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W.フリットナーの教育学の性格 : 教育学的思考の自律性と「中間世界」の構造

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Academic year: 2021

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(1)Title. W.フリットナーの教育学の性格 : 教育学的思考の自律性と「中間世界」 の構造. Author(s). 小笠原, 道雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 17(2): 1-13. Issue Date. 1966-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4559. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第1 7巻. 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和41年1 2月. W o フリ ッ トナ←教育学の性格. -- 教育学的思考の自律性と 「中間世界」 の構造 --. 小. 笠. 原. 道. 雄. 北海道教育大学旭川分校教育学研究室. Mi i o OGABAWARA ; Der charakter der Padagogik v。n F. t chi l ler ’ -- Autono ・mie de s padagogi Ches Denkens und StrukLur des ” ZWischenwelt’ s. 次. 目 まえがき 1 学の前提としての人間観 u r中間世界」 の構造. ま. え. m 人間観と「中間世界」の統一 あとがき 女 献. が. き. lm F lhe W ・ フ リ ッ トナ ー (Wi 1 i t ) の教育学は, 彼独自の世界観の所産である, そして彼の ne r. 世界観の結晶ともいう べ き学的発展,ないしはその形成には三つの側面が考えられるであろう1 ) , 第一は, 経験的事実研究 から出発する側面で簡結にイエナ学派と一派通 じて いる点と言っ てよい であろう, それは哲学的考察を経験的事実の接近においてなそうとする態度であ る. 第二は, シ ) 等 と 同 列 に お か れ る ヒ ュ ー マ ニ ス ト の 系 譜 で あ る. フ リ ッ ト ナ ー に ュ プラ ソ ガ ー (E, Spranger. とって, あらゆる芸 術, 科学は人間研究の中にその中心点を持つという確信を持っ ている 彼に . と っ て ヒ ュ 【 マ ニ ズ ム の歴 史 は, 人 間 性,共 同 体, 理 性, 自 由 に つ い て の雄 大 な シ ン フ ォ ニ ー で あ. っ た, そして第三の側面は, そのヒューマニズが福音的信仰によって支えられ, 彼自身がそ の敬 度な ヒ ュ ー マ ニ ス トで あ る と い う 点 で あ る,. フ リ ッ トナ ー は 哲 学 と 神 学 と を 分 離 す る そ の 限 界 - シ ュ ブ ラ ソ ガ一 等 が と ど ま っ た - を 乗 り 越 え, 哲 学者 で あ る と 同 時 に 神 学 者 に な っ て い る注1 ) , そ. の限界を乗り越える場合, 彼には次のようなモチーフがあ った. つまり, 哲学的な思考過程と神 学的な思考過程とを分離し, 発展させるのではなく, 両過程はその深淵, ないし源泉において相 互的な補充をもたらすものと考える, そのことである. これら三つの側面の中でも, 特に第三の 点こそ, フリ ッ トナーの教育学思考に大きな特色をもたらすもので, 彼の教育学の構築において は大きなモメ ントになっている, またその理論構築 の背景たる人間観にも顕著に認め られるとこ ろである。 更に, その学問体系, 及び人間観がそ の三つのライト・モチーフに導かれ常に力動的, 換言すれば緊張関係において考察され, 一つの均衡状態を保っ ていること, それらの諸点に彼の 学 的 特 色 を み る の で あ る, ア ル ベ ル ト・ レ ブ レ (A・Reb l e) の 「フ リ ッ ト ナ ー の 教 育 学 的 思 考 を - 1 -.

(3) . 小 笠 原. 道. 雄. 特色づけるものは, すべての思索の底を流れる歴 史的な豊かさと, その考慮の特別なる均衡であ ) との適切な指摘は上述の特色を物語り, 彼のその学的なライ ト・モチーフに導かれた所産 る」2 lmann) は, を 意 味 し て い る. 一 方, ハ ソス ・ ボ ケ ル マ ソ (H・Boke. フ リ ッ トナ ー 教 育 学 の 全体. 像をその緊張関係において考察しているが, 「われわれが概念的な識別を問うと, いかにフリッ トナーがその緊張関 係から彼の教育及 び陶冶の理解を発展させたか, いかにその中で教授法的- 方法学的方法に対する判断の標識が与えられ, そ してそ の緊張 が彼の教育科学的探 究方法を基礎 ) と 指 摘 し て い る. 教 育 学 に お け る 『適 合 と イ ン ス ピ レー シ ョ ン づ けて い る か を 見 る で あ ろ う」3 i ion) の 統 一』 (緊 張 関 係 に お け る 統 一) こ そ フ リ ッ ト ナ ー が そ の 初 期 (Anpassung undlnsp rat. )から1963年ハソザ同盟都市のゲーテ賞の栄誉を受けるまで, 一貫してみやく打つ もので, の著作4 ) i on) が 存 在 し て い る と い う5 sche Provokat 彼 の 思 想 の 中 に こ の 教 育 学 的 刺 激 (di e padagogi . 文 哲 学 の る 化 基 し て い そ を 礎 と れ そ れ ら の 態 度 が フ リ ッ ト ナ ー を し て デ ィ ル タ イ の 生 命 哲 学 と,. 教育理論, すなわち 「精神科学的教育学」 の グルー プの中にあ って秀れて教育学の範時, 構造の 体系的把握を可能にしたのであろう. それはもろもろの教育的契機を全体的な相互に関連しあ っ た均衡体系として構成したということである. かくて彼の教育学体系の緊張関係的把握こそ彼の 学問の核心に迫まる唯一の方法であり, それが彼の学的性格を一層明確にするであろう, 以上, われわれは彼の学問把握の方法としては問題の緊張関 係的考察を, 更にその統一のモメ ントを学問の前提としてその人間観及び哲学的世界観に求め, それを通 じて教育学的自律の思考 を考察し, 学問的均衡理論成立の場を 「中間世界」 に求め, その構造解明に論を進める, 注 1) この場合の 「神学者」 と言う意味は言葉の厳密さにおける 「職業」 のそれではなく, その学説にキリ ス ト教 信仰者としての信仰が濃厚に出ている, ないし強く学説の中に見られると言う意味である.. われわれはフリッ トナーの教育学理論の前提として, 最初に彼の教育の世 界観的, 哲学的, 信 仰的内容の考察から, 更にそれを通 じて教育学的思考の自律性について彼の態度を明 ら か に す ) る 注1 ,. 教育の世界観的,哲学的, 信仰的内容の問題についてフリ ッ トナーは次のような立場を取ってい る, この問題領域は, ディ ルタ学派の方法論的研究と, 他の面はM・ウ ェーバーとかかわりを持 すで っ た 論 究, な か ん ずく E ・ シ ュ プ ラ ン ガ ー, K ・ ヤ ス パ ー ス に よ っ て 論 究 さ れ た と こ ろ で,. ) に十分に解きあかされたものとフリッ トナーは指摘する6 . 精神科学におけ る事実の実証的, 記 べ 述的学問と価値判断とは互に分離さる きであるという M・ウ ェーバ ーの試みは失敗したものと みなす. フリ ッ トナーによれば 「評価とはまさに哲学的解明を導くことで, それは純然たる明示 ? ) なのである. 哲学する者は彼が実存 とは反対に, ある明断な判断をその中で可能にすること」 する者なるが故に認識される, 実存はただそれが個々の体験の十全さと同様に意味 を含む全体の 現実性に出会う限りにおいて拡がるのである. このような 視点からすると学問的教育学にとって 重要なことは人間の内的, 外的現実の体験と同様に, 人間実存の開明と規定であり, それらはた だ形而上学的- -哲学的, ないし信仰的位置, あるいは両者から理解され得るものであろう. 教育 学的な根本思考の歩みが意識的に持続されている所では, その思考の歩みは, 内的に哲学と神学 との組み合わせであり, それ自身哲学することであり, これらの状態においては教育学はあくま ) なものである, そのことから教育の諸 現象を明らかにし, 根本概念 を 明 確 に 8 でも 「対話的」 ソ する必要が生ずるのである, かくてこの根本概念を明確にする教育学的 思考とその判断はフリ、.

(4) . W・ フリ ットナー教育学の性格. ) トナーにあっては, 人間存在の多様な層の現実分析にみられる9 , すなわち第一, 生物学的 医学 的領域. 第二, 心理学的, 社会学的 領域, 第三, 歴史的状況と精神的生の分析の領域, 第四, 哲 ) 学的, 神学的に意味あるものとして解される人格的, 共同的生の領域である注2 . この分析の四つ の観察方法の実際的結合は教育と陶冶の根本問題を批判的, 科学的に熟慮する時 は じめて可能と なる. それ故に研究の信仰的前提は厳密な, そして批判的な学問から倫理的評価と哲学的概念を 排除せずに, むしろその信仰的前提が厳密な, そして批判的学問 (科学) を支える土台をなすも の と 考 え ね ば な ら な い. こ こ に フ リ ッ ト ナ ー の 思 考 の 複 雑 さ と 同 時 に 特 色 を 見 る の であ る. 結論 l i che> (theologi 的に述べ る なら, 〈die humane> (anthropologische) と くdie christ sche) と 言う線が常に合一ないしは融合しているということである. 彼の教育思考の基本態度 と し て は l 「内容的に満たされた人間性 の像がまず くvo em > 宗教的な自己探求とその崇拝され ること ral に よ っ て 教 育 さ れ る. し か し ま た くdoch auch> 詩人の像, 芸術家の構想によっ て, 否, 教育の. l o )のである, その関係を更に論述するには彼 の 「教育目的」 実行者, 哲学者によって教育される」 1 ) の考察が最もよ いであろう 1 . フリ ットナーが 「教育目的」 を考察する場合, その目 的 へ の 間 form) の 指 示 に よ っ て 答 え ら れ る と 述 べ, そ の 生 活 形 式 は あ る i は教育的 「生活形式」(d e Lebens. 一定の歴史的に決定された生活圏の中で価値あるものとして感 じられたも のであると言う, その 「生活形式」 の形成には多く のモチーフが合流し合って, その中で精神的, 道徳的に導かれ, そ して創造的な人格を集中させそれによって新しい力を放射する共同体の 「実例を持っ た力」 に よ っ て 与 え ら れ る の で あ る,. そ こ で は 理 想 は 一 つ の 「像」 と し て 現 わ れ る が, フ リ ッ ト ナ ー は 理 想. 一般が存在するとか, それがおこなわれるという慢性的誤解の存在を指摘し 「神ただ一人をのぞ そいて他に完全なるものはない」 と言う聖書の言葉を引用する, そして 「完全性への人間的努力 2 ) と してい る そ して そ の限 界と は はれ が 自 己 の 力 の 限 界 を 知 る 限 り に お い て 正 しい の で あ る」1 ,. 彼の場合, 「人間の堕落と罪を見ること, そして後悔と赦 しを請い, かくて目からの中に赦しに 1 ) という. かくて内容的に満たされた人間性の像によっ ては教 3 対する希望に生きることである」 育は存在しない. そこではなによりもまず宗教的自己探求と宗教的崇拝の中にみられるという, そ して フ リ ッ トナ ー は 「キ リ ス ト の 出 現 以 来, 一 つ の そ し て 変 ら ざ る 教 育 の 課 題 は『イ ミ タ チ オ . 4 1 ) と す る こ の意 味 に おい て 人間教 育 の目 的 は 神 i tat ク リス テイ』 <imi l> で あ る」 o christ , , ,. の意志のもとで白からが信仰的に行為し恩寵への (是認に対する) 希望をいだくことになる, と :にフリ ッ トナーは社会生活のレベルにおける個人の生活を隣人に結びつけ, 現在の社会秩序 同時 に 適合させることも期待したのである, その場合, 職業を通 じての犠牲という立場を と っ て い る. これらの諸点から, フリッ トナーの究極的とも思われる教育目的の設定は職業的な神学者と も異なるところでもある. しかしこれらの融合, 統一は芸 術家, 哲学者, 教育の実行者が アウグ ス ブ ル グ的 宗 派 の 意 味で の キ リ ス ト者 で あ る と こ ろ で の み 可 能 で あ る と ジ ョ セ フ ・ デ ェ ル ポ ラ フ J.Derboiav) は い う の で あ る15). 故 に フ リ ッ ト ナ ー の そ の 融 合 へ の 執 勘 な 努 力, な い し 態 度 は ( 典 型 的 な も の で あ る, こ こ に わ れ わ れ は フ リ ッ トナ ー の 所 謂 「適 合 と イ ンス ピ レー シ ョ ン」 の 立. 場, 換言すればシユ プラソガ一等の立場を越え独自の福音的信仰者の立場に立つ彼の 位置を知る ことが出来るのである. 同時にそれは, デイ ルタイ的生命哲学を基礎にしながら, それを越える 実存主義的思索に進んだフリッ トナーの立場でもある, しかしわれわれは, 現代の人間性一般に このような教育目的に対する努力を持っ てその代償を要求し得るかどうか, そこには大きな問題 があろう, まさに現代には神学と人間学との間に和解が存在してはいないのではないのか. ヒュ ー マ ニ ズム と キ リス ト教 は 現 代 に お い て 不 治 の, 否, た が い に 裂 け た ま ま の 状 態 に あ る,. フ リッ.

(5) . 小. 笠 原. 道. 雄. トナーがその人格の中で結合, 融合したこの二つの方向は多分, シュ プラソガ一等においては教 育学と神学との間に引かれた限界としてその中にとどまらざるを得なかっ たものであろう. しか しフ リッ トナーはその限界を打ち破るうとする, たしかに彼もまた, 人間が人間的に生きるのは 具体的な歴史的世界の中で, 他の人間と共に存在し, 共に生産的な創作に参与し, 共に秩序 づけ られる時にあるという点から出発する. しかもその際, 彼の立場はあくまでも精神の法則性を弁 証的方法で把握するのである. われわれの共同体は常に精神的に現われる……精神は更にまた, われわれの現在の社会によ っ て与えられるものであるとも言っ ている, 結局, 精神は直接的には 把握され ず, 生ける呼吸として諸質料に生気を与えるもので, ただその質料の中において把握さ れるものであ る. かくて人間は精神の「容器」(Das Gehaus )を通 じて精神それ自体に発展しなけ e ればならない ので, この根本事実の中に精神陶冶の本質的事実としての人間的-歴史的存在が不 分離のままに横たわっ ているのである, しかし, 精神の容器への単なる適合という 教育は決して 人間を人間性へ迄は導かない, かの質料的なるものを内面から吸い込む時, は じめてこの容器の 中に住み家を見出すのである. たしかに適合は,いかんともしがたい(必然の) , 教育の最底の要求 であり, それ故に, 人間がそれなくしては生存し得ないものであろう, しかし, それは人 間が精 神的に生ける原理 --適合を人間化するという-- を吸収することによって高め られねばな らな いものなのである. だからフリッ トナーは 「真実の精神的伝達は教育の共同体の中に活溌に保た 1 ) という二重に構成した 6 れねばならない. ……そしてそれは常に新たにされなけれ ばな らない」 の で あ る,. かくて, 非本来的なるものから本来的なる人間的生への移行の中には教育的イ ンス ピ レーショ ン が 横 た わ っ て い る こ と を 知 る の で あ る.. し か しイ ン ス ピ レー シ ョ ンは 適 合 へ の 意 志 を 前 提 と し. てはいるが, その中に開かれるのではない. フリッ トナーにあっ ては精神は単なる慣習的 -社会 的生活機能の中で反応するものではなく, 個々人を新たにしなけれ ばな らないのであり, 世界へ の応答は人格的要求の中に受け入れ られねばならない. すなわち概念にとって決定的なものは我 が他者に対してそのような人格としてのみ, 我が他者に対して責任性を知り, 我がその答を超越 的なる神的要求に対して担うものでなけれ ばな らないのである, かくて人間は確信や信仰の中で のこれ らの人格的な責任性に目覚め, そして信仰深い働ける愛を樹立しなければならないので あ る. こ れ らのイ ンス ピ レー シ ョ ン は も は や 教 育 者 の 働 き で は な く, そ れ は 二 者 の 間 に 与 え られ た. 精神であり, また社会的生活全体に対して吹きこまれた力であるという。 かような立場にあるフリッ トナーはでは 教育学的思考の 自律性をいかに説明するで あろうか. 彼はその前提として, 教育における方法と内容とが別々に歩むものではなく, もし教育学 が方法 的改革を必要とすれ ば, その為にまた新しい内容が要求されるという立場をとっ ている. しかし ながら学問的に教育学自身から 教育の目的と内容とが決定されう るかどうかについては フリッ ト ナー独自の見解をとっ ている. 「教育学は信仰と神学, 哲学と科学, 社会と国家, 法と慣習とを 見越して処理しているのではないだろうか. 教育は歴史的状況によって与えられている教育的諸 力についての目標と態度, 目的と内容を受けている. この限りにおいて教育学は依存的であり, 追随的である. しかしなが らそれが占め られねばならぬ特別な教育学的目標が存在するし, その ) と. ヘ ル バ ル ト 7 ) を 発 展 さ せ る の で あ る」1 i”)注9 imi inhe scher Begr 中 に “土 着 的 な言都概念” (e J・ F, Herbart), (. i e ermacher) は 教 育 学 的 問 題 設 定 の 中 心 に そ の シ ュ ラ イ エ ル マ ッ ハ ー (Schl. 自律性をおき, 根本概念を科学的方法においてと らえようとしたのであり, この自律 性を新たに t t ihl ) l i i er), リ ッ ト (Th.Li le sc sen-Kf 確 認 す る た め に フ リ ッ シ ュ ア イ ゼ ン・ ケ ー ラ ー (Fr , ヴェ ー 4 -.

(6) . W・フリ ットナ←教育学の性格 i ニ ガ ー (E・ Wen ger) の 活 躍 が あ っ た ので ある と フ リ ッ トナ ー は 指 摘 して い る. 彼 に あ っ て は こ. れらの活躍を通 じて獲得された教育学的思考の財の全体像は, 神学的, 哲学的考察を通じての忠 告, 規則, 教義, 指導像として輪郭化された. そして教育科学はこの多様性を全体として意識し 1 8 ) であると結論 づけている。 ここに 教 そこか ら目下の活動に対する 「内的勝利を引き出す こと」 育学的思考はそ の内容からその自律性を, カ ント的な意味での 「自律」(Au t ) という表現 onomi e 9 )(relat i iv autono で表わすならば 「相対的自律」 lnen) と 表 現 さ れ る. そ れ が フ リ ッ トナ ー の 立 場であり, 彼 の世界観的, 哲学的, 信仰的内容の考察から当然の帰結でもあった, 0 ) かような諸前提を持ってフリッ トナーは, 教育学理論を分析, 体系 づけた2 . 彼は所謂, 教育 学 (Padagogk) という表現は多 義的であり, その中には 「実践」 と 「理論」 が意味され, 実践の 領域としては歴史的に決定された課題の内部での一定 の教育活動のもろもろのおこない, あるい は教育と陶冶についての学説, 一方, 理論の領域としては教育に対して, 歴史的に決定された課 題の領域の中で形成される教育論か, あるいは教育と陶冶についての科学であるとする, この教 2 2 ) 2 )とか「教育慣行に基礎をもつ教育論」 1 育論についてフリッ トナーは 「経験と前科学的教育論」 とも表現して いるが, 「ある歴史的な生活形式に特有な理想, 規範, 準則の妥当する一定の経験 ) という表現か ら, それがおこなわれてい 2 3 範囲の教育論の中に教育科学の基礎がひそんで いる」 る歴史的な教育形式を土台とし, それを前科学的な教育論の命題とし, 教育科学の基礎として重 視する. これに対 して科学的理論の分野はあらゆる歴史的に与えられた教育論を包括し, すべて の現実的なそして 可能な諸活動を対象とする. 換言すれば, 教育と陶冶についての全生活領域を 歴史的-経験的 な面と同様に哲学的な面からも記述し熟慮することなのである. このような 視点 において, 教育科 学は独自の科学的領域を取り扱 いうるとする. しかし, 何故に教育と陶冶につ いての全生活を歴史的- 経験的な面と同様に哲学的な面から 熟慮することが教育科学の学的 領域 とされるのであろうか, 自律的教育学の建設は教育科学の哲学及び神学からの解放というその自 己批判, 自己理解から可能ではないのだろうか, その問題の解決の為に提起されたのがフ リ ッ ト l ナ ー の 「中 間 世 界」 (Zwi t ) の 構 造 で あ る. schenwe EI) 自律性と言う場合, 教育作用そのものの自律と, 教育学の学的考察の自律性とは区別して考え られねば Z ならぬであろう. 前者は, 子供という個性的人格と, 教師という個性的な人格との人格的な関係におい て, またそれを通じて営なまれる固有な世界で, 後者はそれら教育作用を含む教育実践の反省の学とし て, その自律性を考察するのである. 注 2) フリットナーは, 人間存在の基本構造に注目し, それに応じて教育現実を四つの出来事に分類した, H, 生物学的, および人類生物学的見方; 人間を外部から, そ して個体の側から見るとき, 教育は “自 然存;在’ としての人間の成長過程と結び合った発展で, 生活条件への適合ならびに生活内実の展開にむ かっての発展とみられる. 口, 歴史的, 社会的見方; 外部から, そ して集団的に社会的歴史的存在として見るとき, 教育は, 文化 的なる社会化の過程で, つまり, 新たに成長してくる者たち, また或る歴史的生活圏へ新たに入ってく るものたちへ, 共同体の女化資産を伝達して社会的成熟にいたらしめる過程とみることができる. 日, 精神的覚醒としての教育; 内部から, そして共通なる歴史的, 社会的側面から見るとき, 教育は, 成熟しつつある人間を, より成熟している人間との遭遇と精神的交渉において, より高く指導すること としての精神的覚醒過程で, 事柄そのものの諸価値, 諸理念, 意味か ら, 秩序と伝統の中へ導き入れる こと, あらゆる生活秩序と生活表現のなかにふくまれている創造的精神へと導くことである。 回, 人格的なる見方; 内部から, 人間の人格的実存の側から見るとき, 教育は究極において倫理的, 信 頼的なる生の精神的覚醒の過程と見られ, 人格的存在について知り, 信仰にむかって開かれている人々 i k i 1 I ine padagog と, 彼らの助力を必要とする隣人たちとの関係のなかに成立する. 〔F t ne eme r g , , AI S .S . 28~54〕. i ”” (土着的概念) はヘル バルトが教育学の固有の対象領域として考えたもので 注 3) ”einhein・ischer Begr hr schen Beg- 卿ま学的教育学の課題を「ペダゴーギクを, できるだけそれの土着的諸概念<i eeinheimi - 5.

(7) . 小 笠 原. 道. 雄. i”e>について省察し, 独立的思考をいっそう啓培し, かくてペダゴーギクが一つの研究分野の中心点 r になるように, そ して, もはや遠隔の被征服地として外部から支配され る危険に陥らない よ うにす る こ ine Padagog ik l i t I e e ung〕 ・ と」 と考え た. 〔J・F・Herba比 AI gen , Ein 1 I. ine padagogik,1950) の序文の中で, 教育学 Igeme フ リ ッ トナ ー は そ の 著 『教 育 学 概 論』 (AI. l i i があく までも 「対話的」(d og a s ch) なるが故に 「教育学的な間の体系的取り扱 いは, た だ中間的 4 ) と 述 べ て い る. こ の思 考 が 発 展 し, 明 確 な 概 念 を 持 っ て 現 わ l tat ion) で あ る」2 状 態 (Zwi ・ ens sc lbs tandni tvers れた の が, そ の 著 『現 代 に お け る 教 育 科 学 の 自 己 理 解』 (Das se s der Erziehung- t ti t ) の 概 念 で あ り, swissenschaf l l der Gegenwar schenwel ,1958) の 中 で の 「中 間 世 界」 (Zwi. この思考こそ学的均衡の理論の中核でもある. その概念が教育科学に固有な場として述べ られ, それを通 じて教育学の性格を明 らかにしている, ここにわれわれはフリッ トナー教育学の鍵が こ の 「中間世界」 の概念にあることを知るのである, 結論的に述べ るなら,所謂 「中間世界」 は経験論者が取り扱う事象 と, 哲学的・神学的・政治的 規範設定という領域との間に重層的に存在する世界である. この 「中間世界」 の領域で こそ学問 的教育学の独自の省察と研究とがは じめ られるのであり, そこでは 「事実性・経験性と価値性・ 2 5 ) ということが出来る のである. それは単に経験的立 規範性が……弁証法的に結び合った世界」 2 6 ) 立場である. 場, あるいは思弁的立場ではなく 「解釈学的=実践的」 先に論述した ごとく, 学問としての教育科学は前科学的生活か ら, すでに信仰的確信, 規範, 行為の理想的視点を 真理として 迎え入れるのなら, そこに一つの実体を持ったものになろう, そ の時,教育科学の課題は歴史的な現存の中での実存的意識の取り扱いであり, その中で初めて事実 が現われる, その構造の解釈であり, 研究であると考えられるである, かくてそれは次のものを 明 らかにするであろう. すなわち教育学的行為,教育学的組織, 秩序, 学説が精神的存在の体験, ′ こ動 き, 共 同 的 な 決 意 の 領 域 の 中 で ど の よ うむ. い か に 関 係 す る か と い う こ と で あ る, こ の よ う な 課. 題設定を持つなら, 教育学的な科学は経 験的(事実的な教育学)と思弁的 (規範的な教育学) 取り 扱という接合点を克 服して, またはそれらを包摂した第 三の取り扱 い (解釈学的=実践的な教育 学) を獲得する, その中で, 教育学 (学問的) は実りゆた かなその固有の方法を構築し得るので ある,. 以下, その思考, 及び構造の解明に論を進める. (a) 実践的基礎とその教育学 一般に教育学は経済学, 政策学, 立法諭, 倫理学などのように生活の実践に引かれた科学 (学 問) に属するといわれるが, その 「事実」 , 「方法」 がどのような領域において基礎 づけられ, ま た科学的研究及び思考の本質 が決定されるか. その範時, 方法はどこか ら獲得される のであろう か. そ してその基礎として 実践的領域とはいかに考えられるのであろうか. この場合, 「実践的」. ’と いう とう意味, 内容が明らかでなければならない. その時, われわれは所謂 ”pragmatisch’ 言葉の持つ, その内容の重さに十分注意を向けねばならぬし, 叉その本質を把握せねばな らぬで. あろう. 要約的に述べれば 「意識的に経験科学から形而上学を追放した……理論の領域と, 禁 欲的 な学の限界の意識を通 じて, 理論の到達しえぬ 信仰 との領域のあいだの緊張関係の中 ) と い う 社 会 学 的 な ウ ェ バ ー (M ・ Weber 7 ) 的 立 場 か ら, 「自 己 を 客 に み られ る も の で あ ろ う」2. l 観化する行為 (Hand ung) において対目的自覚を遂行することが, 実践的なるものの本質的な在 8 ) と い う フ ィ ヒ テ (j・G・Fi e) 的 な 哲 学 的 解 釈 ま で 実 に そ の 立 場 に よ っ て そ の cht り 方 で あ る」2 一 G -.

(8) . W.フリットナー教育学の性格 i 問 題 は 教 育 学 に お け る ”pragmat sch” の 把 握 の 態 度 で あ る. こ の こ と に 対 して フ リ ッ ト ナ ー は 「教 育, 経 済, 法 律 等 は 客 観 的 状 態 に と どま っ て い る の で は なく …. 意 味 内 容 は異 な る の で あ る.. それらはまたその命題を知り, 輪郭化するというそのものの主観的状態において 取り 扱 わ れ る 2 9 ) としている, た しかに事実研究としての教育科学は教育実践の困難さ, 教育 の 経 験 を もの」 して, 発達の研究, 学級における子供の社会関係, 各年齢段 吟味しようとするその努力を動 機と・ 階の意識や思考についての典型的事態をできるだけ客観的に研究し, その為に統計的方法で処理 することもあるのである. これらの方法 は認識対象を認識 主観から可能なかぎり峻別 する所謂, 自然科学的方法をとるので ある, 教育の場合, 教育者を起点とする行動, 一定の状況にある子供 の行動な どが対象とされ, それらの教育過程の法則的諸関係を発見し, そこか ら実践に必要な帰 結を引き出そうとする, しかしこの自然科学的方法, ないし客観主 義的方法は, 個々の過程を生 故に 教育問題, 陶冶の核心に入っ て行くこと 活連関から引きはな し, それ自体として考察する . , はできない, われわれの存在の意味・内容についての実存的な間をなすことなしに対象を純粋に 研究しようとしても, それは不可能なぽかりか 対象において意味をもち意義を有するものに対 し て人を盲目にするものであると考えられる, かくて事物, 事柄に忠実であるという意味での客観性は行為的な人間性の学問とは まったく別 の面にある. 実践的主張それ自体としては 「科学的」 研究とみなすわけにはいかない し, 単に事 実 性 の デ ィ メ ン シ ョ ン だ け で な は な く,. 真 理 性 の デ ィ メ ン シ ョ ンにく い こ む こ と が 要 求 さ れ る の. である, それは 「実践的基礎」 の上に成立する教育の科学も 「いずれもが主体的な, しかもすで に自 分で解釈し, 決断し, 意味をつかみ, 主張する契 機によっ て規定される. (だか ら) これら の科学は無前提ではなく, 前科学的に経験される行為生活そのものの中で発見され自証される真 3 0 )ものだからである. かくて実践的 (実際的という意味での) な教育科学は 「そ 理から発生する」 i t i ehungswi ss‐ e hi or s sche Erz れ ぞ れ の前 科 学 的 教 育 論 を 歴 史 的 に 研 究 す る 歴 史 的 教 育 科 学 (Di l de V h i 較 教 育 ( す 比 学 e て 究 る e r c n ざ 圏 つ い 研 e f g t )を,更 に そ れ ら を 現 代 の さ ま ま な 文 化 に ens cha 3 1 ) そ れ らを 通 じて 「な ん らか の 立 場 に お い て 発 展 した 教 育 の 反 省 が Padagogik) を成 立 さ せ る」.. 3 2 ) を得るのである, いかにして普遍性を獲得したかについての理解」 さて, この実践的教育論から教育の哲学への転換には 「目的」 への間 がなさ れる時おこなわれ る, それは 「人間の知的確信の全体にかかわり, 政治学的, 法哲学的なるものと共に, 哲学的倫 3 3 ) ここに哲学及び神学には本来 「教育学的な基本的思 理学と人間学に含まれる問題群に属する」, 3 4 ) 原からすれば, 教育科学, は教育哲学, な 故に 「思索のこのような起 考過程が含まれていた」. 5 ) が, しかし哲学 (倫理学・人間学) がただちに教育哲学にな 3 いし教育神学として把握される」 、は な い, る ので. (b) 規範的教育学 思弁的ないし規範的 教育学が成立するのは 「教育と哲学の融合」 が なされない場合, あるいは 「倫理学から生ずる 一学科としての教育学が倫理学を前提として, また倫理学の中にその場を持 つ」%) よ う な 場 合で あ る.. わ れ わ れ は そ の例 を シ ュ ラ イ ェ ル マ ッ ハ ‐ の 教 育学 の 中 に 見 る こ と が. できる, 「教育学の課題は普遍的な倫理学の中に 設定されねばならず, 同様にまた教育学の課題 の解釈についてのその取り扱いの方法に対する諸原理も, 倫理学の中で倫理学によっ て説明され 3 7 ) のである. このような教育学は所謂教育の目的が神学ないし哲学か ら 引 き 出 ねばならない」 され, 本来の教育学は方法と手段の問題をとりあつかうものとされる, かく して教育科学は方法. 学 (Methodik). l i og e) と して 理 解 さ れ る, した が っ て ま た 教 育 科 学 が に な り, 技 術 学 (Techno - 7 -.

(9) . 小 笠 原. 道. 雄. 関 係する実践も成長する人間を 「材料」 にして作業をすすめる単なる技術, すなわち手段と目的 3 ) 科学論の立場で論ずる 8 を分離 し, もはや思想 の自由と主体性をもたない技術になっ てしまう. なら, かかる場合は, 一つの科学が目的を与え他の科学が手段 (方法) を与えるという分離さ れ たものになろう. 教育学に対して一部はその基礎科学, 一部は補助科学としてありうるが, その 役割は教育科学の問題に当然属すべきものであっ て, それによっ て教育科学はみずからが, 目的 と方法を共に熟 慮しその探求を通 じて全体的立場を実現しなければならぬものであろう, (c) 解釈学的=実践的教育学 上に述べた経験的あるいは思弁的立場ではなく, 中間の立場,それをフ リ ッ ト ナ ー は 「解釈学的 =実践的教育学」 (Di e hermeneutisch-pragmatische Padagogik) と して 特 色 づ け, そ れ が 正 し い教育学であると した. 大学で教育学がなお確実な地位をえていないのも, この第 三の在り方が 十分に理解されていないからで, この第三の取り扱いの中でこそ, 学問的教育学の独自な省察と 研究がは じめ られ, 「教育学の対象は, 文化的, 社会的, な らびに個人の伝記的生活, 要するに人 間的生の全体を包括するという意味で普遍的であり, しかも単に普遍的なのではなく教育現象に 関係 しているのであり, そこでは, 事実性・経験性と価値性・規範性が 「弁証法的」 に結び合っ ) て い る」“) と フ リ ッ トナ ー は 指 摘 して い る注1 ,. そ して フ リ ッ トナ ー の そ の 学 的 性 格 づ け を E・ヴ. ェ ニ ガー は 「なろ んずく 三つの 学部, 神 学, 法 学, 医学の中にも, しか しまた 丁度, 教 育学の 0 ) と 述 べ, そ れ は か っ てノミウ ル ゼ ソ (F・Paul 中 に も 見 られ る」4 sen) が 「職 業 科 学」 (Beruf s- 注 ) t ) と し て 特 色 づ け た 科 学 (学 問) で あ る こ と に ふ れ て い る 2. wi ssenschaf 注1 ) 両者が完全に結び合い, 統一されているわけではない. 両者の分裂もある. フリッ トナーは, 教育主体 の在り方から両者の分裂をもとらえている. 有能な実践から教育科学へとすすむ人にあっては, 教育活 動の価値・目標・意味は自明なもので, ただ方法・手段が問題である, だから, 教育現象の経験科学的 研究によって, 方法・手段の問題を明らかにしようとする. 他方, 教育諸関係のより正・ しい秩序をめ ぐ る戦いに巻き込まれた人は教育活動の内容と意味に心を労 し, 事実認識よりも, そこで自分が決断すべ き歴史的立場をはっきりとつかみたいと願う. だから後者の人には, 学問的教育学は, 前者 の人とは全 i t eneu ch) にならなければならない. 一定の歴史的状況における真 く別の道を歩み, 解釈学的 (her ・ l l 実の意味内容の確認と, この状態において教育学的に作用する構造の分析が主題である. ところでこれ ら二つの仕方は互いに分離されてはならないもので, 分離的, 記述的な方法は, 解釈学的な仕方の中に 組み入れられ, かかる組み入れの批判的意識がはっきりと保持されるときのみ, 意味をもつのである. f i l andn i i bs t tin der Gegenwart tner [ ehungswi z ssenscha vers s der Br 〔W ,F1 ,s ,23~24〕 ,s , Das se 注 2) K・ヤス パースもその著 『大学の理念』 の中で, 古い上級学部の中心に立った職業科学は, その対象領 域の起源において, 実践的-実存的生の要求から非常に明瞭になることを示 している, すなわち神学は 魂の永遠の救いについてのゾルゲ (Sor ge) に対応し, 法学は社会の一員と しての市民的福祉の配慮, そして医学は身体の健康に関する努力に対応させたのである. 〔ヤス パース著, 森昭訳 『大学の理念』 P ,157~164〕. ところで所謂, 「解釈学的;実践的」 とは一体何を意味するのであろうか, 「解釈学的」 ない ik)と の 関 連, 結 ik) と 「実 践 的」 な い し 「プラ グ マ テ ー ク」 (Pragmat し 「解 釈 学」 (Hermeneut 細 ) 合とは一同ゞ何か 。 しかしここではその問題を直接解明せず全般的問題としてフリッ トナーの人 間観と教育学理論の内的関係に論述を進める, すなわち,理論の背後にあるものの探究である, そ の 問 題 の 解 明 こ そ が フ リ ッ トナ ー 教 育 学 の 性 格 を 明 確 に す る か らで あ る,. フ リ ッ トナ ー は 「教 育. 学的事実研究は常に 解釈学的 であり, それは単なる社会学的, 生物学的, 心理学的な事実研 4 1 ) ものと している. 何故な ら教育と陶 台とをいかなる方向に向けるべ きかの 究か ら区別される」 間は現在の地点において設定される教育課題の解釈学的分析を必要とするからである, かかる点 - 8 -.

(10) . W・フリットナー教育学の性格 まで は, フ リ ッ ト ナ. はディルタイの系譜, すなわち生命哲学的系譜にあることは明瞭 である.. しか し彼にあっ てはその 「解釈学的」 といういわば静的, ないし静観的態度から動的 ない し力動 的創造的態度への方向転換がある, その転換のモメ ントには教育科学に対するフリッ トナーの根 本的思考, すなわちその科学の 「対話的」 性格の把握の中にある, それを軸として彼の思考は単 に生命哲学的系譜の延長上にと どまる のではなく, 実存主義的方向に進むと解してよ い で あ ろ う, すなわち教育的当為と, 誤まれる現存との同一視という, 所謂 「教育学的事実」 のもとで初 めて解釈学的分析は意味を持ち得るのであっ て, その場合, 教育学の探求には 「教育的意志」 が 吹 き こ ま れ て い る こ と が 前 提 な の で あ る,. か か る 意 味 に お い て フ リ ッ ト ナ ← は, そ の 教 育 的 意 志. 4 ) ないし 「教育的状況において哲学する こと」 2 4 3 ) として特色づけた のである を 「主体的反省」 . づ 教育意志はど 基礎 けられるのであろうか, フリッ トナーはそれを生活形式の探 しかしこの こに 4 4 ) 彼は具体的な, 歴史的外観においても いかに超歴史的に 求を通 じて明 らかにしようとする, , 意味される標準が立てられているかを示 し, 具体的な人間生活の中におい て も, 歴史的諸拘束 の 下で, 同時にその中で超歴史的意味を受容し, 規定されているかを指摘する。 その拘束力の あ る -規範的実体にこそ教育的意志は培われている の で あ る, その際, 彼は人間の内的-外的自由 を区別 し, 前者は精神生活の中で創り出され, 価値層に対して応答するものとして, 換 言 す れ ば内的人格と して, 後者は共同体における公的自由として考え, その二つの 日関的な惨透か ら生 活形式-- それは共同体の実現したエートスである--が生 じたことを明らかにに している. か くて内的自由が機械的な結果として外部的なものからみ られるのではなく 公的自由と 関 係を持つ 人格において 個々人の規範的意志と共同体の規範的意志とがしっ かりと保持されるのである。 問 題はこれ ら諸々の規範を鼓舞する力が現代いかに危機的状況にあるか。 あるいはその力が放棄さ れているかということである. ここに責任性の問題が大きく 浮び上がっ てくる, すなわち教育的 i ) が 新 しい の で あ っ て, そ の 妥 当 性 は 古 く も 課題はあくまでも 「かの真理を書く石盤 (d e Tafel 4 ) ことを訴えること, そこにいつも帰還させる こと それが教育的責任性の問題 5 新しくもない」 , でもある, かくてフリッ トナーの研究はその精神の主体に対する信仰及びすでに獲得された教養 i t t (d i e Ge ung) に対する訴えかけに移行して行く, 換言すれば, それらの研究を通 じて自己自 s 身に対する責任性, 「我」 と 「汝」 との責任性, そ して生活形式--すなわち文化 の体系全体に 対する責任性の問題を実存的に訴え, 問いかけ, それらに答えて行く ということになる, ここに i i お い て 彼 のイ ンス ピ レー シ ョ ン (d i elnsp on) の 言 語 使 用 は 彼 の 究 極 の 思 考 を 表 現 す る もの で rat. あることを知る. 元来, この言葉は神学者の使用 する言葉であるが, フリッ トナーは教育的イ ン ス ピ レーショ ンを宗教的な根本体験に対するアナ ロジーと見, 彼の教育学的思考の中に取り入れ 更に人間の歴史を啓示された神の精神の 「容器」 (de s Gehase) と 見 る こ と に よ っ て, 人 格 陶 冶 の出来事に対する教授法的信仰を基礎 づけたのであった. ここに彼の プロテスタ ント的な精神に ついての自由の態度を見ることが出来るであろう, このような内容を通 じて 「経験論者が見る事 実と価値哲学, ないし神学的あるいは政策的規範によって守られているかのよう に思えるものと 4 ) との指 6 の間には中間世界が存在し, その中心で教育的出来事が責任を持っ て横たわっ ている」 摘は理解されねばならないのである, ここに至っ.て究極的に彼の教育学的理論の前提としての人間観とその 「中間世界」 の構造には 全くの相似形的関 係, 否, 合同関係を見る ことが出来るのである。 すなわち人間学的立場 --実 践F青教育学, 神学的立場--規範的教育学, 信仰的立場-解釈学的=実践的教育学というトリア i ス (Tf i as) な い し 三 角 形 的 (dr e eckig) 諸 関 連 で あ る. しか もそれ らの諸関連を. 「緊張関係」 と.

(11) . 小 笠. 原. 道. 雄. して考察するモメ ントをイ ンス ピ レーショ ンという神学的用語をもちい, その力動的考察を可能 に したのである. すなわちそれが彼の信仰的立場であり, 学問としては解釈学的 =実践的立場で あったので ある. 元来, 信仰的立場, 態度とは理論構築とは無緑の, われわれの存在-実存全体 にかか わる, ただ緊張のある力動的性格を有するもので あろう, かくてフリッ トナーの教育学理 論の問題は, その関連の力 点がよりどこにかかっ ているのかという点である. それはまた, 彼の 究極の学問的位置 づけの問題でもある, (一応, われわれは生命哲学から実存哲学の移行上に彼 の思想を位置 づけ, その学的思考の特 色を論述したが) . もう一つの問題は統 一そのものに 対 す 心情の異なりがあるので ) る態度の問題である注2 . つまり学問の統一の態度にはその背後に宗派的 は な い の か と い う こ と で あ る.. そ の こ と は こ こ で はた だ 一 つ の 問 題 提 起 と し て お きた い,. k und prag- i eneut 注 1) 何が解釈学的実践的=学問の本 質を形成するのか?解釈学とプラグマテーク(Hem・ 」 の中で数多く ドイツの 「 教育科学理論 k) との関係, 結合の仕方の問題については, 最近特に西 i t ma S R d l f L h h M k l t A c e r e an St ras V t t D 6 e u o o n ser - e n p n o n r w a o 具体的には p p , , 問題にされている. , 等である. 彼等はフリットナーのその学的評価を認めつつもその考察の不十 分さを指摘 しているのであ る. 尚この問題については 「解釈学的=実践的教育学の問題点」 として他の個所で論じた. 〔H.D6pp-. f ′Y37, A, MENKE; Das i t s senscha ehungswi VORWALD; Grunf ragen der Erz .S . 24 , 1964, S R LOCHNER ; Deut S S i dagog k sche l i i andn i er p sona t s per Gegens tands-Vers , 1964, , . ~7, . l i f h i B i t - h S ‐ m S TRA S BR B s s e s c l a z e S w s n r u ng r e u S S z n f き g 2 ′ Y 2 3 7 ; h 2 1 i t 9 3 1 6 h sw s sensc a , i Er e un z ≦ g , , , ,, S S 4 〕 2 1 2 1~1 l i t i 1 9 6 5 s le swe , , . ,. i i ch)立場に終始し, 存在の全体構造をえがきだす形 r s emp コ 三2) 「マ ックス.ウェーバーがあくまで経験的( テ たということは しようとしなか 体系を建設 而上学の・ , 彼のカルヴィニスト的心情と関係があるのでは っ ないだろうか. カルヴィニス トたちが天地を創造した神の意志の全体は人間には不可測であるとなし, こ満足した. その態度が精密科学の発展 神の御手の結果であるところの被造物を謙虚にあとづけるこ ね′ バ 摘 しているところである ーも指 とばウ ー に大きく影響しているこ .」〔金子栄一 『マ ックス・ウェー ェ バー研究』 昭32年〕 あ. と. が. き. フ リ ッ ト ナ ー の こ の 「中 間 世 界」 的 概 念 は,E・ヴ ェ ニ ガ ー も 考 えた よ う で あ る, そ の 場 合,彼 は. l t ) という言葉で教育の世界の論究をなした, しかし彼はあえてその第三 「固有の世界」(Ei genwe の立場設定の必要を解かず 「中間世界」 の設定に対して批判的吟味をなした のである,「科学とし ての教育者の便命が精神史, 陶冶史の過程において (他の科学と) 独立 している が故 に成立し得 る. こ こ ま で が フ リ ッ ト ナ ー の 思 考 過 程 で あ っ た. 私 (ヴ ェ ニ ー ガ ー) は 教 育 学 の 立 場 を 他 の 面 ) と 述 べ 「教 育 科 7 か ら, そ して 今 迄 に 伝 え ら れた も の と の 関 係 に お い て 作 る こ と を こ こ ろ み る」4. 学には一つの領域 が与えられている. それは人が 「教育の現実」 と して状況に適合した別の方法 4 8 ) として教育の現実の論究をする, 「教育的行為の固有さとそ 論的意識に委ね得る領域である」 の自律を可能にする教育の現実の中での厳密な基礎 づけは, それが目から実践する教育的責 任を 4 9 ) これが ヴェニ 共有し, その責任から考えて事実と必要性を見る時, 初めて理論を開示 する」, ーガーの基本的立場で, 彼にあっ ては教育現 実の厳 しい探求を通 じて, 理論と実践とが いかに結 を れている か, というより理論と実践との結ばれている状況そのものの探求に目 が向けられてい るといえよう. 彼にあっ ては, いかなる場合にあっても, 理論と実践との根 本的区別はなく, い かなる分離 された (理論と実践という) 責任性も存在しないのである. このような,立場で思考さ れた教育の 「固有な世界」 はあく までも教育的行為の自律性の中で, つまり教師と子供によっ て 作り出される世界であって, それは教師の存在 しない子供の世界でもなく, また大人, 教師だけ の世界と も区別されるものなのである, そ して, その教育の世界は独自な, 固有な規範, その固 - 10 -.

(12) . W・フリッ トナー教育学の性格. 有な目標設定, 固有な教育学的作業の実現 に対する可能性の条件を教師及び子供の態度の中に, 更に陶冶財そのものの中にあるという, かくて 「教育学の科学的方法はこのような教育的諸関係 によっ て決定されるので, 理論と実践についての循環的関係も, 結局, このような人間存在-教 育的 - の 根 本 関 係 を 探 し出 し,. ) と ヴ ェ ニ ー ガ ー は 結 論 づ けた の で あ 0 明 らか に す る こ と に あ る」5. る, それはフリッ トナーの新 しい第三の立場設定がかえっ て教育的現実から離反する危険性と, 中 間 領 域 そ の も の の 把 握 の 困 難 さ を 見 抜 い て いた か ら で は な い だ ろ う か,. 無 論, フ リ ッ トナ ー に. あっても, 「理論と実践が敵対的に向いあっ ているという, その対立的な考え方はそれ自体思い 違いであり……教育学的思考が現実に一つの状況の中に基礎 づけ られている所では, その思考は 5 1 ) と述べて いる, しかし また実践 的なものであり, 同時に理論的真理が実践的真理なのである」 同時に 「純粋な教育学的思考は行為の状況の中での直接的な理論化から起り, 行為の明瞭性とし 2 ) と して 「理 てまた, 行為の思慮 (d i i ) と し て 行 動 の 中 に は ね 返 っ て く る の で あ る」5 e Ums cht 論」 と 「実践」 との関連を 「教育現実」 の 中 で い か に 見 る か と い う 問 題 で は ヴ ェ ニ ー ガ ー と異な る と思われる の で あ る.. l t ) と 「中 間 世 界」 そ こ に 「固 有 の 世 界」 (Bigenwe. l t (Zwi ) schenwe. の概念設定の異なりを感ずるのてある. 同 じ精 神 科 学 的 教 育 学 者 の グ ル ー プ の 中 に あ っ て も,. シ ュ ブ ラ ソ ガ ー, リ ッ トに 比 し, わ が 国 3 ) それはいか 5 も あ に っ て は, フ リ ッ トナ ー 研 究 の 体 系 的 な の は 全 く み あ た らな い と い っ て よ い. な る 理由 に よ る の で あ ろ う か.. i nde) を そ の 一 点 と して, 彼 が 所 謂, 学 派 (Akademi sche Geme. 4 ) それはま 5 持たず, また彼自身, 学派を形成する意図を持たなかったという点を指摘出来よう. ) 5 5 d P a i h T が 『教 身 経 歴 物 語 育 学 ( e ) の編集 た, 彼 自 の しか し テ キ ス ト』 agogsc r e xt っ て い る. 刊行, 「ドイツ改革教育学」 に関する文献の収集, 編集刊行 (『Die Deutschereformpadagogik』 )としての彼を 6 )そして ゲーテ研究家5 7 1 961 ,)及び具体的な国民学校の制度等についての理論研究5 見るとき, 地味ではあるが, その広い, そ して深い教養から, 教育の理論と実践の統一をめざす 彼の学的態度を見るのである, フリットナーに対する評価の一端として, われわれは彼の生誕70 l bwahrhe i i t t 年 記 念 の 為 の 論 集 陀adagogi en und Ha en』 (1959), 及 び75年 記 念 論 集 sche Wahrhe i 『Eins l en und lmpu 1964) を容易に見出すことが出来る, そして現代の西 ドイ ツ 教育学 cht e 』( s “ ir Pれdagog f f k” (1964 i i tft t 界の動向に注意を向け る者な ら “Zei始chr . He ,6), Neuesamml- ” ” ‘ ‘ l f dung und Br t t i ung (1964, He ehung (1964 z .4), Bi . Hef ,6) 等, 西 独 の 代 表 的 学 術 誌. の中に彼に対する学会の感謝を見出すであろう, 文. 献. t 1) Fritz Schulze, Padagogi sche st ・ nungen der Gegenwar rb .25, ,1958. S 2) A1ber七 Reble, Geschichte der padagogik,1955. s.298, “ i i ion in der Padagog k-n:”Bi dung und Brz l 3) Hans B0kelmann, Anpassung und lnspirat ehung , t6. s 1964, Hef .397 i lhe l i l dung tner enbi 4) Wi ・ F1 n , La ,1921 ,. “ l “ ion in der Padagogi dung und Br i l k 5) Hans Boke ann t r ロ ー sung undlnspi z ehung ra , Anpas , ,in: Bi t6 1964. Hef .397. ,S i lhe lm F1 iばragen der Erz l dung tner i ehung und Bi 6) wi ,116 , Grun und Ze , ,1954 ,s. to 7) di t .117. ,S. 1 I ine Padagog ik ・e 8) Derselbe, AI gen .10 ,1957. S , i 9) d t t o ,26 昔. ,s t sche st rbmungen der Gegenwar 10) Fritz schulze, Padagogi .28. , ,1958, s i I i lhe lm F1 tner e 1 ne Padagogik,19574 11) Wi ge江 ,128, , AI .s. - 11 -.

(13) . 小 笠 原. 道. 雄. t t 12) di o ,129 . ,S t t 13) di o ,129 ,S , t 14) di t o ,129 ,S .. S t l sche st rるmungen der Gegenwar t ze; Padagogi 15) Fri z Schu . ,1958. ,25 1 任 s k 3 1 I P a d i 1 7 A i I 9 5 F i 1 t a W h l e 1 e e o lem 16) i gg , ner; gn n . , . i ehung e Brz 17 ) Derselbe; Di .IL. ,1961 .S l dung i f ehung und Bi t ragen der Brz 18) Derselbe; Grund‐und Zei .115 . ,1954 .S t 19) di t o .115 ,s . S 20) di t t o , , ,113 t ti ssenschaf 1 der Gegenwar 1 ,15 21) Derselbe, Das selbstverstandnis der Erziehunl挙Wi , , s ,1958 s t 1 t 5 22) di o , . . t 23) di t o .15 ,S . 4 ik ine padagog I 24) Derselbe, AI geme .10 . ,1957. s t f i tin der Gegenwar andni ssenscha t ehun s der Brz l祭Wi ,15 25) Derselbe、 Das Selbstvers , ,1958 ,S t to 26) di ,15 ,S .. 2 27) 金子栄一 『マ ックス・ウェーバー研究』 昭3 . 148ページ 8 V I X 77ペ ー ジ 2 『 昭 1 フ ヒテ ( 西哲叢書 ) 28) 木村素衛 』 ィ S f t i tin der Gegenwar i der Erz d l ssenscha a D S b t t i ehungswi tner he s s i lm F1 e s e r n n a s v 29) Wi ,1958 , , , 13 . to t 30) di ,s ,15 , s 31) di t to , .17 . 32) di t t o ,i8 ,s . to 33) di t ,19 ,S . s t 34) di 19 t o . , . 35) di t t o ,19 ,s . l dung und we l ) i i E 21 tanschauung 36) Max Fr sche er sen-Kbhl .158 . ,I .s , Bi to t 37) di .158 ,S , f i t lbs andni l lm F1 i ti tver l he t tner s ssenscha e L i n der Gegenwar 38) Wi s der Erz ・ ngswi . ,1958 . S , Das se 22 . 39) di t t o .23 ,S . ’ l i l f l i l tung esamn ung’ i l t thode und Wi 40) Br ch Weniger senscha t sens che Ha s che Me s chaf ,ln:”Di , Wi 12 . .17 ,1957 , Jg .s . f ln l he i l bs tin der Gegenwart 益ndni i t tner t ssenscha 41) Wi ehungswi I F1 s s der Erz ver , , 1958. S , Das se 23, t t 42) di o ,18 ,S . t to 43) di .18 ,s . f dl i i l andi t or 1 len-1961 t 1 44) Derselbe, Buro1 e scher Lebens )覆 ung-Urs ) rung und Aufbau a ) I 1 sche Ges 1 , S f t t 0 45) di 5 0 o . , , t i 〔i 二 ssenschaf 4 6) Derselbe, Das Selbstverstandni n der Gegenwar s der Erz ehungswi ,23 ,1958 ,S in:”Di l s f l he Ha l i h t W f h M h d d i i h l i e a l l l l ung” t t t u n s e n a c c 47) Erich Weniger s e e o eu w s s s c g s e n a c n n , , 12 , .10 . ,1957 , Jg .s t 48) di t o .10 ,S , t 49) di t o .10 ,s , t 50) di t o .11 ,S . 1 ・ i he ー l ine padagogik ln 51) Wi tner t ) I F1 . e gen .l , Aー ,1957. S , S t 52) di t 2 0 o , . .. 53) わが国でフリットナーについて言及 しているものに次の著書及び論文がある. 森 06ページ 数明書房 昭 『教育人間学』 昭3 6 . 101~1 長 井 和 雄 『シュプラソガー』 昭32 . 6ページ 牧書店 和 田 修 二 「教育と宗教」 『教育哲学研究』 第8号 18ペー ジ 中 嶋 博 「北欧教育哲学の現状」 『教育哲学研究』 第8号 99ペ ー ジ 福富栄次郎 『現代の教育哲学』 昭34 . 173ページ 福村書店 「リッ ト教授の想い出」 『教育哲学研究』 第8号 1 21ページ 高 坂 正 顕 『大学の理念』 昭3 6 . 68ページ 創元社 - 12 一.

(14) . W・フリットナー教育学の性格 7 杉 谷 雅 女 「リッ ト」 - 『教育哲学』 昭3 ,97ページ お茶水書房 60ページ以下 南窓社 0 中嶋博共著 『福祉国家における教育』 昭4 ,1 〔孫訳として〕 リット他著, 杉谷訳 「生活と教育」 - 『教育の新しい探究』 昭36 . 明治図書 l i em der Gegeuwan. i scheProb hung 訳r Brz dLeben i ozu? Padagog e h : i i B n t e u n n r z gu ner これは F1 , , 1956の 訳 であ る,. 1 lgedankens ks l 』 1941 l l schu en des Vo 6) 『Di e vier Que 5 . 1958,. 2 i i f l um』 1958 『Hochschu e und Gymnas re , 1960, f b i 1 6 1 o l 9 G t e 』 『Di ersu e ymnasae , i s che は1963年 Hans I i -Bthos-』 1957 t s cht 57) 『Goetheim Spatwerk,一G1aubl-Wel , 尚, フ リ ッ トナ ー i Goethepre s を受賞している,. - 13 一.

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参照

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