かであり、われわれの意志に依存する

と信じている何かでなければならない」 (532) というものである。確かにわれわれは不可能な ことを欲求することができる。しかし、それを 意志するとは言えない。その限りでは、リード は正しいのだが、当然次のような疑問がわく。

すなわち、例えば客観的にみて不可能なことを われわれがなしうると誤って信じているような 場合はどうなるかである。例えば、ある人間が、

自分は超能力を持っていて他人の行動を左右で きると信じている。そして、例えば、たまたま 自分がさせたいと念じている行動を他人が取っ たとする。この人間は自分の超能力が他人を動 かしたと考えるだろうが、このような場合、こ の人物が他人を動かすことを意志したといえる だろうカピ客観的な因果関係からすれば、他人 を動かすことと自分の意志の間には何の連関も ないのだから、意志作用ということ自体があり 得ないということになりそうであるが、どのよ うな行為においても、われわれが意図したこと が失敗するということはありうる。そのような

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石 川

場合には、われわれの意図したことと、われわ れの意図の間には通常の意味での因果関係は存 在しない。しかし、われわれがその行為を意図 したということについては、普通問題を感じる ことはないであろう。しかし、上記の例におい ては問題を感じるのである。上記の例において もわれわれは何かを意志しているには違いない。

しかし、それが客観的に不可能なことである場 合、意志とは呼べないような気がする。少なく

とも、われわれが通常にしていることとは何ら かの意味で区別する必要があるように思われる。

この問題に対する一つの固答は、意志作用の対 象を切り詰めることであろう。つまり、直接わ れわれが支配力を行使できる精神と身体そのも のの範囲に、例えば意志作用の直接の対象を限

り、それ以外の目的は間接的なものとすること である。このことによって、誤った信念に基づ いた行為も、意図的な行為の範疇に入れること が可能になる。ただし、この方策をとった場合 には、われわれの直接の目的なるものが判明な ものではなくなる。リードの観察に従えば、直 接の目的なるものについてはわれわれがそれに ついて信念を持ちうるものであり、また当然目 的としての意識を持つことができるものでなけ ればならない。しかし、われわれが超能力の行 使をしようとする場合に何がその目的なのか、

あるいはドアを開けようとしているときに、何 が直接の目的なのか、われわれはそれが何であ るかを知りかつ意識でなければならないはずだ が、必ずしもそうはいえないのである。

もう一つの回答は、われわれが意志できるの は直接の行為ではなく、その行為を実現しよう とする努力だということである。この問題につ いてはこれ以上たちいることを控えるが、リー ド自身もこの可能性を認めているように思われ ることも述べてはいる。病気で話す能力を失っ た人間がそれでも話そうとするということを認 めているからである。さらに第四の観察として、

行為にはそれがたやすくできるときでも努力が 伴うということが述べられているからである

(532)。ただし、この努力とは、上記のような 意味での意志の対象というよりは、意志の行使

に伴うある感じということを述べているように 思われるので、直ちに上記の解釈の証拠とする わけにはいかない。どちらにしろ、もちろん、

この場合にも、その努力が実際に実現する場合 とそうでない場合の相違をきちんと説明すると いう問題が残されることになる。

第五の観察として、意志決定に先立って、

「その決定にわれわれを仕向けるあるいは影響 を与える何らかのものが存在しなければならな い」 (533)とリードは言う。これがリードの言 う行動の原理である。原理という語は、このよ うな場合原因という言葉とも置き換えることが 可能なように使われるが、リードはそうは言わ ない。仕向けるとか影響を与えるとは、われわ れの通常の語彙からすれば因果関係を表す言葉 であるが、この点に関しては現象間の必然的関 係についての説明がないのと同様に説明はない。

リードに対して大いに不満が残る点である。

しかし、何故行動の原理というものが必要な のか、この点については少し見ておく必要があ るだろう。「自由意志」という概念がある種の 問題を含んだ、概念としての整合性を欠いた概 念ではないかということはよく指摘される80

すなわち、「自由」という概念が必然性と言う 概念と対立するものと捉えられる場合には、意 志はその直前までの諸条件によっては決定され ていないで、可能な選択肢のどれも実現する可 能性があったということを意味する。しかし、

もしそれだけであるとすると、自由ということ は偶然ということとどう区別されるのか分から なくなる。それはさいころの目がーから六まで 何が出るか決定されていないということとどこ が違うのだろうか。一方で行為の概念から考え ると、われわれの身体の運動や精神の活動が意 図的な行為であるといわれるためには、それが 単にわれわれの身体や精神におきている事象で あるというだけでは足りず、それがわれわれの 意図によって起きているということ、言い換え れば何らかの形でその行為の意図とみなされる ものと結びついていなければならない,。しか し、われわれの意図というものは、ある文脈に おいて生じるのが普通である。もし意図が、そ

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トマス・・・ードの心の哲学 (3)

の行為者の置かれていた行為直前の状況と何ら つながりを持っていなかったとしたら、われわ れはその行為をした人間を意図を持つ行為者と みなすことができないであろう。したがって、

行為はその行為が行われる文脈と結びつかなけ ればならない。すると、「自由意志」という概 念が意味を持つためには、一方でわれわれの意 志決定が直前の状況によって決定されていては ならず、しかも同時に状況とつながりを持って いなければならないということになるのである。

この二つを同時に満たすことは確かに容易では ない。

これに対する対処法は大きく三つの方向が考 えられる。一つはロックやヒュームの言うよう に自由という概念は、意志が実際に行為として 実現することが外的な何らかの強制力によって 妨げられていないという意味での行為の自由に ついては意味があるが、意思の自由などという

ものは存在しないと主張することであり、結果 として存在するものは、因果必然性に支配され る世界であり、意志の自由というものは一種の 幻覚に過ぎない、と主張することである。もう 一つは、因果必然性の現象の支配を認めつつ、

行為の領域の理解には別種の原理なり法則が必 要であるということを主張することである。最 後の一つは、リードのようにむしろ必然性の否 定こそが因呆であり自由であると主張すること である。この場合の問題は存在論的な意味での 現象の必然性の説明をどうするかということに 加えて、自然必然性によっては決定されないで、

自分の意志によって生じるということを、単な る気まぐれや偶然ということとどう区別するか ということである。リードは、この問題に対し て、意志とは基本的に提示された選択肢のどれ を選ぶかということに存し、選択肢のないとこ ろにむしろ意志決定はないという主張をしてい るように思われる。選択肢は、それが本能から 来るものにせよ、習慣や感情から来るものにせ よ、理性的な計算から来るものにせよ、道徳的 な命令によるものにせよ、提示されればそれは 理解可能なものである。したがって、実際選択 された行為は、根本的に理解不可能なものには

ならないのである。リードが行為の原理といっ ているのは、実質的には行為の選択肢を与える ものであり、このような理由によって必要とさ れているものであろうと思われる。

次の問題は、当然このような行為の原理と意 志の影響関係とはどのようなものかということ

になる。

まず認められねばならないことは、意志や判 断などを働かせないで行為することが非常に多 くの場合に認められるということである。本能 や習慣だけで動いている場合には意志も判断も

ない。また、行為しようとする意志はあっても、

判断力は必要としないで、残りの部分を本能や 習慣に任せる場合もある。これらをリードは機 械的原理 (mechanicalPrinciples) と呼ぶ。もち ろん、これらが実際にどのように発動されるの かその機構を見いだすことはできないが、自然 現象とあるいは機械との類推によって理解され る、というよりはそれ以外には理解されないと いう意味が込められているように思われる。

また同様に意志や判断などを働かせないで行 為する場合の原理としては、欲望、感情、情念 などが挙げられる。これらのものはこれをもっ 人間に対してある種の行動への衝動を与える。

この衝動はきわめて強力で事実上抵抗不可能な 場合もあるが、さほどでない場合もある。しか し、人間がこの種の原理に従って行動する場合、

通常この種の行動は自発的な行動だとみなされ ることになる。それは獣類の行動が自発的だと みなされるのと同じである。しかし一般に獣類 のこのような行為は道徳的評価の対象とならな い、なぜなら獣類はこのような行為の原理を統 制するより上位の原理を持っていないからであ る。人間も幼児の場合や狂気に陥っている場合 などは同様にみなされることがある。しかし、

大人の正常な人間の場合には、たとえ実際に行 わ れ た 行 為 が こ の よ う な 動 物 的 原 理 (animal Principles'.  にもとづいているものだとしても、

このようには見なされない。そのような行為も 統御されているべきだという了解が一般的に存 在するからである。この行為の道徳的評価の問 題は別に取り扱うこととして、以上のような意

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石 川 南

志的行為ではあっても、判断を含まないような 行為を認めるということは、意志が知性と判断 を含意するという先の主張とは微妙にずれてお

り、説明を要するように思われる。

意志が判断と知性を含意するとはどういうこ とか。先に述べたように、意志決定とは可能な 行為の選択肢からどれかを実現させることを選 択することであり、また、この選択が決定され ているようなものではなく、行為主体がそれを 選ばないこともできたという意味での自由を含 むものが、真の意志的な行為のモデルケースと いうことになる。選択肢がどのようなものであ るかを理解するためには知性が必要であり、そ のうちのどれを選択するかということについて は、当然判断力が要求されることになる。それ では、判断力が伴わない意志的行為とは何か。

リードによれば、それは意志的行為とはならな いはずのものである。しかし、そこで先に述べ たように、人間はたとえ激情に動かされて自分 ではどうしようもなくある行為に流されていっ た場合でも、外部から見れば、その人が正常な 判断力を備えているならば、そうすべきではな かったという判断が有意味に語られうるような 場合があるということを想起しよう。すなわち、

このような場合には、たとえ事実として、ある 局面で必然性の支配下にあったとしても、外部 からはそのようにはみなされないということで ある。したがって、複数の異なったしかも行為 としては相反する欲求や情念がぶつかり合い、

そしてもっとも強力な動機が勝ちを占め、それ によって動かされているような場合には、少な くとも外面的には(あるいは内面的にすら)そ れが意識的な判断によるものか、必然性の結果 なのかは判定しがたいこととなるe このような 行為は意志的な行為として認めざるを得ないと いうことになるだろう。したがって、こうした 行為を意図的行為としているからといってリー ドがその基本的な立場をずらしていると考える 必要はなくなるであろう。しかし、また、リー ドの論述が必ずしも明快でないことも否定はで きない。

どちらにしろ、本能や感情の一種の強制力が

行為に対して働く場合、その場合の行為と欲求 との関係は短絡的にならざるを得ないであろう。

ある目的を達成するのにきわめて複雑な手段と しての行為の複合が必要となるような場合には、

我々は理性や判断力に頼らざるを得ないからで ある。したがって、自分の行為を全体として最 善のものを目指そうとするとき人は理性的にな らざるを得ない。いわば目的に対する手段の適 合性を考察することによって、行為に影響を与 えるのが理性の機能の一つである。このことに ついて、反対する論者は存在しない。すると、

行為に影響を与える原理としての理性、ないし 判断力が問題になるもう一つの場合は、我々の 目的自身の価値評価、ないし目的間の順序付け の問題をおこなう場合である。一般にこれら目 的間の比較考量が冷静に行われる場合にはこれ は理性の役割であるとされる。しかし、これを 認めない哲学者もいる。たとえば、ビュームは 我々を行為へと動かすものが清念であるとした 上で、「自分の指をひっかくくらいなら世界の 破滅」を選んだとしてもア・プリオリには不合 理ではないという叫これは、たとえば、チー ズと納豆のどちらを選ぶかという問題と同じこ とで、先天的ないし後天的な趣味の問題である ということになる。これに対して、リードはま ず 次 の よ う な 論 点 を 確 認 す る 。 確 か に 我 々 は チーズと納豆のどちらを選ぶかにおいては、我 々の好みによって選択するであろう。そして、

これは明らかに判断力の仕事ではなく、あえて 言えば趣味の働きであろう。ところで、チーズ の好きな人と納豆の好きな人が出会ったときど うなるだろうか。互いに自分の好きなものの良 さを相手に説得して相手も好きになるように試 みるだろうか。あるいは、これは好みの違いだ からといって、お互いの好みを承認しあうだろ うか。どちらにしろ、自分や他人の好みに対し てこのような態度をとること自体は趣味の働き ではない。前者を試みるものは、自分の価値評 価が他者にも同様に通用するものと判断して相 手の説得を試みているのだし、後者を試みるも のは、趣味による判断はどれも同程度に良いも のだと判断して、その趣味判断に対する態度を

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トマス・)ードの心の哲学 (3)

決めているのである。したがって、たとえ一次 的な行為への推進力として判断力が機能しない としても、判断力それ自体の働きは、趣味とは 別個に存在しうるというのが第一のリードの論 点である。それに加えて、道徳的判断に関して は、最善の判断が徳に対する義務を生むはずだ から、行為に対する一次的な推進力となるはず だが、このことについては道徳について問題に するときに別に論じることにする。

ともあれ、我々の行為に関係する人間の先天 的構成部分が、通常は理性と情念と飛ばれる部 分からなっていることはすべての人が認めるこ とである。ヒュームのように、我々が理性と いっているものは行為の文脈においては穏やか な情念と呼ぶべきものであるといって、理性の この領域での働きを否定する論者も、だからと いって、少なくとも我々の行為現象において、

理性と情念という語で呼ばれるような対立的な 部 分 が あ る こ と は 否 定 し な い で あ ろ う 。 し た がって、まず必要なことはこの二つの部分の違 いを明確にすることである。リードによれば、

両者の相違を上手く言葉で言い表すことは難し いので、比喩的に例証することになる。身体運 動を考えるとき、感情や欲望は、外から身体に 加わる力に比すことができる。力がもし十分に 強ければ、我々はこの力に抗しようという努力 をしない場合には、我々はこの力によって動か されることになる。そしてこの時、われわれは この身体運動を自発的なものとはみなさない。

言い換えれば、この運動に関して我々は自由な 主体として行為しているのではないことになる。

欲望や情念の影響もこれと同じで、これらがあ まりに強いと一般的に認められる場合は、むし ろわれわれの行為に対する責任を減じることに なる。このような場合には我々の自由は損なわ れていると考えられるからである。

しかし、外部からの影響が議論であった場合 はどうか、これによって説得された場合には、

我々は自発的に行為したのであり、当然自由な 行為主体であることになる。理性と呼ばれる部 分の働きもこれと同じであり、意志の自由を損 ねるものとは普通考えられていない。理性のカ

と情念の力は同様に意志に働きかけ、人を動か すものであるが、意志の自由という観点で考え る場合、全く逆の性質を持つと考えられている のである。したがって、これらの作用を発動す るメカニズムとしてどのようなモデルを持って くるかはともかく、我々はこのように区分でき る二つのタイプの行為に対する原理を持ってい るということ、そしてわれわれの行為に対する 評価も、このような原理の種的相違を組み込ん だものになっているということは、どのような 論者も認めねばならないことである。

意志に影響する原理についての簡単な考察を 終え、リードはこのような原理の影響を受けた 形でおこなわれる精神の諸作用のうち自発的と 呼ばれるものについて考察を進める。そして、

自発性とは結局能動性と同意語であり、能動性 は真の意味での原因のもつ属性であり、あるこ とをすることもしないこともできるという自由 と本質的に結びついている。このように必然的 な決定という通常の囚呆概念と対照的な概念装 置がリードの考察の基礎であることは、すでに ここまで述べてきたことで明らかである。

ここで、リードが取り上げる作用は、注意 (attention) , 熟慮 (deliberation), 確定された 目的 (fixedpurpose),  決心 (resolution)である。

これらは能動的であると同時に、知性的であり また意志的である。知性と意志は、概念上は区 別できるが、実際の作用において、分離するこ とはできない。なぜなら、意志は意志の目的に ついての理解を前提とするが故に、ある程度の 知性を必要とすることは先に述べたとおりであ るし、純粋に受動的な知性というものがあるか どうかは断定できないにしても、少なくともわ れわれ自身の知的作用が能動的なものであるこ とは明らかだからである。このことを前提とし て、以下これらの項目についてのリードの主張 を考察しよう。

第ーは注意である (537)。注意が人間の精神 的どの精神的諸作用においても必要であること は論を待たない。少なくともどんな対象であれ

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石 川

何かを判明に意識しようとすれば、そこに注意 を向けなければならない。われわれの感覚器官 には様々な情報が入ってくるが、そこに注意が 行かなければ、全く気づかないで終わることも 良くある。逆に、判断力と推論のように、最終 的な結果の真偽が客観的に確かめられるような 精神の作用の場合には、天才的といえる人は、

いわばこの注意を常人にもまして持続できる人 の場合である。このように注意はわれわれの精 神の能動性に必ず伴うものであり、したがって、

このような精神の作用が自発的なものである限 り、意志に依存しているといえる。

しかし、またわれわれは同時に、注意がいつ もわれわれが向けようと考える方向にのみ向か うわけではないことを経験から知っている。ゎ れわれは何かに集中しようとしても、何かしら の感覚的刺激や、内発的欲求等々によって注意 が乱される。注意が乱されるということは、注 意が意志的にではなく、別の対象に向かってし まうということである。しかも、通常はこの注 意をひく対象は、当人にとって何らかの驚きや 快をもたらすものである場合が普通なのだが、

時には、絶対に考えないようにしようと考え、

しかもその考えること自体が当人に対して何の 利益ももたらさないような場合さえもある。た とえば自分を苦しめている不幸について考える 場合がそうであるとリードは言う。これはこの 際にも選択の自由があると考えれば奇妙なこと である。したがって、これは注意を引く力のほ うの強さが、精神の能動性を上回っていると考 える他はない。

以上のようなリードの論述はごくありきたり の常識的なことを述べたに過ぎないと思われる かもしれない。しかし、ここに隠されている前 提の一つには注意を払っておきたい。それは有 能な人間とそうでない人間の相違を、注意をよ

り払うことができるかできないかという点に求 めているということである。ここにはデカルト が「この世でもっとも公平に分配されているも のは良識である」 IIといっていることと同じこ とが言われていると考えてよい。すなわち理性 や判断力は、しかるべく働かせれば誰でも同じ

結呆を生み出すということである。その意味で は理性や判断力はそれを働かせるにおいて、意 志作用が不可欠であるとしても、理性や判断力 の作用は自由を前提としている意志の作用とは・

異なるということにならざるを得ない。つまり その発動の継起として意志が必要であるという 点で、精神の自発的作用ではあるにしても、意 思が能動的といわれるような意味では真に能動 的な作用ではないということになる可能性があ るということである。あるいは少なくとも、意 志と理性は、概念的には完全に別の能力と見な

されるべきであるということである。

リードが挙げる第二の精神の作用は熟慮であ る (538)。熟慮とは、何をなすべきであり何を なすべきではないかということを考えるという ことを、一般的抽象的にではなく、個々の具体 的な場面において、自らが(あるいは誰かの具 体的な行為主体が)行為することを前提に考え ることである。そして、このような必要ができ るのは、行為をめぐる全体的な状況や条件が明 瞭でなく、したがって、われわれがなすべきこ とを選択することに迷う場合である。そして、

熟慮は人を行為の決定に導くものである。先に 述べたように、行為の規則を抽象的に考えた場 合、それは理性ある人なら基本的に同一の結論 に至るであろうと、リードは考えているように 思われる。したがって、熟慮とは複雑な状況に ついて不完全な情報しか得られないという限定 された状況下において、合理的な意志決定をす ることと定義できよう。そして、注意において、

意志以外に注意を引く強力な要因があったのと 同様に、熟慮においても、それを妨害する要因 が多々ある、欲求や感情は常に最短の道を行こ うとするのに対して、熟慮は行為する以前に事 態をできるだけ客観的に把握し、より正しい道 を行くための道筋を示そうとする。そのために は、欲求や感情を一時的にでも抑えることがで きなければならないのである。しかし、このカ が少しでも弱まれば、われわれはこれらの要因 に引ぎずられることになる。また熟慮が必ずし も完全なものにならないのは、一つにはわれわ れの時間が限られていることが理由として挙げ

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トマス・リードの心の哲学 (3)

られる。熟慮の最終的帰結はわれわれの行為に ついての決定である。具体的な行為についての 熟慮はある時期で打ち切って行為決定をしなけ ればならない。そして決定に向かう決断という のが、いつも合理的な決定であるというわけに

それが単に自然本来の性質に基づいてそうなっ ているだけではだめで、そのように有徳であろ うとする一般的な目的に基づいていなければだ めであるということである。真に道徳的である ためには、道徳的な意志に基づいていなければ は行かないことは容易に想像がつく。その場合 ならないということになるであろう。しかし、

われわれは必ずしも一定の結果となるとはいえ このことが直ちにリードの道徳論が主意説、義 ない決断を生み出さなければならないであろう。 務論になるのかどうは明らかではない。この点 しかし、こうした事柄に関しては、リードは触 に関しては、やはり道徳論の考察に残しておこ れていない。ここでの、リードの論述の狙いが、 う。ただ、リードの道徳論が、少なくとも行為 人間の行為を詳しく解明することであるという の場面においては道徳的に評価されるというこ よりも、人間の行為の意志決定が、最良である とよりも、道徳であろうとする意志により重点 こと、最善であることといった理性的な判断を、

欲求や感情とは独立な原理として持っていると いうことを示すことにあったからだといえよう。

さらに第三の精神の作用としてあげているの が、固定した目的ないし決意である (539)。熟 慮の結果、意志決定に至ったとしても、実際の 行為までには時間を要することがある。そのと きに生じる作用である。といっても、これはそ れ自体をとってみれば、実行までの時間間隔と いう外的な要素による区分なので本質的には意 思決定といって差支えがない。ただ、この場合 決定された目的の性格が問題となる。すぐに行 動に移されるような意思決定の場合、その多く は具体的な行為と結びついた個別的な目的であ る。むしろ具体的に行為と結びついているが故 に意志と呼ぶべきであると考える論者もいるで あろう。しかし、われわれは、より一般的な目 的を定めることがある。たとえば、ダイエット をして一年間で標準体型にしようとか、将来は 政治家になるとかといった類のものである。こ れは間接的には、具体的な行為と結びつくが、

行為の直接的な意志とは呼べないであろう。む しろ行為の指導原理と呼ぶべきである。しかし、

これらの目的をわれわれが選択することもまた 事実である。このような目的がわれわれの行為 においてどのような役割を果たしているかこれ もまた興味深い問題であるが、リードの考察は こちらには向かわず、このような固定した目的 が道徳の基礎にあることを指摘する。つまり、

われわれの行為や性格が道徳的であるためには、

を置いているとは言っても良いであろう。そし て、一般的には、その時々の気分や思い付きで 行動の原則が変わる人よりも、一定の行動の原 則を持っている人が理性的であり、自律的であ るとは言っても良いであろう。しかしながら、

一般的な目的を持っていることは理性的である ことの必要条件ではあっても十分条件ではない ということになろう。なぜなら、われわれは原 理を定立した後には、単にそれに固着するだけ で、再吟味ということを忘れてしまう傾向を強 く持っているからである。したがって、人間は、

移り気や軽薄さとともに、単なる頑固さも避け ねばならない、理性的な確信に基づいた中庸を 取るのがリードの進める道である。

そして、最後にリードは今まで自分の述べて ぎた事柄についての系として、幾つかの重要な 論点を述べている。第ーは、意志の及ぶ範囲で ある。一つの理解では一般的な意思能力と区別 された意図、すなわち一回一回の意志作用は、

一回の行為に結びついて理解される。したがっ て、この観点に立てば、道徳的人格を構成する のは意志ではなく、意志を生み出す動機や性格 のほうだということになる。リードの自身も述 べているように、このことは道徳論を考える上 できわめて重大な論点になると思われる。

これに関係して、徳の定義も、意志に関連し たもの、自らの自発性と結びついたものになる。

とュームは、徳を狭義のいわゆる道徳の範囲に 収めず、人に快を起こさせるようなすべての性 質ぱ徳であり不快を起こさせるようなすべての

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石 川

性質は悪徳であると述べているが、リードは明 確にこれと反対の立場をとることになる。「明 確に意志によって形作られたもののみが人間の 価値にとって大事なのである。」 (542)そして 習慣もこの流れに沿って理解される。

以上でリードの意志についての考えを瞥見し たわけだが、最初にロックとの関連で触れたよ うに、リードは意志や意志の自由に関する形而 上学的な問題に踏み込んでいない。意志をめぐ る個別的な事象の観察と分類を詳細に行うだけ である。この点においては、あるいは読者は欲 求不満を感じるかもしれない。とくに行為者因 果という形の因果論を強く主張し、この因果性

がわれわれに直接現象するのはわれわれの意志 においてであると言う主張からすれば、不十分 といわざるを得ないであろう。ただし、リード の現象の観察とその分類が、われわれの人格を どのようなものと見るかという問題と密接に結 びついているということは、十分に見て取るこ とができる。要するに人間を自然的な存在とみ なすか、反自然的な存在とみなすかという問題 である。人間は反自然的であるがゆえに、道徳 性の問題が生じるのであるとリードは考えてい るようである。このことを確認した上で、われ われは、さらにリードが提示する行為の諸原理 の観察と分析に進むことにしよう。ここにおい て、われわれはリードの提示する人間像をより 正確に見極めることができるであろう。

石川徹「トマス・リードの心の哲学 (2)ーカの概念ー」 香川大学教育学部研究報告第一部 第121 p.85‑95 

2  Cf.  G. Watson (ed.),  Free Will (1982)  Oxford U. P 

3  David Hume,  A Treatise of Human Nature, Book II  , Part3,  §1 

カッコ内の数字は全てTheWorks Of Thomas Reid,  ed.  By William Hamilton 6th editionEdinburgh 1863Thoemms Press1994年に復刻出版した本のページを示す。

ロックの考えについては、 JohnLocke,  An Essay concerning Human Understanding,  Book II,  §21を見よ。

宗像恵「自由意志論」、藤本隆志・伊藤邦武編『分析哲学の現在』世界思想社 (1997)所 収p.156194 この問題に関しては様々なロック解釈がある。 Vere Chapel  "Locke  on  the  freedom  of  the  will"  in  Vere 

Chappel (ed),  Locke,  Oxford U.  P (1998)を参照せよ。

たとえば、 A. J.  Ayer "fatalism"  in his The Concept of a Person,  Macmillan(l963)  p. 235268を見よ。

9 この結びつきかどのようなものであるかということに関しては、因果的な関係とみなす立場と、より論理 的な関係があると考える立場が存在する。

10  David Hume,  op. cit,  Book II  Part3§3 

11  Rene Descartes,  Disicours de la  Methode,  (1637)冒頭

参照

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