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教育学的人間学の構造

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Academic year: 2021

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(1)Title. 教育学的人間学の構造. Author(s). 小笠原, 道雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 18(2): 121-131. Issue Date. 1968-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4569. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第「8巻 第2号. 北海道教育大学紀要・(第一部C). 教. 育. 学. 的. 人. 間. 学. 3年3月 昭和4. の. 構. 造. - H◎ ロ ー ト の 教 育 学 的 人 間 学 を 中 心 と して -. 小 笠 原 道 雄 北海道教育大学旭川分校教育学研究室 N1 i chio oGASAWARA : Die struktur der padagogischer Anthropologie ipfend an He - Anknt inr lung i ch Roths zusa]mmーenfassende Darstel. -. 次. 目. 序 教育学的人間学の概念と課題 ↑) J lav の教育学的人間 , Derbo 学-問題提起- 2 ) 教育学的人間学と事柄の科学. 1 諸人間学と教育学的人間学 1 ) 哲学的人間学と教育学的人間学 2 ) 哲学的人間学に対する教育学的 人間学の寄与. 3 ) 神学的人間学と教育学的人間学 文 献. (本論文所収). 4 ) 心理学と教育学的人間学. 5 ) 社会学と教育学的人間学. 序. 教育学的人間学の概念と課題. 本 研究 では各種 の人 間学 の 考察によっ て 教育 学 的人 間学. ) の e (Padagogi scher Anthropologi. 課題とその意味を提示すること が目的である が この小論 で は特に哲学的人間 学の考察にその視点 , を定め, 教育学的人 間学の概念及び課題 を明らかにする 今日 われわれは生物学的 心理学的 . , , , 社会学的, 哲学 的, 更には神学的人間学について語ること が出来る が これら各々の人間学におい , ては,その各々の申 し立てやその研究によ っ て設定される各々の異なっ た見解 が強調される。では教 育 学 的人 間 学 に お い て は 教 育 学 的 見 解 と は 一 体 ど の よ う な も の で あ ろう か. H ・ ロ ー ト (He inr i ch. Roth) はその見解を次のように述べてい る 「教育学的見解の中では 人間的本性の教化への方向 . , に対する変化の能力 が中心であり, その諸変化は人 間 が教育の影響のもとで子供から大人へ発達あ るいは発展する 間にその諸変 化のただ単なる土台ではなく 人間 がその諸 変 化 の 能力を持 てい っ , ) ということ である だから教育学 的人間学の対象は 人間 が教育の影響のもとで自覚的にな る」1 . , り, そ して成人になり 得るような人間学の研究なのである. 教 育学的人間学は心 的-精神的な人 間生成を論 じる が しか しこの 教育学的人間学は人間の本性 , (Natur ) との関連 において理 解されねばならない, しか し人間の本性とは何んであろうか. 教育 学的人間学は生物学 的, 心理学的人 間学と の関係な しにはこの問題に答えることは出来ないであろ う. 心的一精神 的な 人間生成は社会的な形成物の中での社会過程と して す な わち集団 制度 共 , , , 同社会との交渉の内部で汝との和解の中で生起するのである. それ故に教育学的人間学 は 社 会 学 な い し社会学的人 間学に係わらねばならないのである。 しか し人 間生成のプロセスは 人 間 の 規定 immung) へ の 問 い (di e Best , 人 間 目 か ら が目 か ら に よ っ て 作 り, そ して 目 か ら の 為 に 輪 郭 化 す る 像 (das B i d) への問いとからみ合っ ているのである. かくてわれわれは哲学的人間学そ して神 l. 学的人 間学の諸認識 をも含まねばならな いのである. -12 「-.

(3) . 教育学的人間学の構造 更にまた,人間生成には次のことも意味される. すな わち教養ある人間と して,人間に特有の行為 及びその行為の中止と言っ たそのものに対する認識の能力を存する為に, またその行為及びその行 i d elnformation) 為の中止を意識的に,責任的に果たす為に,世界についての像を作り,諸々の教訓( を受け取り, そ して自然, 社会, 文化の中で生きこれらの領域の学問と芸術を受け入れること が自 由に出来るということである. それ故に教育学的人間学の視界には人間の陶冶及び形成に対 してそ の意味 が認められ, 規定される限りにおいて芸術及び諸科学 が属 しているのである. 以上の考察か らも明らかなように, 教育学的人間学にはその学問の本質から諸々の人間学 が深く係わり合っ てい lav) の 生 物 学, 心 理 学, るこ と が知 れ る の で あ る. 以 下 こ の こ と をま ず, デ ェ ル ボ ラ フ (j .Derbo. 社会学に対する教育学的人間学の諸関係の記述を手掛りと して全体的な教育学的人間 学の課題 を述 べ, そこから諸人間と教育学的人間学と の間の関係を論及する, この場合, われわ れの基本的立場 は, 種々の人間学 が教育 学的なものに対 してな し得る寄与を問題とする. すなわち哲学的, 神学的, 社会学的, 心理学的, 生物学的人間学 が教育学的なるものに対 してその本質にふさわ しいものを問 題にす るが, 同時にわれわれはこれらの諸人間学に対 して 教育 学的人間学 が寄与 し得る, あるいは その本質にふさわ しいものを逆に導き出すことも大切である。. 1 ) ノ .D好め”り の教育学的人間学-問題提起- 2 logie) の 教 育 科 学 に 対 す ] onalanthropo . デ ェ ル ポ ラフ は 経 験 的 な 「領 域 的 人 間 学」 ) (Regi. る寄与とその意味を浮彫に し, 明瞭にすることを試みている が, 彼によれば生物学的人間学 が教育 e) と 名 付 ologi sche Bi e Padagogi 科学 に 貢 献 し得 る と こ ろ の も の を一 般 に 「教 育 的 生 物 学」 (di. )と述べている. 教育的生物学の相において, 教 育 現 実 の存在 (Se i n) と して把握される け得る3 その根拠は子供の有機体の生長の現象と成熟の現象である. そ して生物学的人間学か ら導かれた教 育的生物学の認識は子供の発達の援助を提供すること を可能にする。 他方, デコ ルポラフによれば ) が 現 わ れ る 所 に 「教 育 的 心 理 学」 (di ‐ i f e Padago 「学習と しての成熟」 (Re en als Lernen) 4 i l sche P ) の 権限及び陳述の領域 が始まる, e gi sycho og. この教育心理学的関心の支点には心的-精. ) 及び構造化 が存 している。 ここでは教育の意味 が成就の保護の 神的な成就機能の生成 (Genese i i i l t a t ) の 訓練の中にあるのである。 それによっ て教育学的思考 中にあり, 機能能力 (Funkt onab と行為は機能的に適合 し, 成就に適合 した教育の心理学的な法則に結びつ いているのである. 教育社会学の中では人間は 社会的人格と して現わ れる. デェ ル ボラフによれば 「教育の存在と意 味は最もよく子供の社会的適合と して集団, 階層あるいは共同社会への組み入れと して規準化され, )と そ して同時にそのものに対 して用意された役割を理解させるような関係領域を描く のである」5 述べている. だか らこの教育における行為の指導は 「可能な 限りグループに適合的な, 状況適合的 ) な 教育を気づかう のである.」6 かようなデェルボラフの論述, すな わち教育学的人間学に対する生物学的, 心理学的, 社会学的 人間学の解明, 及びその貢献の価値に対 しては, われわれは原理的に承認 し得る. そ してこの場合, デェ ル ボラフの把握の特色はその貢献の度合 を 生 物 学から心理学, そ して社会学に増大させ, よ り一層具体的に していることである. そ して更に重要なことはこの 「領域的人間学」 の教育学的人 間学に対するその教育学的寄与を 「現実探究」, 「教育現実の存在」 の科学的な 媒介に制限 してい ることである. デェ ルポラフは 「これらは, 教育される個々人の 状況 の経験的な 解明に対するその. 系統発生的 (phylogenetisch),. i i sch) 個 体 発 生 的 (ontogenet sch) , 現 実 発 生 的 (oktualgenet. ) と述べている. ここでは 現実の諸条件の解明, より正確には教育 な知識を定めて いるのである」7 学的な 行為の手段 が問題である. 「年齢に適合 した, 機能的に適合したグルー プや状況に即した教 -「22-.

(4) . 小 笠 原. 道. 雄. )と デ な 意味 しか持ち得な い」8 ルボラフ は言う. そして, 教育及び陶冶の過程にとっ て決定的なものはこれらの学科 (領域的人 ェ 間学) では見えてこな い. すなわち①個人 的本質と しての児童, あるいは汝と しての児童 が考えら れていな い. ②所謂,ペスタロ ッチ一の言う自己活動と しての 児童 目か らにより て教育する児童 が , 見えてこな い. ③事物内容を獲得する児童 が考えられていな い. デェ ルボラフによればこれらの陶 冶過程における三つの決定 的なモメ ントは教育学的人間学の中で初めて明らかになるのであると述 べている. かく てデェ ルボラフにとっ て教育学的人間学は(a)個人的存在と して教師に向か い合っ 育へのその要求は教育学にと っ てはただ《補助的》 ( i i d a ・ subs. て立っ て いる具体的な姿と しての児童を取り扱う. (b) 教育学的人間学は人間 (児童) を単に生物 学的, 心理学 的, あるいは 社会学的研究 な いしそれらの取り扱いに委ねるかわりに児童の自己形 , 成の諸力に頼るの である. ( c ) 教育学的人間学はただそれによっ て教授, 学習及び自己形成に対す る事柄や文化財の中で権利を授けられた陶冶の意味 が豊かに作られる そのような教育学的範暖の , 探究, な いしは教育学的分析に従事するのである このようにデ ルボラフは要約している われ . . ェ わ れ も教 育 に と っ て こ の デ ェ ル ポ ラ フ の 三 つ の モ メ ント が重 要 で あ る こ と に 異 論 を 唱 え る も の で は な い. 否, こ れ ら の こ と は 決 定 的な こ と で ある が しか し 問 題 は こ の ニ つ の 課 題 が尚 生 物 学 心 . , ,. 理学, 社会学等の専門 科学の助けな しにただ教育学のみによ てな し得るかである H・ロートは っ . た だ教 育 学 の みに よ っ て は こ の 課 題 をな し得 な いこ と を主 張 して いる H ・ ロ ー トは 「こ れ ら の 課 .. 題の中に あっ て, 教育学が人間に関する他の 科学の助けを頼り に しているのであり 教育学 がそれ , に対 してその 問題設定やそれにふさわ しい探 究の中で自律 的なの である」6 ) と述べている. 以下, デ ェ ル ボ ラ フ の 三 点 の 問 題 点 をH ・ ロ ー トと 共 に 要 約 的 に 考 察 して みる .. 第一点; デェルボラフの個人的な汝との教育的交わり につ いては補足的に以下のこと が述べられ ねばならな い. すなわち科学と しての教育学的人間学も根本的には尚 抽象的なのである 教育学 . , 的人 間学は精 精, 人間の教育可能性 (Er i i t ehbarke ) の理論と して実践により近く接近し得るこ z と, そして そこに位 置し得ること しか し教育学 的人間学は個人的汝の方向の前につき進みは しな , いの である. それはただ教育的実践それ自身 すなわち一定の 状況の中で責任的に行為する教師の , みがな し得る もの である. しか し もし各々の教育者 がある 特殊な場面に直面した場合 つまり教 , , 育的に困 窮した場 合 彼は生物学 心理学 ある いは社会学の助けを必要とするのである , , , . 第二点; 児童の 自己教育の 諸力やその発展への教育学的訴えと言 うデ ルボラフに関係して 教 ェ , 育学 的人間学は人間に関する他の 諸学科との協働を頼り にして いる 否 教育学的人間学はその教 . , 育学的な 問題設定 及び教育学 的な 行為に対しては いつもまた 常に生物学 的 心理学的 そ して社 , , , 会学的側面を持っ ていること を認めねばな らな いのである それ故に教育学的人間学は人 間に関す . るその基礎科学及び補助 科学をも捨てることもまたそれか らの がれる ことも出来な いのである す . な わ ち, 生 (Bios ) … ……… ? nicht so: d k = i h t o a s c e r As e p g g p ↑. l i h t s rA晒k 班i o o c e g l i h k t s o o s c e rAs e ch p y g p. ‘鵬捧. sondern so: d 蓑 h与 k i t o s c r As a e p g g p ″ b i l i l h i o o s c e r ,bg 1 g. 一. As k t e p. 加. Asp k t e. ÷『o i l i i o o s r z c l e g As k t pe. l b i 。魔競輪 無 声 l 日 d l 23 ( vg Ro d i ) i i h t s o o o e s o a c ・ e An r ・ g g P g ;P亘 , , , ,. 第三点; デェ ルボラフは成長, 成熟 学習 適合 が常にまた 内容的に関係づけられていること , , , ,. 特 に こ の 「内 容 的 に 関 係 づ け ら れ て いる こ と」 ( lnhal tsbezogenhe i t) の 意 味 を 認 識 し, 明 らか に -「2 5.

(5) . 教育学的人間学の構造 する事を教育学, ないしは教育学的人間学であると考えている が, しかしこの問題はそのよ うな一 面性において調和するか が問題であろう. あらゆる学問, 芸術が教 授と教育, 陶冶と形成に関係し ている. すべてのもの がたしかに陶冶の諸力として理解さ れるしすべてのもの が人 間の陶冶及び形 成に際してその権利の要求を示し得るのである. 一般には, 人間の内 的精神的世界の建設の為に, 学問, 芸術 が果た し得るその寄与を教養 (Bi l ‐ dung ) の概念において総括される が, 教育学的人間学の水平線にはこの学 問 芸術の寄与 が特に , 重 要な の で ある.. 2 Sachwi ) 教育学的人間学と 「事柄の科学」 ( t s sens ) chaf H・ロートは 「健全に発達し, 機能的に実行の能力を持ち, 社会的に適合出 来る人間 が尚完成さ れた人間ではな い」 と述べ 「彼には, 彼の時代, 及び彼の世界の文化共同体, 及び陶冶の共同体と いっ たある精神的なパー トナーになる, 内容的に関係のある そして内容的に満ちて いる精神的視界 o )と指摘している すなわち教養ある人間とは 精神的な人間 i ) に欠けているのである」l (Hor zont . であり, 精神的な人間は学問と芸術において形成された人間でありまた, 彼の時代の精神的生との 交わりの中に立ち, それによっ て創造的にまた 批判的に生き得るその人間なのである. K・ヤスパース は 「一定の歴史的理想に した がって成型された人 間は 教 養 が あるといわ れる . (教養ある人においては) 考え方, 価値判断, 話 し方, 技能な どの 全体が彼の第二の天性にな て っ いる……. 教養の理想は①それの由ってきたろ身分, ②重要な精神領域 ③主要な事 物領域 ④教 , , 養 が修得された制 度によっ て, それぞれのその在り 方がちがって いる. しか し<形と自己支 配とに 対する感覚と練習とによっ て,教養があたかも生ま れつきのもの で,後天的なものでな いかのように 1 第二の天性にな らなければな らぬ〉と いうこと に対する感覚は諸々の教養理想に 共通 している」1 ) と述べている. 今日の問題は教養 がほとんど動的な過程と してほとんど技術において把握されてい ることである. ヤスパー スはその著 『大学の理念』 の中でまず学 問的教養につ いて語り 次に技術 , 的教養につ いて語っている. 「学問的教養は学 問性一般の態度とその教養の前面に立つ 諸専門 科学 の内実とによって規定される. 学問性の態度につ いて言えば, 客観的な 認識のためにはいっ どこで も自己流の評価を停止できる能力, 自分の党派や 現在の自分の意志を度外視 して 事 実の公平な分 , 析をなすことのできる能力である. 学問性と は即物性 (Sach i i l t chke ) であり, 対象への没頭, 慎 2 )と述べ 他方 技術的教養 は恐ろ し 重な 考量, 対立する諸々の 可能性の探索, 自己批判である」1 , , いほどの力の紛争や手段の 錯綜にもかかわらず, われわれの 生を聖なるもの にそ して人間的に保持 する為に, 技術の意味内容を獲得 し, そ してその意味内容を 「現存在形成の根本イ デー」 と して知 覚することを意味するのである. このような学問的及び技術的教養に関する注目は, 教養 が決 して静的な ものでも また古めか し , いものを意味するのではなく, 何か動的な ものを特色づけ, それは各々の 時代において 新たに与 , えられ, われわれに生き生きとた もたれる為の 新 しく獲得された精神的な もので, 政治的にもある いは技術的にもわれわれ がそ れにか らみ合い, 係わり合っていると考えられるの である. それ故 に人間的生成はただ単に生物学的成 熟でも, 単なる社会的適合でもなく, それは内容 的な性質の知 識, 及び能力の建設であり, 精神的内容の同化なのである. しか しそのこと は能率を高めたり 機 , 能上高めたりする為の単なる手段と して用 いられるの ではなく, 内容をわれわれの中で維持 し そ , してわれわれの中で生き 生きと保つそのような学習が問題なのである. 何故ならわれわれはその習 得によって初めて精神的存在 になるからである. Th・リ ッ トはこの事象を以 下の ように記述 して いるのである. 「精神的な発展 に対して, 周囲の世界はまさに発展の過程に役立ち得る一連の素材 f f (der s t ) を提供する が, それはその素材 が素材それ自身であるとこ ろのものと して o. , あるい. -「24-.

(6) . 小 笠 原. 道. 雄. は良く言って, 素材自身を表わ し, 保持し, 活動する時にである. すなわち, それは事物的内容で i dee l l あり, 精神的な ( ) 妥当性であり, すでに目か らその形を持ちただその固有な形成 によって 3 ) t ) なのである.」1 魂の形成過程にとっ て意味深長な, 科学的, 芸術的,道徳的,宗教的な もの (Ar 1. 諸人間学と教育学的人間学. 1) 哲学的人間学と教育学的人間学 教育学に対す る哲学及び神学の関係, な いし教育学的人間学に対する哲学的及 び神学的人間学の 関係はすでに指摘 した ごと く, 教育学 が常に人間の規定, 例えばわれわれは何を為すべきかあるい は人間はどこから来てどこえ行くかと言った人間の規定に対する思慮であるか ら教育学は同時に哲 学的なのである. また, 逆に各々の偉大な哲学 は不可避的に教育学的な問題設定に ミリ か っ て いる ate ) と目的は広.く解された教 のである. 例えば W ・デイルタイ は 「あらゆる真の哲学の結実 (B1 4 育学であり, 人間の陶冶の説である」1)と述べ, あるいは 「哲学の最 後 の 言 葉は……教育学であ 6 )と ま で述 べ て い る し 更 に ま た j・ デ ュ ー イ の 「哲 学 は そ の 最 も 一 般 的な 形 体 に お いて 教 育 る」1 , , 6 )と の そ の 公 式 化 はこ の 両 者 の 関 係 が古 い そ して 大 きな テ ー マ で あ る こ と を 物 語 の 理 論 で あ る」1 , ) 注2 っ て い る.. 注2 ) 哲学と教育学的人間学との間の根元的な近親関係は多分, 1・カ ントの根本的命題の中で特に明らかに なっているであろう, カ ントはその 「人間学」 の序文の中で 「人間についての知識に関する体系的にま とめあげられた理論 (人間学) は生物学的見地におけるものであるか, あるいは実用的見地におけるも のであるかのいずれかである. -生物学的人間知は自然が人間をどんなものにしようとしているかとい う, その当のものの探究をめざし, 実用的人間知は, 人間が自由に行為する存在者として自分自身をど んなものにしよう とし, あるいはすることが出来き, またすべきであるかという, その当のものの探究 をめざしている」 と述べ近代の哲学的人間学を基礎づけたのであった, i i ねropo t t abgefaβt l scher H血s ei ] ma ch ogi n prag (Vg1 .1 . Kant , , Ant. 『カ ント全集』 第十九巻, 竹頁, 理想社). しか しこの近親関係にある両者の対話もなかんずく哲学の側によって麻痩されているとH・ロー 7 )それは哲学者 が今日それ自体広範囲におよ んでいる教育学的問題 の哲学的側面を トは指摘す る.1 教育哲学と して 教育学者にまかせきっているということで, しかもこの教育哲学 が哲学なか んずく 哲学的人間学にゆだねられて いると 言うことである. 両者の対話と言うこと は人間に関する哲学的 人間学 の洞察をその教育学的重要性において吟味し, その洞察を教育学, な いし教育学的人間学の 中へ移行すること を試みる, 他方においては人間に関する教育学的な 諸経験を哲学的人間学に有効 に 働 か せ る こ と な の で あ る. 9 1 は強く指摘 しているが 8 ) M J. ラ ン ゲ フ ェ ル ト1 両 者 の 対 話 の 必 要 性 を W ・ フ リ ッ トナ ー, 1 ,. H・ロートに よ れば哲学と教育学との間の論述には以下の二点 が根本において通用するものである 2 0 ) と 述 べ て いる.. i i i ka a 1) 根本性 (Rad l t ka t l ( ) に問うと いうこと が哲学的な質 ), 哲学 が最も根本的に ( rad 問の方法で, 独特なものである. それは同時に人間を根本的に問う意味あるものたらしめており, 教育学はその諸前提, その目標の為にこの 「根本性」 を放棄し得な いのである. ion) . 2 ( ) 全体性 (Summe ) もしく は 統 一 (lntegrat 哲学的人間学は人間に関する知り得るもの全体を引き出すことを試みる. それはまた, 人間の本 質における認識と理解をただ完成するだけでなく, 統一することを試みるのである. この「全体性」 と 「統一」 と がまた, 教育学な いし, 教育学的人間学には決定的に重要なことである. 以上の前提をもとにしな がらも, 哲学的人間学と教育学的人間学との間の密接な関連, その双方 5- -12.

(7) . 教 育 学 的 人 間÷学 の 構 造 の依存性を明らか にする為には, た だ内容的な 陳述をより詳細に解明しな ければな らな いであろう 。 この際, われわれは H・ロートと共に,その手がかりを最近の哲学的人間学の成果に求め な かん , 1 )と M ・ ラ ン ドマ ン(M Landmann)2 ずく体系 的な叙述を 試みた W‐・ ブル ー ニ ッ ヒ({刃. Branig)2 2 ) 。 の著作から出発する。 a) Branig の哲学 的人間学-哲学的人間学の類型化- ブル ー ニ ッ ヒ は 哲 学 的 人 間 学 に 一 つ の 類 型 (di e Typol e) を 与 え, ogi. そ の 中 で 歴 史 的な 立 場 へ. の顧慮には欠けてわいろ が, 互に相似した今日的な哲学的人間像を整理している 注 3 .) 注3) Brani g の哲学的人間学の類型はかならずしも妥当なものと思われないが以下. , 要約的に示しておく, ①人間がある不変のく秩序> ( o rdo ) の中に存し, 至高の存在, 神の方向に秩序づけられている (Hes s ‐ ,. i i en ta n) , Guardini , Mar. ②その<秩序>を神学的論拠づけからとき放ち, その場に絶対的価値, 及び本質の領域をおく (Habe i l r n , ,. von Ri elen ano nt ) . ,Brent. ③絶対的価値の場に合理的諸原理をおく, 自然主義, 合理主義ともいわれるもの(Th i ke o rnd ‐ n ,Darwi ,Hu ×ley u a ) , .. Sche ④人間的個性, その歴史性, 自由の特性を強調する立場, ( hey l l t e r ) . ,Di lame ⑤ プラ グ マ テ ィ ズム (. Dewey). degger ) ⑥超越主義 (Husserl , Hei. he i l l t t ⑦客観的理想主義 (Sc ng から Hegel ) . , そ して 現 代 の Li ,Spranger. i Bran g の方法による哲学 的人間学の類型化は「人間とは何か」 と言う問題 に対して一つ の i 「陳述」 (d e Au ) がそれに対立する陳述によって解きあかされ, 同時に交代されて行くこ s sage とを示しており, 換言すれば, テ←ゼ, ア ンチ ーテーゼと言りた交互的な活動としてその陳述を 見 る立場で, われわれの自己理解, 自己像がわれわれの世界理解, 世界像と同様に流転 の中にあるこ とを示して いる. そしてこの類型的考察を通じて, Bran i g は 「秩序づけられた形と内容的に満ち 3 )が存在すると考 満ちている, 生けるものとによって規定される二つの人間的思考の根本的方向」2 この. えていろ. すな わちその一回限りの個性と歴史性の中にある人間はこの二つの方向の中に存してい る と 考え る の で あ る. も しこ こ でわ れ わ れ がこ の Branig の洞察から何か教育学的人 間学に対するその成果を間うとす れば, 人間, あるいはその人 間の自己理解がある一定の変 化の中で把握されると言うことである . 同時に Branig の思考を通じて更に重要な点 は, 人間に関する哲学的な 「思 考 の 運 動」 (Denkbe ‐ wegung) がこ こ で は同 時 に 教 育 学 的 な 「思 考 の 運 動」 と し て 現 わ れ て い る と 言 う こ と で あ る。 そ 4 ) の 一 点 は, 人 間 が 「自 己 に 課 題 を 課 し て いる 存 在」2 (Si chaufgegebensein) で そ の 中 で 自 己 を知. ると言うこと. その第二点は, 人間 がただ単に彼 が現在あるところのもので はなく 彼 がなるとこ , ろのもの-自己を作り, 創造して行くとこ ろのもので, その各々の 「行」 (Tun) 及び行為は 「自 5 ) (Selbstverwi i l 己 実 現 化」2 rk chung) の 意 味 で, 教 育 学 的 に 価 値 づ け ら れ る 行 為 で あ る と言 う こ と で ある.. かように哲学的な問いは教 育学的な問いに流れこみ, 相互に包括され, からみ合っているものな の で あ る. b) Landmann の哲学的人間学-人間学的思考の発展- Landmann は 人 間 学 的 思 考 の 発 展 を た ど る こ と に よ て っ ,. そ の 中 で常 に深め られる人 間 の 自 己. 洞察を認め, 持続的な 人間学的思考の成果を認めているの である. Landmann の思考の特色 は , Br t ig が人間学の類型 化によって, 各々の類型間同志の対立から問題を提起したのに対し 動的 i n , に 発 展す る 人 間 学 的 思 考 の 発 展 に 注 目 して いる の で あ る. Landmann に よ れ ば そ の 発 展 は , 宗 , , 6- 一12.

(8) . 小 笠 原. 道. 雄. 教的人間学か ら理性的人間学や 生物学的人間学 を通って, それらすべて を包括する 「文化人類学」 turanthopologie) に ま で 進 み, 現 代 の 哲 学 に お いて, そ の 頂 点 に 達 して い る と 考 え て いる. (Kul こ の Landmann の考察の中で, 教育学的人間学にとって重要と思 われる点, あるいは教育学的人. 間学に連続している点を以下要約的に述 べてみる. ‐ ①人間はその固有な 「自己解釈」 (Selbstdeutung) と そ の 固 有 な 「自 己 理 解」 (Selbstverst i andn ) に よって決定的に刻印を押 されているということである. 人間の行為, 人間の道徳, 規範 s は明白に人間 が自己をどのよう に理解するかといっ たその仕方に依存 しているのであると言う, こ のことは教育学的現象を顕著に特色づ けている. 何故な ら, 自己解釈は教授, 教育, 陶冶から生じ, モデルを与え, 指導像を示 し, それらを理解的に学ぶ. そ してそれらに義務を負っ ているのである. かくて人間はそ の自己解釈によっ て決定的に依存 している存在なのである. かくて人間はそ れによ ってま た, 教育 と陶冶の存在 と して 定義を下すこ と が出来るのである. ②人間 の自己像 が人間の世界像, すなわち人間の世界の解釈と密接 に関係 している (その逆もあ 4 注 ) る) , そ して人間のこの世界像 は近代の歴史の中で三つ の大きな衝撃を受けたのである. ) 進化論, 一現 ) プトレマイオス的世界像からコペルニクス的世界像への転換.b 注4 ) Landmannはそれを a 点に要約している c ) 歴史主義の三 代の進化の思想の形を含めて- , hropol h ogi e sche Ant .37.) (Vg1 ,s ,Padagogi , H. Rot. i e Ambivalenz) の 中 で 新 しい 生 活 感 情, 自己及び世界像のこの衝撃はその 「反対感情両立」(d 新 しい生活理解をひき起こ した が, この変化す る感情及び自覚の 状況 が教授や学習に よって生 じた 科学的な発見, 洞察にも とづいて いると言うこ とが決定的なことで ある. ③比較文化人類学の成果と して, 人間はほ とんど終世拒むことのできな い一定の文化の中に 宿っ て いること, そ してこ の運命はただ歴史的であると言う洞察 が明らかになり, その中での教育の力 が明らかになると言うことである. 更 に こ の Landmann の考察にとって重要なことは, 彼の諸認識の中か ら 逆 に 哲 学的人間学の 限界 が強調されて いることである. それはまた, 教育的に設定される限界なのである. しか しそれ は幾度となく, くり返される哲学的人間学の問題であり, 教育学的人間学の問題でもある. それは l i l b-See em) との関係に関す る問題, ②, 個と しての人間と社会的存在 e-Prob ①, 身体と魂 (Le i A t ) の問題, ③, 人間 が目からを自由に処理出来な いという問 e と しての人間の間の矛盾 ( n nomi 題で, 哲学的人間学にお いて, この問題 がいつも, くり返 して考えられて いる。 人間はただ単に有 機体と して除々に成熟するのではなく, 心的-精神的に成熟す る存在と して叙述されるのである. このように幾度 となく人間に示 された矛盾を, 教育は無視するこ とは出来な いのである. われわれ はこのニつの, 常にくり返され取り扱われて いる哲学的人間学のテ ーマを身近に持って いるが, そ れは人間の中にある矛盾に関係 して いる が, それはまた, 同 じ方法において教育 が出会う困難さ, 7 2 ) 教 育 は そ れ 自 身 を こ の 視 点 に お いて 徹 底 的 に 考 え, そ れ ら の 体 験 に よ っ て, そ 矛 盾 な の で あ る.. の為の 「立場」 を取らねばな らぬのである. 2 ) 哲学的人間学に対する教育学的人間学の寄与. 教育学的人間学のテー ゼ -. も し教育学的人間学 がその時代の哲学と一定の協調を保つな らば, 教育学的人間学は尚ま た, 哲 学的人間学 の中に消え失せて はな らな い. 逆に哲学的人間学に寄与 し得る若干のそ の見解を持つの である. 以下, 教育学的人間学のテ【 ゼと してのそれを H・ロートと共に要約的に述べる. i igke t) 1) 人 間 の 教 育 の 必 要 性 (Erziehungsbeddrft ( 2 7 1 ,カ ントは 『教育学』 の序説で 「人間は教育されなくて はな らな い唯一の被 造物である」 )そ 7- -「2.

(9) . 教育学的人間学の構造 して 「人間は教育によってだけ人間になること が出来る, 人間は 教育 が人から作り出 したものに ,. 3 )と 述 べ て いる が こ の 問 題 は 哲 学 の 中 で はカ ント以 後 ほ か な らな い… …」2 , , 放 っ て お か れ て いる.. われわれは, 今日, 一層この人間の教育の必要性を 自覚 して いる。 この視点から哲学的人間学の研 究に対 して, 教育学的人間学は寄与 し得るのである。. (2 ) 哲学的人間学は以下の ような認識をほとんど持って いな い, すなわち人 間 が 彼の生を子供 2 9 (Ki ) た しか に哲学的人間学に は nd) と して始めるまたは子供に由来すると言う認識である。 , 人間 が子 供と して始まると言う事実を見の がして いる し, 哲学者 が人間存在の本質的「様態」 (der Modus ) と して の子供につ いて語ることがいかに少な いか/哲学者は人間 が子供か ら作られるべき だと言うことに関 して語るより, む しろ人間 が子供と言 う存在の事 実を克服すべきことについて語 っ て いる の で あ る.. 3 ) 教育学的人間学は人 間の 「教育可能性」 (Erz ( i i t ), その陶冶性, 及び自己決定に ehbarke 対する自由を 根本的に否定する各種の人間学的イデオロギ ーを拒否せねばならな い その際 教育 。 , 学的人間学は人間的自由に関する 究極的な 哲学的問題との 「協調」 (Ause i nander set zung) をめ ざすのではなく, 人間に帰属する経験 的な 目的 が問題であること 換言すれば人間 が彼の社会及び , 文化のわく内で, その現存在を支配せん がため に, 学習に際 し, 経験によって十分な知識及び能力 を習得 し得ること, 更に彼の社会及び文化の規範を十 分に知り得る為に 人間が責任性及び決断に , よって設定されている存在と して, 自己決定に対する前提と して価値の洞察及び自己支配にもとづ い て いる こ と を 認 め ね ばな ら ぬ の で あ る.. (4 ) 教育学的人間学は人 間を無制限的に 「巧みに扱い得る」(man i i l e ), あるいは 「作 rbar pu り得る」 (machbar ) と見な すそのような人間解釈に反対する, 教育学 的 人 間 学 はその人間像を 「人間の教育可能性が多くの関係によって制限されて いると言 う諸経験」 に基づいて いるの である . だから人 間を生ま れつき合理的なそ して理性的な 本質と して解釈する各々の人間学に反対せねばな らな いのである. 何故なら承知の ごとく, あらゆる教授, あらゆる教育はいつも決 して合理的な判 断によって は認識されず, また決 して合理的な洞察によって は除去され得ない矛盾に強く 注意を向 けねばならぬか らである. そのこと は教授と教育 が 「気分的なもの」 ( i l emot ) と 「生命的な ona i ta l ) もの」 (v との中で 知識的なものとから み合うと言う, その最も深くくいこ んだ困難性の中 , , に あ る こ と を 物 語 っ て い る の で あ る。. (5 ) 教育学的人間学は人間を全体と して承認 しな い, すな わ ち 人 間を身体-魂-精神-統一 le-Gei (Leib‐See i t)と して 是 認 しよ う と しな い 各 々 の 人 間 学 を 批 判 しな け れ ば な ら な い st-Einhe ,. われわれ が身体-魂, 魂-精神の関連を学問的確実さにおいて知る得ることは 非常に少ないが , , 教 育 は, た だこ の 三つ の 領 域 に 属 して い る の がそ の 本 質 で あ る 人 間 を 「人 格」 (Person) と して 見. な ければならないのである. だから教育学は人間の人格存在を以下の ように解釈せねばならないの である. すなわち人間の精神的な力と言うものは-ほとんど彼の 欲求 彼の能力 洞察 価値 規 , , , , 範を体験 し, 自分自身の為に決断出来る-そのような 「態度」 (d i e Fdhrung) を 把 握 せ ね ば な ら ず, また, そのような態度を把握することが出来るということなの である. 6 ( ) 教育学的人間学に対する前提 は人間の 「歴史性」 (Ge i i l i t s cht chke ) と 「社会性」 (Ge - s e i 1 l l i t) に 関 す る知 で あ る. schaft chke a.. 社 会 的 存 在 と して の 人 間 に 関 係 して は, 教 育 は 以 下 の ジ レン マ に 陥 っ て いる す な わ ち 一 方 。. では自己自身を完成させることによって人間は目からその 固有性を完成する が 他方において 人 , , 間 が こ の 目 的 を 追 求 し得 る の は, た だ 彼 が同 時 に 「同 胞」 (Mi tmensch), 「隣 人 性」 (Mi tmen ‐. i i l t sch ) への考 慮に引かれる (教育される) 時で, すなわち, 彼固有の人間性の完成とは人間 chke 「128-.

(10) . 小 笠 原. 道. 雄. がこの同胞性に教育されると言うこ と以外にはあり得な いことが認識される時に追求され得るので ある.. b, 歴史的存在 と しての人間に関連 しては教育的葛藤は以下の ような問 いにかかわって いる, す な わち未来に対す る教育と (過去の) 伝統に関係 した教育とはどの ような 関係に立っているかと言 う問題である。 歴史的変化 が激 しく, 早ければ早 いほど, 「予測」 (Vorausdenken) は一層重要 なものとなり, それによっていかに未来 が成 し遂げられるかと言った問いのもとで慣習の伝統化が 一層明確になる, しか しそのことによってますます教育の 「要件」(das GesChaft) は 困 難 に な る のである. 「過去 への関係な しには未来へのいかなる関係も存在 しないという命題はドイツにお い て しば しば述べられて いるが, その際, 同様に重大な真理は, すなわち, 未来に対する関係な しに は過去 へのいかなる関係も与え られな いということが しば しば見落されている」 と言う H ・ ベ ッ カ 5 ) 注 lmut Becher) の 言 葉 を 引 用 して, H ・ ロ ー ト はこ の 葛 藤 を 正 しく 見 よ う と して い る. ー (He 注5 ) H・ベッカ【は 「政治的 (政策的) 決断への予測の科学的適用に対しては, 今日, しばしば伝統に関する配 写る時, また, 未来が初めて受け取られる時にのみ 慮があげられている. (しかし)その際, 伝統は伝承され『 ) 可能である と言うことが忘れられている, 」 と述べている, ( nur hroPo l ogi e sche Ant .45) (Vg1 ,s . H, Ro値,Padagogi. 7 ( ) いか なる人間学 も人間的生の究極的意味への問いを回避 し得ない. この 問 いは哲学的人間 学の内部で再三, 再四 提出されて来たが, 教育学的人間学においてもそれを拒むことは出来ないの である, しか しその場合, 同 じ人間的生の究極的意味への問いと言 っても, 教育学的人間学にはお のず と 諸々 の 人 間 学 と は 異 な っ た, す な わ ち 教 育 学 的 ディ メ ンシ ョ ンの 中 で の こ の 問 題 を 明 らか に. すると言う課題を持つと言わなければならな い. それによ って異な った答が与えられるかも しれな i zont) いのである. 教育学はその時代の意味付与的な諸力の現存在解釈や規範の 「視界」(der Hor と結びつ いて いるので, 教育学それのみによっ ては新 しい教育 目標を考え出 したり, 創造 したりす ることは出来な い. このような条件の下で教育学には 「生の意味と目的への答は, 決 して十分では ないが, 解か れるべき答 と して, 人間の生の一つの目的が教育によ る社会と文化の再生の中に存す 0 )と言うことが示されよう. それによって教育学 ると言うその方向性の中に存 しなければならぬ」3 は一生にわたっ て学習するこ とが, 教育の自己目的であり得 ると言うこと, 及び人間のそのくみつ く されな い創造的諸力を告白するのである. あらゆる人間性の目標は教育学的に見れば, 「止むこ i と の な い過 程」 (unendl cher Pr ) を意味する. すなわち目標はその実現化によっ て変化す ozeβ る 「過 程」 な の で あ る。. 3 ) 教育学的人間学と神学的人間学 すでに哲学的な 考察においてな した所のものは神学的な 視野に も妥当するのである. 故に本稿で は簡単な考察にとどめたく思う. 一般に神学的人間学を取り扱う場合には, その宗派による異なり, すな わちカトリ ック とプロテ ion) の 相 違 に よ る そ の 本 質 的 な 把 握 の 相 違, 同 時 に 共 通 性 の ス タ ントの 二つ の 「宗 派」 (K0nfess. 存在に十分注意せねばならぬ. 小論では,その共通性をもとに論 をすす める. この場合,0・ウエー バ ー (otto Weber) に よ る そ の 要 約 的 な 性 格 づ け は 最 も 適 切 の よ う に 思 わ れ る. 0・ ウ エ ー ハ ー. は 「聖書的な人間像か らは, 実証的, あるいは懐疑的ではな い, 真実の教育に対する勇気のある, 1 )と 述 べ て い る. こ の こ と は i ) が 結 果 と して 生ず る」3 smus そ して 批判 的な 「実在論」 (de r Real 「人間とそ の教育との実在的な教育学的把握がヲ巨常に接近 して いることの公式化 であり, ……ここ i l i i ) が与えられて n e ndungs には神学的人間学と教育学的人間学との間の明白な 「結合線」 (Verb -↑29.

(11) . 教育学的人間学の構造 2 )と H ・ ロ ト ト は 指 摘 して い る いる」3 .. ところで, 教育学的人間学にとっ て重要なこと は, 神学的人間学によっ て教育に対 して与えられ ている根本的な批判である. 換言するな ら, 神学の人間に対するその自己評価 及びその自己解明 , が教育学的人 間学の方法において収得され, 是認されなければならないの である. われわれは人間 に対する神学的視点か らの警 告に耳を傾けねばな らない. 何故なら 神学的視点の中には 数千年 , , にわたる人間のその不信仰, 無関心さに対する軽卒さ, 危険性が示され 人間につ いての 経験が , 述べられているからである. 一言で言うなら, 「人間の弱さに対する反省」 と言 てもよいであろ っ う. 人間のイデ トとかその未来への展望と言っ たものに基づく教育学 的 「楽天観」 (de imis r opt mus ) への反省- 現世における人間の解 放,また は教育の可能性への 間には神学的人間学の所謂 数 , 千年にわたる人 間的断念の歴史が教育学にその思慮深さと自己批判の深さを与えてく れるであろう . 現代の急務は神学的人 間学から引き出さ れるその 「神学的思考」 のもつ 意味を し かりと考える っ ことである. それは非合 理的なものの内に追いやられている真の 「神学的思考」 を高度の合理性の なか で確認することの必要性である. この宗教的思考 すなわち神学的人間学の思考こ そ 科学的予 , 測と宗教的な予言との 間に横たわる空隙を論理的に埋めるもの と考えられ その重要 性が確認され , るのである. (未完) 文. 献. 「 ) 日einriCh Roth,PadagogisChe Anthropologie, (Band .), 「966 sl9 , , 2) J lav l em und Auf hropo ner Radagogi Schen Ant , Derbo l gabe ei i ogi eim Rahmen derBrz ,Prob eh止 f t ngswi ssenscha ,23, ,「959 ,s 5 ) J, Derbolav,a,a, 0, .23, ,s 4) j lav . Derbo .a , 0. ,24, ,a ,s 5) J D b 0 l e r o a v a a s . , . . , , .24, 6) j D b ○ l . er oav .a . , ,a .29. ,s 7), 8) j lav , Derbo .a . ○, .29. ,a ,s 9) 日. Rot h hropo sChe Ant l ogi e ,Padagogi , (Band .), 「966 .23. ,s h 「0) H, Rot ○ 2 4 a a s , , . , , , ,. 竹) K. ヤスパースo森昭訳 「大学の理念」 昭34年 72~7 3頁, 理想社 , 「2 ) 同書, 7 5~7 6頁 t t 修) Th.Li 0 s,98 1 ,Fahren oder Wachsenlassen ,「962 ,. ,. Di hey つ4 l t k ) W. ‐GesChi ini Cht e und Gr l t 虹 .d en des syst hey ems フPadagogi l t t ・qn : w・ Di e , , Gesammel Schr i f t en ,lx , Bd .7, ,s 15) W, Di hey l t .203f ,a ,a , 0. . ,s. 16 ) J. Dewey, Democracy and Educati on , h 「7) H.Rot hropol sche Ant e ogi ,Padagogi .32, , Bd , 1, 「966 ,s 18) w.F1 i D tner S St andni i ver s der Erz eh Imgswi ssenschaf ti , as elbst nl er Gegenwar t s , . 23 ,「958, s ~24. 「9 ) M,J,Langeveld, Einfahrungin der padagogik,3, Aufl , ,「64, ,1962 ,s 20) H. Rot h P d i a h A h t i a s B d c e l o n ropooge gg , ,33. , . 1, 「966 ,s 2「) W, Br面ig i i losoph hropo sche Ant logi e , Ph ,「960,. 22 i ) M.Landmann,Phi losoph hropo i sche Ant log e ,1955, P h i 23 imi h i l h A h ) W,Br s s t i o o c e l 9 g n 1 p r e o o o p g , 60 s , ,181. , , 24) h sche AnthroPol e ogi s , 25) 日. Rot ,Padagogi ,Bd , 1, 「966 , .35~36, ,s 26) H.Rot h a ,a ,40, , , 0, ,s. 一150-.

(12) . 小 笠 原. 道. 雄. i k l 全集』(第十六巻) 伍頁, 理想社, adagog 27) 1 esml g ader P . Kant ,『カ ント; , Vor 28 ) 同書, 18~19頁, 29 ,「07f ) M,J. Langeveld,Studien zur An値ropologie des Kindes , ,1956, s hropol h e sche Ant 30) H. Rot ogi .46, ,s , (Bd l) 「966 ,Padagogi i i ; i e Brz ehml heologi ib i ld und sei t ne Bedeutmlg far d l g. ln sche Menschenb sch ‐ 31 ) ○, Weber , Das b 【 Der M n Theologie und padagogik ensChi .19, ,1957, s B d 6 l i, ( i h A h l) 「9 6 h 52) H. Rot .48. ,s ,Padagogsc e nt ropooge. 1- -13.

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