学習の時間論的構造
佐 藤 晋 一
(1984年11月5日受理)
は じ め に
学習は,正確に知ることと正確に行うこととに深い関連を有する。否,むしろ正確に知ることが学習 の根本であり,正確に知っていれば(理解していれば)正しく行える(出来る,解ける)し,正しく行 うためには正確な知識が必要である,という考え方は学習についての基本的な考え方として,一般に認 容されているようである。しかし,それはいかなる仕方での認容なのか。正確な知識が正確な行動を条 件づけるというのは,どのような意味においてであるのか,が考察されなければならない。この言明は
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̀式的に論じられるのみではなくして,わかることが時間論的な問題とどのように関連するのかを考察 することによって,言明としていかに妥当であるのかが判断されるであろう。
わかっていれば,必ず常にできるという方程式が成立するのだろうか。それが成立するのであれば問 題はない。が,それが何故,いかに成立するのか。その論理的根拠は,少なくとも明示されてはいない と言える。単なる仮説として主張され,便法として利用されていることはある。また,経験的にはそれ が成立しうるように感ぜられることは,事実としてある。心理的には,できないのはわからないからで あるという説明には,抗しきれないようにも思える。というのは,できないのはわからないからではな いということを主張することは非常に困難だと感ぜられるからである。しかしながら,これでは十分で はない。わかれば,何故できるのか,わからないと何故できないのか。その根拠が明らかにされる必要 かある。特に,わかっていてもできないことがありうるのは何故か,を解明することはきわめて重要な ことであろう。更に,わからないならできないと断定しうるのか,を考えてみる必要がある。他方,で ● ●
ォるということは,普通は何かができることを指す。可能性としてはあらゆることができうるとしても,
少くともあらゆることはできないとは断定しえないとしても,あらゆることが実際にできるという事態 は経験的には存在しない。このことは何故なのであろうか。これに対して,わかるという場合,一つ一 つの具体的な事柄がわかったとしても,直ちにそれがくわかること〉であるとは言わない。何かがわか るということと,わかるということとはどこか相違すると感ずるのが普通である。けれどもくわかって いる〉という状態にあるなら,どんな事態に対しても何らかの対応をなしうるとも感ずる。わかるとい うこととできるということには,このような相違性もつきまとっているのである。
1.わかることについて
わかることと時間の問題は深い関連にある。いつまでに,あるいはいつわかればよいのか。その時間 の幅はどのようにしてきめられるのか,が第一に問題とされねばならない。わかることにとって無制約 の時間がゆるされるのか,を考えよう。個体にとっては,生物学的な時間的制約がある。また成長・発 は非可逆的であり,臨界期のようなものがあることも示されている。わかるということを,少し広い社
会的・歴史的な意味及び人類史的意味でとらえれば,ここにも個においてと同じ時間の問題がある。歴 史の非可逆性と発展段階がそれである。ある事柄が理解されるために必要な時間といったものが,あら かじめ決められているのか。つまり,事柄そのもののうちに解決に要する時間が,あらかじめ含あられ ているのか,あるいは外そう的な時間幅が決められているのか。このことは,学習という用語を瞬間的 にわかることとしては使用しないということとあわせて考える必要があろう。わかるということは,単
なる拡大,生理的な生熟や生長の非可逆性(時間的非可逆性)に即して経過する事柄と言えるか。わか 、
ることを生理学的経過に還元することはできない。何故なら,わかるのは何かがわかることである。そ ● ●
フ何かは全くの無構造的な・無法則的な対象ではない。この何かは,学びとられる対象である。理解の 対象そのものには法則的な,構造的な意味が附与されている。そしてその意味は,正確に理解される必 要がある。その意味を,随意に,アト・ランダムに知ることはできないはずである。ある意味対象に興 味や関心をどの程度抱くかどうか,知りたいと思うかどうかは,個体のレヴェルでの問題であり,そこ には統計的なバラツキがあるだろう。ランダム性があるだろう。しかし対象そのものはアト・ランダム に構成されているものではないのである。個体においては,その生存が許される範囲において,知るた めに知ることがありうるだろう。心理的な側面においてこのことは何らの束縛もなく,心のままに行え ると感じられることはあるだろうが,それは個のレヴェルでのバラッキである。系統発生的な,あるい は人類史的な場合の学習を考えると,このレヴェルでは個体の場合のようなバラツキがあった場合は,
存在そのものが不可能になると言える。存在そのものの維持には,連続性が必要である。この連続性は,
アト・ランダムな学習(わかり方)の籟のみカ・らは出て来ないからである騨穫の意味では澗のレヴ エルにおいても,知るために知るようなことは無時間的に許されてはいないのである。つまり,知るこ ● o
ニは何かとの関連においてはじめて有効なのである。本来的に,知ることを何かと切り離して論ずるの はおかしいのである。知ることは,根本的に無方向な営みではない。無方向な,単なる空間的な拡充と
しての知識の集積はありえない。知ることが単なる空間的な拡がりの中で論じられる事柄であるならば,
一知るに至るまでの時間は,それぞれの空間的拡がりに即した時間のみを考えればよいのである。例えば,
ある人が心のままに何かを知りたいという場合には,そこにはその人が必要だと思うだけの時間があり うるし,そういう時間の長さを設定しうる。しかしながら知ることは,根本的には方向性をもたねばな らない。この方向性の設定こそが,むしろわかることにとっての最大の問題であろう。方向性が決定さ れれば,それに伴うく場〉が決まる。この,方向性の決定は個のレヴェル,社会のレヴェル・歴史のレ
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買Fル,人類のレヴェルのいずれにおいても無時間的にはなしえないのである。では,いつ,いつまで
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ノ行えばよいのか。何を,いつまでに,いかなる方向において学びとる必要があるのか。この時間はど のようにして定められるのか。少くとも,個体がアト・ランダムに決めればよいというだけでは不十分 なのである。
何を,いつまでに学びとらねばならないかはどのようにして定められるのか。それは,学習さるべき 事柄自体のもつ法則性・論理性及び困難度にかかわる。従って,また,学習の目的,何をすべきかの目 標設定と深くかかわる。正しく知るために必要な時間は,何を,何のために知る必要があるかによって 決ってくるだろう・何をか。それは第一に知識のもっている構造・関連性・体系性であると言える。こ の知識の構造・関連性は,単なる空間的な拡がりという点からのみ論じられはしない。知識は空間的な 拡がりと共に,時間的な拡がりを有している。未来への予測性を含んでいる。知識は空間的な限界と時 間的な適用限界を有している・知識の有効性は時間・空間的な限界を有する。また,知的な連関性は,
いつでも,どこでも存在するのではない。いつでも可能な,有効な,通時的に有効な知識は存在しえな
い。また,時間面で切った平面的拡がりの,どこでも可能な,有効な,共時的知識も存在しない。直観 的には後者の方の知識の有効性の範囲の方が広いように感じられることはありうるかもしれない。そし
て,この故にこそ知識の連関性を正しく知るだけでは十分ではないのであろう。知るということは,そ れにはとどまらないのである。が,一体何を知るべきなのであろうか。何を知れば知ったことになるの か。これは無限の時間に貫き通されて存在する問題である。しかし,ともかくも知識の連関性を時間的
・空間的に正しく理解する必要はある。それには一定の時間が必要となる。知識の空間的拡がりを正し く把握するための時間は,どれだけでもとりうると論理的には言えるかもしれない。また,時間を十分 にとらなければ正しく理解することができないと感じられることもある。時間さえあれば,いくらでも 広い範囲にわたり,また過去にもさかのぼり正しく理解することができると感ずることはありうる。だ が,知識というものは,既知の部分からのみ成り立つのであろうか。本来,知識の連関性はそれを以っ て,未来の予測を可能な限り確からしいものにするためにある。とするなら知識のもつ時間的な適用限 界がどのあたりまで及ぶのかを正確に理解することも必要である。水平方向への拡がりに関してではな
く,垂直方向への時間的拡がりがどの程度まで及んでいるのかを,正確に理解することは可能であろう か。未来永劫にわたって,は不可能である。ある程度の範囲でしか可能ではあるまい。が,未来への理 解そのものを,ある範囲の中でおこなうだけでは十分ではない。理解の方向は遠くまで及んでいる必要が ある。にも拘らず,その遠くを正しく理解することには,困難が伴う。まず,何と言っても,未来に関
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する理解(予測的理解)が正確であったかどうかは,いまはわからないのである。時間の経過そのものがな
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ければわからないのである。未来についてわかることがいま必要なのであるが,正しくわかっていたか どうかの確定そのものを,いま行なうことはできないのである。むろん,このための時間は無限定の時 間ではないのであるが,さりとてあらかじめ決定されているのでもない。わかることを介して決められ ねばならないのであり,その程度の時間幅の中では正しく決定されうるであろう。知識の連関性を量的
・質的にどの程度理解できるかということは,既知の知識の量及び質に負う。ところがこの既知の知識 は,未来の予測的理解の結果として形成されたものである。つまりここには,目的に関してのみならず,時 間に関しても妥当であったという判断が含まれている。従ってこの意味では,そもそも空間的拡がりの 正確な理解・把握のために許容される時間が,常に,いつでも,どんな場合にも無限にとりうるという ことはないのである。目的実現の緊急度(これは時間的要因である)によって,拡がりを正確に把握する範 囲が定められる。どの範囲までを正しく把握するのかは,あらかじめ決められているのではなく,時間的 緊急度によって定まると言える。理解さるべき事柄は,いわばFrageとして在るのだが,そのFrageに 対する答え(理解すること)は,FrageがFrageとして存する間に,あるいは実現されるべき時間的制限に おいて,提出されねばならないのである。更に目的とされた対象そのもの(Frageそのもの)の有する困難 度も,時間がどれだけとれるかを決めるであろう。学習は瞬間的な理解を意味しないという根拠は,学 習者の側にあるのではなくして,理解さるべき事柄のもっている,特に時間的要因にあると言える。
では,これらの緊急度や困難さは,いかにして知りうるのか。とりわけ緊急度をどうして知りうるの
か。緊急な事柄であると感じたり考えたりすることは大切なことであるが,何故それを緊急な事柄であ /
驍ニ判断したのか,という問題は更に重要であり,これは客観的な問題として論じうることである。緊 急度は,垂直方向・未来への予測の緊急度として在りうる。すべての事柄を,一辺に理解はできない。
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すべての未来を,いま予測し尽すこともできない。何が起こりうるかも予測し尽すことができない。順 序を追って,ということはっまり時間を追って理解が進行する。自然的時間の経過を追ってではない。
この順序はどのようにして決められるのか。順序を追うということは,空間的な,論理的な,いわば形
の論理の順序のみを追うばかりではなくして,何を前とし何を後にするかという内容判断の時間の順序 を追うことである。この順序を.常に即自的に,意のままに追えるのであろうか。主観的には,追える ように思えるし,また可能でもあるかもしれない。のではあるが,その追い方が妥当であるか否かを,
主観的に決めることはできない。それは,どうしても客観的に判断されなければならない。何故なら,
理解の持続性・連続性を判断するのは,究極的には主観ではないからである。Fr ageの理解,課題の正 しい把握,そしてそれらの実現は客観的領域の事象に属する。問いに対する答を見出すこと,、あるいは 課題を正しく把握しようとすること,そしてそれらを実現しようとすること,そういう営みを媒介する 時間が在ってはじめて,次の時間がやってくるのである。これは客観的な事象である。いま何を学び,
次に何を学ぶか,に関する判断は通常それほど意識的に問題とされないとしても,論理的にはきわめて 重要な事柄である。少くとも,学ぶ側から見た場合,いまの次に何が来るかは,すべての学習者にとっ てあらかじめすべて決っているとは言えないからである。ある時点であることを学ぶ・理解することが なされてのみ,次のFr agβの理解が次の時点での課題となり.実現の目的となるのである。このプロセ スは不可逆である。ただし日常経験では,後になって前のことがわかるということがありうるように思 われる。けれども,人間には見通し,あるいは知的活動そのものの本質的属性であるところの方向性と いうものがあるので,その時にはわからないように感ずるがあとになってわかるように思えるのではな いか。一見,理解のプロセスが時間的順序に従わないように思えるが,それは記憶しているということ 自体が限定的な現象であることによって説明されうるであろうし,一般に理解のプロセスは不可逆的で あると言えよう。湯川秀樹の重要な指摘がある。「未来というのはきてみなければわからんというのとち がうんじゃないですか。なんで見えるか知らんけど,先が見えたり見えなかったり,たまに見えるとい うことがある。だから,未来というのは全然わからないのじゃないんですね。」「しかし,どうして見え るのかということは,よくわからん。あとでなんでそんなことがわかったかという理由づけは,いろい ろできるかもしれませんが。」(『私の創造論』小学館,1981,別頁)あとでわかる,というのはあとにな
.って疑問であった事柄が理解の論理的・実践的順序の中に整合的におさまることであろう。だから・次 に何をどのぐらいの時間で学ばねばならないかの判断は,何を,いかなる見通しにおいて学んで来たか に拠る。即ち現時点までに有しえた知識の量的・質的な蓄積に拠って決められねばならないのである。
そこにたとえ何らかの不確定さがあろうとも。空間的正確さと時間的正確さとは,独立事象として定ま るのではなく,相補的な事象として定められる。時間と空間との重層こそが正確さの条件となる。そし て,いま・ここにおいての重層から,次の時・空での重層への遷移があるのである。わかるということ は,可能な限り正確な時・空的重層を創り出し,確定することであり,この重層の遷移の連続性の中で のみ,わかることの妥当性が確定されるのである。可能な限りの正確さの確定は時間的拡がりと空間的 拡がりの各々についてではなく,両者について同時に行わねばならない。むろんこの確定は,方向との 関連でなされる。即ち,連続性を排棄しないような仕方でなされねばならない。が,ここには根本的困 難さがある。本来的に時・空的に限られた範囲での正確さしかもちえない知識が,理解さるべき,課題 としての.従ってきわめてゆるやかな限定条件しかもちえない未来における緊急度を判断するために使 用されねばならない。次に,その確定は,あらかじめ未来の事柄を十分に知り尽すことは不可能である ことから,偶然の要因の介入を免れえない。未来において理解さるべき事柄は,常に必ず予測的ではな く,偶然的,外的,そして強制的要因にも条件づけられるのである。次に何を選択するかをあらかじめ 確定しておくことは不可能である。このような不確定さが,わかることには含まれているのである。
わかるということは時間的・空間的に無制約的な事柄ではない。時・空の拡がりは学ぶこと,理解す
ることによって埋めてゆかねばならない。わかるには時・空への問いが必要なのである。がそれに対す る答は,常に必ず確定的ではない。答え(わかったこと)が妥当であるかどうかは一義的に確定されえ ず,妥当かどうかの判断軸が必要となる。この判断軸は学ぶ者においてのみならず,客観的な判断とし て成立せねばならない。今,わかったことの妥当性は,既知のこととこれから学ばれるべきこととを結 びつけることにある。が,この結合が構成されたか否かは何に拠って判断できるか。一っは知的連関性 を規定している論理的整合性である。他は,現実的な時・空の中で,それが有効性をもっかどうかであ る。目的とされる有効性は,当面の場合でのそれであってもよい場合がある。知的連関のディテールに わたってでなくとも,何故そうすることが良いのかを十分に知りえなくても,何らかの有効性がありう
るならよい場合がある。このパラメーターは,常に論理的に,任意に設定しうるのではない。
わかっているという状態を,いかにして判定しうるか。それは主観的な意味でわかっていると思うか どうかという面からのみ判断できず,以上に考察してきたように,特に時間のパラメーターのとり方と 深くかかわることである。過去の事実を理解する場合も基本的には同じであるが,特に,次に何をした らよいのかを知ることにとって許容される時間は,常に必ず一義的に明瞭ではない。このような時間的 制約の中で知るべきことを判断せねばならない(過去の事実の理解は,必ずしも答を必要としない。つ まり,論理上それは事実として措定されているのであり,そのこと自体に対する否定は本来は未来との 関連で問題となるからである)。その理由は,人間の存在それ自体を規定している時間が実践を介しての
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み連続させられるものであることにある。次の時間は選びとられねばならないからである。
2.できることについて
わかるということが,とりわけ未来に関して問題となるのは,まず第一に,わかるということそれ自 体を,時間的問題に無関係に空間的拡がりの中でのみ検証することが不可能であるからである。次に,
わかっているか否かは,何らかの実践を介して検証されうることがあるからであり,わかることから導 き出される有効性が,現実以後の,予想される未来という現実においてもつ効力は,はなはだ大きいも のがあるからである。とは言っても,わかっているのであれば,必ずできるとは言えない。すでに検討
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してきたように,わかることが時間の問題と深い関連をもち,そして,わかっているという状態の確定 をすること自体に含まれている,本質的な不確定さがある。だから,わかっているのならば,という仮 定の仕方がそもそも仮定として十分なものであるかどうか,が検討されなければならないのである。そ
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ればかりではなく,できるということの意味も十分に検討されていなければならないのである。
チョムスキーは,知っているという状態をいかに定義するかを問わねばならないとし,自から論究を 試みている。知っているという状態は,精神がある特定の状態をとる時である,即ちく心的状態が種々 の一時的な心的状態の中で,比較的安定した部分として存在しつづけること〉であると,彼は考える。
言うまでもなく無意味な方向における安定状態はありえないのであって,〈有意味な方向〉における安 定状態である。そしてこの状態はある種の規則と原理によって構成される構造をもつであろうと考えら れている。チョムスキーの指摘するように,知っているという状態は,全体的に見ると相対的・一時的 安定しかないとしても,その中のある部分はそれに固有の,局所的ではあるが,安定性を有していると 考えられる状態にあると言えるような場合であると考えられる。このことは経験的にも肯定しうること である。これを物理学ではくゆらぎの中の平衡状態〉,くゆらぎによる秩序の形成〉というのである。
時間論的には,開放系の中における閉じた系の問題である。全体的には未知で,不確実であっても,あ
る局所的な時間・空間の中においては,正確に知っていると言える状態がある。知識そのものが一般的 妥当性をもつことはできないのであるが,ある適用限界内においては十分厳密に妥当性をもっていると
言えるのである。未来への方向に関しては,根本的には未知ではあっても,ある時間的な段階の,一定 の範囲においては,十分正確に将来を知ることができ,予測もなしうるのである。
さて,それではこのような安定した状態にあると考えられる,知っているという状態をいかなる基準 によってとらえたらよいのか。一般的には,わかっているのならできるのであるから,できるというこ とを基準にとりうると考えられる。が,チョムスキーは,知識をもっているか否かの基準を行動に求めるの は論理的にまちがいであるという。行動できるということは別に検討されるべきことがらであって,行 動が知識をもっていることの判断基準にはならないのであり,せいぜい知識を有していることを証拠だ てるにすぎないというのである。というのは,幼児期の精神状態を考えるとわかるように,そこでは知 っていることとできるということは必ず対応しているとは言えないのである。また,わかっていても必 ずうまくゆくことはないし,わかっていてもまちがうという経験的事実は大人の場合にも見られる。そ
してこの理由は実ははなはだ不明瞭である。従って,なぜまちがえてしまったかを説明することは,常 に必ずできるとは言い切れない。ついでに記せば,それよりも更に困難なことは,なぜうまくいったか を説明することである。この意味では何かをなすことができるということが,直ちに知っているという ことの判断基準では,確かにない。行動が知っていることを実証する最良のパラメーターであるかどう かは,むしろ前提ではなくして検討さるべき事柄なのである。両者の間には,いかなるコブラ(繋辞)
がありうるのかこそが解明されなくてはならないのである。
ここでは行動それ自体に含まれる問題のうち,特に行動と時間との関連を中心として検討しよう。で きたかできなかったかということ自体は,事実として現象するものであるから,事実として判断されな ければならない。少くとも行動がなされたかどうかは,de factの問題として判断されねばならない。
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なされた行為そのものの確認は可能である。けれども,いかなる行動がなされれば,それができたこと になるのであろうか。何かがなされたという,行動一般の確認だけでは不十分なのである。具体的に生 起した行動が,知っていればできるという仮定を満足させるく解〉であるかどうかを,いかに確定する のか。そのためには,その具体的な行動がいかにして実現されたのかを考察しなけれはならない。行動 は突如として生ずるものではない。Fr ageに対してはじめて行動が意味をもつのである。できたという ことをそれ自体として判断することは可能である。できないのではなくて,できたと判断できるために
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は,とりかかる前ととりかかってできたことになるまでの時間の経過を前提せねばならない。できたと いうことは,それ以前の状態への有意な変更があったかどうかをしらべることによって確定されうる。
とは言うものの,その変更はいかなる経過においてなされたのかが,そしていかなる変更を有意の変更 というのかが,直ちに検討を要することとなる。
とりかかってからできるまでの間の経過は,単なる時の流れではない。つまり,既に方程式のような
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ものが確定していて,初期条件であるところのある値を与えてやれば,おのずからできる状態に到達す るということはないのである。それは,ある時点でなされたことを次の時点で変更してゆくということ のくりかえしである。この変更には,変更が必要ではないという判断に基づく場合,つまり無修正のま ま継続するということも含まれている。また,そこには偶然になされたと考えられる場合の変更を含め て考えてもよいのである。変更とは,単に,いまの行動の後に次の行動が予想されたものとして連続し ているのではない。知ることと全く同じように,いまの行動と次の行動とは,いまの行動を次の行動へ と媒介するものがあってはじめて,次の行動があるという関係にある。そして,実はこれらの行動がト
一タルされて出てくるのが,知っていることをできることへ転化させる行動なのである。
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いまと次とを結びつけるのは行動である。この行動を介して変更がなされた時に,それを妥当な変更 というのである。だから,変更は形式的整合性のみをもっていなければならない,一貫性をもっていな ければならないだけではなくして,いまと次とを,その連続性を破壊することなく結びっけてゆかなけ ればならないのである。とにかく,いまが次に連続させられねばならない。ところがこの連続性は,い まと次の時点の間のそれでしかない。過去を含んだいまと次の時点が結びつけられにすぎない。なるほ ど連続性は,一一定の方向性を前提することによって実現されるはずのものであるが,しかしその方向を もった連続性は,単なる順序・序列としての連続性ではないのである。ある方向性を想定しつつ,絶え ずいまと次の時点が結びっけられっづけてゆかねばならない。いまと次の時点との結びつきが,その次 の時点をきめるのである。このくりかえしの中からのみ方向性をもった連続性が,常に求められ対象化 されねばならない。決して,外そう的に連続性は与えられるものではないのである。とは言うものの,
たとえ正しく知っていて,そして連続性を維持しつづけなければならないという意識を十分にもちなが ら行ったとしても,必ずそれが実現されるとは限らないのである。経験的には,まちがっていいと思っ て行動することはまずありえないのに,つまり正しい知識を有しており見通しもキチンと立てて,実践 それ自体にもとりたてて欠陥があるとは考えられないのに,うまく行ったとはとうてい言えないことが あるのは事実である。このことは,空間的拡がりに関しても時間的な拡がりに関してもありうることで あるが,とりわけ未来の方向に関して,本質的につきまとう問題である。
そこには非合理の穴という誤差が入り込んでいるのである。必ずうまくゆくとは限らないという非合 理性の介在があるのである。この誤差には,言うまでもなく空間的な面もある。この場合は,誤差のな んらかの修正を,時間を止めて行うことも可能である。時の経過と共に行うことも可能であると考えら れうる。では,時間的な,未来に関しての誤差は,どのように修正したらよいのか。いってみれば,何 かを理解し実行することが,適切であるとされた時間までになされなかったような場合である。これを 空間において,なされなかったことが判明した時点での空間において修正することは不可能である。次 の時点へもちこして,そこで修正する以外にはない。が,そうするとここで既に,予測とズレることに
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なるのである。できるということには,時間に含まれるこのような不確定さが,本来的につきまとうの である。いまの時点と次の時点との連続性は,常に保障されうるとは限らないのである。そしてそのこ
と自体が,その次の時点との連続性を実現することにとっての負荷となってゆくのである.
他方で,いかなる変更である時に連続性が成立したと判断されうるのか。この変更の妥当性は論理上 の整合性があることによって判断される。知的構造を破壊せずに維持しつづけることであり,高度の秩 序化への,方向をもちながらの形成である。この意味では,メタモルフォーゼによる新しいFormの生 成があればよいと言える。また,一定の拡がりの中で有効性をもつということによっても測られるであ ろう。というのは,連続性は無限定の空間におけるそれではないのであるからである。一定の範囲の中 における連続性なのであるから,連続性があるということは,その一定の拡がりが維持されていること であると言える。論理上の,For mとしての構造的連続性は無限定な空間において成立するのではない。
逆に限定的な空間においては,For mの連続性が測られる。っまり,できたことが妥当なことであるか どうかは,ある範囲でそれが有効であったかどうかに拠って判断されうるのである。ただし,この範囲 がどの程度におけるものであるかどうかは,あらかじめ決められていない。そもそも,知ることの空間 的な限度がどの程度において定められるのか,またできたことが妥当性をとの程度の範囲でもちうるのか は,時間的連続性が維持される度合いにおいて判断されるのである。その一方で,時間的連続性は空間
的拡がりに依拠するのである。無限定な範囲における連続性はありえず,どの程度の連続性が必要であ るかは,知られるべき事柄,なされるべき事柄,即ちFr age,学習の目標に依拠しているのである。
できたかどうかは,それ自体で判断されうるのではなく,時間的・空間的な諸問題との関連で判断さ れなければならない。知っていること自体がan sichにできることを保障しない。知っていることから 直ちに,できることが論理上の予測としてもでてくることはない。やってみなければわからないという 言明は経験則上の真理である,という主張が確信を以ってなされることがある。けれども問題は,この 確信が,わかっていることとできることの関係についての確信として何故生ずるのかを解明することで
あろう。何故知っていることそれ自体は,できるということにとっての十分な条件ではないのか,っま り,何故そこに必ずうまくゆくとははじめから決っていないという非合理さが介入してくるのか,こそ が解明さるべき課題なのである。この点を検討することなく,上の言明をいたずらにくりかえすのは無 意味である。
Dノーマン編『認知科学の展望』においても,次のような指摘がなされている。く新しい経験を効率 的に範疇化することに関する問題は,理解の主要な研究課題であるばかりでなく,理解をする人自体に とっても重要な問題〉である。何故なら,未来についての効率的予想をするには既に得た知識や経験を 一担分解して再構成しなければならないのだが,記憶そのものは本質的な意味で不完全であり,また予 測は効率的であるはずであり,理想化された形でなされるものであるが故に,そこでは経験が一般化さ れるのであるが,記憶・記録・貯蔵された経験や知識は一般的なものではない,という矛盾があるから である。この矛盾を人間は内包している。いわば,問いは一一般性・理念性を有するのであるが,それに 対する答えは非一般性・限定性を帯びるのである。知識の構造自体はある範囲において厳密な妥当性を 有するが,その使用には不確定さがつきまとう。つまり「各単位時間毎に限られた知識が,ある程度以 上詳しく検討されることなく,まさにその瞬間瞬間に使用されてゆかなければならない。すでに過去に 入り込もうとしている今この時が過ぎる瞬間に使われてゆかなければならない。各瞬間毎に活用できる 一のは常に不完全な知識であり,このことが常に不完全な実践を敢えてしなければならないこととつなが
るのである。そしてその結果,その誤ちを矯正する行為(これもまだ不完全かもしれない)がひき起さ れ,これらがっながって,全体として組み合わせ的な・連鎖的な探究がなされることになる(119頁)。」
実践の誤ちが知識の不完全性(存在そのものの本質的属性)に直接に拠るかどうかは疑問である。実 践そのものの誤ちは知識の不完全性にのみ拠らないと思うが,理解も実践も,時間に対して不可逆であ
り,時間の問題とかかわる不完全性を含んでいることの指摘は重要である。このような不完全性を人間 がもっていることには,何らかの理由があるのではないか,と筆者も考える。
お わ り に
学習の問題を,わかっているならできるかという観点からとらえなおしてみると,わかっていること とできること,そして両者の本質的関連性は,決して一義的には明瞭に定式化しえないと思われる。と りわけ,時間との関連性はこれらの問題の解明にとって中核的な困難を形成している。従って,学習の 構造そのもののうちにも,この困難が含まれると考えざるをえない。学習がなされたかどうかの判断が
いかになされうるかという問題の検討を除外して,学習を論ずることはできないはずである。
参 考 文 献
1)N.チョムスキー(井上・西山・神尾訳)『ことばと認識』大修館書店,1984.
2)UA.ノーマン(佐伯監訳)『認知科学の展望』産業図書,1984.
3)N.R.ハンソン(野家・渡辺訳)『知覚と発見(上・下)』紀伊国屋書店,1981。
4)黒田 亮「動物心理学』三省堂,1936.
5)湯川秀樹『私の創造論』小学館,1981。
6)J。T.フレーザー(道家・山崎監訳)『自然界に澄ける五つの時間』講談社,1984.
7)nパーク(藤井・藤井訳)『時間の源流をたずねて』講談社,1981。
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〔補註〕 存在(生命)は自然淘汰のレヴェルに齢いてすら,<誤差の蓄積を防ぎつつ,同時に修正をも行っている 過程〉であると,プリゴジーヌは指摘している。(G.ニコリス,1.プリゴジーヌ(小畠・相沢訳)「散 逸構造』岩波書店,1980,参照)。