茨城大学教育学部教育研究所紀要21号(ユ989)113−121 113
〈問い〉の構造・〈答〉の構造
佐 藤晋
は じ め に
学習の場面において,〈問い〉とは何であり,いかなる構造をもっているのであろうか。そして〈答〉と は何であり、いかなる構造をもっているのであろうか。学習者(子供)のく問い〉,教える側の〈発問〉は いかなる構造をもつのであろうか。そして,自らの問いに対する答,発問に対する子供の〈答〉,子供の問 いに対する教える側の〈答〉は,いかなる構造をもつのであろうか。
1
問いについて
問いは,いかなる意味で問いとなるのか。問いはすべてが無条件で問いとなっているのか。問いを発する ことによって学ぶと言われるが,問いは常に,即自的に問いとしての意味をもっているのだろうか。問うと いう行為それ自体は常に成立し,あらゆる場合に無条件に許容され,尊重されなければならないがだから と言って直ちにあらゆる問いが問いとしての意味をもつのだろうか。問いとしての実質を備えているといえ るのだろうか。
問いは,誰によって発せられたものであるかに無関係な事柄であるというのが近代哲学の原則であり,問 いを問いそのものとして考察しなければならない。しかしながら,似せられた問いは常に問いでありうるか。
問いとは問いを発する行為を指すのではなく,何が問われたかによって問いであるかどうかが判断されなけ ればならない1)。何を,いかに問うかの自由は無条件に許容されていなくてはならないのだから,発せられ るいかなる問いも濁せられた問いとしては等価でなければならないのではあるが,何を問うているかは一様 ではない。問われた事柄との関係において問いの意味を判断しなくてはならない。間う側は何を問うかにつ いて無関心でいることは許されないのである。問いがいわば投げ出されているだけで,その問いが,問われ ている事柄そしてその事柄の解決と無関係であることはありえない。投げ出されているだけの問い,何物
ロ とも関連を有さない問いは,問いではないのである。
何故なら問いを発することには,時間的・空間的制約性は,本来的に存在しないのである(現象的には,
〈いま・ここで〉発するという形をとるのではあるが)。しかし,時間的・空間的に無制約的な事柄を問う ことはく無意味〉である。つまり,問いであるかどうか判別しえないのである。問いは無条件に問いである のではない。問いであるためにはく解〉が存在するかしないかの判別が可能でなければならない。解がある か否かの判別が不可能である場合には,問うという事態は生起したとしても,それだけのことにすぎないの である。それ以上のことは何も言えない。解がない事柄を問うことが無意味であるというのではない。解が ゆ ないということは,一つの答なのである。解があるかどうかの判断が不可能であるということは,問いその ものについて何も言えないということである。例えば問いに対して,すべての答が正解(肯定)である場合,
その問いとは何であろうか。即自的・一義的に解が存するというケースがあるとすれば,それは問う必要の ないケースなのである。
問いとは,何を問うかということの確定でもある。だから必然的に,問いをうけとめる場合に,その問い
において問われるべき事柄が問われているかどうかの確定が必要なのである。問いの妥当性が確認されでは じめて,問いが問う側から離れて,問われた側に結びつき,両者に共有される問い,つまり問いが問いとし て成立することになるのである2)。
り り
問う側は,はじめから常に自からの問いが問うべき事柄を問うているかどうかを自覚しながら問うのであ ろうか。違うのではないか。問うべき事柄がハッキリするのは,いわゆる自問自答をくりかえしてゆくうち にではないのか。論理的には,常にはじめから問われるべき事柄が明瞭に把握されていることはないと言え よう。はじめは,〈それはそうではないのではないか〉〈そうかな〉という疑問形において問うことが多い のではないか。くそうかな〉,つまりく〜ではない〉とは思うが,では一体,そのくそうかな〉を,どのよ うにして明瞭な問いとしたらよいか,つまり何を問うかをハッキリさせたらよいかということになると,意 外にむずかしい。〈おかしいな〉という疑問から常に,ストレートに明瞭な問いにまで至るということはあ
るのだろうか。ないであろう。だから,自問自答のプロセスが不可欠なのである。このプロセスは,問いを 確定するためのものである。問う行為と問いそのものを論理的につなぐ,このプロセスの検討が非常に重要
なことではないか。
子供の場合を考えてみると良くわかる。子供は幼いから見当はずれの問いを発してしまうのだろうか。そ うではなく,子供は問われるべき事柄が何であるかを考えることよりも,問う行為に集中するのであろう。
〈どうして?〉〈なぜ?〉の濫発。しかしすぐに任意の〈どうして〉という問い方が消えて,問われる事柄 を明瞭につかんでの問いとなってゆくのである。このプロセスが子供の場合は,現象的にも確認できるほど ハッキリとしている。これはde factの問題であり,我々自身が直接に経験してきていることである。とは
言え,いかにしてそれをなしてきたのであろうか,また,いかにしてたどらせうるのであろうか,この点は どうしても検討されねばならないだろう。
子供の即自的な問いとは何だろうか。次のような指摘がある。「子どもは深遠な質問をするが,安易な答 を受け入れるものである。もっと正確に言えば,そのような答で安心するものである。」3>だが深遠である というのは,いかなる意味においてなのか。経験的には,いわば大人が答えに窮するような質問をしたこと は。子供がはっきり憶えている事柄であろう。しかもそれは,ある種の快感さえ伴っている。が,そのよう な問いは深遠なのか。答える側に立ってみるとわかる。深遠なのではないのである。闘いが一般的すぎるの だ。任意なのである。そのような問いには答えようがないし,答があるのかないのかさえ判然としないから なのである。一見,深遠であるかの如く見えるが,論理的に深遠であるのかというと,そうではない。大人 でも子供と同じレヴェルでの深遠な問いを発することはできる。しかし大人はそうはしない。何故か。この ことこそが問題である。任意に発せられる問いに答えることは可能なのか。否であろう。答がかえってこな い問いは,深遠なのではない。問いとしての実質を備えていないのである。だから子供に限らず大人でさえ,
そういう問いに対して何らかの答が与えられた場合、その答に納得しえないからといって,どこまでも問い 続ける,問いつめることはしないのである。また〈わからない〉という答に対してそれ以上の追究をするだ ろうか。問う側には,答が納得できない,釈然としないという感じは残るが,それはまた別の問題であろう。
つまり,問う側が納得する答が常に正解であるかというと,そうではない。納得するかどうかということと,
正解であるかどうかは別のことである。一般にはこの点が非常にアイマイにとらえられているのである。問
いに対する答を追究することには,何らかの客観的・論理的制約があるはずである。けれども主観的にはこ
の制約がないように思えることがある。あとからあとから疑問は湧いてくるように思える。答がないように
思える。だが,その理由は,納得のレヴェルにはさまざまのレヴェルがあり,納得の仕方も個によって固有
の仕方があるからだと言えるからではないか。その固有の仕方による,あるレヴェルでのわかり方・わから
佐藤:〈問い〉の構造・〈答〉の構造 115
なさのすべてに対して,いちいち答える必要はあるのか,答えうるのか。疑問・わからなさは,すべての人 にとって一様な内実をもったものとしてあるのではない。その各々の問いに対して,答はありうるのか。納 得できないという側が納得するための努力をどれだけしているかが先決問題であることもある。
だから大人は深遠な問いそのものをセーヴするのだし,子供はいわば深追いできないのである。安易な答 を受け入れ,安心するのではない。安易な答かどうかは,一義的に明瞭ではないはずである。ただ釈然とし
ゆ ゆ り
ない感じが残るだけである。その感じは,個に固有のものかもしれない。一般的な意味での釈然としない感
ゆ
じというものはあるのだろうか。安易な答だとハッキリわかるのであれば,それは問いそのものが安易なの かもしれない。つまりその程度の問いにすぎないのかもしれない。そもそも,ある問いに対する答に関して,
それが一般的に安易な答か正しい答かを判別する仕方というのはあるのだろうか。子供は安易な答を受け入 れているのではなく,問いに対する答が何らかの形で与えられうることを知るから,ある答を,だから結局 どんな答でも,まずは受け入れるのではないか。fある質問をすることのできる子どもは,少なくとも,そ れに対する初歩的な答を理解することができる」4)からではないだろう。もしそうなら子供は自からの問い の意味について良く知っていることになるし,答が問いにどのように対応しているかを判別できるというこ とだから。このことは前提条件ではなく,むしろそういう判別の仕方を子供は獲得してゆくのではないか,
また獲得しなければならないのである。問いに対する答が一般的な形においては与えられないこと,自らの
ゆ
問いは即自的に問いではなくして問いはその妥当性が問題とされねばならないこと,問いに対する答はそれ を答と思うか思わないかということだけで決るのではなくして,答のもつ客観性が検討されねばならないこ と,を知らなければならず,そうでなければ最終的には実践活動が成立しないからである。自然を問いつめ る,ということは自からが自からの問いを問いつめることでもなければならないはずである。
問う一ストレートに正解のみを問うことはありうるのだろうか。常に何を問うかがはっきりしているとい うことはありうるのだろうか。そういう問い方ができるのはいかなる場合なのだろうか。大人はできるが子 供はできないという事象があるとしても,その理由こそが問題ではないか。〈幼いから〉というのは理由に
ならない。いかなるレヴェルの問いに対しても答える側は,常に正しい答を与えるべきであるかもしれない
ゆ り
が,しかし、いかに答えれば,ある問いに対応しうるかに無関心ではいられないはずである。問いは,時間 的・空間的に,〈いま・ここで〉発せられるものであるからである。正解が,いま・ここで問うている者に とって常に,直ちに正解となることはない。だから問いに答えるには,問いそのものを分析して,たとえそ れがいかなる問いであってもそれに対する答(いま・ここでの答)を通して,問いそのものを修正してゆか ねばならない。問う側は問いそのものを修正せねばならない。答える側は単に正解を与えるだけで答えたこ ととしてはいけない。まちがった問いに対して正しい答だけを対置しているのみでは,問いの修正がない。
問いの修正は問う側の主観的レヴェルや問いのレヴェルにおいてだけなしうることではない。答との対応性の 中でのみなしうることである。問いは,正しい答を目ざすのではあるが,正しい答があるかどうかは常に明 らかではないし,たとえあるにもせよ一足飛びにそこにまでゆきつけることは,通常はないのである。
問いは修正(変換)されてゆくことによって,問いのレヴェルをあげてゆくのである。だからこの修正は いかなる論理を含むものであるかを検討せねばならないはずである。ある問いが問いとして不十分であるこ との判別は,いかなる形でなされうるのか。その判別は,単なる択一,つまり平面的レヴェルでのアレかコ レかの判別ではなくして,立体的なもの,論理的な意味での方向性・蓄積性を含むものでなければならない。
前の問いを止揚しうるものでなければならない。単なる切り捨て,まちがいであるから捨て去るのではなく
して,問いがなぜまちがいを含んでいたのか,どれほど不十分さをもっていたのかを自覚的に省みなければ
ならない。まちがったから,すぐに別の問いを発するという問い方は,問いとしても問い方としてもどれほ
どの意味があるだろうか。問いは自己自身を否定し,切断することによってのみ問いでありつづけることが できる。何故〈問いまちがい〉をするのかの反省とその否定が重要であって,それなしに問いのレヴェル・
アップはない。問いは否定を媒介とした連続でなければならない。だからこそ,問う行為は任意に許容され
なければならないのである。問う行為そのものが,否定の媒介という歴史性に即していなければならないと いうのは,つまり,否定とはあれこれの問う行為の否定ではない。逆に言えばあれこれの問いの任意性が在 るというのでもない。まして問われた事柄の否定でもなく,問う行為と問われた事柄の関係性,その妥当性 への新たなる問いとしての否定なのである。この意味での否定の連続性,つまり間う行為の連続性こそが,
問いの量的拡充と質的深化の条件であり,問われるべき事柄の,それ故に答のもつ妥当性の量的拡充と質的 深化の条件なのである。ひるがえって,あれこれの問いは,この連続性・歴無性に即しているものである限 り、問いなのである。問う行為は,だからどの問いが問いとして有効であるかがあらかじめ決定しているの であればともかく,そうでない限り,任意性を根本的に有していなければならないのである。
問いは,いかなる場合にも無条件に問いとして成立するのではない。問いが何を問うのか,故に何が答と なるのか,が分析されることによって,問いは修正され,妥当性を獲得してゆくのである。
2. 答について
子供の問いは深遠なのではなくして,問う行為のもつ任意性の問題ととらえるべきである。問う行為その ものに内在する,非限定性・一般性が深遠な感じをもたらす根拠である。そして,この意味での問いは人類 史と共に在る問いだから,an sichな闘いだからでもある。子供の問いは,個々の子供に固有の問いではな
く,子供一般に共通する問いである。ある子供に固有の問いは,いつ・いかなる形で形成されるのであろう か。何を問うているのかについての明瞭な意識がない問いに対して答えることはできない。子供の深遠な問 いは,それに答えることがむずかしいから深遠なのではなくて,そのように感ずるのは答がそもそもあるの かどうか,判別しえないからではないか。無限定な問いに対して答えることはできないのである。無限定な 答はないからである。
問いが即自的に問いとして成立するものではないということは,つまり何が問われているのかが即自的に・
無条件に明瞭になることがないということであり,任意の問いに対する任意の答はないということである。
無限定的な問いに対して答がないのは,知識や能力の不足のために答えることができないからではなくて,
それは問いではないからである。そもそも,無条件に何を問うているかが明瞭なケースというのはありえな いのである。問いが問いとして妥当性をもつかどうかは,問う行為の分析によってではなく,問われた事柄 の分析によって定まるのである。問われるべき事柄は問う行為から切り離されなければ,問われた事柄とし て独立事象とならないし.独立事象としての固有性こそが問いの意味と量の拡充を結果する条件であり,そ うしてこそはじめて問う行為と問う側とが,答える行為と答える側とに結びつけられるのである。
問われるべき事柄とは何であろうか。答となる事柄とは何であろうか。主観的には,何を問い,何を答と して求めるのかということであるが,この点が確定されなければ,答はないのである。子供は自覚的にこの ような問いを発することは,できないのである。問う行為の任意性が,問いそのものの任意性をもたらすも のではないし,問そのものの任意性が根本的には存在しないことが判断できないのである。だからこそ,子 供の問いに答えることはむずかしいのである。答える側の,教師の力量不足だけの問題ではないのである。
これに対して大人は,この区別を何らかの形でしている。ただ,この区別を常になしうるかというと,それ
はむずかしい。が,一般には,問いに対して答がなされないとしても,答える側に責任を負わせることはし
佐藤:〈問い〉の構造・〈答〉の構造 117
ない。答がなされないことの理由を,問う側も考えることがあるからである。だからこそ安易な答・その場 しのぎの答には満足できないのである。子供は,答がなされない理由,また答が不十分であることの理由を 考えることができるのであろうか。むしろ,これらのことをこそ学習せねばならないはずである。生まれな がらにすべてのことが可能ではないし,そうなる力をもっているのでもない。可能性は直ちに可能ではない。
可能性が可能となるかならないかは無条件に定まるのではない。ましてや,可能性があれば可能だが,なけ れば不可能であるなどとすることはできない。可能性があるかないかの判別はどうしたらよいのか,が先決 問題である。可能性があっても不可能となりうる。だから,不可能であるのは可能性の欠如が原因ではない。
子供は問いかけること自体が可能であることは,直観的に知っているのであるが,その問いが何を問うてい るのかを明瞭にはつかみきれていないのである。子供の問いに対して答えてもその答に子供自身が納得して いないようにみえるのは,まさしくこれがためにほかならないのである。
一体,子供は,だから人間は問うことによって何を求めるのかということと問いとの関係を,いっ・いか なる形で自覚的に把握するのであろうか。問うことによってのみ,答を求めうるのであることは直観的に認
ゆ ゆ ゆ ゆ ゆ ゆ ゆ
早しうるとしても,何を求めるのかについての自覚は即自的・直観的に為されるのだろうか。また,実際に そのようになされているのであろうか。問いと答の関係は,無媒介的な,直接的な対応関係なのであろうか。
問うことと問われていること(答)は,主観的な関係にあるのだろうか。両者をつなぐものは何であろうか。
ゆ ゆ ゆ ゆ ゆ ゆ
すでに正解があって,問うというのは,それをみつけ出すことにすぎないのであろうか。あるいは,ある一
ゆ ひ ひ
つの解答を,それが問いに対する答であると思えば,両者の関係は満たされたと言えるのだろうか。逆に,
答でないと思えば両者の関係は満たされていないのだろうか。
このことを,問う側と答える側との関係として考えてみよう。まず,問う側に自問自答という仕方がある が,そこでは問いと答はどういう関連にあるのだろうか。自問自答は個体内的な自己完結的サイクルとして あるのではないはずである。そこでは,問いと答が矛盾という形をとらなければならないはずである。つま り,問う自己と答える自己としての他者への分裂がなければならないのである。答える自己としての他者が 答える場合には,この他者にとって何が問われているのかが不明瞭であるならば,答えようがない。答える
自己としての他者は,第三者としての他者と論理的には同一のものである。自問自答であるから,即ち第三 者への問いかけではないから,答は即自的なものである(自分が納得さえすればよい)ということはない。
もしも答がそのような即自的なもので十分であるというのなら,そもそもそれを問うということは不要なの の ゆ である。問いは投企されていなければならない,意味が確定されていなければならないのである。意味の確
定は,問う自己が主観的・恣意的にのみなしうることではない。
問いの構造,答の構造,そして両者の関連性は,決っして即自的なもの・自明なものではない。とりわけ 両者の関連性は,少くとも平面的な論理では扱えないであろう。問いから答に至るまでのく媒介〉に関する 論理が探求されなければならないのではないか。問いから答に至るまでの過程は自動的な過程ではないので あるから,その過程そのもののもつ論理性が明らかにされる必要があるのである。何が問われたか,何が問 題であるかがハッキリすれば半ば答が出たようなものだと言われるのは,だからこれらの探求の必要性を暗 黙のうちに認めているからであると言えよう。問題が何であるのかについての,自・他による相互確認がな ゆ
ければ,答は存在しないのである。答は問いに対して常に対応する概念ではない。問いの反対概念は〈答〉
ではないのではないか。子供の問いに対する答も含めて,一般に.問いがあれば答があるとは言い切れない のである。
それだから,次のように考えることも本当はできないのではないか。〈質問は子供の心の扉〉である。し
たがって,「質問をすることのできる子供は,少なくともそれに対する初歩的な答は理解することができる。
もちろん,質問に完全に答えようとするとどうしても含まれてこざるをえない抽象的なことまでは理解でき ない」5)と。これは混同ではないか。質問が%ぎるということとく具体・初歩から抽象・高度な理解へ〉
と進んでゆくということとは,別の問題ではないのか。問い,答,そして両者の関係は,初歩から抽象へと
り ゆ
自動的に進むのではないはずである。幼いから抽象的なことが理解できないというのは,成長すれば抽象的 なことが理解できるのだということの,ウラ返しの表現にすぎず,これでは単なるトートロジーでしかない。
問題とされなければならないのは,まさしく<初歩から抽象へ〉の歩みが問いの構造及びその変容といかな る関連にあるのかということである。ひるがえって,答の構造そのものの変容がいかになされるか,つまり は問いと答の関係そのものの質的変容がいかになされるのか,こそが問題とされなければならないのである。
問いの構造的な深まりがなければ,答の,そして理解の〈初歩から抽象へ〉の進展はない。同じレヴェル の問いをくりかえすことは無意味である。問いは,しかし,同じレヴェルにおけるくりかえしとして下せら れることは通常はありえないのである。だから,答も同じ答だけがかえってくることはないのである。これ らのことは経験則上の真理であると言えるが,単なる経験則として扱うのみで,十分な検討を加えないのは 片手落ちである。何故・いかにして問いの構造の質的変化が生ずるのか一それは,答の構造の質的変化との 関係においてこそ検討されなくてはならないし,そこにおいてのみ可能なのである。逆に,答の構造の変化 が何故・いかにして生ずるのかは,もちろんのこと,問いの構造の変化との関係においてこそ明瞭になるの である。だから「子供というものは,興味のあることなら何でも熱心に覚えてしまう」6)のだという事実に り ゆ り
よって,間いと答との関係を説明することはできないのである。問いと答を媒介するのは子供の〈興味〉や く関心〉なのであろうか。動機としてそれらの事実があることは,問う行為の任意性からして明らかではあ るのだが。そうではないのである。「子供は,しかし,教師が知ってほしいと思うことには無関心」7)なの である。子供の,この二つの面を,どうつなぐかが問題なのである。〈教師が知ってほしいと思うこと〉や
く答えようとするとどうしても含まれてこざるをえない抽象的なことがら〉は,答えることや説明すること の技術的な側面にかかわる問題ではない。答えることや説明することに伴う困難さは,別のこととして論じ
られなければならないのである。つまり,それらのことがらは,知るべき事柄を,いかに正確に理解するか ということ自体にかかわる問題なのである。知るべき事柄に含まれている構造体野性・組織性・秩序性な どの理解の正しさにかかわることなのである。問いの構造は,否,答の構造は問いの構造と本質的な,内的 な関連性を有するのである。答の構造と切り離されたところで問いの構造を扱うことはできないはずである し,その逆のことも言えるのである。「人閤が考えるということ,知覚するということ,記憶するというこ とには,すべて単に認知的なことのみならず,評価的なものがっきまとっている」8>のであり,認知的な側 面から評価的な側面への質的転換がなされなければならないのである。これこそが学習の最も重要な点であ ろう。その質的変換は,問いの構造答の構造両者の関連性の変換でもあると言えよう。この変換がなけ れば〈判断〉ができない。評価的であるということは判断的であるということである。変換は〈認知〉では
り り
ないのであり,本質的な意味での否定の契機を含むのである。変換は判断でもある。判断・変換が介在しな ければ,人間の行動は生まれないのである。この意味で,判断は,〈問い一以上の構造を含んでいるのだと 言えよう。判断は〈問い一答〉の構造を含む構造を有しているのではないか。とりわけ変換によって与えら れる〈答〉が重要な契機をなしているのではないか。
答とは何であろうか。第1に,答というものは既に確定したものとして在るものなのだろうか。問い,ま
た学習というのは,〈既に確定している答〉を探しあてることを目的とするのだろうか。答が確定している
ことが一義的に明瞭であるのなら,その答を求めるべきであろうし,答えられないということは答える側の
怠慢であるとしてもよい。しかし,答があるかないかの判別は可能なのか。問われた側が判断することなの
佐藤:〈問い〉の構造・〈答〉の構造 119
か。あるはずだと思えばあり,ないと思えばないのか。この点の検討を十分におこなわないで,問う側が
〈答はあるはずだ,ないはずはない,だから答えよ,答えられないのはおかしい〉と主張するのは意味がな いことである。とりわけ学習においてはそうである。問いに対する答があるのかないのかの判別は,答える 側の主観的判別行為にまかされることはできない。第一義的に答える側が判別すべき事柄でないと言える。
このことを混同してはならない。つまり,実際に問いが超せられた場合,その問いに対して答があるかない かの判別は答える側の主観によって判断されることではないのだから,答える側が答に窮する場面が生ずる
としても,それは直ちに答える側の問題ではないのである。また,窮する事態は,本来的にありうることだ ということである。むしろ,答に窮した事態そのものの分析こそが大切なのである。この問題は現実の学習 における,〈問い一答〉の場面でどのように扱われているのであろうか。問いに対して〈正解〉を示すとい る
うことのみが,しかも性急に示すことのみが求められてはいないだろうか。特に,教える側に対してこの要 求が形式的にのみなされすぎてはいないのだろうか。言うまでもなく,答とは何かということは,何を答え
として示すか,いかに示すかということとつながることなのであるから,確かに示し方と無関係ではない。
その限り,示し方についての要求がなければならないことは当然のことではある。しかしながら,根本的に 重要なことは示し方にかかわる事柄ではないのである。その重要なことについて,あまりにも形式的すぎて はいないのだろうか。
第2,答が在るとしても,その答は常に明確なものとして在るのだろうか。常にそうであるのならば,明 瞭に示さなくてはならない。だが,答は常に明確な,ハッキリした,焦点が定まったものとして在るとは言 えない。そのようなものだけを答とすることもできない。アイマイさ・多義性を含まないもののみが答であ ゆ ゆ り
るのか。答とは焦点が常に明確であり,ある幅で正しいとされるようなひろがりはもたないのであろうか。
ひろがりがあるということは,逆に言えば答のもつ適応範囲がひろがっているということであり,適応範囲 の境界をキッチリ定めることが困難であるということである。
ある答は,ある一つの問いに対してのみ答であるのか。問いと答との間には,厳密な意味でのく一対一対 応性〉だけしかないのか。ある問いは,何を答として求めるのか。一つの答のみを求めるのか。ひるがえっ て言えば,答は一つの問いに対してのみ異なのか。問いが一つの答のみを問い,答が一つの問いにのみ答え るものであるという関係が成立しているのであろうか。それ以外は答でない,問いではないという関係が成 立しているのであろうか。
一般にいかなる答も,アイマイさを含むとその点について非難されることが多い。だが,アイマイさの原 因は答える側にあるというよりも前に,まず答それ自体にかかわる困難さであることを考えるべきである。
この点は十分な検討を要するであろう。それをしないと,答える側が逆に,問いの意味の分析をするのでは なくて,それを避けてしまい,問いと答の間のスレ違いになることが出てくる。つまり,問いに対しては答
り ね ゆ ゆ り り
える側から,普通〈質問の意味がわからない〉とか,〈趣旨がアイマイだ(と思う)〉という形での反問が
なされることが多いが,これは論点をずらすだけにすぎない。もっともギリシャにおける討論では,答に窮
すると相手の人格を傷つけるやり方が公然ととられたのであり,いわば常套手段としての反間である。わか
らなければ聞き直し,問い直しをすればよいのだし,趣旨がアイマイであると思うなという条件を答える側
に課すことは出来ないのだから,ある意味で答える側が問いの趣旨をいくらでもアイマイだと思うことはで
きるのである。だから,発せられた問いがアイマイかどうかは,問いを発する側のみの問題ではないのであ
る。こういうことにならないようにするにも,答のアイマイさの分析が,まともに行われなければならない
のである。学習の場では特に心すべき事であろう。
問いは,発せられた瞬間に問いを発した側によってではなく,答える側によって,その意味が確認される のである。この確認においては本質的にズレが生ずると言えるのである。このことは答についての場合もあ てはまることである。従って,この本質的なズレを〈わからない〉とかくアイマイだ〉とか言うことはまち がいである。また,問いも答も問い直しや答なおしをするうちに,論理的に変質することもありうるのであ
り の な ゆ
る。だから,問い直しや答なおしを,一方的に迫るというのはよほど慎重にしなければならないのである。
問いも答も,本質的に時間的・空間的に不変ではないからである。特に問い直し・答なおしは,レトリック の問題を内包するのであって,それをくりかえせば事態が明瞭になるとは言い切れないのである。
そもそも問うということは,既に明瞭になっている事柄を問うのではないのであり,問うことそして答え ることの展開碧くりかえしによって明瞭な事柄とすること(明瞭な形の疑問とすること)であろう。答える ということも,既に明瞭になっている事柄を示すだけではなくて(勿論答えるということにはこのことが 含まれるのではあるが,このことのみが目的なのではない),ある答を示すことによって実は答そのものの 修正,レヴェル・アップを行うことなのではないか。答のレヴェル・アップは,ある答を示すことによって のみ媒介されることである。はじめから明瞭な,正しい答を示すことは可能なのだろうか。答える側は〈知 っていなければ答えることはできない〉のであるが,一体何を知っていなければならないのか。そして,そ の〈知っていること〉は,いかなる段階の問いに対しても明瞭な,正しい答たりうるのか。また,正解が常 にすべての問いに対する答とはならない理由はどこにあるのか。答とは正解のみを言うのではないからであ ろう。答は明瞭でなければならないとしても,常に,いつでも明瞭なものなのか。アイマイな答は答ではな いのか。問う側にとってアイマイに感じられるという意味でのアイマイさを含む答ではなくて,答そのもの が常に明瞭であるとは言えない,一義的なものたりえないという意味でのアイマイさを含む答は答ではない のか。答える側の意識においては,アイマイさを排除したいという気持が働くであろうが,それは答そのも ののアイマイさとは別のことがらとして検討されるべきであろう。
第3に,答は時間的にも空間的にも,はじめから不変のものとしてあるのだろうか。もしそうならば正解 が常に答であろうし,答とはアイマイさの全くない正解のみを意味するのであってもよいだろう。が,答は の 常に不変なものとしてあるのではなく,実践によって媒介されるのである。答が,既に在るものだと仮定し
の の ゆ
たとしても,その在る答を直ちに指し示すことはできないのであり,在るということとそれを見出すという ことは別のことであり,見出されない答は答ではない。結局,答は実践によって媒介されてのみ答なのであ る。実践は時間・空間的条件の中でのみなしうるものであり,時間をつなげること,空間をつなげてゆくこ とが実践の第一の課題である。その実践の過程においてはじめて,答が顕わになる。学習はまさしくこの過 程を。各々が固有の仕方でたどることである。このプロセスそのものは,代替えが効かないものである。自 らが学習の過程を経なければならないのである。第三者が代って学習することはできない。この過程の内部 において「とくに重要なことは,なにかの意味で2つの相反する論点の間の〈変換法則〉を打ち立てること に努力すること」9)である。つまり,ある一つの観点からすべてを論ずることはできないのである。一つの 観点から論ずることのできる範囲は無制約的ではない。この,一つの観点が〈固有性〉なのである。すべて の観点を一度にふまえることはできないのであって,ある時間・空間的条件のもとで採ることのできる主要 な観点は一つなのである。しかもその観点は他者がとって代って打ち立ててやることはできないのである。
だから,その固有の観点に依るのみでは,論ずることのできる範囲,理解することの範囲が局限されてしま うのであり,それでは時間も空間も連続性をもちえなくなるのである。故に,変換を必要とするのである。
問いも答も,常に変換されてゆかなければならないのである。この変換の仕方は,既にうまくゆくとされる
仕方があればそれを前提としてうけ入れてよいのである。改めて学び直しをしなくてもよいのである。が,
佐藤;〈問い〉の構造・〈答〉の構造 ユ2エ
常にそうであるのではない。むしろそれは例外的なことであり,変換についてのく法則〉は,自からが,常 に新たに見出さなければならないのである。
変換は,従って内容そのものの質的・量的変化 レヴェル・アップを伴うものである。ある観点が別の観 点を押しのけ,捨て去るというのではなくして,それを包みこんだより高いレヴェルへととび越えてしまう ことによって,観点相互の矛盾を解消するのである。そこでは答のもつ意味の質的・量的拡充従って答の 妥当性・適用範囲の拡充が実現されているのである。このことが生ずるからこそ,逆に問いの変換,レヴェ ル・アップがもたらされることになるのである。変換はしかし,時間的・空闘的に無制約的になしうること ではない。変換に求められる時間的制約と空間的制約,あるいはスピードと拡がりにこそ,答の質的深化・
量的拡充,スケール・アップは依存しているのではないか。一つの論点とそれによって説明しうる範囲だけ が答を支えているのではないし,一度に・瞬間的にすべてを明らかにすることはできない。が,変換のため の時間を無限にとることもできない。変換にとっての時間的制約が,本質的な問題としてあるのである。こ の時間的制約いつまでに変換をすればよいかを決める問題は,空間的制約,どの範囲まで変換を拡充でき るかという問題よりも困難さのグレードが高いように思われる。が,いずれにせよ答の構造を,時間的・空 間的な変換の論理として追究する必要があると言えよう。学習において論じられるはずの答の問題は,答を
ゆ ゆ け の ゆ ゆ の も ゆ