ハンス・ヴェルツェルの自然法論(5)(中世自然
法論)
著者名(日)
後藤 静思
雑誌名
東洋法学
巻
40
号
1
ページ
127-167
発行年
1996-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000500/
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ンス・ヴェルツェルの自然法論︵五︶︵中世自然法論︶
後
藤
静
田 ’じ、 目 次東洋法学
︵一︶ ︵二︶ ︵三︶ 1五四
__65432
﹁キリスト教的中世自然法﹂ 古代自然法に対するヴェルツェルの視点 ストア学派 ︵以上 三八巻二号︶ アリストテレス プラトン ︵以上 三八巻一号︶ ソクラテス ソフィストの自然法 自然法の前段階 ﹁古代自然法﹂ ﹁自然法と実質的正義﹂の﹁序文﹂はじめに
127ハンス・ヴェルツェルの自、然法論飼仲世首然法諭
54321
トマス・アキナス ︵以上 三九巻一号︶ キリスト教世界への移行。パウロとアウグスティヌス ヨハン・ドン・スコトゥス ウイルヘルム・フォン・オッカム ︵以上 三九巻二号︶ 後期スコラ学派と近代への移行 ︵以上 本号︶ ︵五︶ ﹁キリスト教的中世自然法﹂ ヴェルツェルは、既述のように、キリスト教的自然法論の論争・変化・発展を論じ、更に、後期スコラ学派の 論争を経て自然法論が世俗化しつつ近代自然法論に展開していくことを以下のように論述する。 ︵−︶ 5 ﹁後期スコラ学派と近代への移行﹂と題して、大要次のごとく述べている。 ﹁中世最盛期の大きな︵自然法論の︶体系の中で︵一方には、トマスが、他方にはドン・スコトゥスとウイルヘ ルム・オッカムがいる︶、﹃理性と意志の間、理念的秩序と具体的判断との間の自然法の二律背反﹄︵臼Φ︾旨ぎo巨① αΦωZ簿自お魯房N≦冨畠①⇒く①§二嘗け仁昌α≦旨ρN≦冨oげ魯こ8一RO巳づ⊆づ閃仁昌α犀oロ町9R国昌け零冨こ仁β閃︶が公 然と顕在化した。結局、プラトンの理想主義的自然法論、即ち、﹃理性と普遍の優位﹄︵汐ぎ簿αRくΦ旨琶ヰ巨α α8≧一鴨ヨΦぎ窪︶に対して、﹃意志と個人の優位﹄︵即冒簿号ω≦旨窪ω§αα8鼠象丘身色窪︶を主張する、 ﹃精神的に同等の、意志主義的反対理論派﹄︵α段ぎ鑛窪巨①<o冨旨四誘冴9Φ○畠9呂芭①目︶が対立した。 128東洋法学
法と倫理のこれら双つの根本概念の対論においてのみ、﹃自然法の真実内容﹄︵αR≦四ぼ箒誘鴨匿犀8ωZ簿仁睡①− o拝ω︶は吟味され解明されることができたのである。この対決論争は、以後の自然法全体を決定的に規定し、﹃倫 理と法の根源についての我々の確信﹄︵目器お03Φお9豊凝<oB¢参R⋮磯αR腔注一畠犀Φ津巨α8ω勾8鐸ω︶ を今日に至るまで貰徹している。 ドン・スコトゥスおよびウイルヘルム・フォン・オッカムに直接続くスコラ哲学者の世代にとっては、意志主 義的理論体系の出現は、深く鼓舞する緊張であった。﹃個人︵個物・個体︶と経験とへ志向することによって﹄︵昆け αR=ぎ遜9身轟豊Bぼ島<一身亀9§α国箏且ユ零冨づ︶、反対者も逃れることのできない﹃一つの新しい現実視 界﹄︵①ぎΦ器器≦ヰ匹8冥巴冨ω8馨︶が現出した。﹃倫理的基底を求める闘争﹄︵αR丙蝉白鳳gB9①9匡零げ9 0毎且一認Φ︶は、ますます激しくたけなわとなった。この闘争は、反対者に対しますます過激な立場に立つよう闘 争当事者を強いることで、﹃自然法の世俗化過程における本質的な酵素﹄︵Φ営名89岳3霧男RB窪江ヨω器ざ一巽− 邑段⋮鴨窟○認ωω8ω乞餌9護①3琶となった。﹃近代の世俗的︵不神聖な︶自然法の世俗的︵現世的︶内容﹄︵血R 墨魯巳巽Φ○魯聾号ω器仁段窪..凛9き窪、.Z碧ξお魯琶は、スコラ哲学的自然法が、トマス主義と名目主義の 闘争で、反対の両極にまで展開したことから、いわば、自ら跳び出した︵<9器ε雪げRき詔8鷺皿轟窪︶もので ︵2︶ ある。この事実は、﹃世俗的自然法がその中世的・神学的基礎から離脱したことについて今日しばしば聞かれる遺 憾の念﹄︵3ωぎ旨のo津墜げOR9α9ωa窪o毎器げ段α窪.、︾漂巴一、.αoω冥9窪窪Z簿葺お魯房<9ωΦ言R 巨一辞R巴冨践畠9浮8一〇笹ω畠Φp団器邑は根拠のないことを示すものである。中世後期の自然法は、﹃自己に内 129ハンス・ヴェルツェルの自、然法論御仲世自然法諭 在する問題点﹄︵象Φぎ目ぎ器≦o冨窪号勺﹃○巨のヨ簿騨︶を現実に処理し尽くそうと意志したとき必然的に︵づ9奢①亭 &閃︶踏み歩まねばならなかった道を、進んで行ったのであった。 ① ウイルヘルム・フォン・オッカムの死後︵一三四九頃︶から十七世紀のスペイン後期スコラ哲学の末期ま での期間は、まず初めは、名目主義が、広範な勝利を得ていたが、かなり後期になり、初めて、スペイン後期ス コラ哲学において、理想主義的な反対論が再び説かれて成功を収めた。オッカムの思想は、彼の生国︵○①ど旨ω冨巳︶ イングランド︵国づひq冨区︶においては、最高に生き生きと維持され続け、十七世紀においてトマス・ホッブス ︵↓ぎヨ器=o喜窃︶が﹃名目主義の不断の伝統﹄︵蝕器巨鴇ぼo魯9①3ヨ一轟房冴魯Φ↓声α置9︶を継承する ことできたのである。しかし、ヨーロッパ大陸においても、オッカムの意志主義的理論には、影響力に富む多く の支持者︵︾嘗器鑛R︶が見られる。 オッカムの死後の一世代、フランス人ペテル・デリi︵℃9Rα、≧ξ︶︵一三五〇1一四二〇︶は、完全にオッ カムの精神で教えを説き、﹃神の意志は、神の意図を規定する如何なる他の根拠をも持たない﹄︵UR巧∈ΦOo簿窃 ゴ簿ぎ冒窪曽αR90霊づαhΦ二ぎ墜日≦o=窪冨誓一B巨什︶と述べ、それゆえに、﹃神が、必然性から、或いは、 事物の自然から、愛しまたは憎まねばならない善も悪も存在しない。また、正義は、事物の自然の特性ではな く、神による単純な是認である。同様に、神は正義を愛するから、それゆえに、神は正義なのではなくて、逆 に、むしろ、神がそのものを愛するから、即ち、そのものを正当とするから、そのものは、正義なのである。﹄と ︵3︶ 述べる.﹃事物の本性から﹄︵霊ωαRZ簿自α段ω8冨︶正義とされるものはないという言葉の、強調される反 130 ‘
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復の中に、意志主義が、﹃自然法一般を破壊する意志主義の第一の帰結﹄︵ωΦぎ①R曾ΦP鼠ωZ鋤9員8算ωま冨学 ︵4︶ 冨⊆讐器お8RΦ且①国9ω8諾自窪︶を示している。 デリーの門弟であるヨハネス・ゲルソン︵冒冨目窃O①お自︶︵=一一六三−一四二九︶において、﹃法学的意志主 義と神学的意志主義との緊密な諸関係﹄︵象ΦΦ躍9ω9δど轟9α霧冒冨冴魯窪昌叶8ヨ甚8一〇職ω9窪 く○冨筥巽δ日拐︶が、初めて、明瞭に現れる。また、ゲルソンによれば、﹃善﹄︵○旨︶は、﹃神の意志の一つの機 能﹄︵o冒①閃巨辟一8α8讐卑象9窪≦自①霧︶であり、神が別の決定をしようとするとき、まさにその瞬間に倫 理的諸原理︵象①9岳ω魯窪零一目σ一窪︶が変わる。﹃神が禁止しないときは、何ものも悪ではなく、神が是認しな いときには、何ものも善ではない。また、神が我々の行動を意志し、或いは、是認するのは、我々の行動が善で あるからではなくて、神がそれを是認するから、それは善なのである。そして、同様に、神がそれを禁止し、か ︵5︶ つ叱責するから、我々の行動は悪なのである。﹄。この為には、ユウェナリス︵冒く窪巴︶の言葉である﹃我はかく 欲する、我はかく命ずる、我が意志が道理に代わらんことを﹄︵巴oく○すω8冒げ8琶ε8轟鼠o器<o冨づ$9以 外の他の根拠を示すことはできない。﹃神は、神の法律のあらゆる問題において、神の権威が、如何なる古来の哲 学理論よりも多く妥当することを欲する。また、﹁主人がそう言います﹂︵U段霞Φ巨R鍔讐8ω○︶と一般にも 言われるように、根拠として、﹃行動する者の力、命令する者の権威﹄︵9①寓碧辟号ω=碧号一民Φめ仁民象① ︾暮○葺器けα8ω餓①巨Φロα窪︶で十分なのである。﹄。 ローマ法世界の概念が、固有の様式で、意志主義を正当化するために、福音書︵国く碧鴨巨ヨ︶の言葉と結び付 131ハンス・ヴェルツェルの自、然法論伍)〔中世首,然法諭/ くのである。 ﹃神自身の諸特質﹄︵象o田鴨笏o冨津窪09け8器ε8が、﹃法世界の概念﹄︵評讐崖①αR勾9耳ω妻o一け︶によ って表示されたのちには、神学的意志主義を法世界に移し換えることは如何に自然に思い付かれることであった ︵6︶ かを、ゲルソンの諸命題は示している。 なお、十五世紀の終りに、オッカムは、最も忠実な支持者の一人として、ティユービンゲンの神学者であるガ ブリエル・ビール︵O魯鼠色田9︵一四九五 死︶を得た。ビールは、なかんずく、ルッター︵い仁浮R︶への影 響で歴史上重要な人物である。ビールもまた、全くオッカムの意味で、﹃あらゆる正義、正当性の基準は、事物そ れ自体ではなくて、神の意志である。﹄︵室o窪9①U営鴨器浮2”ω○巳①旨Oo辞8白旨Φ凶雪9の勾畠の一巴一R OR8拝蒔ぎ津§α匹9け蒔ぎεと説くのである。﹃たとい、人が、﹁神といえども正しい理性に反して行為する ことはできない﹂と異議を述べるとしても、それは恐らく真実であるが、しかし、正しい理性は、それが神の外 なる事物に関するかぎりで、神の意志なのである。神は拠りどころとする他の基準を全く持たず、神自身が、偶 然なる万物の基準︵9Φ勾畠巴巴一Rぎ耳ぎ閃Φ旨9U営鴨﹀である。それゆえに、神は、あるもの︵Φけ≦器︶が正 義︵おo辟琶α㎎R8辟︶であるから、あるものを意志するのではない。神が、あるものを意志するから、あるも ︵7︶ のは、正義︵おo拝琶α閃段8拝︶なのである。﹄。 オッカムは、反名目主義のスペイン後期スコラ哲学派︵象Φきけ言o巨轟房冴o冨ω冨巳ωo冨ω冨象ω畠○一霧け涛︶ の中心においてすら影響力を及ぼすことができた。此処では、スペインの法律家︵αRω冨巳零冨冒ユ8フェル 132
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ディナンド・ヴァスヶ︵問R&壁且<mω29︶︵一五六六頃 死︶が、本来の名目主義と後期世俗的自然法︵母ω 8器8お胃o鼠器Z簿瑛ぺ9算︶︵グロティウス、プフェンドルフ︶︵05鼠拐㌔亀Φ巳○きとの間の媒介者︵国民畠− 一一8︶となった。 フェルディナンド・ヴァスケは、ドミニコ修道会士ドミニクス・ソトー︵Uo日巨ざωω08︶︵一五六〇死︶の 友人で支持者であり、ソトーはフランツ・フォン・ヴィトリアス︵男轟目<9≦8ユ錺︶の門弟としてスペイン におけるトマス主義後期スコラ哲学を共に築いた人物であるが、ヴァスケは、﹃自然法の基礎付け﹄︵象①O霊巳①讐漏 8ωZ餌ε員①魯琶のために独特の方法でトマス理論でなく、オッカム理論に立ち帰ったのである。ヴァスケは、 まさに、実務的法律家︵冥畏募3R甘冨¢として、﹃自然法の究極的に非合理な根拠﹄︵一Φ旨島魯一霞畳9巴①ω O毎民8ωZ簿仁旨8辟ω︶を恐らく深く確信した︵江蝕器げRN窪讐︶のであろう。神の神秘︵O魯①一臣巳ωωΦOo辞8︶ に踏み入るのは人間に禁じられていると考え、それゆえに、﹃自然法の究極の根拠は不可思議な神の意志である﹄ ︵Uo二の訂80霊&αRZ餌9お8の92馨αR目R8H零窪9Φ≦竃①Oo98︶と考えた。﹃我々が現在利用し、し ばしば十分に乱用する自然法は、神が我々に刻み付けたから善︵閃旨︶なのであり、若し神に反対の法︵鼠ω 鴨鴨耳巴蒔Φ勾9拝︶を規定する意志があれば、神がそれを与えたという理由のみで、この反対の法が善であろ う。﹄。 ﹃人間相互の殺人を非難しないで許容することを、誰が神に禁止すべきだろうか? ピタゴラス学派は、まさし く、人間が動物を殺すことは、決して許されないという意見であった。人間が、後に意見を変更して、動物を殺 133ハンス・ウ’エノレツェノレの自、然法論伍フ‘中世自.然法論ク すことは許されると考えた。神の促しによるとも、なおも意見を変えることはできないし、いわんや、相互の殺 人が許容されると考えることはできないと、誰が禁止すべきであろうか? 神は、神を憎むことをすら神の気ま ︵8﹀ ぐれから命令して、人間にその気を起こさせることができたであろう。﹄。 一見すると、フェルディナンド・ヴァスケは、自然法のあらゆる基礎を奪ったように見える。しかし、彼は、巧 妙な方向転換によって、彼の道を自然法の軌道の中へ戻し進めることができると信じている。ヴァスケは、まこ とに、自然法の客観的存在を破壊する。しかし、現象的には︵9器目ヨ窪巴︶自然法をずっと存続させるのであ る。彼は言う、 ﹃自然法とは、神が生得に根源的に︵<900ぎ旨巨αdお胃目晦︶人類に付与した﹁正しい理性﹂ ︵島①お畠鼠くΦ旨巨ε以外の何ものでもないと我々は学んできた。それゆえに、神自身が﹁反対の理性﹂ ︵鴨鴨昌①旨鴨くo導§εを我々の精神に生まれつき付与するならば、それに相応して、それが、自然法であろ う。自然法は、﹁我々の理性の生得の形式から﹂︵きωαRき鴨σoお器閃9日琶ωRR<①旨§ε結果する﹁善と 正義との現象的表現様式﹂︵&①9器ぎヨ窪巴①卑零冨営琶鵯≦Φ露8ω○暮窪仁巳O霞8浮窪︶である。我々の 理性のこの形式が若し別のものであれば、我々にとって、法と正義︵寄魯言巳OR9辟蒔ぎ一け︶もまた、別のも のとして現象する︵習8おRω魯①ぎ9︶であろう。﹄。 フェルディナンド・ヴァスケは、それゆえ、﹃現象主義的自然法理論﹄︵皿房9器目B9呂呂ω3ΦZ鉾葺お魯邑? ぼo︶を代表し、この理論は、以後の時代にも一度︵Φ営ヨ餌凝︶存在した。それ自体で存在する自然法の破壊の後 に︵Z碧げαRN段馨8霊畠Φ一話ω、.きω一魯、.σoω8箒且9Z讐⊆霞Φo辟ω︶、ヴァスケは、﹃我々のために存在する自 134
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然法、我々の現象世界のために存在する自然法﹄︵Φ営.、甘R目ω、、猟q段琶紹お田ω魯色壼⇒暢≦警<o浮き8器ω Z緯貫お畠琶の展開の可能性を、この現象主義に︵&8R勺冨90ヨ9巴一ωヨ諾︶あたえるのであるが、その自然 ︵9︶ 法の内容は、本質において、トマス主義スペイン後期スコラ哲学の將内に組み込まれるものである。 ②オッカムの理論のこの広範囲な影響にもかかわらず、しかし、すでに早くから、オッカムの自然法の見解 の中で、オッカムの反対者︵O紹器おo冨εが、しかも、固有の名目主義者の陣営の中で成長した。 アウグスチノ修道会総会長︵>罐⊆ω氏器お窪R匙グレゴル・フォン・リミニ︵9畠興<9匹営巨︶︵;一五 八 死︶が、歴史的には特に重要である。グレゴル・フォン・リミニは、また、ウイルヘルム・フォン・オッカ ムの同時代人であるが、名目主義の概念論をアウグスティヌスの思想と結び付け、そして、まさしく、自然法に おいて、アウグスティヌスの助けをえて、極端に意志主義的な諸命題を理想主義的な常態に戻そうと試みたので ある︵9①①曇お目<9⋮貫ユωけ置魯窪↓箒ω9こΦ巴一雪一ω畠筈豊♂轟窪く段聲畠け①︶。グレゴル・フォン・リミニ は、ドンやオッカムの場合に放棄された﹃永遠法の概念﹄︵ωΦ鴨痒8二突器け震ロ曽︶を、アウグスティヌスから 再びとりあげて、﹃あらゆる罪は永遠法に抵触する﹄︵巴一①ω器民Φ鴨磯窪3ωΦ註鴨08①訂<Rω8ω器ロ︶とのア ウグスティヌスの定義︵U&且寓自︾瀬島菖諺︶から、﹃罪の行為は、永遠法により禁止されるから、それゆえ に、罪は罪なのである﹄︵島Φω器区①量霊目ω⊆窪血①ω旦妻巴塗ωω器巳魯織け①<o浮巴け窪α貫3α器Φ謁鴨 ○①ωΦ訂<①吾99ω9との命題を結論する。グレゴル・フォン・リミニは、それによって、実際まず第一に、完 全に意志主義的な方式に︵豊Φ営R身8σ諾<○一琶け巽搾冨畠窪男自ヨ9達するが、しかし、彼は、この意志主 135ハンス・ヴェルツェルの首然法論飼(中世自然法諭 義を、法律の概念の中に二つの機能を区別することによって変化させる︵量α貫魯h器ωRぎ㊥畠﹃崖8ω08Φ旨8 N巧Φ一閃毒埣一9窪琶8お魯①一α9ぎ庄畠窪︶のである。法律の一つの機能は、﹃指示機能﹄︵.、彗器置窪8、、男毒下 瓢9︶︵一輿ぎ&8賦毒︶であり、この意味の法律は、あることが﹁善或いは悪、正義或いは不正義、賞賛に値する か或いは非難に値するか﹂をただ指示するのである。法律のもう一つの機能は、﹃命令の機能﹄︵げ①8巨98男§下 餓9︶︵一窪言需声江轟︶であり、ここでは、法律は、上位意志の服従意志に対する作為不作為の命令︵α段国臥①巨 ︵−o︶ Φ営8垢げR鴨oこ器冨昌≦一一一窪ω餌口α90旨R鴨げ9ΦPのけ≦霧釜日づoα段墜仁耳R一霧ω窪︶である。 今、罪を永遠法に対する背反と定義するとき、人は、法律︵○①ω簿N︶を、ただ、最初の意味において、それゆ え、指示法︵一霞営蝕畠鉱話︶として理解することが許される。そして、この指示法に背反する者は、たとい神が その趣旨にそった命令を全く発していなかったとしても、罪を犯しているのである。 それゆえ、倫理的価値賓辞︵倫理的価値を示す述語︶︵&①簿島魯①≦R8惹Φ9冨8︶は、神の意志の中におい てではなく、﹃神の理性としての永遠法の中において﹄︵言8二與器8ヨ蝉巴ω号﹃冨江o&証臣︶根拠づけられ ︵幕鴨器&9巴且︶、かくして、グレゴルは、さらにそれを超えて、﹃永遠の法は、神の理性として、必然的に常に 正しい理性である﹄︵U霧①註鴨○ΦωΦ旨馨巴ω磯09島9ΦくΦ﹃づ巨津⇒9≦9α蒔ω8冨同①畠9くR壼蔑父おo冨 轟江o︶︶と言うに至るのである。 それゆえに、いままでどおりに︵冨美o日ヨ一一畠︶、罪は、正しい理性に対する背反として︵巴ωくRω8ωωαQ罐9 999拝①くΦ毎琶εまさしく定義されるのである。そして、しかも、グレゴルが鋭く強調するように、罪は、絶 136
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対的に、神の理性としての理性に対する背反としてではなく、正しい理性としての理性に対する背反としてのみ 考えられるのである︵ぎω○一暮鴨ぎ目目窪5霞巴ωくR雪8ω鴨晦9&Φく①彗目ヰ巴ωおo窪①<①旨§控巳o算巴ω 讐9島鼠①<Φ旨⋮ε。罪は、神的である限りの理性ではなく、正しい限りにおいての理性に対する背反である ︵n︶ ︵ω器&巴ωヨ一。9<Rω8ωω鴨ひQ。目9①<①露⋮津るo藷淳ω一①閃oΦ巳一。げる。邑①毎ωo壽騨ω一①旨げ凝一ω什︶. ﹃何となれば、神の理性も神自身も存在しないという、或いは、神の理性が誤りに陥るという、不可能な事態を 仮定してみよう、それでも、天使、或いは、人間或いはその他の、正しい理性に背反する者は、罪を犯すことに なるであろう。いやそればかりか、他には正しい理性は全く存在しないと仮定してみても、何かある正しい理性 が︵それは存在すると仮定する︶為すべきことを厳命するとき、それに背反する者は、罪を犯すことになろ ︵皿︶。。 う﹄ グレゴル・フォン・リミニは、この有名な、次の時代に多く引用されたり変容された言葉の中で、倫理的価値 の妥当を、仮定的に、神の存在から︵しかも、神の意志のみならず、どんな場合でも神的理性である神の理性か らも︶独立なものとし、天使、人間、或いは、その他の者の﹃奇異に多数な正しい理性の中に﹄︵ぎ虫器ωΦ一叶鋸B① ≦2冨津<9おo$貧簿一98︶完全に移し換えたのである。これら正しい理性のすべて︵巴一Φ&Φ器お9器声瓜o器ω︶ が、同一の対象に関して一致しなければならない限度において、これら正しい理性はすべて、客観的な核を︵Φぎ窪 o豆葵江く窪囚Φ旨︶持っているとしても、これら理性が、主観的要素を︵Φ冒ω暮言醇貯8ζ○ヨ①暮︶含むことは 紛れもないことであるところ、この主観的要素を、十六世紀になって初めて、ガブリエル・ヴァスヶ︵○魯ユ巴 137ハンス・ヴェルツェルの自、然法論伍)ぐ中世自、然法論ク く器2爲︶が、倫理的価値を、意志でも、理性でもなく、合理的自然自身に︵ぎα段轟什δ口巴窪Z簿仁﹃器ε豊 根拠付けることで除去したのである。 かくして、まことに、グレゴル・フォン・リミニの指示法と命令法との区別および神を仮定的に括弧に入れる 方法的思考実験︵Oお碧おO艮Rω魯皿3づ閃窪αR一窪ぎ98胡⊆民一與冒冨声冨巨α器ぎヨ9び09ω魯8 0①量艮窪①巻R凶旨Φ導α震ξ8跨&ω9窪固爵一蝉日ヨo蚕躍Oo辞8︶は、自然法の自律化︵︾昌目o巨ω冨三鑛 q①ωZ魯自お畠邑の過程における重要な前段階︵くoおεけ︶であるが、しかし、主観的混入物が、まだ、グレゴ ルを後期スコラ哲学の自律的価値客観主義に︵墜号Bき89ヨ窪≦R8げ㎞o葬三ωB器α震9器訂oびo一器け涛︶至 ︵13︶ らしめなかったのである。この道を、初めて行くのは、十六世紀のスペインの後期スコラ哲学者たちである。 すでにこの学派の創設者、ドミニコ修道会士︵αRUo目慧犀R︶フランツ・フォン・ヴィトリア︵牢きN<2 く一け自§︵一五四六 死︶は、ガブリエル・ビールに反対して、独特の鋭さで、﹃神は事物の自然を変更すること はできないと思う﹄︵Oo暮9①Z餌ε﹃α段9轟Φ急o辟器&Φヨκo①巨Φ︶、﹃それゆえに、また、事物の自然から 善であり悪であることは、神によっても左右されるものではないと思う﹄︵塗霊旨<9浮ヨき魯巳魯什筈匡鑛ρ 名器磐ω器営RZ讐年げR蝉諾閃暮aR零巨9算馨︶という思想を表明した。 ルドヴィッヒ・モリナ︵U&≦蒔寓&鍔︶︵一六〇〇死︶は、ヴィトリアの後を継いで、﹃自然法の義務付け は、対象物自身の性質から発生し、ここから拡大して法律となる﹄︵象ΦくΦ壱霞99轟8ωZ四ε員9辟ω碧ωαR Z簿弩号ω○豆①耳ω器ま馨窪富9冨⊆且巴畠<9霞R豊BOo器けNR≦Φ評R$︶と言明した。 138
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まさしく、﹃事物の自然﹄︵困讐霞α霞ω碧冨︶からの義務付けの生成こそ、モナリにとり、﹃自然法の試金石﹄ ︵3ω因葺R冒日留ωZ鋤9旨9耳ω︶であり、﹃義務付けが事物の自然から成立し、その義務によってあることが命 じられ、或いは、禁止されるのは、そうなることがそれ自体必然であるから︵例えば、困窮にある人を救済する 義務のごとし︶、或いは、それ自体不法であり悪であるから︵例えば、窃盗、姦通、詐言のごとし︶であるとき、 ︵14V かかる規定、或いは、禁止命令は、自然法に属する。﹄と述べている。 ③﹃価値客観主義﹄︵αR譲R8豆Φ辟三ω営仁ω︶は、ガブリエル・ヴァスケ︵〇四ぼ芭く霧2臼︶︵一六〇四 死︶によって、初めて、頂点に登りつめた。 グレゴル・フォン・リミニとの批判的論争︵ξ庄零冨︾参色鍔民①同器言琶磯︶において、ガブリエル・ヴァスケ は、理性︵冨氏o︶の概念に潜む最後の主観的混入物と闘争し、それゆえ、彼は、命令法と指示法との区別にも満 足せず、﹃悪は、あらゆる命令法以前のみならず、あらゆる指示法以前にも、それ自体が悪である。﹄と言う。﹃何 となれば、事物は、神によって認識されるから可能であるわけでもないし、その性質を持つのでもないように︵た とえ、神の知恵は、万物の最高のものとして、可能な事物そのものを想定するとしても︶、神の知恵は、事物が可 能であることを実現させるものではないからである。同じ理由から、如何なる罪︵ω器且Φ︶も、神が罪として認 識しているから罪︵単なる可能な存在においても︶であるのではなく、罪は﹃それ自体において、しかも、どこ か別の場所から﹄︵き忽畠⋮α<9碧αRω妻oげR︶罪であるが故に、可能な罪として神により認識されるのであ る。神の悟性︵Oo辞8<Rω鼠且︶は、たとえあらゆる正しさの基準︵α角蜜器ω雲ぎ巴一①ω困o窪蒔窪︶であると 139ハンス・ウヒルツェルの自然法論伍)仲世自然法論ク しても、しかし、悪が生じる禁止の最初の根源でも根拠でもない︵巳o辟島①Rω器巧霞NΦ一⋮ααRO霊&α8 く①吾9ω如諾8ヨ9Φω魯一9拝蒔臣一9暮ω9耳︶。何となれば、仮に、神がその様な判断をせず、しかも、我々に 理性が変わらずに存在するという、あり得べからざる事態を措定してみると、しかし、罪もまた、変わらずに存 在するであろうからである、しかも、ある事は、必ずしも、神により罪と認識されるから罪であるのではなく て、その逆であるから、罪は変わらずに存在するのである。神の意志︵Oo辞8≦旨o︶も神の理性︵Oo#8くのヨ目− εも、善および悪の最初の基準︵α段Rω9冒器誘鼠び甘①吋O葺§αω8器︶ではなくて、意志と理性の前に置 かれるもの︵∈崔胃ごω︶、即ち、﹁事物の自然自身﹂︵9のZ再自αR望轟①器一σ8こそ最初の基準である。﹁あ らゆる命令以前に﹂︵<oこ8①ヨωΦけ巨︶、﹁あらゆる意志以前に﹂︵<oユ8①ヨ≦∈窪︶、いやそれどころか、﹁あ らゆる判断以前に﹂︵<○ユ80目dほ巴︶、﹁万物がおのが自然に随って何らの矛盾も含まぬ様な、事物の自然によ り確定する、事物の行動の規則が存在する﹂︵讐耳8①営Φ力畠色8ユ9蒔窪寓き色巨鴨P≦Φ一畠①α貫号凶ぼ① Z餌ε汰8富器拝8註①﹄①U日ひQΦ窪巴ぼ段Z讐貫訂轟臣ぎ営9≦こRωR仁魯ぎ巴魯零菖8ω窪︶。しかし、こ の規則︵象8Φ菊畠9は、矛盾を含まない﹁理性的自然﹂︵9①<段壼魯塗鴨Z餌ε同︶自身以外の何ものでも有り 得ない。いわば、規則および自然法としての理性的自然に、善の行動は相応しく︵雪鴨ヨ8ω9︶かつ同化する ︵き鴨笹一魯窪︶が、悪の行動はそれに逆らい︵筈薫色魯窪︶それに似ない︵琶m魯巳凶9︶のであって、それゆえ に、前者は、善と呼ばれ、後者は、悪と呼ばれるのである。結局、理性的被造物における第一の自然法は、﹁理性 的であるかぎりの自然自身﹂︵9ΦZ魯ξ器ヲ聲ω○≦①一富宿<R壼窪往喰8である、何となれば、自然は善およ 140
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び悪のための最初の規則であるからである。︵名Φ自9ΦZ暮霞象ΦR馨①勾①徽巴ビRO旨§α㊥oΦωΦ一ω什︶﹄と言う ︵15︶ のである。 それゆえに、ガブリエル・ヴァスケは、﹃い突﹄という言葉と自然法との結合を完全に排除することが最も好ま しいと願っていたが、その理由は、﹃冨図﹄は常に、﹃精神的行為﹄︵α震鴨馨置Φ︾聾︶︵拾い集める一詔RΦ、選択 する①一蒔RΦ︶を意味するからである。ヴァスケは、﹃冨×﹄として、ただ実定法︵量ω琶ω崔奉勾9拝︶を表示す べく、自然法︵3ωZ蝉ε畦8辟︶のためには﹃冒ω﹄の言葉を留保すべきだと思う。ヴァスケは伝統的な言語慣用 にただ嫌々従うのである。 それでは、自然法は、まず第一に︵窟冒㊤R︶、﹃人間の理性の自然自体﹄︵9①<Φ旨⋮噛9四9同8ω匡9ω魯窪 のΦ一げωけ︶であるならば、第二次的にのみ︵ω魯琶3R︶、神の精神の中に見出だし得るものとして︵巴巴BO位ω房 Oo98冨ゆ民一一魯︶︵自然法を我々の中に設置し定めたのは神なのであるから︶自然法を考察することはできる。 そのうえ、アウグスティヌスの業績︵&①↓簿︾轟諺江拐︶︵プラトンのイデアを神の精神の中に移置すること︶ が、ヴァスケによって、逆行して︵霊①畠鴇9讐閃︶行われるのであり、そして、神はただ、完全に古代の意味で ︵鴇目ぎ彗什詩9ω冒器︶依然として、正しいことの忠告者、指示者にすぎず︵○○辞旨貫き畠勾讐鴨びR⊆pα ≦Φ凶ω段号巽9耳9︶、もはや正しさの創造者ではない︵巳o辟ヨΦぼωΦ営ω38鳳R︶のである。それゆえに、ガ ブリエル・ヴァスケは、永遠法を神の精神の中に存在する理性と理解するかぎり、永遠法︵一霞器8旨蝉︶から自 然法を演繹する︵暮一Φ評9︶ことは、もはやできない。 141ハンス・ヴェルツェルの自、然法論飼(中世自然法論ジ その理由は、﹃理性の自然﹄︵島①<Φ旨仁菖9讐貫︶の本質︵一ぼ①巧のωΦ嘗①δは、神の意志或いは神の判断から 生じるものではないから、﹃理性の自然﹄を、永遠法︵理性能力の意味に理解される永遠法︶から演繹することは ︵16︶ できないからである。 ガブリエル・ヴァスケは、自然法を、﹃その神の名の基礎から﹄︵<9ω①ヨR島83B窪ω霧芭、遠く解放し たので、自然法の完全な世俗化の為には、もはや、さらに数歩すら必要としなかったのである。 ④それゆえに、最も重要な後期スコラ哲学者フランツ・ズアレ︵閃声目留貰臼︶︵一六一八死︶が、理想主義 的自然法の意志主義的自然法に対する闘争が、闘争当事者を導いてこれまでに至らしめたこの結果を前にして、驚 きたじろいだ︵N昌器畠鴨零ぼΦ良江8というのも奇異なことではない。 ﹃自然法が、対象自身の中に存在する悪性を示すのみであるべきならば、仮に神が存在しないときにも、神が非 理性的であるときにも、或いは、神が不正義の判断をするときでも、自然法は、同一の法の力を持たなければな ︵17︶ らない。﹄は、ズアレの有名な命題であるが、この命題を、ズアレは、実際に明示して︵雲豊≡8匹一魯︶、ただ、グ レゴル・フォン・リミニ、ガブリエル・ビール、フウーゴー・セント・ヴィクトル︵=轟○<9ωけ≦99︶に 対して向けたのであるが、ズアレは、より大きい権利をもって、彼の修道士仲間であるガブリエル・ヴァスケを も一緒に含めることができたであろう。何となれば、ガブリエル・ヴァスケは、この命題を事実上定立している のであり、ズアレは﹃神が不正の判断をするときでも﹄との言葉で明瞭に、それをあてこするからである︵これ に反し、ズアレは、ガブリエル・ヴァスケとの本来の対論においては、このことに全く触れていない︶。ズアレ 142
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は、自然法を単に善と悪との指示者︵︾目Φ蒔R︶としてのみ理解するのではなく、﹃命令ないし禁止命令、それゆ えに神の意志行為としても理解しようと欲し﹄︵巴ω039訂奢・く①吾91巴ω○巴ω碧9島魯窪≦ヨ窪ω畏けー <R雪9窪昌εたのであり、その為にズアレが選んだ中道は、しかし、ただ一つの妥協にすぎなかったのであ る。その理由は、ズアレの場合にも、実質において、﹃神の意志は事物の合理的自然に依然として拘束されている﹄ ︵亘色耳Oo辞8≦旨①き蝕Φ轟江o⇒巴①Z讐葺αRU営鴨鴨σ巨8p︶からである。﹃神は、それ自体悪であり、自 然的理性に反するものを禁止しなければならない。﹄︵Oo菖ヨ拐ω量ω<R亘①8P毒霧き巴魯零巨9辟琶α鵬β9 90轟葺Φ島魯①くR壼旨江豊と言う。 ﹃神の意志は、すでにそれ自体存在する善或いは悪にただ、神の法の特別な義務付けを加えることである。﹄︵UR ≦田ΦOo辞①ω費Φ讐α①筥ωoぎ⇒彗巴畠σΦωけ①冨&gの暮窪oαRωo巨①。耳窪壼﹃&①ω℃①﹄巴Φ<①壱旨oプ霊畠αΦω ひQo①什豊魯窪○①器訂8臣目仁︶。固有本来の切願︵鼠ω蝕鷺目践9①︾巳一畠窪︶、﹃如何なる普遍的規則から、合理 的に委曲つくしても取り出しえない個別判断の一回性﹄︵&Φ国ぎ日﹄讐9αR国一農巴①旨零箒置§堕象Φ9 。島ぎぎR 巴飼Φ臣①ぎ2勾畠巴轟戯9巴窪誘魯8鳳窪α﹃R窪紹Φぎ犀零Φこ窪犀き昌︶は、満足されないままである。そのう えに、後期スコラ哲学の自然法の合理主義的構造は、なお遙かにトマスを超えて、︵原理から︶遠く離れた結論︵9Φ 9ヰR旨R9囚○爵冨匹o器p︶をも、本来の自然法の中に組み入れることによって強化されたのである。トマス は、﹃普遍妥当性と不変性の特質﹄︵国蒔窪零冨ヰαR>凝①ヨ皿轟器圧㎎ぎ淳§αqづ≦鱒巳色富詩①εを、ただ、 ﹃最高普遍の第一原理﹄︵ぎ9誇9肩首四冥ぎ9も冨8BB琶δω冒餌︶にのみ与えることを認めたが、それから生 143ハンス・ウェルツェノレの自.然法論伍)(中世自、然法論ク じる﹃諸結論﹄︵内9匹拐一99︶に与えることを認めなかった。 スペイン後期スコラ哲学者は、そのことを拒絶したのである。自然法は、﹃理性的自然自体﹄︵9①奉旨器旨自鴨 Z讐震ωの一σωけ︶であるから、自然法は、その︵第一原理から︶遠く離れた結論でも、いたるところ、同一でなけれ ばならない、あらゆる外観上の差異は、阻害する諸国民の習慣と諸民族の無知にその根拠があるにすぎないと︵ヴ ァスケは︶言っている。 ズアレは、一層正確に、自然観察︵轟9R汗訂田房8辟︶によって認識できる諸規則︵<oおoぼ痒窪︶を、三 つのグループに区別し、一つ目のグループは、最も普遍的な諸原理︵90毘鴨ヨΦ冒雪窪悶ユ昌巴ロ窪︶︵善をなせ、 窪Φ母ωO旨Φ︶、二つ目のグループは、より特定された諸原理︵&Φ幕鋒目B8おp牢営N且窪︶、︵正義をなせ審冨 OR9窪蒔ぎ淳、神を敬えのぼΦ○09、節度ある生活をせよ一ΦげΦ竃器ω巴閃︶、三つ目のグループは、諸結論であ り、その内の一方は、︵姦通、窃盗の禁止のごとく︶より認識し易く、他方は、︵暴利行為、詐欺行為或いは性的 不倫行為に対する禁止のごとく︶より認識し難いと言い、これら三つのグループは、すべて、厳格な意味の自然 法に属する、何となれば、それらは、自然並びに自然の創造者︵d浮Φσ段︶である神から、必然的に発露流出する ︵8け≦①巳蒔冨霞器ぼ自︶からであり、そして、﹃これらのすべては、永遠の真理であるから︵そこでは、諸原理 の真実は結論の真実と一緒にのみ存在できるし、そして、諸原理自体は概念必然的である︶、それゆえに、これら ︵18︶ の規則はみな永遠に持続するものであり、単なる時の経過によって効力を失うことは有り得ない。﹄と述べるので ある。 144
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自然法を脅かす﹃法外な恐るべき硬直凝固状態﹄︵毒閃魯窪お国お蜜瑛巨閃︶を諸限定を加えて︵α貫魯田冨− oぼ器艮目鴨口︶克服しようとする試みが、非常な明敏を以てなされたが、結局成功していない。諸限定のうちの 最重要な限定は、すでに、トマスが用いた﹃法律の形式と質料の区別﹄︵&①d暮Rω号虫身轟<oロ司9目¢巳 匡簿Rδ8ω08①98︶である。﹃法律の質料は、法律の﹁不変性﹂︵営く巽壁自︶自体を損なうことなしに、折々 ︵19︶ の事情により変化することができる。﹄と︵ヴァスケも、ズアレも︶言う。 ズアレは、この思想を、﹃命令自然法﹄︵冒ω づ簿自巴Φ 虞器8讐貯仁ヨ︶と﹃支配自然法﹄︵冒ω ⇒讐瑛巴Φ 3ヨ営讐貯qB︶の区別において更に拡張し、命令自然法は﹃必然的真実として絶対的に不変な行動諸原理﹄︵&① 巴ω昌9≦9&鴨≦餌ぼげΦ一8⇒筈ω○冨江薯巽一碧8口国き色§鵯鷺冒魅且窪︶を含み、支配自然法は、命令自然法の 質料︵象Φ匡讐段芭に該当し、﹃人間の行為によって﹄︵α貫畠ヨ窪零菖3①ヨ︾耳︶、﹃正当原因により﹄︵雲ω σR9窪蒔9日Oε且︶︵窪︺島鼠8仁銘︶変えることができるものである、例えば、﹃本源的普遍的自由﹄︵&Φ ξ8霊轟浮箒巴飼①目巴器孚Φ浮①ε或いは、﹃個人の所有権﹄︵3ω国蒔窪9ヨ8ωΦ冒器一冨p︶が正当原因によ り︵①図冒ω蜜8二錦︶破棄され得るごとくであると言う。 しかし、﹃質料﹄︵&の、、蜜魯R一①.、︶は、﹃任意に交換可能な法律構成要素﹄︵Φ営げ魯3蒔壁ω≦9房5四おω一W窃− 蜜巳ω9Φ良①冒8089N8︶ではなくて、それがなければ、法律は何が為されるべきかについての特定の言表 ︵び①ω鼠ヨヨ8︾諾錦鴨︶を含まないことになる、法律の内容︵H替巴け︶なのである。﹃汝は殺人を為すべからず﹄︵U仁 ω○房け巳o辟899︶との法規︵<9零ぼ洋︶が、殺人全般︵9Φ日8ε鑛器訂浮き讐︶の禁止ではなく、特定の 145ハンス・ヴヒルツェルの自然法論伍フζ中世自然法論ク 事情のもとの殺人のみを禁止するときは、まさに、普遍法律︵3ω毘鴨ヨ虫器08の9︶ではなく、特別な諸事情 ︵象oび窃o邑R窪d日ω貫9号︶が、殺人が許されるか否かを決定することになる。これに反して、﹃汝は不正に殺 人を為すべからず。﹄︵U仁ω色磐巳o拝巨鴨おo鐸︵ω冒①冒ω蜜8仁墨︶8Φ$⇒︶の普遍法律は、﹃正義を為せ、不正 義を避けよ。﹄︵頃き色のおo拝琶α日皿8d員8算︶の普遍法律と同様に内容が空虚である︵一嘗巴邑①R︶。詐欺 禁止命令︵U器鴨奪の吾9︶のごとく、質料︵匡簿震邑が如何なる事情によるとも変更できない場合にのみ、行 動は、法律により一義的明白に︵虫巳窪江閃︶絶対的に︵ぎωo一旨︶確定されることになるが、この場合には、この 法律の﹃例外なき妥当性﹄︵9①き撃魯日ω一〇器○器一けおぎεが、いまや、﹃重大な倫理的疑問﹄︵ω3類R①簿岳o訂 N≦①篤9にさらされるという﹃限定﹄︵o営鴇ぼ器bざ躍︶が伴うことになるのである。 ここに、理想主義的自然法理論の運命が現れている、即ち、この理論が、普遍的諸原理を超えて、特別の諸法 規に至らんとする場合、この理論は、たちどころに、ふたたび、内容の空虚な普遍的諸原理に投げ戻される︵蝉昌 &Φぼげ巴菖ΦR窪巴一鴨目のぎ9牢一目昼9N霞器畠鴨≦o珠Φ⇒︶か、或いは、その倫理的正当性が最高に疑問に値 するとされる規範となる︵鴨一き讐塁Z目目のPα段窪鋒岳9①劇Φお9け一讐轟ぎ9房江轟閃類⊆Rα蒔醇︶のであ ︵20︶ る。 ⑤歴史的に見ると、自然法の拡張︵卑類Φ一什R巨徽︶は、世俗自然法に至る道の上の一つの重要な段階︵巴冨 ≦一〇耳蒔Φ卑8需︶であり、貫徹された自然法体系のための最高原理を求める論争の道が自由に開かれたのであ る。﹃内容においてあらゆる方面で完成された自然法体系﹄︵3巴嘗巴島魯巴一8筐閃き詔3一疑9①Z象瑛お畠房亀ω− 146
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8目︶が、新しい実践的思考動機から、後に続く世俗自然法理論の中心的切願︵匿ωN9霞巴①︾昌罐窪号ほ○薗Φ亭 α9虞O富昌窪Z讐q員8び什巴魯お︶となった。 この新しい自然法の完成には、しかし、なおさらに二つの精神力︵ぎ魯N≦虫≦簿Φお○蝕ωけ8ヨ器o辟Φ︶が決 定的に︵B霧紹①窪魯︶作用したのであり、そして、この精神力は、名目主義の強い影響を受けていたのである が、この二つとは、一方は、﹃宗教改革﹄︵勾駄目B魯一9︶であり、他方は、﹃近代自然科学﹄︵&Φヨ○号彗ΦZ讐自− 謁霧窪零冨εである。 アリストテレスートマス主義的世界像の名目主義における崩壊は、トマスの神学的形而上学の中では絶え問な く連続する段階的発展において相互に移行した二つの国︵&①訂こ雪勾虫畠ρ象①営αR跨8一〇臓零箒ロ冨卑8ξω涛 8ω↓ぎヨ器ぎぎ簿ぎ鼠Φ一一畠Rωε8珠o飼①ぎ虫冨&R器び①お一轟窪︶、即ち﹃神と現世、超自然秩序と自然秩 序、信仰と知識﹄︵Oo辞⋮α≦ΦF器幕導簿自浮冨○巳壼お§α旨㊤ε島魯Φ○こ壼鑛”臼窪げ①巨α≦一ωω9︶を、 ますます荒々しくずたずたに引き裂いてしまったのである。 この断裂︵&Φ器ω冨一ε躍︶が、ヨーロッパ精神の、あの双方の完全に種類を異にする道への通路︵N轟弩閃︶を ︵21︶ 開いたのである。 ⑥ルッター︵家胃けぎ9夢豊︵一四八三−一五四六︶の自然法の見解には︵この見解は、彼の無頓着な専門 用語の結果、一つの体系︵ω器9ヨ︶にまでは総括されていないものであるが︶、彼の﹃神の二つの国︵或いは、神 の二つの統治︶﹄の理論︵ωoぎ①一魯お<8α窪N≦α勾Φ一99︵&R即Φ笹ヨ①耳窪︶Oo98︶が根底となっている、 147ハンス・ウとルツェルの自然法論伍)(中世自然法論ク 即ち、神の右手には恩寵の国或いはキリストの国︵勾α魯qRO墨留&ROぼ一ωε、神の左手には、現世の国或 いはサタンの国︵勾虫魯αR≦窪&R8ωω鼠霧︶の理論である。 双方の国或いは双方の統治に、﹃神の法﹄︵臼巴霞9話轟︶と﹃現世の自然法﹄︵盆ω︵白o匡8箒︶Z簿員目9窪︶ とが対応する。神の法は、﹃測り知れず自由な、窮めがたい神の意志﹄︵α震鴨⋮色8幽虫のヒロR8あo臣o冨薫旨① ○○ヰ8︶であり、ルッタfは、その意志を、名目主義的神学の概念を以て言い表している。﹃神の意志にとって は、神に対して規則或いは基準を定める原因も根拠も全く存在しない︵ぎ営①dあ碧冨巨αぎ冒o昌○ヨ区︶。神 には、等しきもの或いは超えるものは全く存在しないのであるから、むしろ、神自身が、万物にとり基準である ⋮何となれば、神がその様に欲すべきである、或いは、欲すべきであったから、神の欲することが正しいのでは なく、その逆に、神自身がその様に欲するがゆえに、出来事は正しいことであらねばならないからである。﹄と言 う。神の法或いはキリストの法︵象Φ8図島轟富&RδxOぼ一ωεは、﹃神の愛の秩序﹄︵&①○こ壼渥αR 磯o簿岳魯窪口魯①︶であり、それゆえに、根底において︵ぎ○霊且︶、法律︵OoωΦ旦ではなくて﹃神の愛その もの﹄︵&Φ碧魯島9Φ口魯①器ε8である。神の愛は、外的な力を知らず、純粋精神︵お営段○①巨︶であり、 その純粋精神は、﹁内的な﹂人間を︵血魯、.一目段窪.、冨①霧魯9︶とらえて、その人間の全本質を︵ωのぎO弩器ω 白のω9︶神の形相の意志を以て︵日搾Φ冒oB碧葺oRヨ蒔①昌≦三窪︶、即ち神の正義にかなう心情を以て︵ヨ詳 の3RαR碧簿島魯90Φり9耳蒔箒津窪房肩9ぎ昌α窪○霧嘗聲薦︶満たし、その心情から﹃正しい外的行動﹄︵α器 ユo辟おΦ器島器おくの浮巴叶9︶が自ずから︵<9器ε豊生じるのである。 148
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神の愛は、しかし、義人を︵α窪OR8拝窪︶、即ち︵アダムとイブの堕罪の後は︶キリストヘの信仰によって 義とされる人間のみをとらえるのである︵信仰の法︶︵口自α9α自魯α窪O冨仁げ窪碧Oぼ禦諺ひQR9窪置9 ︵22︶ 霞窪ω3窪︶︵一興眺こ9。堕罪︵ω器&窪賦εとともに、人間は、神の法︵一窪9ξ轟︶への参加を喪失した。﹃人 間の最も高貴な魂の財産﹄︵ωo営a色警8ω8一窪く段ヨo畠窪︶である意志︵匹R≦ヨ①︶は、根本的に︵声良惹一︶ 神から離反し、その︵神への関係における︶自由︵象Φ零Φ浮蝕江目<R訂巴9一ωN⊆OOεを罰として喪失した。 人間の神に向かう本性は完全に腐敗した。それゆえに、人間は、神の国の市民︵ω器おR8ω国α魯8098ω︶か ら現世の国の従属民︵C耳R鼠口号ω閃皿38α①﹃≦Φεになった。現世の国は、様々な現象形式の利己心・我 欲︵ω魯窃8窪︶により支配されており、悪魔サタン︵ω鉾碧︶は現世の国を統治し、もし神が人間に﹃自然法の 弱い不明瞭な知らせ﹄︵①ぎ①ω魯≦碧ぽ巨血⋮号暮一一魯①囚目8<oヨZ簿⊆鑛8の§を残し、人間は、その知らせ を、堕落した人間としても﹃良心の声の中に﹄︵営α段即冒目の器営80Φ惹ωω9ω︶持つことがなかったら、サタ ンは、人間を破滅と死の中へ︵言くR8吾窪巨α↓&︶真っ直ぐに導くであろう。 そこで、現世の国においても、﹃自然法或いは共通神法﹄︵①冒Z簿弩おo窪&RΦ営.、鴨ヨΦぎ8ひQo9島魯8 Z雪霞おo辟..︶が成立し、神は、この法を万人の心に、異教徒、ユダヤ人、トルコ人の心にさえも、書き付けたの である︵鴨零ぼ一3窪げ碧︶。ルッターは、それゆえ彼の﹃腐敗した自然︵本性︶の理論﹄︵9ぼΦ<9α段轟ε轟 8﹃霊℃雷︶にもかかわらず、﹃良心、内なる声、或いは自然理性の命令が源泉である真正自然法﹄︵oぎ 9辟8 Z餌9瑛Φ魯計8霧gO器臣3ω○①惹ω器P9Φ汐希おω氏ヨヨΦ&R量ω&o鼠置gβ簿自四房轟江○巳ω一ω什︶を知 149ハンス・ヴェルツェルの自然法論伍1仲世自然法論ク っている。しかし、ルッターの場合は、﹃自然法を人間の心の中に主観的に基礎付ける﹄︵98Φ.、ω暮言耳貯①.、 男巨象①毎轟α①ωZ雪貫お畠冨ぎ=RN窪αΦω匡窪ω魯窪︶点に差異があり、トマスの特徴である﹃自然法を所与 の目的論的存在秩序の中に客観的に基礎付けること﹄︵&Φo豆Φ耳一奉司§臼Rq轟q8Z象仁瑛o魯房ぎ①冒R <○お畠魯窪窪邑8一〇笹ω魯自ωΦ冒o巳崖轟︶に欠けることになるのであり、単に、ルッターの﹃腐敗した自然︵本 性︶の理論﹄のみならず、既に、彼の意志主義的原理︵ωのぎ<o一琶鼠冨房3RO霊邑鐙旦が、ルッターをし て、﹃創造秩序の永遠法の中に自然法を基礎付けること﹄︵9の閃§9Φε轟号ωZ象q員9浮ωぼ①ぎR一象器けo導㊤ αRω魯8鳳巨鴨e身琶閃窪︶を不可能にしたのである。 創造秩序の永遠法の背後には、存在段階の不断の上昇という、アリストテレスートマス的形而上学が存在しな ければならないであろう、そこでは、この段階は、すべて︵最下位の段階から最高位の段階まで︶、自然に︵轟9学 冨ε最終目的に向かい整列される︵餌亀量ωδ言8曽色窪ω閃段8窪9巴巳︶のである。それゆえに、ルッター の場合は、自然の性向の秩序から自然の命令の秩序を推理結論すること︵αRω魯冨ωω<9αRO巳壼轟q9 ぎ9轟賦88墨9﹃巴Φω窪盈80こ壼鑛αRO声①08鈷⇒讐貫巴一蝉︶︵後にいわゆる、存在の類比・有の類比︶︵象① ︵23︶ 8器什Rω○瞬き巴o讐餌Φづ冴︶が、必然的に脱落するのである。似たような理由から、ルッターは﹃自然法とは、 自然があらゆる生き物に教えた法である﹄というウルピアヌスの定義︵9風碧ωU魯巳賦自<oヨZ簿霞おo算巴ω αΦヨ勾①o拝量ω象ΦZ讐霞巴一Φ一Φ常妻①ω窪鵬o一魯旨げ簿︶に鋭く反対する。﹃当為﹄︵量ωω亀窪︶は、法の本質 的要素︵3ω≦8窪器一①目Φ日号ω国9窪ω︶である、即ち﹃あらゆる法の中には、債務が存在しなければならない﹄ 150
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︵冒巴肛日勾9辟ヨ諾ω3ωU魯9紹営︶、人間以外の自然は当為を知らない︵&①貰霧段日窪零巨一3①Z魯員ぎ目け 3ωω○一一窪巳o窪︶、﹃五と三は八であるべき︵ωo=9︶であるのではなくて、おのずから八なのである。また、人 は、豚に対して、食べるべきである︵①ωω9ωoεと言う必要はなく、豚は命じられなくとも食べるのである。﹄と 言・つ。 トマス主義の形而上学においては、﹃存在と善は交換できた﹄︵量ωの房⊆&号ωぎ萱目<R鼠器。拝妻①巳窪 ︵24︶ パ9耳9︶のであるが、いまや︵そして続く時代にとっても︶、﹃存在と当為﹄︵ω①冒琶αω色窪︶は、拒否的に対 立して現れる︵ωoぼo諏窪ωα轟aR霞のδ窪︶。この当為︵島8窃ω色窪︶︵並びに当為を把握する能力、即ち理性︶ ︵ω○妻凶①象Φ閃器圧讐①F8豊<①琶魯ヨ窪︵α﹂﹂δくR霊pε︶は、同時に、人間をその他の被造物的自然から 高く超出させるのであり、﹃人間は、まさに主人として、自然法則によってもまた、他の家畜、野獣たちから区別 されており、また人間には、他の動物にもまして、良きもの、卓越したものが生得に付与されている。﹄︵とルッ ターは言う︶。 ルッターは、自然法の内容は、黄金律および十戒の第二表の中に方式として表現されている︵ぎ傷ROo匡窪窪 勾畠①一§α冒儀9N類Φ津窪↓臥巴α8U魯巴○暢8﹃ヨ一δ昌︶と見ている。自然法の効力︵OΦ一窪鑛︶は普遍的 ︵琶オR錦一︶であり、即ち、自然法は、キリスト教徒も非キリスト教徒も︵Oぼ一ωけ9§α客3aぼ一ω叶9︶等しく ︵笹α9Rヨ器ω窪︶包摂する。自然法は、まさしく、異教徒、トルコ人もユダヤ人も、必然的に守るべき︵冨一叶9 目拐ω9︶﹃共通の神の法或いは共通の自然の法﹄︵α器鴨目①営ΦひQo9島30&R鍔9Φ島畠①勾9窪︶であり、別 151ハンス・ウ’エノレツェノレの自然法論伍)ぐ中世自然法論ク ︵25︶ の方法で現世の平和と秩序︵閃ユ8窪目α○巳壼轟営α震名oδであるべきものである﹄︵とルッターは言う︶。 ルッターにとってもまた、人間は、共同社会︵○Φ目①冒零冨εを作るべく自然により規定されている。自然法 を具体化する場合、﹃理性と自然の悟性﹄︵9①くoヨ目津§ααR墨εΦ議魯ΦくRω貫鼠︶が、﹃決定する言葉﹄ ︵号ω①昌ω9Φ崔窪8≦雲け︶を話さなければならない、何となれば、この二つ︵理性と自然の悟性︶は、﹃法律の 心であり、女王であり、あらゆる法が流れ出る泉である﹄︵幕こΦ匹且舞ω頃①嵩仁且αδ囚巴ωRぎαRO霧①9ρ 良Φ卑彗B器拝母声器”臣菊9耳ΦぎヨB窪§Ω自凶8ω窪︶からである。﹄︵とルッターは言う︶。しかし、この 二つは、すべての人に、等しく意のままになるものとはいえず、何よりもまず、﹃特別に優秀な不思議な人々﹄︵蝕Φ ω9αR浮冨ゑq民R一窪琶、﹃︵キケロが述べたように︶神の霊感無しには行動しない偉大な統治者および立法者﹄ ︵鴨。ωωΦ=霞ω魯R巨α○のω①g鴨σ9最ー&①Ω。R・鴨ω餌讐冨丁旨拝ω冨鑑一鋤ε一。ぎの田鑛①σ琶磯く目 ○○貫冨&Φεにして、はじめて、この二つを意のままにすることができる︵とルッターは言う。︶現世自然法︵U霧 妻①匡8冨Z簿自おo辟︶は、もっぱら、﹃時世の上の幸福﹄︵量ω器匡8箒≦〇三︶︵α凶Φ包§鼠ωどB餌轟︶に限ら れるものであり、﹃永遠の幸福﹄︵o&鴨ωΦ凝竃ε︵ぽ碧一εa器器葺帥︶には何らかかわりがない。まさに、そ れゆえに、現世自然法は、神について何も知らない異教徒のためにも妥当するのである。その﹃外的秩序と現世 法﹄︵90器拐器お○巳壼轟⊆⇒α母ω壌色島9Φ勾Φo耳︶は、﹃神なき神の秩序﹄︵の○簿80巳壼藷9器09け︶で ある︵ラウの言葉︶︵U碧︶。その秩序の中に、神はただ隠れて働いている︵凶目くΦ吾oお窪9蓋詩墨ヨ︶のみで ある。それゆえに、ルッターもまた、自然法のために、﹃神を仮定的括弧の中に入れる﹄︵ざ日巨言ΩΦぼRξも9の窪び 152
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畠窪国冒匹蝉ヨ日①≡轟098ω︶ことになり、﹃汝は、いま次のことを聞いた。支配者︵○竃詩Φεは、監視を為 し、勤勉であり、職務にふさわしいことは全てを為し、城門を閉じ、戸口や城壁を守り、胸甲を身につけ、貯蔵 物を蓄え、そして、﹁あたかも、神はまったく居まさず、身自ら救い、身自ら統治せざるを得ないかのごとくに﹂ ︵巴ω難器お冨ぎ○○暮量二pαヨ諾馨窪巴畠器庁雪R﹃Φ辞窪目α器ま馨お讐RΦづ︶身を処するべきであるという ︵26︶ ことを。﹄︵と言う︶。 現世の法の任務︵象Φ>鼠覧冨号ω≦色艶oび窪勾9窪窃︶は、﹃堕落した人間の自己愛﹄を︵α窪鋤唐薯ω鼠8ω 鴨鼠一一窪窪匡窪ω魯窪︶抑制の將内に置き、﹃生活維持の秩序を作ること﹄︵①ぎΦ国浮巴ε鑛ω○巳ε鑛塁零冨ヰ窪︶ であり、﹃現世の統治の仕事と名誉は、野獣から人間を作ること、そして、人間が野獣にならないように、人間を 維持すること、これである。﹄︵︾一ωo凶ωけ号ω奢巴良魯9勾Φ笹目①昌8ω≦①詩毒α国ぼρ量器8鎧ω≦ま9目Φお昌 冨①房畠窪目碧拝葺づα匡窪ωo冨昌Φ旨器F母霧ωお巳o洋&匡①目Φお≦Φ巳窪︶︵とルッターは言う︶。ルッター の法概念の中には、暗い﹃腐敗した自然︵本性︶の人間学﹄︵︾旨ぼ80δ讐①α段昌簿Ω轟8旨唇鼠︶とともに、﹃強 制と刑罰の暗い厳粛さ﹄︵匹R身88お国毎ωけαΦωN≦習鴨琶ααRω霞駄Φ︶が現れている。現世の法は、﹃ほとん ど厳しさそのものであり﹄︵貯ω30≦色巴ωωq織包、それは、﹃神の怒りの模写﹄︵卜喜ま8ω讐簿島畠①昌NO毎Φω︶ であり、それゆえに、﹃怒りの法﹄︵一突罵器︶である︵とルッターは一言う︶。ただ、キリスト教徒の為にのみ、こ の暗い表象が明るくなるが、﹃自然法がキリスト教徒のために効力を失うのではなくて、自然法の強制的性格が消 え去るのである。何とならば、信仰により義とされることによって、完全な神の愛および隣人の愛としてのキリ 153ハンス・ヴェルツェルの自然法論圃(中世首然法諭 ストの法の意味が、キリスト教徒に開かれるからである﹄、それが、神の右手の光炎輝く法律の意味であり、神 ︵27﹀ の左手の、すなわち、︵神の︶外の現世の国にある全法律を、統治すべき愛の法律、愛の精神である。 ルッターの自然法の言説は、自然法の根拠を、﹃目的論的に理解される人間本性に﹄︵四鼠 四9邑8δひqδoげ <Rω$邑Φ器≦8窪ω富9目8ω匡窪ω魯窪︶置くことを拒絶する点において、さらに、そのことと連結して、﹃存 在と当為﹄︵ω①営§qω亀窪︶の間を鋭く区別︵ω島貰8↓お目琶閃︶する点において、さらに、自然法は人間の 現世の幸福に限られるものとする点において︵ぎαR閃紹お自巨閃留ωZ曽9員9洋ω曽亀母ω器三一〇冨≦o包8ω 匡9ω畠窪︶、最後に、この思想の中に含まれている﹃神なき神の秩序﹄︵Oo簿80巳壼鑛畠器09什︶の思想の点 において、﹃後の世俗自然法の本質的構成要素﹄︵&①≦8窪岳畠Φ閤○ヨ宕器旨窪8ωω冨9R窪器魯包巽9 ︵28︶ Z簿貫おo窪ω︶を含んでいる。 この場合、この世俗化の過程︵98段ω器ざ一巽芭震⊆轟888ωω︶は、必ずしも同時に、﹃自然法のキリスト教 からの離脱﹄︵国導oぼ凶ω島oど亮8ωZ簿彗お畠けω︶を意味するものではなく、この過程は、まずもっぱら、法を ﹃この︵現世︶生活の誠実公正を目指す現世事項﹄︵①ぎ≦巴島魯9轟餌亀α一〇勾①9房3緯け浮簿&①器ω一害Φ房︶ として限定すること、︵ドンが既に説いたように︶最終目的達成のため必然的要件︵き什≦窪象鴨く8拐器旨q畠甘R &Φ国鼠廊⊆轟号ω国民臥①◎ではなく、﹃神の外なる事柄の秩序﹄︵臼Φ○巳壼轟αR器諾器お○Φけ岳号窪U営鴨︶ として限定するものであることが明らかとなってくる。 ルッター派︵[仁島R言日︶の内部における自然法の発展には、メランヒトン︵冨Φ一墜魯夢9︶︵一五六〇 死︶ 154
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が、ルッター自身よりも、はるかに強い影響を及ぼした。メランヒトンは、しかし、ルッターと異なり、アリス トテレス的自然法に再び結びついたので、ルッター派正教︵象①冨浮R一ω魯①○旨げ&o箆o︶では、十七世紀末ま で、トマスおよびスペイン後期スコラ哲学の指導者たちもまた、承認された自然法の権威者︵象①き①蒔彗旨窪 P魯霞お魯島魯窪︾暮o葺器け9︶となっていたのである。 プゥフェンドルフ︵ω蝉B器一勺鼠の鼠oら︵一六三二−一六九四︶は、この﹃ルッター派正教のアリストテレス !トマス的スコラ哲学﹄︵90巽奪9Φ房畠−跨o巨凶ω魯Φω畠o一器け鱒8二仁浮①ユω魯90旨ぎαo圏①︶に対抗して、ル ︵29︶ ッター自身を引き合いに出さねばならなかったのである! ⑦カルヴァン︵冒冨目O巴<ε︵一五〇九−一五六四︶も、彼の法思想により︵α畦魯ω①ぼ①勾9算ω彗ω− o訂量漏9︶、ルッター以上に強く直接に、自然法のさらなる発展︵≦Φ評①お旨&o冠⋮閃︶に影響を及ぼし、しか も、単に、国法的−政治的領域のみならず、﹃本来の自然法的分野﹄︵量ωの蒔窪岳魯富言瑛Φ魯岳o冨評恩自身 にも影響を及ぼしたのである。カルヴァンは、ルッターに似て、あらゆる法の根源を﹃根拠なき神の意志の中に﹄ ︵巨讐巨隻8窪≦旨900辞8︶見る。﹃正義の最高の基準は神の意志であり、そして、神の意志することは、神 の意志であるとの理由から、正義として引き受けられねばならない。﹄︵9Φo幕お8国畠①こ段OR8窪置ぎ一江ω什 αR≦白ΦOo辞8﹄昌α≦霧R≦旨㍉ωけα巽仁目”毒①出R窃≦一F餌尻鵬R8辟霞目仁冨げヨ窪︶︵とカルヴァンは言う︶。 ﹃神の意志は、常に秩序ある意志であり、そして秩序ある意志として、法の根源である﹄︵UR≦旨Φ09冨巴馨ω8房 鴨。巳冨§ぎ頴⊆巳器鴨oこ器§爵O琶一①8ω寄畠邑︵と言う︶. 155ハンス・ヴェルツェルの自然法論伍1(中世自然法論ク カルヴァンは、︵おそらく、﹃神の絶対的な力﹄の思想によって、恣意的な行動︵Φぢ≦旨ざΦ岳魯8=四p8ε が神の所為とされることを危惧したのであろう︶﹃神の絶対的力の思想﹄︵○Φ量葵窪αR冨9日冨U①冨房oピ蜜︶ を断固として排斥する。しかし、神は、神の行動の法律︵&Φ08簿器器ぎ8=きα巴諺︶に拘束されることな く、現世秩序を超えた主︵=①瑛磐魯器び段象Φ○巳p⋮磯αR巧oδである。法律家︵甘ユ豊カルヴァンは、 神の行動の諸規則を破ることができる神の﹃絶対的力﹄︵唇8旨鑓ぎω○冨鼠︶の代わりに﹃法の範疇﹄︵お畠島90 囚讐畠○ユの︶を置くのである、即ち、﹃神は至上の王であり﹄︵Oo什江雪ω2<震器⇒R属㊦昌︶︵8く2賓ぎ8 ω2<①轟包、﹃神は最上の力を持ち、その力によってあらゆる法律の上に立つ。﹄︵R﹃鉾&①雲Bヨ㊤℃98蜜ω讐 <RB8鴨α段窪R器げR餌一一窪08Φ旨窪ω区辟︶︵と一言う︶。﹃絶対的力﹄︵℃98鼠書ωoピ$︶の概念に代えて、 ﹃法律から自由な元首﹄︵冥営8冨一βま拐ωo一旨島︶という﹃ローマ法の命題﹄︵α角8①昌零▽お畠島o箒留9︶ が現れ、あらゆるあの︵ローマ法の︶法学的方式︵﹄ε9①冒ユω蔚魯窪閃a日Φεが一般的に現れ、その法学 的方式によって、カルヴァンの同時代人であるジョン・ボーダン︵富碧国&ε︵一五三〇ー一五九六︶が﹃主権 ︵30︶ 概念﹄︵ω霊奉醤一$9筈Φ鴨匡︶を確定したのである。 ﹃神の力は、あらゆる法律に超えて從耳える。何故ならば、神の意志は完全な正義衡平の最も確実な基準であり、 そして、神の為すことは絶対的に正しいからである。それゆえに、神はあらゆる法律により拘束されることはな く、神は、神自身が法律であり、また、あらゆる他者の法律である。﹄︵Oo洋8尾8拝墨讐器σ段餌=①089器 霞轟⊆ρ≦①一一ω①営≦旨Φ島Φ鴨三ωω8罐鴨こR<o目犀oヨB①器巳W一一ロ鴨の一江馨巨α≦Φ自筈ωo一暮旨げ鼠”類餌ωR 156
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盆君α四げの二曾Rω○<Oづ巴一窪○Φω①言自9呂qP8P盆諺R俄魯器浮馨q昌α曽一一9器ぼ蒔窪O①ωΦ冒一磐︶︵とカル ヴァンは言う︶。カルヴァンのこの理由付け︵ω畠霊9身躍︶は、実質的には︵ω8呂9︶、ドンの言う﹃絶対的な 力﹄︵も9Φ筥壁筈ωoξ壁︶と同じことを述べているのであるが、カルヴァンは、この理由付けを以て、部分的に は、ドンをも凌ぐ意志主義的尖鋭さをもつ明確簡潔な方式表現で、著名な聖書の難問題を解決しているのであ る。 ﹃神の命令に基づき、ある物を持ち去ること、或いは、保持することは、何ら罪ではない、それは神の命令があ ︵3 1︶ らゆる法に勝るからであるのみならず、神の意志はあらゆる法の完全な基準であるからである﹄︵とカルヴァンは 言う︶。 しかし、神の意志が、あらゆる法律の基準︵霞霧霧$げ︶であるときは、︵オッカムの場合と類似して︶﹃啓示﹄ ︵○臣窪9ヨ轟︶が、神の法意志の最も重要な認識源として︵巴ω註o拝蒔ω8甲箒暮9一ω2①一一〇号ω碧魯島畠窪 勾Φ魯房≦旨窪ω︶前景に押し出てくるのであり、﹃啓示﹄は、﹃自然の認識にはただ不明瞭で漢然と見えるにすぎな い神の法律を﹄︵&OαR冨9Φ島畠窪卑溶§言δ5葺目号9一一魯仁邑<Rω3≦Oヨヨ窪ω一畠毎貰90窃o言Φ Oo暮8︶明瞭に認識できるようにする、いわば、眼鏡︵①冒①騨旨Φ︶であり、十戒︵U魯巴畠︶は、﹃自然法の真 正確実な解説﹄︵9Φ雲夢9江零冨ぎ吊壱お鼠瓢9α8Z簿自話魯けω︶なのである。 カルヴァンは、神の絶対的な力︵28旨壁号ξ房o冨蜜︶を法学的範疇︵冒ユ鋒零ぽ囚簿畠○ユ①ロ︶に取りかえ たことにより、後になって、ホッブス︵↓ぎB錺缶o浮霧︶︵一五八八ー一六七九︶が﹃神の力というこの述語﹄ 157ハンス・ヴ’エルツェノレの自、然法論伍1ぐ中世自、然法論ク ︵98Φ国器9惹8αR匡四〇窪OO98︶を、﹃この世の神としての国家﹄︵ωけ蝉簿巴ω馨R菖畠ROoεに移し戻 ︵32︶ すことができた基礎︵立脚地︶︵ω&窪︶を準備したのである。 ⑧宗教改革より以上に一層強力に、﹃近世自然法﹄︵量ω器自簿ぎ冨乞魯仁霞Φo鐸︶の形成を促進したもの は、﹃新しく起こった精密な自然科学とその方法論﹄︵蝕①器⊆9房8冨且9①図畏け9Z簿霞&ω紹房9錬8⇒琶α 一ぼΦ匡の9&蒔︶である。なかんずく、ガリレイ︵O巴一一80巴凶一9︵一五六四−一六四二︶の自然科学の研究方 法︵9Φづ讐霞&ωω窪ω畠臥島o冨男oおoど⇒鴨≦α器︶は、自然法理論を含む当時の学間の世界に、まさしく、セン セイションといえる︵≦一①Φ営Φω9鐙江9︶影響を引き起こしたのである。実際に、﹃新しい数学的・因果関係的 自然研究とアリストテレスートマスの直観的・目的論的世界観察との対立﹄︵αRO畠窪銘言αR器ま昌 目讐冨ヨ呂零▽ざ島巴9Z四9味・お魯⋮鵬墜き零富包凶魯みΦ一8一・讐ω畠9≦①富房8げけ8ω︾誘8邑8琶α ↓ぎ日霧︶は、ガリレイの﹃落下の法則の発見﹄︵国旨8畠目鵬αR男毘鴨ωΦ自Φ︶により、人目を引き、かつ手に とるごとく︵ωoきヰ器一凝§α富邑鴨①一旨魯︶明瞭になるのであって、かかることは、自然科学の他の如何なる 発見にもないことである。 新しい自然法的方法論︵&Φ器器ヨε瑛9算一8冨冒Φ爵a甚︶に対して、落下法則の発見の持つ模範的意味 ︵3 3︶ ︵曳①目巳貰凶零箒ω8窪ε鑛︶のゆえに、落下法則の発見について、ここで簡単に考察がされねばならない。 中世においては︵すべてがまたそうであるように︶、﹃物体運動の理論﹄︵蝕①9ぼΦ<9αR内8∈Rび①妻畠巨閃︶ は、アリストテレスと結び付いて、あらゆる出来事は神が事物にその性質として刻印した目的の為に起こるとい 158