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唐後期の〈韋応墓誌〉 : 塩鉄転運江淮留後に関連して 利用統計を見る

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(1)

唐後期の〈韋応墓誌〉 : 塩鉄転運江淮留後に関連

して

著者

高橋 継男

著者別名

TAKAHASHI TSUGUO

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 史学科篇 = Bulletin of

Toyo University, Department of History, the

Faculty of Literature

38

ページ

155-176

発行年

2012

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006703/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

−1− 唐代の墓誌を中心に編纂された資料集刊行の勢いは最近でも衰えず、誌文を見ることができる公刊された唐代の墓誌数 ︵2︶ は、現在おおよそ一万点にものぼるのではないかと思われる。これら近年出版の墓誌資料集によって、かつて筆者が考察 した唐代後半期の巡院制に関する一連の研究についても、新たに付け加えることができる点がある。 今回は、最新の墓誌資料集の一つに収録されたく章応墓誌﹀を紹介することを主たる目的とし、唐代後半期に広く設置 された巡院のなかで、最も重要な拠点に置かれた塩鉄転運揚子院の揚子留後と江准留後について述べ、関連して、劉禺錫 の文集に見える﹁江准留後章応物﹂についても言及することとしたい。 はじめに

唐後期の︿草応墓誌﹀

唐後期の︿童応墓誌﹀

l塩鉄転運江准留後に関連してI

高橋継男

一五五

(3)

︿章応墓誌﹀は、趙君平・趙文成編﹁秦晋豫新出墓誌蒐供﹂︵以下、﹃秦晋豫墓誌﹂と略称︶︵全四冊、国家図書館出版社、 二○一二年一旦第四冊第九六五頁に、﹁七四八唐章應墓誌﹂として拓本写真が掲載された。しかし、実は筆者はこの︿章 応墓誌﹀の原石を、二○○六年三月に洛陽新安県鉄門鎮の﹁千唐誌斎﹂を訪問したおり、敷地内にある﹁千唐誌斎﹂の創 設者張釛の墓前の空き地に、野ざらしでほとんど放置されているのを偶然に目賭し、誌主の聿応が唐代後期、財務関係の 官職を歴任していることに大いに興味をもった。 そののち、二○一○年九月に洛陽師範学院の河洛古代石刻芸術館を見学した際には、︿菫応墓誌﹀の拓本が館内に展示 されているのを実見し、その原石が洛陽師範学院に所蔵されていることを知った。さらにそののち、洛陽在住の知人を介 して、︿菫応墓誌﹀の原拓本を入手することができた。しかし、﹃新中国出土墓誌・河南︹伍?︺洛陽師範学院巻﹂︵全二冊、 一3︶ 中国文物研究所・洛陽師範学院編、文物出版社︶の出版が予告されており、当然︿章応墓誌﹀もこれに収録されると予想 されたので刊行を侍っていたが、それより早く前掲の﹃秦晋豫墓誌﹂に載録されたのである。 さて、﹁秦晋豫墓誌﹂︿章応墓誌﹀の解説に、﹁共四二行満行四二字︵縦︶七五五︵ミリ︶×︵横︶七六○︵ミリ︶×︵厚︶一 一○︵ミリ︶開成二年︵八三七︶九月二十一日卒十一月十二日葬⋮⋮二○○七年秋、陵西省西安市長安厘出土、旋歸洛 陽某氏。﹂という。書体は階書、全文の字数は一六四七字である。墓誌のサイズは入手した原拓本と同じであるが、﹃秦晋 豫墓誌﹂︿章応墓誌﹀の原拓本写真は圧縮されて小さく、且つ写真の元になった拓本は善拓とはいえず、文字の判読が困 難な箇所もある。そこで、筆者所蔵の拓本にもとづき、次に釈文を掲げよう。異体字は正字体になおし、各行の冒頭にァ

一︿草応墓誌﹀簡介

一 五 六

(4)

ラビァ数字で行数を示す。 ︵1︶︿章応墓誌﹀釈文 1 唐故朝散大夫・前守太府卿・上柱國・賜紫金魚袋・贈左散騎常侍・京兆章公府君墓誌銘井序 2 朝議郎・守尚書吏部員外郎・上柱國・賜緋魚袋・河東斐鐇撰 3公諄應、字希聲、其先京兆人也。章氏發源於周秦之前、寝盛於雨漢、股分於南北。朝至後周、父子兄弟、派別爲

4七房、其一爲鄙公。鄭公之後梢大、流入於唐、官婚益盛、時人以爲與吾族抗、故姻戚多聯焉。公鄭公

5之六世孫o曾祖調、皇河南府頴陽令。祖慾、皇朝散大夫・晉州洪洞令。列考岬、皇江陵府江陵尉。公江陵府君之 6第三子、顔出也。外祖右衛兵曹参軍幼輿、叔祖刑部尚書・贈太師・魯國公真卿。内外勲顯之慶、積而有發、克生 7公之認行。幼以先府君終於官、與昆弟奉太夫人、家於荊州。自樹節檗、不與常人交、始以秀士、爲州里薦。 8會棟校禮部尚書楊公於陵、赴鎮南海。道辞從事、因得公之實、強嘆之、自試左衛兵曹参軍、表授試大理評事. 9嶺南節度巡官。太夫人之喪、去識從家楊州。孝友之行、間者自聲。准之南抵呉越、仕人所聚。非親薑者、威 蛆吊於苫蓋之前、或饅其不足。既除喪、賓辞之使、阯其後至。漸西観察使醇公革、以江陰属邑、其長累敗、表公代 u之。違賦緩獄、既集而直至。有不自期生出獄戸者數十人、皆申別之、或以傭償於官儘脱之。元和末、天兵 皿臨東平。徐帥以全師從、將剋而饅不及、師懸而老催有鍾。主兵食者、表公知武寧供軍院、授監察御史裏行。馳 過傳而性、至而饅不乏。既剋東平、以功類進爲興元府西縣令。未赴、弘農楊公掌邦賦、嘗得公於南海、表爲殿中 M侍御史内供奉・戸部巡官、分巡河南等道、以能加印服。相國牛公當継之、留換検校祠部員外郎・兼侍御史。

明弘農公有東周之寄、又以本官充都防禦推官、轄検校水部郎中・兼侍御史・都防禦判官。今中害令晉國

陥公司大計、表爲検校職方郎中・東渭橋給納使。泪槍師不用命、命東北諸侯、兵數十万人、以便而進。 唐後期の︿菫応墓誌﹀ 一五七

(5)

Ⅳ上欲以兵食廷付之、拝中外未有稻者、詔授検校兵部郎中・兼御史中丞・河南河北和罐使、価錫金

肥紫。将師中或擁衆而過求、或養力而稽進、欲迩費於官、以自潤者。公以君父大義、勉而教之、節其求而贈其用。 岨来往梯衝之下、被儒服、而人不敢侮。逆師既臭以獄。解兵之日、不視簿書、刀布鍔粟出入之數、凡數千万、會計 別無毫髪之差。嘗經於魏、察其將有建之欣、其師又強公以留。乃陰誠吏、壼以公貸歸於河南。嶋爲書、發於館日﹃ 皿吾有功總之喪既聞、而欲及其葬﹂出門、夜馳三百里。及旦、舟抵於河之南、追騎亦及於河、不羅於禍。半日魏人 躯終肢其師、以自立、殺數万人、恐其椋。朝廷難幸公之脱禍、以爲軍實壼喪、吏乗爲盗、欺無所覆突。使人馳 路問於公。公日﹃魏半負而驍。固知其建、提軍實去而身出之、無有忘也﹄上異之、遷尚耆虞部郎中。鱈鐵 別之根本、繋於准海。以公爲検校右庶子・兼御史中丞・楊子留後。又欲公之功利、及於遠、明年、改爲江准留後、価 妬轄太僕少卿。擢入之數、比歳倍息。操事者兼惚司計、真授右庶子・度支鱈鐵轄運留後。尋爲鱈鐵副使、加御史 朋大夫。開成初、召入爲大理卿。績践月、而獄無冤滞、轄太府卿。司國努之出入、聞於時。秋疾作氣奔、口夜妨 灯於森。告於知者日﹃吾雌未臨年、而疾可以去官突。秤疏求代、歸於洛。受代之日、聲策東去。去顯重之易、何営脛 肥之一毛﹂有識者歸之。至洛有瘻、後數月、復亟理言無遺事。以開成二年九月廿一日、莞於仁風里之私第、享年

鯛六十三。奏至、上溌朝、贈左散騎常侍。仕類相吊、而有泣下者。惜乎内外虚顯劇之任、俟公疾之進退

加久突。公業識周達、往無不適、臨劇事、談笑諫戯無倦。而機要未嘗僥人、飽風味、不見其雌域。理財賦、清節益峻、 別而不以重刑取濟。性根於孝睦、服属之内、多給於家。婚嫁必主之、寓葬他士者、返於故里。吉凶之禮、不絶於家、 胡二十年而畢。俸至優而身不慮。奴稗千餘指、非自有。醤其宅、然後可以資薄葬。公之子、余之生、長日鵬、次日浩、 羽初成童。次日鴻、日鵠、日沐、至於既靴。女子四人、長・次早亡、次適進士皇甫垣、次未及笄。鵬孝友之性、嗣公無槐、 弘柴段之貝、幾存而已。余之薄祐女弟、唯公之夫人。未及笄三歳、歸於公、有婦道聞。余夙負天講、奪夫人之壽、先 弱公十七年而終。今者啓夫人之幽燧、以公耐焉。余之哀可既乎。以開成二年十一月十二日、返壌公之先府君 一五八

(6)

︵2︶墓誌選者の斐鐇 ﹁守尚書吏部員外郎⋮⋮河東の斐鐇の撰﹂︵第2行︶とあって、墓誌の選者は斐鐇であることが明記されているが、﹁余 一︶ の薄祐の女弟は、唯れの之夫人﹂︵第別行︶とあるので、斐鐇は誌主章応の妻の兄であることが分かる。また﹃新唐書﹄ 巻七一上・宰相世系表一上の中舂斐氏に、 、 斐徹、字九思、左金吾将軍、論成。←填、戸部郎中。←鐇 、、、、、 と見え、﹃唐尚書郎官石柱題名考﹄巻四・吏部員外郎には、 斐鐇︵又見戸外︶、.・・・:不詳歴官。新王涯伝、大和九年十一月甘露之変、王涯子太常博士仲翔匿侍御史斐鐇家、鐇執 以赴軍。 とあり、し﹂ なお、右﹄

似哲人其萎臨公竜麥出余涕演銘公之行庶乎不欺第九姪潜書

軋欺耐如掃羨溢之功比歳来報入親天子二寺為理勇退歸洛時論充美天不愁留

仙既叶臺師勉之忠節不剛不僥衆畏而悦織分呉楚厘壌惟奥攻山耗海襄軒藪盗用我規式

釣鍔槙如積長材争致重府威辞委公事任莫匪難劇清華塞命再扶王師上憂兵食付公P之

銘杜陵之氣鯵而且浮世閥縄縄累相而侯惟公嗣之材業具優有征東平饅乏不剋公馳而至

師潜以書来告、又言公遺命、託余為誌。余與公親且友、序其行實、不槐其直。銘日 洲笙東四十一歩、萬年縣少陵原少陵郷臨川里是也。公猶子潜、與余生生同、日以時長、潜故兄弟無常父。公莞、 したがって︿菫応墓誌﹀に記す﹁吏部員外郎:⋮・河東の斐鐇﹂は唐代の記録と一致する。 右に引用される﹁新唐書﹄巻一七九・王涯伝によれば、宰相にして度支・塩鉄転運使を兼ねていた王涯は、大和 唐後期の︿章応墓誌﹀ 一五九

(7)

︵内fl︶ さて章応の名は両﹃唐害﹄に見えず、他の唐関係の編纂資料にも現れないようであるが、墓誌によれば、菫応は北周に いたって七房に分派したうちの一つ鄭公房の童氏に属し、鄭公の六世の子孫という︵第3∼5行︶。﹃新唐書﹂巻七四上・ 宰相世系表四上の童氏の項の末尾に、章氏を九房に分けて、 、、、 童氏定著九房、一日西春、二日東舂、三日道遙公房、四日鄙公房、五日南皮公房、六日鮒馬房、七日龍門公房、八日 小道遙公房、九日京兆章氏。宰相十四人。 ︵3︶誌主章応の家系 含a︶ 章応は字が希声、祖籍は京兆の人︵第3行︶、開成二年︵八三七︶九月一二日に、河南府洛陽県仁風里の私邸で六三歳 で死亡し︵第朋∼的行廊同年二月一二日に埋葬された︵第弱∼鮒行︶というから、生年は大暦一○年︵七七五︶である。 ︵6︶ 埋葬地は京兆府万年県少陵原の少陵郷臨川里︵現西安市長安区︶であって、父の墳墓の側近くにある一七年前に死亡した 妻斐氏の墓を開き、夫婦同穴で葬られた︵第開∼郡行︶・門閥の墓葬の中心地、洛陽で没したにもかかわらず京兆府に帰 葬しているのは、章応の家が次に述べるように京兆に祖籍をもつ門閥として、おそらく祖先代々の墳墓を京兆府で営なん ︵4︶ 九年︵八三五︶二月におきた甘露の変で捕らえられ、宙官が牛耳る神策軍に腰斬されたが、この時、王涯の子の太常博 士王仲翔は、侍御史の斐鐇の家に匿れていたのを、斐鐇が執えて︹神策︺軍に引き渡し、殺害されたという。開成二年︵八 三七︶二月一二日に埋葬したこの菱鐇撰︿章応墓誌﹀では、後述するように草応を辞召した著名な官僚のほとんどは﹁某 、、、 公﹂と敬称で記す一方、王涯に対しては﹁操事者兼ねて司計を惚べ﹂︵第妬行︶と氏名を明記しないのは、二年前の右の ような事情もあったが故と思われ、このことは本墓誌の記述の真実性を一層浮かび上がらせる。 でいたからであろう。 一六○

(8)

︵4︶誌主章応の官歴 墓誌に記す聿応の官歴を、できるだけ時期が明らかになるように努めながら、整理してみよう。 ︵剛﹀ ①嶺南節度使楊於陵︵元和三年[八○八]四月∼同五年[八一○]七月︶に牌召され、試左衛兵曹参軍︵正8下︶より試大 理評事︵従8下︶・嶺南節度巡官となる︵第8∼9行︶。 ︵9︶ なお、同書同巻同条によれば、この鄙公房からは三人の宰相、すなわち中宗の時の章巨源、武后中宗・害宗の時の章安 ︵川︸ ︵Ⅷ︸ ︵吃︶ 石、誌宗の時の章宙を出しており、また墓誌によれば、章応の母は顔氏、外祖父は顔幼輿、叔祖父は著名な顔真卿という ︵第6行︶。このように、章応の生家は京兆の鄭公房童氏として、唐代に門閥を誇る家系の一つであった。 応の系譜は、 6鄙公 となり、何ら齪齪する一 あることを示している。 津︵陵州刺史、壽光県男︶←現︵字玄理、太子農事、武陽貞公︶←調 と記している。これらの記述と墓誌の﹁公は鄙公の六世の孫、曾祖の調﹂︵第4∼5行︶以下の記事を併せると、誌主草 ちの一人、津の子孫を、 と述べ、この鄙公房の始まりを同書同巻﹁鄭公房﹂の条には、 、 、、、、 文惠公︹章︺旭次子叔裕、字孝寛、晴尚害令・鄙襄公。六子、誰・總・壽・霧・津・静、号鄭公房。 ︵8︶ とあり、章叔裕︵孝寛︶を鄙公房の始祖としている。そして同書同巻﹁鄭公房﹂では、菫叔裕︵孝寛︶の六人の男子のう 公︵鄙襄公︶章叔裕︵孝寛︶←5津←4現←3曾祖、調←2祖、慾←1父、幌←第三子、応 何ら齪齪することなく連結し、これはこの﹃新唐書﹄宰相世系表と墓誌の世系の記述が、信頼するに足るもので 唐後期の︿章応墓誌﹀ 一一ハー

(9)

②漸西観察使蒔革 ③元和末、唐朝が 甫鍔、判度支、一兀 る︵第Ⅱ∼岨行︶。 ︵F︶ ④平盧に勝利し︵元和一四年[八一九]二月︶、功績により興元府西県令となるが、着任せず︵第昭行︶・ ︵脇︸ ⑤楊於陵︵戸部侍郎、戸部尚書、判戸部事?、元和一三[八一八]年八月∼長慶二年[八二三閏一○月︶に畔召され、殿 中侍御史︵従7上︶内供奉・戸部巡官として河南等道を分巡する︵第略∼皿行︶・ ︵四︶ ⑥相国牛僧儒︵同平章事、戸部侍郎・判戸部事、長慶二年[八一三]二月∼同三年[八二三]一○月︶、留めて前職のまま 検校祠部員外郎︵従6上︶・兼侍御史とする︵第叫行︶・ ︵鋤︶ ⑦楊於陵︵東都留守・東畿汝都防禦使、長慶四年[八二四]∼宝暦二年[八二六]︶により、本官のまま東畿汝都防禦推官 となり、検校水部郎中︵従5上︶・兼侍御史・東畿汝都防禦判官に転ず︵第砺行︶・ ︵別︶ ③今の中害令・晋国公︵斐度、同平章事・兼判度支、宝暦二年[八二六]八月∼大和三年[八二九]一○月︶に辞召され、 検校職方郎中︵従5上︶・東渭橋給納使となる︵第燗∼舶行︶・ ︵型︶ ⑨唐朝が横海節度李同捷を討伐︵大和元年[八二七]八月∼同三年[八二九]四月︶・検校兵部郎中︵従5上︶・兼御史中丞・ 河南河北和耀使となり、紫金魚袋を賜わる︵第陥∼別行︶・ ︵鰯︶ ⑩魏博の兵乱︵節度使史憲誠を殺害、大和三年[八二九]六月二六日︶の渦中を脱出して帰還、尚害虞部郎中︵従5上︶ ⑪検校右庶子︵太子右春坊、正4下︶・兼御史中丞︵正5上︶・︹塩鉄転運︺揚子留後となる︵第別行︶。 に遷る︵第加∼朗行︶。 ︵脚︶ 蜥西観察使蒔革︵元和五年[八一○]八月∼同一○年[八一五]︶により、江陰県令となる︵第岨∼Ⅱ行︶。 ︵胴︶ 元和末、唐朝が平盧節度使李師道を討伐︵一兀和一三年[八一八]七月∼同一四年[八一九]二月︶。﹁兵食を主る者﹂︵皇 ︵肥︶ 鍔、判度支、元和二年[八一六]四月∼同一五年[八二○]正月︶により知武寧供軍院・監察御史︵正8上︶裏行とな 一一ハーー

(10)

③知武寧供軍院l⑤⑥戸部巡官l③東渭橋給納使l⑨⑩河南河北和耀使l⑪︹塩鉄転運︺揚子留後l⑫︹塩鉄 転運︺江准留後l⑬度支鱈鐵轄運︹江准︺留後l︹度支︺塩鉄︹転運︺副使l⑭太府卿 となる。③武寧供軍院は、元和一三年︵八一八︶七月、平盧節度使李師道を討伐する際に、派遣された討伐軍に兵糧を供 給するため、武寧藩道内に置かれたのであろう。この兵糧は当時﹁食出界糧﹂とよばれ、莫大な額にのぼったが、中央政 府の度支の管轄であったから、章応は判度支の皇甫鍔により武寧供軍院の長官に任命され、困難な任務にあたったものと ︵”︶ 思われる。⑤⑥戸部巡官は中央戸部司の長官﹁判戸部事﹂の僚佐であり、⑨⑩河南河北和罐使も、長慶四年︵八二四︶以 ︵羽︶ 後、和耀の主管が度支から戸部司へ変更されたとすれば、戸部司のもとに臨時に置かれた使職であろうが、大和元年︵八 二七︶八月に開始した横海藩鎮討伐の時、恐らく臨時的な軍糧調達のために、河南・河北という広い範囲を対象として、 和耀使が派遣されているのは興味深い。これに対し③東渭橋給納使への就任は、判度支の斐度の辞召によるものであり、 ⑫明年、︹塩鉄転運︺江准留後に改められ、そのまま太僕少卿︵従4上︶に転ず︵第別∼筋行︶・ ︵型︶ ⑬﹁操事者﹂︵王涯、同平章事、兼判度支・塩鉄転運使、大和七年[八三三]七月∼同九年[八三五]五月︶により、右庶子 ︵弱︶ ︵正4王・度支鱈鐵轄運︹江准︺留後となり、ついで︹度支︺塩鉄︹転運︺副使・御史大夫︵従3︶となる︵第妬∼恥行︶。 ⑭開成初︵八三六︶、大理卿︵従3︶となり、ついで太府卿︵従3︶に転じ、ついで辞職し洛陽に帰る︵第〃∼肥行︶。 ⑮開成二年︵八三七︶九月一二日、死亡︵第朋∼的行︶。 る。それらを抜き出すと、 この聿応の履歴をたどると、まず楊於陵、蒔革、皇甫鐸、牛僧儒、斐度、王涯など、多くは宰相となった名だたる官僚 ︵猫︶ に辞召されていることが注目されるが、就任した官職としてはそのほとんどが財務関係を歴任していることが特徴的であ 唐後期の︿章応墓誌﹀ 一一ハーニ

(11)

さて、このような財務関係歴任の功績を評価され、﹁塩鉄︵塩専売︶の根本︵枢要︶は准海に鑿かる﹂ので、おそらく ︵釦︶ 塩鉄転運使の王涯の辞召を受けて、菫応は⑪検校右庶子・兼御史中丞・︹塩鉄転運︺揚子留後に任命された︵第羽∼別行︶・ 揚子留後は揚州揚子県に置かれた揚子院の長官であり、塩専売や漕運を主管し東南部地域の財政を統括する塩鉄転運使下 の多数の巡院のなかでも、揚子院は最も重要な巡院であって、大運河沐水と黄河の交接点の河陰県に設けられた河陰院と ︵訓︶ ともに、唐末にいたるまでその長官は留後と称された。しかし、揚子留後に就任した翌年、﹁又た公の功利︵功績と利益︶ 、、、 を遠きに及ぼさんと欲し、明年、改めて︹塩鉄転運︺江准留後と為し、冊って太僕少卿に転じ、権入︵塩専売収入︶の数は、 比歳︿毎年︶倍息︵倍増︶す﹂という︵第別∼妬行︶。そして、大和七年︵八三三︶七月に塩鉄転運使に加えて宰相とな り判度支をも惚べた王涯のもとで、章応は検校官ではない右庶子を真授され、度支塩鉄転運留後となっている︵第妬行︶が、 これは度支のもとでの任務は加わっているものの、実質は前の塩鉄転運江准留後と同じであったろう。 ついで、菫応はさらに︹度支︺塩鉄︹転運︺副使・御史大夫に昇格し︵第踊∼恥行︶、開成元年︵八三六︶には、揚州場 したがって東渭橋給納使は度支配下の使職であったが、長安城の東北四○里、渭水にかかる東渭橋は江准方面からの漕運 ︵鋤︶ の最終地点であって、東渭橋給納使はここで漕糧の収納、諸官庁・諸軍への支給を任務とした。 章応はこのように、元和末年から始まった唐王朝による反側藩鎮討伐の時期に、主として軍糧供給・調達の任務をにな ったのであるが、︿草応墓誌﹀には、討伐軍による軍糧の不正受給をおさえ︵第肥∼別行︶、魏博の兵乱の際は間一髪で危 機から脱出し軍糧の略奪を防いだ︵第加∼羽行︶緊迫したようすが、きわめてリアルに描写されている。宰相あるいは大 官から辞召を受けつづけ、当時焦眉の藩鎮討伐をささえる兵糧補給の困難な任務を遂行し、尚書省工部の虞部郎中︵従五 品上︶に遷転した菫応は、誌主を賞賛することを目的とする墓誌の性格を割りびいても、有能な財政実務の官僚であった 品上︶に遷転しゞ と見なしえよう。 一六四

(12)

筆者は巡院制を検討し始めた初期から、塩鉄転運揚子留後は時に江准留後とよばれることもあって、二つの実体は同一 ︵縄︶ であると考えてきたが、この考えは、︿段彪墓誌﹀と︿解少卿墓誌﹀の関連についての分析によって、動かないものにな ︵訓︶ ったと思われた。しかし、前節で述べたように、章応は大和七年︵八三三︶七月以前に、揚子留後から江准留後へ改めら れているのである。その理由は﹁章応の功利を遠きに及ぼさんと欲して﹂というのであるから、揚子留後と江准留後はそ の権限のおよぶ地域的範囲が異なり、江准留後は揚子留後より広い地域を管轄したものと推測される。 童応に近接した時期の江准留後について、﹃冊府元亀﹄巻五○二・邦計部・常平に、 ︹開成元年︺十二月、塩鉄転運使奏、﹁拠江准留後盧鋼、以江准諸州人将阻饒.請於来年運米数内、量留収貯、至春夏 子県から首都長安の中央政府に栄転し、大理寺の長官大理卿︵従三品︶、ついで﹁国語︵国庫︶の出入を司どる﹂太府寺 の長官太府卿︵従三品︶に転じたが、秋に発病し辞職して洛陽の私邸に帰った︵第朋∼肥行︶。揚子留後就任以後の経歴 を見ても、聿応は順調な昇進をとげており、おそらく塩鉄転運使、のちには判度支をも兼ねた王涯の最も重要な僚佐の一 ︵犯︶ 人として、﹁領職、重し﹂といわれる留後の実務を担当したものと思われる。 以上、章応の官歴を財務関係を中心にたどってみたが、京兆の章氏という門閥出身者でありながら、叙上のように、官 界では卑賤視されることもあった財政のまさに実務を歴任している実例であって、これは唐後半期という時代の変化の一 つの特徴を示しているとも考えられる。それはともかく、菫応が塩鉄転運使下の揚子留後から江准留後へ転任しているこ とについて、節をかえて述べる。

二塩鉄転運江准留後と揚子留後

唐後期の︿毒応墓誌﹀ 一 六 五

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とあり、近ごろ李歎が江准塩鉄留後となったことを例示している。 この江准留後の盧鋼と李歎の名は、西安市長安博物館編﹁長安新出土墓誌﹂︵文物出版社、二○二年五月︶二七六∼ ︵洲︶ 二七七頁に収録する︿聿承素墓誌﹀︵大中元年[八四七三○月二日、万年県洪固郷に埋葬︶に、 、、 公諄承素、字受采、其先京兆人。七代祖諄叔裕、周大司空・鄙国公、:::會丁公尚書統鎮漸右︵漸西観察使丁公著、 ︵”︶ 大和三年一八二九一七月∼同六年[八三二]八月︶、愛其才器、牌授試評事、充団練巡官。月満、転監察御史。⋮⋮縄 、、、、、、、、、、、 遼歳、丁先夫人報。:::服鉄、楊子江准留後盧公鋼泊李公歎、皆請為推官。職罷、随薦授京兆府士曹参軍。::: とあり、誌主菫承素をその推官に群召した江准留後として現れている。おそらく盧鋼と李歎は相ついで江准留後に就いた のであろう。こうして、大和年間末から開成年間初めにかけて、菫応、盧鋼、李歎が江准留後に相ついで就任したことが 知られるのである。なお偶然にも、︿章承素墓誌﹀の冒頭に記すように、草承素も京兆の鄭公房童氏に属し、菫叔裕︵孝寛︶ ︿銘︶ の七代の子孫というから、章応の一世代下の同房の童氏であることが分かる。 百姓鑛乏之際、減価出耀、収其直、侍熟償之、無損干官、有利干人・﹂帝嘉之、詔留常運米三十万石。 とあって、江准留後の盧鋼の提案により、翌年北方へ発送予定の漕運米三○万石を留めおき、翌年春夏に市価より安く販 売し、江准諸州の飢餓を阻もうとしたという。江准留後がこのように漕糧の発送や常平政策を職掌の一つとしていること が知られるが、開成元年︵八三六︶一二月の時点で江准留後に在任している盧鋼は、おそらく章応の後任者であろうと思 われる。また、杜牧の﹁上宰相求湖州第一啓﹂含奨川文集﹄巻一六︶は、大中四年︵八五○︶夏に吏部員外郎であった杜 ︵調︶ 牧が、湖州刺史就任を求めて宰相あてに送った書状であるが、そのなかに杜牧のことばとして、 :::近者、壇王傅李疑︵﹁歎﹂の誤り︶為塩鉄使江准留後、:.⋮江准塩鉄留後、求利小臣、校量軽重、与刺史相懸。 求利臣乃可吏部員外郎爲之。⋮⋮ 一一ハーハ

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︵卯︶ 非常に長文であるので引用は大幅に省略しているが、要するに、江准地域の諸監院︵塩監・巡院︶の官吏に人を得ず、 彼らが飽くなき苛赦詠求をするため、江准の土塩商は破散し尽しそうになっている、それは諸監院による違法行為の告訴 を受理し、諸監院の不正を監督する江准留後が初めて廃止されたからである、今、塩鉄転運使の斐侍郎閣下はこの失敗を 改め、胄吏は前のように多く置く必要はないが、以前のとおり江准留後を復活すべきだ、というのが杜牧の主張である。 杜牧がこれほど具体的に、かつ執鋤に、江准留後の廃止以後の弊害を力説していることから、現実に大きな問題を引きお こしていたことともに、江准留後の塩政にはたした役割の大きさを知ることができる。また、江准留後を復活させれば﹁嶺 南より沐州・宋州にいたるまで﹂冤罪者は控告することができ、数十州の土塩商は破滅を免れよう、というのであるから、 当時この広大な地域が江准留後の管轄範囲であったのであろう。ちなみに、一兀和四年︵八○九︶六月の両税法改革の際に、 のように記している。 ころ、杜牧が戸部全 しかし、その後まもなく、塩鉄転運江准留後が廃止される改革がおこなわれた。大中五年︵八五二二月から翌年一月 ︵調︶ ろ、杜牧が戸部︵または兵部︶侍郎・塩鉄転運使の斐休あてに書いた﹁上塩鉄斐侍郎書﹂二奨川文集﹄巻一三︶に、次 為江准留後、 十州士塩商、 、、、、 伏以塩鉄重務、根本在於江准。今諸監院、頗不得人、皆以権勢干求、固難悉議停替。其於利病、豈無中策。某自池州. 、、、、、、、 、、、、、、、、 睦州、実見其弊。蓋以江堆自廃留後已来、凡有冤人、無処告訴↓毎州皆有土豪百姓、情願把塩、毎年納利、名日﹁土 、、、、、、、、 塩商﹂。:.:.自罷江准留後已来、破散将尽、以監院多是詠求、一年之中、追呼無已。:::至如睦州百姓、食臨平監塩。 、、、、、、 其土塩商、被臨平監追呼求取。:::況諸監院皆是以貨得之、恐為好偽、人無語路.⋮⋮比初停罷留後、衆皆以為除煩 去冗、不知其弊。及於疲扇、即是所利者至微、所害者至大。今若蒙侍郎改革前非、於南省郎吏中、択一清慎、依前使 、、、、、、、 為江准留後、減其胄吏、不必一如向前多置人数。即自嶺南至於沐宋、凡有冤人、有可控告、好鰄之輩、動而有畏、数 唐後期の︿章応墓誌﹀ 減其胄吏、 免至破滅。 一六七

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︷判︶ 塩鉄転運揚子留後が担当した地域は﹁准南・湖西・湖東・宣款・福建﹂であったことと比較して、江准留後のそれの広さ 運塩鉄総叙に、 この江准留後の廃止は、いつのことであったろうか。杜牧の書簡の初めの部分に、﹁某池州・睦州より、実に其の弊を 見ゆ﹂というが、杜牧は会昌四年︵八四四九月に、黄州刺史から池州刺史︵宣款︶に転じ、さらに同六年︵八四六︶九 ︵躯︶ 月に睦州刺史︵湘西︶に遷っているので、江准留後の廃止はそれ以前のことであったに違いない。﹁唐会要﹄巻八七・転 ︵媚︶ とあり、開成三年︵八三八︶、宰相・戸部尚書で塩鉄轄運使の楊嗣復が、財政や監院を改革する多くの提言をおこなった ことを伝えている。今、詳細を明らかにする余裕がないが、﹁冊府元亀﹄巻四九四・邦計部・山沢には、この開成元∼三 年ころ、塩専売・茶税・銀山・明馨山などの制度に立てつづきに改革が加えられていることを記している。その一端に、 ︹開成二年︺三月乙酉、塩鉄使奏、得蘇州刺史盧商状﹁分塩場三所、隷属本州。一兀耀塩七万石、加至十三万石、倍収 税額、直送価銭。﹂五月、:::︹盧︺商在蘇州、変塩法、獲利倍多。⋮⋮ とあり、本来は塩鉄使所管の﹁塩場﹂三所を蘇州に所属させ、塩の販売課額を倍加し、収益を中央に直送したという。こ れら一連の改革を見ると、この時期に塩鉄転運江准留後が廃止されたと推測しても、あながち当を失していないであろう。 しかし、杜牧による江准留後復活の斐仲あて提案が、どれほど効果をあげたのか定かではないが、杜牧の書簡が書かれた ︵“︶ ︵幅︶ 直後に復活したと思われる。威通五年︵八六四に塩鉄江准留後の陸塘が厳州刺史になり、また唐の最末期にも買栩が塩 ︵輔︶ 鉄江准留後になっている事例が確認できる。 が分かる。 開成元年、一 、、、、、 監院之陳事。 、、 李石以中書侍郎、判茶法、復貞元之制也。三年、以戸部尚書・同平章事楊嗣復主之︵茶法︶、多革銭穀. 一六八

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巻二二・状に収める、よ 蘇州畢中丞自代欣 それでは、江准留後と揚子留後はいかなる関係にあったのだろうか。すなわち、両者は同時に並存したのであろうか。 思うに管轄範囲の広狭の違いはあっても、おそらく職掌は共通する両者が並存していたとは考えにくい。とすれば、唐後 半期、通常は揚子留後が置かれ、揚子留後の権限強化などが必要な場合に、揚子留後を江准留後へと昇格させたのではな いかと推測するのが合理的であろう。なお、開成年間から大中年間にかけて江准留後が廃止されたと思われる時期は、江 准地域の諸監院の不正を防止する機関がないことを痛烈に批判する杜牧の力説を見ると、本来そのような任務をはたすべ き揚子留後も、廃止され置かれていなかったものと考えられる。 ︵〃︶ 蘇州刺史に任命された劉禺錫は、建中元年︵七八○︶正月五日の制にもとづき、義務となっている自分の後任者として ふさわしい人物一人を推薦する書状を、大和六年︵八三二︶一二月九日付けで中害門下に提出した。それが﹁劉夢得文集﹂ 巻二二・状に収める、よく知られた次の文章である。 蘇州状上中書門下、諸道鱈鐵轄運江准留後・朝議郎・守太僕少卿・兼御史中丞・上柱國・賜紫金魚袋菫應物。右臣蒙 恩顧、授蘇州刺史。伏準建中元年正月五日制、刺史上後、筆一人自代者。前件官、歴掌劇務、皆有美名。執心不回、 臨時能断。今領職難重、本官尚輕。伏以當州口賦首出諸郡。況經災珍、切在撫綏。尚省無能、朝敢公翠。司權莞之利、 誠籍時才、流豈弟之風、實惟邦本。非承臆説、以塞詔書。今具間奏。大和六年十二月九日。 ︵帽︶ 劉禺錫が自分の後任の蘇州刺史として推薦する、この諸道塩鉄転運江准留後の﹁章応物﹂は、唐代の著名な自然詩人、

三劉禺錫の推薦する諸道塩鉄転運江准留後﹁章応物﹂

唐後期の︿草応墓誌﹀ 一六九

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王維・孟浩然・柳宗元とともに﹁王孟草柳﹂と称される、かの章応物と姓名がまったく同じため、両者の関係は夙に宋代 から注目されてきた。そして劉禺錫が記す﹁章応物﹂は、南宋の沈作詰撰﹁補章刺史伝﹂によって、﹁大和中、以太僕少 卿兼御史中丞、為諸道塩鉄転運江准留後。年九十余美。不知其所終。﹂と、完全に菫応物の伝記に採り入れられ、これが 唐の詩人の基本的な伝記資料の一つ、元の辛文房撰﹃唐才子伝﹂巻四﹁聿応物﹂のなかに、﹁大和中、以太僕少卿兼御史 中丞、為諸道塩鉄転運江准留後。罷居永定、斎心屏除人事。﹂と承けつがれた.これによって菫応物は﹁年九十余﹂でな お江准留後の任について生きていたことになったのであるが、さすがにこれは不自然で、章応物と﹁菫応物﹂は別人であ ︵栂︶ るか、あるいは﹁草応物﹂は文集の誤りかと多くは見なされてきた。 さて、本文一・二節で、︿章応墓誌﹀によって聿応の事跡を見てきた我々は、劉禺錫の推薦した﹁聿応物﹂は実は章応 であったことにすぐ気づくであろう。﹁章応物﹂の官衞﹁諸道塩鉄転運江准留後・朝議郎・守太僕少卿・兼御史中丞・上 柱国・賜紫金魚袋﹂は、章応の官歴のうち、⑨兼御史中丞、賜紫金魚袋、⑪兼御史中丞、⑫︹塩鉄転運︺江准留後、兼御 史中丞、太僕少卿と一致する。︿菫応墓誌﹀の官歴⑫が、劉禺錫のいわゆる﹁章応物﹂の官衞に相当し、その時点が﹁大 和六年十二月九日﹂であることも、︿章応墓誌﹀と何ら創饒しない。しかも、劉禺錫の推薦状に﹁前件の官、劇務を歴掌し、 皆な美名有り。執心、回らさず、時に臨んで能く断ず。﹂と記す人物評価も、︿章応墓誌﹀に記す章応の人物像とよく一致 する。かくして︿草応墓誌﹀の誌主の章応こそが、劉禺錫の推薦した人物であったことが証明された。書誌学・文献学に うとい筆者には今、どの時点で劉禺錫の文集の﹁菫應﹂に﹁物﹂字が加えられたのか、検討することはできないが、今後、 宗本以来の﹁草應物﹂から﹁物﹂字を削除すべきであることは明らかであろう。 こうして、︿聿応墓誌﹀には何も記されていないが、菫応が江准留後︵正式名称は﹁諸道塩鉄転運江准留後﹂︶に就いてい た大和六年︵八三二︶一二月、著名な文人であり、且つ江准地方の大州の一つ蘇州の刺史に就任した劉禺錫から、後任者と ’七○

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留後の﹁菫応物﹂は、実は章一 疑惑を解明したつもりである。 二○○七年末に、西安市長︽ だことは記憶に新しい。墓誌﹄ 応物の卒年もほぼ確定した。︸ すなわち、唐後期、江准留後はそのような地位として存在していたのである。 校量し︵銭勘定をしているだけ︶、刺史とは相い懸かる︵かけ離れているごということばを、一般化することはできない。 れる人事であったことを物語るであろう。前掲の杜牧﹁上宰相求湖州第一啓﹂で﹁江准塩鉄留後は求利の小臣で、軽重を 頼していたからに他ならず、また章応の現任官職の江准留後は、次に蘇州刺史へ転任しても、当時の官界において許容さ するということは、二人の間の関係がいつから結ばれたのかは未詳であるが、章応の人となりを劉禺錫が熟知し、厚く信 して推薦されたことを、章応の事跡として付け加えることができる。劉禺錫が自分の後任適格者として菫応を朝廷に推薦 本稿では唐後期の︿章応墓誌﹀を紹介しながら、門閥出身の菫応が王朝財政の実務を歴任していることに着目し、その なかで、江准地方における塩鉄転運︵時に度支・塩鉄転運︶使下の巡院機構を統括する揚子留後、江准留後に就任している ことに注目し、揚子留後と江准留後の関係を考察した。また最後に、蘇州刺史劉禺錫が自らの後任者として推薦した江准 留後の﹁菫応物﹂は、実は章応であったことを指摘し、関連して、盛唐の詩人・章応物の終焉時期にかかわる宋代以来の 外の副産物である。 おわりに 唐後期の︿章応墓誌﹀ ︷別︶ 西安市長安区草曲鎮で発見されたく章応物墓誌﹀が一家の墓誌とともに公表され、大きな反響をよん ︵別︶ い◎墓誌には卒年時は記されず、初めの埋葬を﹁貞元七年︵七九二十一月八日﹂と明記しており、菫 定した。このような時機に、偶然ながら終焉時期に関する疑惑の解決を提示できたことは、本稿の望 一 七 一

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注 ︵1︶筆者編﹁中国石刻関係図書目録︵二○○八’二○一二前半︶ 稿﹂︵近刊予定︶参照。 ︵2︶氣賀澤保規編﹁新版唐代墓誌所在総合目録︵増訂版こ︵明 治大学東アジア石刻文物研究所、二○○九年一○月︶の﹁前 言﹂によれば、所載の墓誌・墓誌蓋の総数は八七三七点で あるが、これから題名のみ著録のものと墓誌蓋のみのもの を除けば、約八三五○点となる。本目録はほぼ二○○七年 まで出版された資料集から墓誌題名を採録している。 ︵3︶孟陽光︵梶山智史訳︶﹁近年洛陽出土唐代墓誌の概況と研 究の進展﹂︵氣賀澤保規編﹃洛陽学国際シンポジウム報告 論文集東アジアにおける洛陽の位置︵明治大学東洋史資 料叢刊8こ汲古書院、二○二年三月︶参照。 ︵4︶また﹁旧唐害﹄巻一八九・王涯伝、﹃資治通鑑﹄巻二五・ 文宗大和九年一一月条など、参照。 ︵5︶洛陽の仁風里が河南府洛陽県にあることは、余扶危・張剣 主編﹁洛陽出土墓誌卒葬地資料彙編﹂︵北京図書館出版社、 二○○二年一二月︶一六五∼一六六頁、参照。 ︵6︶菫応の帰葬地、すなわち唐代後期の京兆府万年県少陵原の 少陵郷臨川里︵現西安市長安区︶が、後注︵9︶に記す章 応の六代の祖聿孝寛の埋葬地、北周末の万年県寿貴里︵西 へへへへ 1 2 1 1 1 0 9 ーーー… へ 8 ー へ 7 ー 安市長安県童曲鎮の北原︶と、どのような関係にあるのか は未詳である。 張万起編﹃新旧唐書人名索引﹂︵全三冊、上海古籍出版社、 一九八六年三月︶、傅砿院・張枕石・許逸民編撰﹁唐五代 人物伝記資料綜合索引﹂︵中華書局、一九八二年四月︶など、 参照。 ﹃周書﹂巻三一・﹁北史﹂巻六四・章孝寛伝、参照。なお、 一九九○年春、︹西安市︺長安県章曲鎮北原上で︿章孝寛 墓誌﹀が出土し、戴応新二旱孝寛墓誌﹂含文博﹄一九九一 年第五期︶に、墓誌の釈文、拓本写真、解説が発表され、 のちに釈文が羅新・葉偉著﹁新出魏晋南北朝墓誌疏証﹄︵中 華書局、二○○五年三月︶三五、韓理州等輯校編年﹃全 北斉北周文補遺﹂︵三秦出版社、二○○八年六月︶﹁全後周 文補遺﹂五○∼五二頁に収録された。それによると、墓誌 蓋に﹁周上柱国鄙襄公﹂、誌文に﹁諄は寛、字は孝寛、 .:.:七二歳で北周の大象二年︵五八○︶三月二四日に死 、、、、、、、 亡し、同年一二月九日、万年県の寿貴里に帰葬した﹂とい う。﹃新唐書﹄宰相世系表に﹁晴の尚書令﹂とあるのは誤 りか。 ﹃旧唐書﹂巻九二・﹁新唐書﹄巻一二三・章巨源伝。 ﹃旧唐書﹂巻九二・﹁新唐書﹄巻三三・章安石伝。 ﹁新唐書﹂巻一九七・章宙伝。 ﹃旧唐書﹄巻一二八・﹁新唐書﹄巻一五三・顔真卿伝。なお、 七

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へ 13 − へへへ 161514 ー…ー ヘヘ 1817 ー 外祖父の顔幼輿は顔真卿のすぐ上の兄である。﹁顔魯公文 集﹄巻九﹁左衛率府兵曹参軍・賜紫金魚袋顔君︵幼輿︶神 道碑銘﹂、黄本驍編訂﹃顔魯公年譜﹂︵三長物斎叢書︶など、 参照。 呉廷竪撰﹁唐方鎮年表﹄︵全三冊、中華書局、一九八○年︶ 一○二九頁、参照。 ﹁唐方鎮年表﹂七五二∼七五三頁、参照。 ﹃資治通鑑﹄巻二四○∼二四一、参照。 ﹁主兵食者﹂とは、後述するように度支使︵判度支︶の就 任者を指称するのであろう。厳耕望撰﹃唐僕尚丞郎表﹄︵全 四冊、中央研究院歴史語言研究所、一九五六年四月︶一六 五∼一六七頁によると、当時、この職に就いていたのは皇 甫鍔であった。しかし、皇甫鍔は憲宗が逝去し穆宗が即位 すると失脚し、左遷地で死亡した含旧唐書﹄巻一三五・﹁新 唐書﹂巻一六七・皇甫鍔伝、参照︶。墓誌で名前を明記し ないのは、このような事情によるものであろうか。 ﹃資治通鑑﹄巻二四一、参照。 ﹃唐僕尚丞郎表﹂一六六∼一六九頁、参照。今のところ史 料で確認できないが、この時、楊於陵は判戸部事を兼任し ており、牛僧糯はその後任であったのではなかろうか。墓 誌に﹁弘農の楊公、邦賦を掌り、:..:相国の牛公、嘗て之 を継ぎ﹂︿第鳴∼M行︶と記すのは、このことを指してい るように思われる。 唐後期の︿章応墓誌﹀ へ 24 − へへへ 232221 …ー… ヘヘ 2019 ーー へ 25 … ﹁唐僕尚丞郎表﹄一六九∼一七○頁、参照。 郁賢皓著﹁唐刺史考全篇﹂︵安徽大学出版社、二○○○年 一月︶五六二頁、参照。 ﹃唐僕尚丞郎表﹄一七二∼一七四頁、参照。 ﹃資治通鑑﹄巻二四三∼二四四、参照。 ﹃旧唐書﹂巻一七上・文宗本紀・大和三年秋七月癸未条に、 中使劉弘逸送史憲誠旋節、自魏州還、称﹁六月二十六日 夜、魏博軍乱、殺史憲誠。﹂ とある。また﹁資治通鑑﹄巻二四四・大和三年秋七月条な ど、参照。 ﹃唐僕尚丞郎表﹄一七六∼一七七頁、参照。しかし実は、 王涯はすでに大和四年︵八三○︶正月以来、塩鉄転運使に 就任していた︵同書一七四∼一七六頁︶から、⑪︹塩鉄転 運︺揚子留後と⑫︹塩鉄転運︺江准留後も、塩鉄転運使王 涯の辞召によるものと考えられる。 墓誌に記す﹁塩鉄副使﹂は、正式には﹁度支塩鉄転運副使﹂ であろう。たとえば、かのいわゆる﹁永貞の革新﹂を主導 した王叔文は、貞元一二年︵八○五︶三月に、同平章事・ 判度支・塩鉄転運使杜佑のもとで﹁度支塩鉄転運副使﹂に 就任しており、これを播孟陽、李巽がうけついでいる。ま た元和三年︵八一六︶には、塩鉄転運使王播のもとで程 弄が﹁塩鉄転運副使﹂となり、翌年六月に塩鉄転運使に昇 任している。以上、﹃唐僕尚丞郎表﹂一六五・一六七頁、 七

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参照。 元︶楊於陵、醇革は宰相になっていない含旧唐書﹄巻一六四. ﹁新唐書﹂巻一六三・楊於陵伝、﹃旧唐書﹂巻一八五下・﹁新 唐書﹂巻一六四・蒔革伝︶が、とくに楊於陵は﹁居朝三十 余年、践更中外、始終不失其正。居官奉職、亦善操守、時 人皆仰其風徳﹂︵﹁旧唐書﹄楊於陵伝︶と賞賛される大官で あった。 ︵”︶前注命︶参照。また周知のように﹁冊府元亀﹄巻四八四・ 邦計部・経費・建中四年︵七八三︶に、 、、 、、、、 諸道行営出其境者、糧料皆仰給度支。謂之食出界糧。又 、、、 於諸軍、各以台省官一人、司其供億。謂之糧料使。帝尤 郷軍士、毎出境者、加給酒肉。本道之糧、亦留給妻子。 凡︹出?︺境一人、兼三人之糧。由此将士利之、繕進君 、、、、、、、、、、、、 ︵軍?︶途境、以規供費。故諸軍月費銭一百三十餘萬員。 とある。この平盧李師道討伐の時には、﹁資治通鑑﹂巻二 四○・元和一三年︵八一八︶秋七月条に、 乙酉、下制罪状李師道、令宣武・魏博・義成・武寧・横 、、、、、、 海兵討之、以宣款観察使王遂為供軍使。 とあるが、﹃旧唐書﹄巻一六二・王遂伝には、 、、、、、、、、、 王師東討、召拝光緑卿、充涌青行営諸軍糧料使。:.⋮初、 、、、、、、、、、、、、 師之出也、歳計兵食三百萬石、及郵賊詠、遂進羨餘銭一 百萬、上以為能。 とあって、王遂が供軍使︵実は消青行営諸軍糧料使︶に任 命されている。供軍院と、討伐藩鎮軍への兵糧供給がいか に困難な職務であったかについては、一例として、﹃唐会要﹄ 巻五九・尚書省諸司下・度支使に、 長慶二年︵八二三三月、..::時幽鎭行営諸軍、以出境 者十五萬人。魏博・槍景之師、皆墜賊境而塁、亦籍兵數、 、、、 、 徴計司所給。自河北置供軍院、其布帛衣賜、往往不至供 、、 軍院。邊為所軍強見躯奪、懸師前闘者、反無支給。其饅 餉主吏、由此得罪者、前後相次。 とあるのを掲げるにとどめる。また、末田修一﹁唐代藩鎮 の出界糧について﹂︵﹁鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢﹄同 記念会、一九六四年︶参照。 ︵肥︶戸部司の財政について、渡辺信一郎﹃中国古代の財政と国 家﹄︵汲古書院、二○一○年九月︶第十四章﹁唐代後半期 の中央財政1戸部曹財政を中心にl﹂︵初出一九八八年︶ 参照。この指摘は該書四九五∼四九六頁にある。なお、戸 部巡官・和耀使、和耀・軍糧調達などについて、李錦繍﹁唐 代財政史稿︵下巻︶第一分冊﹂︵北京大学出版社、二○○ 一年︶第一篇﹁財政機構及職能﹂第二章﹁三司使下的機構 及財務行政﹂第一節一﹁三司属官﹂︵三︶﹁巡官﹂の項、同 第三節﹁三司使下的使職及機構﹂三︵四︶﹁京西京北和耀使﹂ の項、丸橋充拓﹃唐代北辺財政の研究﹂︵岩波書店、二○ ○六年五月︶も参照。 ︵鯛︶拙稿﹁唐後半期、度支使・塩鉄転運使系巡院名増補孜﹂︵﹁東 一七四

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へへへ 343332 ーー… ヘヘ 3130 …ー 洋大学文学部紀要﹄第三九集︵史学科篇Ⅲ︶、一九八六年 二月︶注︵空、前注・李錦繍著第一篇第二章第三節四︵三︶ ﹁東渭橋給納使﹂の項、参照。 前注︵別︶、参照。 揚子院と揚子留後について、拙稿A﹁唐後半期に於ける度 支使・塩鉄転運使系巡院の設置について﹂︵﹁集刊東洋学﹂ 第三○号、一九七三年一二月︶、拙稿B﹁唐後半期におけ る巡院と漕運﹂会東洋大学文学部紀要﹂第三六集︵史学科 篇Ⅷ︶、一九八二年一二月︶、参照。 本稿第三節、参照。 前注︵空拙稿、前注︵翌拙稿B五九頁、など。 拙稿﹁唐代後期の解府君墓誌と段府君墓誌﹂︵唐代史研究 会編﹁唐代史研究会報告第Ⅶ集東アジア古文書の史的 研究﹂刀水書房、一九九○年九月︶で、簡単に言えば、 、、、、 長慶元年︵八二二、揚子留後の段彪は金州刺史へ転じ、 ついで明州刺史へ遷って死亡した︵宝暦元年[八二五]︶が、 段彪が明州刺史へ遷るまでの十数年間、段彪の部下として 随従しつづけた解少卿なる人物の墓誌︵大和九年[八三五] 、、、、、、、、 二月葬︶は﹁唐故塩鉄転運江准留後勾検官.:⋮解君墓誌 銘﹂であることから、揚子留後I塩鉄転運江准留後と見な した。なおその後、︿段彪墓誌﹀と︿解少卿墓誌﹀は各々、 王思礼など主編﹃晴唐五代墓誌彙編江蘇山東巻﹂︵天津 古籍出版社、一九九一年二月︶八○・八六頁に、拓本写 唐後期の︿章応墓誌﹀ 真が収録された。 ︵至膠鍼著﹁杜牧年譜﹄︵人民文学出版社、一九八○年九月︶ 七九頁、参照。 禿︶︿章承素墓誌﹀は、王宏・穆曉軍﹁草承素墓誌考釈﹂二古 今論衡﹂第六期、中央研究院歴史語言研究所、二○○一年 六月︶に、初めて公表された。 ︵亜﹃唐方鎮年表﹂七五五∼七五六頁、参照。 禿︶また、﹁新唐書﹂巻七四上・宰相世系表四上・鄭公房の条、 前注︵韮王宏・穆曉軍﹁章承素墓誌考釈﹂参照。 ︵釣︶書簡の書かれた時期については、拙稿﹁唐代の地方塩政機 構lとくに塩監.︵塩院︶・巡院等についてl﹂︵﹁歴史﹄第 四九輯、一九七六年二月︶注⑤、参照。 ︵辿ここの﹁監院﹂が塩監・巡院をさすことは、前注︵胡︶拙 稿二九頁、参照。 ︵坐拙稿﹁唐代後半期における巡院の地方行政監察業務につい て﹂含星博士退官記念中国史論集﹄同記念会、一九七八年 一月︶四五∼四七頁、参照。 ︵竺前注︵弱︶﹃杜牧年譜﹂五八・六六頁、参照。 ︵坐楊嗣復は開成二年︵八三七︶一○月から同三年七月まで、 塩鉄転運使であった。﹃唐僕尚丞郎表﹄一七九頁、参照。 、、、、、、 ︵坐杜牧﹁李郭除検校刑部員外郎充塩鉄嶺南留後、鄭蕃除義武 軍推官等制﹂︵﹃奨川文集﹂巻一九︶がある。杜牧は大中五 年︵八五二秋に知制詰となり、同六年に中書舎人に転じ 一七五

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た後、同六年二月に病死した︵前注︵弱︶﹁杜牧年譜﹂ 八六∼八九頁、参照︶。李郭を塩鉄嶺南留後に任命する制 勅は、この間に出されたのであるが、塩鉄嶺南留後は嶺南 道に置かれていた嶺南塩鉄院︵前注︵型拙稿A︶に駐在 したであろう。また嶺南留後の設置の事実は、それより喫 緊な課題となっていた江准留後の復活を意味しているもの と推測される。 ︵運﹃厳州図経﹂巻一・題名、参照。 ︵埜徐鉱撰﹁大唐故中散大夫:::使持節泰州諸軍事.:。:寶宣公 ︵潭︶墓志銘﹂言徐公文集﹄巻一五︶に、 考栩、以経術擢太常第、以才用為諸侯卿。:⋮・上疏論邪 寧節度王行職侍功窓横、坐既愛州橡。及行琉就識、優詔 、、、、、、 徴還、復出常州刺史・塩鉄江准留後。属宗社中絶、宮司 解弛、計吏未上、哲人其萎。 とあり、王行礒が那寧節度使に就任したのは、光啓三年︵八 八七︶一月∼乾寧元年︵八九五︶八月の間︵﹁唐僕尚丞郎表﹂ 五○∼五二頁︶、詠殺されたのは同二年︵八九六︶二月 である含資治通鑑﹄巻二六○︶から、買栩が塩鉄江准留 後になったのは、唐の滅亡直前のことである。 ︵辺この﹁制﹂は、周知のように﹁冊府元亀﹄巻八九・帝王部. 赦宥八に、﹁建中元年正月辛巳︵五︶日、有事於南郊、還 御丹鳳楼、大赦。﹂としてのせる﹁南郊大赦文﹂のなか の一節であるが、﹁唐会要﹂巻二六﹁挙人自代﹂に、 建中元年正月五日勅文。常参官及節度・観察・防禦軍使・ 城使・都知兵馬使、諸州刺史・少尹・赤令。畿令井七品 已上清望官及大理司直・評事、授詑三日内、於四方館上 表、讓一人以自代。其外官与長吏勾当、附駅聞送。其表 付中書門下、毎官闘、即以見挙多者、量而授之。 とあるテキストが、比較的優れているようである。 ︵磐劉禺錫のいわゆる江准留後章応物を区別するため﹁﹂で 少く、ノく、デ︵︾O ︵理以上は主として傅砿珠主編﹁唐才子伝校妻﹄︵全五冊、中 華書局、一九八九年三月︶第二冊﹁章応物﹂一七九∼一八 一頁、濯蜆園妻證﹁劉禺錫集妻證﹂︵全二冊、上海古籍出 版社、一九八九年一二月︶上冊、四三四∼四三七頁、陶敏. 王勝友校注壹早応物集校注︵増訂本こ︵中国古典文学叢書、 上海古籍出版社、二○二年九月︶六二七∼六三二頁など を参考した。 ︵型陳尚君﹁章応物一家墓誌的学術価値﹂、馬駿﹁新発現的唐 章応物夫婦及子章慶復夫婦墓誌簡考﹂、ともに﹁文睡報﹂三 ○○七年二月四日︶に掲載。 訂︶その後︿章応応物墓誌﹀と︿章応物妻元蘋墓誌﹀は、趙文 成・趙君平編撰﹃新出唐墓誌百種﹄︵西洽印社出版社、二 ○一○年一○月︶二五六∼二五七頁、二三○∼二三一頁に 収録された。 一七六

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